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2006年7月30日

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骨太な遺産たち。

世界の巨大恐竜博2006に行ってきました。仕事ではよく行くことのある幕張メッセですが、息子を連れて行ったのは、はじめてです。下の子はまだ無理だろうということで、長男とふたりで本格的な夏らしい快晴の天気のなか、恐竜三昧してきました。

Kyoryu.jpg

アーケードゲームで恐竜のカードゲームが流行っていたこともありましたが、もう下火じゃないだろうか?とタカをくくっていたのですが、そんなことはなく、夏休みということもあって家族でかなりの混雑でした。世のなかのお父さん、お母さんたち、ほんとうにお疲れさまです。

ジュラ紀とか白亜紀とか、そんな昔のことはどうでもよかろうと思っていたのですが、子供に帰ってあらためて学んでみると、なかなか面白い。ちいさな恐竜博士ともいえる息子の頭のなかは、ものすごいデータベースになっていて、今日ばかりは全面的に彼に教えてもらいました。会場のあちらこちらには、CGで恐竜たちの生態を再現した映像も流されていて、ビデオ&ゲーム世代の子供たちと親たちの注目を集めていたようです。しかし、やはりとんでもない存在感だったのは恐竜たちのでっかい骨で、スーパーサウルスが目玉だったのですが、それ以外の恐竜たちもなかなかのものでした。

と、これだけでは単なるマイホームパパの日記になってしまうので、いつものような思考を働かせて理屈っぽく考えてみます。

短い歴史で連続的な世界というのは「つづいている」感じがあります。たとえば、昭和と平成は大きく変わったといえ、まだ時間的にお隣りさんという感覚がある。けれども何億年と離れてしまうと、これはもう別の地球のできごとではないか、と思いました。あの骨になっているでっかい生き物は爬虫類のおじいさんだ、と言われたらそうかなとも思うのですが、理屈では納得できたとしても感覚的に疑問符がある。あなたたちは、ほんとに存在しているんですか、で、地球のいまにつながっているわけですか、と疑わしい。

この感覚は、恐竜の時代に関してだけではないと思います。ドッグ・イヤーなどといわれるインターネットやITの世界も同じです。紙にパンチ穴をあけてプログラムを書いていた時代なんて恐竜のようなものであって、そのITはいまとは別の世界のできごとだったのではないか、ひょっとしたら夢のなかの出来事だったんじゃないか、と思う。同時代に生きていれば、そういう時代もあったよね、と懐かしく語ることができるのですが、現在のネット社会も、子供たちが大人になる頃には恐竜のような化石になっているかもしれません。

とはいえ、とにかくでっかい骨を残した恐竜というやつらは、すごいなと思いました。彼等の影には、土となって風化したやからがたくさんいるわけであって、それはビジネスの世界にもいえるかもしれない。歴史に残るのはそれこそ一部の巨大な業績を残した企業であり、それこそ恐竜のしっぽ(ロング・テール)のように試行錯誤を繰り返していたのだけれど、結局のところ芽が出ずに、隕石の衝突のような突然の環境変化によって滅んでいった恐竜(=企業)も多い。

しかしながら、たとえ骨だけであっても歴史に何かを残すことはすごいことであって、そこには生きてきた証がある。願わくば実体は滅んだとしても、時代に何かを残したいものだと思いました。骨が風化しても生きつづけるのは、もしかするとビジョンのようなものかもしれません。「ビジョナリー・カンパニー」に書いてあったことですが、業績をいくら残したとしてもそれは束の間の栄光であって、ビジョンを残した企業こそが未来へと存続できる。

もう少し別の視点から考えてみると、以前、日刊デジクリというメールマガジンに、「進化」と「深化」の違いが書いてあったような気がします。いま手もとにそのメルマガがないので、内容はすっかり忘れてしまいましたが、あらためてぼくがその言葉について解釈を加えると、淘汰などを含めて対外的に変わっていくことが「進化」であり、より内省的に自分の思考を深めていくことが「深化」ではないかと思います。そして、どちらが優れているか、ということではなく、その「進化」と「深化」のどちらも自己には(企業には、生命には、地球には)必要な気がしました。

つまり進化に関して言えば、自分はなりたくないのにこんなになっちゃったよ、という進化もきっとある。競争社会のなかで淘汰されないためには必要だったことで、そのときには必要なのだけど、長期的にみると歪みが生じるような進化もあります。しかし、深化については、じっくりと深耕していけばよいのであって、社会がどうあろうと関係ないかもしれない。これを究めたいから放っておいてくれ、というカタチで深めていくことです。

恐竜というばかでかいやつらには深い考えなどなく、ただ生きて、ただ喰らい、時期がくれば繁殖し、夢をみることもなく滅んでいったのかもしれませんが、ぼくらは彼等の生命としての素朴な生きざまを継承しつつ、さらに言葉を操り、考える生き物として骨ではない何かを残していきたいものです。

いずれは骨になるのであれば、いまをせいいっぱいに丁寧に生きたいものだ、とも思いつつ、おとうさんは恐竜三昧にくたびれてしまいました。息子とすごした楽しい一日と心地よい疲労を反芻しつつ眠ることにします。骨にならない程度に。

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2006年7月 7日

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プレゼントを選ぶ。

自分のために生きるのにせいいっぱいです。だから、周囲のために何かするというのは難しい。もちろん電車のなかで年老いたひとに席を譲るぐらいのことは心がけているのだけど、それ以上のこととなると、いかがなものか。反省することが多いものです。しかしながら、どんなにささやかなことであったとしても、まず自分を満たすことができると、誰かほかのひとも何かしてあげたいと思うものです。ヘッドホン、本、そしてCDと自分のためにささやかなご褒美を用意した今週、次は家族のために何かプレゼントしてあげたいと思い、仕事が終わって、家族のためのプレゼントをいろいろと選んで帰りました。

まず奥さんは財布がほしい、と言っていたので財布。がまぐちっぽい財布にしようかと思ったのですが、無難なシンプルなものにしました。そして長男には、DS Liteのハードとポケモンレンジャー。ニンテンドーDSは売り切れ状態で、新宿で3つの店舗を歩き回って、やっとSofmapでみつけました。2台しかなくて、1台を買ったところ店内でアナウンスされてしまって恥ずかしかった。エナメルネイビーの色を購入したのですが、アイスブルーの色がよかったかなとちょっと後悔しています。ここでやれやれと思ったのですが、次男に買っていなかったことに気づき、玩具売り場へ。近鉄ビスタカーと特急みどりのNゲージを買いました(それがほしいらしいので)。

途中で何度も家に確認の電話など入れていたので、家に帰ると全員でお出迎えされて、みんなが巣のなかで餌を待つ雛鳥状態で、それぞれがプレゼントを受け取ると歓声をあげてくれた。短い時間にマッハで移動してプレゼントを選んだので、へとへとに疲れてしまったのですが、そんな笑顔をみると癒されるものです。ものすごくマイホームパパ的なコメントですが。

面白かったのが、次男は一度箱から出した電車の玩具をまた箱のなかにしまって、それを紙袋に入れると「ねえ、あけてみて」とぼくにすすめる。どうやら、家に帰ってきたときのぼくの真似をしているらしい。うわー、ビスタカーだ、とぼくが喜んであげると、また箱にしまってぼくに勧める。あまりよくわかってはいないと思うのですが、うれしかったこと、みんなが喜ぶ声といったものには反応するようで、意味はわからないけれど真似してしまう。ちょっといいな、と思いました。

3歳のきみが大人になって、誰か素敵な奥さんをもらって子供ができたときにも、そんな風に、たまには仕事やら何やらでへとへとに疲れながらも、家族のためにプレゼントを買ってきてほしい。そして、みんなを喜ばせてあげることができたら素敵だと思う。と、くたびれた父は思いました。あと10倍の年月を過ごした次男には、そんな記憶は残っていないのかもしれませんが。

息子がひとりのときにはまだ気軽だったのだけど、ふたりの子供になると玩具を選ぶ時間も倍になります。うちの場合、6つも離れているので、同じようなものを選ぶわけにはいかない。けれども、苦労だけでなく賑やかさも倍になる。もうひとりぐらいいてくれてもいいのかもしれないけれど、ちょっと無理でしょうか。

みんなが喜ぶ顔をみるとうれしい。それは家族はもちろん、どんなひとの集まりであっても同じです。

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2006年6月18日

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子供とパソコンの適応力。

ワールドカップの日本×クロアチア戦、残念でした。いまひとつ決定的な動きがなかったことや、無謀かなという場面もあったのですが、よい試合だったんじゃないでしょうか。健闘を称えたい感じです。個人的には、一瞬ですが中田選手の鋭利な攻撃にはっとしました。後半ロスタイムには手に汗を握ってしまいました。こういうときの3分間は、あっという間ですね。

さて、天気が悪いこともあって、今日は部屋の片付けとパソコンのメンテナンスに一日を費やしました。ノートパソコン2台のうち使っていない古いマシンをまっさらにして、息子(長男)専用マシンにしてあげました。それから、使わなくなったWindows98のデスクトップマシンのデータをバックアップして、Linux(Fedora Core)を入れてみました。まだ慣れないのですが、サーバーとデータベース構築について、ぼちぼちトライアルしながら学習していきたいと思っています。いろんなことに手を出しすぎるのもどうかと思うのですが、技術的なこともわかっておきたいので。

息子(長男)といえば、今日も作文の宿題をみてあげたのですが、昨日の試写会のことを書いたものを見せてもらったところ、「きみは映画を何も観てなかったんじゃないか?」というぐらい抽象的な作文だったので、今日も2時間付き添って、いっしょに考えながら書き直しをしました。さすがにぼくも堪忍袋が切れて、「だから、これは言ったじゃないか!」みたいに声を荒げてしまった場面もあったのですが、子供に何かを教えるのは手間も根気も必要なものです。あまり萎縮させてもどうかと思うし、かといって全面的に甘くするのも問題です。子供の教育は、ほんとうに難しい。ついでに親の方にも体力や気力が必要です。

まず、原稿用紙に書く前に、何を観てきたのか、どう思ったのか、ということを詳細にメモに書き出させて、そこで「じゃあ書いてごらん」と突き放してみました。ところが、修正第一弾はメモをそのまま写しただけなので、脈絡もなく破綻している。それが子供の文章といえばそうなのだけど、きっと彼は書き方をわからないんだと思って、それから後ろにずーっと付き添って、何を選んで何を捨てるのか、全体の流れをどう作っていくかについていっしょに考えていきました。

話していくうちに感じたことですが、彼は映画を観ていないわけではない。きちんと映画のなかのどんなシーンがきれいだったのか、ということを覚えている。覚えているのだけど文章にはできないので、「楽しかった」「面白かった」で逃げてしまうようです。けれども、そこで逃げないで、面倒だけど思い出してみよう、もっと具体的に書こう、ということを掘り下げてみました。

彼にとっては苦痛の時間だったと思います。ぼくも国語の教師だった父に書き初めなどの宿題を付きっ切りで指導されて、とても苦痛だった。ただ、そうやって恨まれるのも、父親の役割のひとつじゃないかと思っています。いい父になる必要はない。彼が大人になって、ぼくがもういなくなってしまったとき、「おやじの作文の宿題の見直しってさー、嫌だったなあ。何度書いても全部消しちゃうんだもん、まいったよ」と兄弟で酒を飲みながら話をされたら本望です。だからこそ母親の優しさも生きてくる。もっと"いやなおやじ"になってやろうと思いました。

そんな息子にお古のパソコンをあげたところ、作文は苦手だけれど、さすがにゲームが大好きだけあって、こちらの方はものすごい適応力がある。フリーのタイピングソフトをダウンロードしてあげたのですが、まだ人差し指入力だけれど、あっという間に慣れてしまって夕食後も熱中している。ポケモンなどのゲームに似たインターフェースなので、はまったのかもしれません。これもどんなものだろうとちょっと困惑はするのですが、そんな世代なんでしょう。ゲーム感覚であれば違和感なくパソコンを使いこなしはじめる。

開発途上国の子供たちに情報化教育を推進するために、100ドルPCを開発する動きもありました。大手メーカーでは既に手がけているのかもしれませんが、新たに開発しなくても中古のマシンを教育に使う方法もあるのではないでしょうか。子供たちにとっては、パソコンもコントローラが複雑になった(つまりキーボードということですが)ゲーム機のようなものであり、違和感がないようです。こんなちいさな子供にパソコンを与えるのはどうだろう、という親の心理があるのですが、運動や勉強などのバランスがとれていれば、ゲーム機を卒業させて早い時期からパソコンを渡してしまってもかまわないかもしれません。

ちなみに彼のパソコンは壁紙をウルトラマンメビウスにしてあげました。なんとなくWindows2000のマシンにウルトラマンメビウスは似合わないなあ、と思いながら。

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■息子がはまったタイピングソフト(フリー)のFighting Typers。ベクターのレビューです。
http://www.vector.co.jp/vpack/browse/pickup/pw5/pw005232.html

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2006年6月17日

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感動という浄化。

ディズニー映画の「カーズ」の試写会が当たったので、丸の内の試写会場まで行ってきました。ところが、1組3名までということなので、4人家族のぼくらとしては困ってしまい、結局のところ子供たちふたりと奥さんが映画を観ている間に、ぼくはふらふらして時間を潰すことになってしまいました。もう少し融通をきかせてくれたらいいのに、と思うのですが、通常は大人ふたりに子供ひとりという核家族的な構成なのでしょう。しかしながら、たまにはひとりでふらふらするのもいいものです。

さてどうしようと思ったのですが、近くに東京国際フォーラムがあったので、とりあえずそこに入ってみたところ、土曜日の今日も何やらイベントが行われていました。IT系のイベントでは視察によく来るのですが、他のイベントにはまったく縁がありません。そんなよくわからない分野の展示会場を見下ろしながら缶コーヒーを飲んでいたところ、ふとホールのそばにある「相田みつを美術館」が気になり、どうしようかと迷ったのですが入ってみることにしました。

相田みつをさんといえば、詩人であり書家でもあり「にんげんだもの」という書が有名で、ぼくもまたそのイメージから強烈な印象を得ているのですが、いままであまり本などを読んだことはありませんでした。東京国際フォーラムにも何度か仕事で訪れているのですが、美術館に入ったことは一度もありません。というのはぼくの心には偏見が働きがちで、詩というよりもポエムというようなカテゴリーに入りそうなものを拒絶してしまうからです。どこが違うかというのは微妙なところですが、甘ったるくて自己陶酔型で閉鎖的なものはぼくはポエムだと思う。詩はそれよりも言葉を文学的に結晶化したものであり、ストイックな姿勢や厳しさがともなう。そんな風にぼくは違いを考えていました。そして相田みつをさんもポエムなひとだろう、と勝手に解釈していました。

ところが、実際に美術館のなかに入ってみると、相田みつをさんはぼくの偏見とは異なっていることに気づいた。まず、仏教を熱心に勉強されている。そして、あえてやさしい「生活の言葉」で仏教の教えを語ろうとされていたようです。

さまざまなシンクロニシティーを感じたのですが、まず今回の展示テーマは「道への道」であること。経験は道である、というようなことを書いていただけに、その言葉に惹かれるものがありました。さらに、展示をみていてぼくの目に飛び込んできたのは、「子供たちを育てるには、感動を体験させることがいちばんである。美しいものに接していると、自然と邪悪なもの、不正なものを排除する心が養われる」という文章でした(企画展ブックを購入したのですが、その文章は掲載されていないので、あくまでもぼくの記憶している文面です)。

まさに昨日、そんな文章をブログに書いていただけに、ちょっとびっくりした。さらに展示をみていくと、相田みつをさんの声を流している展示があったのですが、スペースに足を踏み入れたちょうどそのとき、まさに上の文章が相田みつをさんご自身の言葉で語られているときでした。オートリピートで20分ぐらいのローテーションによって、CDブックの内容を延々と流しているのですが、偶然にも、感動することの重要性を説いている言葉を聞き、ぼくは何かはっとするものを感じました(といいつつ、スピリチュアルなものに全面的にコミットしないように、距離を置いてしまうのですが)。

相田みつをさんのすごいところは、自分の弱さをきちんと認めているところだと思います。50歳まで、書家としても詩人としても認められずに、悶々とした人生を送られていたらしい。さらに自分には欲があると認めていて、いまだに色の欲もあると公言する。一生悟ることはないだろうと思う、がんばりたくもない、がんばろうという言葉が大嫌いだ、ただ具体的に目の前にあることをひとつひとつ丁寧にこなしていくこと、感動とは感じて動くことであり動くことが大切、というような言葉のひとつひとつが刺さりました。

美術館に入ったときから何か後頭部に鳥肌が立つような感覚があり、そのことは認めるのですが、一方で、ぼくは盲目的にその感覚を支持しないでおこうと思っています。もちろんスピリチュアルなものの存在も認めますが、やはり一方で西洋的な思想と科学者的な心で接していたい気もしています。とはいえ、一番最後の展示で、ぼくはあやうく涙が出そうになったのですが、その文章は次のようなものです。

わたしは無駄にこの世に生まれてきたのではない また人間として生まれてきたからには 無駄にこの世を過ごしたくはない
私がこの世に生まれてきたのは私でなければできない仕事が 何か一つこの世にあるからなのだ
それが社会的に高いか低いかそんなことは問題ではない
その仕事が何であるかを見つけ そのために精一杯の魂を 打ち込んでゆくところに人間として生れてきた意義と生きていくよろこびがあるのだ

社会人である以上、ぼくも仕事はしているのだけれど、それは生活を支えていく糧を得るための仕事といえます。相田みつをさんが言っているような仕事をしているのだろうか。ぼくがそういう仕事を成就できるとすれば、利益を追求するビジネスマンとしての仕事ではなく、このブログの延長線上にあるものではないか、と思いました。

映画が終わって、丸ビルの洋食屋さんでご飯を食べて帰ったのだけど、家族を大事にしつつ、ぼくがきちんと仕事を成就できるのは60歳過ぎてからかな、と思ったりもしました。ずいぶん長い時間があるともいえるし、あっという間の刹那かもしれない。相田さんの言葉通り、悟りを開かなくてもいいでしょう。人間とは何かまったくわからないままでかまわないのですが、一日を誠実に生きることで、誠実を積み重ねることで、それが何かを生むかもしれない。

よい仕事をしようと思います。美術館に展示されていて、相田みつをさんがぼろぼろになるまで読んでいた「正法眼蔵」の文庫が気になっています。

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■相田みつを美術館。電子ブックなどの展示もありました。ぼくは展示の途中にある、隠れ家的な隙間というか狭い空間に入ってみたいと思いましたが、結局のところ、入ることができませんでした。なんとなく恥ずかしくて。そういう感覚を取り除いて、無垢でいることが大事かもしれないのですが。
http://www.mitsuo.co.jp/museum/index.html

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2006年6月 3日

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未来の種子たち。

今週は参観日ウィークという感じで、今日の土曜日は小学校四年生の長男の参観日に行ってきました。これがとても面白かった。勉強になりました。子供よりも父の方がいろんなことを考えてしまった。昨夜は深夜の3時まで趣味のDTMのMIDIコントローラとレイテンシの設定に四苦八苦していて、さすがに朝はつらくて1時間目の国語の授業は聞き逃してしまったのですが、聞いておけばよかったと思いました。残念です。

小学校の参観日の2時間目は社会で、先日とある教育センターに行ってきてプラネタリウムと郷土資料館を見学してきたようなのですが、特に気になった内容を3つ、新聞にまとめるという授業でした。ある意味、ジャーナリスティックです。それをひとり1分ずつ発表するので、プレゼンテーションの練習ともいえます。みんなの発表を聞いていると、この子は文章のはじめ方がうまいな、とか、よくそんな詳しいことを覚えているな、とか、原稿の方だけじゃなくてみんなをみながら話しているから将来はアナウンサーに向いているかも、とか、さまざまな子供たちの未来を想像して楽しかった。

それから、ほんとうに瑣末なことですが、先生が黒板に「教育センターの発表」とタイトルを書いたのですが、その文字の左右に青いチョークで二本、すーっと線をひいた。つまり二本の線で囲むようにしたわけです。これだけでなんとなく見出しのようになるし、注目させる効果がある。たいしたことではないのですが、きっと先生には生徒を注目させるTips(隠しワザ)がいくつかあるのでしょう。最近デザインにも気を配ろうと思っているぼくは、そんな細かいところに感心してしまいました。

3時間目は道徳です。これが非常に深かった。長くなりますが思ったことを書いてみます。

題材は、次のようなストーリーです。

ある女の子が友人から絵葉書をもらった。その絵葉書は定形外だったので120円の送料が必要だったのだが、友人は50円しか貼っていなかった。70円分不足である。女の子は返事を書こうとして、料金が不足だったことを書くべきか悩む。彼女のお兄さんは、ぜったいに書くべきだという。一方で、お母さんはお礼だけで書かなくてもいいじゃない、という。では、どうするか?

選択肢として、お兄さん派(書くべき)、女の子派(悩む)、お母さん派(お礼だけで書かない)という3つを黒板に先生が提示しました。なかなか熱い議論があったのですが、男の子はどちらかというと極端な意見を支持していて、一方で女の子は「お礼を書いて、ついでに足りなかったよと書いてあげる」という意見が多かったようです。

ここで養老孟司さんの本に書かれていた"人間の基本は女性であり、女性は出産などの変化が多い人生を送るので安定している。一方で構造上、異端な男性は極端なことを言うことが多い"というようなことを思い出してしまいました*1。と同時に、小森陽一先生の「村上春樹論」に書かれていたことも頭によぎったのですが、女性は子供を育てなければならないわけで、子育てにおいて特に口唇期のしつけは、愛情と厳しさという相反する感情を許容するものであるという指摘がありました。

したがって、まだ9歳とはいえ、母性的なものを基盤に持っている女の子は基本的に両側面から考えることができるのかもしれない。一方で男の子は、片方の側面から考えたことから激論を戦わせていて、それが男の子っぽいとはいえるのだけど、やっぱりこれぐらいの時期の男の子は子供だなあ、女の子のほうがしっかりしているなあ、という印象がありました。つまり片方しかみえないのが子供で、両側面の思考力があるのが大人である、ということになりますが。

ぼく個人の見解としても、「お礼をいいつつきちんと足りなかったことは書く」だと思います。これは、「どちらか」を選ぶ思考ではなく、相反する「どちらも」選ぶ思考といえるかもしれません。しかしながら、折衷案という歯切れの悪さも感じます。それに実際はどうでしょう。結局、まあいいかと書かないでおいて、それでいてなんとなくすっきりしない気分が残るかもしれない。

「お礼だけ言って、料金不足は書かない」という主張をする子の意見は、「書くと傷つくから」ということでした。誰かの痛みを感じ取る「共感」が、そういう選択をさせるわけです。けれども、書かないでおくと間違えを何度も繰り返してしまう。だから反対派の子供たちは、書くべきだと説得していました。

さらに面白い意見があって、「手紙の返事は書かない」だそうです。なぜなら、書くと相手も返事を書かなければならずいつまでも手紙がつづいて大変なことになる、とか。思わず吹き出しそうになったのですが、考えてみるとメールやブログの世界にも同じようなことはあるわけで、一概におかしいともいえない。それから、「友達との親しさにもよって書いたり書かなかったりする」という意見にも唸りました。理屈っぽいことを言ってしまうと、「関係性」というコンテクストによって伝える言葉も変わる、ということです。

最終的には、料金不足を書く(26人)、悩む(1人)、書かないでお礼だけ言う(3人)であり、うちの息子は大多数のなかにいましたが、えー?きみは恥ずかしがりやで小心者だから書かないんじゃないのー?と心のなかで突っ込みを入れていました。マイノリティーな意見を堂々と述べた3人にも、ぼくはひそかにエールを送りたい。彼等にとってそれが正解であれば、正解なんだと思います。少数派であっても胸をはって意見を言えるのは、すばらしい。

日本の教育はまずい、ということがよく言われます。もちろん全体的にはまずいところがたくさんあるかもしれない。けれども教室の場でいっしょうけんめい考えている子供たちをみると、頑張ってるじゃん、と思う。

いま村上龍さんと伊藤穣一さんの「「個」を見つめるダイアローグ」を読んでいて、そこにも教育をはじめ日本のおかしいところがたくさん書かれています。グローバルな視点から日本のおかしな部分を浮き彫りにしていく。「これは面白い本です。楽しんでほしい」ということを村上龍さんが冒頭で書いているので楽しんで読んでいるのですが、しかしながら面白いなあと思って読み進めながら冷静になったときにふと感じたことは、要するにおふたりはグローバルな外部の視点からみているから面白いんじゃないか、面白いけどこの問題はぼくらの日本のことだろう、面白がっていていいのか、ということでした。

野球にしてもサッカーにしても、フェンスの外で眺めていれば楽しい。しかし実戦で闘っている本人たちには、もちろん楽しさもあるけれど、楽しいだけじゃないこともたくさんある。アウトサイダーとして論じるのは楽しいけれど、それでいいのかな、と感じました。日本のおかしさを自虐的に楽しんだとしても何も変わらないのではないか。

教育も同じではないでしょうか。外野からいろんなことを言うことはできる。でもぼくは教師ではないし、教師の苦労をわかっていないんじゃないか。頭のなかで考えるのではなく、参観日に実際に出席してみると、生き生きした顔も疲れ果てて沈んだ顔もみることができて、じゃあ自分に何ができるか、ということを考えさせられました。

日本の教育を批判するのであれば、まず自分にできることから行動すべきではないでしょうか。村上龍さんは「13歳のハローワーク」という次世代の子供たちのための仕事をされていて、それはものすごく素晴らしいことだと思います。ではぼくに何ができるんだろう。いろいろと思うところがあり、家族で議論したりもしたのですが、結局のところ、次男と散歩したり、長男が自転車に乗れるように助けてあげたりして、一日が終わりました。理屈っぽいことをたくさんブログに書いていますが、リアルな生活はシンプルなものです。

9歳にもなってまだ自転車に乗れなかった長男ですが、自分の将来にも関連する議論にどうやら考えるところがあったらしく、なんとなく今日は気迫が違って、はじめて数メートル自分で走ることができました。よかったよかった。

子供たちは未来に蒔かれた種子のようなものだと思います。すくすくと育つために、ぼくらができることを考えてみたいと思います。そして子供たちのために考えたことは、思考の戯れや社会批判では終わらせないようにしたいものです。

*1:引用ではなく要約です。そんなことが書いてあったような気がしました。

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