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2006年5月31日

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子育てとビジネスの全体思考。

午前半休をいただき、息子(次男3歳)の幼稚園の参観日に行ってきました。

はじめのうちは特に問題なく微笑ましいシーンが展開されていたのですが、外で遊ぶというときになって、上履きが脱げないのと靴がうまく履けなかったために息子は号泣(ブランドものの紐靴を履かせていました)。後になって別の子供も泣き出したため、まだ救われるものがあったのですが、たくさんのママさんやパパさんがみているなか、号泣する息子にはいたたまれないものがありました。穴があったら入りたい気分です。

一度泣いてしまったら我慢ができなくなってしまったのか、先生の制止を振り切って、こちらに向ってやってくる。それからは参観日というのに息子の視線から逃げまくって、敵の視線をかわすために窓の隙間からこっそり様子をうかがうような一日でした。戦場ともいえます。視線の弾を避けつつ、奥さんとお互いに隠れながら(だから履きやすい靴にしろっていったじゃん!)(そんなこといま言ってもしょうがないでしょ!)のように、親たちも戦場というかプチ夫婦喧嘩が展開されていたのですが、なんとか参観日も終了し、泣くのをみられたせいかちょっと気まずそうな息子に、「頑張ったな」と言って頭を撫でてやると、ちいさく「頑張ったよー」という返事。奥さんからは、パパは甘いんだから、と言われたのですが甘くて結構。ちょっと恥ずかしかったけど、泣いて甘えん坊の息子もぼくの息子であり、そんな息子も許容したいものだと思いました。でも、もうちょっと強くなってほしいぞ。よく話を聞くと、毎日泣いているとのこと。そりゃ泣き過ぎです。

とはいえ、きちんとお祈りのときにちいさな手のひらを合わせていたり、一生懸命、いーっという口をしたりうーっという口を尖らせたりして歌を歌っていたり(そんなにいーっとしたりうーっとしたり力んで歌わなくてもいいのに)、なんだか前かがみのミッキー体操を狂気乱舞で踊っている息子をみていたら、不覚にもちょっとじーんとしてしまいました。

いつもは家にいる息子しか知らないのですが、こうして参観日に出席すると、クラス全体のなかにおける個というものを知ることができて、なかなか興味深いものがあります。比較するわけじゃないのですが、ああ、あの子はダンスがうまいな、ということもわかる。最終的には親ばかなので、うちの子がやっぱりかわいい、という結論に到達してしまうのですが、いろいろと考えることも多く、仕事ばかりしていないで時間を作ってこういうところに出るのもいいもんだ、と思いました。ある意味これも全体思考的な把握かもしれません。

ところで、ビジネスにおいて全体思考というと、ぼくは「管理」と「戦略」というふたつの方向を思い浮かべます。

前者の「管理」について言えば、個人的にぼくは管理したくもなければ管理されたくもない人間であり、そういう意味では組織人としては不適格かもしれない。だから管理に執拗にこだわるようなひとをみるたびに、権力主義的な何かを感じて、管理によってみんなを快適にするというより自分のポジションを維持したいだけじゃないのだろうか、と懐疑的な憶測を感じることもしばしばなのですが、会社というのはそういうものなのでしょう。組織が肥大すればするだけ、無駄なことが必要になるものです。

ぼくには管理は部屋の片付けのようなもの、という認識があります。若干暴論かもしれないのですが、片付けにめちゃめちゃ注力してしまうときがあります。よしっ!という感じで捨てまくったり、整理しまくる。とにかく片付けているときは肉体労働をしている充足感があり、何かよい方向に向っている気がする。ところが部屋がすっきり片付いたときにふと思うわけです。さて、どうしましょう、と。

もちろん本が雪崩を起こすようなぼくの部屋は片づけが必要ですが、その片付け自体を人生の目的としてしまうと方向を間違えている気がします。片付けたあとにどうする、ということが重要であり、片付けを目的としても、何も生産されない。ところが多くの管理では片づけを目的とする傾向があり、片付けの汗を流す心地よさにばかりこだわり、「どうする」の部分を置き去りにしてしまう。数値化ばかりに注力する管理や、フローの制定にばかりこだわる管理、というものは、片付けに満足することばかりを追求し、目的を見失った状態に思えてきます。というのは、管理者には向いていないぼくの負け犬の遠吠えのようなものでしょう。

もし管理に必要とされる部分があるとしたら、「動機付け」と「リーダーシップ」ではないかと思います。それは片付けたあとにどこへ向うか、という方向を示すことであり、片付けることとは次元の違う難しさがある。片付け、というのはある意味肉体労働であり、基準さえ決めたらあとは誰でも考えなくてもできるものです。ところが、「動機付け」と「リーダーシップ」は考えなければできない。しかも意思決定が必要になるので、いくつもある正しさのなかから向うべき正しさを選択する必要がある。選択する、ということは、他を排除する、ということであり、逃げも隠れもできません。覚悟が必要です。ところがオプションだけを提示して、覚悟ができないことも多い。

さらに高度な考えが必要になるのが「戦略立案」ではないかと思うのですが、安易に何か書こうとしたものの、ちょっと思うところがあり、きちんといつか考えてみたいと思います。

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2006年5月21日

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息子たち、そして生活のかけら。

天気がいいので外で遊びなさいということで、息子たちを外で遊ばせていたのですが、家の外でボールで遊んでいた息子(長男)が、隣の家の庭にボールを入れてしまいました。どうしよう?と困っているので「玄関のチャイムを押して、ボールを取らせてくださいって言って、取らせてもらいな」と教えたのだけど、もじもじしている。やはり知らないひとのチャイムは押せないようです。そこで、ぼくがぐぐーっと指を掴んで押させようとするのだけど、ボタンの手前で指が抵抗する。どうしても指が止まってしまう。仕方ないので、ぼくが見本を見せるというか、チャイムを押して隣のひとに挨拶して、ボールを取りに行ってきました。ほんとうは、自分で責任を取ることを教えたかったんですが。

その後、どうやらチャイムを押すプレッシャーに凹んでしまったらしく、「鼻水が出てきた」といって長男は家に戻ったのですが、ちょっと泣いてしまったらしい。泣くことないのに、と思うのだけど、子供というのはこういうことに対しては、ガラスのように繊細なものです。ぼくも遠い昔には、そうだったかもしれない。泣き終わった彼に、「ボールで遊んでいれば、どこかへ入ってしまうことがあるもんだ。それはたいしたことじゃないんだよ。でも、誰かの家に勝手に入るのはよくない。きちんと言葉で言わなきゃだめだ。それも別にたいしたことじゃない。でも、自分から声をかけることが大切」ということを説明してみました。どれだけ彼に届いたかわかりません。ただ、こんな風に面倒がらずに、養老さんの言葉を借りれば子供を「手入れ」していくことが大切かもしれません。

こうした何気ない子供とのやりとりの背景にあったのは、小森陽一先生の「村上春樹論」の影響があったかもしれません。ここ数日の間、読後に感じたことを考察しているのですが、その本のなかで小森先生は、人間は言葉が必要であり、口唇期の子供たちに排泄を教えるのは、キタナイという厳しさの背後に愛情がある、ということを書かれていました。そのとき子供たちは、なぜ?という感情を持つのですが、そのなぜ?に親が答えるときに、社会としてのコミュニケーションの基本がある。そうして言葉を使う生き物として、人間は社会化していく。「すみません、ボールを取らせてください」と他者(隣のひと)に声をかける大切さを、彼に教えてあげたかったと思いました。それはまだ幼い息子にとっては、ものすごく厳しいことだったようです。でも、それを経験させるのが親としての教育かもしれない。と、仰々しく書いていますが、ものすごく当たり前のことです。たいしたことじゃないんですけどね。

長男を少しだけ精神的に追い込んでしまった気がしたので、それからみんなで昼ごはんを食べに出掛けて、午後からは多摩川の土手を散歩しました。さすがにいい天気だったので、みなさん考えることは同じだったらしく、ものすごいひとでした。草野球をしたり、バーベキューをしたり、草に寝転んでひなたぼっこをしている。それでも、川に石を投げたり、レンゲで腕輪を作ったりしたのですが、ちょうどうまい具合に乗馬クラブとちいさな動物たちに触れるアトラクションがあって、そこで息子たちはヤギや羊、ウサギやヒヨコなどを触ったり餌をあげたりしました。

長男は動物が大好きです。まだ3歳だった頃に、リス園に行ったことがあったのですが、何度もひまわりの種をリスたちにあげて、なかなか帰ることができずに困ったことがありました。今日も羊たちに一生懸命にんじんスティックをあげていた。それにしても、動物たちはみんなかなりお腹が膨れていたのですが、大丈夫だったんでしょうか。今夜、食べすぎでお腹が痛くなっていないといいのですが。一方で、3歳の次男は動物よりも、その隣にあったパンチングボールやぼよんぼよんする遊具などで遊ぶのが楽しかったらしい。さすがに格闘技系(身体だけ)だけあって、何度もパンチしたり転がったりして大喜びでした。しかしながら、さすがに喘息のためか、公園に放つと30分ぐらい全速力で走っていたときのような体力はなく、すぐに疲れてしまうようです。元気になってほしいものです。

ちょっと頼りないところはあるけれども、動物が大好きなやさしい長男がぼくは大好きです。だから厳しくもなってしまうのですが、あまり目立たなかったとしても、そのやさしさだけは失わずに大人になってほしいと思います。しかしながら、やさしいだけではなかなか生きにくいのが社会でもあるので、特に精神的な強さの在り方について、いっしょに考えていきたいものです。父親であるぼくも決して強いわけではなく、いまでもよりよい生き方について模索している途中ではあるのですが。

どうしても自分のやりたいことにかまけてしまい、なかなか子供と接する時間も少ないのですが、茂木健一郎さんの著作にあったように、何気ない生活を大事にしながら、形而上的な高みにあるような何かについても、考えたり創作したりしたいものです。どこか遠くに出掛けたわけでもなく、変わったことがあった一日ではないのですが、こんな何気ない「生活のかけら」を大切にすること、そして忘れないように書き留めておきたいと考えています。まずは天気がいいことに感謝し、息子たちの笑顔に感謝したい一日でした。

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2006年5月 7日

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充実、解放、そしてリセット。

GWも終了。とても充実して楽しい時間を家族と過ごすことができました。息子たちと水族館へ行き、青空に向かってジャンプするイルカに驚いた日もありました。イルカはすごいなとあらためて感動するとともに、とあるアーティストのアルバムのジャケットを思い出したりしたものです。

リアルライフを充実させるという目的から1週間ブログをお休みして、GWの最後の数日はネットにも接続しなかったのですが、そこで感じたことは、「ブログを書かなくても、ぼくという存在が損なわれることはない」ということでした。当たり前じゃん、と感じた方は、かなり健全な生活をされている方だと思います。節度のあるブログをつづけられている方にとっては、当たり前のことかもしれません。しかしながら、長くブログをつづけていると、いろんな脅迫観念のようなものにとらわれて、変な方向に流されそうになることがあります。

たとえば、「とにかく一日も休まずに書きつづけなきゃいけない」ということ。ちょうど林檎の皮を途中で途切れさせずに最後まで剥けるかどうか、ということに似た感覚ですが、何があっても書きつづけなきゃ、というこだわりのようなものが生まれてきます。「アクセスを増加させなきゃいけない」、「何か気の効いたことを書かなきゃいけない」というプレッシャーもある。SNSであれば、とにかく友達やリンクの数を増やさなきゃ、という思いにとらわれることもあるようです。

この強迫観念的な何かにとらわれてしまうと、本末転倒なことが起こりがちです。以前、子供の行事においてビデオ撮影に熱中することについても書きましたが、本来であれば、子供の成長した姿に感動したり、頑張っている姿を応援したり、青空や歓声や土ぼこりの匂いなどそのときの雰囲気を楽しむことが大事ではないでしょうか。ところが、撮影に夢中になると、記録すること、ネタづくりに注力してしまうこともあります。息子が転んだ、というときに、声援を送ったり駆け寄ろうと思う前に、ビデオのチャンスだ!と思ってしまうわけです。

時折、テレビの報道などで「やらせ」が問題になることもありますが、その気持ちもわかるような気がします。何か書かなければ、情報発信しなければ、表現しなければ、という強迫観念に襲われると、もっと面白いネタを、ということだけに目が向いてしまう。You Tubeなどのビデオ投稿サイトが盛り上がっているようですが、アマチュアの世界においても、そんな現象も生まれる(既に生まれている)かもしれません。でも、別に何もネタ的なものはなかったとしても、そのひとの人生は充分なものだと思うんですよね。

GWも同様かもしれません。旅行代理店の策略にはまっているのかもしれないのですが、どこかへ出掛けなきゃ、という一般的な「空気」があります。ゆるい常識のようなものが漂っていて、家でごろごろしているのが悪いことのようにも思える。天気のいい日にごろごろしているのは、たまらなく贅沢なことだとぼくは思いますが、なんとなく罪悪感のようなものを感じてしまう。

ネットに限らずあらゆる社会においては、一種の「あらねば」的な共通の空気を生成する傾向があるかもしれません。たとえば受験戦争もそうです。よい学校に入らなければ、という空気が生成される。企業には、さまざまなランキングあるいは格付けというものもありますが、多くの企業がそれらに敏感になるのも、売上や待遇などにおいて他と差をつけなければいけないという競争意識に追いたてられるからです。最近、話題になった言葉には、上流や下流という視点もありました。世のなかというものは、モノサシを作りたがるものかもしれません。

もちろん社会のモノサシが自分を判断する基準のひとつになるのですが、できれば自分のモノサシは自分で作りたい。強迫観念的な何かから解放されるには、自分で考える必要があります。ブログを書く場合にも、忙しくて書けないから書かない、というのと、書けるけれどもあえて書かない、というのは、結果は同じであったとしても「自分の意思」が介在するかどうか、という点で大きく違います。

この社会的な基準やモノサシ、あるいは強迫観念的な何かをぼくは否定、批判するものではなく、それが経済を活性化したり、世のなかをよりよくするための原動力になったり、生活や人生を向上させるための契機を作ってくれるものだとも考えています。見栄だって必要です。「ふり」につながるものかもしれませんが、まったく違う「私」を宣言することによって、言葉化された「私」に現実が近づいていくこともあるかもしれない。

けれども、一方でぼくらはもっと自由であってよいと思います。自分という「個」は生まれながらにして世界にひとりしかいない特別なものなのだから、誰か他人のモノサシを借りたり、他人の常識に必要以上に揺さぶられることはないのかもしれません(といっても、やっぱり気になりますけどね)。

と、GWが明けて、相変わらず理屈っぽい内容で、大量の無駄なテキストを生成しつつあるぼくのブログですが、中断してリセットをかけたところで何も変わらず、またこんな内容で書きつづけていきたいと思います。

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2006年4月20日

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揺れる、ということ。

ここ数日、夢のなかで強風に煽られてばかりいました。風が強い夢をよくみます。どういう意味でしょうね。意味はなくて、風が強い日の記憶を夢にみているだけかもしれません。と、風のことを考えていたら、ちょっと風邪をひいてしまったらしく喉が痛く、若干熱っぽくもあり、くらくらするようになりました。

たいてい、喘息の次男を救急病院に連れて行くと、ぼくの方が風邪をもらって帰ってきてしまう。深夜なので疲れもあるかと思うのですが、どうやらぼくは、お子さま向けの風邪に対する抵抗力が弱いようです。お子さま向けとはいってもさすがに救急病院にやってくるだけの風邪です。あなどれません。以前には、小児科でもらってきた風邪で3日も寝込んだことがありました。今日も薬を飲んではやく休むことにしましょう。とかいいつつ、薬を飲んだ後でお酒を飲んでしまっていますが。

風邪ばかりではなく、やはり寝不足と疲れもあるのですが、どうもくらくらして揺れているような気がする。昼間に仕事をしていても、なんだか揺れる。ぐらぐらです。まずいことになっちゃったな、早退するにもまだ仕事が終わっていない。とはいえ、こんなに揺れるのは重症だぞと思ったら、地震でした。やれやれ。

ときどき、自分が揺れているのか、世界が揺れているのか、わからなくなることがあります。ついでに言うと、身体が揺れているのか、心が揺れているのか、わからないこともある。心も身体の一部であり、やはり揺れることがあるようです。それを動揺というのではないかと思うのですが、美しいものに揺さぶられることもあれば、美しくないことに揺さぶられることもある。揺さぶられることのない強固な石のような意思を持ちたいと思うのですが、なかなか達観できないものです。

音は波動なので、音に揺さぶられることもあります。心地よい揺さぶられ方もあれば、心を乱すような揺さぶられ方もある。けれども、心を乱すような揺さぶられ方をした後では、静寂が心地よい。ああ、この静けさを味わうためにあの不快な音があったのか、と思うこともあります。

若い頃にはぐらぐら揺れる感情のメーターがうっとうしいものでしたが、次第に感情のメーターが錆び付いて動かなくなってしまう年齢になりました。落ち着いた、といえるのかもしれません。とはいえ、たまには揺れてみようか、とも思います。ゆらぎ、などという言葉も思いついたのですが、不規則に揺れることが、アンドロイドではない人間らしい感情の在り方のような気もしています。

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2006年4月19日

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健康にかわるプレゼントはない。

深夜の2時に息子(次男3歳)が咳き込みはじめ、4時頃に緊急病院へ。喘息の発作というわけではないけれど吸入をしてもらい帰宅したのですが、やはり朝になっても肩で息をしてあまりにも苦しそうなので、行きつけの小児科に行ってさらに診察をしてもらい、自宅用に喘息用の吸入の機械を購入することにしました。医者のはしごです。

両方の医者で大泣きした彼は、家に帰ってくると少し落ち着いたようで「ぱぱちゃん、すき」とかうれしいことを言ってくれるのですが、具合のよくなった彼に「かいじゅうごっこ、やって」といろいろとせがまれるので閉口しました。とりあえずぼくは1時間ぐらい仮眠をとってみたのですが、寝不足のためか偏頭痛がひどくなってきたのでバファリンを飲んでしのぎ、あまり無理をしても明日からの仕事に支障があるだろうと思って今日は会社はお休みをいただき(金曜日までに片付ける仕事が2件あるので明日の木曜日は2倍速で働かなくては。終わるかどうかとても不安)、午後からは長男を小学校に迎えにいったりしているうちに一日が終了。

長男は長男で、ぼくらが病院に行っているあいだに明け方ひとりで家に放置され、さびしくてひとりで泣いちゃったらしい。やっぱり泣いちゃったか。眠れずに目を開けていたら、そのうち鳥の声がして朝になっていたのでびっくりしたとのこと。寝不足のために検尿を家に忘れてしまい、これもまた焦ったようです。わかる。そういうの、焦るんだよね。どうやら検尿を忘れたのはクラスで彼ひとりだけだったらしい。やれやれ。男の子なんだから、がんばってほしいものですが、まあ仕方ないでしょう。きみはよくがんばった。

という慌しさのためにほとんど忘れかけていたのですが、今日ぼくはひとつ年を取ってしまいました。誕生日でした。奥さんの母親から、花束をいただきました。それから80歳をこえている奥さんのおばあさんには、電話でハッピー・バースデイを歌っていただきました。毎年恒例なのですが、特に今回はいろいろなことがあった日だけに感激しました。

ケーキを食べることができなかったことは残念であり(さすがに奥さんも疲れ果てて「自分で買いに行ったら?」とぼくに言うのですが、自分で自分の誕生日ケーキを買いに行くのもなあ、と困惑してやめた)、入園早々休んでしまった次男もかわいそうですが、家族全員が健康であることがいちばんです。というより、次男と競うようにして身体が弱いのは何よりもこのぼくなので(今日も夕方になって疲れがたまってダウンした)、神様、まずはうちの次男の喘息を治していただき、残ったぶんでぼくにあと少しだけ健康をください。

健康にかわるプレゼントはありません。

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