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2006年3月18日

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病院というお仕事。

木曜日の深夜に喘息の発作を起こした3歳の次男は、思いのほか容態が悪かったようでした。吸入やステロイドの薬を使って一度帰宅したものの、やはり夜の間ずっと苦しみつづけ、明け方にふたたび小児科専門病院の救急センターへ。そのまま入院となりました。とはいえ、はじめて入院させたときに比べると、こちらの意識もかなり慣れてきたので、いろんな面で落ち着いて行動できたような気がします。

病院に行っていつも思うことは、医師と看護婦というお仕事は大変だけれどもとても大事な仕事だということです。ひとの命を守る仕事ということもあるのですが、まず夜の間、ずっと働いているというだけでも頭が下がります。さらに子供が相手であれば、泣いたり暴れたりわめいたり、ほんとうに体力勝負になる。うちの次男なんか特に太い足と腕で暴れまくるので、みていてほんとうにしんどいものがある。一方で親の方も疲れがたまっているため、ちょっとした対応でかちんときたりもする。そのあたりのケアも重要になります。

病状の説明に関しても、患者の親としては、その言葉のひとつひとつに過敏に反応してしまうものです。昨年の10月頃にはじめて喘息の発作で病院を訪れたときには、お腹を痛がっているようだったので、お腹の病気じゃないか、と医師に説明したところ、腸重積かもしれないが、それほどひどくないので一度帰っても大丈夫です、と診断をいただきました。よくわからないけれど、なんとなく病気の名前を聞いてほっとして帰ったのですが、インターネットで調べたらそれほど安心できる病気ではないことを知って逆に焦ったことがありました。

病名を教えていただけることはありがたいのですが、一方で余計な情報を勝手に収集していしまうことにもなります。一方で、あまりにも曖昧な診断であると納得もいかない。この微妙な部分をうまく説明していただけるお医者さんというのが理想的です。治療という技術面だけでなく、コミュニケーション面においてもなかなか難しいお仕事です。

ほんとうにやわらかい感じでやさしいお医者さんもいれば、無愛想で訥々としたしゃべり方だけれど信頼できるお医者さんもいる。お医者さんにも個性があります。けれども、お医者さん共有の何かしらオーラのようなものというのはある気がする。

ところで、数日で退院と思われていたのですが、1週間はかかるらしいということを今日聞きました。喘息の発作を起こし昨年の秋から、少しずつなんとかしなければと思っていたのですが、徹底しなかったことも多かった。反省しています。この休みの間に、まずハウスダストをなくすように徹底的に掃除をしたり、喘息についてきちんと対策を練ろうと思っています。

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2006年2月11日

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ツギハギ的な平衡感覚。

ぼくにはふたりの息子たちがいるのですが、それぞれの個性を活かしつつ、きちんと彼等と接するのはなかなか難しいもんだな、とよく思います。年齢差がなければいっしょに遊ぶこともできそうなのですが、離れているのでそれもできない。

3歳の次男は、最近かくれんぼ&怪獣ゴッコにはまっています。といっても隠れるのはいつも自分なのですが、長男の机の下に隠れてじっと待っている。ぼくがみつけると、がおーっと出てきてエレキングやゴモラなどの怪獣になって(古い怪獣ですが、最近のウルトラマンには出てくるらしい)、そこから怪獣ゴッコがはじまるわけです。「あんよキック」とか、短い足で蹴っとばしてきて、なかなか痛い。

小学生の長男といえば、デュエル・モンスターズなどのカード自作に凝っています。強さなどの数値を別紙に抜き出していて、パソコンは使っていないけど、ある意味データベース的なものも作っている。古いパソコンを彼にあげるつもりですが、あんまりインドアなのもどうかと思うので「キャッチボールやろうよ」「散歩しようよ」と誘うのだけど、なかなかのってこない。今日も散歩に行ったのですが、結局中古ゲームショップに寄ってゲームを買うことになってしまいました。やれやれです。

最近は、兄弟のどちらかに玩具を買ってあげるということはできなくて、もし買うとすればダブルで買わなければならない。出費も2倍ですが、選ぶ時間も2倍です。怪獣やゲームだけにのめり込みすぎるのも問題だと考えて、音楽的な玩具や絵本などを探そうとすると、それこそあっという間にデパートを3時間もうろうろしている、なんてこともあります。

さらにぼくはぼくで自分のやりたいことがあるわけで、それは仕事であったり、仕事のための勉強であったり、映画を年間100本観たり本を100冊読むという自分に課した課題であったり、趣味の音楽だったりもします。痛くてたまらない歯を抜いたり、故障しがちな身体を修理もしなくちゃならない。

あれもこれも、やりたいことが山積しているのですが、そこで思ったことは、基本的に人間は並行して2つ以上のことを処理できないんじゃないかということです。IT関連では、古い言葉ではマルチタスクなんてことがいわれたこともあり、仮想化(Virtualization)というのも最近注目を集めているキーワードです。いま梅田望夫さんの「ウェブ進化論」を読みはじめたところで、この本は非常に刺激的な指摘が満載なのですが、「夫婦共働き(ダブル・インカム)」に代わってリアルとインターネットの世界で夫婦お互いが稼ぐ「クアドラプルインカム」の時代がくる、というようなことも書かれていました。確かにその可能性を感じるのですが、ひとりひとりが費やす時間が決まっていて、思考の道具として主として言葉を使う(もちろん空間的な把握をする右脳的な機能もありますが)ぼくらとしては、やはり線的(リニア)に日々の生活を処理をするしかない、と思うんですよね。

女性は脳の構造から「ながら」が得意である、ということを聞いたことがあります。おしゃべりしながら手を動かすことだって、男性と比べると簡単にできるそうです。だからこの見解は非常に男性的な思考かもしれませんが、たとえば人間が並行して何かをしようとする場合、どうしても「犠牲にしている」という感情が生まれてしまうんですよね。仕事で忙しいときには家庭を犠牲にしている、家族と過ごしているときには自分の時間を犠牲にしている、趣味をやっているときには仕事や家庭を犠牲にしている。ぼくだけかもしれないのですが、そんな気持ちが生じてくることがあります。あるいは大きな理想があると、その理想と比較して現状があまりにもつまらなく思えてくる、なんてこともあります。平衡感覚が大事なのに、並行して複数のことを考えるときにバランスが崩れる。

そこで考えたことは、ひとは線的にしか生きられないものである、という風に割り切ってしまうことです。忍者でもなければ分身なんてできないし、ひとりがふたつの人生を生きることはできない。だから、いまやっていることに集中するのが大事だ、と。長男を連れて映画に出かけているときには、家に残してきた次男のことは考えない。長男と過ごす時間を十分に生きる。次男とかくれんぼをしているときには、趣味のことは考えない。かくれんぼに集中します。仕事に集中しているときには(申し訳ないけど)家庭や、自分の趣味のことは忘れようと思います。ただし緊張が解けてぼーっとする時間や、ブログなどを書く時間には横断してそれらを俯瞰できそうなのですが。

しかしながら、欲ばりなぼくは、いろんなことをやりたいと考えています。ではどうするかというと、集中する時間を、ぱっぱっと切り替えてツギハギ的にすべてをリミックスしていけばいいんじゃないか。短いパーツを組み合わせていくイメージです。休日の午前中は仕事のための勉強に集中する、午後は家族たちと過ごす時間に集中する、そして夜は映画を観たり趣味の音楽を楽しむ。忙しい仕事が終わったあとには家族や趣味の時間をつくる。そしてきちんと眠る。目の前にない何かを思い浮かべて、もやもやした中途半端な気持ちで過ごすよりも、そちらの方がいいんじゃないかと思いました。そして、そのままではバラバラになってしまうので、平衡感覚(バランス感覚)をもって自分を統合していく。そんな風にして、刹那を積み上げるかたちで十分に生きてみたいものです。

歯の痛みがおさまって、今日はやりたいこと満載な一日でした。そういえば長男とは将棋もしたのですが、王がどんどん前に出てくる手を使って、なんだかものすごく新鮮でした。そんなのありか?という感じ。飛車と角抜きのハンディで戦って結果的には勝つことができたのですが、1回ごとに手ごわくなっている。若いとやっぱり頭が柔らかい。早く父を負けさせるぐらいに成長してほしいものです。次は次男だな。

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2006年2月10日

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痛みが残像のように。

先週末から歯痛に悩まされていました。ぎりぎりとした痛みに襲われると何も考えられなくなるものです。あるいは何かに集中することで痛みを忘れようとする。今週のブログが長文なのは、書くことで痛みを忘れようとしていたからだと思います。しかしながら、さすがに歯痛だけは放っておけば悪くなるばかりなので、今日は歯医者に行って、痛かった奥歯を抜いちゃいました。これですっきり、かと思ったら、やっぱり麻酔が切れると痛い。鎮痛剤で立ち直るのですが、この効果も切れると痛い。歯も神経もないのに、いまだにまだ歯があるかのような残像のような痛みに悩まされています。

事故で身体の一部を失ったような方も、まだそこに失われた身体があるような感覚になる、ということをよく聞きます。それも仮想のようなものでしょうか。抜かれた歯というのはかなり大きくて、こんなものが埋まっていたのか(というか埋まっていたわけじゃないのですが)、と思うとびっくりしました。その歯がいまでもあるような気がしています。それにしても、サメは何度も歯が抜け替わるといいますが、人間も何度も歯が生えてくればいいのに。

医者は全般的に苦手です。歯医者は特に苦手です。というのも、やはり子供の頃の経験が残像的に残っているからかもしれない。当時、歯医者に行くと、ものすごくたくさんのツール類が並んでいたような気がします。それだけでもう恐れおののいたものです。あの機械は何に使うのだろう、あれでがりがり削られちゃうのだろうか、と想像しただけで顔がひきつった。どちらかというと治療よりも想像の方が大きくて、そのために苦手になってしまった気がします。けれども、それに比べると現在の歯医者さんはものすごくシンプルに感じます。え?こんなので治療できちゃうんですか?という最低限の兵器(というか器具)しか置かれていない。さらに、技術も向上しているように思います。ぼくが通っている歯医者さんは特にうまくてよい歯医者さんですが、ほんとうに何にもないような治療室です。

いろいろとリペアが必要になってきました。たぶん不摂生していたら身体を壊すんじゃないかと考えていたことが、いざ現実になるとやっぱり後悔もします。10年先のことを考えて、いまを大切にした方がいいんじゃないかと思いました。身体も、そして身体の一部である頭脳も。

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2006年2月 4日

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ちいさきものの儚さ。

将棋の羽生さんの「決断力」という本を読んだところ、むしょうに将棋をやりたくなり、ついに会社の帰りに玩具屋さん(といってもヨドバシカメラなんですが)で将棋の駒と盤を買ってしまいました。ぼくは影響を受けやすいひとなので、非常に行動がわかりやすい。もしぼくがラーメン屋に行ったことを書きはじめたら、どこかでラーメンの本を読んだか、テレビで番組を見たか、きっとそんなことがあったことに間違いありません。

将棋盤は1000円ぐらいで、駒が780円というところでしょうか。盤は任天堂製なんですが、任天堂ゲームキューブのソフトといえば8000円ぐらいするので、いつもゲームばっかり息子に買っていたぼくとしては、拍子抜けするぐらい安かった。勢いあまってウルトラマンのソフトビニール製の人形を買ってしまうぐらいです。しかしながら将棋を買って帰宅する気持ちというのは、ゲームのソフトを買って帰る気持ちと何かが違う。なんだろう?と思ったのですが、うまく言えません。重さと大きさが違うというのもあるのだけれど、心のまんなかあたりに浮かぶ何かが違う。なんでしょうね、これは。

さっそく家で駒と将棋盤を出してみたところ、次男(2歳)は「いいにおいがしゅる」とのこと。ラッピングを破ると新しい木の匂いがほわーという感じで漂って、確かにいい匂いでした。昨日は長男(9歳)に教えながらやってみたのですが、教えるのに夢中になって気が付くと、自分の陣地がガラ空きで王手をさされてしまいました。その初勝利に味を占めたのか、将棋やりたいと言ってくる。今日は本気を出して勝ちました。

思えばぼくも小学校の頃に父から将棋を教わった気がします。家には余った板を使って手製の将棋盤があったような気もする。ぼくには弟がいるのですが、弟とは年齢が2つしか違わなかったので、弟とよくやったような気もします。ただ遊びとはいえ、勝負に負けるのはむちゃくちゃ悔しかったですね。それが悔しいからあえてやらない、などとへそを曲げたこともあったかもしれない

うちの息子たちは年齢差が大きいので、次男がもう少し大きくならないと兄弟で将棋を楽しむことは難しいのですが、長男と遊んでいると次男は面白くないらしく、駒を隠したり、説明書を隠したりする。ウルトラマンを盤上に投げようとする。ちょっと困る。将棋ができるぐらいに、はやく大きくなってください。

それにしても羽生さんの本を読んだときに、なんとなく将棋ってこういうものなのね、と理解していたつもりだったのですが、実際にやってみるとぜんぜん違いました。木製の駒の手触りも想像に描いていたものとは違っていたし、木の匂いも違う。何十手も先を読むなんて無理で、いまある駒の動きしか見えない。だから将棋のプロの世界というのは、想像もつかないものです。わかったつもりってダメだな、とあらためて思いました。やってみないとわからないことも多い。ハワイの海について語るには、やっぱりハワイに言ってみなきゃわからないこともある。

いま、茂木健一郎さんの「「脳」整理法」を読んでいるのですが、次のような言葉があり、印象的でした。引用してみます。

私たちの体験する世界は、確かに大きくなりました。しかし、どれほど世界が大きくなっても、それは、一つ一つをとれば、小さなものから成り立っています。世界の大きさにかかわらず、世界はあいかわらず「個物」からできていて、私たちは「個物」を通して世界を認識しているのです。

そのあと「小さきものの儚さ」という言葉を使って、「石ころ」は池に波紋と作ったり積み上げて山を作ることができるけれど、「石ころ」という概念が人類を誤った道に導くことはない、ということを書かれています。

さらに茂木さんは、気をつけなければならないのは「大文字」の言葉である、と述べている。個物の認識と対比される考え方で、「一見普遍的で、適用範囲が広いように見える」概念だそうです。「人間」「神」「国家」「価値」などの概念らしい。つまり本来、変化するべきものを不変であると認識するときに、さまざまな弊害が生まれるということです。

そこで考えたことは、ビジネスで戦略というと、すぐにロードマップやシナリオなどを作りたがるものです。けれども現実と乖離した「大文字」のロードマップやシナリオというのは無駄なものでしかない。そういうものを作ると、あたかも「神の視点」を得たかように、これは絶対的だ、わたしはえらい、というように気持ちがでっかくなるのだけど、実際のビジネスに活用できる情報でなければ、意味がありません。

将棋をやってみないと、飛車の動きはわからない。やってみてはじめて、戦略についてもわかる。

昨日の話ともつながるのですが、統計的に世界の成り立ちを解明するよりも、個々が生きるための知恵を獲得することが重要ではないか、と考えています。そのためにはまず、地にしっかりと足をつけておかなければならない。ビジネスにおいても、プライベートにおいても。一方でインターネットのテクノロジーは、個々の地に足をつけた経験を知恵に変えるためのツールとして有用であるという気がしています。

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2006年1月 9日

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満足にはおしまいがない。

昨日、博物館に行った帰りにおもちゃ屋さんでお年玉を使ってほしいものを買い込んだうちの息子(長男)ですが、もう今日はいろいろ楽しんだからいいでしょう、と思っていたのに、「なんだかつまんない」とのこと。それまでは正月からどこにも行かずに家で遊んでいたはずなのに、楽しいことがあるともっと楽しみたいという欲が生まれるようです。満足というのは満たされると次の段階に向う。マズローでしたっけ、自己実現の欲求に向かう5段階の欲求というのは、モチベーションの本のなかでよく使われる言葉です。

そんなわけで明日みよう、と言っていた「ULTRAMAN」の映画を夜にいっしょに観たのですが、ミュータントとして人間が怪獣に変わっていくシーンなどは、ちょっと子供には怖すぎる。というか刺激が強すぎる映像があり、長男はいいとしても2歳の次男にはあまりみせたくなくて、そのシーンになると2歳の次男には目隠しをしたりしていました。一瞬だけど遠山景織子さんと大澄賢さんのキスシーンなんてものも、なんだかむずむずする。こういうのは子供と見るのは居心地が悪いものですね。

子供も大人も楽しめる映画というのは、なかなか難しいものです。ぼくは大人としてULTRAMANが楽しめたのですが、息子にとっては「怪獣は一匹しか出てこなかったじゃん」という感想でした。怪獣との戦闘シーンも控えめで(しかしCGによる映像はかなりすごい)、若いイケメンが主人公ではなく(といったら失礼だけどハムの別所さんがウルトラマン)、家族があって、さらに子供の頃に銀色の流星のような飛行機をみて空を飛ぶことに憧れていた=パイロットという仕事を選んだ=ULTRAMANになって自ら空を飛べる喜び、などが描かれているこの作品は、ぼくはいい映画だと思ったのですが、子供には伝わりにくい。

では、ヒーローもののように戦闘シーンもあって、子供に観せたい映画は何かというと、ぼくがいままで観たなかでは「アイアンジャイアント」かな、と思いました。実は殺戮が目的で作られた異星のロボットが地上にやってきて少年と出会う。その少年との触れ合い、ロボットの心のなかに生まれた感情などが描かれるわけですが、ぼくはとても感動した。しかしながら、息子に勧めたら断られた。しょぼん。

映画にしてもゲームにしても、戦闘シーンがあるから成長して犯罪をおかすようになる、というのは短絡的であると思います。これは仮想の世界である、現実の世界にきちんと戻れる、という判別さえ教えてあげれば、きっと問題にはならない。そのためには、親が現実世界の安全地帯になること、あたたかい場所を確保して子供たちが帰ってくることができるようにすべきだし、子供が仮想の世界に行って帰ってくることができなくなるような現実を作り出さないようにしなければならない。

残念ながらぼくはガンダムは全然観ていないし、ヒーローや戦隊モノに関するこだわりもありません。むしろこだわりはじめたのは、息子が生まれてからでした。しかし、いまの潮流として、オタクな大人たち、大人になれない大人たちを楽しませるための仕掛けが多すぎるようにも思います。もちろん、大人たちもかつては子供だったわけで、大人のなかにある子供ごころをくすぐるものは、現代の子供たちにとっても面白いものということはある。ただ、郷愁をそそるものが売れるから、ということで量産していくのは、ちょっとどうかなとも思います。

余談ですが、子供ができてよかったのは、子供の頃の自分を追体験できることです。つまり子供の遊びや興味を知ることで、ぼく自身が体験してきた出来事も明確化されるし、子供たちが好むものもわかる。大人は大きな子供であるし、子供はちいさな大人かもしれない。ある境界があって、そこから先は大人、というわけではなくて、子供は大人を内包しているし、大人も子供を内包している。

通常、劇場では子供といっしょに映画を観ることはあっても、自宅ではあまりないのですが、ULTRAMANをいっしょに観てしまって、もっと家でくつろいで子供といっしょに観ることができる映画を、と思ってしまったのでした。

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■アイアンジャイアントでも、さりげなくCGが使われています。CGというのは、実写でもアニメでもない、まったく違う何かを創り出すような気もしました。これ、ピート・タウンゼント(ザ・フー)が総指揮だったのか!

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