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2008年10月12日

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窓を開けて待つ陽光、あるいは風。

起伏の多い人生では、あらゆることが順調なときもあれば後悔することの多い時間もあります。問題なのは後悔ばかりの時期で、あれをやっておけばよかった、とか、あんなこと言わなきゃよかった、とか、やらなかった過去とやってしまった過去でこころが埋め尽くされる。

がらくたのような自意識の残骸。
抜け殻のような時間。

ひたすら耐える冬のような時代です。

そんな状態にあるときには、あらゆるものが精彩を欠いてしまって、見慣れた景色でさえ寂れた辺境に思えてしまいます。

どんな音楽を聴いても耳障りにしか聴こえないし、読みかけの本の活字は途中からばらばらと崩れて意識から剥がれていってしまう。修復が不可能なぐらいに、取り戻しできないぐらいに、静かに日常が壊れている。壊れた断片が日常を構成している。

何かに依存をすれば、少しだけ後悔や辛いことも忘れられるのかもしれません。お酒かもしれないし、クスリかもしれない。あるいは一過性の恋かもしれないし、あたりかまわず対象を選ばずに怒りをぶちまけることも、きっと辛さからの逃げになる。現実から逃げるためには、ぼくらの世界にはいくらでも強い刺激があり、さまざまな手段がある。

けれどもそんなことのいずれもが、いまのぼくにはむなしい。

現在、ぼくはまさに後悔の時代を生きているのだけれど、この寂寥感は、生涯で二度と過ごせないようなすばらしい時間があった、ということに起因しています。仕事の帰りに夜の新宿を駅まで歩きながら、自宅の近くを散歩して取り壊されてなくなってしまった電話ボックスの場所で途方に暮れながら、その時間のことをぼんやりと考えます。

ほんとうにすばらしい日々でした。あらためて思うのは、あれだけ充実した時間はもう過ごせないだろうな、ということです。繰り返しても繰り返しても足りないほどの感謝をしつつ、その楽しさの落差が、いまこうして辛さを生んでいる。楽しさに甘えて、こころにない酷いことを言ってしまったのですが、そのことを後悔しています。言うべきではなかった、と思っています。

行き場のない感情は憎しみに変わり、現状を超えてあるはずのない過剰な批判や蔑みを生み出したり、根拠のない責める言葉を量産したりします。

けれどもマイナスの感情をすべて吐露したあとでさえ、ネガティブな何かを打ち消してしまうほど、すばらしいことがたくさんありました。暗い感情の雨が降ったあとには、陽に照らされた明るい過去が戻ってきた。暗雲に隠されていた光は決して弱まっていなかった。

ありがとう。素直にそう想う気持ちを大事にしつつ、窓を開けて風を部屋のなかに取り込み、光の変化する秋の休日の陽光を楽しんでいます。

怒りや憎しみや蔑みという強い感情は、きっと強いテンションを維持することはできない。少なくとも忘れっぽいぼくには、その恨みを持ち続けることが不可能です。どんなに酷いことがあったとしても、忘れてしまう。

一方で、やさしい気持ちや楽しい気持ちは弱いのですが、弱さであるがゆえに、いつまでもそこにある。

あらゆる後悔が消えて、笑顔ですべてを受け止められるときのために。辛い時間も含めたかけがえのない記憶があるからこそ、いまの自分がある、という未来をつかめるように、後悔から逃げずにいたい。代替されるもので癒すのではなくて、きちんと後悔することが、しあわせな過去にとって誠実であり、未来のためにもなるのではないか、と。

ブラインドの向こうでいま、また陽射しが明るくなりました。秋の天候はくるくると変わりやすく、キンモクセイの香りの成分は大気中の10%ぐらいに減退という感じ。部屋に乱立したビールの缶を片付けるか、不要な本を売りにいこうか、あるいはギターでも弾いてみようか、ぼんやりと考えています。

そんな休日も、少しだけ贅沢です。

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なんとなく今日、聴いてみたのはこのアルバム。辛い気持ちも晴れて、ダウンタウンに繰り出したくなるような。

B000BNM8W4SONGS 30th Anniversary Edition
シュガー・ベイブ
ソニーレコード 2005-12-07

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カテゴリーアーカイブのエントリー数が増えてきたので、複数ページに分割する方法を探していたのですが、文系ブロガーの自分としてはPHP化するのはちょっと勉強不足だったので、マックス・エンヂニアリングさんのブログから「MT4.2: アーカイブ一覧のページ分割を可能にするPaged Archives」の記事を参考に、Paged Archives Pluginで対応してみました。DTMなど「○○カテゴリーに投稿されたすべての記事です。」の下に、分割されたページが表示されるようになりました。5エントリーずつ1ページです。

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エントリー復活履歴

■2008年10月11日
2007年6月24日 通りは光で溢れているか
2007年5月16日 言葉のフィールド・レコーディング。
2007年5月20日 フォーゲット&リメンバー。
2007年5月 2日 ashes and snow。
2007年3月 3日 DTM×掌編小説:リワインド。
2007年3月28日 自然の音を標本に。

[ひとりごと04]
日記を書くようにDTMで曲を創りたいというコンセプトを立てていました。そのときどきに変化する感情を曲として結晶化したいと考えたからです。作品至上主義の立場からすると、刹那的な創作ではなくじっくりと取り組むべきだと思います。当然ぼくもそう考えていたのですが、あえて荒削りなことを重視した。打ち込みに即興的なアプローチ、現実性を導入したかったのかもしれません。

■2008年10月12日
2006年2月 3日 生活知のテクノロジー
2006年2月 5日 感情のエコロジー。
2006年2月 5日 「「脳」整理法」 茂木健一郎

2006年1月 1日 「脳と創造性 「この私」というクオリアへ」 茂木 健一郎
2006年1月 1日 「ひとつ上のアイディア。」眞木準
2006年1月 1日 「幸福論」Alain 神谷 幹夫

[ひとりごと05]
芸能人になってしまう前の茂木健一郎さん、好きだったなあ。科学者ではなかったような印象はありますけどね、当時から。科学を含めた文化の横断的な評論として茂木さんの著作を読んで感涙したし、当時は新書を書き散らかすようなことがなく、しっかり文章を書かれていた気がします。ブログもいまと違って本のプロモーションばかりでなくて、光に溢れた随想が多く、励まされました。

投稿者: birdwing 日時: 11:34 | | トラックバック (0)

2008年10月 9日

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先に立たない後悔だからこそ。

あんなメールを送らなければよかった(泣)・・・はじめたばかりの頃には慎重だったはずなのに、メールによるコミュニケーションは便利なので、慣れてくるとついつい後悔するような送信をしてしまうことがあります。

もちろん仕事ではあらゆることに配慮しているので、誤送信を含めてメールの送信ミスはほとんどありません。宛先も内容も、誤字がないかどうかについても、何度もチェックします。失礼がないかどうか細心の注意を払います。

たまに並列処理で慌しい仕事をしているときに、スクロールしたマウスがつるっと滑って書きかけのメールを送ってしまうこともありますが、それぐらいであればかわいいものです。謝罪のメールを慌てて送っても、忙しかったんですね、ぐらいの恥をかいただけで許される。ところが、プライベートでは気が緩みます。お酒を飲んじゃったりしているときは要注意です。

ぽちっとボタンを押すだけで送信されてしまうメールは、クリック一発でひとを爆笑させて権威を失速させる恥ずかしい文章を晒すこともあれば、大切なひとを傷つける凶器にもなる。送ってしまったメールは取り返しがつきません。時と内容によっては、関係を破壊する核兵器級のミサイル発射ボタンにもなる。親しき仲にも礼儀あり。便利なツールだからこそDangerなわけです。

ブログであれば投稿したエントリーを訂正することは可能であり、公開して後悔したエントリーはさっと下げることもできる。もちろん検索エンジンのキャッシュ(あるいは人的なキャッシュ、要するに記憶)に残る可能性はありますが、それほどアクセスが多くなければお掃除もできる。とはいえ、メールは相手側が削除しなければ完全にテキストとして残ります。

そんなメールによる後悔を防ぐための機能をグーグルが開発したとのこと。

本気なのかジョークなのかわかりませんが、ITmediaの「Google、「真夜中のラブレター」を防ぐ「Mail Goggles」」というニュースを読んで、なるほどなあと思うと同時に、なんとなく苦い気持ちになりました。

多くの人が1度は経験済みであろう「あんなメール、送らなければよかった」と後悔する瞬間。いわゆる「真夜中のラブレター」だ。 米Googleは10月6日、送ったことを後悔するような事態を防ぐための「Mail Goggles」をGmail Labsのツールとして公開した。

深夜にひとりで手紙を書いていると、思いっきりテンションが高くなることがありますよね。ところが朝になって読み直してみると、誰もいないところに隠れてしまいたくなるほど恥ずかしい文章だったりします。深夜のノリで送ってしまうと後悔する。冷却期間を置いて読み直してみることによって、これは心のなかに留めておこう、言わないでもいいや、という大人の判断も可能になります。

しかし、状況によっては判断が鈍るときもあり、そんなときに制止してくれる何かがあると助かる。Mail Gogglesでは、自分の精神状態を判定する機能(笑)もあるようです。

GmailでMail Gogglesを有効にすると、例えば金曜日の夜遅くなどの時間帯に本当にメールを送りたいかどうかを問いただしてくれる。また自分がまともな精神状態かを判定するための、簡単な計算問題が表示される。

簡単な掛け算や引き算が用意されているらしい。なるほどなあと思いました。確かに、かーっと頭に血が登った状態ではクールに計算なんかできないし、きっと間違える。感情をコントロールする手段としても面白いと思いました。感情的になりそうになったら、単純計算をやってみること。

和田秀樹さんの本に書いてあったことだと記憶しているのですが、特定のことを考えつづけると感情のテンションは下がらないそうです。ぐるぐると堂々巡りする感情の無限ループにストップをかけるには、対象外のことに意識を向けることがよいらしい。つまり歩くこと、身の回りを掃除することでもいいわけで、行動によって意識を逸らすことで感情の暴走にストップをかける、というコントロールの手法が述べられていました。

現在は英語版のラボだけで公開されているだけのようですが、Mail Gogglesを使ってみたい気もします。

というよりも後悔してアタマを抱えることが少なくなるように、リアルなぼくらにも発言を留保するそんな機能が実装されているといいですね。

投稿者: birdwing 日時: 00:05 | | トラックバック (0)

2008年10月 5日

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あらためて、継続する意志を。

太鼓と笛の音が聴こえてきたので誘われて外に出てみたところ、お祭りの御神輿でした。どこか近所の神社で秋祭りらしい。

ポケットに手を突っ込んで深呼吸。夕方の空気に漂うのは、ほのかなキンモクセイの匂いです。ぼくはこの秋らしい匂いが大好きです。その気持ちを「朝が待ちきれない」という曲にしたこともありました。空中に拡散する甘いキンモクセイの香りは、ぼくをとてもしあわせな気持ちにしてくれます。懐かしいような、やさしくなれるような。

いろいろと考えることがあり、ブログの更新停止を9月の末に決めたのですが、過去のエントリーを復活させていたところ、書きつづけたいという気持ちが強まりました。

通常であれば一度宣言したものはきちんと守るのがオトコというものであり、有言実行、宣言したことを覆すのはプライドとして許されない、と思います。しかし、ぼくにはプライドも拘りもないので(苦笑)、あっさりと再開することにします。ブログを書きはじめます。

ぼくにとってブログは、日々24時間ある生活のなかでおよそ2時間を費やすものにすぎません。仕事や家族や趣味など忙しい合間をぬって考えたことを、制約のある短い時間のなかで綴っています。ブログがすべて、というわけではない。リアルな生活のなかの氷山の一角にすぎません。

けれども毎日の終わり、日付変更線を越える時間にひとりきりでPCの画面に向かい、ゆったりと考え、ブログで文章を綴る時間はぼくには至福の時間でした。ぼくの生活を豊かにしてくれました。直接的には関係しなくても、間接的にブログの世界がぼくを支えてくれていました。

ブロガーであるBirdWingとぼくは重なりながら、同一のものではありません。小説の作者と実際の人物が異なるのと同じように、ブロガーであるBirdWingはぼくでありながらぼくではない。現実のぼくはさまざまな闇を抱えて地上を犬のように這い、うまくいかない膠着状態に苛立ったりもしている。けれどもブロガーであるBirdWingは突き抜けた光の思考で現実を跳躍し、高く飛んで世界を俯瞰し、力強く明るい言葉で現実を刷新する書き手であってほしい。

その言葉が、偶然にサーチエンジンでぼくのブログに訪れた誰かにとって、少しでも癒しや和やかな気持ちになるものであればしあわせだ、と思っています。そして今回、過去のエントリーを復活させながら思ったことは、そもそもぼく自身がBirdWingの書いた過去のエントリーに元気付けられた、ということでした。

自画自賛のようでもあり、恥ずかしいのでエントリーにしようかどうか迷っていたのですが、ちょっとだけ仕事のエピソードを。

仕事をお願いしていたとある外部協力会社の担当者が9月末で退職されるということを知り、ぼくは電話で労いの言葉をお伝えしたのですが、その後に次のようなメールをいただきました。部分を引用させていただきます(名前はぼくの実名なので○○と伏せました)。

○○さまには、入社当時から大変お世話になり、色々と学ばせていただきました。実は入社当時に○○さまからいただきました、仕事に関するメール(納期や費用についての温かいお言葉)は今でも時折目を通しておりました。 

○○さまとの仕事を通じて、仕事の楽しさと厳しさを教えていただきました。それゆえ、本当に充実して仕事に取り組むことができたと思います。
ご一緒にお仕事ができたことを嬉しく思います。

私の至らなかった点も多々あったのではないかと存じます。
本当にお世話になりました。ありがとうございました。
また、機会がございましたら、是非宜しくお願いいたします。

社交辞令とは思うのですが、実際にこの担当者とは非常に厳しいやりとりをしたこともあり、しかし、その状況下で最善を尽くしてくれたときには絶賛と感謝の気持ちを伝えました。すばらしい仕事をしてくれて、ありがとう、と。また、風邪で体調を崩されているときには、ぼくの方でやりくりをして納期をずらしたこともあったように記憶しています。

そういう状況もあったので、あながち社交辞令とも受け取れなくて、ぼくはしばらくぼーっと感慨に耽ってしまった。こういう仕事ができるパートナーは、それほど多くありません。本音でぶつかり合い、よい仕事をしていくことは、簡単そうでなかなか難しいものです。たいていビジネスライクに割り切ってしまうものです。けれども、きちんとお互いを尊重しつつ成長できるパートナーもいます。仕事に取り組む姿勢によって、そんな風に真摯に関わることができる誰かと出会えるか出会えないかが決まるものかもしれません。

ぼくよりも、この担当者のほうが優れていたのだと思います。年齢はずいぶん下なのですが、しっかりした考え方ができるひとは年齢に関係がないですね。聡明なだけではなくて、感謝の気持ちを伝えるという人間的な基本ができています。とはいえ、ぼくの拙いメールが厳しい仕事のなかで何度も読み返され、この担当者を元気付けていたと考えるとうれしい。たとえビジネス文書であっても、ぼくの言葉が活かされたということを知ることは、しあわせなことです。

ブログでも、こうしたことができればよいとぼくは思っています。ぼく自身の愚痴や暗い闇や欲求不満を解消するための批判的な何かを吐き散らすのではなくて、悩める誰かにエールを送り、闇を照らし、進むべき道のために元気付けてあげる。ときには疲れた気持ちを癒し、やわらげてあげたい。そのためにぼくはエンターテイナー(道化)であっていいと思うし、カウンセラーやセラピストであってもいい。決して権威的にはなりたくありませんが、どこか人生の教師のようでもありたい。

そんなブログを書いていきたいですね。

気持ちが揺れていたのですが、落ち着いてきました。じっくりと時間をかけて書く文章(小説や評論のようなものなど)は別に書くとして、ブログはブログで継続させたい。短気なぼくなのですが、10年間継続するぐらいの気持ちでいます。

朝令暮改で恥ずかしい限りですが、ブログを復活させます。とりあえず、現在読了してしまった箭内道彦さんの「サラリーマン合気道」という本、そして現在読み進めているミシェル・フーコーの「わたしは花火師です」、三島、谷崎、川端の「文章読本」についての考察あたりからはじめてみたいと思っています。

4344015517サラリーマン合気道―「流される」から遠くに行ける
箭内 道彦
幻冬舎 2008-09

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4480091653わたしは花火師です―フーコーは語る (ちくま学芸文庫 フ 12-9)
中山 元
筑摩書房 2008-09-10

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エントリー復活履歴

■2008年10月2日
2004年11月 8日 シンキング・テンプレート
2004年11月25日 統合の動き
2004年11月26日 ブラウザが熱い
2004年11月29日 ブクログ
2004年11月30日 ネットメディア

■2008年10月4 日
2007年7月 3日 梅雨の終わりに間に合うように
2007年7月 7日 [DTM作品] AME-FURU(maybe blue)
2007年7月 9日 理解のためのパースペクティブ。

[ひとりごと01]
あらためて過去のエントリーを復活させながら思ったことは、結構いろんなことをやってきたなーということでした。自分で自分のバイタリティーにびっくりします。ネットコラボで曲を完成させたSheepさんは、音楽以外でも似ている生き方をしているひとだと思いました。だからきっとコラボしようと強く思ったのであり、ものすごい勢いで曲も完成したのでしょう。感謝しています。

2007年4月 6日 本気で変わる。生活を変える。
2007年4月10日 親になるには。
2007年5月 4日 イルカな休日

2005年11月 8日 生の対極にあるのではなく。
2005年11月13日 伝わらなくても、かまわない。
2005年11月17日 集合的な脳。

2007年3月18日 選択のエクササイズ。
2007年3月19日 デザインを通して知る。

■2008年10月5 日
2007年1月12日 思考を動かす。
2007年1月13日 素材から創る
2007年1月14日 「ヒューマン2.0―web新時代の働き方(かもしれない)」渡辺千賀
2007年1月14日 束縛から解かれる。
2007年1月17日 日常の断片、家族のあれこれ。

[ひとりごと02]
三島由紀夫の「文章読本」を読書中。美文だ。眩暈がしました。読んでいてチカラが沸いてくる。一方で自分の過去エントリーを読み進めながら、ぼくがブログで何をしたかったのかをあらためて再考しました。夢から醒めた気分。はやくも前言撤回ですが、ブログをつづけるためにもう少しだけ充電。しばらくは並行して過去エントリーを見直します。

2006年11月29日 左脳的な兄と、右脳的な弟と。

■2008年10月6日
2007年4月 3日 リセット感覚。
2007年4月11日 難しさと原点回帰。
2007年4月16日 ゆっくり醸成する、そして夢。
2007年4月17日 InsightとForesight。
2007年4月18日 いま、ここを起点として。

[ひとりごと03]
帰宅する道すがら、濃厚なキンモクセイの香りに圧倒されました。どうしたものかいつの間にか、キンモクセイの季節です。しあわせだ。癒される。近々引越しをする予定なのですが、新しい家には苗木がほしい。どこで手に入るのでしょう。でも、手に入れなくてもいいかな。香りを頼りに樹木の在り処を探して、うろうろと散策するのも悪くありません。

投稿者: birdwing 日時: 17:52 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年9月27日

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風に吹かれて。

朝のプラットホームで電車を待っているあいだ、目の前にふわふわしたものが飛んできたなと思ったらタンポポの綿毛でした。秋ですね。

一直線にぼくの前を新宿方面に飛んでいくと、線路の上ですっと急にみえなくなった。どうやら線路の下に入ってしまったらしい。そんな場所で芽が出せるのだろうかと、朝の眠たい思考のままぼんやりと心配していたのですが、反対側を通過していく急行電車の突風に煽られてまた飛んでいった。今度は線路の上です。さらに風に吹かれて、行ったりきたりしているうちに、すごい勢いでどこかへ吹き飛ばされていってしまいました。びゅうううう、という具合に。

と、通勤電車の待ち時間に、タンポポの綿毛の飛行をみながら考えたのは、なんとはなしに人生についてのあれこれ、です。

自分の生き方を持つこと、主体的に生きることが重要であると語られることが多いのですが、風にまかせて飛んでいくタンポポのように、運命に身をゆだねてしまう生き方だってある。成り行きで無計画という気がしないでもないけれど、どこへ行くのか予測もつかない生き方は、ある意味、冒険でありスリリングです。

もちろんタンポポと違ってぼくらには意思があるから、ときには風に翻弄されることを疎ましく思うこともあるだろうし、冷たい線路の上に落ちた不遇をなげくことだってある。芽が出せない、花を咲かせることのできない不安や、思い通りにならない未来や、うまくいかない現在にアタマを抱えることもある。そんなに割り切れないものですよね。

でも、飛ばされた先の環境を受けとめながら、しなやかに生きていくことができたら、しあわせではないでしょうか。運命をはじめ、時代であるとか社会であるとか、自分の不遇をあらゆるもののせいにしていたらきりがありません。いま楽しめるはずの現実さえみえなくなってしまう。

ゆるすこと。漢字にすると、赦す、という文字かな。その言葉をいま、ぼくはとても大切に考えています。当然、ゆるせ!と誰かに強要するつもりはないし、共感を促すものでもありません。個人的にあれこれと考えて、さまざまなことを悩んでいくなかで、その言葉に辿りつきました。

運命に翻弄されて不遇に着地した自分をゆるす。ゆるしがたい感情で自分をなじる誰かをゆるす。うまくいかない仕事をゆるす。重くのしかかってくる人生の負荷をゆるす。で、どうするか。これはもう、生きていくしかないですね。あらゆる現実をゆるしながら。

過剰に前向きである必要はないし、頑張らなくてもいい。けれども、凹む必要はないし自分を卑下しなくていい。ときには愚痴をいってもかまわないし、めちゃめちゃ壊れてもいい。完全な自分である必要はないのだから、誰かとの関わりのなかで迷惑をかけたりかけられたりもあっていい。それでも、少しだけ長期的な視点からあらゆることをゆるして、現実を調和あるいは維持できたなら落ち着いて余裕のある気分で暮らしていけそうな気がします。

風まかせ、といっても、あらゆることに流されるのではなく、自分であることの核については忘れないでいたいですね。タンポポがふたばになって、やがてちいさな黄色い花を咲かせたとしても、綿毛であった頃の自分を忘れない、という感じ。不遇な環境に着地して根付いたとしても、空を飛んで風に乗っていた自分を内包しつつ、誰にも気付かない場所で花を咲かせていたい。

さて、「風に吹かれて」というタイトルで思い出すのは、ボブ・ディランの曲です。YouTubeから引用しようと思うのですが、コーラスのきれいなPPMの演奏を取り上げてみます。モノクロの映像も好みです。

■Blowing The Wind - Peter, Paul and Mary

ついでに英語の歌詞を引用しつつ(若干PPMの歌と違うのですが)、勝手に1番と3番を自分で訳してみます。英語力はないので、文法的な部分はよくわかりません。適当に意訳、ということで。

How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
Yes, 'n' how many seas must a white dove sail
Before she sleeps in the sand?
Yes, 'n' how many times must the cannon balls fly
Before they're forever banned?
The answer, my friend, is blowin' in the wind,
The answer is blowin' in the wind.

どれぐらい
道をあるいたら
あなたに認められるひとになれるのだろう

いくつの
海を越えたら
白い鳩は砂のうえでやすらいで
眠れるのだろう

争いの砲弾の雨がいくつ降り注げば
闘いは永遠に終わるのだろう

ねえ、きみ
その答えは風に吹かれている
風のなかにある

How many times must a man look up
Before he can see the sky?
Yes, 'n' how many ears must one man have
Before he can hear people cry?
Yes, 'n' how many deaths will it take till he knows
That too many people have died?
The answer, my friend, is blowin' in the wind,
The answer is blowin' in the wind.

青空がみえるようになるには
どれぐらいの時間
見上げていればいい?

ひとびとのかなしみを
聴き取るためには
いくつの耳を持てばいいのだろう

どれだけのひとを傷つけて
死に追いやったなら
もう諍いはたくさんだとわかるのか

ねえ、きみ
その答えは風に吹かれている
風のなかにある

風に吹かれた答えは、まだみつかっていません。

投稿者: birdwing 日時: 12:02 | | トラックバック (0)

2008年7月19日

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いまを生きる。

手垢のついたような言葉でもあり、あえていまさら言う必要もないかもしれないと思ったのですが、阪本啓一さんの「ゆるみ力」とリチャード・カールソンさんの「小さいことにくよくよするな!」を読みながら感じたのは、いまを大切にすることの重要性でした。

過去は過ぎてしまってここにはないし、未来もまだ来ないのでここにはない。楽しかったことであっても辛かったことであっても、過去の幻想に囚われすぎると現在のしあわせに気付かないし、未来の理想にこだわりすぎても、やはり理想と現実のギャップに凹むことになります。

いまここにあることを大切にして、いまできることを最大限にしていくことが大切ではないか。あれやらなきゃよかったなと思っても、やっちゃったことは取り返しがつかない。また、あとでやろう、あとで書こうと思うと、たいていやらなかったり書かなかったりするものです。であれば、やらなきゃよかったなと思うようなことをしなければよいし、やりたいと思ったことをすぐに着手すればいい。・・・という簡単なことができないから困るのですが(苦笑)。

阪本啓一さんの「ゆるみ力」では、冒頭でマイアミに旅行した際、帰りのチケットを購入した航空会社が倒産したというご自身の実際のエピソードを引用しながら、そのトラブルから学んだ教訓を述べられています。

4532260078ゆるみ力 (日経プレミアシリーズ 7)
阪本 啓一
日本経済新聞出版社 2008-06

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すなわち、旅行中はネットなどで情報を入手せずにシャットアウトしておいたことがよかった、知らなくてよかった。なぜならもし帰りの航空券が使えないことを知ったらマイアミで休暇を楽しむことができなかったから、とのこと。そして、次のようにまとめられています(P.17)。

どこか遠い未来ではなく、過ぎ去ってしまった過去でもない。「ゆるめない」理由はひとえに、「心ここにあらず」が原因だ。せっかく心が今・ここにあるというのに、見えない未来、あるいは過ぎちゃった過去へと心を「送信」してしまう。心は今・ここではないとゆるめない性質を持っている。今・ここ以外に送信されてしまうと、固まる。これが「ゆるみを固くする」原因だ。

逆説的かもしれませんが、ぼくは次のようなことを考えました。人間も動物である以上、油断をみせることは外敵に襲われる隙をつくることであり、外界からの攻撃を恐れて身体が緊張する。いま・ここにない過去や未来に想いを馳せて、心ここにあらずの状態を作ることは、身体的には外敵の攻撃を受けやすい状態にあり、無意識的に危険を察知して(というよりも原始的な動物としての恐れが発動して)身体が攻撃に備えた状態になる。だから実は安心できないのではないか、と。

むしろ問題を直視して、現実をしっかりと受け止めて、そのための行動を起こしたほうが、逆に安心できる。やらなきゃならない問題は、取り組んでしまったほうが安心できるし、行かなきゃならない場所には行っておいたほうが安心する。やらなきゃ、行かなきゃ、と思いつつ行動しない状態が不安を呼ぶ。

情報も同じかもしれません。多くの情報は2次情報です。誰かの語った言葉であり、誰かが加工した現実といえます。それは自分の体験ではないし、自分の現実ではない。その現実に一喜一憂することは、過去や未来のように「ここにない」何かに不安になる状態と同じ。もし安心したいのであれば、自分でその場所へ行き、ひとから話を聞き、体験してみる。自分ではない誰かはそう思ったかもしれないけれど、自分はそうは思わないな、ということもきっとあるはずです。

リチャード・カールソンさんの「小さいことにくよくよするな!」からは、次のフレーズを引用してみます(P.20)。

頭で悩みごとの雪だるまを作らない。
Be Aware of the Snowball Effect of Your Thinking
マイナス思考や不安のタネというものは、勝手に膨らんでいく。
「思考の攻撃」には終りがないし、
悩みや不安で頭がいっぱいのとき、心が穏やかになれるはずもない。
真夜中ふと、「明日やるべきこと」が浮かび、忙しくて死にそうだと思ったら、
「ああ、またやっているよ」と自分に言いきかせ
つぼみのうちに摘み取ること。

そして、やはり次のことを心に留めておこうと思います(P.30)。

いま、この瞬間を生きる。
Learn to Live in the Present Moment
明日起きるかどうかわからないことは関係ない。
あなたが生きているのは
いまこの瞬間なのだ――いつも!

Irrespective of what may or may not happen tomorrow.
the present moment is where you are - always!

投稿者: birdwing 日時: 23:18 | | トラックバック (0)