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2008年6月 3日

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節約から学ぶこと。

思い立ったが吉日ということで、節約をしようと思い立ってみました。しかしながら、たいてい思いつきの行動はつづいた例がありません。閃くのは簡単だけれど、重要なことは閃きをきちんと行動に移すこと、かつ持続することでしょう。3日ボウズなわたくしは忍耐力に欠けます。とはいえ、節約はなんとなくつづけるつもりでいます。使いたい目的もあるので。

具体的には1日1000円で過ごそう、というわけで1万円札をくずして1日1枚(自分で自分に)渡す配給制にしているわけですが、ひとによっては贅沢だ、と思うかもしれないし、足りない、と思うかもしれません。どうなんでしょう。

というわけで、世の中のおとーさんのお小遣い事情がわからないので調べてみたところ、GE Money Japanというところで「2008年サラリーマンの小遣い調査」という調査をしていました。2005年から4年間トレンドを追っているようですが、その2008年版をチェック。今年の4月にサラリーマン500人に対して調査したようです。サマリーを抜粋すると以下のようになります。

◆ サラリーマンの平均小遣い額は上昇傾向に歯止め。2008年は、4年ぶりに前年比マイナス2,500円の46,300円に
◆ 51.4%が昇給あり。8割近くが「小遣い額に変化なし」。「小遣いアップ」は約1割と少数だが、その約半数が1万円以上の大幅アップ
◆ 理想の小遣い額は、「現実」プラス2.5万円の71,600円
◆ 昼食代は平均570円、昨年の590円から20円ダウン!
◆ 外食回数は、平均3.8回と昨年並み。1回の飲み代は約4,700円で、300円アップ!
◆ 物価上昇分は外食費を削ることで吸収
◆ 4割以上の人が、小遣いの使い道として外せないものは「昼食代」と「趣味の費用」と回答
◆ 家計の主導権は全体で6割が「自分」。既婚者では「妻」が6割と逆転
◆ サラリーマンの不安、第1位は「自分の将来設計」、2位「老後」、3位「会社の将来」
◆ 全体の9割が格差を感じている。「年収」や「自由になるお金」を比較した時に格差を実感
◆ 心身の健康のために「趣味で気分転換する」
◆ 2人に1人が資産運用。目的は、約6割の人が「今の生活をより充実させるため」
◆ 子どもへの金銭教育を実施しているのは約3割。約半分の人たちが、「必要だと思うが行っていない」
◆ 8割以上の人が、クレジットカードで決済。5人に1人が1,000円未満から手軽に利用

ううむ。さすがに共感するというか、よくわかる。しかしながら、昼食代平均570円は安いですね。東京も場所によると思うのですが、ぼくが外食した場合には800円が平均という気がします。そんなわけで外でランチを食べて、ちょっとお茶でもしようかと思うと1000円ぐらいはあっという間に消えていく。ぼくはタバコを吸わないのですが、喫煙したらもっとお金はかかりそうです。

上記のページには1979年から2008年までのサラリーマンのお小遣いの推移もあって、なかなか悲哀をそそるのですが、90年のバブル期には小遣いの平均額は76,000円だったようです。理想の小遣い額が71,600円なので、おとーさんたちはバブルの夢をまだ追っているのかもしれないですね。

というわけで、節約生活をはじめてみたのですが、なんとなくがらりと視界がかわったというか、目からウロコが落ちたというか、新鮮でした。

まずですね、ご飯やコーヒーがうまい。特にコーヒーは、そもそも会社の給湯室で自分で入れればよいのだけれど、ぼくはわざわざコンビ二や車内の自動販売機で缶コーヒーを頻繁に買うので(気晴らしに歩く意味もある)、この数が制限されると、1杯1杯をありがたく飲むようになります(笑)。これはきっと、戦場で一本のタバコをうまそうにのむ感覚に近いかもしれません。ありがてえ、うまいぜ、コーヒー、じゃ戦ってくるからな、あばよ、という。

そして、余計な糖分を取らないせいか、身体が妙に健康です。忙しくて疲れていることはあるのだけれど、なんとなく身体が軽い。というか、ストイックな気持ちが身体を健全にしてくれているのかもしれません。

節約ひとつでこんなに世界が変わるのかーと、ちょっと驚いています。というか、ぼくはいままで無駄が多すぎたんですよね。ほんとジャンクな生活で欲望の赴くままに飲食し、CDや書籍を購入していたので。だからきっと生活の落差が大きい。とはいえ、その不健全さが自分らしさのような気もするので、気がつくとやーめた、ということになっているかもしれないですが。

あらためて反省もしています。仕事が佳境なときなど、深夜に疲れてコンビ二に立ち寄り、蕎麦やらおにぎりやらビールやらポテチやらをしこたま買い込んで帰宅し、夜中に遅い夕食(あるいはものすごく早い朝食)を食べることも多い。しかし買い込んだわりに食べられなくて残してしまい、明け方に包装されたままのおにぎりをそのまま捨ててしまうこともあったんですよね。

感覚が麻痺していた、と思いました。世界のどこかでは飢えに苦しんでいるひともいるのに、これはいったいどうしたことか、と。

飽食のあまりに思い上がっていないか、と。田舎のばーちゃんであれば、もったいないから食え、お百姓さんに申し訳ない、とひっぱたかれる。まあ、賞味期限1年ぐらい過ぎていても、これは食べれると主張するばーちゃん(というか、ぼくの母)には困ったものですが、食べ物を粗末にしてはいけません。

などということを考えていて、どうしても連想して考えてしまったのが、ニュースで大きく取り上げられていた船場吉兆の問題でした。

偽装や残飯を使いまわしていたことは許されないことではあるのだけれど、ちょっと箸をつけただけで残すようなお客もどうか、と思った。もちろんすべての客がそうではなかったでしょう。ただ、自分も含めて、あるいは自分の息子たちもみていて、豊かさのあまりに食を軽んじていることも多いと思います。8割がた茶碗にご飯が残っているのに、子供たちは、ごちそーさまーと言うときもある。お米のひとつぶひとつぶをきちんと食べなさい、とぼくは親から言われたような気がするのですが、なんとなくいいか、と思ってしまう。時代は変わった、のでしょうか。いいのかな、それで。

使いまわし=リサイクル、という安易な構図もどうかとは思うけれど、もったいない、という感覚は大事な気がするんですよね。しあわせなことにぼくらは飢餓の状態に直面することはありません。でも、意識的に節約というハングリーな状態を自分に課してみて思うのは、ぼくらの生活は予想以上に豊かであり、ありがたいものである、ということでした。

当たり前のように豊かである現代では、当たり前のありがたさに気付かない。実は突拍子もない素敵なことよりも、当たり前のありがたさに気付くほうが難しい気がします。たとえば、大気のように漂っているしあわせ。あまりにも淡くて日常的であるからこそ、そのありがたさに気付かないものです。失ってしまったときに、はじめて気付くものかもしれません。

悲惨なくらいストイックになっても仕方ないけれど、豊かな時代だからこそ節約を楽しむというライフスタイルもありではないか、と思いました。とはいえ、亡者のように節約至上主義にはなりたくないですけどね。趣味や大事なことにはとことん投資する、そんなひとでありたいです。貯めたお金は墓場に持っていいくわけはできなので。

投稿者: birdwing 日時: 23:27 | | トラックバック (0)

2008年5月22日

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そして光のなかへ。

喘息というか風邪のせいか今週の次男くんは夜中に咳き込むことが多かったのですが、2日お休みをもらって今日は幼稚園の遠足でした。とんでもない快晴にめぐまれました。休んでいた彼はこの暑さに大丈夫なのか?と心配になるくらいに。空も青い。

遠足の場所は新宿御苑と聞き、どうしようか・・・と悩んだのですが、仕事場から近いこともあり、ちょっと偵察に。ほんとうは幼稚園から禁じられているようなのだけれど、お昼休みの1時間を使って園内に入ってみました(入園料200円)。

庭園風の池がある場所を抜けると、子供たちの声がする。森のような暗い場所を抜けたとたんに、広い芝生が広がって、ぱあっと辺り一面が光で溢れました。さすが遠足日和、小学生や保育園やら、いくつかの学校から公園に来ているようで、あたりをつけた園児はうちの子供の幼稚園ではありませんでした。

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けれどもうろうろと歩き回っているうちに発見。どうやら、木陰でランチ中のようでした。不思議なもので、たくさんの子供たちのなかで自分の子供はみつけられるものですね。とはいえ、一度、ぜんぜん知らない子供が自分ちの子供だと間違えてしまったけれど。

そのうちに昼食が終わったのか、子供たちは遊びはじめました。ものすごく広い芝生を走る、走る。

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お、おいおい。そんなに走ったら喘息が(おろおろ)。と、おとーさんの言葉は遠くて届かない。でも、次男くんは心配そうに見守るこちらに気付いて控え目に手を挙げてくれたりした。はぁ、息子ながらちょっときゅんとした(笑)。

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遠いなあ、もっと近づいて写真撮りたいなあ、と思ってカメラを構えていたら、前傾姿勢でこちらへダッシュしてくる老女が。

ええと、失礼なんだけど、副園長先生でした。しまった、変質者かと思われたか?と一瞬逃げようとしたのだけれど、このしあわせな公園で不毛なチェイスが始まってしまいそうで諦めていると、「心配ですか?心配ですね?でも元気ですから、大丈夫ですよう!」と声をかけられました。「はあ、あのあのあの○○(息子の名前)の父です。ええと、2日寝込んでいたもので、ちょっと心配しまして。会社も近かったもので。でも大丈夫なのですね。はいはい。はい、さいならー(しどろもどろ)」と父は変な汗をかいて退散。あー恥ずかしかった。

上着を脱いで息子から離れると、芝生の反対側にはバラが美しく咲いていました。一眼レフのカメラで撮るおじいさんとか、絵筆を握るおじいさんとか、みんなで集合写真を撮るおばあさんとか(老人ばっかり。でもなくて、若い写真家風のひともいた)、なかなかにぎわっていました。

いちばん大切なひとに、このバラを贈りたいな、などと考えながらぼくもスナップ。摘んだら叱られますけどね(苦笑)。なので、写真の花束です。

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ちなみにバラの花言葉はこんな感じ

(赤)「愛情」「模範」「貞節」「情熱」
(黄)「嫉妬」「不貞」
(白)「尊敬」「私はあなたにふさわしい」
(ピンク)「上品」「愛を持つ」「しとやか」
(朱赤)「愛情」
(薄オレンジ)「無邪気」「さわやか」

うーむ、黄色はどうかと思う。でも、どちらかというと嫉妬深いぼくには黄色が相応しかったりして(苦笑)。実は長男くんも黄色好きで、学生の頃にはぼくも黄色が好きでした。黄色のカーディガンなんか着ている女性は、いいなと思います。菜の花の色かもしれない。

気が付くと時間が押していて、昼食の時間がない。そこで、御苑の売店所でサンドイッチ(500円)を買って3分で胃のなかにねじ込みました。

ほんとうは上半身裸になって、日光浴でもしたかったんだけど、公園内でぼくはずっとスーツ。公園にスーツは似合わないですね、ほんと。

+++++

さて、なんとなく決意表明を(笑)。

ブログを書こう、書き続けていこう、とあらためて思っています。読者数やコメントであるとか、アクセスはあまり気にせずに自分の書きたいことを綴っていきたい。

エントリーとしてアウトプットするためにはインプットも必要です。最近は感想もおざなりになっているのだけれど、音楽や本や映画を引きつづき摂取していきたい。いろんなひとの意見を参考するのも大事ですが、自分の審美眼を大切にするつもりです。流されるのではなく、自分がこれはと思う作品(本であっても音楽であっても映画であっても)を、ピックアップしよう。

そして、趣味のDTMでは、大勢のひとに聴いてもらわなくてもかまわないから、自分の人生で納得のいく曲を創りたい。何曲もなくていい。1曲だけ残すことができれば十分です。

なんとなく最近、ブログを書くのを躊躇していたんですよね。何に躊躇していたのか、よくわかりませんが(苦笑)。いろんなものをシャットアウトして、ただひたすら闇のなかに光を見出そうとしていた。

もちろんぼくは光を見出しているのだけれど、ぼく自身がもっと光に溢れていなければ、誰かに輝きを与えることもできない。辛いこともあって、ひたすら歩いてしまうわたくし(困惑)ですが、光を与えてあげたい。誰かのために、まずは自分が輝かなくては。暗闇のなかに閉じこもっているのではなくて。そんなことを闇のなかから考えました。

投稿者: birdwing 日時: 23:40 | | トラックバック (0)

2008年5月20日

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無音の闇、騒音の闇。

健康のためだけではないのだけれど、雨降りとくたびれた日以外は新宿御苑のあたりを歩いて帰っています。たいていiPodで音楽を聴きながら歩くことが多い。アルバムをひととおり聴くこともあれば、自分の作った曲を1曲のみを延々とリピートさせて、あーだこーだ改良のアイディアを思い巡らせながら考えながら帰ることもあります。

今日はなんとなく音楽を聴く気持ちになれずに、イヤホンを外して帰りました。気持ちが塞いでいたせいかもしれません。どうせ音楽を聴かないのなら、街の音でも聞きながら帰るか、と思ったのだけれど、聞こえてくるのは自転車のブレーキの軋む音とか、トラックの汚れた排気音とか、けたたましいおばさんの笑い声とか、急に鳴り響く救急車とパトカーのサイレントとか、そんなものばかりでした。なんとなくめげた。

といっても、思考に支配されていると音も聞こえなくなるものです。周囲はさまざまなノイズで溢れているのにもかかわらず、聴覚にブラインドをおろすように、何も聞こえなくなる。騒音に包まれながら、無音の闇が広がっている。イヤホンと大音量の音楽で耳を塞がなくても、ぼくらの意識は外界の音をシャットアウトすることができるみたいですね。それが・・・楽しいことばかりではないのだけれど。

無音の闇のなかをただひたすら歩み続けていると、新宿御苑のあたりでは、ふいに草いきれのようなむっとする匂いに包まれました。低圧ナトリウムランプというのでしょうか、オレンジ色の街灯が暗い御苑の木々を照らしている。そして、顔を上げると新宿の副都心のビルが眩しい。

新宿の丸井CITY-1、バルト9というシネマコンプレックス(映画館)が入っているビルの裏側、目の前に新宿高校がある場所がなんとなく好きで、わざわざこの場所を経由して歩くこともあります。映画の待ち合わせか、ここで電話をかけているひとも多い。ずいぶん前に携帯電話のカメラでスナップしてみたことがありました。その写真です。

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この前は、歩道がちょっと広めになっている。壁面に照明が取り付けられたこの建物を眺めていると、なんとなく落ち着きます。

壁面といえば、マイクロソフトがTouchWallというプロトタイプを先日披露しました。ブログでマルチタッチスクリーンによる「Surface」を「指で触れる、操る。」というエントリーで取り上げたこともあったのだけれど(といっても薄っぺらな表面的な把握ですけれど)、壁面全体をタッチスクリーンにしてしまうような技術です。Plexというソフトウェアによって、赤外線で位置情報を認識して操作できる。

TechCrunchの記事にYouTubeの動画が掲載されていたので、その動画を。

TouchWallが実用化されると、たぶんバルト9の下あたりは、映画の検索やトレイラーをインタラクティブに操作しながら見ることができる“壁”が登場するかもしれませんね。いま壁は壁でしかない、というか壁は建物の一部なのだけれど、壁が情報端末になる。

そんな未来を妄想しながら新宿駅のほうへ、とぼとぼと歩いていったのだけれど、雑踏で人が増えて路上で楽器を演奏するひとの音などが聞こえながらも、ぼくの耳は無音の状態というか、ノイズキャンセラーを利かせたように静かなのでした。あるいはいろんな思考が音を奪っていたのかもしれない。

騒音なら耳を塞げば大丈夫です。けれども問題なのは、内なる音に耳を塞ぐことかもしれない。自分の内側でなっているさまざまな悪しき言葉、しゃがれて嗤うような声、肌を粒だてるような不快な音に耳を塞ぐのは、なかなか難しい。そんな音をやり過ごすためには、ぼくはただ歩くしかない。歩いて、身体を動かすことで音に向かう心をそらす。

けれども、どんな闇にも光が当たるときが来るものであり、夜が明ければ朝になります。闇があるからこそ光は眩しく感じられるのだし、夜の静けさがあるからこそ、さわやかな朝に心も打たれる。どちらかに傾倒するのではなく、闇と光の両方を受け止めることが大事なのかもしれません。無理に笑ったり、無理に悲しむのではなく、ありのままに。

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)

2008年4月15日

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ポータブルな知。

小説を読むことが少なくなりました。物語に没頭することが少なくなったような気がします。気分の問題なのか、それともネットに接することが多くなった時代(自分?)の問題なのか。あるいは年齢かもしれないし、そもそも読みたくなるような物語がないのかもしれません。といっても本を読んでいないわけではなく、そこそこ読んでいます。では何を読んでいるかというと、新書です。通勤時に持ち歩く本は文庫よりも新書であることが多くなりました。

どうやら新書ブームらしい。出版業界は低迷していると言われていますが、確かに新書はたくさん出ています。新書はタイトルだけ眺めてもキャッチーであり、興味を惹く内容が多く、それほど厚くないので手軽に読める。文庫に比べたら少しだけ割高だけれど、なんとなく購入しやすい。内容によっては、深い教養や知識を与えてくれるものもあります。好奇心のきっかけを作ってくれることもある。

新書とはなんだろうか、と考えてみたのですが、持ち歩ける知(ポータブルな知)ではないか、と考えました。

持ち歩くためには、軽くなくてはいけない。物理的な重量として軽いだけでなく、内容が軽いこともポイントです。この軽さがカル(=軽)チャーであるなどと数年前に使い古されたキャッチコピーというかおじさんの戯言が思い浮かびましたが(苦笑)、へヴィな内容のものは朝もしくは疲れ果てた帰りの電車で読むには辛すぎる。要約(圧縮)されていたり、いっそのことウワズミだったり、断片だけ抽出したり、かいつまんで読んでも理解できたり、そのまま誰かに読んだ内容を話せるようなものがいい。

茂木健一郎さんの「思考の補助線」という本を読んでいるということを先日も書いたのですが、茂木さんも最近は新書が多いですね。

「クオリア降臨」「脳と仮想」「脳と創造性」のハードカバーによるごつごつした文章で、ぼくは茂木さんのファンになったのだけれど、茂木さんの著作の第一印象は読みにくいということでした。それでも読み進めていくうちに茂木さんの思考のうねりを感じ取れるようになり、生きざまに打たれて思わず読後に涙を流したことがあった。貴重な経験でした。

小説を読んで泣くことはあっても、評論や哲学のような本を読んで感涙したことはなかった。そんなわけで茂木さんのファンになったわけですが、最近多発している新書の軽さはいかがなものか。ただ、茂木さんご自身もジレンマを抱えているようです。後半をぺらぺらとめくっていたら、まさに新書に言及していたところがあったので引用します(P.106)。

時は流れ、もはや売れる本が薄味であるという事実に対して誰も驚かなくなった。折からの「新書ブーム」で、以前ならば単行本で出版されていたはずの内容や、一昔前にはレベル的には新書に成りえなかったであろうと思われる原稿が、「再定義」された「新書」のフォーマットで大量生産されている。

時代に絡めとられながら、茂木さんも憤りと申し訳なさを感じているようです。商品として大量生産され、売れるためにカルさというフォーマットのなかで自分の知を発信しなければならない。嫌だなと思っていてもそんな時代やマーケティングに流されることに対する苛立ちや不甲斐なさのようです。時代に絡めとられる表現者としての思いを次のように語られています。

かくなる私も、そのような思いがないわけではない。内心、忸怩たるものがあることは否めない。誰もいない夜に、突然、うぁーっと叫びたくなることもある。カントや、ヘーゲルや、アインシュタイン、夏目漱石のような先人に対して申し訳なく思う。

この軽さはブログ文化の影響もあるのではないか、と思いました。

そもそもブログは文芸のジャンルに当てはめると何か、などということもとめどなく思いを巡らせていたのですが、エッセイもしくはコラムに近い気がします。小説ではない。詩でもないですよね(たまに詩的なブログもありますけど)。もちろん論評のようなブログもあります。社会批判もある。けれどもそこには物語性よりも、架空半分リアル半分の個人の考えや生活が反映されていることが多い。ちょっとだけ薀蓄を語ったり、引用したりしながら、軽く読めてしまうものが多い。

ブログは表現者に門戸を開きました。ああ、ぼくにも書けるんだ、書いていいんだ、ということは、ものすごい革新的なことでした。ただそのことによって生まれた一億総表現者時代というものが、プロの書き手の領域を侵食している気がします。もちろんぼくはその表現者の革命を歓迎するのだけれど、その一方で、やはりプロの書き手には一般のぼくらには到底かけないような文章を書いてほしいと願う。まさにブログそのままの文体で新書になっているような本もありますが、正直なところ金を払って読むようなものではないですね。そのレベルの文章であれば、ブログでタダで十分に読める。

ところでちょっと視点を変えます。持ち歩くためには、小型化、軽量化が重要なポイントになります。

ソニーのウォークマンの登場により、音楽を持ち歩くというスタイルが生まれたことは革新的なことだったと思うのですが、その後、ガジェットと呼ばれるさまざまな情報機器は小型化する傾向にあり、いま電話を持ち歩くこともできれば、ワンセグによってテレビを持ち歩くこともできる。あるいは、ゲーム機だって持ち歩けるし、そもそもノートPCや携帯電話でインターネットを持ち歩くこともできるようになりました。

しかし、そのためには機能を制限したり、動画や音声を圧縮する必要があります。音楽のmp3は圧縮技術のひとつといえますが、やはりWAVEなどのファイルに比べると音質は損なわれる。音質は損なわれるけれども、持ち歩くことを最優先にしたわけです。

新書文化というのは、それこそ持ち歩くために知を軽くしているわけですが、持ち歩けない知、重い知というのもあっていいのではないか。というよりもそもそも知はそういうものであって、簡単に持ち歩けてはいけない。圧縮されたmp3のようなぺらぺらな音を楽しむのではなく、どっしりとしたスピーカーで原音を楽しむような知もあっていい。

と、ここでさらにころころと視点を転換するのですが(苦笑)、一方でぼくは音楽でいうとポップスを信奉しています。クラシックやジャズなどのエッセンスをうまく使って、気軽に聴ける音楽にだって素晴らしさはある。軽いから軽視されるものかというとそんなことはなく、難解な音楽を凌駕するような感動や、まっすぐに生きる想いや、生活に潤いを与えてくれるようなポップスもあります。たとえばぼくにとっては、ロジャー・二コルスの音楽などがそうなのですが。

ポータブルな知をきっかけにもっと重い知に挑戦してもいい。あるいはファッショナブルに、ポータブルな知だけをまとってみるのもいい。

ただし、とても大切なことは、ぼくはその軽さを蔑んだり一方的に批判したり、意識から排除するような人間にはならないようにしたいと思いました。重ければいいってものではありません。カルさのなかに、ゆるさのなかにぼくらを癒してくれるものもある。どんなものであれ世のなかに存在している以上、その存在には意義がある。もちろんその意義を理解できないこともあるけれど、異質なものを理解するスタンスでいたい。

実はぼくは最初、このエントリーで全面的に新書のような軽い知を批判する文章を書いていたのですが、ネットを通じてその誤りに気付かせてくれる文章に出会いました。そこで目が覚めた。

多様性に目を開いていたいと思います。余裕がないと、ひとつの側面しかみられなくなるのだけれど、世界はいろんな側面から成り立っている。だからすばらしいんですよね、ぼくらの住む世界は。

というわけでぼくの鞄のなかには、今日も新書が入っています。難解なビジネス書だったり哲学書のハードカバーが入っていることもあるけどね。

投稿者: birdwing 日時: 23:58 | | トラックバック (0)

2008年4月11日

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優柔不断という選択。

通勤電車のなかで座ることができてほっとしていると、乗っていた電車は、駅に入りきらないおかしな場所で停車。どうしたんだろうなと訝しがっていたところ、緊急停車の合図があって停めたというアナウンスが入りました。

最初は、なんとかをなんとかせずの合図が出ているため電車を緊急停止いたしました・・・のような業務用語らしきアナウンスが流れていたのですが、聞き取りにくく理解できませんでした。その後、慌しいノイズ混じりで、「社内がいちばん安全です。しばらくお待ちください」を何度か繰り返したあとで、隣りの駅で人身事故が起きたことが伝えられました。

隣りの駅って・・・。ぼくが通う路線では、都内の隣りの駅は歩いても30分かからない場所にあります。というか、この駅のプラットホームから隣りの駅が見えたはず。しばらくぼんやりしていると、現在、救出作業をしていて、電車の発車時刻は30分後とのこと。

ぱたぱたと携帯電話を開く人が増えて(というよりも、そうではなくても電車の車内では携帯電話を使っているひとが多い)、入学式に遅れることを告げる母親などもいました。新品のランドセルを背負った女の子は、ちょっとかわいそう。ぼくも携帯メールで打ち合わせ先のお客様に遅れる連絡を入れたのですが、「人身事故で」と理由を打ったときになんだか滅入った。

電車のなかの楽しみがいくつかあるのだけれど(携帯電話を使ったあれこれ、本を読む、音楽を聴く、そして・・・眠る)、そのいずれもやる気が起きずに、放心しているばかり。

電車の窓からは青空がみえました。昨日は冷たい雨が降っていたのに、今日は雲の流れが早くて日差しが零れる。その後、打ち合わせが終わって撮影した今日の青空をスクラップしておきます。

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それにしても、なぜこんなに天気のいい日に電車に飛び込んでしまおうと思うのでしょう。いや、こんなきれいな青空だからこそ、かなしみが深まるというか日常からの手が緩まるというか、もういいかな、というふらっと気が抜けることがあるのかもしれません。その気持ちは、わからないでもない。明るすぎる風景が逆に耐えられない思いを募らせることがあります。なんだか切ない。

亡くなった方のご冥福をお祈りしながら、それでも考えずにいられないのは、

なぜ、いつかは終わってしまう生を、自らの手で終えてしまうのか

ということです。ちょっとヘヴィなテーマに入ってしまいました。けれども少し考えてみたいと思います。

ぼくらの生には限りがあります。永遠に20代でいられることもできなければ、楽しい時間ばかりを持続することもできない。辛いこともたくさんあります。こんな辛さには耐えられない、いっそのこと終わらせてしまえばすっきりするだろうと考えて、つながっている線を断ち切るための決断に迷うことも多い。

続けるか/終わらせるか、というぎりぎりのエッジに佇んでいると、それだけで精神は消耗し、疲弊していきます。本来の問題よりも決断のために力が奪われて、それだけで疲れ果てていく。かつては耐えられていたとしても、どんどん自分のほうが弱くなる。辛さの度合いは変わらなかったとしても、自分の方が弱ってしまうので、ちょっとしたことで、もういいかとリアルから手を放してしまう。辛さや痛みが大きければ大きいほど、終わらせる側へ転がり落ちる可能性は高くなるものです。

もちろん終わらせてしまうことが潔い場合もあります。終わらせてしまったことで、新しい何かがはじまることもある。また、尊い状態や美しい状態を守ることもできます。もっと酷い状態になる前に、手を打つこともできるわけです。学校であるとか、仕事であるとか、さまざまな人間関係とか、潔い決断が求められることは確かに多い。

ただ、生という問題に限ってはどうなのか。

生を閉じるための選択は、勇気がいるものかもしれません。しかしながら、ぼくは保留をすることも勇気が必要ではないかと考えました。

選択自体を保留にして、現状維持のままにする。ものわかりのよさを捨てて割り切った答えを出さずに、複雑な人生を曖昧なまま生きてみる。というよりも、優柔不断になってしまう。

迷っている状態のまま、しばらく別のことを考えることができればいいのですが。気晴らしというのは安易だけれど、意識を別に向けることによって、世界の解釈が変わることもある。しかしながら、そもそも思い詰めているからこそ、生を閉じるようなことを考えるわけで、別のことを考える余裕がないはずです。

余裕がない状態では、どんなに美しい風景も音楽も耳に入りません。誰かのアドバイスも遠い場所で聞いているような言葉に思える。料理の味さえ感じられなくなる。目を閉じて、耳を塞いで、盲目的に、ひたすら続けるか/終わらせるかの選択だけを考える。この悪夢のような状態をどうすれば終わらせることができるのか。きっとそう考えるはず。終わらせることになれば楽になる。とにかく楽になりたい。

辛いことを抱えて生きていく未来を想像すると、現在の重圧よりも未来の重圧のほうが大きくなる。「耐えられない/続けたい」というバランスが崩れると、ふらりと揺らめいてしまう。でもですね、だからこそ結論を早めずに、そのアンバランスな状態で、しばらく課題を先回しにしてみたらどうか、と思うわけです。

というのは自分が変わらなくても、環境が変わる場合もあります。現在が最悪であれば、さらに最悪になることは有り得ない。もちろん最悪だと思っていた現在より、さらに最悪な深い場所があるのかもしれませんが、そのときはそのときで。

要するに、ぼくらの人生は、いつか終わってしまうものじゃないですか。その人生を自らの手で終わらせてしまう必要はないのではないか。うーむ、なかなか難しい問題ではあるのだけれど。

そんなことを考えながら一日を終えた帰宅途中、茂木健一郎さんの次の本を購入しました。ずっと気になっていたタイトルの本です。

448006415X思考の補助線 (ちくま新書 707)
茂木 健一郎
筑摩書房 2008-02

by G-Tools

久し振りに読んだ茂木健一郎さんの本は、文体が熱い(笑)。「クオリア降臨」などを読んだときの興奮を思い出しました。とはいえ、なんとなく言葉が像を結びにくいイメージもあります。確かに専門的な話題も多く扱っているのだけれど、専門用語を抜いても、熱い文体の割には脳内で像を結ばない感じ。茂木さんの個人的な経験を書きながら、抽象的すぎる。なんだろう、これ。

引用している知の分子(というか構成要素)が、うまく結合していないような印象です。という第一印象を保留にしながら読み進めていきたい。

おかげさまで体調も大分よくなりました。とはいえしばらく文章を書いていなかったら、なかなか書けないものですね。練習を中断していたアスリートがいきなり走り出したようなもどかしさ、でしょうか。ブログは逃げていかないので、ゆっくりと書けるときに書いていこうと思います。自分のスタイルで。

投稿者: birdwing 日時: 23:49 | | トラックバック (0)