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2007年5月29日

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雲を記述する。

昨日は会社の帰りにCDショップで購入した音楽を聴きながらお酒を飲んでいたところ、すっかりいい気分になってブログを書くのを忘れて眠ってしまいました(苦笑)。朝起きて、あっ書くの忘れた!と思った。ついでに、いい気になって飲みすぎて気持ち悪い目覚めでした(涙)。焼けた胃を鎮めるため、起き抜けに水と胃薬を飲んじゃった。やれやれ。

でも、これぐらいアバウトな方がいいのかな、という気がしています(不摂生な生活ではなくて、ブログの書き方についてなのですが)。脅迫観念的に書かねば、ということもないですよね。毎日書きつづけることを自分に課していた時期もあったのですが、そろそろそんな呪縛を解いてあげようと思います。自由がいちばん。

美文を書かねば、とか、世のなかに何か訴えねば、とか、そんな気負いは捨てよう、とも思っています。変に突っ張る必要もない。自然体でいこう、と。生活の断片を記述するようなところからはじめたいと思っていたぼくには、最初からブロガーとして大きな理想があったのかどうか疑問ですが。

文章で表現するリアル

さて、本日の東京は曇り空だったのですが、昨日はよく晴れていました。そして、昨日は空に浮かんでいる雲がとてもきれいでした。初夏だからでしょうか。雲がさわやか。

家族からぼくは風景写真家と呼ばれていて、イベントの記録としてカメラマンに駆り出されるとき以外は、デジタルカメラで空ばかり写真を撮っています。しかしながら、昨日は写真に撮ることができなかったので、文章でどこまで雲を表現できるか挑戦してみます。文章による雲のデッサンです。

異性であっても好みのタイプにバリエーションがあるように、これはと思う雲にもバリエーションがあります。ストライクゾーンはかなり広めかもしれませんが、やはりこだわりたいタイプがある。空なら何でもいいというわけではなく、この雲はいいなと思える雲がある。昨日の雲には、かなりそそられました(笑)。

ぼくがよいと思う雲は、ある程度の量的な質感がある雲です。ボリュームがある雲がいい。もくもくとした輪郭は光に輝いているのだけれど、いちばん厚みのある部分は光の透過性が悪いので少し暗かったりする。その陰影がいいですね。雲と雲はつながっているのではなくて、孤独な距離を保ってぽかりと浮かびつつ、いくつかのカタマリが少しづつ移動しているのがいい。

昨日の雲がまさにこれでした。青空と輝いている部分のコントラストも鮮やかで、飛行機から見下ろしてみたいものだ、と思った。きっと見上げるのとはまた違った印象になるのでしょう。鳥では無理だろうな。ちいさな翼ではあの高度までは飛べない気がする。あるいは余裕で雲を越えられるのだろうか、鳥さんは。

浮かんでいる雲にも遠景と近景があり、その雲の連なりがちょっとしたパースペクティブを演出してくれているのもいいですね。この雲もいずれはあちらの雲になってしまうんだな、という時間の流れを感じさせる雲の全景。物語的でもあります。ひとつの雲として成立しているのもよいのですが、全景として作品が完成されているのもいい。・・・って作品じゃないか、空は(苦笑)。

一方で、青空に透けた和紙のような雲がすーっと儚げに存在しているのも美しい。シースルーな雲という感じでしょうか。あるのかないのか、存在しているのか消えてしまうのか、一瞬先にはどうなるかわからない危うさ。類似した雲に出会えたとしても、それはいま浮かんでいるこの雲ではありません。だからこそ、消えてしまいそうな危うさが尊い。太陽の陽射しに透ける葉脈のような雲というような。

飛行機雲も楽しい。流れ星と同様、遭遇するとちょっとうれしかったりして。さすがに願いをかけるようなことはありませんが、空に起きている偶然が地上の自分にも何かを変えてくれそうな期待があります。これもまた刹那の空のゲイジュツだったりする。

と、雲を写真に撮るように、あるいは標本箱に止めるように文章で記述してみたのですが、リアルに眺める雲にはかないません。あの存在感には近づけないですね。

雲の図鑑、雲の名前

確か4歳の次男君が空の図鑑を持っていたと思うのですが、どこへしまっちゃったか。図鑑のなかで彼が好きなのは、カミナリとミカヅキだそうです。ミカヅキに関していえば、深夜に喘息の発作が起きて病院に慌てて抱えて連れて行かれるときに見上げたのがきっかけで、それ以後、好きになってしまったようです。彼の好みではマンゲツよりもミカヅキがいいらしい。そして、カミナリはイナズマのぎざぎざがかっこいいらしい。

ところで、雲の名前について検索してみたところ、那覇市立識名小学校のページが最初にヒットしました。きっと理科の先生が作ったのでしょう。雲の名前のつけ方には、国際気象会議(1894年、スウェーデン)で決められた10種分類法というものがあるとか。高度などによって分類されているようです。

ぼくの好みの雲というと、下層雲(地表付近〜2000m)のわた雲(積雲)のようです。

もちろんひつじ雲(高積雲)とかいわし雲(巻積雲)もいいのだけれど、これはポピュラーなので、きっと好きなひとがたくさんいるでしょう。どこにでもあって地味だけれども、だからこそ意味のあるわた雲にぼくは惹かれます。渋すぎか?

雲の写真集みたいなものはないのでしょうか。ちょっとほしくなりました。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2007年5月15日

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既存の枠組みから踏み出す。

家族でテレビのCMを見ていたときのことですが、「この外人の女性はだれだっけかな?」と思い出せなくて呟いたところ、10歳の長男くんが「あれじゃないのかな。違うかな」と、自信なさそうな顔で言っていました。

間違っていてもいいから言ってみな、と促してみると「キャメロン・ディアス?」とのこと。正解。そうだよ、なんで知ってるの?と訊くと、「だって、ホーム・エクスチェンジに出てるひとでしょ」と映画名まで出てきました(うーむ、ぼくはその映画知らなかった。恥)。

10歳児とはいえ、あなどれません。アタマのなかはポケモンやウルトラマンの怪獣データベースだけかと思ったら、それ以外のこともよく知っている。もちろんテレビをよく見ているせいなのかもしれないし、あるいはまだ若くて柔軟な頭脳だからかもしれないのですが、記憶力がいい。というよりも、思い出せなくて考え込んでしまったぼくの記憶力が劣化しつつあるのか。

つなげる力、間違いという創造性

ここで記憶力と言うのは、当たり前だけれど、アーカイブされたビジュアル(映像)とコトバを結びつける力です。

名前の場合は、ほぼ1対1でビジュアルと言葉が対応している。といっても、本名じゃない芸名やあだ名などがあれば1対多になりますね。けれども、よく考えてみると、実体と言葉のつながりは強いものではなくて、実は自由に結び付けることができる。言語の恣意性というのでしたっけ、ソシュールの記号論だったような気もしましたが忘れましたが。

戸籍上ではぼくの名前はひとつですが、誕生したときを考えると、いくつもの候補があったはずです。ぼくはぼくの名前じゃなくてもよかった。(ちなみにうちの息子の長男くん誕生時には、男の子の名前はひとつしか考えていませんでした。女の子がほしかったので20個ぐらい女の子の名前は考えていたのですが)。

名前=実体の結びつきがゆるやかであるからこそ名前を間違えてしまうこともあるわけで、間違えた実体と、正解の方の実体を比べてみるとなかなか楽しいものがあります。ああ、ぼくはこういう観点でごちゃまぜにしていたんだなあ、という思考の傾向がわかる。ときにはどうしてこんな間違いをしてしまったのか、という驚きもあったりします。とんでもない勘違いに自分で脱力することもある。

けれどもこのようなつながりの間違いが、実は創造性につながるのでは?という考えが浮かびました。

とんでもないものを組み合わせてしまう発想が、新しい何かを生み出すことがあります。異種を掛け合わせて新しい種をつくるバイオテクノロジー的なアプローチに似ているかもしれません。しかも意図的にやるのではなくて、無意識のうちに、あるいは失敗して組み合わせてしまったようなときに新しいものが生まれることがある。偶然かもしれないのですが、長期的な歴史を考えると必然的に生じた間違いかもしれません。

昨日もギターを弾きながら、コード譜という既成の何かを参考にせずに、音の響きから和音を探すアプローチが面白いということを書いてみました。一度アタマのなかにあるコードの押さえ方を白紙にして、手探りで響きを探ろうとする試みです。これが結構新鮮なのですが、しかしながら、どうしても既存の枠組みにとらわれてしまう。既成のコードに絡み取られてしまうわけです。

常識というものはなかなか破壊できないものですね。その枠組みはかなり強固で、どうしてもぼくらを縛り付ける。常識から一歩踏み出すことができない。

常識から踏み出す

ところで、ちょっと話を変えるのですが、先日、川北義則さんの「男の品格―気高く、そして潔く」という本を読み終えました。その本には「男ならもっと顰蹙を買うことを考えよ」ということが書かれていました。これもまた常識を破壊して、一歩踏み出すための考え方かもしれません。

しかしながらですね、現実として、できればヒンシュクは買いたくないものです(苦笑)。実際にヒンシュクを買ってみるとわかるのですが、人間として、あるいは男としてかなりのタフさが求められる。メンタルな部分でやられます。穏やかに、角の立たないことを言って、平和に暮らすのがいちばんよいものです。悟りを開いた老人のように、ね。あるいは安全な場所から、ヒンシュクを買っているひとに突っ込みを入れる立場がいちばんいい。

しかしながら、技術にしても文学にしても、あるいは音楽にしても、新しい何かを創造するためには、既存の枠を壊すことが必要になることがあります。そこにはある程度の攻撃性も必要になるし、ヒンシュクやリスクを負わなければならないことがある。ここで覚悟ができるかどうかが重要です。

たとえばGoogleにしてもYouTubeにしても、著作権などの問題からもずいぶんヒンシュクを買っている。けれどもその従来の枠組みを破壊する企業活動が革新的に社会を変えています。Appleもそうかもしれません。

そこには未来に対する理想があるとともに、この道に進むんだという確固とした信念あるいは覚悟がある。どんなに批判されても正しいものを信じる力がある。こんなことを言ってしまうとどうかとも思うのですが、男のぼくからみて、かっこいい。イノベーションというものは、そういうものではないか。

ヒンシュクで思い出したのは、「チョムスキーとメディア――マニュファクチャリング・コンセント」というドキュメンタリー映画におけるノーム・チョムスキーでした。

チョムスキーは、ある時期から急にアメリカ批判に身を転じる。それまで順調だったアカデミックの世界から自ら離反して、徹底的にアメリカを批判する立場に変わります。実際に歯に衣を着せないトークの映像をみて、いくらなんでもこれは言い過ぎだろう、これじゃあ嫌われるよな、と思いました。でもなんとなく親近感が沸くというか、好きなんですよね、人間としてのチョムスキーが。

ときには軌道から外れてみる

年齢を重ねていくと、どうしても正しい道ばかりを歩くようになります。とんでもない組み合わせを選ぶよりも、常識の範囲で批判されることの少ない選択肢を選ぶようになる。それはそれで成熟した大人の思考であり、大切です。けれども、どうなんだろうと思うこともある。

あぶないひとであることは問題だけれど(笑)、男に生まれてきた以上、ある程度、あぶなっかしさを持っていたい気がします。けれども、なんでもかんでもヒンシュクを買えばよいというわけではなく、ヒンシュクの美学、あるいはルールのようなものが必要かもしれません。喧嘩に卑怯もフェアもないのかもしれませんが、これは絶対にやらない、という規律が大切です。

良識は大事だけれど、ときには良識を疑ってみる。昨日と同じ毎日を延々と繰り返すばかりではなく、たまには自ら軌道を外れてみる。そんな風にちいさな変化をつけることによって、みえてくることも多いような気がしています。まあ、みえなくてもいいことがみえちゃう場合もありますけどね(苦笑)。ただ、嫌なことをみちゃったとしても、それもまた貴重な経験のひとつになるかもしれません。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年4月18日

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いま、ここを起点として。

人間の欲望には際限がありません。求めていた夢が適うと、さらにその上を求めてしまうものです。大金持ちはさらに資産を倍増させようとします。倍増して何をするかということは考えずに、倍増することが目的になる。そこに喜びを感じてしまう。

「もっと」を追求する気持ちが知識に向かったときには、特に問題はないでしょう。研究者においては、その知的好奇心が原動力となっているものです。けれども、特定の他者に「もっと」を求めた場合には、うまくいく場合とうまくいかない場合があります。

期待によって他者の能力を伸ばすことができる一方で、過剰な期待はプレッシャーとなって圧迫することもある。万人に有効なセオリーがあるわけではなくて、その個人それぞれの特性によって違うものかもしれません。「もっと」を自分の期待として解釈して頑張れるひともいれば、なぜ求められてもいないものにそれ以上のことを要求するのかわからん(怒)、というオーバースペックに耐えられなかったり消耗する場合もある。

最近はSEOよりもSMO(Social Media Optimization)という言葉の方が使われているかと思うのですが、いずれにしてもOはOptimization(適正化)です。ところが、この適正化がぜんぜん適正じゃなかったりもする。状況を無視してとにかく数値の増加を目指すのは、適正ではありません。たとえば月間3000もPVがあれば十分と思っているサイトの企業に、1万PVを求めるのは不適正ですよね。

先週、とあるブロガーさんのセミナーを拝聴したのですが、そのなかで知人23人のブロガーさんに訊いたアンケートというのが結構面白かった。23人というミニマムなN数(回答者数)自体がぼくには魅力的だったのだけれど、そのなかでPVにも触れられていて、最も回答数が多かったのは月間1,000〜10,000PVだそうです。とはいえ、名前は明かさなかったのですがかなり有名なブロガーさんたちのようで、だからもちろん100万PVという凄いブロガーさんもいらっしゃるのですが、1万いけばそこそこという印象は意外でもありました。たぶん、アクセス数じゃないのでしょう。

ついでに講演のなかではVOXのほか、シンプルなサービスとしてTumblrTwitterなどの新しいコミュニケーションツールや、ブログをネットワークする仕組みとしてのAgile Media Networkなども紹介されていて興味深いものがありました。

自分のモノサシを大切にする

情報が過剰に溢れるネットの世界に住んでいると、ときに自分を見失います。

けれども結局のところ、自分のモノサシに合わせて目標であるとか適正値を設定すればいいのではないでしょうか。他人はどうであろうが、自分はこうだという信念があれば、無駄に頑張る必要もない。逆にまったく儲けにつながらなくても、自分にとって意義があれば実行に値することといえます。

いまここにいるというだけで自分の存在は奇跡的なものです。それだけで尊い。

もっと凄い自分になるという向上心は大事ですが、向上心ばかりが先走ると逆に現在の自分がつまらなくみえてしまうものです。理想のレベルを上げすぎると、反比例して現実の成果が低くなっていきます。モチベーションのための高い理想であれば意義があるのですが、理想に押し潰されるぐらいであれば下手な理想なんか持たないほうがいいかもしれません。

よく使われる比喩ですが、コップに「まだこれだけ水がある」と考えるのと、「もうこれだけしか水がない」と考えるのでは、意識的に全然違う。悲観的にとらえていた事象も、裏返してみれば楽観的になることもある。

人間の意識は地と図を反転させることが可能であって、ポジとネガを切り替えることもできる。自分には何もない、と思うときには、きっと自分にないものばかりを見ている。そんなとき、空白のピースになっている部分に焦点を当てれば、「地」として自分が見えてくる。自分にはないものをネガとして反転させれば、隠れていた自分が「図」として浮き上がってくる。

ここにないものを残念に思うよりも、いまここにあることに感謝すること。それが大事かもしれません。

そして、再構成・再編集するイノベーションへ

という長々とした文章で何を考えようとしていたかというと、未来を構想するときに、まったく従来との接点がない新しいもの、現在や過去とつながりのない世界を構想するのではなくて、過去や現在の要素を再構成・再編集しつつ新しいものを生み出せないか、ということです。つまり、

過去・現在の自分を起点とした未来構想としてのイノベーション

ということでしょうか。いたずらに時流(トレンド)を追うものでもありません。変化する時代を起点としたり、世のなか全体を基準とするものではなくて、自分を起点とした変革ができないか、と。

たとえば、ぼくの3歳の頃の写真には、子供用の椅子を机にして何かを書いているシーンがありました。覚えていないのだけれど、何かを書くのが好きだったらしい。いま、鉛筆をキーボードに、紙をネットに置き換えたけれども、基本的には何かを書いていることに変わりはありません。そして、文字を音に変えるイノベーションを10代のときに起こすことによって、音楽をはじめた。趣味のDTMは、ぼくにとっては文章を書くことと同じラインにありながら、位相を変えたものであるわけです。

うまくいえないのですが、iPodのイノベーションも、実は従来の基盤から大きく離れてはいないのではないか、と直感的な洞察が浮かびます。モノは違うけれども、Macを購入したときのわくわく感と、iPodを購入したときのわくわく感は相違ない。もともとMacのなかにあるハードディスクを外部に出しただけともいえるのですが、機能的な何かではないような気がする。もちろん機能も大事なのだけれど。うーん。

MacとiPodに共通するイノベーションの軸は、生活はもちろん機器が身体の一部になる感じですかね。誰か言ってたっけかな。

つまり、肌身離さず携帯するiPodは、Macを持ち歩く意味での一体感もあったりする。PDAであるAppleのニュートンは、それに近いものを目指していたのだけれども失敗したといえます。その失敗を比較してみたときに、何か言えそうな気もしています。おぼろげに考えているだけですが。

ぼくが自分で購入した初コンピュータはMacだったのですが(Performa 5320。まだ家にある)、なんとなく名前をつけたくなった気がします(笑)。カタチもなんだかイヌみたいだったし。どこか機械でありながら、人懐っこい感じがしました。という意味では擬人的もしくはペット的なのですが、まだ自分との距離感があった。Windowsマシンではさらに遠い感じです。あれは道具だ。

「欲望解剖」という本のなかでは、田中洋さんがポスト・カルテジアン消費という言葉で「情報を媒介として心と身体とが一体化した消費現象」について解説されていました。自分と情報を一体化しつつ、過去と未来を俯瞰したような統合化されたイノベーションが重要なのではないか、などと思ったりしました。

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2007年4月17日

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InsightとForesight。

夢についてブログに書いて昨晩ぐっすりと眠ったところ、明け方、ものすごく素敵な夢を見ました。ひとつはギターのメロディが聴こえている夢。音の夢ですね。音と同時にコード譜のようなイメージが浮かんでいて、その向こう側で誰かがギターを弾いていた。ふたつめは、桜色のアクセサリーのようなものを手に取っている夢。こちらは色つきです。なんでしょう。よくわかりません。

音だけの夢や、カラフルな夢をよく見ます。だからどうだということはないのですが、逆にあまり物語的な夢は見ないようです。よく長編の夢を見られる方もいるようですが、そういうのはない。一旦夢が途切れてつづきを見ることができるひともいるようですが、ぼくにとってはうらやましい。というのは、断片的なシーンの夢ばかりが多い。現実世界では、論理的なもの、物語的なものを求めているので、その反動として絵画的なものや音楽的な何か、あるいは詩的なものが夢に現れているのかもしれません。

夢から何を読み取るのか。いわゆる夢分析は突き詰めてもどうかと思うのですが、最終的には科学的な視点よりも直感に拠るところが大きいのではないでしょうか。心理学と組み合わせたり、脳科学と組み合わせて、カラフルな夢を見ているときは脳のこの部分が活発である、とう分析をすれば科学的になるかと思うのですが、ではそれが何を意味しているのか、ということはきっと科学ではわからない。多分に文学的な解釈になるのではないでしょうか。

そのときに重要になるのは洞察(Insight)だと思います。映像を意味として解釈していく作業です。

夢の洞察というのはややあやしい感じがしますが、インサイトに関しては、マーケティングの分野でも重視されていて、アカウントプランニングであるとか、五感マーケティングのような分野においては重要なキーワードではないかと思います。インサイトは、事実に隠された真理を深堀りしていく、つまりマイニング的なアプローチです。では、いまここにない未来を考えるときに重要になるのは何か。

読書中の博報堂フォーサイト鷲田祐一さんの「未来を洞察する」という本では、「未来洞察=フォーサイト(foresight)」というコンセプトが重要と述べられています。

4757102070未来を洞察する―Foresight
鷲田 祐一
エヌティティ出版 2007-03

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以下、引用します(P,33)。


「フォーサイト」とは、英和辞典では「先見性」とか「配慮・備え」というような翻訳になっている言葉だ。今流行している「コンシューマー・インサイト」の「Insight」という言葉と、ちょうど対をなすような言葉ともとらえられる。深く中へ中へと洞察するのが「Insight」だとすれば、広く前へ前へと洞察するのが「foresight」ということだ。

この本の冒頭にも書かれていることであり、大前研一さんなども述べられていたかと思うのですが、今後のビジネスでは未来を構想する力が重要になってくる。けれども、この領域は日本人は得意とはいえない分野です。過去から現在をカイゼンする力は得意であったとしても、ゼロベースでこれからの戦略を立案したり、ビジョンや未来を構想する力は日本人には弱いといわれています。しかしながら、イノベーションでは、まさにゼロから何かを創造する力が必要になる(もちろん過去にあるものを組み合わせる手法もありますが)。

ぼくが時間軸などに興味を持ったのは、多くの本でまるで申し合わせたかのようにそんな指摘が解説されていたからでした。タイムライン、シークエンスといったものに関心を抱いていると、自然とそうした情報をキャッチしやすくなる。奥出直人さんの本にも書かれていましたが、茂木健一郎さんの本にも、未来予測は過去の情報を再構成することによって可能になる、思い出すことと創造性は似ている、などという見解もありました。

ということを期待しながら読み進めていきたい本なのですが、さらりと書かれているものの、マーケティング用語は縦横に駆使されているので、復習しながらの読書が求められそうです。

もう一度過去に読んだ本を探して読もうと思っているのですが、テキスト情報ではない物理的な本をひっくり返すのは面倒です(苦笑)。Googleでもマイクロソフトでもかまわないので、はやく文献のテキスト化をしてくれないかなあ、と勝手なことを思ってしまいました。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2007年4月16日

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ゆっくり醸成する、そして夢。

年齢を重ねつつ、それでも若々しくありたいものです。失われていく若さにしがみつくのはかっこ悪い気がするのですが、落ち着いた穏やかな印象でありながら、いつまでも若い発想ができる紳士的なシニアに憧れます。若々しいダンディな感じというか。

自分に対する戒めなのですが、もう年だから...と言った時点で老け込む気がする。だからといって、いやいやまだ若いよーと否定するのも無理がある。年齢を年齢でそのまま受け止めつつ、それでも可能性を追求したり未来を向いているような人物がいい。身体も心も健康でタフであるのがいちばんですね。弱音を吐くな、でも自分を労われ、と。

知を醸成する

茂木健一郎さんの「天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣」に書かれていて知ったのですが、カントが「純粋理性批判」を書いたのは57歳で、それまではまったくの無名だったとのこと。ドラッカーは90歳を超えてもまだ教鞭をとっていたようです。すごい。

ゆっくり知をあたためるのもいいかもしれませんね。焦らずに。こつこつと。

若い頃には手当たり次第、可能性を試した気がします。だから無駄なことも多かった。可能性を試すというよりも、可能性を浪費していた感じに近いものがありました。とにかくエネルギーが余剰な状態なので、熱さに任せて考えもしないで多方面に突っ走るわけです。いまでも走れないことはないのだけれどすぐに息が切れます。だから走る方向は選別したい。手当たり次第には、走れない。

最近、ぼくの意識で大きく変わったのは、万人に受けなくてもいいと思うようになったことでしょうか。とにかく大勢に受け入れられたいとか、友達100人目指すとか、アクセス数をめちゃめちゃ稼ぐとか、ごりごり儲けるとか、そういう方面の熱意がめっきり減りました。そちら方面はくたびれるからいいや、という感じ。

かといって欲がなくなったわけではありません。万人にモテなくても、大切なひと/ことには全力で想いを注ぎたい。アクセス数やアフィリエイトは無視していても、ブロガーとしてよりよい文章を書くためには全力で向かいたいと思っています。その気持ちは、むしろ以前よりも熱い(と思う)。

とにかく走れ、ということを先日ブログに書いたのですが、走る気持ち、走る力を大事にしながら、力を貯めることも重要かもしれません。走りたいから走るという無謀さが若さではあるのですが、大人の疾走とは、気持ちを貯めて(あるいはときには封印して)、ストイックな制御のもとに適切に力を使うことかもしれません。もっとも、手当たり次第には走れないから、自然と制御されてしまうともいえますが(苦笑)。

走りたいのに耐える時間というのは、気が狂いそうなぐらい辛く、さらに心身ともにこたえるものです。でも、この辛い時間を経て醸成されたものは、きっとものすごく貴重なものになる。・・・ひょっとするとならないかもしれないのですが、なると思っておくことにしましょう。

夢の効用

さて。Blonde Redheadのアルバムを購入してレビューに書いたとき、京都出身のボーカルであるカズ・マキノさんがゲンズブールファンであるということを知って、にわかにセルジュ・ゲンスブールのことを思い出しました。ゲンスブールもとにかく精力的なひとのようです(笑)。 作曲、作詞、歌手、映画監督、俳優となんでもこなして、50歳すぎてから30歳年下の女性と同棲していたりする(Wikipediaの解説)。

それほどゲンズブールを聴き込んでいないのですが、彼のベストCDを購入して楽曲の雰囲気にインスパイアされた(最終的に完成した曲を聴くと、どこが?という気もしますが。涙)自作DTM「生活に紛れたダイアモンド」を土曜日にハードディスクから発掘して公開してみました。10年以上放っておいたのだけれど、ゲンズブールに誘発されて突然にリメイクしたくなった曲です。10年の間で失われたものもあるけれど、逆に新しくなったもの、醸成されて良質になった何かもあるような気がします。

セルジュ・ゲンスブールの娘といえば、これも有名なシャルロット・ゲンズブールなのですが、ゴールデンウィークに彼女の映画が公開とのこと。タイトルは「恋愛睡眠のすすめ」。映像的にもよさそうなので、これは観たい。


公式サイト
http://renaisuimin.com/

恋愛睡眠ってなんだろう? 睡眠中に恋愛するらしい。夢のなかであれば、時間も空間も制限はないですね。ちょっとうらやましい。この映画で、隣人のシャルロット・ゲンズブールに恋をしながら声をかけられないシャイな男性は、ガエル・ガルシア・ベルナルが演じているようですが、彼の出演の映画といえば、「モーターサイクル・ダイアリーズ」「バッド・エデュケーション」、そして今年になって「アモーレス・ぺロス」を観ていました。ラテン系で、ちょっとやんちゃな感じのかっこいい雰囲気がある俳優さんだと思います。

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それにしても、春のせいなのか、深夜のDTM制作など夜更かしのせいなのか、眠くてたまらない毎日です。一瞬でも時間があれば眠りたい。というか気合が抜けると、アタマのなかは春霞です。

眠るとなれば熟睡がベストかとは思うのですが、夢をみることにも意味があるらしい。「欲望解剖」の本のなかでは、夢には過去の記憶を整理する機能がある、という茂木健一郎さんの解説がありました。「夢の中で記憶の編集が行われる」とのこと。

せわしない現実では、進行しつつある出来事を整理する時間がないのだけれど、夢のなかで記憶が編集され、現実が再構成されていくらしい。まるで、夜中にどこからか現われて靴を作ってくれる小人のようですが、夢のなかでリアルが再構成されつつ醸成されていると考えると眠るのも楽しい。醸成された夢を確かめる目覚めも気持ちがいい。

今宵も、よい夢を(あ、朝に読んだら意味ないですね、この挨拶は。でも起きていても、よい夢をみましょう。未来のために)。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | コメント (2) | トラックバック (0)