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2007年4月12日

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走れ、不完全でかまわないから。

数値による目標管理は企業活動においては重要です。数値管理なくして経営は成立しない。けれども、モチベーション管理に関していえば、逆に数値で管理することがやる気を低下させることもあります。限界を設定することが活動を縛り、マイナスを生むことがある。

あまりにも遠くに目標を設定すると、走り出す前に戦意喪失したりするわけです。怠惰なぼくは80%できればいいかーという風に、勝手に手前にゴールを設けてしまうこともあります。あるいは、試験などでも100%完璧に学習しても本番では80%の力が出せればいいほうだったりする。

「学びについて」というエントリーでも書いたのですが、目標設定を燃料にして走るのではなく、走りたいという燃料をエネルギーにして走ったほうが、どこまでも走行を可能にする場合もあります。クルマの運転と同じように、メーターを確認していると、あっ、ちょっと速度落としておこうか、という意識も働く。けれども、衝動的な想いで盲目的に動いているときには、数値なんか関係ありません。ぐわーっと熱い想いに突き動かされて、いつまでもどこまでも走っていける。

たまにぼくは趣味のDTMで暴走して徹夜することがあるのですが、気がつくと4時間すぎていた・・・なんてこともあります。あと、メシ食べるの忘れてたとか。仕事もそんなことがありました(過去形になっているなあ 苦笑)。

今日書店で購入した茂木健一郎さん+田中洋さんの「欲望解剖」という本の冒頭では、茂木健一郎さんが脳の開放性(オープンエンディッドネス)について書かれています。面白かったので一日で読み終えてしまいましたが、もう一度キーワードなどを拾って読もうと思っています。

4344012631欲望解剖
電通ニューロマーケティング研究会
幻冬舎 2006-12

by G-Tools

茂木さんの解説によると、人間の脳の認知プロセスには、ここまでという終わりがなく、どこまでも突っ走っていける。A10神経というものが働くと、脳内麻薬のようなものが分泌されてアディクション(中毒)が生じるそうです。好きなアーティストの曲をへヴィ・ローテーションで聴きまくるのもたぶんこの脳内の働きが原因で、ひょっとしたら恋愛もアディクション(中毒)の一種かもしれません。

どんなに快楽とはいえ中毒は中毒なので、諸刃のやいばといえるかもしれないのですが、数値管理よりも重要なのはこのA10神経を活性化するようなきっかけづくりではないでしょうか。ベンチャー企業のカリスマ社長などは、そんな力を持っているような気がします。それこそ意図的に仕事中毒にさせてしまうようなオーラがあるのかもしれません。

不完全でもかまわない

完璧主義を徹底して100%準備できなきゃスタートしない、と思っていると、結局いつまでも一歩も踏み出せなくなるものです。

何かの記事で読んだのですが、引きこもりの子供たちは社会と交流を絶ちたくて引きこもっているわけではなくて、完璧を求めるあまりに一歩踏み出せなくなってしまったのではないか、という分析がありました。なるほどなあと思った。彼等だって誰かと話をしたり、笑いあったりしたい。でも、自分の言葉が(誤解を生まずに)完璧に相手に届くのだろうか、相手の言葉に(失笑されないように)完璧に答えられるだろうか、と考えたときに外部へ踏み出せなくなってしまう。わずかな一歩がとても重く感じる。これはわかる。

でも、言葉が言葉である以上、完璧はあり得ないとぼくは思います。なぜなら言葉は記号として、意味の総体のほんのてっぺんの部分、氷山の一角だけを表出させているからです。

言葉が曖昧なものだからこそ、他者の存在が必要になる。<あなた>が発する言葉は、完全ではなくてもかまわない。不完全だからこそ<ぼく>に伝わることもある。隠れている図形をつないでひとつのカタチとしてとらえてしまうように、ぼくらの意識には補う力があります。だから完全ではなくても、全然かまわない。

コミュニケーションは、発信者だけでなく受信者がフォローすることによって、はじめて成立するものです。ひとりだけで完結するものではありません。だからひとりで気負って完璧な言葉を使う必要はない。言葉の足りない部分を補ってあげるために誰かがいるわけで、不完全なものを補い合うキャッチボールの行為が、コミュニケーションなのかもしれません。

ぼくらは不完全です。でこぼこがあって、尖ったかと思うと凹んだりして、それでもそのでこぼこをうまく重ねあわせることができる誰かがいる。

自分探し、などということがよく言われますが、探さなければならないのは他者かもしれません。自分なんてものは探さなくても、ここにいるじゃないですか(笑)。ここにいるものを探す必要はない。

他者に大きく揺さぶられることによって(それがポジティブであってもネガティブであっても)、はじめて自分がわかるような気がします。人間は他者という鏡を通してしか、自分をみつめられないものかもしれません。

力のある他者の影響力によって、他者の色に染まってしまうこともあります。このとき他者からの波動に対して無理にバランスを取ろうとすると、反動で他者を拒絶してしまうこともある。もちろん自衛することも大事です。けれども生成変化する自分もまた面白いのではないでしょうか。揺らいでいる自分をそのまま受け止められたときに(自己否定したり、嫌悪したり、逃げるのではなくて受け止める。無理に肯定しなくてもいい。ただ受け止める)、ひとは大きく成長できる気がしています。

走れば安定するかも

息子(長男くん)の自転車の練習をしていたときに、自転車はある程度のスピードを出さないと倒れるよ、ということをよくアドバイスしていました。自転車の練習と同様に、気持ちが揺らいでしまうのは、想いの速度が足りないのかもしれません。アディクション(中毒)になるぐらいに想いを集中させれば、揺らぐこともなくなるのではないでしょうか。というよりも揺らぐ暇がない。

茂木健一郎さんのブログ「クオリア日記」の4月10日に「だーっと突っ走って」というエントリーもありました。疾走感で爽やかな気持ちになりました。以下、引用します。

ひんやりとした空気の中をだーっと
疾走していくと、いろいろな
ことが昇華していく。

人生、澱のようにたまってくるものが
あるが、
だーっと走って解消できないもの
などないんじゃないか。

非常に微々たるものかもしれませんが、タイピングも身体的な運動であると考えると、タイピングの手を止めずにとにかく書きつづけると、ある種のすがすがしさを感じることがあります。もちろん感情に駆られて書いているようなときは逆に不健全になっていく場合もある。けれども、自分の好きなことについて書いているようなときには、ほんとうに時間も文章量も忘れて書きつづけていることがあります。きっと脳内麻薬が分泌されまくっていることでしょう。だから書いたあとも、すっきりする。

走ってみますか、思考だけは(実際の身体は不健全で走れませんけれども 泣。でもちょっと走らなければいかんな。せめて歩くとか)。

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2007年4月11日

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難しさと原点回帰。

フェネスサカモトのアルバム購入時につい買ってしまったジャック・アタリの「ノイズ-音楽/貨幣/雑音」という本ですが、半分ほど読み進みました。

これは!という画期的な見解はあまりないのだけれど、じわじわと効いてくるような本です。音楽を批評するのではなく、音楽"によって"批評するというスタイルが面白い。つまり、音楽論ではなくて、音楽というフレームワークを使って、世のなかを論じていくわけです。

貨幣と交換されることによって音楽は経済のシステムに取り込まれてしまったとか、制度や政治と音楽だとか、実はDRMが議論されている現在に投影してみると興味深いものがあります。そして、書かれている思考のフレームワーク自体は、別の側面で利用することもできます。

とはいえ、正直な感想としては、この本に書かれていることを全部理解できるわけではありません。ぼくにはよくわからない(苦笑)。若い頃には見栄でこういう思想書を購入したこともあって、やっぱりよくわからなかったものです。当時と比較すると少しはわかっているような気もして、いまは好きで購入しているのですが、遅々としてページが進みません。

では、なぜぼくは難しい本を読むのか。 それは逆説的に、世界を楽に考えやすくするためではないかと思いました。

難しさを求める理由

どういうことか、考えをまとめてみます。 そもそも去年に購入したジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリの文庫版「アンチ・オイディプス」上巻もまだ読み終えていません。下巻もあるかと思うと気が遠くなる。

4309462804アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)
宇野 邦一
河出書房新社 2006-10-05

by G-Tools

この本もまたよくわかりません。簡単だよ、わかったよ、というひとがいたとしたら、頭がよすぎる変人ではないでしょうか。失礼だとは思いますが。

そんなよくわからないものをなぜ読んでいるかというと、たとえば仕事の上で、不条理なことや、理解できないようなことを言うひとがいるとします(あくまでもたとえば、ですが)。こういうときに難解な思想書を読んでおくと、
「なんだか理解不可能なこと言っているけど、アンチ・オイディプスよりは、ましかも・・・」
と思って、ほっとするからです。

世のなかの頭がいいひとの問題は、難しい本を読んでさらに難しいことを言おうとするところにあるような気がします。ぼくが難解な本を読む理由は、難しいことを楽に処理できるようにするためです。難しいことをさらに難しくするためではない。

断っておきたいのは、難しいことをシンプル(簡単)にする、ということではありません。難しいことは、きっとシンプルにはできない。もし絡み合った難しい事情をシンプルにできたとすれば、何かを隠したり、嘘をついたり、あるいはいい加減に切り捨ててしまったことがあるか、別の側面に目をつぶってしまったか、そんなことだろうと思います。

非常に微妙な違いであって、うまくいえないのですが、複雑なことは複雑なままにしておいて、自分のなかで折り合いをつける、ということでしょうか。たとえば困難なことは、10個ぐらい並列した答えが出ることもある。その10個の答えを出したことが折り合いをつけたことであって、それを1つに絞るのはどうかと思う。問題の前でお手上げになるとか、問題から逃げるのではなく、10個の答えを出して終わる。それがぼくの考える「折り合い」です。

これも積み重ねでしょう。いきなり1キロ走れ、といっても息が切れますが、毎日5キロをゆっくりと走っていれば、1キロ走るのは苦ではなくなる(と思う)。いまぼくは過剰に文章を書いていますが、大量の文章を書いていると原稿用紙10枚ぐらい書くのはへっちゃらです。同様に難しい本を読んでいると、難しいことに対する耐性がつくのではないか。

まあ、あまり難しい問題は降りかかってきてほしくないのですが。

原点回帰としてのオールマイティ

難しいこと/簡単なことを踏まえながら、再度ジャック・アタリの「ノイズ」を読みながら考えていたことに戻ってみます。通常は、


簡単なこと(シンプル) → 難しいこと(複雑)

という方向へ、最初は簡単だったことが次第に複雑化していく流れがあるかと思います。単細胞から複雑な生物に進化していく進化論のようなものです。けれども、複雑化することで逆に役割分担などが生まれて簡単になる。つまり


ひとりで全部やる統合的な何か(複雑) → 役割の分担(シンプル)

という方向性もあるのではないか。最初はオールマイティとして自分で全部手がけなければならなかったけれども、作業が拡大することによってスタッフが必要になり、役割を分担することで個々の負荷は減少するという流れです。

原初的な音楽は、自分で作って歌って演じるものであったと思います。けれども、反復されたり流通の必要性に応じて、作曲家・プレイヤー・シンガーというように作業分担がわかれていった。もちろん、自作の曲を歌うシンガーソングライターもいる一方で、商業的音楽を作るためには、ミキシングやプロデュースを担当するだけの特化した職業もある。マスタリングという最終工程のプロもいるわけです。分担されることによってプロフェッショナルが生まれるようになった。

ところが、技術の進歩によってDTMが登場して、自分ですべてができるようになっていくと、逆に作業が統合されていきます。加えてネットの登場により、音源を販売することも可能になった。たくさんのひとに聴いていただくためには、ミュージシャンであると同時に、ビジネス的な視点も必要になります。

個人の作業領域を考えると幅広く複雑になっているのだけれど、よく考えてみると、表現の原初的なかたちは、すべて自分でやるということだったと思うんですよね。観客も自分で集めたし、演奏もした。だから複雑化しているようで、実は表現者としては原初的なものに原点回帰しているようにも思いました。

これはブログも同様だと思います。印刷業者や出版社、新聞社という専業的な企業ができたから役割が分かれていたけれども、DTPでは印刷が自分で可能になり、さらにブログでは幅広くパブリッシングできるようになった。自分自身がクリエイターでもあり、プロモーターでもあるわけです。

ネットは社会を複雑にしていると考えていたのですが、実はその方向性は、表現という観点からいうと原初的なものに向かっているのではないか、と考えました(この原初的という言葉は決してシンプルという意味ではありません)。

もしかすると、ブロガーは大道芸人(ジョングルール jongleur)ではないか。あるいは吟遊詩人かもしれません(ジョングルールについてはWikipediaの解説を)。

ブロゴスフィアという街角でひとびとを笑わせ、ときには感動を与えたりもする。技術の最先端にいるようで、ブロガーの存在は結構、古いスタイルだったりするのかも、と思いました。あるいは技術の進化はあったとしても、人間の文化の本質・構造はあまり変わらないのかもしれません。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2007年4月 8日

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学びについて。

思えば、学生を卒業してからずいぶん長い時間が経っています(遠い目)。しかしながら、現在、学生の方には申し訳ないのですが、学生の頃の学びは、関心のある分野をみつけるためのきっかけづくりと、思考の練習(エクササイズ)だったのではないかと、少なくともぼくは思っています。

ほんとうの勉強が必要になるのは社会に出てからです。その勉強は強制されるものではないし、単位で数えられるものではない。そして教科書という本で学べるものだけではありません。仕事や家族を含めたひととの関係のなかで学べるものもあれば、社会生活という実践の場で学べるものもある。余暇のなかで趣味を通じて学べるものもあれば、あらためて学校に通ってやり直すスタイルもあります。

個人的な経験を書くと、ぼくがいちばん学んだのは、父を亡くしたときでした。

年末に帰省したときに話をしようと思っていたことがあったのだけれど、秋に脳卒中で倒れた父は年の終わりにはもういなかった。このときにぼくは、伝えたいことがあれば自分のなかであたためていてはだめだ、ということを学びました。伝えたい言葉が大きな波紋を描いたとしても、言葉を発するチャンスを失うと、永遠に伝えられないこともある。言葉が足りなくても、ちょっとぐらい格好悪くてもいいじゃないですか。そのときでしか発せない言葉というものがあるし、想いがあるものです。

だからぼくはいま過剰にブログを書きつづけているのかもしれません。伝えたいと思っている言葉を、伝えたいうちに発信する。そのシステムとしてはブログは最適です。発信しやすい安易さが問題になることもありますが。

ところで、一生懸命に学んだひとが社会で優位な地位が得られるかというと、そうでもないところが社会である、と言い切ってしまいましょうか。

こんなことを書くと、これから社会で活躍しようとしているひとの学びの意欲を削ぐかもしれませんが、別にしゃかりきになって学ばなくても、そこそこの生活はできる。勉強なんて面倒だからもう結構、という生き方もある。人生楽しんだほうが勝ち、というのもまた真理。

だから、オレはこんなに苦労して学んでいるのになぜ・・・という他者に対する批判的な意識は持たないほうがいいと思います。そんなことも知らないのか、と他者を嘲笑するために学ぶのであったら、学ばないで純粋かつ無知であったほうがずっといい。

学びと社会における成功は必ずしも合致するものではありません。学びは途方もない労力の消費で、結局のところ何も役に立たないことだってある。

しかし、だからこそ学びは重要である、とぼくは考えています。成功のために学ぶという姿勢は、どこか本来の学びの力をねじ曲げるような気がしています。学びたいから学んでいる、それでいいのではないか。成功するかどうかはその結果であって、到達点ではない。学びを成功の道具にしてはいけない。

これは社会に出て、資格取得というかたちではない"役に立たない"学びのスタイルを選択したぼくの所感です。生活を豊かにするつもりで学びはじめたのですが、はたして豊かになっているかどうかも疑問だったりする(苦笑)。アタマでっかちになって不健全な思考ばかりぐるぐる回って、ネガティブループから逃れられないこともあるし、この先どうなるかもよくわかりません。考えすぎて凹むことも多いし、この時間を他のことに使ったらもっと楽しい人生もあったのではないかと想像して愕然とすることもある。

ただ、先のわからない人生を楽しもうと思っています。未来がわかりすぎて、あまりにも構想通りに進んだら、それはそれでつまらなくないですか。ビジネスはともかくとして。

未来の設計図は描くし、構想も持つのだけれど、その図面から外れた未来も許容し、楽しめる自分でありたい。変化の波にフレキシブルに対応し、揺らぎつつも航海(後悔ではなくて)する船でありたい。

ぼくは書きたいからブログを書くし、書きながら興味を持ったことにはネットという集合知を活用して、知らないことを吸収していきたい。映画が好きだから観る、活字に対する渇望から本を読む、音楽はぼくの生活には欠かせないから聴きつづける、それだけのことです。そして、趣味のDTMは永遠にやっていても飽きることがないから取り組む。かつて別の音楽専用サイトで公開していたときには、ダウンロード数や投票数が気になったのですが、いまこのブログで公開して、数量的な効果はどうでもよくなっています。アクセス解析もまったくみてないし。

ただ、そこに至るまでは、意識的に自分の方向性を決めることが必要でした。ぼくは怠惰な人間なので、決められた枠がないとやらないんですよね(苦笑)。そんなわけで年間に何冊読むなどの目標設定をしたのですが、そのスタイルが習慣化してきたいま、自分を飛躍させるためのカタパルト(発射台)は外してもいいかな、と思いはじめています。

永遠に何かできることって、すばらしいと思いませんか。学生時代は期間限定だから、それがちょっと残念なのだけれど、いくつになっても学生でいようと思えば終わりはありません。学びつづける意思さえ持てば、自宅や職場がバーチャルなキャンパスになる。ひとりの研究室にもなる。

この人生にさよならを告げるとき、ぼくは「あ、いま思いついちゃったんだけどさ・・・」と、ひらめきを最期の言葉にできるといいな、などとそんなことを考えています。

もちろん家族や知人に対する感謝は別に遺書にしたためるとして。

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2007年4月 3日

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リセット感覚。

熱を出して寝込んだようなとき、ふと目が覚めて、あれ?ここはどこだ?何やってんだぼくは・・・と思うようなことがありませんか。

昼間だと思っていたら夜だったり、夜だと思っていたらまだ午前中の明るい光のなかにいたり。幼少の頃、旅行先や田舎の家に泊まっているときにも、そんな感覚に襲われたことがありました。自分の位置を失うような感覚です。

すべての時間軸と空間軸の情報が欠落して、何もない場所にぽーんと置き去りにされる。一瞬だけ自分が何ものであったかさえ忘れてしまう。焦ったり心細く思うものです。けれども次第にいろんな情報が蘇ってきて、安心します。自分は自分であり、ここはここであって、いまはいまである。紛れもなく世界はここにある、という。

しかしながら、情報が補完されていくにつれて、気持ちを塞ぐようなあれこれも思い出したりして、何もないデフォルト(初期設定)感覚は失われていきます。軽くなっていた背中に荷物が戻ってくるようで、これが生きていることの重みなんだろうなあ、と思ったりします。酔いから醒めた感じでしょうか。酔っ払っているうちは世界がとてもきれいに見えるのだけれど、醒めてしまうとモノトーンの世界だったりするわけで。

意識的に、あるいは無意識のうちに、ぼくらはさまざまなものを背負い込んでいるものです。あれこれオプション機能が追加されることによって不健全にもなって、思考のメタボリックになっている。言葉化することは大事だと思うのですが、言葉で明示することによって重荷になることもあります。言葉が自分を縛る。

たとえば、自分はプロフェッショナルである、という言葉を使ったとします。そのことによって、モチベーションが向上するとともに、プロであらねばならないために、さまざまなプレッシャーもかかる。

自分はプロだと言い切ってしまうと、プロではない何かは切り捨てられていくようになるので、その規範に反するいい加減さとか、適当さはなくなってしまう。ストイックにその世界を追求していくと、確かにマシンとしてのプロにはなれるけれど、人間らしさは失われていくこともあるかもしれません。

マシンであることも大事だけれど、人間であることは忘れたくないですね。潤滑油がないと、マシンもうまく動きません。言葉に限定された通りではなくてもいいと思うし、全体としてほぼOKであれば、細部は規範に反していることがあってもいいと思う。組織というものを考えると、それじゃ甘いのかもしれませんが、細部にこだわるあまりに全体を見失うこともある。

言葉の呪縛にとらわれているようなときには、すぱーんとリセットして、自分をデフォルトに戻してくれるような何かが必要かもしれません。あらゆる世間的な文脈から自分を切り離して、何ものでもなかったまっさらな自分になってみる。すると、実は目の前に道ができていたりする。急に道ができたわけではなくて、いままで道はそこにあって、ごちゃごちゃとした複雑な状況のために見えなかっただけのことです。そんな道をみつけることもできる。

趣味のDTMでは、日曜日にギターをPCに録音することに挑戦してみました。古くて無用の長物となっているハードディスクレコーダーVS-880とPCをMIDIで同期させて・・・ということも考えたのですが、面倒なのでやめた。ものすごく簡単に考えることにして、ダイレクトにPCに録音させています(とりあえずミキサーとしてVS-880を使用)。ただ、配線コードがぐちゃぐちゃで困惑です(ラップトップミュージックは楽でよかったなあ)。ギターを録音する試みは時間がかかりそうです。

複雑であることを容認したいと思うのですが、ときにはリセットをかけて、身体に絡まった配線コードを抜いてみると、すっきりすることもありますね。

うーむ。風邪ひいちゃって、思考がまとまりません。なので、この辺で。

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2007年2月23日

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情報のトリミング、加工の技術。

「リーダーシップ・マネージメント」という本に書かれていた「言葉が世界を分節化する」というキーワードに示唆を得て、さまざまなことを考えています。

ジェームス・W・ヤングやジャック・フォスターなどの本では、新しいアイディアは組み合わせから生まれる、ということが言われています。発想の技術としては古典的なセオリーであり、以前にもブログに書きました。組み合わせだけではなく、分節化から創造的に新しいものを生み出すこともできるということは、考え方のフレームワークとして面白いですね。

しかし、よく考えてみると、A・B・Cという要素で何かが構成されていたとき、A+BとCで文節化されていた何かを、AとB+Cで再編成するということが文節化の切り口を変えるということです。これは組み合わせの方法を変えた、と同じことではないでしょうか。つまり、組み合わせが新しいものを生み出すということ、文節化で世界が変わるという2つの考え方は、表現こそ違うけれども同じアプローチといえるかもしれない。

音楽で考えてみます。専門的な知識はまったくないのですが、小学校程度のシロウトの音楽知識からも、和音の構成を変えると音が変わるということはわかります。たとえば、Cのコード(和音)であるドミソを、ミソドやソドミで弾いたとき、和音としては同じであっても和音から生まれる世界観のようなものはがらりと変化します。単音だけ注目すると音の構成を変えた、ということになるのですが、71鍵のキーボード上で全体を見渡すと、長い鍵盤から別の部分の音を切り取ったということになりそうです。ドミソとミソドは記号的には構成要素は同じであっても、オクターブ上のドと下のドは違う音だからまったく違う和音ともいえなくもない。ギターも高いフレットで押さえたC と低いCのコードは同じであるとはいえ、音はまったく異なります。

写真や映画も同様ですね。写真の場合、トリミング(trimming)といわれるのですが、撮影した写真であっても雑誌や何かにレイアウトするときには、たとえば上部と左部分をカットする、など加工します。まだデジタル化されていない頃には、写真の紙焼き(印画紙)やポジフィルムの上にトレーシングペーパーをかけて、対角線を鉛筆でひいて切り取る部分を指定した後に入稿(印刷会社に入れること)したものです。いまはDTP(デスクトップパブリッシング)なので、マッキントッシュの画面上で簡単にできることかもしれませんが。

トリミングで思い出してしまったのですが、「ブレードランナー」という映画でハリソン・フォードの演じるデッカードが、自宅で写真をチェックするシーンがありました。この機器が音声対応で、もっと右、拡大、などと声で指示すると、ぴっぴっぴっという感じで写真が大きくなったりトリミングされたりする。あのビューワーが印象的で、パソコンも完全に音声で指示ができるようになるといいのに、と思ったりしました。

YouTubeで検索したところ、やっとみつけました。以下の映像は、勝手に編集してしまっているので若干困ったものなのですが(いずれ消えるかも)、カウンターの残り50秒あたりのシーンでそのビューワーが出てきます。一瞬だけですが。

■Sushi Master in BLADE RUNNER

日本語を話す屋台のおじさんのシーンと「ふたつで充分ですよ」という台詞はぼくも気に入っています。英語と日本語でコミュニケーションしているのも、不思議な世界です。しかしながら、Sushi Masterなんでしょうか。うどん屋だと思っていたんだけど。でも、なんだか笑える。シリアスな映画も編集次第ではコメディになっちゃいますね(笑)。

映画も編集が重要です。フィルムのどこを切り取るか、どこをつなぐかということが重要になる。だからディレクターズカットのように、採用されなかったシーンが加えられた別テイクの映像が存在する映画も多い。「ブレードランナー」にもあります。現像したテープを切り貼りしていた時代は遠い昔のことで、いまはノンリニアでハードディスク上で加工が簡単になったようです。しかしながら、それ以上の技術も発展しているので、逆に情報を加工する時間はかかっているのではないかとも思います。

というわけで、とりとめがなくなってしまいましたが、情報が氾濫するネット社会では、音楽や写真や映画だけでなく、情報を切り取ること、情報のトリミングも重要になってきます。

ブログで何気なく使っている引用という手法も、切り取る技術だと思います。あるいは、切り取ってコラージュする技術、スクラップする技術でしょうか。紙になった書籍や新聞にしても、ネット上のブログの記事にしても、切り取って組み合わせて、そこにさらに自分の意見を加えることで自分のエントリーとして表現している。情報編集の技術が求められます。

情報の切り取り、つまりフィルタリングを自動化するのが先日も書いたYahoo! Pipesなのかもしれませんが、フィルタリングされた情報を2次元もしくは3次元的にみせることで、まったく別の見せ方も可能になっていく。

そんなことを考えていて、面白そうだと思ったのが「Kizasiお出かけマップ」でした。

■Kizasiお出かけマップ
http://odekake.kizasi.jp/tokyo/
http://odekake.kizasi.jp/sizuoka/

KIZASIといえば、ブログの頻出ワードをランキング化し、トレンドをグラフでみることができるサービスとして注目していたのですが、これは地図という情報と組み合わせて、現在、最も多くのブログで語られている場所を地図上にプロットするとともに、その頻度を赤い円の広がりや濃さで視覚化するサービスのようです。現在のところ梅関連あるいは河津桜の記事が多いようです。これからお花見のシーズンになると、各地の情報をブログから知ることができていいのでは。

もちろんブログ検索などを使ってダイレクトに情報を得る手段もありますが、地図上に配置されているとわかりやすい。ソース(情報源)は同じであっても、見せ方によってずいぶん変わるものです。現在は東京と静岡だけのようですが、広範囲にフォローしていただけるといいですね。

天気は不安定ですが、そろそろ春の気配。お出かけしたくなる季節です。河津桜の原木がある伊豆の河津町はぼくが生まれたふるさとに近い場所であり、河津桜の便りを読みながら、なんとなく懐かしい気持ちになりました。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)