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2006年9月15日

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閾値、可変性について。

世のなかには確固としたモノサシがある、と考えたい。しかしながら人間の尺度というものは伸びたり縮んだりするものです。長さを測る道具は変わっちゃいけないものですが、人間を測るモノサシは常に変化するものです。

変化し生成する人間を標本箱に押し込んで測るために、統計的な処理も可能だとは思うけれど、統計的に処理されたくない「個」としての自分もいる。頭があまりよくないので、感覚に頼った見解ばかりなのですが、今日は、可変性ということについて考えみます。

昨日、「閾値」という言葉を使ってみたのですが、はてなのキーワードでリンクしたところ「Threshold」という英語の解説があり、一気に親しみを覚えました。音楽をやっているひとならわかるかもしないのですが、エフェクター(音を歪ませたり、エコーをかけたりする機械)に、スレッショルドというつまみがあります。効果の効き方を調節するつまみです。たとえばコンプレッサー(リミッター)であれば、どこから音を圧縮しはじめるか、という部分を設定するのがスレッショルドのつまみで、低めに設定するとはやくから効果が効きはじめる。ゆるめに設定すると、ちいさな音のときには効かないのですが、大きな音になると効くわけです。

ぼくがDTMで使っているSONARというアプリケーションに付属しているSonitus:fxのコンプレッサーでは次のような画面になっています。

comp.jpg

赤く丸で囲んでしまったのですが、左側の「-14.0db」という値がThresholdで、その下のグラフをみると、-14.0dbあたりからカーブががくんと曲がっているのがわかると思います。つまり、この部分からエフェクトが効きはじめるということです。

昨日は、このエフェクトが効きはじめるということを、人間の「満足」に置き換えて、この値をぐぐっと下げてしまえば満足しやすくなるし、一方でどばっと上げてしまうと満足であると感じられにくくなる、という解説を試みてみました。

人間のことを考えてみると、この「閾値」は常に変化しています。一定の設定のまま、いつでも効果の効き目が決まっているということはない。ひとりの人間の場合も可変ですが、ひとそれぞれ設定が違います。だから、ばらばらな閾値が、常にめまぐるしく変わっている状態が人間の世界といえるかもしれません。

そして、意識的に閾値を変えている、ということもある。親しいひとに対しては、大目にみる(閾値を下げる)のだけど、敵対する誰かに対しては非常に厳しい評価をする(閾値を上げて、満足の敷居を高くする)。あるいは「空気」というものも影響して、「なんとなくみんなの評判が悪い」という事前の情報があると、先入観を生じさせて閾値を高めてしまうこともあります。よいものであったとしても、バイアスがかかってしまう。

普遍的なモノサシがないばかりか、満足させようと思っても効き目が一定ではない、ということをぼくらはもっと意識すべきだと思うし、逆に、前提として閾値のハードルを下げることができれば、ささいなことでも満足を向上させることができるかもしれません。

たとえばですね、仕事でお客様を訪問したときに、いきなり難しいことを言う、お客様を批判する、売り込みを開始する、というと、一気に閾値を上げてしまうことになりかねません。けれども、当たり前のことですが、最初はウォーミングアップとして、あえてプライベートなことを語ってみる。すると、ガード(閾値)が下がることもあるかもしれない。もちろん、すべてに通用するテクニックではありません。プライベートはいいから本論へ!という方もいます。ただぼくは、身体が温まっていないところに強行突破をかけても無理だと思うし、逆にその強行な印象がすべてを壊す場合もあり得ると思う。相手のレベルメーターがどの辺りを指しているのか推しはかりつつ、前進、留保、迂回、撤退、飛翔、潜行、隠蔽、消去などの方策を練ることが重要という気がします(もちろんテクニックの話ではありませんが)。

感動の閾値が低い状態にあると、どんな映画を観ても小説を読んでも泣けてくるのかもしれないのですが、じゃあこの程度で十分だろう、とたかをくくって制作されたりすると、つまらん、なんだこりゃ?と批判が殺到する場合もある。かといって、顧客重視の観点が行き過ぎて、お客様に媚びたりすると作為的な姿勢がマイナス評価になり、「この製品は、ぼくが欲しかったものですっ!」のようなピュアなプロダクトアウト製品のほうが、やんやと受けたりもする。

あらゆる状況に適応するセオリーはありません。すべては変化しつつあり、「いまここで」と言った言葉が過去になっている、ということなのかもしれません。

さて、ひとの心が変わりつつある浮動的なものであるからこそ、誰かの心を変えることもできるかもしれない、という夢もある。一定の法則が支配する世界ほど殺伐としたものはないと思うのですが、法則が生成し、消滅し、また誕生するような世界であるからこそ、誰かを、そして世界を変えてしまうような言葉が創造できそうな、わくわくした感じもある。

言葉は世界を定義し、静的な構造に落とし込もうとするのですが、言葉化したときに、その対象は既に過去のものになっています。まだ言葉になっていないもの。言葉にしようとするとするりと脳のなかを潜り抜けていってしまうものにこそ、ぼくは目を向けなければいけないのかもしれません。

まったく可変性について語っていませんね。可変性について語りたいことがあったのですが、忘れてしまいました。思い出したら追加します。

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2006年9月14日

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満足って何だろう。

限りのある人生なのできちんと生きたい、満足できる人生を送りたい、と思う秋のとばぐち。しかしながらきちんと生きることと満足のいくように生きることは違うのではないかと思いました。きちんと生きても満足できないこともあるし、ちゃらんぽらんであっても大満足ということもあり得る。

満足というのは幅広い分野で使うことができる言葉で、たとえば仕事では顧客満足(CS:Customer Satisfaction)などということが重視されます。そのためにマニュアルを整備したり、調査を行ったりする。またモチベーションのマネジメントにおいても重要で、マズローの欲求五段階説なども、ある段階の欲求が満たされると高次の欲求を求める、という充足(満足)の考え方が基本にあったような気がします。Webサイトのコンテンツにも満足は重要な観点になるし、子育てにも満足できるかできないかということはあるし、趣味であっても満足をどこまで追求するか、ということがある。

そんなわけで今日は、満足について考えてみます。

満足の反対は不満だろうか、と思うのですが、何かの本で読んだのですが、不満を取り除いたとしても満足を向上させることにはならないようです。不満を取り除いたときには、マイナスをゼロに戻すようなもので、そこからプラスに転じるのは、まったく考え方が異なる。

ということをつらつら考えつつ、ぼくのなかにひとつの法則というか言葉が浮かんできたので、書いてみます。検証していないので、既に誰かが述べていることかもしれません。そもそもの発想は、最近よく考えている「全体」と「部分」の考え方にあり、その思考を下敷きにしたものです。つまり、

「満足は全体思考からもたらされて、不満は部分思考に起因する」

ということです。どういうことか、例を挙げて説明してみます。

いまここに定年を迎える夫婦がいて、仮に女性の方をペケ子さんとするのですが、彼女が定年を迎えた夫に言うわけです。「あなた離婚してください」と。ええっそりゃまたどういうことだい?と晴天の霹靂のように驚く旦那さんなのですが、彼女がつづけていうことには、

「あなたの鼻をかむ音が嫌なんです」

と。がーん、そんなぁ(へなへな)と力が抜けてしまう旦那さんは悪人かというとそんなこともなく、結婚記念日には花束とケーキを買って家に帰ってきていたし、息子と休日にはキャッチボールもしていた。彼の特長的な10の傾向のなかで1つだけ、鼻をかむ音がひどい、という短所があった。けれどもペケ子さんには、それが許せなかったわけです。その鼻の音はなんなんだ、と。

一方で、ここにもうひとりの夫婦がいて、仮に女性の方をマル子さんとするのですが、彼女の夫はとんでもない男で、ギャンブルはするは浮気はするは顔のバランスは崩れていて足はミニチュアダックスなみだったりして、傍からみていると、どうして夫婦になっちゃったかな、という印象がある。けれどもマル子さんは言うわけです。

「いいひとなのよ」

と。ええっ、いったいどこがいいひとなんですか挙げてみてください列挙してください、と追求したくなるのですが「どこと言われると困るけど、いいのよ彼」などと言って笑ったりする。

と、書きながらこの理論には問題がある、ということに気付いてしまったのですが、ある部分の不満が全体に影響を及ぼすこともあれば、同様に、ある満足が全体をフォローすることもある、ということもあります。10のうち9はひどいことばかりなんだけど、笑顔がステキ、というようなパターンです。

うーむ・・・。この理論、使えませんね。とほほ。

とはいえ、多くの場合、ひとつでも不満が生じると、あらゆるよいことを駆逐してしまうような現象があるのではないか、と思いました。熱烈なファンがクレーマーに転じるのもそういうときで、だからこそ不満(クレーム)というのは留意する必要があります。企業ブログが炎上する場合はもちろん、リスクマネジメントでも重要になる。部分の問題が、全体に波及することがあるわけです。それが怖い。

だからといって、ぼくはペケ子さんよりマル子さんの方が偉くて、みんなマル子さんのようによいところだけみよう、美点凝視だ(新人時代に習った言葉です。みんなのよいところだけをみましょう、という考え方)という風には思いません。ペケ子さんにとっては、鼻をかむ音こそが世界を図るモノサシであり、「鼻をかむ音がひどくないこと」が世界を正常に保つために重要なことであって、代替的にほかのどのような美点があったとしても、それは使いものにならない。

ぼくは、そういうひともいてよいと思います。そんなひとに「もっと世界のほかの部分をみようよ」ということほど、おせっかいなこともないと思う。つまりそれがペケ子さんの価値観であり、その価値観をありのままに容認することが重要な気がしています。国際化の基本も、異なる価値観を押し付けるのではなく、理解できない文化を理解しようとするところ(ありのままにみようとするところ)に、あるのではないか。

ぼくからみると変だけどさ、その考え方もありだよね、という許容力。それが成熟した社会には重要ではないか、と思います。異端な考え方を排除し、集中的に批判したり吊るし上げることこそが稚拙であり、もっと多様性を許容できる社会になると日本の未来も面白くなりそうな気がしているのですが、いかがでしょう。

ぼくの考え方も変わりつつあるようですが、こんな風にも思います。

たとえば満足の閾値(threshold)を下げてあげると、どんなことにも満足するようになるかもしれません。空が青い=満足、風が吹いた=満足、みんな仲良し=満足、ランチが美味しい=満足、のように。

それはそれでしあわせなのかもしれないのですが、高い満足を求めなくなるような気がしました。理想と現状の距離が課題である、ということをビジネス書で読んだ覚えもあるのですが、ときには身の程知らずの高みに挑戦するのも大事です。その跳躍が高ければ高いほど、影響があるのは個人だけではなくて、社会も変わる。そして、達成したときの満足度は桁はずれなものなのです。もちろん手の届かない理想ばかり追いすぎると、満足できない=不満になってしまいますが、閾値を下げすぎると向上心がなくなってしまう。そのあたりの匙加減はものすごく重要です。

足というのは、青天井のようなものかもしれません。一度満足してしまうと、もっと満足できる刺激を求める。満足には際限がない。

えーと。まとまりがつかなくなったので、断片的にいろんな考えを書きとめることにしますが、不満を不満で消去することはできないか、ということも考えました。というのは先日、何のテレビだったか忘れたのですが、騒音を騒音でやわらげるというシステムが紹介されていたからです。位相を反転させた音をぶつけると、音は消える。そんな風にして、騒音を減少させていたようでした。

その映像をみてぼくが思い出したのは、遠い昔まだぼくが少年だった頃、カセットテープの音をカラオケにする機械があった、ということでした。たいていボーカルはステレオの場合、中央(センター)に定位しているもので、そのセンターの音の位相を反転すると、センターの音だけ消えて、L(左)とR(右)が残る。つまりボーカルの消えたカラオケになる。この機械を使ったとき、少年のぼくは、ほんとうにびっくりしました。センターの音を消すと同時に、左右の音をくっきりと際立たせるので、カッティングギターの音などが明瞭になる。え?こんな音が鳴っていたの?という驚きでした。

位相の反転という考え方を応用すると、不満を満足で解消するのではなく、不満には(位相を反転した)不満をもって打ち消すという方法もあるのではないか、と。具体的にどうなのか、というと困ってしまうのですが、子供の教育のためにあえて反面教師になる、というようなことでしょうか。破綻してしまったのですが、「満足は全体思考からもたらされて、不満は部分思考に起因する」論を用いると、不満である状態は思考にブラインドが落ちて、全体思考ができない状態ともいえます。そこで、あえてさらに細部を追求することによって、ああ、そんなことやってちゃダメだ、全体をみなければ、と思わせるようにするショック療法もあるかもしれません。ネガのネガはポジである、という発想に近いかも。

というわけで、満足って何だろう?、という問いに対して、わからんっ!、という答えだけが残りました。わからないので、もっと考えてみようと思います。

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2006年9月11日

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自分OSをつくる。

ものすごいカミナリと雨のために明け方叩き起こされて、寝不足と体調不調のままつらい一日を過ごしながら、ああ今日は9・11だと思いました。あれから5年になるのか。はやいものです。地下鉄の駅で電光掲示された時計に目をやったところ、まさに19:11でした。ちょっとした偶然を楽しみつつ、5年前の今日から3日後、ぼくの父親は脳梗塞で倒れたことをぼんやりと思い出しました。テロと父の死は、ぼくのなかでは密接に重なっています。もしかするといまでもどこかに影を落としているのかもしれません。

といってもLife goes onというか、ぼくの毎日は容赦なくつづくわけで、立ち止まっているわけにはいきません。ブログを書くこと、書きつづけることがどういうことなのか、ということを常に考えつつ書いているわけなのですが、最近、さまざまな方々から刺激もいただいて、うまい具合に思考をドライブできるようになった気がしています。

ブログとは何か、ということを考えてみたのですが、さまざまなひとが、さまざまな目的でブログを書かれているかと思います。そして、ぼくの場合には、

「自分OSをつくる」

という目的のために書いているのではないか、と思いました。

OSというのは、オペレーティング・システムの略であり、要するにWindowsとかMac OS Xとか、Linuxなどのようなものです。

人間の思考をOSと言ってしまうことには抵抗もあって、今週にはIPOも予定されているかつてのイー・マーキュリー(現在はミクシィ)が会社名を変更するとき、mixiは事業のOSである、という方針を出したことがあり、なんとなく抵抗を感じたことを思い出します。ただ、その考え方は非常にわかりやすいと思います。そんなわけでOSという比喩を使ってみるのですが、OSだけでは何もできません。その上にアプリケーションがのらないと何もできない。けれども、一方でどんなアプリケーションものせることができます。ビジネス用のワープロをのせることもできれば、音楽制作ソフトを使うこともできる。可能性が開かれています。

大前研一さんの「ザ・プロフェッショナル」という本を読んで感じたことが、まさにこの「OSの上にどのようなアプリケーションをのせることも可能である」ということでした。

4478375011ザ・プロフェッショナル
ダイヤモンド社 2005-09-30

by G-Tools

かつては命令にしたがって専門的な能力を発揮するスペシャリストが求められていました。ところがこれからの時代では、環境の変化にしたがって自分で考え(アプリケーションを切り替えて)力を発揮できるフレキシブルな能力を持ったプロフェッショナルを求めている、というようなことを述べられています。自分OSとは、思考のフレームワークともいえるのですが、自分なりのパターン認識や処理の高速化をしていれば、どんな環境にあってもフリーズせずにさまざまな創造的な仕事ができるのかもしれません。

自分OSをブログに求めたとき、それはオープンソース的なものになると思います。基本的には自分ひとりで思考を構築していくのだけど、ネットで公開している以上、コメントをいただくことによってバグを修正することもできる。感情的に暴走したとしても、批判によって食い止めてくれるひとが出てきてくれるかもしれない。とてもありがたいことです。そんな反応をいただくことによって、自分OSを改良し、よりよいものに向上させることができます。

最近の技術では、仮想化(Virtualization)が注目を集めていますが、この動向も技術だけでなく考え方自体に興味深いものを感じました。

仮想化とは、乱暴に言ってしまうと、ひとつのマシンのなかで複数のOSを起動できるようにすることです。一般的にはWindowsとLinuxを立ち上げるなど、異なったOSを立ち上げることが考えられますが、ぼくが注目しているのは、同じOSをふたつ起動して、ひとつは利用者からはみえないバックエンドで監視用として動かす、という使い方です。

つまりユーザー側からみると、ふつうのPCを使っているようにみえる。ただ、クライアントマシンのなかでは、ユーザーにはみえない監視用OSが立ち上がっていて、たとえばネットワークからウィルスなどの攻撃があったとすると、そのOSが自律的にマシンをネットワークから隔離して、ユーザーの領域を守る、ということができるようです。

これは考えてみると、人間に近いものがあって、監視用OSの働きは人間の脳における「無意識」なのではないか、と考えました。無意識の働きはものすごく大きいものです。直感によって、なんとなく虫の知らせとして意識に表れてない脅威から自分を守ってくれることがあります。さすがに直感を再現するところまで技術は追いついていないのかもしれませんが、パソコンはどんどん人間の脳に近づいているような気がします。

ところで、再び自分OSの話に戻るのですが、このOSをバージョンアップさせていくためにはどうすればいいか、というと、これはもうこつこつと積み上げていくしかない。とにかく一行でもいいから、毎日ブログを書くことです。この積み上げることの大切さについて面白いと思ったのは、いま読んでいる(P.74のあたり)「「脳の鍛え方」入門」という本に書かれている池谷裕二さんの見解でした。この本はプレジデントの記事をまとめたものですが、各界のできる方の仕事術などがあって、とても参考になります。

4833450232「脳の鍛え方」入門―40歳を超えてから頭は良くなる! (PRESIDENT BOOKS)
プレジデント社 2006-07

by G-Tools

仕事は区切りのいいところではなく先読みしてちょっと先の仕事をやっておくと、眠っている間にも意識は処理してくれるので効率的という話とか(眠っているあいだにコビトが仕事してくれるといいのに、と思っていたので、ああ脳のなかにコビトさんはいたのか、と思いました)、先日ブログにも書いたセレンディピティ(serendipity:「偶然から思わぬものを発見する力」)などもあって参考になります。そしてセレンディピティを池谷さんは「誰でも知っていることの中に重要性を発見する力」と定義して、次のように書いています(P.25 )。

では、脳の中の神経細胞はどうすれば繋がるのかといえば、外から入ってくる刺激が多いほど、繋がることがわかっています。このことは、アメリカの生物学者ゲイジの研究によって明らかにされています。

ネズミを遊具のある環境とまったくない環境においたとき、遊具のある環境の方が海馬の神経細胞が15%も多くなったそうです。このように一点集中ではなくて分散された刺激を楽しむことが大事であり、蓄積された「手続き記憶」が力を伸ばすということが書かれていました。手続き記憶というのは、「自転車の乗り方」のようなもので一度覚えてしまうと意識しなくてもできるようになる記憶らしい。そして、手続き記憶はインプットの量によって「"べき乗(累積)"で増える」そうです。以下、引用します。

さて、この手続き記憶は「"べき乗(累積)"で増えるという性質を持っています。Aを覚え、次にBを覚えると、A、Bそれぞれの手続き記憶が相乗効果を起こして、それぞれの理解を一層深めます。これを「事象の連合」といいます。
この事象の連合が起きると、二つ覚えたことが四つ(二の二乗)になり、次には八つ(二の三乗)になるというように、勉強の成果が幾何級数的なカーブを描いて上昇します。

そうして次のように結論します。

つまり、凡人でもたゆまぬ努力を続けていれば、爆発的に能力がアップする瞬間が必ずやってくるのです。

凡人であるぼくにとっては、非常に勇気づけられる言葉でした。

かつて、「はじめの一歩」というマンガを引用して、野生的な天才チャンピオンに立ち向かう鷹村が最後に勝てたのは、意識がなくなっていても日々の練習によって積み重ねられたフットワークを身体で覚えていて、その身体が覚えていた力が圧倒的に効いた、という日記を書きました。そして、こつこつ積み上げることが大事である、ということを認識したのですが、あらためて自分OSを向上させるためには近道などはなく、日々考えつづけること、書きつづけることなのかもしれないな、と思っています。

この積み上げたOSの上に、どんなアプリケーションをのせるか、ということが重要なんですけどね。ただ、今日のエントリーで書いた方向性としては、ぼくのブログは完成されている必要はなく、むしろとんでもないカオスであってもかまわない。そして、多様性に開かれていた方がよいのかも、などと考えています。

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2006年9月 1日

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インプット、アウトプット。

旅行中にデジタルカメラが壊れて、札幌のヨドバシカメラで3万円ほどでFinePix V10を購入したのだけど、なんとなく歯ブラシを失くしてしまったからコンビニエンスストアで購入するような感覚がありました。

それまで持っていたデジタルカメラはFinePix F401で、5年ぐらいは使った気がします。以前には、デジタルカメラを購入するにはかなり真剣に悩んだような気もしていて、さらに高級なものだという印象があった。ところが、今回は必要に迫られてということもあるのですが、なんとなくひょいと買ってしまったわけです。

もちろんいまでも10万円以上するデジタル一眼レフについては、そんな風に買えるものではないけれども、それ以外のものはどちらかというと生活必需品に近い。コモディティ(日用品)化しているともいえる。実際に、なんとなく従来から使っていたことと価格帯からFinePixを選んだのですが、乱暴な話をしてしまえば、記録ができれば何でもよかったわけです。

ちょうど読んでいた大前研一さんの「ザ・プロフェッショナル」という本に、この現象に対する答えのような部分があり、興味深いものがありました。写真ファンという一部を除いて、デジタルカメラはパソコンに「入力」するための部品であるということです。以下、引用します(P.106)。

人間の目は三○○万画素以上の画像を識別できません。つまり、それ以上の画素数は無用です。部品としてのデジタルカメラはこのハードルを越えています。もはやデジタルカメラは、プロのカメラマンや愛好家を除いて、ボーナスをはたいて購入するような商品ではなくなってしまいました。アメリカでは使い捨てデジタルカメラが一○ドルで販売されています。一世を風靡した使い捨てカメラという業界も死に瀕しているのです。

携帯電話に付いているカメラも最近では高い画素数になっていますが、やはり用途としては記録もしくはインプットするための「部品」です。そして、インプットという機能はアウトプットとも無関係ではなく、アウトプットがどれだけ高速かつきれいであるかということも関わってくるようです。

フィルムのカメラは写真屋さんに持ち込んで紙で出力しなければならないために、最速でも1時間ぐらいかかるものであり、その時間がもどかしい。一方でデジタルカメラや携帯電話のよさというのは、撮影した画像をその場で画面上でアウトプットして確認できることです。

ブログのよさというのも、キーボードで入力した文字を画面上ですぐに確認できる点にあります。ワープロ以前の時代には、原稿を書いて印刷所に持ち込んで写植屋さんなどが活字を組まなければ、活字という形で確認できませんでした。それがワープロ時代には、すぐにプリントアウトできるようになった。そして、いまではプリントアウトしなくてもネット上の画面で確認できる。もちろんプリントもできますが、画面で確認できれば印刷しなくてもよいという印象もあります。

はてなの編集画面では、「編集」の横に「プレビュー」というタブがあり、作成した内容をすぐに確認できるようになっているのですが、何気ない機能でありながらこれがぼくには結構うれしい機能だったりします。もちろん編集画面の下部には従来どおり、「確認する」というボタンがあるのですが、こちらは編集画面に戻りにくい。完成に近い状態でプレビューする場合には画面下部のボタンを押すのですが、書きながら確認する場合には、タブで切り替えたほうが使いやすい。

ブログのアウトプットといえば通常横書きですが、日本人はやっぱり縦書きでしょ、という感覚もあって、最近みつけて面白いなあと思っていたのは、縦書きブログ「八軒屋南斎」 です。以下はスクリーンショット。

060691_tate.JPG

フォントがいまひとつという気がするのですが、やっぱり日本語のよさは縦書きで発揮されるような気もしていて、横のものを縦にアウトプットするだけで雰囲気はまったく別物です。このような技術の開発は、応援したいですね。あるといいなあ、と思いつつ、なかなかありません。

ところでカメラというカテゴリーで考えると、フィルムカメラとデジタルカメラは競合するように思えますが、実はインプットという視点では、デジタルカメラと競合するのは、キーボードかもしれません。静止画・動画の入力機器と、テキストの入力機器という意味です。ということは、アウトプットで競合するのは、ディスプレイとプリンターになる。

この考え方を基盤とすると、テレビとパソコンは競合ではないともいえます。というのは、テレビはいまのところはインプットできないので。双方向型のテレビになったとしても、たとえばボタンを押して投票して簡易アンケート集計のようなものができるだけでは、まったく競合にならない気がする。

インプットとして競合するのは、デジタルカメラ、ビデオ、キーボード、ペン入力のボード、マイクであり、そして人間の目でしょうか。いまのところデバイスとしてあまりないのが触感、嗅覚のようなものであり、そんな装置もこれから開発されていくのかもしれません。ただ難しいのは、アウトプットがしにくいということでしょう。パソコンからよい匂いが出てきたり、ディスプレイに表示された女性に触れるとやわらかい、というのはちょっと楽しそうですが、パソコンから悪臭が放出されてくさくなったりすると困る。

音声をテキストに置き換えたり、鼻歌をMIDIのデータに置き換えるようなソフトウェアもありましたが、やはり何が問題化というとインプットの問題はもちろん、アウトプットの精度という気もしています。開発者の方としては当然のことかもしれませんが、インプットとアウトプットは別々に考えることではなく、両側面から考えることかもしれない。

映画を観たり小説を読むのも同じであって、知人によかった内容を教えてあげる=アウトプットしたり、ブログにレビューを書くことによって、逆にインプットの幅が広がるような気もしています。たくさんインプットしてもほんのわずかしかアウトプットできないこともあったり、一瞬のひらめきが膨大なテキストを生産することもあるのですが、頭のなかを活性化するためには、バランスよく入力と出力を繰り返すことが必要だと思います。

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■FinePix V10の製品ページ。ほんとうはiフラッシュ搭載の機種がよかったんですけどね。iフラッシュは、フラッシュが届かない暗い背景もきれいに撮れる機能のようです。

http://fujifilm.jp/personal/digitalcamera/finepixv10/index.html

■縦縦書きブログ「八軒屋南斎」。しかしながらこれは単純に横のものを縦にすればいいという問題ではなく、縦書き思考で文章を考える必要があると思います。つまり、横と縦では書く姿勢を変えるべきである、とぼくは思う。こだわりすぎかもしれませんが。

http://www.nansai.net/blog.swf

■鼻歌ミュージシャン2。DTMを趣味としているのですが、ぼくの場合はコード先行が多いので、どうかなという気もします。けれどもソフトウェアという道具を変えると、曲づくりもメロディ先行型に変わるかもしれない。

http://www.medianavi.co.jp/product/hana2/hana2.html

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2006年7月16日

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しなやかさについて。

こだわりが重要ではないかと思っていた時期もあるのですが、最近は、こだわらなくてもよいのではないか、という感じです。こだわるよりむしろ「夢中」になっていたい。寝食を忘れて何かに打ち込むことができることは、しあわせじゃないだろうか。しかしながら、夢中になって他の何かを損なってしまわないように気をつけたい。何かを損なうぐらに夢中になることが、ぼくの考える「こだわること」という印象に近いのですが、それは「執着すること」かもしれません。夢中にはなりたいのだけど、執着からは自由でありたい。そして、いちばん面倒なことは、他人から縛られることではなく、自分で自分の思考に限界を作って思考を縛り付けてしまうことです。

という意味ではバランスが大事、ともいえるのですが、バランスといってしまうと何かぼくが言いたいニュアンスから遠ざかってしまう。たとえば感情に関して言うと、怒らなければならない場面で怒りを抑えて笑っていることは、バランスがあるとはいえないのではないか。それは感情の抑圧であって、抑圧された感情はどこかに悪影響を与えてしまうものです。身体かもしれないし、精神的なものかもしれない。抑圧されると心理学的には表情がなくなるようで、海原純子さんの本でそれを「よろい」と書いているのだけど、男の美学のようなものでがんじがらめになって、よろいをかぶって生きていくことが、実は自分だけでなく家族にもコミュニケーション不全を起こす要因になるようです。

とはいえ、ピークメーターを振り切るような感情を露出すればいいというものでもありません。トレンドの話題は避けていたのですが、サッカーのワールドカップでジダンが頭突きをしました。うーむ、見事な頭突きだ、と感心したのですが、一瞬後に、これは格闘技じゃなかったよね?とふと思った。どんなに汚い言葉をかけられたとしても、サッカーにはサッカーのやり方があるわけで、その怒りを感情に任せて暴力をふるうのではなく、ゲームの攻撃に込めればよかったのに、と思う。と、あまりにも当たり前の正論なので自分でどうかとも思うのですが、よい仕事をすればくだらないやつの言葉なんて霞んでしまうものじゃないだろうか、と。

頭にきたから頭突きした、頭にきたから批判した、頭にきたから人を刺した、頭にきたから戦争だ、というロジックは成立しないと思います。成立しないのだけど、同質化を重視するような右にならえの世のなかでは、成立しないようなことも大きなうねりのなかに飲み込まれてしまう。他のやり方がなかっただろうか、という選択肢がみえなくなる。執着する心は、ひとつ間違えると、とんでもないパワーで人間を意図しない世界に運んでいってしまいます。だから個としての自分を持たなければならない。

ただし、その個も流れに逆らって頑なに踏ん張って自分の場所を守るのではなくて、しなやかであればいいと思いました。やはり海原順子さんの「こころの格差社会」に孟子第76章の次のような言葉が引用されていました(P.76)。

人は生きているときは柔らかで、しなやかである。しかし死んだらこちこちになり、かさかさになる。
草にしろ木にしろ、何もかも生きているときは柔らかで、しなやかであるが、死んだらひからびて、かさかさになる。こちこちして堅いものは――死の仲間であり、柔らかくしなやかなのは――生の仲間である。それゆえ暴力は真の勝利を収めえない。

よい言葉だと思います。孔子、老子、あるいは菜根譚を読み漁っていた時期があるのですが、あらためて上記の言葉は心に染みました。執着があると心が硬くなる。心が硬くなると身体的にも緊張があり、それは決してよいことではない。死の兆候ともいえるわけです。

感情に関しては、海原さんは以下のようにも書いています(P.161)。

感情を表現する、ときくとすぐに激怒、激情を連想する人は、平素感情の抑圧をしつづけている人である。先日あるラジオ番組で「感情」をテーマにしてトークを行ったところ、「私は感情をさらけ出すのははしたないし嫌いだ」という反応を中年男性からいただいた。
感情に対して、抑圧か、さらけ出すかという二者択一的反応は危険である。感情こそ、上手に伝える、表現する、という姿勢が大切なのである。

嫌いなものは嫌いだと言えばいいし、美しいものは美しいと言いたい。ただ激情は抑え気味にして、相手に伝わるように表現することが大切です。プライベートなことになりますが、徹夜の看病のあと、3歳の息子が病院に入院することになったとき、暴れて号泣する息子の声を聞いていたらぼくは涙が止まらなくなってしまった。そのときにハンカチをくれた奥さんには何かが伝わったような気がしました。あのとき、男だからかっこ悪いなどと頑張ってしまっていたら、ぼくは頑張ることで、もっと大切な何かを損ねたような気がします。

頑張らなくてもいいんじゃないでしょうか。肩の力を抜いて、深呼吸しつつ。

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