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2006年5月12日

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ポインタとプリセット。

心もやっかいなものですが、身体もかなりやっかいなものです。今朝、起きるなり喉が痛く、左耳もなんだか痛く、さらに右足の親指もなぜか痛く、身体中が痛いひとになっていました。喉と左耳は風邪のせいかもしれないのですが、足はなんだかわかりません。なんでしょう。最近、すっきりと何も痛みがない状態というものがなくて、どこかしらに支障がある。健康な身体とは、どういうものだったのでしょう(遠い目)というノスタルジックな感じです。すかっと健康な身体に戻りたいものです。

さて、今週は話題をいろいろと変えようとしたものの、「クオリア入門」という本がいろんなことを考えさせてくれるので、今日もこの本から考えたことを書くことにします。ものすごく抽象的な話になります。

ざっと今週の思考の道筋を振り返ってみると、まず情報と経験とは何か、ということについて考え、つづいてマッハの理論、反応選択性のドグマなどからクラスターについて考え、情報も人間も言葉もつながりたがるという結論に達して挫折しました。しかしながら、その後、茂木健一郎さんの「クオリア入門」を読み進み(もう少しで読了というところですが)、いろいろと面白い見解がありました。

ひとつには「両眼視野闘争」。これはどういうことかというと、乱暴にまとめてしまうのですが、情報としてはインプットされているのに「見えていない」状態があるということです。縦縞と横縞の刺激を左右の目に別々に見せるような実験も書かれていたのですが、たとえば視界に認識されていない領域にボールを投げてもキャッチできるような状態があるそうです。つまり心には投影されていないけれど、視覚的情報としてはインプットされている。一方で、視覚にインプットされていないのに認識してしまうこともあります。パックマンが3つ向かい合っているような図形を見ていると、その中心に三角形が見えてくる、というようなことが書かれていました。

ここで茂木健一郎さんは、コンピュータ・サイエンスから「ポインタ」という概念を持ってきます。ポインタとは「実際のデータの内容ではなく、「このアドレスにそのデータがある」という、データの所在を指定している概念(P,181)」とのこと。

ということを読んで、ぼくは妄想というか考えを広げてしまいました。

音に関しては、音素(Phoneme)があるということを以前ブログで書いたことがあります。いきなり趣味のDTMの話に展開しますが、Vocaloidという歌うソフトウェアでは、音程を入力した後で歌詞を入力すると、音素という記号に置き換えられます。「ん」と入力すると「N¥」という記号になる。発音を細かく要素に分解しているわけです。記号と音が対応している。

もし、さまざまな人間の感覚を音素のように分解することができたら、それがクオリアなのではないか、とまず考えました。「冷たい」という感覚があるとします。これをさらに細かく分解していき、もうこれ以上分解できないところまで細かくする。それが「冷たい」の感覚素のようなものです。そして、その細かい要素(クオリア)に向って、さまざまなインプット(目や耳や舌や皮膚など)からポインタがあるのではないか。

いままで、ぼくが不思議だと思っていたのは、冷たいというのは温度的な感覚なのに、なぜ「青い色」を冷たいと感じるのか、ということでした。また、ピアノのぽーんという音にリバーブをかけても冷たいと(ぼくは)感じる。あるいは、体温のある人間であっても、あのひとは「冷たい」と感じる。

図解しないと難しいと思うのですが、仮に温度表のようなマップがあって、その下部分が冷たいという感覚のクオリアになっている、とします。別に色相マップのようなものがあって、その下部分が青だと感じる、ことにしましょう。このとき、温度の位置情報を示すポインタがある、と想定します。ポインタは下向きなのですが、位置情報はそのまま、今度は色のクオリアをマッピングしたものを示すとき、まったく温度と色のマップは別のものだったとしても、下向きポインタの位置情報が同じなので、ふたつの異なるマップを「つないで」しまうのではないか。つまり、温度マップ>ポインタ下>冷たい、というものがあったとき、このポインタ情報だけそのままでマップを入れ替えて、色マップ>ポインタ下>青(→冷たい)、となる。レイヤーとして、色マップの背後に温度マップがあって、その情報が半透明のように浮き上がってくる感じです。

マップはプリセット、といえるかもしれません。このプリセットは静的な秩序にあるものではない。流動的で、経験によってその位置が絶えず変わりつづけるものではないか。これもまたDTMの話ですが、通常はシンセサイザーでピアノの音を出していたのに、間違えてドラムのプリセットに変えてしまうと、いままでドの音だったのが、バスドラムの音になったりする。それに近い感覚です。

たとえば「そのCDの4曲目をかけてよ」と頼んだとします。モーツァルトだと思ってかけてもらったら、いきなりステレオからビートルズが流れ出した。このときに、4曲目という位置情報だけで、期待していたモーツァルトの曲とビートルズの曲を経験的につなげてしまう。

あるいは、3歳の息子がギャグ(あたーっくちゃーんす!)を言うとします。それをぼくらがみて大笑いする。大笑いすると、ギャグ=笑い、というプリセット(コード)ができます。ところが笑わずに無視すると、そのプリセットは生成されない。

教育は、子供たちのどのポインタを刺激したときに何を生成するか、という反応を学ばせる過程が重要かもしれません。そして反応を予測しにくいものの方が勉強になる。みんなと遊ぶことが勉強になるのは、イレギュラーなことが起きやすいからです(突然友達が転んで泣き出した、とか)。こういうときにどう反応するかが、大きな勉強になる。親の子育てにおいても、まず子供に「反応」することが大切かもしれません。おもしろいね、と子供が自分に話しかけてきたときに、そうだね、おもしろいねと反応してあげること。そうして脳内のプリセットを「つなげて」あげること。それが大事ではないか。

コミュニケーションというと難しくなりそうですが、まずは認めること、頷くこと、聞いてあげることが基本かもしれません。ものすごく大きな発見をしたのに、いま忙しいから!と言ってしまうと、子供たちの発見はよろこびにコード化されない。

すべてゲームのせいにするわけではないのですが、他人の表情を読めない子供たちが増えるのは、複雑な情報が欠如したコンピュータ・グラフィックの主人公ばかりをみていることもあるかもしれません。ゲームが有害なのはシューティングの残虐性よりも、キャラクターの表情が希薄である、ことかもしれない。だから痛みやよろこびをもっと多彩に表現できるキャラクターが生まれたら、ゲームがひとの心を豊かにしてくれるかもしれない。それはグラフィック機能や技術の課題であって、ゲームそのものの課題ではないかもしれません。実は人間の表情というのは、ものすごく大量の情報だと思います。その大量の情報を、いまのハードウェアではまだ処理できない気がします。

横道に逸れましたが、ぼくがイメージしたのは、人間の感覚は、感覚のプリセットが何重にも重なっているイメージです。初期状態(デフォルト)のプリセットは、それぞれが遺伝子の情報のなかに持っているのだけど、経験によってプリセットの位置が少しづつ変わっていく。紫を暖かいと感じるか冷たいと感じるかは微妙です。紫が暖かかった経験のあるひとは、次第に紫=暖かいというプリセットができる。別々のカテゴリー(色や音や温度や味覚や)のクオリアのマップにおいて、ポインタで貫かれるたびに位置が変わっていき、もっとも経験が多い「つながり」がそのひとの個別の「クラスター」として、つながりを強くしていく。

いまこれは「私」だけに限ったセットリストの生成を追ったのですが、これが複数になると、つながりの太い部分が「常識」になる。けれども太い道ができたつながりの強いクラスターは、逆に刺激が少なくなる。強い刺激を求めようとすると、いままでにない道をつなげることが必要になる。

理解されない芸術があるのは、ものすごく遠いマップの「つながり」を形成しようとするからかもしれません。そして、マップが遠いことを「抽象的」というのかもしれない。けれども、そこに道がないわけではなくて、みんなが踏んでいないだけです。創造的な試みが苦しいのは、道のない(もしくは細い道のある)部分に道を作ろうとするからでしょうか。

と、ここまで考えてきて、個性と言うのはまったく新しいものではない、組み合わせである、ということにも納得できるような気がしました。つまり、どのようなプリセットを用意し、何枚のマップをそこに重ねるか、ということだからです。プリセットに用意された要素の位置が変わっているほど、マップが重層的であるほど、そのひとは個性的で深みのあるひとなのかもしれません。インターネットにおいても、トラフィックが多い部分がネット上の常識を形成するのでしょうか(若干、この表現には問題も感じますが)。どの友人とつながるか、何をおすすめするか、どんな日記を書いたか、というセットリストの組み合わせが個性を生成していくともいえます。

・・・ああ、またよくわからないことを書いてしまった。しかもこんなにたくさん。止まらなくなりそうなので、今日はこの辺にしておきます。

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2006年5月11日

a000634

見かけも大事。

かっこよく年を取りたいと思っているのだけれど、かっこよく年を取るのはなかなか難しいものです。どちらかというと年々くたびれていくばかりで、もうちょっとしゃきっとできないものかと思う。精神的にも肉体的にも気を抜くと、たるんだり勢いがなくなってしまう。それから、年を取ってちいさなことには動じない落ち着きを身につけるのはいいのですが、妙に狡猾になったり、諦めが入ったりすると、なんだかなと思うものです。努力しなきゃならないのは若者ではなく、おじさんではないでしょうか。おじさんたちは、気を抜いていてはいけない。そんなわけで、おじさんであるぼくがおじさんについて考えてみます。

どこから、おじさんか。つまり年齢的におじさんの入り口はどこかというのは結構難しい問題で、子供の頃には20代といえば、もう完璧におじさんだったような気がします。では、おじさんの出口はどこかというのも微妙なところで、60歳であっても若々しいひとはまだおじさんをキープしている気がする。と、いま見かけを尺度にしているのですが、内面的なモノサシを求めようとすると、さらに難しいことになります。おじさん的な内面というのは、どういうものなのでしょう。これはひょっとすると、おじさんであるぼくには見えないものであって、女性からみた方がはっきりするのかもしれない。

と、なぜこんなにも感傷的におじさん論を展開しはじめたかというと、R25というフリーペーパーにジャン・レノのインタビューが掲載されていて、そのタイトルが「女性の存在はとても大切」という、もうこれだけで、ちっ、と舌打ちしたくなるような計算された特集なのですが、顎に手を当てながらにっと笑っているジャン・レノの写真はやっぱりかっこよくて、逆立ちしてもこんなおじさんにはなれまい、わたしがわるうございました(泣)という、かなしい気持ちになってしまったからでした。

ちなみにちょっとインタビューから彼の言葉を引用してみます。

「ぼくは、最近スモートリ(相撲とり)に関する本を読んだんだけど、そこには結婚しているスモートリの方が独身のスモートリより勝ち星を挙げると書いてあった。同じことだよ。人生においてもっとも大切なものは女性!(笑)」

・・・。ジャン・レノのようになるにはどうしたらいいか、という問いには以下のような言葉で締めくくられています。

あまりモテたいと思っていないとき方が、間違いなくモテるね(笑)。

その前の文章で、ビジョンは不要で、いま何が好きで何をやりたいかを考えた方がいいという言葉があるので、その流れかと思うのですが、彼が言うと、ほんとうに「ちっ」という感じにしか聞こえません。

某雑誌では、ジャン・レノ的なおやじになるにはどうしたらいいか、などのTIPSを毎号展開しているようですが、なろうとしてなれるものと、なろうと思ってもなれないものがあるものです。しかしながら、こんな風にくどくどと、ジャン・レノなんかなれないや、と書いている状態が酒場のおやじと化しているようで情けない。

ジャン・レノの映画で衝撃的だったのは、やはり「グラン・ブルー(グレート・ブルー)」のエンゾでした。そして、やっぱり「レオン」でしょうか。広末涼子さんと共演したリュック・ベッソン監督の「WASABI」はちょっとひどいなと思った記憶があるのですが、それでもそれなりに絵になってしまうひとです。そう。絵になってしまう、おやじだと思う。つまり存在感がある。

先日読んだ「第1感」という本にも、「見た目の罠」としてアメリカ史上最悪の大統領として、ウォーレン・ハーディングのエピソードが書かれていました。ものすごい男前のために、誰もが「素晴らしい大統領」になるはずだと考えた。けれども、それは「すばらしい風貌の大統領」であって、容姿に対する無意識の思い込みが、価値観に影響を与えていたわけです。もちろん、容姿と内面が合致している素晴らしいひともいると思います。けれども、見た目というのはかなり重要かもしれない。

ほんとうに気を引き締めていないと、どんどんくたびれていくばかりなので、連休明けでしんどいとはいうものの、背筋を伸ばさなければ。自分に喝、です。

それにしても今週は長過ぎます。やっと明日は金曜日です*1。

+++++

■ジャン・レノ的なかっこよさを学びたいものです。

B00005L9G9グラン・ブルー (グレート・ブルー完全版) [DVD]
20世紀 フォックス ホーム エンターテイメント 2001-07-18

by G-Tools
B000YGFPNCレオン 完全版 アドバンスト・コレクターズ・エディション [DVD]
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン 2006-05-10

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■ダヴィンチ・コードも20日に公開ですね。公式サイトです。
http://www.sonypictures.jp/movies/thedavincicode/


*1:最初、「おじさん考」(笑)というタイトルにしたのですが、あまりにもあまりなので変更。やはり疲れていると、とんでもないことを書いてしまうものです。どんな状態であっても、文章のレベルを保ちたいものですが。おじさんは疲れた。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年5月 9日

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つながりから生成する世界。

昨日、「情報」と「経験」と題して、意識とは何かという難しいことについて考えつづけたせいか、今日は一日中、偏頭痛に悩まされてしまいました。おそまつな脳をフルに活動させたせいかもしれません。あるいは、ネット断ちをして久し振りにハードにPCを使ったからかもしれません。というか実際には、変な寝方をしたので首を寝違えてしまってそのための頭痛かもしれないのですが、整体師にみてもらおうか、ちょっと迷っています。

複数の本を相変わらず読み散らかしているのですが、そのなかの一冊に茂木健一郎さんの「クオリア入門 心が脳を感じるとき」があります。いままでぼくが読んだ茂木さんの本はどちらかというと文学的だったのですが、これはかなり脳科学よりの本です。ぼくのようなシロウトが脳科学について考えるのはどうか、とも思ったのですが、第一章に「職業科学者であれ、哲学者であれ、一般の人々であれ、脳と心の問題に対する探求は、そのような個人的な思索からはじまる。(P.39)」という言葉があり、その言葉に勇気づけられながら、もうすこし考えを進めてみます。

「夏草=情報、踏みしめた道=経験」という稚拙でむちゃくちゃな比喩を昨日展開したのですが、茂木さんがこの本のなかで書かれていることにあてはめてみると、道というのは「クラスター」ではないかと思いました。このクラスターとは「シナプス相互作用によってお互いに結ばれたニューロンの発火の塊(P.94)」だそうです。脳のなかには、ニューロン(神経細胞)があって、それがシナプスという接合部分で発火すると意識が生まれる。一本道というわけではなくて枝分かれもしているのですが、この発火の塊が「道」ともいえます。

けれども、ここで茂木さんが提示している重要な考え方(概念)には、「反応選択性のドグマ」と「マッハの原理」、そして「重生起」があります。これが非常に難しくて、何度も行きつ戻りつ解釈してみたのですが、「反応選択性のドグマ」とは現実の林檎と脳のなかに生じるニューロンの発火による林檎のパターンを「対」とする考え方のようです。つまり、林檎=ニューロンによる林檎の発火のパターン、となる。

ところが「マッハの原理」では、現実の林檎とニューロンの発火パターンが連動しているわけではない。あるニューロンの発火は、べつの発火との「関係性」のなかで位置づけられ、「生成」するものである、とぼくはとらえました。これは茂木さんが言っている意図を正確に表していないかもしれません。ぼくなりに解釈したまとめです。そして茂木さんの主張としては、「反応選択性のドグマ」ではなく、「マッハの原理」に基づいて考えるべきである、と書かれています。

この「マッハの原理」はどういうことかというと、発火と発火の関係性が成立すれば、現実に林檎がなくても、ぼくらの脳のなかに林檎が存在する、ということではないでしょうか。ちょっと怖い。怖いけれども、納得するところがあります。というのは、林檎をみているのに林檎が存在しない心の状態というのがある。たとえば、失恋して彼女(もしくは彼)のことを思い悩んでいるとき、じっとテーブルの上の林檎をみつめているのですが、心はそこにはない。もし「反応選択性」的に脳と心を考えるとすると、脳あるいは心に林檎は必ず存在しなきゃいけません。しかし、ニューロンは彼(もしくは彼女)を思う部分で発火しているため、林檎を生成する発火との関係性は途切れている。したがって林檎的なニューロンの発火もあるのだけど、そこに林檎は生成しない。

この考え方の枠組みは非常に面白くて、脳科学以外にも応用できそうです。たとえば、脳内/ソーシャルネットワーク的な世界におけるつながり/文章、という応用もできるかもしれません。脳内においてはニューロンですが、ニューロンを人間関係、単語のつながり、と置き換えることもできる。世界は「関係性」で成立するものであり、要するに「つながり」から生まれるということです。脳内の世界も、SNS的なネット上の社会も、文章によって生まれるイメージも、決して単体で意味を成すものではない。

たとえば、ブログでAとBがつながる。そこで、音楽論が生まれたとします。けれども、AとBのつながり=音楽論というのは「反応選択性」的な考え方でしかない。一方でBとCの間で人生論が展開されていて、この音楽論と人生論が同時に発火するときに、ブログによる集合知が生まれる。文章もそうです。小説のなかで、ある文章Aと、まったく別の文章Bがあったとき、それぞれの文脈を縦横に組み合わせた関係性によって、立体的に架空の物語が立ち上がる。単体で意味を成すのではなく、あるつながりと別のつながりがあったところに世界は生成される。

ここで大事なのは、「正解」としての結果はない、ということです。つまり、「反応選択性」的な考え方では、現実=脳内の現象という「対」がありますが、「マッハの原理」的に展開すると、発火と発火から何が生成するのか予測もつかない。「現実」らしきものが生成することもあれば、「仮想」的な世界が生成されることもある。この発火の「組み合わせ」が、創造性ともいえます。

ブログがなぜ活性化するかというと、「つながりたがる」性質があるからかもしれません。この傾向をコミュニケーションといってしまうと一般的でつまらない気がしますが、ぼくはあえて「つながりたがる」と言いたい。ぼくらはそもそも原理的に「つながりたがる」ようにできているのかもしれません。脳内のニューロンもそうだし、男性と女性もそうだし、比喩(レトリック)も異なる意味をつなげる行為です。

と、書き進めて、うまく言述きなくて、ちょっとかなしくなりました。

現在、「クオリア入門」は半分あたりを読書中ですが、全部読み終えたときに、また違う観点が生まれるかもしれません。ぼくが展開している自己流の考察は、脳科学に詳しい方が読んだら、なんじゃこりゃな理論かもしれません。とはいえ、そんなことも書けてしまえるのがブログのよいところでもあり、とりあえず、ここまで考えたところで思考を寝かせておくことにします。明日は違ったことを書きたいと思います。

+++++

■ウィキペディアによるシナプス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8A%E3%83%97%E3%82%B9

■ウィキペディアによる神経細胞(ニューロン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E7%B4%B0%E8%83%9E

■認識におけるマッハの原理
http://www.qualia-manifesto.com/mach-p.html

■なんだかすごいことが書かれていて驚きました。クオリア・マニフェスト・ポータルのトップ・ページです。98年に設置されているので、ちょっと遅いでしょうか、ぼくは。もう少しさまざまな文献を読み、理解する必要があると感じました。趣味として(趣味なのか?)腰を据えて取り組もうと思います。
http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html

■にやり、という感じがした「クオリア原理主義宣言」。しかしながら、この宣言に沿った作品を創るのは難しい気がします。「なにげない日常に由来し、天上の気配の中に結晶化する。」作品を創ることができたら、それはもうクリエイターとしてはしあわせですね。
http://www.qualia-manifesto.com/qualiafundamentalismjp.txt

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2006年5月 8日

a000631

「情報」と「経験」。

会社からの帰りがけに雨が降りはじめました。昨日借りたDVDを返すために、ビデオレンタルショップへの道をとぼとぼと歩きながら、いろいろなことを考えました。夜だからか、あるいは雨のせいか、いろんな考えが頭をよぎります。適当な湿度があった方が、思索に耽りやすいのかもしれません。考えたことのなかから、とても抽象的なことを書こうと思います。抽象的なのでまとまりがないかもしれないし、論理的ではないかもしれませんが。

先日、読み終えた「第1感」という本に、情報は多ければ多いほど正しい判断ができるのではなく、「情報過多が判断の邪魔をする」ということが書かれていました。つまり、「実は余計な情報はただ無用なだけでなく、有害である。問題をややこしくするからだ。(P.142)」とありました。確かにその通りだと思います。インターネットで何かを調べるときに、最初のうちはいろいろと目からウロコな経験もするものですが、あまりにもたくさんのサイトやブログなどを読みすぎると、情報に翻弄されて、逆に何がよいのかわからなくなることがあります。

一方で、この「第1感」という本には、贋作を瞬時に見極める美術の専門家も出てきます。情報が少なくても直感的に見抜く力があるわけです。科学的な分析結果などの情報がなかったとしても、専門家には、いままで培ってきた経験があるわけです。その経験があるからこそ(実戦の場で経験を積んでいるからこそ)瞬時に判断できる。

ここで考えたのは、経験は情報だろうか、ということです。経験は、ぼくらの頭脳にアーカイブされているものかもしれませんが、たとえばパソコンに保存されている文書や、インターネットの情報のように、テキスト情報があるわけでもない。過去の場面をどのようにぼくらの脳が記憶にしまい込んでいるのか、ぼくにはその仕組みがわかりませんが、過去を再現しようとしても現実のようには再現できないことから、とても不完全なかたちで保存されているような気がする。不完全な情報なのに、大量の情報よりも適切かつ迅速な威力を発揮する。

漠然と感じたのは、経験と情報は違うのではないか、ということです。どういう風に違うんだろう、と小雨の道をうつむき加減に歩きながらぼくの頭に浮かんできたイメージは、次のようなシーンでした。

たとえば広い空き地があったとします。その空き地に夏草をびっしりと敷き詰める。このときの夏草が「情報」だとします。では「経験」は何か。ぼくらは空き地を横切って向こう側の家まで行かなければならない。最初は夏草を踏んで倒しながら歩いていくのですが、途中に穴ぼこがあったり、草に隠れて見えない池があったりする。足を踏み出したばかりのときには迂回などして時間もかかるのですが、何度も行き来すると夏草が踏み潰されて道ができる。この「情報」を踏み潰してできた道が「経験」ではないか、と。

夏草を敷き詰めた状態では、どこを通って向こうまで行けばいいのかわからない。最短距離だと思っていても、落とし穴に落ちて、足をくじいて出られなくなるかもしれない。ところがそんな試行錯誤を繰り返しているうちに、道ができる。この道ができてしまえば、すぐに向こうへ行ける。あっという間に空き地を横断できます。

ぼくらの脳内には、シナプスやらニューロンやらがあって、しきりに発火したり化学物質を分泌することによって意識が生まれるのだと思うのですが、よく使われる部分は組織が太くなるというか、発火や物質の分泌状態がよくなるということをきいたことがあります。それが夏草を踏んで道をつける状態かもしれません。経験があると、どんなに夏草が生茂っても道があることがわかる。けれども経験がないと、ただ不毛な夏草(=情報)ばかりみえるだけです。

つまりぼくらの頭には、パソコンのように情報が蓄積されているわけではなくて、「夏草を踏んだ道」があるだけです。夏草を詰め込もうとすると、ぼくらの頭はパンクしてしまう。けれども、夏草の道のかたちだけなら、いくつでも詰め込める。だからこそ、こんなにちいさな脳という器にどんなコンピュータよりも膨大な知識を詰め込んでおける。そしてどんなに新しいものに出会ったときにも、ああこれはS型の道だな、とか、これはU字型に迂回した方がよさそうだ、とパターンを認識する。だからコンピュータよりも直感の判断は、正確であり迅速なのではないか。

そう考えると、次世代の子供たちが考える頭脳を作るためには、暗記というアーカイブ型の訓練ではなく、道を見出すパターン型の訓練の方がよいかもしれません。いまうちの息子(長男)はポケモンやデュエルモンスターズなどのカードにはまっていますが、個々のデータを覚えるよりも、闘い方(カードの組み合わせと出し方、そして勝つことができる道を認識すること)の方が重要かもしれない。そのパターン認識ができれば、カードだけでなく、別の局面でもその経験が生きるかもしれません。

取得した情報を蓄積するためでなく、経験による太い道を作るために、数もしくは量をこなすことが大事ではないかと思いました。海外や旅行に出掛けるのも、一度ではなく何度も出掛けること。何度も好きなことや練習を繰り返すこと。大量に本や映画や音楽を聴くとしても、個々のデータにこだわるよりも、データを横断した物語や構造などのパターンを見出すこと。そうした繰り返しのなかから、ひとつの道を作ることができたとき、その道はほかの夏草の上でも瞬時に解決策を見出せるような力になるかもしれません。何かの達人は、他の分野でもすばらしい能力を発揮することがあります。物事にはツボというものがあって、そのツボさえ押さえておくとうまくいくものです。

いま、ものすごいひらめきがあったような気がしたのですが、消えてしまいました。それにここまで書いてきたことは、既に誰かが書いているような気もしています(きっと書いていることでしょう)。とはいえ、このひらめきの状態を何度も繰り返すことによって、考えることの「道」になるのでしょうか。そう祈りつつ、GW明けはやっぱり疲労もあるので早めに就寝しておきます。

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2006年3月31日

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鳥の視点、イヌの視点。

寒いです。ほんとうに3月なんだろうかという感じです。東京では風が強い一日でした。サクラが散ってしまうんじゃないだろうかと心配です。サクラも心配だけれど、この寒さと強い風のなかでお花見をしているみなさんもとても心配です。ダウンの上着など必要ないと思って着ていかなかったかもしれませんが、風邪をひかないようにお気をつけください。といっても、こんなメッセージは届かないかもしれないですね。祈るしかないでしょう。

自分とは何者なのか、他者とは何か、そして立体的に考えるにはどうしたらよいのか、というテーマを据えて、11月からほぼ毎日書きつづけたブログも今日で5ヶ月、144日目になります。

今年の1月から3月は、特に試験的にいろんなことをやってみました。感情のままに書き綴っていくつか問題も起こしました。書き直したエントリーもあります。ところが身体をはって試してみたのですが、いまだに自分とは何か、他者とは何か、立体的に考えるにはどうしたらよいのか、ということに対する明解な答えはみつかっていません。

自分探しなんて若い頃にやればいいことだ、いいオトナが自分探しなんて青臭くて気持ち悪い、という方もいるかもしれません。しかしながら、もしそんなことを言うひとがいるとしたら、よほど若い頃に高尚な悟りを開いたとてつもなく偉い神様のようなひとか、あるいは青春時代から一歩も踏み出さずに成長しなかった不遜なオレ様気取りのものすごく嫌なやつか、そのどちらかだと思います。ぼくらをめぐる環境というのは年を取るにしたがって、流動的に変わっていきます。だから年齢に合わせて自分のスタンスを破壊し、作り変えていく必要がある。どんなに高尚な悟りを得たとしても、そんな悟りは次の時代には何の役も立たないこともあります。

たとえば社会人になる。すると企業のなかで上司や同僚や部下との関係性を考えた上で自分の位置を考えます。やがて結婚すると、夫としての役割を得てどうあるべきか考える。子供ができると、父親や母親になる。父親や母親としての自分探しをします。子供が増えると、長男に対してどうあるべきか次男に対してどうあるべきかとうことを考える。一方で、年老いた親に対してはまだ子供でもあるので、年老いた親に対する関係から自分の在り方を考えなければなりません。ぼくはまだ経験がないのですが、孫ができたら孫に対する自分の在り方を考えることになるでしょう(自分の孫ってぜんぜん想像できないけど)。これは家族という閉ざされた範囲ですが、親戚関係、友人関係、仕事の取引関係、地域社会との関係など、自分を取り巻くすべての関係性において自分のポジションを考えなければならない。

さらに子供はどんどん成長します。幼児に対する父親の在り方と、小学生に対する父親の在り方と、成人した息子に対する父親の在り方はぜんぜん違うものになるはずです。子供も成長するけれど、親も成長しなければならない。だからそのためには父親としての自分探しはとても大事になる。

と、またちょっと批判的なことを書いてしまって、しばし反省しました。とはいえ、結局のところぼくは書きたいことを書いていこうと思っています。昨日、思い込みが危険であるという考察をしたのだけど、昨日書いたことに反するのですが、思い込みで突っ走っているようなブログが実はぼくは結構好きです。というのは、自分の人生をきっちり生きているライブ感がある。もともとぼく自身が攻撃的な性格を持っているせいかもしれませんが、めちゃめちゃでどろどろな文章だったとしても、そんなライブに発した言葉を読むと心に響くものがあるものです。こんなこと書いてもいいの?というぎりぎりのところで踏ん張っている覚悟のブログには、思わずエールを送りたくなります。もちろん書くことと書かずにおくことの分別がわかっていなければいけませんが、それでも書かずにはいられない衝動が感じられるとき、その文章に力を感じます。力を感じるのだけど、同時にぼくはその力が削ぎ落としたものについてもみるようにしていたい。それがぼくが求めている立体的な思考だと思っています。

話題が変わります。もう既に古いかもしれないのですが、三井不動産の芝浦アイランドのサイトをみて、いいなあと思いました。

http://www.shibaura-island.com/

このサイトでは、鳥の視点とイヌの視点から、芝浦アイランドをみることができます。まずトップページから、「芝浦アイランドの体験サイトに行ってみよう」をクリックします。その後、Flashが表示されるのだけど、上部のWALKではイヌや鳥の視点で芝浦アイランドをみることができます。また、BIRDVIEWでは上空から地図をみることができるし、TIMEではライブカメラの映像が表示される。ライブカメラの映像は一日の風景を時間を追ってみることもできるし、過去の風景もアーカイブされている。HOLIDAYのコンテンツが追加されたようですが、PIP(Person in Presentation)型の映像も楽しい。

ぼくは馬鹿なので(笑)高いところが大好きです。新宿の高層ビルの展望ラウンジとか、むしょうに登りたくなります。先日は四谷の区民図書館のビルから、新宿御苑のサクラを眺めたりしていました。緑の一角にほんのりと桜色のかたまりが存在していて、なかなか美しいものです。ところが高いところから眺めるのは好きですが、一方で高所恐怖症だったりもします。吊り橋のようなものは足がすくんで渡ることができません。それなのに、学生時代は一年間、山岳部に所属してロッククライミングなどをやってみたこともあった。自分でも不可解です。矛盾しています。

でも、そんな矛盾ばかりなものが人間です。自分の思考をみつめることによってぼくは無限の発見ができるし、さらに誰かと会ったときには、そのひとの内面に輝いている何かをみつけたときにとてもしあわせなものを感じます。他人のブログを読んでいるときにも感じるし、ライブハウスで演奏を聞いているときにも感じることがある。映画を観たり、小説を読んだりするときにも、そんな輝いているものを発見して嬉しくなります。必ずしもリアルである必要はなくて、書かれたもの、表現されたものにもそういう輝きはある。

レトリックについて考えるときも、決して技巧的なものに終始するつもりはありません。難しいことを偉そうに言うつもりもないし、賢いフリを誰かにみてもらいたいという思惑もありません。純粋に表現する人間を理解したいと思っています。そこには限りなく深い何かがあるような気がしています。レトリックについて考えるときは鳥の視点で俯瞰して表現の在り方を眺めているのだけれど、いつも高みから眺めているばかりではない。地上に降りてアスファルトの上を歩くように、現実という地面に足のついたイヌの視点も大事にしていたい。

こつこつ地味にブログを書いているより酒飲んで騒いだ方がいいんじゃないの?とアドバイスするようなひともいるかもしれないけれど、ぼくは会社から帰って息子たちとあれこれ話をしたあとの一時間ばかり、PCに向ってひとり思索にふけるのがとてつもなくしあわせな時間である、というただそれだけのことです。そんなつまらないことに費やす時間がぼくには贅沢だし楽しい。

限りなく個人的かつ了見の狭いブログだけれど、先日まったく知らない方から「面白かった」という感想をいただきました。その方は思考について検索されていたときに偶然にぼくのブログをみつけたそうですが、面白かったのでわざわざSNSで検索して、メッセージを送ってくれたようです。率直なところ、とても嬉しかったです。ありがとうございます。けれどもさらに感動したのは、その方が音楽をやっているアーティストで、非常によい曲を作られていたことでした。思わず深夜にヘビーローテーションで聴いてしまいました。

そんなつながりが生まれるのもインターネットのよいところでしょう。書かなければ、そんなめぐり合わせもなかったはずです。どんなに無様であっても稚拙であっても、ブログを書いて一歩踏み出すと広がる世界もある。大事なのは踏み出すことだと思います。踏み出すと危険がともなうのだけれど、踏み出さなければ危険もないかわりに感動もありません。

明日から4月です。さらに一歩踏み出そうと思います。試験期間で考えたことは、これから書くブログで実践していきたいと考えています。

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