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2006年3月13日

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多様性と正解のない世界。

春だというのに寒いなあと思っていたところ、東京ではちょっとだけ雪が降りました。ビル風に巻き上げられてふわふわ落ちてくる春の雪は、なかなか趣き深いものがありました。

ところで最近、雑誌などで、ダイバーシティ(多様性)という言葉をよく見かけます。ぼくがいままで知らなかっただけかもしれませんが、実はモバイル関連IT用語と人事労務用語と2種類があるようです。

モバイル関連IT用語の場合、ダイバーシティ(ダイバシティ)とは複数のアンテナで受信したときに電波状況のよいアンテナの信号を優先的に受信する技術のようです。一方で、人事労務用語として使う場合には、人種、性別、年齢などの制約を超えて幅広い人材活用を促進しようとする動き、とのこと。日本では特に、女性の雇用に関して注目されていて、東京電力をはじめとしてダイバーシティを推進する部署も生まれているようです。

この人事労務用語の方のダイバーシティ(多様性)について考えてみます。

女性の考え方というのは男性とは違って直感的な感覚に優れていると思うので、尊重すべきであるとぼくは思います。けれども、どちらが優位という問題ではなくて、最終的には性別や人種などの分類を超えて、マイノリティな考え方を尊重するということが重要であると考えました。という意味で、以下の「30代女性会社員の気になるニュース」の「「東横イン、従業員の95%が女性」と知って思ったこと」というエントリーに共感を得ました。年配女性には「女性がもっと増えれば日本企業はよくなる」「女性が政治リーダーになれば戦争はなくなり平和になる」という主張をするひともいるようですが、女性の観点から以下のような見解を述べています。

間違ってはいないが「女」のみを活用するという発想はやっぱり古い。おそらく大事なのは、組織にとって少数派である人の意見を取り入れることだ。そうすることで独善に陥って間違った方向に進むことを避けられる。これまで日本企業では女性が圧倒的に少数だったから、現段階では女を増やすことが最優先課題になっている組織が多い。けれど、業種や企業によっては女性職場に男性を増やしていくべきだ。

女性的な発想、男性的な発想ということがよく言われます。非常に乱暴な括り方をすると、右脳的(感覚的)=女性的、左脳的(論理的)=男性的というイメージも浮かぶのですが、実際にはそんなことはない。男性であってもしなやかな発想をするひともいれば、女性であっても逞しい論理的な発想をするひともいるものです。女性だから、男性だからと、思考の枠を作ること自体が、既にダイバーシティに反しているような気もします。けれども圧倒的な少数派であるがゆえに、日陰に追いやられてしまう考え方もある。それが間違っているかというと、そんなことはない。少数派であっても正しい。

ということを考えるようになった発端は、はてなの近藤社長の「「正しい」って何だろう」という日記を読んだからです。まず短い以下の部分を引用します。

基本的に僕は、「正しさ」には個人的なレベルと全体的なレベルの2種類があって、個人レベルでは「人々の意見は全て正しい」のだと思っています。

これはほんとうにそう思いますね。個人的には、みんな正しい。たとえば子育てひとつをとっても、何が正解というのはありません。正解だとおもって子供をやさしく育てたとしても、競争に弱い子供になってしまうこともある。一方で、じゃあ厳しくすればいいかというと、厳しさが逆にトラウマになってしまったりもする。

正解が必ずひとつある、という教育のせいかもしれません。マークシート式の問題を解くことの弊害かもしれない。といってしまうと話が大きくなりすぎるのですが、息子の勉強をみてあげているときにも、正解が複数ある問題は戸惑うようでした。正解は1つしかないと考えたほうが、きっと割り切りやすいのだと思います。

しかしながら教育も少しずつ変わってきているようで、授業参観に行ったとき、通常は2+3=?という計算問題だったと思うのですが、?+?=5という形で複数の正解がある問題を解かせていて興味深いものがありました(というより、ぼくがそういう教育を受けていなかっただけでしょうか)。

正解が複数あるような問題を解く場合、どの正解を選ぶかというと、権威的なものにも影響されやすいものです。やはり近藤社長のブログから引用です。

自分が一番知識が多いから正しいはずだ、とか、自分が一番長い時間考えたから正しいはずだ、みたいな人の話は眉に唾を塗って聞くのが良い対処法でしょう。あと、「この人の意見は必ず正しい」みたいに特定個人を神みたいに崇めるのも自分の思考が停止していて危険だと思います。「天才」とか「専門家」とか「権威ある」みたいな言葉は自分の思考にフィルターをかけるので注意が必要です。

自分の意見をきちんと述べるのはかなり難しい。近藤社長の少し前のブログにも書かれていましたが、誰かの言葉を借りて(引用して)述べた方が言いやすい。誰かの言った事だけどね、というクッションを置いてみると、なんとなく責任も回避できるし、やわらかく聞こえる。けれども、とても回りくどい気がする。

ダイバーシティ(多様性)を尊重する社会になると、いやそうじゃなくてぼくは違うことを考えたんだけど、ということがストレートに言えるようになるのでしょうか。社会のせいではなくて、単純に個人的な性格の問題かもしれない、とも思うのだけれど。

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■ダイバーシティに関する基礎知識

http://www.jinken-net.com/old/tisiki/kiso/jin/ti_0302.html

■東京電力のダイバーシティ推進室のリリース。

http://www.tepco.co.jp/cc/press/06012602-j.html

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2006年3月12日

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範列と統辞。

難しいことを思い出しちゃったので、メモとして書いておくことにします。しかしながら難しいことなので、よく理解していません。間違っているかもしれない。ほんとうはきちんと調べて書きたいのですが、あくまでもメモ、ということで。

学生の頃に記号論を学んだとき、範列(パラディグム:Paradigms)と統辞(サンタグム:Syntagms)という言葉を知りました。ソシュールの考え方を基盤に、ローマン・ヤコブソンというひとが定義したようです。

どういうことかというと、「僕は電車に乗ってきみに会いに行く」という文章があったとき、時間的な推移で線的に統合されている「僕」「乗って」「行く」という言葉は、統辞関係にある。一方で「電車」という乗り物は「タクシー」だっていいわけです。駅まで遠ければ、タクシーつかまえた方が早い。この文章ではタクシーのように、現前では選択されなかったけれども頭脳のなかには存在している交通機関のような言葉は、範列関係にある(のではないかな?)。書かれていない背景にある言葉、「ぼく」が選択しなかった言葉は範列関係ということです。

音楽でいうと、メロディというのは時間的な文法によって流れていくので、統辞的な関係にあります。一方で、和音というのはメロディの背後で範列的な広がりを作るものかもしれない。マッシュアップやリミックスは、もともと統辞的な力でつながれていた曲を分解して、あらたな統辞関係を(ときには強引に)創るということかもしれません。ただ、ひょっとするとその関係は、あまりつながりが強くないものだったりもする。ぼくはDTMで創った曲をmuzieで公開しているのですが、「Wakusei」という曲ではベースラインは変わらずに、その上に乗るメロディと和音的なものがどんどん変化していく、ということをやろうとしました。それは範列的な展開をめざしていたのかもしれません。

映画では、たとえば緊迫したサスペンスのシーンで、まったく関係のない窓の外の空が映し出されたりすると、範列的である。いままさに誰かが殺されようとしているわけで空どころじゃないでしょ、と思うのだけれど、効果的に使った場合、そのカットが映画に深みを与えることにもなります。しかし、このようなカットを多用すると空間的な広がりはできるけれども、逆に物語的な力は弱くなる。映像詩的な要素が強くなるわけです*1。

乱暴ですが、範列=詩的表現、統辞=小説的表現という方法論になるかもしれません。横と縦の関係といえるかもしれない。そもそも、ぼくがこのことを思いついたのは、プレジデント3.20号の特集「「考え方」革命」のなかで、縦の論理と横の論理という思考プロセスについて書かれていたからです。縦と横、のほうがわかりやすいですね。ついでに高さを付け加えると、立体的になりそうです。

一方で、検索エンジンやテキストマイニングの世界においても、語と語のつながりが重要になってきます。自分の日記内における言葉と言葉のつながり方(文脈)は、統辞的であるといえるでしょう。一方で自分の使っている言葉と、誰か他のひとのブログのなかにおけるその言葉の使われ方は範列的になる。

先日クリエイティブ・コモンズについて書いたところ、phenotexさんからトラックバックをいただいたのですが、ぼくにとっては「受験」と「著作権」は統辞的な関係にない言葉でした。ふたつの言葉のつながりが考えられなかった。しかしながら、phenotexさんのブログで、赤本が訴えられたというニュースを知り、うわっと思った。同じ内容を扱っているブログも参考になるのですが、まったく違ったところから範列的なつながりができるのも面白い。知識の幅が広がるわくわく感があります。

と、まあ、ぼくはこういう理屈っぽいことを考えるのが好きなんだと思います。

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■記号論の本をもう一度ひもとこうと思ったのですが、本棚のどこに入っているか探すのが面倒で断念。インターネットで検索したところ、以下、非常に充実しているテキストに出会いました。Googleのめざしている世界かもしれませんが、本のテキストがインターネット上でアーカイブされたら、ものすごく便利になるような気がします。社会が変わるんじゃないだろうか。内容自体を知りたいときには別に本という形態じゃなくてもいい。でも、紙の質感は捨てがたいですけどね、個人的には。

Semiotics for Beginners-初心者のための記号論-
http://www.wind.sannet.ne.jp/masa-t/

■こちらはPDFファイルです。東京大学の講義資料のようです。
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/course-list/interfaculty-initiative-in-information-studies/information-semiotics-2005/lecture-notes/2003-5.PDF

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*1:参考:Semiotics for Beginners-初心者のための記号論-
http://www.wind.sannet.ne.jp/masa-t/hannretutougo/hannretutougo.html

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2006年3月 9日

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みえないものを見る力。

ここ数日間、みずから小説を作りつつ表現することについて考えてきました。けれども、この試みを通じて考えた思考のフレームワークは、小説だけでなくビジネスにおいても、あるいは生活全般に関しても応用できることかもしれません。昨日に引き続き、考えたことをまとめてみます。とても理屈っぽく青臭い文章ですが。

まず書くことについて。文章を書くこと、言葉にすることは、何かを選択して一方で何かを捨てていることです。現前で起こっている今日の出来事を書くような日記であっても、ぼくらは現実をそのままのサイズで記録することはできません。圧縮もしくは省略して記録する。自分の視点で現実の一部を切り取っている。自分が生きてきたライブな現実世界を編集している、ともいえます。したがって文章にしたとき、文字として切り取らなかった何かは零れ落ちてしまう。だから書くという行為は難しいのかもしれません。書くということは、現実のある部分を選択することです。原稿用紙やPCの前で悩むのは、選択する苦しみともいえます(その裏返しとして、切り捨てるかなしみでもある)。

現前にないもの、小説のような架空の世界を書くのは、なおさら困難です。というのは、現実に起こったことであれば、書く範囲はある程度限られます。しかしながら想像の世界には、果てというものがありません。書く対象は頭脳のなかに無限に広がっている。どんなことでも書くことができる。その自由さがぼくらを苦しめる。大きな海を前にして感じるような畏怖があります。想像の水平線は、はるか遠くまで広がっていて霞んでいる。霞んでみえないほどでっかいものに立ち向かおうとするとき、ぼくらの足はすくんでしまう。

みえるものは書きやすい。みえないものを書くのは難しい。しかしながら、記録的であっても創作であっても「みえないものを見る力」が大事ではないか、とぼくは考えました。

たとえば生活においても、自分ではない他者の考えや心というのは、みえないものです。

「ぼく」は「きみ」ではない。「ぼく」は「ぼく」であって、「きみ」は「きみ」である。どんなに近くにいても、「ぼく」と「きみ」の心には20億光年ぐらいの距離が隔てられている。同じ世界を眺めていたとしても、「ぼく」のみている世界と「きみ」のみている世界はまったく違う。理解した、共感した、というのはある種の幻想です。ほんとうにぴったりと心が重なり合うことは有り得ない。世界はそこに存在するひとの数だけあるものかもしれません。けれども、お互いの存在が異なること、個々の視点を取り替えて他者のレンズで世界をみることはできないということを理解した上で、それでも「みようとする」ことが大切ではないでしょうか。

ではどうやってみるのかというと、頭脳のなかに仮想的な他者をつくり、他者の世界を疑似体験する。そのようにして「みる」しかないのではないか。先日、自分の頭のなかにもうひとりの自分を作る仮想化について考えました。仮想的な他者というのは、どんな形にも自分を変えられる物体のようなものです。つまり粘土人形のようなものでしょうか。ターミネーターか何かの映画に出てきた気がしますが、どろどろの液体なんだけど、対象に合わせて自分を変化させられるような物体。あれが自分の心のなかにある仮想的な他者のイメージです。

自分のなかの仮想的な他者は、あるときには上司かもしれない。またあるときにはクライアント企業の担当者かもしれない。子供かもしれないし、知人や友人かもしれない。そんな風に自分のなかに自分ではない他者をどれだけリアルに存在させることができるか。自分のなかに精度の高い他者を共存させて、その感情を察知できるような仕組みをバーチャルで作ったり壊せたりすることが、EQという観点からも重要であると思います。仮想的な他者を壊すことができないと、自己が他者に侵食されてしまうかもしれない。ときにはキケンな考え方に感染した他者を隔離できるようなコントロールも必要になります。また、このシステムが立体的な思考のために重要な気がしました。

顧客主義というスローガンを経営で使うことがあります。それも顧客という(基本的には理解が難しい、みえない)他者の視点で自社のサービスをとらえ直そうとする試みかもしれません。「日経ビジネスAssocie」という雑誌の3/21号では「見える化」の特集がされていましたが、ハーバードビジネス・スクールのジェラルド・ザルトマン教授によると、人間は考えていることの5%しか言葉にできなくて、あとの95%は無意識化にある、ということも引用されていました。5%の言葉にできたことで他者を理解するのは、綱渡りのようなものです。ところで、雑誌にはフィッシュボーンやポストイットの活用法が書かれていましたが、ぼくはツールも大事ですが、みえないものをみようとする姿勢の重要性というか、なぜみえるようにしなければいけないのか、という考え方が必要と感じました。スキルやノウハウを共有する必要はない、みえなくってもいい、という考え方がまだまだあるような気がします。

一方で、「ニューズウィーク日本版」の3/15号では、カトリーナの被害がもたらした社会問題の記事がありました。難民を受け入れてきたヒューストンで、寛大な心を維持できずに難民に対して出て行けというような問題も生じているそうです。この海の向こう側における出来事を、自分のなかのリアルとして再現できるのか。9・11もそうだったかと思うのですが、国際的なレベルにおいて仮想的だとしてもリアリティを持って考えられること、世界のどこかで起きている痛みを自分の痛みとして感じられるかどうかが大事かもしれません(ちなみにニューズウィーク日本版3/15号の特集は「ブログは新聞を殺すのか」で、これはこれで考えさせられるテーマです)。

ちょっと大きな話になりすぎたので、仕事の話に戻ります。

マーケッターやプランナーは、小説家的な素質が必要かもしれません。現前にない未来をどれだけ細部まで想像して、企画としてまとめることができるか。全体と部分の両方を把握しつつ、シナリオとしてアイディアを構想化していくことができるか。内容はもちろん、ターゲットやクライアントの心を読むことも大切です。ロジックは大事だけれど、共感を生むハートの部分はもっと大事かもしれない。一方で、ターゲットやクライアントばかりに固執しても、よい企画にはならない。決められた枠のなかで、自分を表現することも大切です。自分と仮想的な他者たち(クライアント、ターゲットなど)のように、いくつもの他者を頭脳のなかに仮想的に同居させて、わいわいがやがや討議させる。そんな「ひとりブレスト(ブレイン・ストーミング)」ができれば、多面的に企画の精度をあげることができそうです。

想像してごらん、とジョン・レノンは「イマジン」で歌いました。「ショーシャンクの空に」という映画で、主人公は刑務所のなかにいながらも外の世界を想いつづけました。SF小説で想像してきた夢物語のような未来の一部は、21世紀のぼくらの生活のなかで現実化しています。みえないものはみない、みたくないから目をそらす、のではなくて、みえないものをみようとしたときに、ぼくらは成長したり進化できるような気がしています。

そんなわけで、ぼくにとって小説を書くことや音楽を創ることは、みえないものをみようとしてカタチにする訓練として、間接的だけれど仕事の質を高めるために役に立っているのかもしれない、なんてことを考えました。まあ、基本的に趣味なんですけどね。

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2006年3月 8日

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総表現社会の行方。

つづけざまに掌編小説を書こうとしたところ、なんとなく筆(というかキーボード)の勢いが止まりました。おっ、なんだか書けなくなってきたぞ、これがライターズ・ブロックか?と、ちょっと嬉しくなったりしたのですが、先週末から情報を遮断しつつ、自分を実験材料にして、書くことについて深く考えています。そして掌編小説を書くという試みを通じて、いろんなことを感じました。感じたとはいえ、ものすごく当たり前のことです。当たり前すぎて恥ずかしいのですが、試みを通じて考えたことを書いてみます。

なぜ日記やブログを書くのか。日記やブログというのはリアルな自分の生活に近いところにある文章です。今日、自分はこんなことをした、こんなものを読んだ、こんなひとに会った、これを食べた。多くは記録的な要素であり書く必然性がある。なぜなら現実というのは、どんどん過去として失われていくものだからです。生きていくこと自体が、途方もない喪失かもしれない(村上春樹さん的な言説ですが)。だから残しておきたい。一方で、離れた場所にいて頻繁には会えない友人や知人がいるのであれば、そのひとに向けた報告という意義もあります。コミュニケーションの架け橋として機能する。日記やブログには、そんな風に意義がある。しかしながらですね、小説や詩というのは、

「別に書かなくても、暮らしていける」

ものです。おまけに面倒くさい。小説や詩に没頭しているぐらいなら、酒飲んで、わいわい騒いだ方がきっと楽しい。日記にコメントがつくのはうれしいけれど、小説ってコメントを必要するのかどうか。もちろん作家は読者の感想があれば有難いかもしれないのですが、コメントがなくても書くと思うんですよね。小説などの創作というものは、ある意味、自己完結的なものです。自己完結していても書くひとは書きつづける。作家になろうがなるまいが書く。これってなんだろう。

いまぼくは馬鹿馬鹿しいほど当たり前の疑問に直面していて自分でも苦笑ぎみなのですが、その直面している疑問とは、こういうことです。

「人間はなぜ、現実ではない仮想の物語を書こうとするんだろう」

現実を生きればいいじゃん、と思う。そして現実を生きるのに必死であれば、架空の物語なんて考えている暇はない。小説家が破綻するのは、現実よりもこれから書こうとするバーチャルな物語の方にウェイトを重くしすぎるから、かもしれません。

そもそも小説とは何か、ということをもう一度考え直す必要があるかもしれません。むかーし、大学の講義で何か学んだような気もします。文学だけではなくて、一時期マーケティングの世界でも物語が必要であるとして、物語マーケティングのようなことも言われていたことがありました。とはいえそれは企業が販売したい製品にコンテクストによる物語という付加価値をつけて、その物語によって共感を生むこと、製品によってもたらされる理想の世界をより現実的に感じられるようにすること、という意味がありました。

ブログなどに書かれたリアルな個人的体験は、どうしてもインパクトが強い。ブログを読んでいるとお腹がいっぱいになってしまって、小説を読もうとする気力も萎えてきたりします。ぼくだけかもしれませんが、リリー・フランキーさんの「東京タワー」も途中で挫折しています。というのは、自分史的な表現が鼻についてしまって、これなら個人的な体験をストレートに書いているブログを読んだ方がよっぽど泣けそうだと思ってしまったからです。もちろんまだ半分だけしか読んでいないので、後半にすごい展開があるのかもしれません。期待しています。

個人的な趣向ということもある。川上弘美さんがエッセイに書いていた気がするのですが、川上さんは今日あったことを書く作文は苦手だったそうです。けれども、でっちあげの物語であればいくらでも書けたとのこと(うろ覚えなので確かではありません)。個々に適した能力だと言ってしまうとミもフタもないのですが、記録的なことに能力を発揮するひと、でっちあげの空想を書く大嘘つき、批判に限りないよろこびを見出すような評論家、などなど、それぞれタイプの違いかもしれません。

現実の人生に勝る物語はない、という感じですが、リアルに対する挑戦もあるかもしれません。架空の箱庭を、どれだけ現実っぽくみえるように作ることができるか。現実そっくりじゃなくても、生身の人間たちに何かの感情を起こさせることができるか。ぼくはDTMでVocaloidというソフトウェアに歌わせようとしていますが、それも挑戦的なものがある。負けちゃいますけどね。

かつて少年時代のぼくは、自分を表現する手法として音楽や小説を考えていたような気がします。音楽であれば楽器を上手く弾くというのも自己表現だと思う。ところが、どういうわけかそちらの方面の気持ちはまったく欠けていました。他人の曲を上手く弾けるよりも、へたくそでも自分の作った曲がいいと考えていたわけです。作曲家と演奏家の違いでしょうか。

超多忙なプレゼンが終わった日の深夜にそんなことを考えていたところ、表現とは何か、ということがわからなくなってきました。総表現社会といっても、議論すべきことはあるような気がします。たとえば誰かが何か言ったことを引用してコメントをつけるだけの表現が成熟した表現なのか。総コメンテーター時代が豊かな表現社会といえるのか、揚げ足取りの量産化ではないのか。整理という観点が重要とはいえ、整理したところで整理は整理でしかなくてほんとうに何かを生み出しているのか(企業にとって管理はコスト削減になりますが、全体の売り上げを伸ばすものではない。部屋の整理をすれば気持ちいいけれど、掃除もしくは整理を目的にして、永遠に掃除しつづける生活は何か本質的なものを見失っている気がする。雑多で整理されていなくても、豊かな何かがあるような、ないような)などの疑問を感じました。

では、どうするか。考えなければならないのはそこからです。

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2006年3月 6日

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表現することの技術。

総表現社会というキーワードからいろいろなことを考えつつあるのですが、表現にもさまざまなカタチがあると思います。みんなの前で自己紹介のスピーチをするということも表現です。荒川静香選手のフィギュアスケートも素晴らしい表現力でした。小説を書く、音楽を創る、絵を描くということだけが表現ではなくて、彼女や彼氏にアピールするのも表現だし、よく頑張ったねと子供を誉めてあげるのも表現です。

今日こんなランチを食べました、というのも表現だと思うし、この映画を観て感動した、というのも表現だと思います。あいつの言葉に頭にきたとか、日本の社会は間違っているという意思表明も表現といえます。何を着て会社に行くか、鞄やノートパソコンにどんな道具をチョイスするかというのも表現。ひとことで表現といっても、さまざまな表現があります。

まず断っておきたいのは、ぼくはさまざまな表現に優劣をつけたり正誤を問うわけではないということです。その前提のもとにあくまでも私見を述べるのですが、ブログやSNSをはじめとしてインターネットは、すばらしい表現ツールだと思っています。しかしながら、はたして創作上の表現力を高めるかというと、難しいんじゃないのかな、という実感があります。

というのも、いきなりですが実験的に2日ばかり掌編小説を書いてみました。過去に書き溜めていたものではなく、いわゆる書下ろしです。いつもブログを書く時間を使ってテーマと構想を考えて小説としてカタチにしてみたらどうだろう、と思って試しにやってみました。書く方法とプロセスはそのままでアウトプットを小説にしてみようと考えただけのことですが、この試みで感じたことは、通常のブログを書くのとはまったく別の思考が必要になった、ということでした。正直なところ疲労度も違います。これはいったいどういうことだろう。

そこで何が違うかということを考えたのですが、いちばん大きかったことは、小説を書くためには一度素材を自分とは切り離して脚本家や映画監督的に眺める必要があるということでした。思いのままに書くのではなくプロットを構成しなければならない。それだけでなく物語内の主人公として、物語内的な時間をきちんと生きる必要もある。一方で、読み手に伝わるだろうか、ということも考える。さらに同時代的な作品の座標において、これってどの辺に位置するのだろうか、ということも考えたりする。したがって、ものすごく多面的で複雑な思考が求められます。メタ的な、作家としての自分を用意する必要がある。

メタ的な発想で思い出したのですが、ぼくはDTMを趣味としていて「Oxygen」という曲を作ったことがあります。この曲は実は、2歳の息子(次男)が喘息で入院して、酸素ボンベから吸入をしてもらいながら「もうおしまい?もうおしまい?」と繰り返していたときのイメージを発端としています。病院が大嫌いの息子がほんとうに悲痛な声で助けを求めていて、苦しいんだろうなあと思った。同時に、人間には酸素が必要なんだ、とあらためて感じた。その個人的な体験をそのまま作品にしても、子育てが大変な親たちの共感は得たとしても、かなりニッチなので届きにくい。そこで個人的な体験とそのときに感じた気持ちをキープしておいて、大切なひとを失ってしまってひとり残された部屋、という架空のシーンに表現の対象をスライドさせました。

うまくいったかどうかは疑問ですが、特に小説などの創作で表現力を高めるためには、このメタ化が重要になるような気がしています。体験や気持ちを直接書くのではなく、ひと晩寝かしておく。スープを作るように鶏がら的な部分は捨ててしまって、いい味の出た部分だけを使ってメインとなる料理を作る。ところがブログの文章というのは、そんなに時間をかけずに、ありのままの自分を出すのがいい。ストレートな自己表現が気持ちいいので、あまり作為的な作りこみは不要なことが多い。この対比から、文芸作品を志向するとなると表現力養成にはブログは向かないんじゃないかと感じました。もちろんいろんなことに気づく感度というのは鍛えられるかもしれません。ただし、小説を書くのは感度だけでは難しい。ブログ人口が増えて、総体として表現するひとが増えるのはすばらしいことだけれど、だからといって小説家がたくさん登場するわけではないのかな、と思いました(エッセイストは増えるかもしれない)。文芸作品的な表現を高めるには、プラスアルファの何かが必要になる気がしています。

コミュニケーションの表現力を高めるためには、インターネットは優れていると思います。特にSNSでは、日記にコメントをいただくことが最もうれしいし、その双方向的なコミュニケーションで盛り上がったりもします。うまく伝わらなくて問題になることもありますが、対話中心型のインターネットの未来は何となく想像ができます。みえないのはテキストによる創作表現としての未来です。それともテキスト中心の小説自体が既にオールドメディアであり、今後は音声や映像やアニメーションによるマルチメディア小説が前提になったりするのでしょうか。あるいは消費者の物語が作品としての小説を淘汰していくとか。ぼくはやっぱりすばらしい作品に出会うたびに、そんな作品を生み出すひとが増えていってほしいと思うし、ひとりの読者としてそんな作品を読みたいと思っているのですが。

ところで、ぼくの言うメタ化というのは自分のなかに仮想的に他者を作ることですが、テクノロジー用語である仮想化(バーチャライゼーション)もサーバーやクライアントPCのなかに、もうひとつの頭脳を存在させることです。通常言われていることは、WindowsやLinuxなど別のOSを稼動させることです。しかし、もうひとつの頭脳とは、単なるOSの問題ではなくて共作者(コラボレーター)としての頭脳であるかもしれない。あるいは、ひとつのマシンのなかの仮想的な頭脳間で対話が成り立つようなことかもしれない。

書くことはそもそも文章にすることで自分を対象化することでもあるのですが、マルチタスクのように単純に処理を並列化するのではなくて、昨日見た「笑の大学」という映画のような校閲者と作家が同居するようなイメージもあります。つまり同じ部屋(物理的なパソコン、あるいは物理的な人間の脳)において、複数のパーソナリティが存在するということです。パソコンと人間の脳の新しい在り方とその問題について、もう少し深く考えてみたい気がしています。

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