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2006年1月28日

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ここちよい眠り。

徹夜をしてしまうと、昼夜が逆転するような状態になってしまい、なかなか夜には寝付きが悪くなるものです。というのは、いまに始まったことではなく、学生時代には夜更かしばかりしていました。夜更かしの時間は何になったか、というと別に何にもなっちゃいないのだけれど、その途方もない時間の浪費というのが、ちょっとした贅沢だったような気がします。

ところが学生時代が過ぎて家庭を持つようになったいまでも、ぼくは夜更かしです。というのも、休日の昼間にそうそう自分の時間はできないので、どうしても夜に活動することになる。趣味のDTMの音楽も深夜にヘッドフォンで作っています。夜中に書いた手紙は、周囲から遮断された環境で書いているためか、途方もなく恥ずかしいものになっていることが多い。朝になって見直すと、だめだこりゃ、とゴミ箱に捨ててしまうものですが、夜中になんとなく勝手に盛り上がって作ったフレーズも、次の日に聞きなおすと、なんだこりゃ、という曲になっていることもある。やっぱり、ゴミ箱に捨てるのですが。

もちろん夜早く寝て朝早く起きれば気持ちがいいし、その規律感がやるぞという気持ちを生むのかもしれませんが、なんとなくだらだらと過ごす深夜の誘惑もあるものです。ときには朝になって、しょぼしょぼな目をしながら不健康だなあと思うのですが、それもまたよいものです。しかしながら、普通の生活に戻れなくなってしまうところが問題ともいえます。夜勤のひとなんかは、どのようにして生活のサイクルを戻しているのでしょう。

さすがにもう徹夜はきついのですが、集中して最大限に力を発揮したあとの眠りは、ものすごくここちよい。ぎりぎりまで眠るのを我慢して、がーっと眠る。卒論を書き上げたときもそうでした。結婚するときにも、ちょうど大きな仕事が重なってしまい、結婚式の数日前に仕事が完了してやっと解放されて家に帰ったのですが、布団がものすごくやわらかい何か別のもののように思えたものです。もちろん長く眠ることも大事ですが、電車のなかで数分まどろむだけで一気に身体のコンディションが変わることもある。時間よりも深さなのかもしれません。

眠ろう眠ろうと思っていると余計に眠れなくなるけれども、起きていてもいいやと思っていると、結構眠くなる。身体の緊張を解いてあげること。弛緩させること。リラックスすることが大事なようです。張り詰めることも大事ですが、ときには身体をゆるめてあげる。この緊張と弛緩がよいのではないでしょうか。ただ、弛緩ばっかりの人生もよいような気もしています。60歳を過ぎたら、それでいこうと思っています。ゆるゆるな人生のために、いまを生きるわけです。

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2006年1月22日

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雪が溶けるように。

東京では8年ぶりの大雪だったようです。そういえば8年前には、会社から帰宅するとき、最寄の駅の電車が止まってしまったので、いつもとは違う路線の駅から歩いて家に帰ろうとしたのですが途中で滑って転んで道を見失ってしまい(それほどの大雪でした)、あやうく遭難するかと思ったことがありました。きっと東北や北海道に住んでいるひとにとっては雪なんて当たり前のようなものかもしれませんが、こちらでは珍しいものです。そして大雪だとしても、数日後には消えてしまう。そのあっという間の感じが、サクラが咲くときのような束の間の感じがして、またよいのですが。

ちょうどそんな雪のように、昨年の末あたりから続いていた忙しさがひとつ溶けるように消えてしまって、やっと心も軽くなってきました。子供たちときちんと話をしたり遊んだりすることができて、趣味のDTMにも打ち込むことができる。さらに映画や本を楽しむ余裕があるということは、しあわせなことなんだな、とあらためて思っています。当然なのですが、この当たり前の生活というのが大事なことかもしれません。ただ、忙しさに追い詰められたぎりぎりの緊張した状態があったから、このまったりとした生活のありがたさがわかるのかもしれない。

ときに忙しさにかまけて忘れそうになるのですが、異なった領域を横断して、いろいろと考えを深めていくことがこのブログの目的でした。それはちょうど雪と雪解け、忙しさと余裕のある時間のように、違ったシーンを通じて感じたことを獲得していくようなものかもしれません。きれいなものと汚いもの、善と悪のような両面をみることができる視野の獲得ともいえます。あるいは、ひとつの考え方に対する変奏を追求すること、どれだけ思考を変奏できるか、ということなのかもしれません。

忘れそうなので書いておくと、リセットをかけて書き始めたときに、最初に谷川俊太郎さんの「コカコーラ・レッスン」を引用しました。いま、茂木健一郎さんの「クオリア降臨」を読んでいるのですが、その冒頭「世界を引き受けるために」の章で、茂木さんが沖縄の渡嘉敷島の前で、目前の海をぼんやりと眺めながら世界全体の生命について思いを馳せる部分があります。この部分の文章を読んでいて、ぼくは個人的に谷川さんの詩を連想しました。それはまったくの個人的な「こじつけ」なのかもしれませんが、あることについて考えつづけていると、ときにそんな偶然の出会いがあります。それは息子の発した何気ない言葉と哲学の一部分かもしれないし、映画のなかの台詞と企画書のなかのコンセプトかもしれない。あるいは技術的なブログに書かれていたことと、小説の一節かもしれません。そんな偶然の結びつきをぼくは求めているし、楽しみたいと思っている。

「愉快なこと、美しいことばかりではない。世界の歴史を振り返ってみれば、そこに現れるのは数限りない悲惨であり、不運であり、断腸である。」という茂木さんの一文も、すうっと通り過ぎていたのですが、いまあらためて読み直してみると、ぼくのなかに楔を打ち込むような気がします。というのは「愉快なこと、美しいこと」ばかりではない現実の生活に、ここ数日間どっぷりと浸かっていたからかもしれません。いまちょうど「「スカ」の現代を通り過ぎて」という中間辺りの章を読んでいるのですが、ここに出てくるインターネット批判もわかる、というよりも現実にぼくの抱えている問題として共鳴するような感じです。

というわけで知人からは、ぼくのブログは「行き詰っている」という指摘もいただいているのですが、この行き詰まりを経て、雪が溶けるように(といっても雪が降る前とは同じ風景なのかもしれませんが)、新しい風景の世界に一歩踏み出したいものです。

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2006年1月18日

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違うから気になる。

たぶん明日からあさってにかけて仕事は佳境となります。勝負です。頑張りどころかもしれません。しかし、頭をフル回転させて終電で帰ってくると、なんだか眠れなくなってしまうんですよね。お酒を飲んだりしてリラックスしようとしていたのですが、どうも頭がオーバーヒート気味なので、まあいいか、という感じで無理に眠らずに、眠くなるまで時間を潰しています。明日はゆっくり出勤して、たぶん徹夜コースになりそうです。

最近は個人メールはほとんど使わなくなっているのですが、メールを久し振りに読んだら、4人で運営している同窓会ブログのメンバーさんから写真をいただいていました。趣味ではじめたバレエの衣装づくりを本格的な仕事に展開している女性なのですが、もはや間違いなくプロの仕事です。写真はギャラリーにアップしておきました。同窓会ブログは放っておいてすみません。いずれ時間ができたときに、集中的に書き込みをすることにします(業務連絡でした。誰も見ていないかもしれないのですが)。

ちょっと驚いたのは、クリプトン・フューチャーメディアからのメールでVOCALOIDの男性版が2月あたりに発売されるとのこと。12月の終わりから最近まで、ネーミングを募集していたんですね。知らなかった。女性版はMEIKOだったのですが、男性版はKAITOというらしい。ちょっとかっこいい。しかしながら、デモソングもあるのですが、なぜ「からす」の童謡なんでしょうか。声質は演歌っぽい。

男の声であれば、 別にソフトウェアに歌わせなくても自分で歌ってしまうと思うんですよね(恥ずかしいから歌わないけど)。女性の声はどうやっても出せないから、MEIKOというソフトが面白かったのですが、KAITOを購入するかどうかは疑問です。

同様に、ぼくは自分が持っていないものを持っているひとに惹かれる傾向があるようです。どちらかというと共感や共有できる感覚よりも、差異であったり、まったく違った感覚を重視する。うちの奥さんもそんなひとでした。まったく趣味は合わないし、性格もぜんぜん違う。喧嘩した日には、殴り合いにもなったものです(もうやらないけど)。そんな接点のないふたりだったのですが、長く暮らしていると似てくるのが不思議です。

そもそも結婚とは、男性と女性という身体が構造的にまったく違うものたちの出会いであり、しかも育ってきた環境も背景もまったく違う。異質なものなわけです。けれども、この異質なものを許容できるかどうかが、あたらしい何かを生み出す上では重要じゃないか、とも考えたりします。ふつうは排除するものですが、異質なものを理解したり、許容したりしようとするときに世界が広がる。会社だってそうです。仲良しクラブ的にまとまるのではなくて、どうもよくわからない、不快だ、頭にくる、という人間といっしょに仕事をすると(まあ破綻することもあるのですが)なんとなく新しいものが生まれたり、新鮮な感じがする。ネガティブなタイプは、無理ですけどね。あわせようとしても不毛なだけだし、創造的な会話ができないので、疲れるばかりです。けれども人間である以上、どこかうまくやっていける接点というものがあるのでは?

ぼくの場合、まったく違う趣味を持っているひとや住んでいる場所がぜんぜん違うひとの言葉が刺激になります。最も違うものといえば異性なのですが、川上弘美さんや山田詠美さんをはじめとして、女性が書いたもの、女性にしか書けないものにも魅力を感じます。ブログや日記もそうかもしれない。もちろん茂木健一郎さんのように共感できる文章を読むのも好きだけれど、茂木さんのなかでも、これはちょっとわからないな、どういうことなんだろうと疑問を生じるような視点が気になる。共感できる部分はもちろんうれしいのだけど、それ以上何かを生み出すということはないんですよね。ああよくわかった、そうだよね、おしまい、という感じになる。わからないものこそが、これはどういうことだろうという好奇心や理解への欲求を生むものです。

父親と母親の遺伝を半分ずつもらって子供が新しい生命を得るように、創造的な活動は、同質なものたちよりも、異質なものたちの出会いから生まれるのかもしれません。物質の問題ではなくて意識の問題、なのかもしれませんが。

異業種交流会の意図も、そういうところにあるのでしょう。だから、気の合うひとよりも、ぜんぜん違った環境のひとと話をした方が、面白いんじゃないかと思います。気持ち的には、趣味の同じひとを探してしまいますけどね。

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■Vocaloid KAITOのページ。いまひとつ購買意欲がわきませんが、デモはなんとなく面白い
http://www.crypton.co.jp/jp/vocaloid/vocaloid_name_compe.jsp

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2006年1月17日

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モノフォニックな思考。

ほんとうは「忙しい忙しい」なんてことは書きたくないんだけれど、どうしても忙しいと「忙しい」ということを書いてしまいます。忙しいときにこそ、こころに余裕を持って忙しくないようなことを書いていたいのですが、なかなかそうはいかない。たとえば自動車を運転していて速度を上げていくと、次第に視野は狭まっていく。目の前のちいさな視界に飛び込んでくるものしか見えなくなって、それ以外のものは見過ごしてしまう。今日の空が青かったかどうか、歩道の脇のちいさな花がつぼみを開いたかどうかなんてことは、まったくどうでもいいことのように思えてしまうものです。それでいいのか?とちょっと考えてしまうのですが。

そんなことを考えていたら、モノフォニックな思考という言葉を思いつきました。単一な思考というイメージです。対する言葉としては、ポリフォニックな思考でしょうか。シンセサイザーにも、ひとつの音しか出ないモノフォニックなものと、和音を弾くことができるポリフォニックなものがあります。もちろん和音を弾ける方が、音としての広がりは生まれる。けれども、モノフォニックはつまらないかというとそんなことはなくて、単音だけど分厚い音を出すことができます。

いまぼくは茂木健一郎さんの本ばかりを読んでいる状態です。ほんとうはリリー・フランキーさんの「東京タワー」も読みたいのですが、こちらはじっくり読みたいので保留、ということにしています。茂木さんの本は「脳と創造性」、「脳と仮想」、そしていま「クオリア降臨」という順に読み進めてきました。漱石から綿谷りささん、ぼくも好きな保坂和志さん、ブログで取り上げた柴崎友香さんの「きょうのできごと」をはじめ海外の文学まで網羅し、さらに音楽や小津安二郎監督の映画まで言及する茂木さんの文章は、まさにポリフォニックという感じなのですが、海に飛び込むペンギンのエピソードなど何度も出てくるテーマもある。ワンパターンだ、ということもいえなくもないのですが、違う文脈(というか書籍)のなかで語られることで、読んでいるぼくのなかには分厚いイメージとして蓄積されていく。

新しいことが大事なのかどうか、という疑問もあります。同じことを何度も繰り返すこと、同じ穴を何度も穿つこと。おまえってそれしかないの?といわれても、ずーっと続けること。かっこよく言ってしまえば道を究める、ということもいえるかもしれないのですが、何かひとつのことに打ち込むことによって、同じ「あ」という言葉でも、音の深みも強さもまったく変わってくるのではないでしょうか。一方でちょっとだけかじった知識から発話した言葉は、薄っぺらなものです。仕事の上で、コンセプトやら、訴求やら、方向性やら、マーケティングや企画の用語を使うことも多いのですが、その言葉はほんとうに重みがあるのか?きちんと意味や背景の重みを背負って使ってんの?ということを考えました。できれば饒舌ではなくてもかまわないから、自分という人間の根っこにあるところから発した言葉を使いたい。世のなかってこんなもんだろう、だから気持ちのいい言葉を使っておくか、というのではなく、たどたどしくても(ときには不快であっても)寡黙でもいいから、自分の言葉で話したい。

太く、力強い言葉を使いたいものです。

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2006年1月16日

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この質感がクオリアかも。

昨日、休日出勤&終電近くまで残業ということで、深夜の雨上がりの道をとぼとぼと歩いて帰ったとき、iPodでいつものようにブリティッシュロックを聞くのではなく、バッハの無伴奏チェロ曲を聴いてみたところ、ものすごい崇高な感じがしました。ひんやりとした雨上がりの空気が結晶化して、さらに透明度を増したような感じです。氷を飲み込んだときの喉の感じ、という気もします。最近、茂木健一郎さんの本にはまりまくっているのですが、このとき感じた気持ちの質感がクオリアなのかもしれない、と思いました。

同様の質感があるものを考えてみると、プリファブ・スプラウトの「アンドロメダ・ハイツ」というアルバムがあります。ぼくにとっては、そのアルバムも透明でひんやりとした同様の質感を感じられるものです。ちょっと変わった曲が多いので、全部を聴くのはしんどい気もするのですが、1曲目の「エレクトリック・ギターズ(とかいいながら、アコースティックギターのイントロからはじまる)」、2曲目の「ア・プリズナー・オブ・ザ・パスト」のあたりは秀逸です。

といっても、えーそうかな?と思うひともいるはずです。この印象を共有するのは結構難しいものです。言葉にすればするほど、なんか違うぞ、という違和感が強くなっていきます。ものすごく個人的な印象かもしれない。とはいえ、このうまく言い表せない個人的な印象こそが、クオリアであり、大事なものかもしれません。意味づけたり構造化したり解体したり、ということではなく、創造的なものを生み出す原動力になるのかもしれません。ということを「クオリア降臨」という本で読んだばかりなのですが。この本も最初の章からぼくはがつんとやられた感じがしました。このことを言いたかったのに言われちゃったか、という感じでした。今週は超多忙につきゆっくりと吟味できないのですが、また落ち着いたところで取り上げたいと思っています。

ところで、よしもとばななさんも「アンドロメダ・ハイツ」というアルバムが好きなようですね。「王国―その1 アンドロメダ・ハイツ―」という小説があります。冒頭には歌詞が掲載されていたようなきがします。まだ読んだことがないのですが、いつか読んでみたいと思っています。

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■パディ・マクアルーンはブライアン・ウィルソン大好き、ということをどこかで聞いた覚えもありますが、まさにこのアルバムはブライアン・ウィルソン的です。とりとめがない部分も含めて。

B00005662Tアンドロメダ・ハイツ
パディー・マクアルーン
エピックレコードジャパン 1997-05-28

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■どんな内容なのでしょうか。よしもとばななさんだったらこう書くだろう、などということを想像してみるのですが、想像もつきません。きっと彼女がプリファブ・スプラウトのアルバムを聞いたときの印象を小説に展開したのではないか、と勝手に考えています。


410383403X王国―その1 アンドロメダ・ハイツ―
よしもと ばなな
新潮社 2002-08-22

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