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2009年1月21日

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雇用問題を考える。

夢をみました。学校のような場所で試験の採点を受けている。セピア色の解答用紙に墨で大きな丸が付けられていきます。サインペンか何かの、しゃっ、しゃっ、という丸付けの音が聞こえるようです。紙をめくりながら採点していくのですが、あれ?一枚提出していない・・・と焦る内容でした。

いくつになっても、試験の夢ほど居心地の悪いものはありませんね。小学校の頃にはそこそこ勉強もできたはずなのですが、以後、すっかり勉強嫌いの路線をまっしぐらでした。大学を卒業するときの成績は目も当てられない状態です。けれども、若いころの不勉強の反動からか、最近は勉強意欲がぽつぽつと沸いています。ふつふつ、ではないところが控えめです。ぽつぽつ。

1月も半ばを過ぎて、通勤電車のなかでは参考書や講義ノートを開いて熱心に読み込んでいるひとたちをみかけます。大学入試センター試験は終わりましたが、受験の時期なのでしょう。

大学に通う学生たちは、後期試験の期間中かもしれません。遠い昔のことなので忘れてしまいましたが、そんな時期なのだと思います。レポートなどの課題もありました。徹夜で書き上げたこともあったっけ。結構大変なんですよね。学生の頃を偲びながら、まずはエールを送りたいと思います。

がんばってね。

プレッシャーもあり、しんどいかもしれないけれど、悔いのないように。

その辛さは永遠につづくものではありません。きっとあなたの未来は開けると思う。春には新しい世界が待っています。だからいたずらに焦らずに、落ち着いて、集中して、できるところからひとつずつ乗り越えてください。大統領のことばを真似るわけではありませんが、あなたにはできる。大丈夫。

応援しています。

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さて、池田信夫さんのブログを読みつつ考えたことを書きます。

正社員はなぜ保護されるのか」「19世紀には労働者はみんな「派遣」だった」「部族社会と大きな社会」の一連のエントリをまとめて読みました。ここで書かれている見解は非常に興味深いものでした。

しかし一方で、どうなんだろうな、というぼんやりとした反論も感じました。理屈よりも感情に負う部分が多いかもしれません。けれども、できるだけ冷静かつ論理的に考えてみようと思います。

理屈で考えると、「正社員を過剰に保護する解雇規制」の撤廃という、池田信夫さんをはじめとする識者の施策はあり得ると思います。派遣労働者だけにしわ寄せがあり、厳しい状況に追い込まれるアンフェアな現在の雇用を打開する方法としては、効果的といえるかもしれません。

とはいうものの、やはり学者の視点というか、プレパラートの上から社会を眺めて考えているのではないか、という印象を感じずにはいられませんでした。血の通わない考え方が納得できない。

人道的ともいえる面から訝ってしまったのは、施策に伴う"社会不安"や"痛み"をまったく考慮していないのではないか、ということでした。理屈では正論だけれど、社会的には池田さんの言っていることは、ひょっとしたら正しくないかもしれないのでは、と。

ソニーが正社員のリストラに踏み切ったとき、業界には衝撃が走りました。欧米的な合理的な施策として評価もされましたが、ビジョンなく追随した企業や揺れ動いた企業もなかったとはいえません。今年になって景況は悪化していますが、この過敏な状況下で、さらにアグレッシブな正社員の解雇規制を撤廃する施策をとることは、はたしてよいのでしょうか。恐慌に脅える社会をさらに不安におとしめるものになるのでは。

時代の全体を見渡した配慮に欠けている、とも考えました。

というのは、成長期であれば正社員の解雇規制を撤廃しても労働の需要があるため、流動的な仕事の機会が生まれて、労働環境は活性化するでしょう。しかしながら、現状では派遣労働者さえ救えないのに正社員まで解雇したら・・・。仕事のないひとたちで世のなかを溢れさせて、混乱させる様相が目にみえています。社会全体を見渡した配慮ができていない、きちんと考察されていない。そんな見解として、ぼくはとらえました。

環境下で生きるひとの痛みを考慮せずに、正社員の解雇規制の撤廃を掲げているとすれば、その提言者は、象牙の塔という安全な場所に引き篭もって思考遊びに夢中な世間知らずか、あるいは非人間のどちらかではないか。提言している知が正しく、学問に裏付けられて権威があったとしても、人間性に欠けた施策には、ぼくは賛同できません。

いや、甘いこと言ってんじゃないよ、強いものが生き残るんだ、この不況はサバイバルだ、それぐらいの血を流さなきゃ社会は変わんないよ、と、かつての政治のリーダーのような言葉で反論があるかもしれません。でも、それでいいのでしょうか。違うんじゃないかな。

こういう時代だからこそ人間性が求められると考えます。混乱した世の中だからこそ、合理性のもとに感情を逆撫でして混乱をさらにかき混ぜるイノベーターよりも、弱々しくても君子として志があり、じっくりと耐えるようなハートウォーマーな施策を求めたい。

社会全体を救うためには犠牲も必要だ、という考えもあるかもしれません。しかし、どちらかを切り捨てる発想ではなく、強者も弱者も同時に救おうとしたとき、もっとも高い次元の知が発動されるのではないでしょうか。それはとてつもなく困難な"課題"です。困難ではありますが、難しいからこそ取り組みがいがある。

派遣を切ればいい、正社員の解雇を認めればいい、というどちらも、ぼくには安易な施策にしか思えないし、根本的な解決にはならないと思います。

「終身雇用は日本の文化や伝統に根ざしたものだ」の「根ざしたものだ」という起源については池田信夫さんが指摘しているように「論理的にも歴史的にも根拠がない」誤りかもしれないのですが、その誤りを指摘することが重要ではない気がしました。それは言葉じりをとらえた、揚げ足とりにすぎない。

ぼくは正社員の解雇を認めることに反対、というわけではありません。そうした施策が新たな機会を創出することもあるだろうし、雇用の澱みを活性化する場合もあるでしょう。しかし、日本の文化や伝統に適合している、という意味では、終身雇用は重要だと考えます。

終身雇用によって雇用の流動性が失われるということもわかります。ただ、雇用対策の施策は理論で正しいことよりも、時代に合ったものであるべきです。景気が好調なとき、ビジネス全体が攻めの状態のときであれば、正社員の解雇も容認して、ワーカーの実力を流動的にすることで経済全体を活性化できるかもしれませんが、不況時には逆に守りを固めたほうが強いと思います。

たとえば、厳しい不況下において「おまえら一生守ってやるから頑張っていっしょに会社を守れ!」と、吹きすさぶ嵐のなかで全員を奮い立たせ、スクラムを組めるようなリーダーがどれだけ頼りになるか。

懐古趣味で言うわけではありませんが、ビジネスの現場では、一心同体のつながりが日本的経営の強みではなかったかと認識しています。そして、いまの政治に欠けることも、迷いのない強力なリーダーシップ+一致団結して協働して作り上げていく組織の在り方ではないか、と考えました。離党という安易な行動を取るのではなく、なぜ組織内で徹底的に話し合わないのか、納得がいくところまで考えないのか。中途半端さが、ぼくには歯がゆい。

一匹狼の大学教授にすぎない池田信夫さんにはきっとわからないかもしれませんね。おれには関係ないし、正社員切っちゃえばいいじゃん、と言及するのはきっとたやすい。

20090126.jpg時代を反映して、AERAの1.26号は、100社の「給与明細」というエグい記事のほか、人気企業ランキングなど不況のなかで強い企業の記事が特集されていました。

合理的清貧として、2年間のホームレス生活の経験があるオウケイウェイヴの兼元社長や、元マイクロソフト日本法人の社長だった成毛さんの記事などがありました。

記事のなかで「5%賃下げしても雇用は守る」という、日本電産の永守社長のインタビューに注目しました。

まずは、リーダーの在り方。経済危機に対して、スズキやトヨタなどの自動車メーカーでは、まっさきに創業家出身の経営者が陣頭に立ちました。そのことを次のように肯定します。

「平時は合議制でいいですよ、ワンマン経営には弊害もあるでしょう。しかし、こういうときは、求心力が大事です。創業者なり創業家出身者なりワンマン経営者なりが、ことに当たらないといけません。全社員のベクトルをあわせ、全員参加で不況に立ち向かう。そういうときに先頭に立てるのは、創業者やワンマン経営者です。やることが『甘い、遅い、中途半端』では手遅れになる」

そもそも日本電産には派遣社員が少ないそうですが、人員削減はしないとのこと。企業の生き残りだけでなく、広い視野で考えられています。

「正社員の雇用は絶対維持したい。営業損益段階では赤字にしたくないですが、もし赤字になりそうな状況が見えてきたら、ワークシェアリングを視野に入れないといけないと思っています。雇用が崩れたら社会がアウト。治安は悪くなるし自殺する人も出てくる。ワークシェアリングしてでも雇用を守ります」

ここで、池田信夫さんにはなかった視点は、治安や自殺者の増加という社会への影響です。自社を守るとともに社会的影響についても考えられる経営者は器がでかい。

守ることのほうが攻めることの何倍も大切なことがあります。しかし、「個」が「孤」である社会や会社は、結束力の面では弱い。正社員という戦力を削っていることは、コスト削減によって会社の全体を守ることができるかもしれませんが、はたして長期的にはどうなのか。数値にはあらわれない何かが失われていくような気がします。

最後に永守社長が新年に訓示したという次のことばを引用します。

「花の咲かない寒い日は下へ下へと根を伸ばせ」

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この派遣労働者、正社員、終身雇用の問題には、正解は?ぼくにはわかりません。しかし、まず考えることに意義があると思っています。

投稿者: birdwing 日時: 22:19 | | トラックバック (0)

2009年1月13日

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科学の欺瞞、文学の欺瞞。

リチャード・ドーキンス氏が英国の公共交通機関で展開されている「無神論」キャンペーンを支援していることを知り(ロイターの記事はこちら)、そういえば「利己的な遺伝子」は著名な本にも関わらず読んでいなかったことを思い出しました。遅ればせながら今度、本屋で購入することにしましょう。読まなきゃ。

そこで、彼のことをWikipediaで調べていたところ、脇道にそれて「疑似科学」のページを読んでしまった。ところがこれが面白かった。以下、まず疑似科学について定義している部分を引用します。

疑似科学(ぎじかがく)[1]とは、学問、学説、理論、知識、研究等のうち、その主唱者や研究者が科学であると主張したり科学であるように見せかけたりしていながら、現時点(As of Today)での知見において科学の要件として広く認められている条件(科学的方法)を十分に満たしていないものを言う[2]。

たとえば脳科学者に関していえば、池谷裕二さんは科学者だと思うのだけれど、茂木健一郎さんは(とても失礼ですが)芸能人だと思う。科学者らしくない印象があります。

茂木健一郎さんは、数多くの著作を出されていますが、科学的には根拠のないエッセイも多く、科学者としては信憑性に欠ける気がしました。やわらかく最先端の知を教えてくれる意味ではよいのですが、初期の著作以外は疑似科学的な書物が多い。といってしまうと暴言でしょうか(苦笑)。

個人的な見解では、著作における茂木健一郎さんは科学者ではなく、小林秀雄のような評論家もしくはエッセイストだと思っているので、疑似科学でも十分だと思います。楽しければね。

しかし、さすがに「思考の補助線」は酷い本だと思いました。

448006415X思考の補助線 (ちくま新書)
茂木 健一郎
筑摩書房 2008-02

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茂木さんのファンではなければ読者は一冊一冊購入して読むわけです。献本でただで読めるブロガーならともかく、ぼくらはお金を払っている。購入した対価に相応しい内容を提供してほしいと思います。

同様に連想したのは、どこか偏った日本語論を語ろうとする水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」は、"疑似文学(論)"のようだ、ということでした。最近、よく引用しますが、とりあえず最後まで読もうとしているところで、もうすぐ読了です。

4480814965日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗
筑摩書房 2008-11-05

by G-Tools

「日本語が亡びるとき」もまた、エッセイと銘打ったほうがよいと思います。中途半端に文学を論じているようなところがよくない。書店によっては人文科学系の専門書コーナーに置かれていて、探すのに苦労しました。あの内容は学問ではないと思う。といっても女性作家の棚では売れそうにないし、書店としても困るところかもしれません。

しかし、ですよ。仮に意図して無意味な用語をちりばめているのであればすごい、とも考えました。というのは、Wikipediaの「疑似科学」の項目を読んでいて、ソーカル事件について知ったからです。引用します。

学者として認知される人も、自説を権威づける為に科学的な専門用語をもともとの意味を理解するつもりもなく並べる事がある。[19]

このような事態の一つの批判として、物理学者のアラン・ソーカルは、あえて科学用語を出鱈目に使った疑似哲学論文を書き上げて、有名な人文学評論誌「ソーシャル・テキスト」に送りつけたところ、査読を通過し、見事に載録されてしまった。そしてソーカルはその後ブリクモンとともに「『知』の欺瞞」という本を書いて、人文学批評に疑似科学的な表現があふれている事実を広めた。

これはすごいですね。学者の論文のなかには、難しい専門用語を列記して煙に巻くような意味不明な文章も多くあります。意図を探ろうとすると、ますます迷路にはまり込みます。こうした知に対する批判として、アラン・ソーカル氏は意図的にめちゃくちゃな科学用語を使った論文を捏造して専門誌に送ったところ、スルーで掲載されてしまったわけです。やるねえ。ちょっと意地が悪いけれど、痛烈な批判だ。

ソーカル事件については、Wikipediaで別に項目が立てられて詳細に解説されていました。非常に興味深く読みました。

科学用語を比喩として使っているだけでなく、本気で出鱈目な科学用語を使っているポストモダンの哲学者もいて、そんな無節操な学者を批判したかったらしい。批判の対象になったポストモダンの思想家として、ジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリ、ジャック・ラカン、ジュリア・クリステヴァの名前が出てきて懐かしくなりました。クリステヴァとか学生の頃に読んだっけなあ。よくわからなかったけど(苦笑)。

それにしてもソーカル事件。編集者は何をやっていたのだろう。ザルだったのでしょうか。

茂木健一郎さんの「思考の補助線」にしても、水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」にしても、この2冊にぼくが不信感を抱いたのは、第一に作家の姿勢です。あまりにもひどい擬似学問的な言及によって、原稿用紙を埋めればいいだろうという枚数稼ぎとも思われる作家の不誠実な姿勢にあります。しかし第二に、編集者がきちんと世に出す前にチェックしたのか、ということを感じました。書籍は編集者との共同作業によって生まれるはずなので。

いずれも出版社は筑摩書房です。筑摩書房といえば知の最先端として、すぐれた本をたくさん出しているはず。優秀な編集者がたくさんいるのではないでしょうか。その編集者が、あの内容でよしとしたのだろうか。

活字離れは年々激しくなっていくようです。ブームの新書に活路を見出したとしても、キャッチーなタイトルの本ばかりが先行して、競争が激しくなっていると思います。しかし、酷い内容だけど出しちゃえ、のような悪書量産体制は、逆に本離れを加速させるのではないでしょうか。本好きな自分としては歓迎できる傾向ではありません。いい加減に書いてお金を巻き上げる作家より、真剣に書いている一般のひとのブログを読んだほうがよほどよいと思ってしまう。プロ意識に欠ける本にはお金を払いたくない。

編集にもプロモーターやマーケッターのスキルが必要な時代かもしれません。けれども、利潤追求の商人的なスタンスではなく、昔ながらの編集魂を取り戻して襟を正してほしいものです。もしかすると梅田望夫さん+水村早苗さんの一件も、筑摩書房がくわだてた「日本語が亡びるとき」のブログプロモーションの一環だったかもしれないですね。のせられたか。

という意味では、読者も批判精神を持って、自分の考えから情報を精査する必要があります。影響力のあるブロガーが推薦しているからといって浮わついた言葉に流されて闇雲に買うのは、無駄な出費です。結局のところ、そうやって意志薄弱なまま本を購入しても、献本者や出版社と共謀して一行だけのレビューを書いたブロガーをアフィリエイトで喜ばせるだけでしょう。読者には得るものが何もなかったりします。また、テレビに出ている、話題になっているから作家だからといって、書いたものを盲目的に信じるのも危険です。

一方、ブログで文章を書くぼくらも気をつけなければなりません。

なんとなくわかったような気になって、口当たりのよい言葉を使って安易に論じるていると、とんでもない思い込みだったりすることもあります。解釈は自由ですが、ひとつの解釈の対極となる解釈、あるいは横展開して派生する解釈をきちんと考え、複数の可能性のオプションから考えを立体的に組み立てることが重要ではないでしょうか。

脊髄反射的な"断言"はわかりやすいけれど、そのわかりやすさの危険性も知っておくべきです。ひょっとしていまオレはわかりやすさの暴力に洗脳されてないか?と振り返ること。常に自己を点検し確認する客観性は持っていたい。

ただし、慎重になりすぎてもいけない。一歩踏み出すときは無知でも構わない、とも考えます。そうではないと踏み出せなくなってしまうので。書いて、叩かれて、悩んで、考える。その過程でブロガーとしての成長もあるわけで、最初は無知であっても、書きつづけているうちに、おのずと内容は深まっていくはずです。

たとえば、5年前には、ぼくはほとんど映画を観ていませんでした。けれども年間100本鑑賞!を掲げて、とにかくノルマのように毎週2本レンタル屋で借りてきて(結局、忙しくて観れなかったことも多かった。泣)感想を書くという課題を課しているうちに、量が質に転じたと感じる時期がありました。まだ映画通にはほど遠いのですが、数年前の無知な状態と比べると、少しだけ映画についてわかってきた気がしています。

音楽についても同様です。最初は試聴してもハズレを掴むことが多かったのですが、試行錯誤をしているうちに、身体で好みの音楽を掴んでいくことができる。CDショップでどこへ行けば自分に合った音楽が眠っているか、その在り処について嗅覚が効くようになってきました。

が、知りすぎるのもよくない(うー、どっちなんだ。笑)。あの俳優がどうだとかカメラのアングルがどうだとか、インディーズの実験性の高い音楽にかぶれてしまうとか、これもまた知ったかぶりの行為や言葉が出てきてしまう。なので、踏み出しつつ振り返る進歩がやはり必要です。

わからない言説に出会ったとき、ああこれは自分のアタマが悪いからわからないんだ・・・と考えると思考停止します。ひょっとしたら、わからないことを言っている相手のほうが、アタマが悪いのかもしれない。あるいは、どこかで借りてきた言説を繰り返しているだけで、発言している本人が自分の言っていることを少しも理解していないかもしれません。

子供が、なぜ?どうして?ほんとう?と訊くように、鵜呑みにしないこと。知らないひとについていってはいけないこと。簡単に欺かれないこと。実は情報化社会で自衛のために最も必要であり、かつ知的な行為は、この疑う精神ではないでしょうか。振り込め詐欺にも対応できるわけで。

「日本語が亡びる」といわれたとき、ああ亡びちゃうんだ、やっぱり英語だ、とあたふたするのではなく、ほんとうに亡びるのか?と問いただせること。知的好奇心を発動させながら、ちょっとやそっとでは欺かれない。そんなひとになりたいものです。

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)

2008年10月29日

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青空にクラウド。

IT関連のニュースで久しぶりにやられたな、と思ってにやりと笑ってしまったのが、マイクロソフトの提供するクラウドコンピューティングのネーミングでした。Strata(地層)などという噂もあったのですが、最終的に発表されたのはWindows Azure。Azureはイタリア語の青という言葉らしく、意味するものは"青空"だそうです。

クラウド(雲)のサービスに対して青空を提供する、という意味がなんとなく詩的でいいなあ。そんなところに感心しているのは、空好きな文系のぼくぐらいかもしれませんが、窓(Windows)を開ける(=インターネットに繋ぐ)と、青空(Azure)に雲(Cloud)が広がるというイメージの連鎖がなんとなく素敵だ。

Vistaの後継として発表されたWindows7が、なぜ7?どう数えれば7?という疑問が多かっただけに、この突き抜け方はなんだかすがすがしいですね。PC Watchの記事を読むと、「アズレィ」「アズール」などマイクロソフトのなかでも発音が統一されていないようですが、「その発音のブレとは裏腹に、今回のPDCにおけるMicrosoftのメッセージには迷いが全く見られない。」とのこと。

一部の評論家からは、クラウドコンピューティングは名ばかりで何も新しいものはない、という懐疑論も出されていましたが、マイクロソフトというパッケージソフトウェアからスタートした企業がクラウドコンピューティングに本腰を入れはじめたことは、ぼくは大きな変化ではないかととらえています。

ところで、雲をつかむようなクラウドコンピューティングについて、なんとなく解釈したことを書きます。

IT業界の"なかのひと"であればよく知っていると思いますが、システム構成図では、インターネットを表現するときに雲の絵を使います。これがクラウドの意味するところらしい。クライアントPC(つまりここにあるノートパソコンやデスクトップPCですね)ではなく、雲のなか=インターネットの向こう側のサービスを利用していろんなことができるようになるのが、クラウドコンピューティングのようです。

いままでのコンピューティングはPCというローカルなハードウェア上で展開されていました。ソフトウェアはCDやDVDというメディアのパッケージを買ってきて、インストールして使うものが主流だったかと思います。ところが、今後は、もやもやーっとした雲(Cloud、つまりインターネット)が箱やメディアなしにオンラインでアプリケーションを提供してくれる。作成したファイルは雲のなかにデータを保存することもできる。非常に乱暴かもしれませんが、これがクラウドコンピューティングの基本概念のようです。

その代表的なものがGmailでしょう。そもそもぼくにとってGmailはなくてはならないものになってしまったのですが、このサービスが登場する前は、メールはOutlookなどのアプリケーションでPC本体に保存するものでした。ところが現在では、ほとんどメールをPCに保存することはなくて、どこかのデータセンターにあるストレージに保存すればいい。

いずれPC本体にハードディスクのようなものはなくなってしまって、ネットに接続してすべてをこなすようになるのかもしれません。表計算やワープロソフトにしても、ネット上にあるソフトウェアで作業をして文書はネットのあちら側に保存する。雲が消えてしまったら全部消失するのではないか、という怖さもありますが、最近流行りのEee PCなどのネットブック(NetBook)あるいはUMPC(Ultra Mobile PC)がさらに軽量化・小型化していく先には、やりたいこと/やったことはネットのあちら側にあるものを引っ張ってきて使い、本体には何も保存しないというスタイルに移行していくのかもしれません。

という意味では、いままでIT用語としてあったASPのモデルや、SaaS (Software as a Service)、シンクライアントとどう違うのか、というとあまり違わないような気もする。それがクラウド懐疑論を支持するひとたちの論点でした。

シンクライアントに関していえば、ぼくはサン・マイクロシステムズのデモをみせてもらって、いいなーと思った経験があります。つまり、カードを差し込めば、どのPCでもネットワークを介していままで使っていたデスクトップがそのまま使えるようになる。実際にみると、すげーっと思う便利さでした。けれども、一般にはシンクライアントは聞きなれない言葉だと思います。90年代にサンが提唱していたネットワーク・コンピューティングとクラウドコンピューティングが大きく違うかといえば、そんなに違わないような気がするのだけれど、サンは早すぎた。時代を何歩も先に進んでいたのでしょう。

SaaSが出てきたときにもASPとどう違うのか、ということがわかりにくかったのだけれど、IT業界には、時代を盛り上げるためのキャッチフレーズが多々あります。Web2.0も、その当時に登場してきたサービスを包括しただけのなんとなくクラウド的な概念でした(そのあとで、なんとか2.0というのが流行りました)。とはいえこうして考えてみると、特定の技術よりも、統合されたサービスに利用者の状況も加えて、何か全体の動向を示唆するキーワードが主流となってきている気がしますね。

さて、技術的なことはともかくとして、今日のクラウドといえば"うろこ雲"。朝、学区外の小学校に通う息子を途中まで見送りながら眺めた雲が見事でした。

思わずデジタルカメラを取りに家に戻ったのですが、カメラを構えたときにはもう別の雲になっていました。どうやら上空では、風がものすごい速さで動いているらしい。雲の連なりは刻々と姿を変えていきます。

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Windows Azureが実現する"雲(クラウド)"は、果たしてどのように変わっていくのでしょうか。その雲は、のんきに浮かんでいるようなものではなく、情報化社会の風を強く受けて、さまざまなカタチに変化するものかもしれません。

投稿者: birdwing 日時: 23:58 | | トラックバック (0)

2008年10月23日

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ラクガキ考。

うちのふたりの息子たちは絵を描くのが大好きです。家には100円ショップで購入した画用紙が常備してあり、おたがいにウルトラマンの怪獣やらデュエルモンスターやらの絵を書き殴っています。

描くテーマが限定されているのがぼくとしては不満なのだけれど、絵を描くのが好きというより画用紙に"何かを書いて遊ぶ"ことが好きなのだと思う。書き散らかした作品からみても、残念ながら将来はイラストレーターや画家になる才能はなさそうですが、楽しそうなので放任しています。

ところで、どんなに書くのが好きだといっても、書いてもいい場所と悪い場所があります。家のなかでも、壁や机の上には書いてはいけない。これは何度も約束事として確認したことであり、守らなければいけないルールです。

社会においても、このようなルールを制定する必要があり、文章化されたものは法律だったりするのですが、文章にはなっていないけれどモラルとして重要なことがあります。

今年になって、フィレンツェの大聖堂の落書き問題などが浮上し、学生たちが謝罪に行ったり、良識が問われたりしたことは記憶にまだ新しいことです。「京産大生も大聖堂で落書き? 壁に日本人名が続々見つかる」などの記事で取り上げられていますが、さらに鳥取では、全国初の落書きを禁止する条例が決まり、来年4月1日から施行されるそうで、違反者は5万円以下の過料とのこと(10.14の産経ニュースから)。そもそも罰金30万円という厳しいものを求めていたようですが、砂の上の落書きは風が吹けば消えてしまう、ということで大幅に値下げされたとか(こちらは9.18の産経ニュース)。

罰金を科さなければ規律が守れない社会自体、何かがゆるんでいる気がしますが、優等生的な視点をちょっと外してみると、落書きはアンダーグラウンドな文化でもあります。Wikipediaで「落書き」の項目を読んで、あらためて関心を惹かれたのですが、二条河原の落書、アンコールワットに侍の落書きがあることなど、時代を超えて残される落書きは面白いですね。

また、アメリカにはキルロイ参上("Kilroy was here")という伝統的な落書きがあるようで、戦争という時代背景と結びついているらしい。落書きから知る伝統や文化も興味深いものがあります。ちなみに、Wikipediaから「ワシントンD.C.の第二次世界大戦記念碑に見られるキルロイ参上の落書き」を引用します。

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インターネットを便所の落書きと言ったひともいましたが、ぼくらがブログに書いていることも途方もない落書きの所作のひとつかもしれません。しかし、ぼくはそれを嘆かわしいことだとは考えていません。だからこそ時代を風刺したホンネも書けるし、一方で眉をひそめるような表現も生まれる。そのすべてが人間の文化であり、ひとによって生まれたものです。

ということをぼんやりと考えていたら、空に落書きをした芸術家集団がいました。中国新聞の「広島上空に「ピカッ」の文字」という記事で読みました。21日午前、芸術活動の一環として、小型機をチャーターして広島の上空に「ピカッ」という文字をスモークで描いて、ビデオ撮影をしたらしい。

しかし・・・これは芸術なのだろうか?落書きは文化だ、なんでも書いちゃえ主義のぼくではありますが、そもそも反社会的な活動、あるいは単に不快を生むだけの表現を高尚な芸術活動という名のもとに正当化するひとたちを、あまり好きではありません。

もちろんきれいなものだけが芸術ではなくて、どろどろとした感情や気持ちの悪いものを表現することも芸術だとは思います。しかし、広島の上空で「ピカッ」という原爆を思わせる文字を落書きすることには、あまり芸術的な何かを感じません。ひねりがない。

たぶん公共のものである空に飛行機を使って落書きするところが特別な芸術活動だと考えているのではないかと想像しますが、率直なところ鳥取の砂丘に書かれた落書きと何も変わらないのではないか、というのが実感です。どうせお金をかけるのなら、空というキャンバスを使ってもう少し芸術性の高い何かを書いてほしかった。

原爆を想像させるようで不安だ、不快だ、という広島で空を見上げた方の気持ちもわかります。いきなり土足できれいな青空を汚されたら、空好きなぼくも心が痛む。けれどもまず前提として、芸術を語る集団としては、思考や発想が幼稚な気がしました。ただの落書きだろうこれは、と思った。もったいぶって落書きを芸術だと語るのは、なんだか傍目にも恥ずかしい。

社会のヒンシュクをかうか、芸術性の高さで注目されるか、ということは紙一重のような気もしますが、ぼくは土足でひとの心を踏みにじることが芸術や表現ではない、と考えたい。

ブログやネットの掲示板にもいえることかもしれません。たとえば、コメント欄が開いているから何でも書き込んでいいと思っているリテラシーのないひとたちがときどきいます。エントリーとはまったく関係のないつまらない自説を展開したり、ブロガーを完全に無視した会話を延々とつづけたりする。

それはブログを開設している誰かの領域に土足で踏み込んで荒らす行為であり、要するに"落書き"と変わらない。コメントを書き込む際には、ブログのオーナーに失礼にあたる発言がないか、細心の注意を払うように心がけています。また、もしぼくのブログでそういうこころない発言があったら、迷わず消します。落書きは目障りだし、礼儀を知らない人物とは対話したくない。キャパシティの狭い人間で申し訳ない。

と、少しばかり厳しいことを書きましたが、学生時代、退屈な授業をもてあましてノートや教科書の片隅に書くラクガキは、ほんとうに楽しいものでした。キャラクターを想像しつつ書いてみるのですが、まったく別のものになってしまったりして、記憶の曖昧さに脱力したり吹きだしたりしました。

ラクガキは落書きでよいと思うんですよね。あとから難しい芸術的な価値や意味を付加するのは自由ですが、これはただの落書きである、という軽さがカルチャーではないか。そして、ぎりぎりでメイワクをかけない場所にちょっとやましい気持ちで書くからこそ、自由に書ける。ときには辛口の風刺もできる。それが落書きのよさではないでしょうか。

一方でうろ覚えですが、弘兼憲史さんの島耕作シリーズのマンガに、社員でありながらものすごい才能を持った新人が、サラリーマンとして会社に合わずに退職する際、トイレの壁に芸術的な落書きを描いて去っていった、というエピソードがあったことを思い出しました。彼は数年後に、国際的なアーティストになる、というストーリーだったかと思います。たつ鳥あとを濁さず・・・の逆をいく話ですが、才能があればそんな辛辣さも強烈なインパクトとなります。

同時に考えたのは、消えてしまう(消されてしまう)からこそラクガキには意味があるのではないか、ということでした。記録の面から考えると保存性が重要ですが、会話としての言葉が宙に拡散して消滅してしまうように、ラクガキの文字や絵もいつしか消えてしまう。という意味では、空に書かれたピカッという文字も消えてしまうわけで、ひとときの不安も永遠に残ることはありません。

言葉というものの本質は、そんなあわい不確かさにあるのかもしれません。

投稿者: birdwing 日時: 23:55 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年10月16日

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雑誌の苦境とWebだからできること。

青かったですね、今日の空も。そんな青空のもと、東京では秋らしいさわやかな一日でした。今日の空を撮ることはできなかったのですが、昨日、打ち合わせの帰りに、かつて勤めていたオフィスのあった場所の近くを歩きながら携帯電話で撮影した空のスナップを。とても高い空でした。

081015_sora.JPG

ところで、いきなり空の描写が出てきてしまったのは、R25で連載されている石田衣良さんの「空は、今日も、青いか?」を読んだからです。

楽しみにしているエッセイのひとつですが、毎回タイトルで石田さんに、青いか?と訊かれるので、青いぞ、とか、いや雨模様でグレイですがそれが何か?などと読む前に、ひとり突っ込みを入れてしまう(困惑)。フリーペーパーのタイトル相手にそんな対話をしているのは、ぼくぐらいかもしれません。

今週の第八十九回では「雑誌のチカラ」として、売上げが20%近くも落ち込んで非常事態になっている雑誌業界について書かれていました。テレビもCM収益の減少により大変なようですが、雑誌も休刊につぐ休刊で厳しいようです。活字全般が好きなぼくにとっては、かなしい現実です。作家である石田衣良さん同様、雑誌たちにエールを送りたい。

モノを捨てられない性格のぼくは、フリーペーパーはもちろん雑誌も処分しないで意味もなく保管しているものが多く、部屋のなかにはいまだに80年代のダ・カーポが恐竜の化石のように古本の地層に埋もれていたりします(だいぶ捨てたり売ったりしましたが・・・)。お気に入りの雑誌はいまだに捨てられません。たとえばマガジンハウスのBRUTUS。それから2000円弱するので購入に勇気がいるのですが、自己投資のために買っている東洋経済新報社のThink!。かなり昔に遡るとワイアード日本語版などなど。

ワイアード日本語版は、先端技術やサブカルチャーの話題が満載だったことと、デザインが洗練されていて好きな雑誌でした。最終号はまだ取ってあります(古い雑誌が積み重なる地層のどこかに)。90年代に休刊してしまったのですが、ほんとうに残念だったことを覚えています。喫茶店などにひとりで立ち寄り、ノンシュガーのカフェオレを飲みながら、ぱらぱらとめくりたい。そんな雑誌でしたね。

先鋭的なテーマを扱っていて、ビジュアルやレイアウトが洗練されていて、知的な好奇心を満たしてくれる・・・そんな雑誌が好きなようです。オンラインで展開されていたHOTWIREDも読みつづけていたのですが、現在はWIRED VISIONとして展開されているようです。

WIRED VISIONのサイトのキャッチコピーは「"アカルイ"未来を考えるニュースサイト」とのこと。久しぶりにアクセスしてみました。

■WIRED VISION
http://wiredvision.jp/

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いいなあ。取り上げられている話題の切り口といい、デザインといい、なんとなくぼくのセンサーをくすぐる。ジャンルごとの配色も好みだし、「環境」や「デザイン」という項目があるのもいい。ビジュアルの使い方とか、グレイを基調とした落ち着いた色づかいとか、自分のブログでも真似したい。こんな知的なサイトを作れるとうれしい。

掲載されているオフィシャルブログも、なかなか強力です。特に面白いと思ったのは「yomoyomo」の情報共有の未来というブログでした。流行とはいえいまひとつ実体のないクラウドという言葉に対する考察がされていましたが、ぼくが注目したのは、少し古いのだけれど、グーグルについて言及した「Googleの偉大さと傲慢さ(前編)(後編)」でした。

グーグルについての考察は長くなりそうなので、また別に書くことにします。とはいえ、たとえばこのようなグーグルに関する記事や動向などを探すとき、情報を検索するという目的にフォーカスしてみると、圧倒的にネットが速い。もちろん、特集記事としてまとまった情報や見解を読むためには、雑誌は適したメディアといえます。

そんなメディアの特性を考慮しつつ、あらためてオンラインで展開されているWIRED VISIONを読みながら考察したのは、単純に紙かネットかというメディアの違いではないもしれない、という観点でした。

つまりネットで情報を探すということは、ぼくらは情報を能動的に「編集」している。そんな編集者のスタイルを無意識のうちに選択しているのではないでしょうか。プロの編集者が編集したものを読む、という受動的な立場であれば、レガシーな雑誌も有用かもしれません。けれども、ぼくらは与えられたものでは満足できなくなっている。情報を自分で"いじりたい"。

検索して自ら"情報を編集する"楽しみを知ってしまったら、もはや編集されたものを与えられただけでは満足できない。だから、内容のクオリティに関わらず、編集された雑誌は、ぼくらが手を加える余地がないので、つまらないのではないか。編集された記事は完全だけれど、完全であるがゆえにもう編集できません(もちろんカッターで切り抜いてスクラップすれば編集できるけれど)。その完全さがぼくらの自由度と遊び心を奪う。

テキスト情報をクリッピングしたり、引用することも広義には編集だと思います。アマチュアかもしれないけれど、ぼくらはインターネットのコンテンツに対して、個々人が編集者になりつつある。ソーシャルブックマークも、カテゴライズにそれぞれの考え方が反映されるので、編集の一種かもしれないですね。

ネットか新聞か、ネットか雑誌か、のような二元論で解釈できるようなことではないような気がしました。つまり、そこには情報化社会に対するぼくらの姿勢もしくは考え方の大きな変化、スタイルの転換、という問題を孕んでいる。つまり、ぼくらは受動的に情報を受け取る姿勢にはもはや飽き足らなくて、情報を自ら編集する能動的なスタイルに変わりつつあるのではないか。

まさにこのネットと読書の違いを脳科学から研究した結果が、WIRED VISIONに掲載されていました。「研究結果「ネット検索すると頭が良くなる」:中高年の脳に好影響」という記事から次を引用します。

「われわれの研究で最も驚くべき発見は、インターネット検索で活発化する神経回路は、読書で活発化する神経回路とは異なるということと、この活発化が、以前にインターネットの利用経験がある人に限って見られるということだ」

同じ活字を読む行為であったとしても、読書とインターネットはまったく違う脳の回路を使っているようです。そしてそれは、ネットを体験しているひとのほうが活発化している。

中高年はともかく、期待と不安が入り混じった気持ちになるのは、このインターネットを当たり前のように生活の一部として育っていくこれからの子供たちのことです。雑誌かWebサイトのコンテンツか・・・と言っているのは過渡期だからこそ言えることであって、ネット環境が主体となった社会の先に待ち構えている未来は、どんなものなのか。予測もつきません。

願わくば、その変化が人類にとってよきものであることを祈るばかりです。新しいジェネレーションの子供たちにとって、よい変化であるように願っています。

投稿者: birdwing 日時: 23:42 | | トラックバック (0)