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2006年7月 5日

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音の居心地。

パソコンで音楽を創るとき、ぼくはたいてい深夜の作業になります。みんなが寝静まったあとで、ヘッドホンで聴きながら創る。そんなわけでヘッドホンは必須アイテムです。いままで使っていたヘッドホンはSONYのMDR-Z700という密閉型のやつで、結構気に入っていました。なんとなく外見もかっこいいし、音もソニーらしい硬めのきれいな音がする。クリアで音が際立って聴こえる。

こんなヘッドホンです。

MDR-Z700DJ.jpg

ところが、さすがに5年ぐらい使いつづけていると壊れはじめてきて、スピーカーを留めてある部分がプラスチックなのですが、風化したのか、ぼろぼろになって割れてしまった。惜しいのでガムテープで巻いたり、針金で補強したりして使っていたのですが、聴いているうちにばきっと割れてプラスチックが頭に刺さってそれはもう痛いので、そろそろ買い換えようと思っていました。痛いことが刺激になってよい音楽ができればいいのですが、なんとなくオイタをした孫悟空というか、イバラの冠を被っている救世主というか、そんな感じだったので、とうとう買い換えを決意したわけです。

使い慣れたMDR-Z700の2代目にしようかどうしようか迷ったのですが、ついつい浮気心が生じてしまい、パイオニアのHDJ-1000にしました。これです。

00000563.jpg

似ているといえば似ているんですけどね。

店頭で試しに聴いてから買えばよかったのですが、なんだか風邪ということもあり判断力が鈍っていて、いいや、という感じで衝動的に買ってしまった。しかし一応チョイスの理由は考えていて「耐久性に優れる素材」と書いてあったからです。できれば長期的に使いたいので、プラスチックの部分が壊れてしまうと困る。長持ちすればいい、と。

ところが、家に帰ってきて聴いてみてびっくりしました。ヘッドホンが違うというだけで、こんなに音が違うとは。

たぶん音圧的にはすぐれていて、低音はずしんときて、高音はしゃりという感じで若干余韻まで長く残りがちな印象なんですが、ぼくの本音を言わせていただけば、ソニーの方がよかった(泣)。たぶんこのヘッドホンを好きなひとはいると思います。でも、ぼくが求めている音ではない気がする。

それでもよいところをみつけて好きになろうと努力しているのですが、なかなか困ったものです。どうも居心地が悪い。もちろんメーカーも違うのですが、ヘッドホンが違うだけで、こんなに音の居心地が違うものなのか、ヘッドホンにも個性があるんだ、と驚きました。ということは、ダウンロードして聴いているみなさんはすべて環境が違うわけで、ぼくが意図しないような聴こえ方をしているのかもしれない。いったい、何が正しいのだろうと不安になりました。音響専門の方であれば、ニュートラルな音というのがわかるのかもしれませんが。

そもそも店員さんが箱を運んできたときに若干がっかりしたんですよね。ソニーのMDR-Z700は箱もかっこいい(いまだにとってあるぐらいです)黒いダンボール系の箱に入っていました。ところが、パイオニアの方は透明なプラスチックの容器に入っていて、なんだか安っぽかった(こっちの方が価格的には高いのに)。ついでに、このパイオニアのHDJ-1000は密閉率が高くて、暑いです。集中できそうな気がするのですが、夏はツライ。

それでもせっかく購入したヘッドホンなので、文句ばかり言っていないで、仲良くやっていこうと思います。

さて、世のなかでは北朝鮮からミサイルが打ち込まれて大変なことになっています。ミサイルを開発する力を何か別のことに使えばいいのに、と思うのですが。密閉型だけど暑くないヘッドホンの開発とか。なわけないか。

+++++

■ソニーMDR-Z700のサイト。
http://www.ecat.sony.co.jp/headphone/product.cfm?PD=826&KM=MDR-Z700DJ

■パイオニアHDJ-1000のサイト。これはDJ用のものだったのでしょうか。騒がしいフロアでもモニターできるように、密閉されているし、音もぶんぶんしゃりしゃり派手なのかもしれない。しかし、静かな家のなかで聴くのはどうでしょう。
http://www3.pioneer.co.jp/product/product_info.php?product_no=00000064&cate_cd=050&option_no=0

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2006年7月 2日

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記憶を想起させる感覚。

夏の夕暮れ、あるいは夜には独特の匂いがあるようで、近所を散歩しただけでもそんな匂いを感じることがあります。それは焼き鳥の匂いであったり、蚊取り線香の懐かしさであったり、湯上りの石鹸のようなふんわりと漂う空気だったりするのだけれど、爽やかさとは正反対に湿度の高い重い空気がまとわりついてくる。汗をかいたTシャツが肌にぴったりと重なって気持ち悪くもあるのだけれど、そんな夏の夜が好きだったりもします。


小田急線の新宿地下ホームの匂いが好き、といったのは息子(長男)で、なんだかすーっとする匂いがするらしい。ぼくは駅で降りるたびに彼の言葉を思い出して空気を思い切り吸い込んでみるのだけど、いまだにそのすーっとする感じを味わえないでいる。きっとこれからも味わえそうにありません。それは地方で生れたぼくに対して、東京生れの子供だからこそ感じられる何かなのかもしれないけれど、あるいは東京に出てきたばかりのぼくはその匂いを感じていたのかもしれない、とも思ったりして。

嗅覚というのは、視覚や聴覚に比べると、それほど重視されていないようにも思うのですが、大切な感覚のひとつです。武満徹さんの「Visions of Time」という本は、次のような言葉の引用から始められています(P.4 )。

人間は、目と耳とがほぼ同じ位置にあります。これは決して偶然ではなく、もし神というものがあるとすれば、神がそのように造ったんです。目と耳。フランシス・ポンジュの言葉に、「目と耳のこの狭い隔たりのなかに世界のすべてがある。」という言葉がありますが、音を聴くとき--たぶん私は視覚的な人間だからでしょうか--視覚がいつも伴ってきます。そしてまた、眼で見た場合、それが聴感に作用する。しかもそれは別々のことではなく、常に互いに相乗してイマジネーションを活力あるものにしていると思うのです。

鼻と口が近い場所にあるのも、また食という行為に近い機能が集まっているのかもしれない、などと考えました。

さて。今日、仲人をしていただいたかつての職場の部長から電話をいただきました。いまは退職されて、畑を耕したり本を読むような日々を送っているそうです。絵も描かれているらしい。ときどき退屈もする、とのこと。電話の声を聴きながら、穏やかな顔を思い出しました。穏やかであることがいちばんいいと思います。穏やかでありたい。

思いのほか体調がすぐれずに、寝たり起きたりの一日だったのですが、こういうときだからこそ波長が合う何かというものもあるようです。元気なときには感じ取れない何かを捉えつつあるような気がします。

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2006年6月29日

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立体化するための視点。

ひとつのことが気になり始めると徹底的に追求してしまうようで、一方、同時並行的にさまざまなことが気になったりします。さらにいえば熱中していたものに対して冷めるのも早い。移り気なのでしょうか。そんなわけで広げたまま収集のとれない事柄がたくさんあるのですが、徹底的な追及=深耕と、同時並行的な広がり=拡散をうまくバランスを取りながら、いろんなことを考えられるといいと思っています。

ブログで立体的な思考の獲得をテーマとして掲げたので、一年を通して長期的に関心をもとうと思っているテーマは「立体」と「思考」です。実はものすごく深いのではないかと最近思いつつあります。そして短期的にいま関心をもっているのは、「コーチング」です。なぜ?という感じもするのですが、ぼくのなかではこのふたつは結びついています。しかしながら、風が吹くと桶屋が儲かるのような遠さがあるかもしれません。

さまざまな本を読んでいると、どうしても「立体」と「思考」というキーワードの項目が目に入ってしまうのですが、「立体」と「思考」になぜこだわるかというと、リアルな世界をどうすればリアルのままとらえることができて、アウトプットとして思考のなかの立体を再現できるか、ということに関するこだわりなのかもしれません。深澤直人さんの「デザインの輪郭」という本から、以下の部分に刺激を受けました(P.248 )。

迫力あるものを写し取るということは迫力も描くということで、迫力のある絵を描くこととは違うと思ってきた。誇張ではなく、リアルであることに興味があったのかもしれない。立体を意識して描くということが正当な教えであることはわかっていて、世界は立体であるということを、疑うことなく意識して今までやってきた。しかしその教えと反対の考えを最近知るきっかけを得て、幼い頃から感じていた世界の捉え方も間違いではなかったことに気づいたのである。

ここで、ジェームズ・ギブソンの「アフォーダンス(affordance)」について説明されます。

論理の詳しい説明は省くが、極端な言い方をすれば、私たちが見ている世界は立体ではなく、異なるテクスチャーでできたパッチワークのような平面の世界であるという論理である。今見ているものの後ろに背景があるというのは誰も疑わないことであるが、別の見方をすれば、今見ているもののテクスチャーのとなりに背景となるテクスチャーが続いてある、ということでもある。そのテクスチャーのコンポジションは、人が動くことによって変化するということで、その変化によって立体を認知している、ということなのである。

長々と引用してしまったのですが、アフォーダンスについては以前から耳にしたことがあったのですが、聞いていたのだけど頭のなかをすーっと通り過ぎていたようで、ここにきてこの言葉の意味が一種のリアルさとともに納得できました。リアルと思っていた現実は、実は脳内のなかの現象であって、立体に「似てみえる」ことが大切だということです。学校の演劇の大道具のように板に描かれていたものであっても、平面かどうかは関係なく、それがリアルであるという定義をすればリアルになる。そして登場人物が動かなくても、自分が動けば世界は動く。動くことによって世界はよりリアルに、立体化していく。そうして自分の視点を移動させれば、世界を変えることができる。

若干、危険なものを感じつつも、世界は自分と対象の関係性によって成立していること、視点を変えると世界も変わるという発想は、なんとなく面白そうな気がしました。

コーチングについても書こうと思っていたのですが、長くなりそうなので別の日にします。4冊も本を買い込んでしまいました。コーチングには関係ない本もあるけれど(イチローの本です)、間接的にこれが関わってくる。無理やりこじつけているような気もするのですが、読む本がすべてつながっていくので困ります。書店の神様が意図的にぼくに本を選ばせているような気がする。そんな神様がいてくれたら、本屋さんも大繁盛です。ある意味、口コミよりも強力なマーケティング手法ですね、神様マーケティング。

風邪でしょうか、喉が痛い。ゆっくり休んで治します。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年6月28日

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さりげない技巧。

眠かった。眠い一日でした。たぶん疲労が溜まってきているのでしょう。そして疲労が解消されないまま、片付けなければならない仕事があるせいかもしれません。ところで、昨日40度近い熱を出していた息子(次男3歳)は、37度に下がったらやたらと元気になりました。回復力を見習いたい気がします。若いっていいですね。何しろ3歳だもんなあ。とはいえさすがに3歳児にも負荷はかかったらしく、なんだかぷくっとした瞼になっていました。お疲れさまです。

さて、影響を受けやすいぼくは、茂木健一郎さんの本を読めば大切なものはクオリアだと思うし、ダニエル・ピンクさんの本を読めばコンセプトの時代だと思ってデザインについて考えなければ、と鼻息が荒くなる。「ハイコンセプト」という本の影響からか、このところデザイン系の本を読み漁っていたのですが、やはり思考にいちばん影響を与えるのは視覚ではないか、メタファーに関しても視覚関連のメタファーが非常に多く、視覚による表現という分野を担っているデザイナーの方が書いている本は参考になるものだ、という思いを強めました。

特にプロダクトデザイナーの深澤直人さんの本には考えさせられることがたくさんあり、なかでもやはり「ふつう」であることについて書かれた部分が気に入りました。「意図を消す」という言葉も印象的なのですが、たとえば次のような言葉にも姿勢を正されます(P.147)。

デザイナーは語る必要はない。ものが語ればいい。

デザインをするのではなく、デザインしたことについて語ることの方が多くなったときはまずい、というようなことも書かれていました。よい仕事は自己弁護や解説は不要で、仕事がすべてを語る、というわけです。あるいは何ができたかよりも、これから自分は何ができるか、ということの方が大事かもしれません。過去の実績に安穏としているのではなく、これから行動を起こすことが大事であって、傍観者として語っている人物よりも、行動できる人物の方が絶対にえらいと思う。そんなに批判するならおまえやってみろよ、といいたくなるときがありますが、批判する人間ほど自分ではできないものです。もちろんできないことだからひとに頼んだり、自分ではやらないのかもしれませんが、そうであれば感謝が必要になる。できないのに偉そうなのはどうかと思う(自分も含めて、ですけどね)。

誰かのために、という大義もすばらしいものですが、ときとしてそれが言い訳にもなります。次のような言葉もありました(P.150)。

人間は、他人のためにやっているという感情をもってやると、
汚れてしまいますよ。

ほんとうに自分が好きなことに没頭する時間というのは、自分にとっても素敵なものだし、それがいつか企業や社会にも還元していく。無我の境地にあるときには、自分がいままで成しえたことを超えた仕事ができるのかもしれない。報われないことも多々ありますが、途中で諦めるのではなく、やがて夢がかなうという気持ちを強化していけば、大きな実を結ぶときがあるのではないでしょうか。

私はすごい、と自画自賛するひとに、すごいひとはあまりいないものです。忙しさを過剰にアピールするひともいますが、いや忙しいかもしれないけど、あなたのやっているのは雑用じゃないんですか?ということも多い。過剰に、組織のためだを振りかざすひともどうかと思うところがあり、組織を盾にして自分のポジションを獲得することに一生懸命な感じがする。ぼくは管理よりもビジョンを提示できるリーダーの方が何百倍もすごいと思います。もちろん管理も大切だし、必要なことではありますが。誰だって自分を主張したいものであり、自然体の範囲の自己主張であればかまわないのだけど、過剰な主張になっていないかどうか、ぼくも気をつけたい。たいてい疲れているときとか、あまり気分のよくないことがあったときには乱れるもので、いまもちょっと乱れ気味かもしれない。ただ、最近は乱れ気味だと感知できるだけ進歩したのかもしれません。ものすごくちっちゃい進歩ですけど。

武術などを究めたひとは、気配を消すことができるといいます。通常、術を究めたのであれば、全面的に術を出せばいいと思うのだけど、逆に術を出さないことが高度な術だったりする。

趣味のDTMもそうだと思うのですが、フランジャーなどのエフェクターを使い始めると、いかにもエフェクターかけましたっ!という意図的な音楽を創りがちです。でも、その道を究めたひとはきっと、機材を使っているかどうかわからないけれども実は使っていて、何度も聴き込むうちにわかってくるような印象的かつ存在感のある音創りができる。

文章もそうかもしれません。村上春樹さんの初期の作品はメタファーの宝庫だと思うのだけど、あまりにも技巧ばかりが目立ちすぎます。けれども最近書かれたものは、直接的な技巧は目立たないのだけれど、もっと深い高度なメタファーが駆使されている気がする。成熟というのはそういうことで、いかにもやりましたっ!的な技巧というのはわかりやすいけど青臭い。あまり主張していないんだけど、わかるひとがみればわかるような技巧がいい。

やわらかい言葉だけれど実は深い真理を突いていたり、すーっと読み進められるんだけど、なんだか心に重く残るとか、そんな言葉を使えるようになりたいものです。たとえばぼくにとっては谷川俊太郎さんの言葉がその理想形のひとつであり、究極の目標です。

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2006年6月27日

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時間の流れ、場所。

はじめて訪れる場所には少しだけ早く到着するようにしています。ところが、ときどき早過ぎて時間を持て余してしまうこともある。今日は横浜の市街から外れた場所で打ち合わせだったのですが、あまりに早く到着してしまった。喫茶店でもあればいいのだけれど、あったとしてもゆっくりお茶を飲んでいるほど長い時間があるわけでもなく、結局のところ川のようなところのほとりでぼーっと時間を潰していたところ、通りすがりの日傘を差したちいさなおばあさんが「おはようございます」と声をかけてくれました。すかさずぼくも「おはようございます」と答えることができたのだけど、ものすごく些細なことですが、なんだかしあわせでした。

横浜や神戸のような街が好きです。歴史があるし、なんだか時間がゆっくり流れているような感じがします。もちろん住んでみるとまた違うのかもしれませんが、東京では道を歩いていたとしても、あまり見知らぬひとから声をかけられるようなことはない気がします。とはいえ、やはり横浜の駅自体は大きすぎて、ひとが多すぎです。一駅先に行けば、ぜんぜん違う風景が広がっているような気がするのですが。

暑い薄曇りの天気のなか、歩きすぎてへとへとになりました。へとへとになって会社に帰り、さらに仕事に追われて残業して、夜中の11時半に家に辿りつき、今日がまだ火曜日であることに気付きました(というよりも既に水曜日になっているのですが)。朝、横浜の郊外を歩いたときのことが遠い過去のようです。けれどもなんだか歩いた風景が記憶のなかにしっかりと残っている。おかしなものです。どうでもいいような風景の方が、しっかり覚えている。

忙しいことはともかく、下の息子(次男3歳)が40度近い熱を出してしまって、心配です。

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