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2006年6月25日

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猫型と犬型の対立。

調べものをしたり、資料を読み直したり、書きものをしたり、ちょっと気分転換に息子と卓球したり(玩具の卓球台が先日届きました。それにしても部屋が狭すぎ)、そんな感じで一日が終わってしまいました。さすがに家のなかにこもっていたので、夕方になって外に出たところくらくらした。しかも難しいことを考えすぎたので、知恵熱気味です。

そんな疲労感に、得体の知れない体調不調まで加わって急速に元気がなくなっていたのですが、さきほどFMラジオのJ-WAVEで小林克也さんの「DJ KOBBY'S RADIO SHOW」を聴いていたら、とても癒されてしまいました。元気が出ました。来日40周年ということで今月はビートルズ特集が組まれていたのですが、今日は最終回でした。よい音楽はひとを元気にしてくれます。ありがたいことです。

知っていたとはいえ見たことがなかったのですが、J-WAVEのサイトではリアルタイムで現在かかっている曲を知ることができます。最初にかかっていたGEORGE HARRISONの曲がすごくよくて、なんだっけかなと思って調べたところ、「22:02 WHEN WE WAS FAB 」と情報が掲載されていて、ありがたかった。なんとなくビートルズ時代のパロディのような、弦の使い方やコーラスのアレンジがされている、いわゆるフィル・スペクターサウンドなのですが、疲れた頭にとても新鮮でした。ジョージ・ハリスン、いいですね。彼のような曲を創りたい。

いずれサイトにDJのアーカイブとして記事が載るそうですが、小林克也さんがものすごく面白い見解をお話していました。ビートルズが解散したのは、メンバーの音楽的な対立などではない。あれは、犬好きと猫好きのウマが合わなかったからだ、とのことです。

犬好き、猫好き、というのは誰かというと、犬=ポール・マッカートニーで、猫=ジョン・レノンだそうです。どうしてかというと、ポールは犬を飼っている、ジョンは猫を飼っているという、ただそれだけのことらしいのですが、なんとなくわかるような気がして頷いてしまいました*1。ポールの音楽は純粋なポップスが多く、正直者ですぐにしっぽを振るような感じだけれど、単純すぎて深みには欠けるような気がする。一方、ジョンの音楽は、皮肉が効いていたりひねくれていて、外をわんわん駆け巡るよりもコタツ(というかベッド)の上で丸くなっていたいタイプなのだけれど何か深遠なものを感じる。言い得て妙、です。

以前にも書いたことがあったような気がしますが、ぼくもどちらかというと犬タイプの人間で、すぐにひとを吠えたり、かと思うと餌をもらうとしっぽをぶんぶん振ってしまう。ご主人さまがいなくなってしまっても、ストーカーのように待ちつづけるタイプかもしれません。ただし、猫的なものにはものすごく憧れたり、尊敬したりしています。猫っぽい生き方ができればいいのになあ、と思ったりもする。AB型ってちょっとゲイジュツカっぽくないでしょうか。ぼくからみるとその芸術的な感じが、ものすごく憧れです。

血液型でいうと、ぼくはO型なのですが、O型のぼくからみるとAB型とA型は猫っぽい(あくまでも私見です)。一方、B型は同類の犬という感じがします。あまり根拠がないと思うし、犬的なものも猫的なものも混在している気がするのですが、ビートルズの対立は犬好きと猫好きの対立だ、というシンプルな理論としてまとめてしまう小林克也さんには、すがすがしいものを感じました。

気になっていま調べてみたのですが、ジョン・レノンはO型らしい。そして、ポールはB型とのこと。さらに、リンゴとジョージはA型(うーむ、すごくわかる気がした。気を使うひとたちですもんね、A型は)。ジョンはAB型のような気がしたのですが、外れました。でも、繊細でありつつラジカルに何か言いたがる感じは、O型のぼくとしてはよくわかる。

だいぶ暑くなってきました。缶ビールを空けて飲んでいたら、ぶわっと汗が出てきた。DTMの趣味はヘッドホンをかぶりつつ制作しているのですが、ヘッドホンをかぶりたくない季節になってきました。

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■J-WAVE、小林克也さんのDJ KOBBY'S RADIO SHOW。
http://www.j-wave.co.jp/original/djkobys/

*1:ちなみに、オノ・ヨーコに追い出された時期に飼っていた2匹の猫は、メジャーとマイナーというらしい。長調と短調ですか。陽と陰ともいえます。小林克也さんの話してくれるそんな知識も楽しめました。

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2006年6月24日

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考えない(without thought)。

気になる本というのはそのときどきで変わるもので、突然小説ばかり読み漁るときもあれば、ビジネス書を片っ端から読んでいくときもあります。いまぼくはどちらかというと、写真があって、深い思索的な言葉で構成されている本に傾倒しがちのようです。ところがそういう本はちょっと高価なもので、そう簡単には買えないので困る。

仕事の途中で立ち寄った書店で先日買った本は、プロダクトデザイナーである深澤直人さんの「デザインの輪郭」です。

4887062605デザインの輪郭
TOTO出版 2005-11-10

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偶然にも輪郭というタイトルでブログを書いていたので、ついタイトルに惹かれてしまったこともあるのですが、ぱらぱらとめくっていて次の言葉がよいと思いました(P.42)。

僕がこれを考えたように見えるといわれますが、
それは僕が考えたわけではなくて、
そうなるべき姿であったということの結果だと思います。

「04 考えない(without thought)」というアフォリズムのような短い言葉です。前書きのところで解説されていたのですが、この本はもともとはインタビューや対談を原稿として起こして本にする、ということで作るはずだったのが、いざトークを起こしたものを読んでみると抽象的すぎて愕然とされたそうで、インタビューや対話の発言をそのまま記録したような部分と、その発話としては抽象的すぎるアフォリズムについて後から文章によって解説を付加した部分(さらにデザインの写真)で構成されています。

「without thought」という思想からワークショップなどの活動も展開されているらしいのですが、よい作品というのは見た瞬間に直感的にこれはいいなと誰もが納得し、やられたとため息が漏れるものだ、という言葉になるほどなと思いました。しかしながら、よいデザインは突飛なアイディアであったり力がこもっているものではなく、自然なものである。「行為に溶けるデザイン」という言葉を使われているのですが、無意識のうちに生活に溶け込むものだそうです。

「選択圧」というキーワードもあるのですが、自然に使いこなしていくうちにデザインは淘汰されていく。進化論的な言葉からヒントを得た思想のようですが、無理に主張するのではなく、よいものは必ず残る、美しくないものや不正なものは自然に淘汰されていくという考え方には、何か頷けるものがありました。俳句とデザインについても対比されていて、やはり意図的に創った俳句はよくない、選句眼のすぐれたひとがいて選び出すことによって、それほどよいとは思わなかった句も名句に変貌する、という話も面白かった。

ただ、ぼくが思ったのは、最初から何も考えないで何か素晴らしいものを生み出せるような境地に至るのは難しく、考えて考えて、泥沼のようなところを這いつくばって、傷付いたり悩んだり、二度と振り返りたくないような恥ずかしい体験を潜り抜けたあとで、自然にすっと生きることができるようになる気がします。深澤さんご自身も考えないと言いつつ、ものすごくたくさんのことを考えている。湖面に浮かぶ鳥のように水面下でたくさん水をかいているのだけど、静かにすーっと水に線を描いて動くことができるようになりたいものです。

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2006年6月19日

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本、リンク、声。

少し古い話題になのですが、BRUTUSの6/15号は全730冊本特集ということで、読書案内の特集でした(既にバックナンバーとなってしまって、最新号はアイスクリーム特集のようです。今日は夏のような暑さだったので、アイスクリームの需要もぐんと伸びたことでしょう。それにしてもさっそく体力が消耗気味です)。

手もとに2003年の12/15号もあって、こちらは映画対決という特集です。ブックレビューにしても映画ガイドにしても、まとまっているものにはつい手が伸びてしまうのですが、ふと考えてみると、雑誌を購入したのにあまりきちんと読んでいない。もったいないのできちんと読もうと思います(いつか)。

どちらも表紙に作品のタイトルがずらりと掲載されていて、これを眺めているだけでも面白い。装丁というのは、限られたスペースでフォントをどうするか、画像をどうするかなどを考えつつ、手にとってもらえる本の"顔"を作る仕事だと思うので、なかなか奥が深い気がします。

本というテーマでいくつかの記事があるのだけど、ぼくが面白いと思ったのは、茂木健一郎さんと内田樹さんの対談と、谷川俊太郎さんのインタビューでした。

茂木健一郎さんと内田樹さんの対談では、二元論を超えるということから話がはじまり、「割り切れない剰余としての生命・身体・精神」という議論を経て、霊的経験の本質というところに展開されていきます。最近、そんな話ばかりでちょっと食傷気味な感じもあるのですが、こんなことが書かれていました(P.27)。

内田 霊性の本質は何かということだと思うんですけど、それってたぶん「つながること」なんです。
茂木 固有名を失うということですか。
内田 ええ。これは三砂ちづる先生の仕込みなんだけど、どんな人でも経験できる超常経験というのは出産の瞬間なんですって。ものすごいピーク・エクスペリエンスがあって、その瞬間に感じるのが「自分は宇宙とつながっている」という実感。僕も自分の子供が生れた時の一番率直な感想というのが、変な話「肩の荷が下りた」なんです。人類発生以来の、そのもっと前のミトコンドリアの時代から始まった何億年かの生命の歴史を、俺は切らずに次へ伝えたということのね。受け取ったパスを、次にパスしたという瞬間の安堵感というのが、すごく深かったんです。

この部分はすごくわかる。といってもぼくは男性なので、お腹を痛めて子供を生んだわけではないのですが、親から子供へのリンクというのはすごく感じる。子供のことを考えるとき、ぼくはどうしても自分の父の姿を自分に重ね合わせていて、同時に子供のなかに自分をみている。リンクと言ってしまうとインターネット的なのですが、要するに「絆」なのでしょう。それを「縁」と言い換えると、血縁をはじめとしてそれ以外の縁もあるだろうし、「因」とすると時系列で起こることのつながりを言っているようにも思える。

いまインターネットを通じて、まったく面識のないひとともリンクができるようになりましたが、どうしてブログやSNSがこれほど爆発的に増えたかというと、やはり自分を表現するよりも、つながること、絆・縁・因ということを動的に生じさせることができるからという気がします。

と、理屈っぽくなってきたのでこの辺にしておきますが、BRUTUSの谷川俊太郎さんのインタビューには「さようなら」という詩が引用されていて、朗読する谷川俊太郎さんの写真が掲載されている。これがいいです。ジャズピアニストである賢作さんと朗読とピアノのセッションをされているようですが、生で聴いてみたいなあと思いました。美術館で相田みつをさんの声を聴いたときにも感じたのですが、やはり肉声というのはよいものです。Vocaloidという音声合成ソフトウェアがあるのですが、どんなにリアルに近づけようとしても何かが足りない。言葉のなかにタマシイがこもっているかどうか、ということかもしれません。タマシイというと、ひゅーどろどろ、な感じがあるので、ソウルと言い換えてみましょうか。

「さようなら」はとてもよい詩です。

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2006年6月15日

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立体にみせる、音を配列する。

仕事がら、PowerPointをよく使っています。ところが、ちょっとかっこいいプレゼンテーション資料を作ろうと思って図形を立体化しようとすると、あまりうまくいかない。

オートシェープ(図形描画の機能)を立体化する3Dというボタンがあるのだけど、何だか違う。というのは、立方体を作る場合に、通常は正方形を描いて立体化するのですが、基本的に斜め右上に奥行きが広がるような図形になるわけです。しかし、これがどうもかっこよくない。息子の算数に出てくる立方体のような図形で、美しくない。ぼくが描きたい図形は、以前、このブログで「思考のエクササイズ」というエントリーで資料をつくってみたことがあったのですが、次のような図形です。

rittai.jpg

仕方がないのでこの図形は、ひし形を組み合わせて作りました。

ところで、「デザインする技術 ~よりよいデザインのための基礎知識」という本を読んでいたところ、この図形の描き方に技法としての名称があることを知り、なるほどと思いました。「アクソノメトリック投影法」というそうです(P.52)。特に「垂直な線分(軸)に、同じ長さの線分を左右に等分の60度角度を持たせて加える」一般的な描き方は、「アイソノメトリック」と呼ぶらしい。何気なく描いていた図形は、どうやらこのアイソノメトリックのようです。一方、正面の正方形に奥行きを付ける「押し出し図形」の描き方にも名前があり、Elevation Obliquesとのこと。これは「立方体の構造物を角度を付けずに見下ろした構図」だそうです。

こんな風に、何気なくどちらかというとこの描き方のほうが美しいな、と思って作ったものに法則があることを発見することは、結構楽しい。黄金分割などもそうだと思うのですが、昔から絵を描いたりデザインするひとたちの間で、どのように描いたら美しいか、リアルになるか、ということが考えつづけられてきたわけです。そこには人類の長い思考の歴史があり、自分の発見だと思っていたことであっても、誰かが考えている。

このとき、この発見はオレのものだ、オレだけに権利がある、という風に独占的に思いたくはありません。えっ?誰かがもう考えていたのか残念、と悔しがりたくもない。昔にもそういうことを考えていた誰かがいたことを思い、過去の誰かの思考とつながっていることをうれしく感じていたい。なんだきみも(誰だか知りませんが)そんなこと考えていたんだね、という共感がそこに生まれるわけです。そしてその思考を未来につないでいきたい。過去の誰かから、未来の誰かへのリレーとして。

ということを考えていて、また意識が回想モードに入ったのですが、まだ14歳か15歳の頃、少年のぼくはギターコードをピアノの鍵盤に置き換えているときに、ある法則を発見したことがあった。これは音楽をやっている方にとっては当たり前のことかもしれないのですが、たとえばCというコード(和音)は、ドの音をベース音にして、その鍵盤から(もとの鍵盤を数えずに)半音で4つ上(ミ)、さらに4つ上の音から半音で3つ上の音(ソ)の音で構成されている。これは3度と5度ということだと思うのですが、ベース音をどの音に変えても、この構造は変わらない。つまりDであれば、レの音から4つ上(ファの#)、その音から3つ上(ラ)になる。つまり、ギターコード譜さえあればどんなコードもピアノに展開できる。さらに真ん中の音を半音下げるとマイナーコードになる。Cであれば、ミを♭にするとCm(シーマイナー)になるわけです。

この法則に気がついたとき、ぼくは身体に電流が走ったような気がしました。もちろん、和音にはそのほかにも7度を加えるなどの装飾があるのですが、シンプルに音の世界をとらえるとすれば、世界は「陽(メジャー)」と「陰(マイナー)」、つまり日の当たる場所と影になる場所で成り立っている。したがってメジャーコードとマイナーコードの成り立ちさえ知っていれば、とりあえず表現ができる。しかもその構造は、どんなに転調しても同じである。この発見に少年のぼくは衝撃を受けたのでした。

その後、メジャー7のコードや複雑なディミニッシュを覚えたときには、ああ大人になったなあ、と感じたものです。けれどもはじめてコードの成り立ちを発見したときの驚きには及ばない。そのとき、ぼくの前に広がった世界の明るさというものを、ぼくはいまでも覚えているような気がします。

しかしながら、もっと考えを深めていくと、ドミソという構成と、ミソド、ソドミという構成は同じ音であっても何かが違う。これはまさに正面(図)にどの音が出てきて、背後(地)にどの音があるか、ということかもしれないのですが、同じ構成要素であっても、配列が違うとまったく別の雰囲気、世界観を醸し出す。まったく違う秩序が生まれる。余談だけれど、New Order(新しい秩序)というバンドがあるのですが、そのベースはルート(Cだったらドの音)を弾かないアレンジがされていて、そこがかっこいい。秩序を壊したところに新しい世界が生まれる。

会社などの組織も同じかもしれません。社員は同じであっても、誰がトップに立つかということで、同じ構成員だったとしてもまったく別のハーモニーが生まれる。同じ立方体であってもアイソノメトリックで描かれたときには洗練さが感じられるように、どうみせるか、ということだけれも大きく異なるものです。

こんな風にして、デザインや音などジャンルが異なるものを横断して、何か法則をみつけていきたいのですが、それは小説を書いたり音楽を創るのと同じぐらいに創造的な試みだと思うし、科学者や発明家のようなひらめきにあふれる分野であるような気もしています。もちろんあまりにもスピリチュアルになると危険も感じているのですが、その方法模索、あるいはパターン発見の長い旅のなかで、何か新しいものに出会いそうな予感があります。

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■いろんな本を同時進行的につまみながら読んでいるので、なかなか読了できないのですが、「デザインする技術」は面白い本です。

4844358588デザインする技術 ~よりよいデザインのための基礎知識
MdN 2006-05-19

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2006年6月12日

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芝生。

ワールドカップの日本対オーストラリア、負けちゃいましたね。なんとなく日本のチームは気迫に欠ける気がしたなあ。中村俊輔さんのゴールはうまいなとは思ったんですけど、なんとなくふわーという感じだったし。奥さんは寝ちゃいましたが、息子たちと最後までみていました。というか、次男の方はみているというかはしゃいでいるだけでした。それにしても、長男は明日、学校は大丈夫なのだろうか。というぼくの方が心配なのですが。

日の当たる芝生をみていたら、というか芝生じゃなくて試合場なのですが、ビールが飲みたくなってしまい、缶ビールをどんどんあけてしまったらよい気分になりました。なんだか日曜日の午後に、芝生の広がる庭でひなたぼっこをしているような感じだった。試合も後半になると、ゴールポストのあたりが日影になってしまって、あれだけ明暗がくっきりしていると守るほうも攻めるほうもやりにくいだろうな、と思ったりしたのですが、だからどうだという気もします。そんなわけで試合が終わって負けてしまっても、なんだかなーという気分にしかならなかったのですが、力が抜けてしまってブログもまとまりません。

芝生といえば、谷川俊太郎さんに「芝生」という詩があって、短い詩なのですが「ぼくとはなんだろう」という神秘的な問いがわきあがってくる作品です。ついでに、村上春樹さんにも「午後の最後の芝生」という短編小説がありました。この作品も広がりつつ閉じているような、一種のぼーっとした感じ、ハレーションを起こした緑の色彩のなかに意識が朦朧と沈み込んでいくような印象だったような気がします。

ぼくはいったいサッカーを観ていたのでしょうか。縞模様になっていた芝生をみていただけかもしれない。酔いが醒めたあと、次には眠りがぼくを朦朧とさせるのですが、そんな日もあるものでしょう。

きっと今夜は芝生の夢をみるような、そんな気がしています。

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