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2006年6月 2日

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楽器のある生活。

めちゃめちゃうれしかったのですが、お仕事関連で撮影に利用して不要になったキーボード(MIDIコントローラー)を譲ってもらいました!!これです。

PCR-M1.jpg

EDIROLの薄型MIDIコントローラーです。ほしかったんですよね、これ。何度も店頭でどうしようか眺めていました。2万円ぐらいの価格で、買おうと思えば買えないこともない。微妙な価格です。けれども他にほしいものはたくさんあって、断念していました。とはいえ、タダでいただけちゃうとは!!いろいろと気を遣っていただいたのかもしれませんが、ほんとうにうれしい。こういうときは、ひねくれないで素直に喜ぼうと思います。余談ですが、いくつか仕事がよい方向に向いつつあり、自分を必要としていただいている方から声をかけてもらったりしています。もちろん過大な評価をいただいていることもあるのですが、つらい日々のあとにはこんなうれしいことも待っているわけで、頑張ろうと思っています。

MIDIコントローラの話に戻りますが、25鍵しかないとはいえ、打ち込み主体のぼくには十分です。これが買えないあまりに、ピアノロールにマウスでちくちく音を置いていく「点描画ミュージシャン」を無理やり標榜したりしていたのですが、今日で点描画は廃業するかもしれません(まだ、PCに接続していないので何ともいえず、実はやっぱり点描画だ、ということになるかもしれないのですが)。

点描画ミュージシャンを宣言したのだから最後まで初志を貫徹しなさい、というご指摘もあるかもしれませんが、いいんです。ぼくは最近、朝令暮改をよしとするというか、フレキシブルな対応こそすべて、と感じています。ぜったいこうあらねばいけない、という強い意思は大事であるし、頼もしいと思うのですが、環境の変化が激しい時代には、ぽきっと折れてしまいかねないものです。むしろ、あんなことを言ってたけどやっぱりこっち、というフレキシブルなしなやかさのほうがよい。プライドなどがあると、なかなか宣言したことは曲げられないものですが、プライドなんてちゃちなものは捨ててもいいんじゃないか、と考えています。

ハイ・コンセプト」という本にも「チーズはどこへ消えた?」という本が引用されていたのですが、あの寓話にあるように、変わってしまったものに対して怒ったり批判するよりも、変わってしまったものは置いて新しいものを探しに行けばいい。また、いま読み進めている(178ページを読書中)村上龍さんと伊藤穣一さんの「「個」を見つめるダイアローグ」という本にも、日本人は決められたルールを守ることに集中し過ぎることによって、逆に全体を見失うことがある危険性が書かれていました。JR福知山線の事故を例に、伊藤穣一さんは「無謀なルールにがんじがらめになって、人命という、もっともっと大事なものを失ってしまった。」と述べられています(P.82)。ルールという細部にこだわって「全体思考」ができなかった、といえるかもしれません。

つまりぼくらは全体をみることができれば、瑣末な何かから解放されて、自由に生きることができるようになるのではないでしょうか。けれども瑣末な何かを捨てることは、全体としての自分を損なうことではない。たとえばブログを書きつづけると、書きつづけること自体が目的になって、現実との本末転倒が起きることもあります。強迫観念的に書いてしまうことがあったり、アクセスを求めたりすることになる。しかしながら、書くことを止めてもぼくという全体は存在しているわけで、その存在は汚されるわけではない。あるいは、ぼくは自主的に年間本100冊と映画100本を観るという課題を自分に課しているわけですが、達成できなくても途中で辞めたとしても、それでぼくが損なわれるわけではない。もっと大事なものに注力したいと考えたとしたら、そのほかのことは投げ打ってもかまわないと考えています。

日本人は、どちらかというと「運用主体の民族」という気がしました。新しいことを生み出すよりも、一度生み出されたルールを律儀に守っていくほうが得意です。農耕型だから、繰り返して運用する社会の在り方に安心もするし、そのスタイルを守っているのかもしれません。けれども、これからの社会においては、運用だけでは厳しい世のなかが訪れるかもしれない。ダニエル・ピンクさんの本にかぶれている偏向も感じますが、新しいことを生み出すクリエイティブな能力が求められていることは確かじゃないか、とも思います。

さて、6月になってしまったのですが、趣味のDTMで10年前の曲をセルフカバーする試みはまだつづいています。そしてこれも焦って発表するのではなく、納得のいくところまで作り込もうと思っています。RealGuitarというソフトウェアがなかなかのくせもので、もうちょっとのところでリアルにならない。

そんな風に仕事と同時に打ち込み三昧の毎日ですが、あらためて感じたのは、キーボードがある部屋っていいものだなあ、ということでした。ぼくの部屋にはいまギター(フェンダージャパンのテレキャスター)、ベース(ビートルズのポール・マッカートニーも使っていたへフナーのバイオリンベース)が立てかけてあるのですが、そこにキーボードが加わってかなりいい感じになりました。ほんとうは弾かなきゃいけないのですが、そこにあるだけで何か存在感がある。薄型MIDIコントローラーにはソフトケースも付いているので、パソコンとキーボードを抱えてスタジオに入る、なんてこともできそうです。

ぼくは打ち込みをある程度究めたところで、また楽器を自分で弾くというところにも戻りたいと思っているのですが、どんなに朝令暮改でフレキシブルにスタイルを変えたとしても、音楽のある生活だけは守りたいものだ、楽器のある部屋はいいなあ、とあらためて思いました。

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2006年5月30日

a000653

ハルキは、ハルキ。

AERAのNo.27(6.5号)に「昔の「春樹」に会いたい」という特集がありました。

小森陽一先生の村上春樹論を読破してさまざまな考察を加えていたところであり、村上春樹さんのファンでもあったので、購入して読んでみました。

けれども、「海辺のカフカは処刑小説である」という過激な理論に接していたためか、どうもこの記事にはぼんやりとした印象しかない。純粋無垢なファンであれば、「最も好きな作品は?」というランキングに、うんうんと頷いていたかもしれないのですが、なんか当たり前だな、としか感じなかった(ちなみに1位は「ノルウェイの森」。当たり前でしょ)。もしかすると小森陽一的な思考のバイアスがかかっていたのかもしれません。力のある評論に接すると、こういうところが怖いものですが、ニュートラルに気持ちを落ち着けて読んでみると、春樹ファンにとってはしあわせな記事かもしれないな、と思ったりもしました。

このAERAの記事のなかで、ちょっと首を傾げたのは次のような部分でした。

近年の村上春樹は、『海辺のカフカ』などの話題作を発表する一方で、オウム真理教のサリン事件に取り組んだ『アンダーグラウンド』や阪神・淡路大震災の影響が色濃い『神の子供たちはみな踊る』などの異色作でファンを驚かせてきた。世界的な作家に成長し、ノーベル賞受賞も遠くないといわれる。しかし、新境地を開くほどに、かつて読んだ初期作品から離れていってしまうような寂しさを持つ人々も多い。
「オウム事件でハルキは変容してしまった」
「初期作品の『僕』をもう一度出してほしい」
「ビーチボーイズ、ビール、Tシャツと、若い頃の思い出が詰まっている」
アンケートなどからは、そんな声が聞こえてきた。

ほんとうのファンであれば、変わっていくことも容認できるのではないでしょうか。むしろ変わっていくことを応援したい。変わらない人間なんてありません。誰もが年を取っていく。

古い作品に若さであるとか、その時代でなければ書けない空気、懐かしさがあるのはわかります。でも、それを現在の春樹さんに求めるのはどうかと思う。古い作品が好きであれば、古い作品を何度も読めばいい。何度も繰り返し大好きな場面を読むことができるのも、読書の楽しさのひとつです。けれども新しい作品には新しい春樹さんの考えがある。創作というのは、どんどん読者を裏切る行為であると思うし、その裏切りにもついていけるのがファンだと思う。ベストセラーを出さなくなって、メディアに取り上げられなくなってしまって、ロングテールの先っぽに落ちてしまったとしても読みつづけたいのが、ほんとうのファンという気がします。

だから、もしファンであれば、どんな駄作を発表してもぼくは読むだろうし、その駄作を愛そうと思います。社会的に間違ったものを書いたとしても、その間違いごと受け止めるのがファンではないでしょうか。もちろん、あまりにもついていけないような世界に入り込んでしまうと困惑しますが、やれやれ、こうなっちゃたか、こまったなあと困惑しつつも見守っていたい。

関係ないのですが、かつてぼくはひそかに菊池桃子さんをいいなあと思っていた時期があり、しかしながら歌が下手だとか地味だとか周囲の評判は最悪だったので、心のファンにとどめておいたのですが、彼女が結婚したり子供が生まれたりしたことにちいさく傷付きつつも、皺が増えたりおばさんになってしまったかつての心のアイドルをみて、いまでもやはり素敵だなあと思います。オードリー・ヘプバーンも年老いてからメディアに登場したときに、夢が壊れると批判されたことがあったようですが、おばあちゃんである私をみてほしい、というようなことを言ったエピソードがあったような気がします。

あらゆるものは変わっていくものです。若い作家も年を取る。田舎の風景だって、少しずつ賑やかになっていく。

ヴォネガット的な「風の歌を聴け」の詩と小説が混在したような若々しい乾いた文体も好きだけれど、ぼくは「海辺のカフカ」のような成熟した文体の春樹さんも好きです。小説としての完成度は確実に上がっていると感じたし、だからこそ処刑小説のような光を当てることもできる。「アフターダーク」は正直なところ、いまいちだと思ったのですが、もしかしたら次の作品のための「創造的退行」なのかもしれない。

村上春樹さんは読者とのコミュニケーションも試みているようですが、そんなCGM的というかブログ的というか、双方向的なものがあるから、読者も言いたいことを言うようになってきたのかもしれません。対話はとても大切なものだと思うし、作家が一読者の感想に答えてくれるのはものすごくうれしいことです。けれども、「昔のスタイルで小説書いてくれ」というのは、どうでしょう。もちろんそこには願いも込められているとは思うのですが、読者のわがままという気もするし、ほんとうのファンなのか?という気がしました。

よいことも悪いことも含めて、いまある誰かの姿を、ありのままに視ること。その心のなかにある何かを感じとること。それが大切かもしれません。

みんな変わっていきます。昔のハルキは、いまのハルキとはまったく別人ともいえる。けれどもやはりハルキはハルキだと信じましょう。そうして変わらないものがあるとすれば、書かれた言葉だけかもしれません*1。

*1:養老孟司さんが本に書いていることですけどね。

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2006年5月28日

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左右のリレー、そしてシャッフル。

昨夜、机の横に積み上げておいた本が雪崩れを起こしました。生き埋めになった本を救出すべく、救助作業を行ったのですが、その過程で、こんな本も読んでいたのか、という自分でも忘れていた記憶を取り戻すことができました。逆に、この本も読んでいなかったのか、というかなしい状況を発見することにもなったのですが、本や書類の効果的な整理方法がないものか、と頭を悩ませています。

反対する動きも大きいようですが、ぼくはグーグルが世界中の書物(というより情報)を電子化しようとしていることに大きな期待もしていて、さらに小型で薄い電子ブックリーダーのようなハードウェアができれば、この二十世紀的な本の雪崩れに悩まされる状態も緩和されるのではないでしょうか。紙を節約するという意味で、資源にもやさしいかもしれません。とはいえ、ぼくは紙の本たちの存在感や質感(匂い、手触りなど)というのも大切に思っていて、電子化されるからといって本の購買意欲を下げるものではないような気もしています。音楽のダウンロード販売が進展しても、やっぱり大好きなアーティストはパッケージ(CD)で持っていたいように。

ダニエル・ピンクさん(大前研一さん訳)の「ハイ・コンセプト 「新しいこと」を考える人の時代」という本を読んでいるのですが、考えさせられるところが多くあります。世界が大きな変化を迎えている、という実感をひしひしと感じます。

BPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)によって、ナレッジ・ワーカーの世界ですら、力仕事の単価はどんどん下がっている。ごりごりプログラムを書くような仕事は、インドの技術者がアルバイト価格でやってしまうわけです。では、どうするか、ということで創造的な仕事に向うべきだと書かれています。それは、いままでの左脳重視的な論理で組み立てる仕事ではなく、右脳的な創造性が求められる仕事である、と。この本の最初は脳についての考察からはじまり、脳科学が一部のサブカルチャー的な話題や、テレビなどのトレンドで終わるブームではないことを感じました。

ここで右脳と左脳の機能が整理されていて、茂木健一郎さんの本などでも一度読んでいた気がするのですが、あらためて興味深い考察がありました。右脳=左半身を制御/全体的、瞬時な処理/文脈の処理/大きな全体像の把握、であり、左脳=右半身を制御/逐次的な処理/文の処理/詳細の分析、と整理されていることです。

左脳重視の社会があったのは、人類の90%が右利きである(左脳によって制御されている)ということにあったからかもしれません。ぼくはこのブログで「俯瞰(ふかん)思考」を理想として追求してきたのですが、俯瞰する力とはつまり全体を把握する右脳の思考かもしれません。養老孟司さんのいうところの一元論からの脱却など、「どちらか一方ではなくどちらも選ぶ」時代である、ということもさまざまな本で書かれていたのですが、これもまた右脳的な全体を把握する力が求められる。逐次的な処理とは、まさにコンピュータがプログラムを上から処理していくようなもので、左脳はコンピュータ的といえますが、「第1感」という本にもあった瞬時で贋作を見抜いたりする直感のような力は、右脳にあるようです。これは人間だけのものだといえる(いまのところは)。左脳的な力仕事の処理はコンピュータがこなしていくので、右脳的な能力が必要になる。

と、同時にぼくが面白いと思ったのは、右脳は比喩(レトリック)を読み取る力がある、ということです。逐次的な処理(コンピュータ的)では、比喩は理解されない。右脳的な比喩、あるいはメタファーを理解する力が全体を把握する思考力として重要になるわけです。

ぼくは脳科学者でもなく文学者でもない一般人ですが、脳科学、言語学、心理学、文学、映画、音楽(ついでにビジネスやテクノロジー)のような分野を横断して個人的な考察をしていきたいと考えていて、この右脳=比喩という指摘からイメージが広がったのは、右脳=範列的(パラディグム)/空間的な統合/メタファー(類似性)、左脳=統辞的(シンタグム)/時間的な統合/メトニミー(隣接性)、ということでした。もちろんイコールではないし、ものすごく乱暴なくくりだとは思います。

そして、これも「どちらか一方ではない」という考え方から、右脳+左脳という双方の力を発揮させることが必要だと感じました。この「ハイ・コンセプト」にもそのことは言及されていて、右脳教育のように、右脳を宗教のようにまつりあげることはおかしいと書かれている。けれども、バランスが大事であると書かれていながらも、やっぱり最後は次世代は右脳の時代だ、というように右脳重視に偏っているところがあって、そのことがやや残念です。

右脳と左脳をつなぐ働きは、実際には脳梁という部分で行われているようですが、それが重要であるとぼくは思いました。たとえば、ぼくは趣味のDTMで曲をつくりながらブログでその曲の解説をしています。ブログだけ読んでいると、こんな理屈っぽいことを考えながら曲を作るのはおかしいんじゃないか、と思われるかもしれないのですが、実際には曲を作っているときには理屈は考えていません。音の響きや全体を感じ取っている。音楽というのはそういうものです。音楽を感じるのも右脳が中心だそうですが、音楽を創る(右脳)→創った音楽について書く(左脳)、そして書いたものを潜在意識にしまいつつ音楽を創る(右脳)→また書く(左脳)という、右脳と左脳の「リレー」をやっているのだと思います。ぼくにとっては創作も大事だけれど、このリレーが重要かもしれない。このことが実は立体的な思考のエクササイズになっているのかもしれません。

感情的(右脳的)だけでは表現として破綻するので、そこには論理(左脳的)の制御が必要になる。でも、理屈っぽくては(左脳的)心に訴えることができないから、共感を生んだり訴えかける適度の感情(右脳的)が必要になる。木(左脳的)をみて森(右脳的)をみず、とはいうけれど、詳細にこだわる(左脳)必要もある。

これからの時代に必要となるのは、異なる何かをシャフッルする力である、とぼくは考えました。シャッフルしつつ統合する、つなげる力です。「感動を生む構造(感動=右脳的、構造=左脳的)」とか、「美しい分析(美しい=右脳的、分析=左脳的)」とか。並び替えると新しい何かが感じられる、ということを先日のブログにも書いたのですが、右脳カテゴリーのなかでもさまざまなシャッフルができそうです。

先日、丸善に立ち寄ったときに思想書のコーナーにも立ち寄り、ポール・リクールとかクリステヴァなども読んでみたいと思ったのですが、本の値段が高いんですよね。とはいえ卒論を書かなければならないわけでもなく、これで生計を立てる必要もないので、じっくりと取り組むことにしましょう。老後まではずいぶん時間があります。

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2006年5月27日

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ハイ・コンセプト、ハイ・タッチ。

ワールドカップでドイツ入りした選手たちは、かっこいいですね。やはり、やるぞ!という気迫が顔にあらわれているのでしょう。選ばれた使命感もあるかもしれない。プレッシャーも大きいと思いますが、緊張が選手たちをさらに大きくするような気もします。ところで、ぼくはといえば、土曜日も仕事でした。やるぞ!というほどの元気はなく、さてやりますか・・・ぐらいの脱力感ですが、もうちょっと気迫を持ったほうがいいかもしれません。

GOLDEN.minと同様に会社に置いてきてしまったのですが、R25の石田衣良さんのコラムで、日本人は残業が多すぎる、ということが書いてありました。イタリアなどでは、仕事が終わってからの自分の時間を大切にするようで、平日であっても、一度家に帰ってから夜の街に繰り出す。そんな元気はぼくにはとてもありません。けれども、人生を楽しむということは、もしかするとそういうことなのかもしれないな、と思ったりします。

とはいえ仕事がつまらないかというとそんなことはなく、はっきり言って楽しいです。今日はiPodでNew Orderをがんがん聴きながら企画書を書いていたのですが、あっという間に時間が過ぎました。クルマのCMにも使われていたかと思うのだけど、Kraftyという曲を聴くと元気が出ます。日本語バージョンもあって、これはなかなか苦笑ものではあるのですが、歌詞自体はいい。YAMAHAのプレイヤーズ王国では、オリジナルだけでなくコピーも公開できるので、時間があればKraftyをコピーしてみたいものだと思ったりしています。

そんな風に音楽にのって仕事を仕上げて、雨降りのなかを家に帰ったのですが、コンビニでビールを買って外に出たところビニール袋をつかみ損ねて、ごろごろと缶ビールを雨降りの夜のアスファルトに転がしてしまった。そのまま、どこかの穴に缶ビールが落ちて、缶ビールころころすっとんとん、という感じでネズミの国にでも行けたらファンタジーな気持ちにもなれたのですが、そんなことはなく、家に帰ってびくびくしながらプルリングを引いたところそれほど泡が暴れまくるわけでもないわけで、現実というものは期待してもたいしたことは起きないものだ、と再確認しただけでした。なんとなく保坂和志さん的な言説になったのはどうしてでしょう。わかりません。

仕事に追われながら、これからぼくらはどうなるのだろう、と思考をめぐらせるのですが、非常に示唆に富む本に出会ってしまいました。大前研一さんが翻訳しているダニエル・ピンクさんの「ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代」です。

4837956661ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代
大前 研一
三笠書房 2006-05-08

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実は木曜日に丸善で「グーグル 既存のビジネスを破壊する」を購入したとき、どうしても気になっていた本で、次の日にこの本と村上龍さんと伊藤穣一さんの対談である「「個」を見つめるダイアローグ」をそこで購入してしまいました(ついでに書いておくと、長男に恐竜の百科事典と次男に「はじめてのひらがな」も購入してしまい、あまりの重さと小遣いの浪費に凹みました。)。この3冊は、当たりという気がしています。すべて面白い。

この「ハイ・コンセプト」という本ですが、おこがましいのですが、ぼくがこのブログで書いてきたようなことが書かれていて、ものすごくテンションが上がりました。いままで感じ取っていたことは個人的な雑感ではなく、時代の空気のようなものだったのかもしれません。この本は、右脳と左脳の考察から入ります。そして、いままで重要とされていた能力が効果がなくなる時代が訪れるという洞察とともに、次世代に必要な能力とは何か、ということが書かれています。大前研一さんは冒頭で「第四の波」が訪れていること、「カンニングOK」の教育があること、「モーツァルト型の脳へ」ということを指摘されていました。これもとても興味深い見解です。

「はじめに」の部分でこの本の要点をかいつまんで説明されているので、そこから抜粋してみます。まずこれから必要な「六つのセンス(感性)」として、「デザイン、物語、調和、共感、遊び、生きがい」を挙げ、物質やテクノロジーで豊かになった時代に動かしていく能力として次のようなことが指摘されています(P.28 )。

私たちはいま、新たな時代を迎えようとしているのだ。
その新しい時代を動かしていく力は、これまでとは違った新しい思考やアプローチであり、そこで重要になるのが「ハイ・コンセプト」「ハイ・タッチ」である。

このうち「ハイ・コンセプト」については次のように定義されます(P.29)。

「ハイ・コンセプト」とは、パターンやチャンスを見出す能力、芸術的で感情面に訴える美を生み出す能力、人を納得させる話のできる能力、一見ばらばらな概念を組み合わせて何か新しい構想や概念を生み出す能力、などだ。

感情に訴えること、パターン認識などのキーワードに、ちょっとぼくはどきどきしました。「ハイ・タッチ」については次のように定義されています。

「ハイ・タッチ」とは、他人と共感する能力、人間関係の機微を感じ取る能力、自らに喜びを見出し、また、他の人々が喜びを見つける手助けをする能力、そしてごく日常的な出来事についてその目的や意義を追求する能力などである。

これも他人との共感や日常に意義を見出す、などのキーワードがまるで答え合わせのように、ぼくがブログで何度も書いてきたことと重なり、間違っていなかったんだな、という安心を得ました。そして次のような言葉があります(P.29)。

個人、家族、組織を問わず、仕事の成功においてもプライベートの充足においても、まったく「新しい全体思考」が必要とされているのだ。

この全体思考を生み出すのが右脳であり、左脳と右脳の機能についてはまた面白いことが書かれているのですが、そこからぼくもインスピレーションを得たものがあり、長くなりそうなのでまた書くことにします。いま93ページを読みすすめているところですが、あっという間に読めてしまうかもしれません。

読書がたまらなく楽しくなってきました。あまり小説を読まなくなってしまったのが心配ですが。

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■本日のBGM。精神的に(肉体的にも?)まあるくなってしまったぼくには、これぐらいのPOPさが心地よいです。ちょっと甘すぎるかもしれないですけど。個人的にはアルバムのなかの、Phones Reality Remixが好きです。もとの曲とは別物ですね、これは。リミックスは評論と似ているところがあり、解釈の光を別の方向から当てる創作的な試みだと思います。光の当て方で曲もまったく変わる。その光の当て方に、クリエイターの個性が感じられるとき、わくわくします。

B00094ASQIKrafty
New Order
Warner Bros / Wea 2005-05-03

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B0007INYFSウェイティング・フォー・ザ・サイレンズ・コール
ニュー・オーダー
ワーナーミュージック・ジャパン 2005-03-24

by G-Tools

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2006年5月26日

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金色の時間。

会社に忘れてきてしまったのですが、地下鉄の駅で配布しているフリーペーパーに本日から「GOLDEN.min」が創刊されました。これは「metro.min(メトロミニッツ)」のバリエーションという感じですが、50代からのメトロマガジンとのこと。シニアマーケティングを実践した雑誌ともいえますが、とりあえずは矢沢永吉さんの表紙がかっこいい。

特集は、「妻とのコミュニケーション」とのこと。うーむ、深い。あえてそんな内容に踏み込むところが、フリーペーパーという枠を超えている気がしますが、データでシニアが何を重視しているか、という情報も掲載されていたりして、なかなか興味深いものがありました。手もとにないので印象で語りますが、男性は仕事などを重視しているようですが、女性のほうは子供や旦那さんとの関係性を重視しているようにも読み取れます。とはいいつつ、女性は旦那のことより自分の健康面に配慮しているというデータがなんとなく納得もできました。健康面というのは、若くありたいという希望もあるかと思うのですが、このデータの差を理解することこそが、コミュニケーションのポイントかもしれません。

そして、いま自分のことを考えてみると、子供を仲介としてコミュニケーションが成り立っているからいいけれど、子供がいなかったらどうだろう、などということを考えてしまいます。子はかすがい、とはよく言ったものです。ちょっと前に、とあるアパレル・ブランドの社員向けバーゲンのようなものが原宿で開かれていて(お得意さんは社員ではなくても参加できる)、ぼくは仕事で午前半休を取り、奥さんと行ってきたことがあったのですが、なんだか子供がいないと照れくさい。結局、話をすることも、いま次男は何をしてるかなあ、というように、子供のことになってしまう。いくつになっても夫婦でデートできるのはよいものだと思うのですが、なかなかそうもいかないものです。結局、お昼ご飯を食べて、そそくさと帰りました。でも、なんとなく昔がよみがえったような気がしました。

「GOLDEN.min」のなかでは作詞家の吉元由美さんが「妻のきもち」というエッセイを書かれていて、相手をリスペクトする気持ちが大事、というような一文に納得するものがありました。日々、生活に紛れてしまうと、たとえばご飯を作ってくれることが当たり前だと思ってしまいます。子供の面倒をみるのが当たり前だと思ってしまう。けれども、これは結構大変なことで、家事いっさいをあまりやらないぼくとしては、もっと奥さんをリスペクトすべきかもしれない。けれどもなんだか、よいところよりは悪いところのほうに目がいってしまうんですよね。気をつけなければ。

父が脳梗塞で亡くなったとき、そんなものは残していないと思っていたのだけど、遺言が出てきて、そのなかで母親(まあ妻ですが)に、ありがとう、と一言が書いてありました。そして、子供たち(ぼくらです)は、おかあさんを助けるように、と書いてあった。ぼくの母は、「そんなことは一生のうちで一度も言われたことがなかった」とその部分を読んで泣いたのですが、厳格でかたぶつだった父を思うと確かにその通りで、そんなことをぜったいに言うタイプではなかった。けれども、その言葉を人生の最後に「文字あるいは言葉」としてきちんと残した父を、ぼくはリスペクトしたい、尊敬したいと思っています。すばらしい父でした。

死、というものから、ぼくらは目をそらしがちです。特に若い時期には、直面できないものがある。できれば、死のことは考えずに生きていきたい。けれどもぼくは、もっと死について考えてもいいんじゃないかと思う。もちろん死にたいとは思わないけれども、死を考えることで生の尊さがわかることもある。

小森陽一先生の「村上春樹論」の最後には、次のような文章があります。

逆に、言葉を操る生きものとして、他者への共感を創り出していきたいと思うなら、私たちは怯えることなく、精神的外傷と繰り返し向い合いながら、死者たちとの対話を持続していくべきでしょう。死者と十分に対話してきた者であれば、生きている他者に向かい合って交わすことのできる、豊かな言葉を持ちうるはずです。豊かな言葉は、死者と対話しつづけてきた記憶の総体から生まれてくるのです。

ここにいるものたちはもちろん、ここにいないひとたちのさまざまな思いが、いまある世界を創っているのかもしれません。脳梗塞で倒れて何度も手術を繰り返し、最終的にどうしようもなくなったときの父の手は薬でぱんぱんに腫れていたのですが、その手を握って、ぼくはぼろぼろになって彼に話しかけたことを思い出します。父の意識は随分前からなくて脳死の状態にあったと思うのですが、その言葉は、きっと届いていたんじゃないでしょうか。そうぼくは信じていたい。母は既に父の年齢を超え、ぼくも一歩ずつ父の年齢に近づいていきます。そして子供たちはどんどん大きくなってくる。やがてちいさな息子たちも、おじさんになる。

センセイを退職した後、夕方になるとキッチンに座って、焼酎を静かに飲みながらテレビで映画を観ていた父を思い出します。そんな平凡だけれどしあわせな、金色の時間をぼくも過ごすことができるようになれたら、と思っています。

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■「GOLDEN.min」の公式サイト。
http://golden.metromin.net/about/index.html

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