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2006年4月15日

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ラップトップと現実の生活。

次男(3歳)の入園式がありました。来週からは幼稚園に通うことになります。まだ甘えん坊の赤ちゃんだと思っていたのに、はやいものです。長男と同じほんわか系の私立幼稚園に入れてしまったのですが、ぼくはこの幼稚園の校風が気に入っています。だから3年間(長男は2年間でした)、やさしい気持ちで育ってほしいと思います。男の子なので、やさしい子供に育つことがはたしてよいことなのかどうか、という疑問はありますが。

午前中は入園式に参加し、午後からは会社に行って仕事を片付け(片付かなかったけど)、夜は以前ブログでも紹介したLotusloungeの初ライブに行ってきました。下北沢のmona recordsというカフェです。なかなか密度の濃い土曜日でした。演奏中にはジントニックを2杯飲んだものの、音楽のせいで気持ちよくなってしまい、自宅でくつろいでさらにお酒を飲んでいたところ、ほろ酔い状態になりました*1。一日のほどよい疲れとともに、とてもしあわせな気持ちになれたのは、新しい音楽に触れたせいでしょう。

ところで、DTMを趣味として音楽を創りながらまったく無知でお恥ずかしいことだったんですが、ラップトップ・ミュージシャン(またはアーティスト)というものがあることを知りました。このことを気付かせてくれたのは、ディビッド・シルヴィアンの「ブレミッシュ」というアルバムです。このCDの解説に「即興音楽の巨人ギタリスト、デレク・ベイリーと、いま最も注目されるラップトップ・アーティスト、クリスチャン・フェネスの二人をゲストに迎え」とあって、そこではじめて、ラップトップ・アーティストという言葉を知りました。

今日Lotusloungeのライブを聴きにいって、なるほどこれがラップトップアーティストというものか、ということを実感しました。mona recordsは下北沢の喧騒のど真ん中にあるのですが、2階に上ると、靴を脱いで座ってライブを聴けるようなくつろいだスペースもある、なかなかよい感じのカフェです。かしこまってライブを聴くというよりも、自宅で「こんなの作ってみたんだけど聴いてみて」的な親近感のあるスペースで、非常に居心地がよかった。さすがに来場される方も最先端の音楽を聴いている感じのある美男・美女が多く、個人的にはそわそわしました。全体的に若い方が多かった、ということもあったのですが。

mona recordsで出演した3つのアーティストすべてが、ラップトップを机に置いて演奏するスタイルでした。このスタイル自体は、銀座のアップルストアで細野晴臣さん、高橋幸宏さん(このふたりはSketch Showというユニットを結成しています)、小山田圭吾さん、Towa Teiさんのライブを観にいった(といっても大盛況すぎて入れずに店のモニターで観た)ときに経験していたのですが、あれはイベントだからそういうものなんだろう、と勝手に解釈していました。いまさらこんなことを書くのも無知を晒すようなものですが、ノートパソコン一台で演奏するパフォーマンスもある、というスタイルに衝撃を受けました。いま、街頭で歌っているひとはギターをかき鳴らすパターンが多いけれど、電源さえ確保できれば、モバイルを抱えて街頭で演奏するひとも登場するかもしれない。というか、もう既にいるのでしょうか。これならぼくもライブできるか?と思ったり、いやネットで配信だけにしておきましょう、と思ったり。

最後のKyosuke Koizumiさんだけはギター+ラップトップという演奏スタイルで、たぶんKORGのKAOSS PADを使っていたのだと思うのですが、この機材が印象的でした。KAOSS PADは雑誌などで紹介されていて気になっていたエフェクターで、指先のコントロールによって音を「視覚化」して演出するツールです。テルミンみたいな効果も得られる。ギターもデジタルでエフェクト処理されて、なかなか興味深い演奏でした。

さて、Lotusloungeの演奏(といってもステージにいるのはおふたりで、アップルのコンピュータやキーボードを主に操作するK.K.さんとSheepさんの歌というミニマムな構成)を生で聴いたのは初めてですが、ほんとうに圧倒されました。すごかった。何よりも、ほぼ全曲をまったく新しいアレンジで展開していて、ドラムンベースっぽい緻密なリズムが前面にぐいぐい出てくる。クラブっぽいサウンドに仕上がっていてよかったです。イントロ(新曲?)、Cloud、Timer、Mito、Core(コア:新曲)、Shang-hi LoveSickという曲順だったかと思います(失念していたら失礼)。mona records mixをリリースしてほしいものです。

初ライブということで「慣れていません」とSheepさんからMCがありましたが(一方で「落ち着いてきました」というコメントも途中でありました)、存在感のあるボーカルだったと思います。歌うと別人になってしまうところは、このひとは根っからのシンガーだ、と思いました。Shang-hi LoveSickでは、Sheepさんのボーカルにエフェクトを処理して、さらにK.K,さんがマイクからヴォコーダーをコントロールする、という演出に感激しました。ヴォコーダーの響きは、80年代にYMOなどの音楽の洗礼を受けてきたぼくにはたまりません。

歌声は最大かつ最小の楽器だと思います。特別な楽器がなくても、歌うひとさえいればすぐに表現ができる。「ポップな曲を最後にやり逃げして終わります」というSheepさんのコメントから演奏されたラストのShang-hi LoveSickでは、リアルかつアナログなSheepさんの歌声という音源にもエフェクトをかけ、さらにK.K,さんのマイクからヴォコーダー処理された音声をミキシングすることによって、ライブでありながらもリアルとデジタルが溶け合う経験が新鮮でした。どちらかというとラップトップ・ミュージシャンたちの演奏は自分の世界に入り込んでしまうようなイメージがあり(今回のライブでも目をつぶっている聴いているひともいました)、演奏が終わってもMCもご挨拶もなしというドライな印象があったのですが、Lotusloungeはお客さんとのコミュニケーションもあり(ときには笑いも入れたりしながら)、限りなく緻密に計算された音楽の世界が展開されていく。リアルとデジタルの融合、と括ってしまうとステレオタイプになるのですが、アンドロイド的な世界に鳥肌が立ちました。

Lotusloungeは夫婦ユニットであり、音楽という創造だけでなくプライベートでもパートナーのユニットです。今後は若いおふたりも父親や母親になっていくことでしょう。だからこそCoreという細胞の「核」を思わせるような新曲があったのではないかと想像するのですが、力強いビートが新しい未来に前進する感じがして、またよいと思いました。まだ眠っている新しい生命にその鼓動が届いたのではないでしょうか。

音楽は創造的な活動ではあるけれど、まったく現実から切り離された形而上的な美しさを追求するものだけではありません。ラップトップで奏でられたとしても、そのソフトウェアには現実のクリエイターの生命が通っている(通わせることができるはず)。冷めたテクノロジーだけでなく、感情やリアルな生活がその背景にある。理屈で語ってしまうとまた堅苦しくなるのですが、午前中の次男の入園式を含めてさまざまな感動があった一日でした。

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■Lotusloungeのサイト。
http://alterego.fem.jp/

*1:ほろ酔い状態で書いたので文章に締まりがなく誤字も多かったので、翌日に落ち着いて見直しつつ修正しました。

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2006年4月12日

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分解する力。

豊聡耳(とよとみみ)と呼ばれた聖徳太子は10人の話を同時に聞いた、というエピソードを勝手に覚えていたのですが、Wiki pediaの聖徳太子の解説によると、どうやら同時に聞き分ける力に優れていたのではなく、順番に聞いた話を覚えていたらしい。つまり記憶力に優れていたようです。もちろん10人の話をすべて覚えている聖徳太子の能力もすごいと思うのですが、混在している音を聞き分ける能力もすごいと思います。

バンドをやっていた時期があるのですが、譜面がない曲は「耳コピー」といって、なんども曲を聴いてテープレコーダーにポーズをかけながら音を探したものでした。しかしながら他の音にかぶってしまっていてどうしても聴き分けられない音がある。何度聴いても聴き取れない。けれどもそれはぼくがシロウトだからであって、音楽を専門にされているプロの方は、絶対音感的なもので瞬時にその音を当ててしまうのもかもしれません。

全体としてまとまっているものを分解する力が必要になるときがあります。音に限らず、そもそも分析という科学的な手法は、分解能力を駆使する思考が求められるものです。先日も点描画の話を書きましたが、ジョルジュ・スーラが光の構成要素を色のドットに置き換えるのも、大変な能力が必要になるのではないでしょうか。また、例えば仕事で何か問題になっていることの解決方法を探るときも、この分解能力が必要とされます。問題というのは漠然と広がっているもので、それを体系的に腑分けしていくのは、結構骨が折れる。とはいえ、分解して何か見えてくるものと、分解することによって余計にわからなくなるものもあります。

昨日、DTMで音のドットを積み上げながら曲を組み立てていったのですが、ある域を超えると全体としての音の塊になってしまい、どの音がまずいんだろう、という分解不能な状態に陥ってしまうことに気付きました。それはたぶんぼくの能力不足によるものだとは思うのですが、たとえばマスタリングの作業などでも、プロの方はどの周波数が不鮮明になっている、ということを瞬時に判断できるような気がします。ぼくの場合はなんだかよくわからずに、イコライザーを上げたり下げたりしているのですが、プロの場合は、足りない周波数をちょい上げるだけでずいぶん音が変わって聴きやすくなる、などの技があるようです。

黒川伊保子さんの本にも、こんな話が書かれていました。ヴァイオリン奏者が演奏を前にして「今日はどの周波数でいこうか」という話をされていて驚いたそうです。つまり、コンサートホールによっていちばんよく響く音は違う。またその日の天候によって響きも変わってくる。そんな変化に合わせてプロの奏者は演奏も変えていくそうです。これはすごいと思いました。当然かもしれないのだけど、人間のコンディションも変わるもので、そのことも考慮しなければなりません。やはりバンドをやっていたときのことですが、ライブでアガるとリズムも走りがち(テンポが速くなること)になります。でも、バンドの全員が速いリズムになれば、それはそれでまとまって聴こえるものだよね、などという話を聞いて、納得したことがありました。

仕事にも同じことがいえます。打ち合わせや企画のプレゼンでも、いつも同じ状況ということはありません。一期一会といってしまうとなんだか胡散臭くなりますが、同じ場は二度とないものです。マニュアル通りにやればいいというものではなく、その日の気分を察知して、柔らかくいくか、硬めに押さえるか、フレキシブルに変える必要があります。柔軟に対応できるのがプロかもしれません。

昨夜、深夜までかかってあれこれ検討していた「Oxygen(弦バージョン)」は、自分でも判別不能になってしまい頭を抱えつつ、とりあえずアップロードしました。ピアノのパートだけは先日公開しましたが、最終形を数日後にはmuzieのぼくのページで公開する予定です。ピアノ+弦楽四重奏(?)らしきものができました。モーツァルトになりたいと思ったのですが、天才にはなれません。1分20秒の曲にへとへとになり、クラシックの方が聞いたら首をひねりそうな作品になりました。

シンフォニー(交響曲)を書いているモーツァルトの頭のなかはいったいどうなっているのでしょうか。全体として鳴っていたのか、個々の音が積み重なって鳴っていたのか、そんなことが知りたくてたまらない。モーツァルトの頭のなかは知ることはできませんが。

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2006年4月11日

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いい感じ、そして閑話休題。

何がどうだということは言いにくいけれども、いい感じの日々です。帰宅するときには雨が降っていたのだけれど、傘を差さずに帰ってきました。コートの上にぽつぽつと雨が当たって音がしたので、かなり降っていたのだと思うのですが、特に煩わしい感じはありませんでした。DTMに没頭して夜更かしだったので眠くて頭痛もしたけれど、それもまた心地よい。このいい感じが長くつづけばいいと思うのですが、なかなかバランスを取るのは難しいものです。

最近、小説をあまり読まなくなってしまったのですが、それはひょっとしたら映画を観ているからかもしれません。物語的なものは映画で充足しているので、物語ではないものを書物に求めているような気がします。現在、小説としてはパウロ・コエーリョの「11分間」を読んでいるのですが、遅々として進みません。保坂和志さんの「カンバセーション・ピース」も購入したまま、手付かずの状態です。そんな状態なのに今日、gadochanさんがコメントで紹介されていたカート・ヴォネガット・ジュニア(ジュニアが入るんですね)の「タイタンの妖女」を買ってしまいました。

小説ではない本は、HiRosさんのブログで「心脳マーケティング」のなかにメタファについて言及されていたことを知り、未読だったのですが最初から再読をはじめました。以前読んだときには気付かなかった「ORの圧制」という言葉を発見し、これは「ビジョナリー・カンパニー」にも書かれていたことであり、認識を新たにしています。同時に高田純次さんの「適当論」を半分ぐらい読み進めて、妙に癒されたりしています。ついでに、今日は茂木健一郎さんの「意識とは何か−<私>を生成する脳」も購入。ほんとうに小遣いは大幅に減少し、未読本などが増えていくばかりです。

けれども、このあらゆるものにちょっとだけ手をつけながら未完な状態もまた、いい感じです。あらゆる可能性がぼくの周囲に散らばっている感じがする。若い頃には、とにかく動かなきゃ、あれもやらなきゃ、あそこに行かなきゃという脅迫観念のようなものがあり、また他人を必要以上に気にしたりもしていたのですが、最近、そんな自分の意識から解放されつつあります。年を取ったのかもしれません。でも、狭い世界であっても、自分の好きなものたちに囲まれ、理想の世界を追求して、のんびりまったり生きてみるのもいいのではないでしょうか。

パソコン関連では、古いマシンにLinuxをインストールしてみようと思っていたりして、ハードディスクを整理しています。点描画のような音楽制作と並行して、こつこつといろんな試みをやってみようと考え中です。一方で、9歳の長男にパソコンを教えるために、古いVAIOを彼のために設定し直そうと思っています。

外はまだ雨が降っているようです。仕事も忙しくなりつつあるのですが、効率的かつ高度な仕事ができることを心がけつつ、自分の時間(と息子たちとお話する時間)を大事にしたいものです。

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2006年4月10日

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否定演算子¬。

3歳の息子がミスタードーナッツでもらったジグソーパズルで遊んでいたのですが、どうやらひとつのピースをなくしてしまったらしい。そこだけが抜けてしまっていました。その光景から思ったことですが、なくしたピースの部分に注目すると、それ以外のピースはすべて揃っている、ということになります。一方で、なくしたピース以外の部分からみると、その部分だけが足りない。つまり、どちらに焦点を当てるかによって、見方が変わってくるわけです。よく例に挙げられることですが、水がコップに半分あるときに、もう半分しか残っていないのか、まだ半分もあるのか、その見方によって考え方が変わってくる。

相変わらず「東大式絶対情報感」という本の内容を引っ張るのですが、この本のなかに、否定演算子¬(ちなみにこの縦のカギかっこのような記号が、数学的な否定の記号なんですね。ノットで変換したり、否定で変換するとこの記号になります)を使って情報をみる、というような部分があったような気がします。実は本を貸してしまって現在手もとにはないのですが、確かモバイルツールの市場性について考察するときに、その考え方が示されていたような気がしました。携帯できるもの、携帯できないもの、デジタルなもの、デジタルではないもの、という軸によって4つの象限を作り、それぞれを考察していく。このときにちょっと目からウロコだと思ったのが、「そうではないもの」によって対象を浮き彫りにするという考え方でした。

ちょうど切り絵のようかもしれません。色紙を切り抜いていき、最後に黒い台紙に重ねると切り抜いたところが絵になる、あの伝統芸能です。切り取ったものではなくて切り抜かれて残ったものが絵になる。そんな風に意識も切り抜くことによって、あるもの「ではない(¬)」ものによって対象を浮き彫りにする考え方もありそうです。安易なところでは、自分のいない社会のことを考えることによって、自分らしさを発見する、という感じでしょうか。アナログを追求することによって、デジタルとは何かを述べる。書かれなかったものを追求することによって、何が書かれているのかを発見する。そんな感じです。

討論などでも、ものすごく活発に議論されているようでいて、実は切り抜かれた部分のことを言っているのと、切り抜いた部分を言っていることのように、結局はどちらを選択するかという違いだけで同じことを言っている場合があります。議論に熱くなると冷静にとらえることができなくなるのですが、地と図のどちらを選ぶかということであっても、大局からみると同じだったりもします。

否定的な考え方であっても、実はポジティブな場合がある。逆にものすごく肯定的なことを言っていても、ネガティブな場合もある。その凹凸の付け方が面白いと思います。

完成されなかったジグソーパズルを息子は結局ばらばらにしてしまったのですが、ばらばらにしてしまうと、欠けているのか欠けていないのかわからないし、どうでもいいことのように思えました。

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2006年4月 8日

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動画で表現すること。

入学式や卒業式のシーズンです。デジタルスチルカメラやデジタルビデオが活躍する時期になってきました。ぼくの持っているカメラやビデオは旧式のもので、新しいものが欲しいなあと思っているのだけれど、なかなか買い換えることができません。両方抱えて撮影するのは結構大変なものです。カメラとビデオが一体化している機種もありますが、動画と静止画は撮影するポイントが違うような気もしています。動画だから生きる構図、静止画だから生きる構図というのがあるような気がする。もちろん素人なので「気がする」というレベルですが。

息子が幼稚園や小学校に入ったときに、わが子を撮影しようとするおとうさん、おかあさんの意気込みにはすごいものがあると思いました。ぼくも必死でファイダーを覗くのですが、ビデオで撮ることに集中しすぎて、全体の雰囲気がどうだったかということを覚えていないことも多かった。そこで、ファインダーを覗くのをやめてみると、逆にああ撮っておけばよかったと思うものです。もちろん記憶のなかにしっかりと残しておけばいいのですが、カメラマンとしての自分と父親としての自分を、うまく共存できないものかといつも悩みます。21世紀なので、子供にチップか何かが埋め込まれた服を着てもらって、そのチップを自動追跡して録画してくれるようなAIビデオが登場してほしいものです。

一方で動画を掲載するサイトがにわかに注目を浴びつつあります。海外のYouTubeというサイトが盛り上がっているようです。これがアマチュアか?というように、高度な編集をされたものもある。けれども一方で投稿された動画を解析したところ、テレビ番組や映画をまるごと掲載するようなひともいたため、投稿できる動画は10分間までという制限をかけたというニュースも3月の終わりにありました*1。日本でも、PeeVeeというサービスがスタートして、注目されていました。

「東大式絶対情報感」という本にも書いてあったことですが、伊東先生の講義では、自分で研究テーマを決めてPowerPointを使った発表をして、その発表している姿をお互いにビデオに撮影する、というようなこともやっているようです。別に大学ではなくても、小学校の高学年でも可能かもしれません。先進的な私学などではやっているかもしれないのですが、夏休みの自由研究で、まずインターネットで情報検索して、実際に町に出てひとに聞いたり図書館でさらに調べる。それをプレゼンテーションとしてまとめて発表し、発表の風景を録画したものをみせる。見ながら、お互いによいところや悪いところを指摘し合うこともできそうです。自分では完璧だと思っていても、客観的にプレゼンをみると、とほほなことも多いものです。

ぼくもやってみたほうがいいかもしれません。けれども、いざ自分がやるとなると正直なところ抵抗があります。文章や創った音楽を公開することはできても、ナマの自分の動画をみるのは恥ずかしい。自分でみるのが恥ずかしいぐらいなので、公開するのはもっと恥ずかしい。小学校でやったらどう?という提案をしておきながら、いやぼくは勘弁してください、とまことに腰砕けな状態なのですが、これも一歩踏み出すと自然にできるようになるのでしょうか。どうだろう。

YouTubeでは自分をプレゼンテーションする動画もあるようです。そのあたりはさすが自己主張する欧米社会だな、という印象を持ちました。日本も頑張りましょう。

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■YouTube(英語)。面白い映像を紹介するリンク集やブログも増えそうです。
http://youtube.com/

■こちらは日本のPeevee.tv。イヌ・ネコなどの癒される動物映像はいけると思います。子供の映像などは、社会的な課題もありそうです。
http://peevee.tv/

*1:CNET Japanの記事を引用しようとしたのですが、先日からどうもサーバーが落ちているようなので断念しました。残念です。

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