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2006年4月 5日

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漱石の二年間二万冊。

雨降りでした。東京のサクラは一気に葉桜でしょうか。儚いものです。

夏目漱石は二年間のロンドン留学中に二万冊の本を読破した、というエピソードが「絶対情報学」に引用されていました。このエピソードを読み、あらためて漱石はすごいなと思ったのですが、そんなに無理をしたら神経衰弱になるのも当然です。過ぎたるは及ばざるがごとし。過剰に書きすぎるハイパーグラフィアはもちろん、過剰に読みすぎることも精神のバランスを崩すのではないでしょうか*1。とはいえ、その過剰さがあったからこそ漱石は文豪に成り得たのかもしれません。この程度でよかろう、ほどほどにしておこうと妥協していたなら、その後の漱石はなかったのかもしれない。

情報洪水のようなインターネット社会では、ものすごい量の情報の海を泳ぎきらなければなりません。ブログの登場によって、さらに一日に読むテキストの量が増えました。ぼんやりしていると途方もないテキストの洪水に押し流されてしまいそうです。とはいえ大量に情報があっても、重要なのはその一部だったりもします。ロングテールという現象は個人にも当てはまるような気がするのですが、自分にとってほんとうに必要な情報はテールではない部分のほんのわずかに過ぎない。「東大式絶対情報学」にも書かれていましたが、多くの情報はジャンクです。途方もないジャンクのなかから宝を探し出さなければならない。逆に言うと、すべての情報をきちんと最初から最後まで受け止めようとしていると、疲弊もするし破綻もする。

この本のなかに、ひとが意識のなかにあるイメージ(あるいはクオリア)を言葉に置き換えるとき、ものすごく複雑な演算がなされている、ということが書かれていました。接した情報すべてに対して均等に、この演算をしようとするから疲れてしまう。レッスン2「手と目と脳でもっと加速する」では「音読・黙読・視読・熟読」として、書かれたものを意味ではなく音として意識に取り込んだり、音のスイッチを切ったりするようなエクササイズが提示されています。あらゆる言葉の意味を理解するのではなく、情報を音として脳のなかにアーカイブする。必要なときにその音を意味に還元する(なんだか乾燥ワカメみたいなイメージですが)という接し方もあるのかもしれません。聞き流す、読み流す、といってしまうといい加減に聞こえますが、たとえばひとつの文書でも、脳内にきちんと意味を生成する箇所と、意味化で手を抜く箇所があってもいい。つまりツボさえ押さえておけば、あとは手を抜くのが賢い。大切な部分と手を抜くところを逆転させてしまうと、まずいとは思うのですが。このツボを押さえられるかどうかが、情報の達人としての条件になります。

伊東先生は声に出して読むこと、音読することの重要性を述べられています。いま読んでいる黒川伊保子さんの「怪獣の名前はなぜガギグゲゴなのか」という本にも、ブランドマントラとして音のもつ質感がぼくらの意識に影響を与えるということが書かれていました。マントラとはインドの真言のことで、記述されずに呪文のような言葉だけで古くから継承されてきたようです。そして、つぶやくだけで神秘的な気分になる言葉がある。

この言葉の感覚をブランディングにうまく活用されているものとして、黒川さんの本では日立の「Inspire the Next」を冒頭の部分で取り上げています。文字や意味はともかく閃光のイメージをもつヒタチという言葉と、Inspireという先鋭的な英語の語感を組み合わせたところが優れている、という指摘がありました。カローラ、クラウンなどのように、クルマの名前にはCからはじまるとヒットするような法則もあるとのこと。マーケティング的にも面白い見解です。さらに、こころをなごませる語と、緊張感を持たせる語があることなどが書かれていて、特に名前があらわすイメージなどは興味深く読み進めています。

最初の速読の話に戻ると、伊東先生の講義では「知恵蔵」を1〜2時間で読破させるそうです。これはちょっと困惑しそうだと思ったのですが、確かに大量の情報を高速で処理する能力があれば、どんなに大量のデータを読み解いて商品を開発するような仕事も、さくっと片付けられそうです。アイディアは組み合わせなので、大量のインプットがあるかどうかでアウトプットの質も変わってくる。理屈では十分に理解できます。じゃあ知恵蔵を読破するかというと、ぼくにはどうも前向きな気持ちにはなれませんが。

ところで、今日は帰りにディビッド・シルヴィアンの「ブレミッシュ」というCDを購入しました。しかしながら、リズムがまったくなく、ギターのハーモ二クスを多用したような、ある意味マントラ的なアルバムを聴きながら、ちょっと困惑中です。

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■「ミニマルなストラクチャー」と書かれていて、確かにそうだ、とは思うのですが。声だけはディビッド・シルヴィアンそのひとで、存在感のある声です。

B0000CBCBFブレミッシュ
デヴィッド・シルヴィアン
P-VINE 2003-10-22

by G-Tools

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*1:3月分のブログを印刷してみようとふと思ったのですが、100ページを超えてしまいました。もちろんレイアウトのせいもあるので1ページに2枚ずつ印刷したところ、それでも50ページになった。プリントアウトしたものを前にしながら途方に暮れました。過剰に書き過ぎです。慣れちゃいましたが。

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2006年4月 4日

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絶対情報感というセンス。

すごい本に出会ってしまった。4月なので何か新しい本を、ということで昨日は書店に立ち寄ったのですが、結局4冊の本を購入してしまいました。未読の本がたくさんあるのに、かなしいサガという感じです。しかしながら購入したうちの一冊「東大式絶対情報学」という本に感銘を受けました。

第一印象では、まず「東大式」という言葉に抵抗がありました。なんとなくうさんくさいものもあった。どうやら出版社の思惑だったようですが、タイトルにはない方がよかったような気もします。しかしながら読んでみると、一気に内容に引き込まれました。とにかく一行一行がぼくには刺さる言葉ばかりです。そもそも思考をめぐるさまざまな領域の問題意識がぼくにはあったので、この書物に書かれていることのひとつひとつに共感できたのかもしれませんが、考えていたことの解がすべてがこの本のなかにある錯覚さえ感じました。背筋に電気が走るような感覚を何度も味わった。だからこそ、夕飯の間にもページをめくり、一気に読んでしまったのですが。

著者の伊東先生*1は、作曲とオーケストラやオペラの指揮を専門としながら、物理学、脳認知科学、表象文化論などを学んで東京大学で情報の講義をされているそうです。このアカデミックな現場の臨場感あふれる教育の実例をベースにしながら、情報の洪水といわれるIT社会において、どのように自分を表現し他者を尊重していくのかという知恵(インテリジェンス)の獲得方法を展開していきます。これは「本質を捉える知」「他者を感じる力」「先頭に立つ勇気」という三つを備えた人材を育成するという、東京大学の小宮山総長の教育方針を忠実に再現されているともいえるのですが、伊東先生の生きざまのようなものがあって熱い。冷めた学問ではありません。

伊東先生は、まず情報には「第一人称性」情報感、「第二人称」情報感、「第三人称」情報感というものがあると述べています。これは「私」のオリジナリティを確立するためのセンス、特定の誰かとコミュニケーションするためのセンス、そして不特定の誰かに何かを伝えようとするセンスといえるかもしれません。この三つを意識して情報の読み書きを展開するだけでなく、最終的には「ブラインドタッチ」のように無意識でも(どんなに自分の状態が悪くても)習慣のように最適なコミュニケーションができるような人材を育成することを目指されているようです。

具体的には、身体のほぐし方というエクササイズから、大量の情報から重要な情報を拾い出すための速読、メールの書き方、マトリックスによる世界の捉え方、プレゼンテーションの仕方、アプリシエーション、俯瞰型知識構造力学(これは結構興味あり)まで多岐にわたります。まず誉めて対案を出す、というプレゼンの評価の仕方まである。幼児に対する音楽の才能教育(ソルフェージュ)を基盤に考えられたようですが、それらが実践のマニュアルではなく理論ときちんと結びついていることがすばらしい。読み進めながら、次から次へと繰り出される知の技法に、ぼくはほんとうに眩暈がしました。参りました。おこがましいけれど「立体的な思考のために」というプレゼンシートを作ったときに、こういうことをぼくはやりたかったものです。教育の世界には、すばらしいひとがいるんだなあ、と感動しました。

レッスン7「予防公衆情報衛生 ブロードバンドの光と闇」の部分は、帰りの電車のなかで読んでいたのですが、あやうく涙をこぼしそうになりました。知り合いが宗教のためにマインドコントロールされて、その人生を破壊されてしまった。そのことから情報メディアが引き起こした「人災」を二度と起こさないように、情報の怖さとそれを阻止するための方法を研究し広めているとのこと。その使命感に共感します。さらに最終章の猪瀬先生に対する回想の部分も感動的な言葉が綴られています。戦争で亡くなった友人がいる。けれども自分は「生かしてもらっている」のだから、できることをしなければ、と猪瀬先生は語られたそうです。長く腰を据えて考えつづけること。途中で投げ出さずに完成させること。それがいちばん大切なことかもしれません。そしてそのためには、なぜ継続しなければならないのか、という中心になる考え方をきちんと持つことが重要です。

知というものは、難しい言葉を使いまわして賢そうなフリをするためにあるものではなく、人間どうしのつながりを介して存在するものであり、よりよく豊かな人生を生きるためにあるものだと思います。そんな「あたたかさ」を徹底した知の教育のなかに垣間みることができました。

この本のすばらしさについてはもっと書きたいのですが、うまく書くことができずにもどかしさを感じています。思考について書き散らしたぼくのブログなんて、学問としての裏づけも薄っぺらで実際に次の世代の子供たちのために実践しているわけでもなく、しょうもないもんだなあと感じて恥ずかしくなりました。しかしながら、この本で学んだことも吸収しながら、これから10年間、同じ場所に穴を穿ちつづければ、せめてもう少し高い場所にはいけるのではないかと思います。

この本のなかには色のクオリアという言葉が出てきたのですが、同時に購入したもう一冊の本は「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」という本で、こちらはマントラとして音のクオリアが書かれています。それから、あるひとに勧められて購入した高田純次さんの「適当論」もあたたかい人柄にあふれた癒される本です。これから読むようにします。

ちょっと感動しすぎて熱くなってしまいましたが、まだ触れていない部分がたくさんあります。いくつかのキーワードはまた取り上げようと思います。

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*1:通常ぼくはこのブログでは先生とか氏という言葉をなるべく使わずに、さんで呼ばせていただいています。失礼なことかもしれませんが、ぼくにとってはあえてそう呼ばせていただきたいと考えていました。けれども、この本を読むと、先生と呼ばなくては、という気持ちになります。その理由は...読んでいただければわかります。

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2006年3月28日

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ANDの才能とモーツァルト。

あたたかい一日でした。サクラが満開です。会社からの帰り道、風がずいぶんやわらかくまるくなったなと思ったら、さきほど雨が降ってきたようです。風をやわらかく感じたのは、雨が降る前に空気の湿度が変わったせいかもしれません。

長い間読み進めていた「書きたがる脳」という本をやっと読み終わりました。そして、書斎に積み上げられたまま埋もれていた「ビジョナリー・カンパニー」を読みはじめています。この本は既に続編が出版されているのですが、各方面の方から評価が高い本なので読んでおこうとかなり前から思っていました(実際に読むと、ほんとうにすばらしい。もっとはやく読むべきでした)。実は「書きたがる脳」では、著者アリス・W・フラハティさんの本文よりも茂木健一郎さんの8ページ分の解説のほうに惹かれてしまった。そして、たぶんこの2冊をつづけて読んだせいだと思うのですが、「書きたがる脳」の解説と「ビジョナリー・カンパニー」の冒頭にある言葉がぼくのなかで勝手につながりました。

茂木健一郎さんの解説では、現代人は忙しく、細切れな時間をつなぎ合わせながら生きている、ということが書かれています。情報の洪水にうんざりしつつ、いくつものメールに回答しながら、資料を検索して仕事を片付ける。つまり過剰に書きつづけるハイパーグラフィア的な状態にある。しかしながら、茂木さんはここでモーツァルトを例に挙げます。モーツァルトは仲間と酒を飲みつつ、妻とくだらない世間話をしながら、みんなが眠ったあとで至高の曲を朝までに書き上げる。しかも膨大な曲を書きつづけるわけです。もちろん天才だからできたことかもしれませんが、茂木さんは現代人は「モーツァルトこそを理想とすべきではないか」と書いています。それを読んで、なんとなく共感しました。ゆっくり何かに取り組む時間がなかったとしても、その慌しさを楽しむことだって不可能ではありません。できれば、モーツァルトでありたい。

と思いつつ、「ビジョナリー・カンパニー」を読み進めたところ、ビジョンのある会社とは何かという調査を進めていくなかで、常識的に考えられていたことが覆されたという結論を「十二の崩れた神話」としてまとめていました。そのなかで興味深い表現をがあります。神話の十一「二つの相反することは、同時に獲得することはできない」ということに対して、ビジョナリー・カンパニーは、手に入れられるのはAかBかのどちらかという「ORの抑圧」で自分の首を絞めたりしないで、保守的と大胆、利益と価値観のように、相反するものを欲張って手に入れようとする「ANDの才能」を大切にする、という部分です。ぼくはこの一文を読みながらモーツァルトをイメージしたのですが、どちらかを選べというより、どっちも選ぶ、という困難に挑戦するとき、当然その慌しさや煩雑さに追い込まれたりもするのだけれど、それが自分の課題処理の能力を広げたり強化するような気がしました。

ところで、今日は仕事関連でアフィリエイトで有名な和田亜希子さんと、とある企業の情報システム室の室長の方(匿名にする必要もないかと思うのですが)とお会いしてお話しました。事前に和田さんのサイトやブログを拝見していたのですが、ココログからアメブロ、ヤフーなど10サイトものブログを運営されている。和田さんこそモーツァルト的なひとだ、と思いました。さすがに多方面で活躍されているだけあって、アイディアがぼんぼん出てきます。ぼくもつられて脳内がとても活性化しました。和田さんはすごいひとです。

いろんなアイディアが出たなかで、企業ブログにはブロガーだけでなくブログ編集者が必要、というお話も納得です。また、炎上したブログを鎮火させるためのコンサルタントの必要性というのも、もっともだと感じました。以前、ハッカーだった人間が逆にセキュリティの会社を立ち上げて信頼されたということもあったかと思うのですが、ブログコンサルタントにおいても、自ら痛い経験がそのノウハウを生かせるようになるかもしれません。ぼくもたまに問題発言によって騒動を起こしたこともあり反省もしているのですが、ひょっとすると痛い経験のあるぼくは、その経験を生かすこともできそうだ、と思ったりしました。傷付けられたり傷付いたり辛さやかなしみを経験した人間こそが、ほんとうにやさしくなれるものです(いや、ほんとうに)。

さて。帰り道、家の近くにあるCDショップに立ち寄ったのですが、モーツァルトのことを考えていたせいか、ついつい「どこかで聴いたクラッシック モーツァルト名曲ベスト101」という6枚組みのCDを買ってしまいました。クラシックのCDを買うのは、子供が生まれるときに胎教のために奥さんにCDを買ったとき以来かもしれません。ほんとうはこんなオムニバスを買うのは邪道かもしれませんが、クラシックはほとんど聴かないぼくとしては取っ付きやすい。何も知らないとはいえ、なんとなくDECCAはいいんじゃないかという気がして選びました。ドナルド・フェイゲンの13年ぶりのソロアルバムや、小沢健二さんの新譜(どうやらインストアルバムらしい)も気になったのですが、いずれ購入することにしましょう。

CDショップで気付いたのですが、モーツァルトは生誕250周年なんですね。そんなわけで企画もののCDがたくさん出ている。いまCDを聴きながらブログを書いているのですが、モーツァルト結構いいかもしれない。メロディの奔放さや飛び跳ねた感じが、なんとなく気持ちを軽くしてくれます。春らしいともいえる。さらにこのCDでは、映画に使われたモーツァルトとして、ピアノ・ソナタ第11番は「ビューティフルマインド」に使われたこと、フィガロの結婚の手紙の二重唱は「ショーシャンクの空に」に使われたことなど、映画やCFなどに使われたという情報が明記されているのがうれしい。
趣味のDTMでも、ほんとうは弦を多用した曲を作りたいのですが、なかなか才能がなくて難しい。実は以前に作った「Oxygen」のサビの部分をサンプリングの弦でアレンジしたメモ曲もあり「Oxy弦」などと呼んでいたのですが、ひとりの方に聴いていただいたまま未完成でオクラ入りしています。完成していないのですが、muzieで公開しようかとも思います。たぶんいま公開している「Morning_light_reprise」に近い雰囲気です。この曲もシンセで弦を表現しようと試みたのですが、きっと本職の方からみると変な弦でしょう。

ところで、テクノ界のモーツァルトといえばエイフェックス・ツインという方もいるようです。怖い顔がジャケットのCDをぼくは持っています。これはほんとうに怖いので、いつも顔の面は伏せているのですが。

凡人のぼくはモーツァルトのような天才にはなれませんが、モーツァルト的でありたいと思っています。

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■しばらくモーツァルトばかり聴いているかもしれません。6枚組みで101曲あります。

B0009XE7RUどこかで聴いたクラシック クラシック・ベスト101
マリナー(ネヴィル)
ユニバーサル ミュージック クラシック 2005-08-24

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■こちらはテクノ界のモーツァルトです。顔が怖い。

B000002HOFRichard D. James Album
Aphex Twin
Elektra 1997-01-27

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2006年3月23日

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ななめ読みの春。

長男は終業式でした。通知表はいまひとつですが、まあよかろう。頑張ったんじゃないかな。そして、喘息の次男が退院できました。朝には曇り空だった天気も晴れて、彼の退院を祝ってくれたようです。けれども、ちょっと歩いてはぺたんとしりもちをついたり、また歩いてはぱたんと倒れたり、さすがに1週間の入院は彼の体力を奪っていたようです。とはいえ、しおしおになって寂しさを埋めるために未来探偵コナンを全巻読破しようとしていた長男にも、やっと笑顔が出ました。

というぼくにもやっと余裕が生まれはじめています。フリーペーパー2冊と雑誌1冊をゲットして、ななめ読みできる余裕もできました。ななめ読みして、これはと思ったことをピックアップしてみます。

まずは地下鉄の駅に置かれている「metro min.」。実はぼくはこのフリーペーパーをずっとストックしているのですが、No.41は、春らしいピンク色の表紙に木村カエラさんが黒板に書かれたおだんごを口を開けて食べようとしている写真があって楽しい。特集のなかにも教室でお弁当を食べる木村カエラさんの写真もノスタルジックでよいです。あらためて思ったのですが、このフリーペーパー、レイアウトのセンスがよくなっているような気がしました。前からこうでしたっけ?この冊子が無料と言うのはうれしい。お花見特集ということで、「花見を読むという方法(P.12 )」では、花見に関係する小説などが紹介されていて、川上弘美さんの「神様」と「センセイの鞄」があって、そういえばこの小説のなかで、お花見のシーンは印象的だったな、と思いました。それから藤原新也さんの「月の裏側で歌っています」では、デヴィッド・シルビアンの新譜を紹介しているのですが、思わず聴きたくなりました。デヴィッド・シルビアンの歌について「耳元一センチぐらいのところで聞こえるような気がしたの」という印象を述べる女の子が登場するのですが、この表現はうますぎです。デヴィッド・シルビアンでよく聴くのは(というか実はいまそれしか持っていないのだけど)「EVRYTHING AND NOTHING」という2枚組みの輸入版CDなのですが、まゆげをぐりっと描かれたイヌのジャケットなど、写真をみていても面白い。このCDは気だるさがよいです。でも、新譜を聴きたい。

次に「R25」。こちらはサクラ色のmetro min.と対比するかのように、今回のNo.86は若草色の表紙です。そのなかで注目したのは、「はてな」と「新会社法」の記事でした。「「へんな会社」の作り方」という本が出ているのですが、ぼくがこのブログを書いているはてなはとてもユニークな会社です。そもそも自分の机が決まっていなくて、出社したら好きな場所に座る。これはすごいな、と思ったのですが、海外にはそういうスタイルも多いということをどこかで読みました(どこで読んだのか失念)。「新会社法」については、LLPという形態がなかなか面白いと思いました。経済産業省のページでいろいろと資料を読んだのですが、やはり海外ではさまざまな事例が出てきているようですが、想定例としては、インテルやIBM、AMDなどの半導体メーカーが共同開発する例がなかなか興味深いものがありました。

ここまではフリーペーパーですが、久し振りに購入したのが「ダカーポ」です。これは学生時代によく読んでいたような気がします。No.580は「2006年版 絶対必要な常識の3大特集」で、新社会人などに向けた企画のようです。「新入社員の基礎常識」というのはもはや読んでいても遅すぎる(泣)という感じなのですが、冒頭のところで、宮崎学さんという作家が「相反する常識が併存し、バランスを取るのが成熟社会だ」という提言をされていることに注目しました。金がすべて/金がすべてではない、という複数の常識が成立するのが社会であり、ライブドア事件を例に挙げている。なにが正義か、ということも常識と同様、複数あるわけで、あるものにとっての正義が別のものには悪であることもあるし、その逆もあり得る。権威的なものからみると、その権威に対抗するものはすべてが悪なわけです。抹殺すべき邪悪なウィルスにすぎない。しかしながら確かにウィルスかもしれないが、正義をもって権威に対抗するものもある。

ところで駅や街のなかで、はかま姿や着物姿の学生が目立ちました。卒業式、謝恩会の季節です。子供たちは明日から春休み。寒いことは寒いのですが、久し振りに家族が揃って気持ちがぽかぽかしています。この陽だまりのような時間が、長くつづきますように。開花宣言も過ぎて、サクラもそろそろ咲き始めるのでしょうか。

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2006年3月16日

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弾き語る、自分を表現する。

人間の表現力というのはすごいな、と思っています。そして表現できる人間というのは、やっぱりすごい。インターネットでブログを書いているひともそうだし、アマチュアの方の音楽作品をダウンロードして聴いてもそう思う。そして、リアルな場所で演奏できるひとには圧倒的な存在感があります。

昨日は、ライブの告知をいただき、仕事場からも近かったため、四谷天窓.comfortというところでピアノの弾き語りを聴いてきました。以前、このブログでも紹介したことがある藤田麻衣子さんをはじめ、川崎萌さん、山本さくらさんという3人の方の「カントリーガール」という企画的なライブでした。

四谷天窓というライブスペースがあることは以前から知っていて、しかも仕事場からすぐ近いので気にはなっていたのですが、今回行ってみて、とてもよい雰囲気だなあと思いました。ところで階段を登りながら、FOURVALLEYの文字をみて懐かった。これもまた知らずに行ったのですが、天窓はFOURVALLEYの系列のライブスペースらしい。FOURVALLEYというのは、そのまま和訳して四谷なんだけれど、かつて大学の先輩たちと社会人バンドを組んでいたとき、ここで演奏をしたことがあります。ぼくはベースで、しかしながらものすごく下手で演奏に余裕がなさすぎだったのですが、男3人のギター、ベース、ドラムという最小編成で、ギターを弾いている先輩のオリジナルを5曲ほど演奏しました。当時はへフナーをまだ持っていなかったので、フェンダーのセミアコのプレシジョンベースを弾いていた気がします(そのベースは部屋の片隅でケースに入ったまま埃に埋もれている)。

と、ちょっと回想が長くなりましたが、ちいさなライブスペースではあるのですが、四谷天窓.comfortには50人ぐらいのひとがぎっしりと入っていました。基本的にはグランドピアノとマイクが置かれているだけなのですが、2方向ぐらいからカメラで映像を撮ってプロジェクターで投影もしている。フェードインなどのエフェクトもさりげなくかけていた気がします。DVD制作などもしているようですが、このままインターネットでライブできるといいなあ、とも思いました(もしかしたらできるのかもしれない)。

このところほとんどライブハウスに行っていなかったのですが、まずやはり生のピアノの音、人間の(というと変なのですが)歌声の表現力、存在感もしくは質感は違うなあ、圧倒的だ、という冒頭の感想を得たわけです。ぼくは打ち込みで曲を作ったりもして、Vocaloid MEIKOという拝郷メイコさんというシンガーの歌声を解析した合成音声ソフトウェアに歌わせてインターネットで公開しているけれど、リアルの歌とピアノは別物だ、という当たり前の衝撃を得ました。これはかなわない。同じことをやろうとしても無理です。何が無理かというと、同じひとりのひとの声であっても、その表現はものすごい幅がある。かすれたように歌うとき、強く発声するときなど、それはデジタルな打ち込みでパラメーターを設定して表現できる世界ではない。そしてピアノと歌という同じ構成であっても、演奏するひとによってまったく別の世界観をつくることができるものだな、と。

イメージですが、川崎さんは声のかすれ具合といい、草原を渡っていく風、という感じがする。同じ静岡県人なので同郷の親近感もあり、静岡県人らしい(というのも変ですが)やさしさとあたたかみがある曲調でした。一方で、藤田麻衣子さんは声は繊細でかわいいのですが、その歌っている世界とピアノに意思がある。書かれたものを読んでいても思うのだけど、実は強い意志のあるひとじゃないかと思います。それが演奏からも伝わってきて、かなり感情を揺さぶる。これがいいです。山本さくらさんは、さすがバンドをやっていただけあって、自己主張する輪郭のはっきりしたピアノを弾きます。ツアーしながら演奏しているそうですが、筋金入り(は失礼でしょうか)という感じがしました。

カントリーガールという企画なので、静岡出身(川崎さん)、名古屋出身(藤田さん)、北海道出身(山本さん)という地方の話も交えての演奏だったのですが、曲としても川崎さんの「ここではないどこかへ」や藤田麻衣子さんの「新しい世界」のように地方からトウキョーに出てきたときなどの気持ちを歌った曲が印象に残りました。考えてみると、そんな気持ちからずいぶん遠ざかっています。

それにしても、たとえば50人の前で50分間だけ自分について語ってみろ、と言われてもまずできません。曲と曲の間に入るお話も含めて、自作の曲を弾き語りするというのは、それに近いものがあります。まったく単純なことで恥ずかしいけれど、両手でピアノを弾きながら歌いつつ、お客さんの方に向ってにこっと笑えるということ。この当たり前のようにやっているライブパフォーマンスに、あらためてすごいなと思いました。

そして、このひとたちの演奏する曲とプロの曲はどう違うんだろう、という疑問も感じる。もちろん曲によって完成度にばらつきはあるかもしれないけれど、完成度の高い曲はラジオで流れていてもおかしくない。しかしながら、これはシロウトのぼくの感覚であって、ぼくには0.1ぐらいの差しかないと思うものがプロの目からみると100ぐらいの隔たりがあるのかもしれません。それがプロの世界なのでしょう。きちんとやろうとすると甘くはないのでしょうね。

実はライブのスケジュールをみると、こういうひとたちがたくさんいる。インターネットによって表現する場は増えたと思うのですが、昔から歌いたい、演奏したい、アーティストになりたいひとはたくさんいました。うちの近くの駅でも最近になって路上で演奏しているひとが出てきましたが、若干変わった見方をしてみると、ストリートミュージシャンは路上をインターネット的な表現の場に使っているともいえる。座り込んでじっくり聴いている取り巻きのようなひともいるけれど、通りすがりのひともいる。これもインターネットと同じです。場所の境界をなくすことが、インターネット的な社会の在り方かもしれません。

ところで、通り過ぎてしまうけれど、ひょっとしたら次の世代の名曲を生み出すようなアーティストがいるかもしれない。がしゃがしゃとうるさい曲ばかりのように聴こえるけれど、もしかするとノイズばかりではなかったりもする。

ときどきは耳を澄ましてみよう、と思いました。

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■四谷天窓.comfortはピアノラウンジです。男性のピアノ弾き語りというのも聴いてみたい。あと、ギターの弾き語りも聴いてみたいですね。若林哲平さんという方が、いいと思っています。時間がなくてライブに行けないのですが、手作りの自作曲CDをわざわざ送ってもらったことがあります。これが泣けた。
http://www.fourvalley.co.jp/tenmado/comfort/

■muzieで藤田麻衣子さんの「恋に落ちて」を聴くことができます。
http://www.muzie.co.jp/cgi-bin/artist.cgi?id=a034234

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