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2008年4月17日

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思考を歩かせる。

仕事やプライベートで思考が澱んできたとき、ぼくは歩くようにしています。PCを離れて外へ出てみる。だいたい近くのコンビニや書店に行くことが多いのだけれど、少し歩いただけで気分も変わるものです。空を眺めて雲の動きが早いことに気づいたり、葉桜の緑に季節の変化を見出したりします。けれどもほんとうに辛いときはダメですね。思考が閉じているから、風景も見えない。カラノ・カラダだけが、自動操縦で足を運ぶばかり。

思えば学生の頃、お金はなかったけれど悩みや暇ばかり過剰にあったぼくは、よく歩いたものでした。隣りの駅を通り越して、さらに隣りの駅までずんずん歩いた。夏などは、ただ歩いているだけで黒くなったものです(苦笑)。

歩いていると思考に費やされる体力がカラダにまわされるので、余計なことを考えなくなります。そもそも歩く行為自体が前進することなので、思考が前向きになる(ような気がする)。どよーんと落ち込んで部屋で微動だにできない状況も多くありましたが、汗を流して必死で歩きながら、実はとめどなく暗い思いに支配されているときもありました。どちらのほうがベターかというと・・・同じようなものでしょうかね。

ところで、音楽にも歩くという表現が使われます。主にジャズですが、いわゆるウォーキング・ベースといわれるベースラインがあります。別にベースを抱えてステージをうろうろ歩きながら演奏しているわけじゃないんですが、比喩的に音を歩かせているわけです。次の音への経過を音で埋めていくことで、ずんずん歩くような感じになります。ウッドベースなどでこのベースラインを弾けるとかっこいい。

ここでジャズのウォーキング・ベースを引用すればかっこいいのですが、あまりよくわかりません。なので軟弱な渋谷系を引用するのですが、はじめてこの曲のベースライン、というかアレンジを聴いたときにやられたーと思いました。フリッパーズ・ギターの「恋とマシンガン」です。これもウォーキング・ベースだと思うのですが、ポップスでさりげなく使われるとまいります。

ついでにウォークがタイトルにつく音楽を思い浮かべてみました。まずはエアロスミス(あるいはRun DMC?)。CMにも使われていたような気がします。ちょっと渋めでは、ルー・リードの「ワイルドサイドを歩け」でしょうか。個人的な趣味でいうと、アズテック・カメラのWalk out to winter(まったく季節無視ですけど)。一方、和の世界で考えてみると、坂本九さんの「上を向いて歩こう」。名曲です。上を向いて歩くのはいいけど、マンホールにはまらないよう気をつけたい。

ああ、そういえば携帯電話の画面ばかりを見て歩いていたら、渋谷の駅で電車とホームの間に、すとーんとはまったことがありましたっけ(苦笑)。あれはまいった。きれいにはまった。駅員さんに救出されたからよかったけれど。

そうやって何かに気を取られて歩いていると危ないのですが、通常は歩いているときには風景が目に入るものです。それがいい。一方でスピードを上げて走ると、視界も狭くなる。廊下を走らないでください、ではありませんが、走っちゃいけません。走ると息が切れるし、誰かにぶつかる可能性も高くなる。というか、既にぼくは走れません(泣)。空港に向かう女の子を追いかけて走る、みたいなことをやってみたいものですが。

アフォーダンスという認知科学で、世界が立体的に認識されるのは、あなたが動くからだ、というようなことが書かれていたことは衝撃的でした。実は世界そのものは立体で存在しているというよりも、いくつもの平面のテクスチャー(素材)で存在している。そして自分が動く(=歩く)と、平面と平面の差異によって世界が立体的に存在する。そんな話だったような気がします。

21世紀なので、ロボットも歩く時代です。とはいえ、簡単そうにみえる二足歩行が実はかなり大きな課題だったらしい(Wikipediaの二足歩行ロボットのところに詳細に解説されています)。

以前、隔週のパーツ入り雑誌を買ってロボットを作ろうと思っていたこともあるのですが、5号(右腕完成)程度で断念した経緯のあるぼくには、ロボットの開発者のような仕事はうらやましい限りです。いまだに右腕の部品は組み立ててさえいない始末で、ロボットには若干トラウマがあります。それでもやっぱり気になりますね。特にタカラトミーのi-SOBOTは気になる存在です。

■公式サイト
http://www.isobotrobot.com/jp/

特許庁によると4月18日は「発明の日」だとか。

生活のこまごまとしたあれこれのために、とかく思考も立ち止まりがちな自分ではあるのですが、未来に向けて一歩踏み出したいものです。身体が重くて動かないのであれば、とにかく想いだけでも前進したい。ささやかな一歩かもしれないけれど、未来への一歩を大事にしたい。

わずかな歩みを重ねることで、気付いていたら遠い場所まで辿り着いていた・・・それが理想です。こけてもいい。こけたらまた立ち上がって歩けばいい。

人類は、そうやって歩き続けてきたのではないでしょうか。人類はともかく、ぼくは今日も歩き続けるのではないかと思います。仕事が終わって、iPodで音楽を聴きながら、新宿御苑のそばを歩く。その時間がぼくにとっては、ささやかだけれど尊い思考を歩ませる時間であったりします。

+++++

■発明の日フェスタ 
http://www.hatsumei-no-hi.jp/

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投稿者: birdwing 日時: 23:21 | | トラックバック (0)

2008年4月 9日

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更新できずに痩せるばかり。

日曜日に公園にサクラを見に行ってサクラキン(そんなものあるのか?)にやられたせいか、食欲不振で、3日間で激ヤセしました。1日およそかき集めて1食ぐらいしか食べられません。ジュースのような液体は摂取できるのですが、固形のものがダメ。吐き気もあって寝つきも悪い。なので、いまズボンのベルトとお腹の間に拳が入ります。いや、その前がどうだったのかは置いといて(苦笑)。

ひょっとしたら、軽めのウィルスに胃をやられたのかもしれません。一応会社にはきちんと行くことができているのですけどね。

究極のダイエットは、ウィルスかもしれないなーという笑えない実態があります。あるいは心労でしょうか。大きなストレスを抱えたときには、げっそりと痩せてしまうことがあるものです。なんとなく心臓もシクシク痛んで不整脈っぽい感じもあるのですが、大丈夫か、自分。

このダイエット方法(苦笑)のよくないところは、とにかくチカラが出ないこと(涙)。また、脳も身体の一部であるせいか、アタマの働きも悪くなる。なんとなくぼけーっとしたまま時間が過ぎて、行動に切れがない。しゃきっとしなさい、しゃきっと!という感じ。

新年度が始まったばかりに最悪の体調ですが、季節の変わり目には体調も崩しがちなものです。みなさまもお気をつけください。というか、自分が気をつけます、まず先に。

そんなわけで、ほんとうは、ばりばりとブログを書きたいし、DTMで作品も作りたい、本やCDの感想も溜まっているのだけれど、しばらくはしょぼしょぼと過去のエントリーをアップするなどで更新していきたいと思っています。

(泣)。

投稿者: birdwing 日時: 20:42 | | トラックバック (0)

2008年4月 6日

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鳥の増産と舞うサクラ。

鳥を増産した休日でした。といっても何のことかわからないですよね。先週の週末に図書館で鳥の折り紙の本を借りてきたのですが(詳細は先週のエントリー)、次男くんにせがまれて次から次へと折るはめに(涙)。100円ショップで買ってきた折り紙のせいか、びみょうによく折れない。よく折れないのだけれど失敗を繰り返しながら折っているうちに、次第に折り方がわかってきました。

未熟な折り紙なので、ひとつひとつの写真掲載は控えるのですが(うまくなったら掲載するかも)、夜眠るときに枕のまわりにぼくの折った鳥らしきものに囲まれて寝ている次男くんをみたら、ちょっと涙が出そうになりました。というのも、彼は大事なものを枕のまわりに配置して寝るんですよね。ウルトラマンのソフトビニール人形を買ったときには、最新の怪獣を枕元に置いて寝る。一見するとゴミのような折り紙の鳥ですが、気に入ってくれたようです。といっても、数日で飽きちゃうのですが。

次男くんは造形芸術っぽい志向があります。折り紙でオナガドリを作っていると、「かんぜんなおながどりをつくるー」ということで、ぼくの横で画用紙をぐしゃぐしゃまるめて、セロハンテープで貼っている。彼にとって「かんぜんな」とは「立体的な」ということらしい。よく粘土遊びをするのだけれど、最近は紙でセミとか家などを作るようになりました。

ところでぼくは彼からのオーダーでカツオドリを折っていたのですが、これがよくわからない。一回失敗しましたが、再度挑戦してなんとかカタチになりました。本の解説ページと、ぼくが折ったやつを掲載してみます。なんとなく違う気がする・・・。ちなみに次男くんが目を描いて遊んだので、ちょっとよれよれです。

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このカツオドリを折っている間にも、「かんぜんなかつおどりをつくるー」といって何か工作をはじめていたのですが・・・できあがったものはこれ。

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こ、これは?次男くんに聞くと

「かつおのぼり」

とのこと。うーむ。まあ、確かにコイノボリのかたちだよね。しかし、なぜ、かつおのぼり?そこでああそうか、と思い立ちました。カツオドリは鰹のまわりに集まるからカツオドリなのか、という話をしていたせいだ。これは魚の鰹なのか。たぶん、幼稚園でこいのぼりの作り方を習ったのだと思うのだけど、その応用編なのだね。

で、そこから彼のお話がはじまったのだけれど、カツオドリがかつおのぼりに食われてしまう(苦笑)。これは、反対でしょうが。ふつうは鳥が魚を食べるよね。

しかし、大きさからいってもかつおのぼりのほうが強い。怪獣レベルの存在です。その後、次々と鳥たちを喰らってしまい、やがてはヘリコプター(玩具)を食べちゃいましたとさ。おしまい。

さて、今日は天気がよかったので、最後のサクラを見に行こう!と提案したのですが、大乱闘スマッシュブラザーズ(Wiiのゲーム)に集中している家族3名はおとーさんの話など聞いちゃいない。なので、おとーさんはひとりでお散歩しちゃいました。ちょっと寂しい。

葉桜化の進行が著しいのだけれど、美術館のある広い公園はかなりたくさんのひとが訪れていて、思い思いの場所にレジャーシートを広げて最後の花見を楽しんでいました。フリスビーをやっているひとも多く、芝生の上を原色の円盤が飛び交っている。輪になって集っているひとたちは学生や若いひとたちが目立って、お酒を飲んで赤ら顔の女性もいました。気持ち良さそうです。昼間から飲む酒は美味いんだよね。親子連れもいれば、膝枕をしてしあわせそうに眠っているカップルもいます。かと思うと、90歳ぐらいのおじいさんとおばあさんが並んで恥ずかしそうに写真を撮られていたりする。

ひとりで散策しながら、切ないながらも少しあったかい気持ちになりました。強い風が吹くと、はらはらと桜の花びらが舞って、お酒を飲んでいるひとたちの間から、おおおっと歓声があがる。きっと来週には桜も散ってしまうことでしょう。芝生の上では眠っているひともいるけれど、日向ぼっこしているとあたたかい陽射しでまどろんできます。現実と夢の境界が曖昧になる。

そんな散策のショットを掲載してみます。

桜は霞むような集まりとして遠くから眺めるのがいい。

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芝生の上のしあわせな風景と桜の遠景。

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噴水の水面に浮く桜の花びら。

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芝生の上にも桜(自分の影もあり)。

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接近して桜。とある撮影所の前の桜。

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まだ次男くんが喘息ではなかった頃には、家族全員で訪れて団子を食べたりしたものでした。家族に対する期待とか思い入れはそれほどないのだけれど、できれば四季折々、春は桜を眺め、夏には海に出掛け、秋は紅葉を楽しみ、冬には雪で遊ぶ、そんな家族であればいいなと思ったのだけれど、なかなかそうもいかないものです。なのでぼくはひとりで花見。

どこからやってくるのかわからない不安と、切ないようなやるせないような感じと、ここではないどこかに思いを馳せるような何かが混在した状態で日曜日も終わりつつあるのですが、歩き回った疲れで思考もちょっと緩みがちです。今日は心地よく眠ることができればいいのですが、どうかな。空腹にビールが効きつつあり、心地よく酩酊状態です。

投稿者: birdwing 日時: 19:15 | | トラックバック (0)

2008年4月 4日

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ゆるやかな変化。

ふと気が付くと、街ですれ違うひとにマスクをかけているひとが多い。花粉症対策のためだけれど、以前にはこんなにたくさんのひとがマスクをしていたっけ?と、あらためて愕然としました。

この光景は、20世紀に(といってもまだ数年前なんだけどね)、SF小説や映画の冒頭で描かれがちな「21世紀の社会では、大気汚染のためにすべてのひとがガスマスク着用を義務付けられている・・・」のようなシーンに近いのではないでしょうか。

花粉症などのアレルギーが多くなった理由は、大気が汚染されていこともひとつの要因かもしれませんが、ぼくらの住む世界がクリーンで清潔な環境になっていたせいでもあるようです。つまり、昔に比べると清潔になってしまったため、きれいな環境に馴れた人間が過剰に花粉などに反応してしまう。

生物学的にこのことを表現する言葉があるかどうか知りませんが、汚れた社会のなかで生きる人間のほうが耐性は強いのかもしれないですね。うようよウィルスのなかで暮らしていた野蛮人のほうが強かったりする。皮肉なことだけれど。

と、別に環境汚染に対する批判をするわけではないのだけれど、気が付くと社会は大きく変わっていた・・・ということは、結構ある。インターネットなどもそうかもしれません。不況や年金問題なども、ある臨界点を超えると問題が顕在化というか浮上してきて、そのときには取り返しのつかないことになっているかもしれない。これは怖い。

そんなことを考えるようになったのは、本日、会社の帰りに喫茶店に寄って、大前研一さんの文庫を読み終えたからです。これです。

4167717662私はこうして発想する (文春文庫 お 35-2)
大前 研一
文藝春秋 2008-03-07

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大前研一さんというと、ビッグネームだけになんとなく敬遠されることも多いのだけれど、ぼくは読むたびに何か気持ちの原料のようなものを注入してもらったような感じです。この本では、大前さんが作られたBBT大学院大学というカリキュラムにも触れながら、時代や社会の読み方を解説されています。

とかくグローバルな視点にかけて、自分の周囲3メートル四方のことしか目に入らないぼくとしては、大前研一さんの世界を読むチカラに感動しました。北朝鮮や韓国と日本の関係をあざやかに解説していきます。といっても、鵜呑みにするのではなく、ほんとうにそうなのか?と自分で検証する必要はあるでしょう。

ついでに備忘録的に書いておくと、今週は2冊の本を購入しました。まずは英語で日記を書いてみるための本。2行程度の短文からはじめようという趣旨です。

4860641779はじめて英語で日記を書いてみる
石原 真弓
ベレ出版 2007-12-20

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・・・うーむ、書かないかも(苦笑)。しかし、Twitterやめてしまったのですが、こうした短文の日記こそ「いま何してる?」形式でワード数も制限されるTwitterで書いたほうがいいのかもしれないと思いました。ただ、外国人の方にレスされると困りそうだ。

つづいて石田衣良さんの次の本です。

4087712249逝年―call boy2
石田 衣良
集英社 2008-03

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女性ファンの多い石田衣良さんですが、勇気を持って発言すると、石田衣良さんの小説はマンガ的だと思う(うわー、ファンから刺されそうだ)。

小説の構造がわかりやすいのですが陳腐なこともあり、コピーライティング的な言葉の美しさだけが先行するイメージがあって、「1ポンドの悲しみ」は途中で読み進める気が失せて挫折しました。いまも読んでいません。I.W.G.P.(池袋ウェストゲートパーク)のような小説は、ドラマ化されてこそ面白いのではないでしょうか。小説として読むよりも、そのエンターテイメント性がドラマのほうがよりいきいきとして表現される。

と、批判しているのですが、石田衣良さんの作品でこれはいいなと思ったのが「娼年」でした。えーと、ホストで身体を売るリョウという少年が主人公で、少しばかりエッチなお話です(照)。その続編が出ていたので購入。

ビジネスからブンガクまでの本を読み進めながら、自分の引き出しを広げたいと思っています。気が付くと自分も大きく変化していればいいのですが。

ところで、喫茶店からの帰り道。春の風は強かったのですが、携帯電話で呼び出されて、とりとめのない話をして楽しい時間を過ごしました。行き交うひととたちも、なんとなく春の装いで楽しそうでした。大きな変化の流れのなかでは埋もれてしまうのかもしれませんが、そんなささやかなしあわせな時間も大切にしたいものです。

投稿者: birdwing 日時: 23:16 | | トラックバック (0)

2008年4月 1日

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ふーる・おん・ざ・・・

会社を作ろうと思います。自分のやりたいことを実現するには、環境が必要だと実感しました。では、どんな会社、環境が理想だろう。

フラットな組織、権限委譲を積極的に行う会社であれば、企業内起業も可能。細胞分裂のようにビジネスは増殖していきます。一方で、内部ばかりに目を向けた不透明な組織では、互いの脚を引っ張るばかりで可能性は磨耗していく。手を挙げたものが馬鹿をみる。

壁にぶつかっているうちに壁にぶつかることさえ恐れるようになってしまうぐらいであれば、壁を突き抜けちゃったほうがいい。所詮、人生いっかいきりじゃないですか。ちいさくまとまるよりは、勝負に出たい。守りの年齢などというものは、あきらめた人間の言い訳だ。放っておいても老人にはなるわけで、持続的に挑戦と成長をしていたほうが楽しい。コンサバティブであるよりもアグレッシブに、あらゆることにクリエイティブでありたい。

見晴らしのいい場所から眺めれば、もっと遠くまで見ることができたり、広い世界を俯瞰できるのであれば、丘の上に登ってみたいものであるなあ。いままで底辺を彷徨って生きてきたから下からの眺めしかわからないのだけれど、上の世界からの眺めはどんなだろう。下の世界を見下ろすためではなく、向上心を突き詰めて、もっと高いところへ自分を持っていきたい。誰かに連れて行ってもらうのを待っていても、誰も連れて行ってはくれない。そのためには、現状に甘んじていてはダメだ。

背反することかもしれないけれど、夢を追いかけるものは、現実的、堅実的でなければいけない。夢を実現するためには着実な積み重ねが必要になります。夢は決して透明な大気の上に構築する雲の宮殿ではない。レンガを集めて、しっかりとした基盤を作ることがまず必要。

・・・なーんてね(笑)。

4月1日なので、嘘をついてみました。嘘というか法螺というか。

ただ、嘘であろうが法螺であろうが、信じれば現実になります。利口なひとは傍観者として批判して現実を追い求めるけれど、もっと馬鹿になってもいいんじゃないか。他人から指をさされようと、陰口を叩かれようと、疎まれようと、自分らしい生き方を選択したほうがしあわせだと思う。

丘の上の愚者という生き方。それは孤独ではあるのだけれど、裸の王様よりはましだと思います。王様は自分がちやほやされているから気付かないけれど、裸であることにはやく気付くべきだ。誰かに指摘されるのを待っているのではいけない。裸であることが周囲を巻き込んで、取り返しの付かない状況になる前に。というよりも自分自身が、精神を病んで風邪をひくまえに。

■fool on the hill

投稿者: birdwing 日時: 23:51 | | コメント (2) | トラックバック (0)