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2006年1月29日

モディリアーニ 真実の愛

▽cinema06-011:芸術の原動力となるのは。

B000BX4D5Oモディリアーニ 真実の愛 [DVD]
ミック・デイヴィス
アルバトロス 2006-01-07

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絵画のことはよくわからないのですが、通俗的な生活と美しい芸術というふたつの世界に生きなければならないアーティストの激しい人生について考えてしまう映画でした。タイトル通り主人公はモディリアーニなのですが、ピカソとの確執、妻であるジャンヌとの関係を中心に描かれています。とはいえ、冒頭でテロップが入るように、脚色された部分も多いのではないでしょうか。奔放に生きているモディリアーニは業界の異端児であり、だからこそ貧困にもあえいでいる。病んでもいる。破壊、というか破滅的な人生を歩んでいた彼なのですが、芸術の原動力になったのは妻への愛であり、子供への思いだった。コンペ(展覧会)の出品に取り組むときに、ユトリロやピカソなどが作品に没頭するシーンがあるのですが、妻をモデルにして絵に没頭するモディリアーニ(アンディ・ガルシア)の笑顔が印象的でした。もちろんお金や名誉も大切なのですが、ほんとうに大切なのはかたちのない何かなのでしょう。1月29日鑑賞。

公式サイト
http://www.modi-movie.com/

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(10/100冊+11/100本)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

スクラップ・アンド・ビルド。

喘息で入院してからあまり外に出ることもなかった次男の息子(2歳)を公園に連れて行ったのですが、走りがぼてぼてになっていました。以前のような切れがなくなった。ぽってん、ぽってん、という感じで走っていく。ゲーム好きのひとにはわかるかもしれないのですが、ピクミンという種みたいな宇宙人をいっぱい育てて戦わせたりお宝を運ばせたりするゲームがあるのですが、その「ムラサキピクミン」というイメージです。最近ずいぶん食べてるからなあ。それでも走るのは大好きなようで、ベビーカーと滑り台のあいだを走らせたら「もっかい、もっかい(もう一回)」と言って何度も走ります。さすがに父の方が降参でした。あとは、「かくれんぼしたら、ほんでぼー」みたいなことを言うので、意味がよくわからないのですが「んじゃ、ほんでぼー」と言ったらすごく面白かったらしい。勝手に大ウケして、げらげら笑っていました。なんだかなあ。意味なんてどうでもいいんですね、子供にとっては。

さて、いろいろと本を買い込んだのですが、「Think!」の特集で紹介されていた羽生義治さんの「決断力」にはまっています。ちょうど半分あたりの第三章「勝負に生かす「集中力」」を読んでいるところですが、ほんものの勝負師の言葉には重みがあるし、切れがある。唸るような洞察が多い。お恥ずかしいことですが、将棋の世界にもトレンドや研究があって流行の手があるということを知り、ビジネスと同じなんだなということを感じました。ものごとを難しく考えずにシンプルなKISSアプローチ(Keep it simple,stupidのこと。軍隊用語だそうです)をすること、直感を信じること、など、一文一文が書き留めておきたいようなフレーズばかりです。

特に新しい言葉ではないのですが、スクラップ・アンド・ビルド(破壊と創造)という言葉があり、羽生さんの文脈では目を引くものとしてうつりました。第一章の「守ろう、守ろうとすると後ろ向きになる」の節で使われている言葉ですが、名人の米長さんの「時の経過が状況を変えてしまう」というコメントを引用されていて、待つよりも攻めることの重要さを説かれています。ぼくは、先日「ターミナル」という映画を観て、待つことの重要さを感じたばかりだけれど、あの映画のなかでもビクターはただ待っているだけではない。ここだ、というチャンスには積極的に攻める。耐久力は必要だけど、それだけでは勝負をかけることができない。耐久力と瞬発力の両方が必要になるのかもしれません。そして、勝負をかけるときの勇気でしょうか。

米長さんは、50歳で若手に教えをこうて、いままでの自分のスタイルを一新させたそうです。すごい。それまで培ってきたものを全部捨てることは、なかなかできないことです。でも、その捨てる勇気があることが、勝負を変えていく。捨てることは何かを選ぶことでもあります。勇気が必要になる。そして、将棋では一局のなかにおいても、そういう転機があるということを羽生さんは書いています。

新しいスタイルを獲得すること。そのための破壊する勇気。ムラサキピクミンみたいな子供が大きくなるまでは頑張らなければならず、どちらかというと守りに入りつつある年齢なのかもしれませんが、心のなかにメモしておきたい言葉でした。

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2006年1月28日

ターミナル

▽cinema06-010:待つことの美学。

B0002U8NPMターミナル DTSスペシャル・エディション [DVD]
アンドリュー・ニコル
角川エンタテインメント 2005-04-28

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「おしん」なんてドラマもその昔にはありましたが、そもそも日本人は耐えることを美徳としてきた文化があるように思います。いまはどうか、ということはありますが、ひたすら入国許可が出ることを待つこの映画は、日本人的なドラマを感じました。最初はコメディっぽくて、どうも演技が過剰な気もしましたが、ヒューマンなあったかい気持ちになれます。ナポレオンのエピソードが挿入されていますが、そういえば彼は3時間しか寝ないひとだったとか言われていたな、ということを思い出しました。トム・ハンクスが演じるビクターがなぜ待ちつづけていたか、という理由も泣けた。どうでもいいことですが、キャサリン・ゼタ=ジョーンズは美しいなあ。素敵です。1月28日鑑賞。

公式サイト
http://www.terminal-movie.jp/

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(10/100冊+10/100本)

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マシニスト

▽cinema06-009:痩せすぎです。

B000A2I7L2マシニスト [DVD]
スコット・コーサー
アミューズソフトエンタテインメント 2005-09-22

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まず何よりも、ぎょっとするような肉体でした。痩せすぎです。この俳優は誰だろうと思ったら、クリスチャン・ベイルだった。ひえー、カラテカの矢部太郎かと思った。不眠症の機械工の話です。1年間眠れない機械工トレヴァーのまわりで、奇妙な出来事が起こる。眠れないための幻覚なのか、現実なのか。謎のようなポストイットが冷蔵庫に貼られていて、6文字の最後は「ER」。その文字から、さまざまな謎解きをしようとするサイコ・サスペンスです。映画っぽい映画というのも変な表現ですが、深みのある渋い映像で、旋盤のアップとか、クルマのなかとか、部屋とか、漂っている雰囲気がいいと思いました。クルマのなかにいると雨が降ってきて窓ガラスに雨粒が流れる映像なんて、一瞬だけなのですが雨の匂いが感じられたような気がしました。好みです(でも、旋盤で指が切り取られるようなシーンは苦手です。)。以下、映画の公式サイトからの引用ですが、眠らなかった最高記録は「264時間12分(約11日間)」とのこと。睡眠不足は、健康にも美容にもよろしくありません。結局これを観終わったのは明け方の5時だったのですが、やっぱりきちんとした生活しなきゃなあ、ちゃんと眠ろう、と思ったものでした。1月28日鑑賞

公式サイト
http://www.365sleepless.com/

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(10/100冊+9/100本)

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ここちよい眠り。

徹夜をしてしまうと、昼夜が逆転するような状態になってしまい、なかなか夜には寝付きが悪くなるものです。というのは、いまに始まったことではなく、学生時代には夜更かしばかりしていました。夜更かしの時間は何になったか、というと別に何にもなっちゃいないのだけれど、その途方もない時間の浪費というのが、ちょっとした贅沢だったような気がします。

ところが学生時代が過ぎて家庭を持つようになったいまでも、ぼくは夜更かしです。というのも、休日の昼間にそうそう自分の時間はできないので、どうしても夜に活動することになる。趣味のDTMの音楽も深夜にヘッドフォンで作っています。夜中に書いた手紙は、周囲から遮断された環境で書いているためか、途方もなく恥ずかしいものになっていることが多い。朝になって見直すと、だめだこりゃ、とゴミ箱に捨ててしまうものですが、夜中になんとなく勝手に盛り上がって作ったフレーズも、次の日に聞きなおすと、なんだこりゃ、という曲になっていることもある。やっぱり、ゴミ箱に捨てるのですが。

もちろん夜早く寝て朝早く起きれば気持ちがいいし、その規律感がやるぞという気持ちを生むのかもしれませんが、なんとなくだらだらと過ごす深夜の誘惑もあるものです。ときには朝になって、しょぼしょぼな目をしながら不健康だなあと思うのですが、それもまたよいものです。しかしながら、普通の生活に戻れなくなってしまうところが問題ともいえます。夜勤のひとなんかは、どのようにして生活のサイクルを戻しているのでしょう。

さすがにもう徹夜はきついのですが、集中して最大限に力を発揮したあとの眠りは、ものすごくここちよい。ぎりぎりまで眠るのを我慢して、がーっと眠る。卒論を書き上げたときもそうでした。結婚するときにも、ちょうど大きな仕事が重なってしまい、結婚式の数日前に仕事が完了してやっと解放されて家に帰ったのですが、布団がものすごくやわらかい何か別のもののように思えたものです。もちろん長く眠ることも大事ですが、電車のなかで数分まどろむだけで一気に身体のコンディションが変わることもある。時間よりも深さなのかもしれません。

眠ろう眠ろうと思っていると余計に眠れなくなるけれども、起きていてもいいやと思っていると、結構眠くなる。身体の緊張を解いてあげること。弛緩させること。リラックスすることが大事なようです。張り詰めることも大事ですが、ときには身体をゆるめてあげる。この緊張と弛緩がよいのではないでしょうか。ただ、弛緩ばっかりの人生もよいような気もしています。60歳を過ぎたら、それでいこうと思っています。ゆるゆるな人生のために、いまを生きるわけです。

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2006年1月27日

「超実践!ブログ革命―共感が広がるコミュニティ作り」増田真樹

▼book06-010:プロの文章は違う。

4047100250超実践!ブログ革命―共感が広がるコミュニティ作り (角川oneテーマ21)
角川書店 2005-12

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人気ブロガーといっても2~3行しか書かなかったり、今日何を食べたしか書かないようなひともいますが、お金をもらって文章を書いているプロのライターさんの文章はやっぱり格が違うと思いました。ぼくはまだ増田真樹さんのブログを拝見していないのですが、きっとすばらしいブログなんだろうな、と思っています(あえてまだアクセスしていません。純粋に本がすばらしことをまず書いておきたいので)。抑制が利いていて、しかもそれでいて主張するところは強く、さらに引用や発見が散りばめられている増田さんの文章を読んでいて、ああ、これがプロなんだな、と感じました。Long Tailをはじめ、ビデオ会議など、最新の動向もきちんと網羅されている。読んだなかでは、文章=そのひとではない、ということにも頷けたし、ほんとうに人気のある書き手は謙虚である、という部分にも同感でした。最終章、「ブログの正しい育て方~十年後の自分への手紙」の部分は、全面的に共感できました。ぼくは2年前に書いたものをリセットかけてしまったのですが、社会的アーカイブとまではいかなくても、自分の足跡として残しておけばよかった。ところで本としては、乱丁すれすれのものでした。小口(本の綴じとは反対の外側の部分)が2ミリぐらいしかない。活字が切れてはいないけど、びみょうだな。ブログなら許せるけど、新書でこの製本は許せないなあ、角川書店さん(というか、印刷会社・製本所の問題でしょうか)。1月27日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(10/100冊+8/100本)

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バケツの穴を塞がなければ。

会社の話になりますが、ひとり優秀なベテランの社員が辞めるというお知らせがありました。もちろん、新しいひとも入社してはいるのですが、現在のスタッフがきちんとモチベーションを維持して働くことができる環境だろうか、まずそれが第一じゃないのか、と疑問を感じています。どんなに水を汲んだとしても、バケツの底に大きな穴が空いていれば、水は抜けていくばかりです。単純にひとの問題だけではなく、そのひとが蓄積したノウハウも零れていってしまうことになる。これでいいのでしょうか。そして、残されたぼくらに何ができるんだろう。

その辞めていく女性社員の方とは、ある新しいクライアントに提案して企画を立ち上げるときにいっしょに仕事をしたことがありました。非常に優秀でした。メールマガジンの編集を担当していたこともあり、匿名で書いていたにも関わらず彼女のファンができるほどです。その編集能力を生かして、今後はフリーで活躍していくとのこと。そのこと自体は、ものすごくいいことだと思います。困難だったとしても、成長できない環境でくさってしまうよりも、自分の力を発揮できる場所で仕事をするのがいちばんいい。会社に残るのは、勇気も実力も決断力もなく不満ばかりを抱えたぼくのような人間ばかりなのかもしれないのですが、優秀な人間を辞めさせないで活用できるような職場にできないものだろうか、と思います。もちろん優秀ではないけれども、生活していかなければならない自分も含めて。

以前、会社の数字について理解を深めるために、経営と財務管理についての本を読んだことがあるのですが(何という本か失念)、どんぶり経営はやめなさい、ということが書かれていて、人材採用は大事だが現状の売上げでそんなに採用が必要なのかどうか、まず人材を採らないで、いま所属しているスタッフでなんとかすることを考えなさい、ということが書かれていました。確かにその通りだと思います。売上があってこそ人材計画もできるわけで、売上が上がらないのに過剰に採用すれば、固定費によって利益が圧迫される。いま予算計画というのがはっきりみえないので、その辺りが非常にグレイです。

それに、もちろん新しいひとによって新風が吹き込まれることもあるけれど、逆にドクを注入されておかしくなることもある。新しいひとに過剰な期待をすることもどうかと思います。ぼくも転職を何度か繰り返しましたが、隣の芝生は青くみえるものです。新しいひとも、何かすごいことをやってくれるんじゃないだろうか、という期待があるのですが、そんなスーパーマンはあんまりいない。だいたい転職を考える人間は、そもそも不満が多かったりもするので(もちろん向上心から新しい境地をめざすひともいますが)、やっぱり同じように転職先の職場でも不満を持つようになります。現在の職場で実現できないことは他の職場に移っても難しいものであり、現在の人材を活かしきれていない会社は新しい人材を投入してもくさらせてしまう可能性があります。過去や未来をどうこう言う前に、このどうしようもない現在をなんとかしなければならない。

根拠なく永遠に人材募集を繰り返すこと(それも採ってどうするんだろう、という疑問が生まれるようなひとが募集されたりする)、事業としてどこを目指そうとしているのか、そのためにいま会社に残っている人材をどのように教育していくか(それも不透明)ということがわからないと、なぜ新しい人材にばかりこだわるのか、まったく意味がわかりません。

そんなぼくも、心にぽっかりと空いた穴を塞ぎつつ、頑張りたい。目にみえる穴であれば手で塞ぐこともできるけれど、みえない穴を塞ぐのは大変です。

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2006年1月26日

ALWAYS 三丁目の夕日

▽cinema06-008:夕日はいまも同じ。

B000EPE77SALWAYS 三丁目の夕日 通常版 [DVD]
山崎貴
バップ 2006-06-09

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「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画です。数えてみたら現在、細かい仕事が7本ぐらい進行中なのですが、たぶん来週頭にかけて忙しくなりそうなので、えいやーという気分で今日は午後半休にして、劇場でみました。今週で上映はおしまいだったので、行ってみようかという気にもなった。それから仕事関連でCGやVFXを担当している白組さんのお話も聞いていたので、ぜひこれは観ておいた方がよい、と。

ちなみにCGに関していうと(ぼくのDTMのVocaloidじゃないのですが)、やはりCGで作成したところは、どうしてもおや?という違和感があります。ものすごくうまくできています。事前にきいていなかったらCGとは思わなかったぐらいにすごい。でも、実写をどれだけシミュレーションしても、やっぱり現状の技術では、完全にリアルを再現することは難しいんでしょうね。しかしながら、そんなことはどうでもいい気がしました。まずは、何を描くか、ということだと思いました。現実ではない仮想の昭和33年と考えると、すんなりと入ってくる。だからちょっとぐらいおかしくてもいいんです。そういう意味でCGの表現力は、現実ではない現実を創り出すということから、ものすごいことになってきていると感じました。

昭和33年、ひとびとにはインターネットもパソコンもなかったけれども、豊かに楽しく暮らしていた。そして、熱かったんだと思います。小説家をめざしながら駄菓子屋を開く一方で少年向けの冒険小説の原稿なんかで食っている茶川(吉岡秀隆さん)。このキャラクターが秀逸でした。あと、怒りっぽい鈴木オートの主人を演じる堤真一さんもいい。茶川は、ヒロミ(小雪さん)から頼まれて、まったくの他人を自分の家に預かる。貧乏だけれども、実の父親よりもあったかい気持ちでその子供に接する。その子は、実は茶川の書く冒険小説の熱烈なファンだったりするわけです。自分でも、ノートに小説を書き溜めている。いいですねえ。そして、やっぱり小説家といえば万年筆ですよね。ぼくもほしかったなあ。

ものに溢れている21世紀ですが、ほんとうに大切なものは何か、ということを考えました。けれども、この映画のなかで描かれているような、家と家の隔たりがなく他人がプライベートに介入してくる昭和33年の風景は、ある意味、いまのインターネットの世界にも似ているんじゃないだろうか。結局ですね、あったかい人間の心のあり方というのは、リアルだろうとインターネットだろうと、変わらないような気がしました。インターネットではあるけれど、ブログなどのコミュニケーションのあり方は、十分に昭和33年的なアットホーム感があるのではないでしょうか。夕暮れに寄り添うようなあったかい気持ちは、いまも変わらない。ひょっとしたらあと50年後には、ブログについて、三丁目の夕日のようにノスタルジックに語られるようになるかもしれない。

とはいえ、ぼくはやはり劇場に行って映画を観るべきではないなあ、と痛感しました。最初から最後まで、涙流しっぱなしのおかしなひとになってしまうので。泣けました。いや、泣きました。そして、大切なものを取り戻したような気がしました。まだまだたくさん書きたいことはあるのですが、書いているといろんな過去の記憶をずるずる引き出してしまいそうです。そんな映画です。1月26日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(9/100冊+8/100本)

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2006年1月25日

リリカルについて。

そういえば昨日は岩井俊二監督の誕生日でした。岩井監督、お誕生日おめでとうございます。お祝いです(あ、つまらないシャレだ)。うちの息子(長男)は内気なのですが、どうやら映画が好きそうなので、岩井監督みたいになってくれるといいなあと思っています。映像方面に進ませたい。思っているだけでなく、実際にデジタルカメラを使ってクレイアニメのようなものを撮影させて遊ばせたりして、何気なく父としてそっち方面にプロデュースしちゃったりしているのですが、まだ9歳なので、今後どうなるかは未知数です。

岩井俊二監督といえば、「花とアリス」という映画に挿入されている弦を使った音楽がものすごく気に入っていて、これいいなあ、誰が作ったのかなあ、とクレジットをみたところ、岩井監督そのひとでのけぞったことがありました。確かに映像と音楽は近いところにあるような気がするのですが、神様はずるい。映像はもちろん、音楽まで創ってしまう岩井監督の才能にまいりました。「花とアリス」は、嘘という仮想を現実に変えてしまおうとうする花(鈴木杏さん)の涙ぐましいまでの努力と、その嘘が破綻したときのぼろぼろな感じがいい。学園祭で落語を演じるときのシーンには、なかなかせつないものがあります。友人である花の彼氏に惹かれていってしまうアリス(蒼井優さん)の親子関係の描き方もよかった。

実は映画や音楽だけでなくて、岩井俊二監督は小説も書いている。ぼくが岩井監督でいちばん好きな作品は「リリィ・シュシュのすべて」という映画ですが、残虐さを美しい映像のなかに閉じ込めたような作品で、痛々しいほどにリリカルです。小説のほうでは、インターネットの掲示板の書き込みをそのまま再現したようなスタイルになっている。インターネットの毒の部分もかなりリアルに再現されているので、読んでいて気分も悪くなるのですが、ある意味、凄い才能だなあと思いました。映画に関しては、ずーっと中古DVDを探していたのですが、先日ついに発見して思わず即決で購入してしまいました(実は購入してからはタカラモノのように置いてあって、まだ観ていないのですが)。

リリカルな映画を撮る監督としては、大林宣彦監督もいますね。学生時代には、ほとんど彼の作品しか観ていなかった状態だったのですが、ふつうは尾道三部作(「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」)、新尾道三部作(「ふたり」「あした」「あの、夏の日」。あ、最後の映画は観ていません。観なければ)が代表作だと思うのですが、個人的にぼくが傾倒したのは「日本殉情伝おかしなふたり/ものくるほしきひとびとの群」という映画でした。これはかつてビデオにダビングして、ほんとうに何度も観ました。しかしながら、きっと誰も代表作として挙げないと思います。どうやらお蔵入りするはずの映画だったらしく、映画としては破綻している。めちゃめちゃです。断片化された映像の集合体という印象でしょうか。よくいえばぼくは、映像詩、だと思うのですが、あんまりおすすめしません。ただ、ぼくのなかでは永遠の名作です。心のよりどころ、という感じ。

「日本殉情伝おかしなふたり/ものくるほしきひとびとの群」は、モーニングに連載されていたマンガが原作なのですが、やくざなふたり(三浦友和さん、永島敏行さん)とひとりの女性(南果歩さん)をめぐる三角関係の物語です。漱石的な世界ともいえる。そこに、旅人である竹内力さんも絡んでくる。この登場人物の描き方がすごくいいんだな。竹内力さんの演じる山倉は自称天才で、くだらないアイディアばかりを思いついては儲けようと思っているのですが、肺を病んでいる。冒頭では、それが少年時代に汽車をみているシーンに重ねられる。ぜいぜい咳き込む音と機関車の音がだぶるわけです。そんな細かなイメージの重ね方がいくつも出てくる(ゆびきりげんまんと約束をしたけれど、やくざになったので小指がない。だから約束が守れない、とか)。冒頭部分で音楽が流れただけで、ぼくは涙がどーっという感じでした。音楽はKANさんだったかと思うのですが、シンセのストリングスによるBGMもすごくいい。この映画のなかの南果歩さんも、ものすごく素敵です。

リリカルな映画には、音楽の役割も欠かせないものかもしれません。先日、ビデオレンタルショップに行ったところ、「アナライフ」が貸し出されていました。ネットで合田健二監督を知り、渋谷のちいさな映画館に出かけて観てきた映画です。現代的な心の病に冒されている三人がいろいろあって肛門科を訪れる、そこで意外なことが起こる、というストーリー。なかなかしんどい部分もあり賛否両論かもしれないのですが、ぼくはよかったと思います。この映画の音楽はレイ・ハラカミさんで、この映画からレイ・ハラカミさんを聴くようになりました。そんな出会いもあります。

強くなければやっていけない世のなかですが、ときにはリリカルになるのもいいものです。

+++++

■アナライフ。ぼくは完成されているものよりも、ちょっと破綻している美しさに惹かれるのかもしれない。数々の断片的な映像と居心地の悪いエピソードは、すーっと風が吹き抜けるような最後のシーンのためにあったのではないかと思いました。

http://www.analife.com/top.html

■花とアリス。そもそも落語は言葉によって、そこにはないものをあたかも存在するかのようにみせる演芸ですよね。嘘も、しっかりとした存在感が生まれたなら、現実です。

B0001AE1X6花とアリス 特別版
岩井俊二
アミューズソフトエンタテインメント 2004-10-08

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■リリィ・シュシュのすべて。断片的に突きつけられるインターネットの掲示板に書き込まれた言葉の切れ味が鋭かった。

B000066FWVリリイ・シュシュのすべて 通常版
岩井俊二
ビクターエンタテインメント 2002-06-28

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■日本殉情伝おかしなふたり/ものくるほしきひとびとの群。実はDVD持っています。ビデオと違って、何度観ても擦り切れないので購入。

B00005MIH1日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群 デラックス版
三浦友和, 竹内力, 永島敏行, 南果歩, 大林宣彦
パイオニアLDC 2001-08-24

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2006年1月24日

夢にも設計図がある。

いい天気です。雲の流れがはやいなあと空を眺めていたら、ヘリコプターがばらばらばらと飛んでいきました。低空で飛んでいるせいか、意外にでかい。ビルのあいだを飛ぶヘリコプターが印象的でした。

さて、今日は東京国際フォーラムで、TOYフォーラムというイベントに行ってきました。セガトイズ、エポック社、コナミ、タカラなどの玩具メーカーの流通向け展示会なのですが、ちょっと企画のお手伝いをしたこともあり、時間にも余裕ができたことから、ざっと視察してきました。一般向けではなくて流通向けなので、何か玩具をもらえるというわけではありません(ちょっと残念)。しかしながら、商品コンセプトや、プロモーション展開などのボードが掲示されていて、店頭でどんな風にアピールしたらいいかなども書かれていたりするので、なかなか興味深いものがありました。

IT系の展示会にもよく行くのですが、今年の7月に発売、参考出品、などというものをみることができるのが嬉しい。たぶんぼくは新しもの好きなんだと思います。しかしながら、新しいものをすぐに購入するかというとそうでもないので、マーケティング用語的にはイノベーター(革新的採用者)ではないかもしれない。アーリーアダプター(初期採用者)あるいはアーリーマジョリティ(初期多数採用者)という感じでしょうか。

子供たちがいるので、恐竜キングだとか、デュエル・モンスターズなどのトレーディングカードは馴染みの深いものでしたが、対戦できる恐竜キングのベーゴマだとか、既存のキャラクターも新しい展開を考えている。もしかしたら、今後、爆発的に流行るかもしれないし、そうでもないかもしれない。うちは男の子ばかりなのですが、ラブ&ベリーという女の子版のムシキング(もしくは恐竜キング)みたいなものも流行しているようで、ミニコスプレというか、衣装みたいなものも展示されていて、これを着てどうやら写真などを撮るらしい。女の子だったら好きそうだなあ、と思いました。うちもふたりの息子のうち、ひとりは女の子だとよかったのですが。

びっくりしたのが、子供向け携帯音楽プレイヤーなどもあったこと。確かにiPodは大人気なのですが、子供は使うのだろうか。たぶん中学生以上になったら、本物のiPodを欲しがるような気がします。ということは小学校中級以上ということになるのですが、たまごっちのようなものは欲しがったとしても、音楽を聴きたがるかなあ、とちょっと疑問でした。しかしながら、そんなぼくの考えの方が時代から遅れていて、いまの子は、がんがん音楽を聴きまくるのかもしれません。

リラックマの防犯グッズみたいなものもあって、最近のぶっそうな事情を考えると必需品といえるかもしれません。とはいえ、癒し系なのか危険なのか、キケンなのか癒しなのか、なんだかびみょうな感じです。ゲームもできる液晶の画面に、ぷいっと横を向いたリラックマがすねたように表示されていました。

昔からあるチョロQなども進化しているようで、スピードの速いもの、遅いもの、途中から加速するものなど新しいエンジンが搭載されるようです。ついでに、ぼくがいいなあと思ったのはイヌ(あるいはネコ)型のチョロQで、耳がぴこぴこ動いたりする。まるっこくてかわいいので、2歳の息子に買って帰りたいと思いました。ローティーンの女の子がターゲットのようですが、別の層に受けるような気もします。

とはいえ、子供たちの玩具というよりも、大人向けのものも多いようでした。プラネタリウムとか、自動演奏するミニチュアのピアノとか。いま玩具の最大の購買層は、子供というよりも子供のいる大人なのかもしれません。小遣いにも余裕ができて、幼かった頃に購入できなかったものを買う。子供に過去の自分のイメージを重ねて、「買ってあげるよ」と言いつつ、満足しているのは大人たちということもあるかもしれません。

しかしながら、これから子供たちに流行るものを設計しているのも大人たちです。子供の頃には、突如として現れたかのようにみえたヒーローも、マーケティングや商品企画によって生み出されたものだった、ということにあらためて気づかされます。ほわほわした夢の世界にも、きちんと設計図があったわけです。なんだかサンタクロースが誰か、ということをわかってしまったときの気持ちに近いものも感じますが、それでも玩具を前にしたわくわく感は、大人であっても子供であっても、変わらないものではないかと思います。大人向けの玩具というのも、いいものです。大人だからこそ楽しめる世界もある。大人の玩具、と言ってしまうとジョイトイっぽくて変ですけどね。

+++++

補足ですが、販促会議の2006年2月号、シリーズ業界別販売促進として「玩具のプロモーション戦略」が掲載されていました。業界としては厳しいようですが、少子化によって、子供たちにかけるお金は増えている。確かに、うちもそんな傾向にあります。玩具が多すぎ。それこそテレビや店頭など、メディアミックスが重要となる市場ですが、面白かったのは「女の子は、男の子と違って、欲しくても我慢する傾向がありますから、いかに商品に手を出させるかが難しい。」というバンダイ山崎氏のコメントです。そうか、女の子は我慢するんだ。一概に玩具といっていますが、確かに男の子向けと女の子向けは、まったく違うもののような気もします。そんな気持ちをつかむのも大事なのかもしれません(1月26日追記)。

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2006年1月23日

「クオリア降臨」茂木健一郎

▼book06-009:奔放な思考は詩かもしれない。

4163677305クオリア降臨
文藝春秋 2005-11-25

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久し振りに早く帰ることができたので喫茶店に立ち寄り、コーヒーのカップを前にして1時間ばかりのあいだに最後までがーっと読み終えました。恥ずかしいことですが「言葉の宇宙と私の人生」を読んでいる途中で涙が出てきた。泣きそうになった。小説ならともかく、評論でこんなに感銘したのは、はじめてです。

ちなみにぼくが感銘した考え方とは、人生は猥雑であるからこそ素晴らしい、ほんとうに美しいものは生活という雑多な現場と形而上的な結晶化した世界とのバランスから生み出される、ということです。「どうしてこんなものが出来たかと思うほど完璧で結晶的な世界をつくり出す人たちは、生活者としては常識的で猥雑であることが通例だ。」ということ。仮想という世界で小説を書いたり音楽を創ったり絵を描いたりよい企画を生み出したりするためには、通俗的でリアルな生活者としても十分に生きなければならない。知人と酒を飲んだり、馬鹿話をすること。そうした現実の世界も引き受けなければ、作品も出来ないし、一方で現実の世界で暮らしていくこともできなくなる。「柔らかな有限の生と、結晶的形而上の世界に生き続けることは、やっかいなことである。しかし、そのやっかいさを引き受けることでしか、言葉の宇宙の私たちにとってのリアリティは保てない。」うーん。まいった。もしかすると、もう少し別の機会に読んだら、なんじゃこりゃ?という部分かもしれません。2006年のいま、しんどい仕事が終わって(雪が解けて凍りつつある寒い冬の東京、駅に隣接した喫茶店で)読んだぼくの特別な状況のせいで、こんなにも心に刺さったのかもしれません。

なんとなくブライアン・ウィルソン(ビーチボーイズのベーシスト)を思い出してしまったのですが、彼があんなにも美しいメロディを作ることができたのは、ドラッグや自己嫌悪など、ほんとうに最低な現実に負けそうになりながらも十分に生きたからなんだろう、と思いました。「脳と仮想」「脳と創造性」に比べると、この本は詩的であり、挑発的であり、感情の振幅が大きい。ダイレクトに茂木さんの経験が書かれていて、生々しいともいえる。そんなわけで、良くも悪くも揺さぶられる本といえます。とりあえず茂木さん集中月間はここまでにします。そして、クールダウンしたところで再度、読み直そうと思っています。1月23日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(9/100冊+7/100本)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

生成する思考。

一度のめり込むと、どこまでものめり込んでしまうというか、惚れ込むと一途というか、ぼくにはそんな性格があるようです。熱しやすく冷めやすい、ともいえます。映画や音楽や小説についても、その傾向があります。ひとりの監督や俳優が気に入ると、その監督や俳優つながりで次々と観てしまう。たとえば、エドワード・ノートンが渋い、と思ったときには彼の映画ばかりビデオレンタル屋で借りてきてしまうし、今月はジョニー・デップ月間だということもありました。音楽ではなぜかスティングを聴きたくなってスティングのCDを最初から揃え始めたり、かと思うとSTEREOLABにはまった時期もありました。小説では、重松清ばっかり読み進んで、あまりに読みすぎて食傷気味になったり。

今年からは、あらためて書くこともないのですが、茂木健一郎さんにはまっています。知人から、NHK総合でキャスターもやっているよ、という情報を聞いていたのですが、本日、書店で「The21」という雑誌を立ち読みしていたところ、茂木さんのインタビューが載っていて、NHKの番組のことも出ていました。「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組らしい。これは見なくては。第1回を見過ごしてしまったのですが、起承転結という構成をつくるのではなく、あくまでも現場の雰囲気(クオリア)を大切にして番組を作っていくとのこと。面白そうです。

昨日ブログを書いたときには、「クオリア降臨」の「「スカ」の現代を通り過ぎて」のP.142 あたりを読み進めていたのですが、現在はP,201の「愛することで、弱さが顕れるとしても」を読書中です。ぼくの好きな作家(とはいえまだ作品全部を読んだわけではないのですが)坂口安吾も登場して、ますます面白くなってきました。坂口安吾は、はちゃめちゃで実験的な小説や退廃的な物語もあるけれど「ふるさとに寄する讃歌」「私は海をだきしめていたい」のように、きらきらした詩とも散文とも思えない文章も書いている。このハレーションを起こしたような文章を読んで、ぼくはくらくらしてしまったのですが、彼の評論を引用する茂木さんの文章も「愛することで、弱さが顕れるとしても」のように、タイトルからものすごく詩的です。美しい。が、ちょっと恥ずかしかったりもして

茂木さんは文学を引用しながら、文体も思考も、その引用にあわせた形に変容させているような気がします。それから読んでいて気づいたのですが、この「クオリア降臨」では、かなり挑発的な文章も書いている。「現代の文化はスカばっかりだ」をはじめとして、かなり過激な表現も多い。つまり「見られること」を意識して、挑発的な言葉をあえて使っているような気がします。一方で、ぼくは逆に読み進めてしまったのだけど、「脳と仮想」「脳と創造性」には、そんな過激な言葉は影をひそめて、どちらかと言えばやわらかくなっていて、洗練された言葉にかわっている。きっと書きつづけていくうちに、挑発から洗練へ、変わっていったのではないでしょうか。

実は、ぼくもですね、このブログで3月まではものすごく挑発的な文章を書いてやろうと思っていました。おまえはいったい何様だ、という文章です。文章で喧嘩をうってみよう、と、ちょっとかっこつけて考えていました。しかしながら弱いものいじめをしても仕方ないので、権力的なもの、強いものに対して喧嘩をうるのがルールです。そこでブログの世界ではアルファブロガー、仕事の世界ではあらゆる企業の管理者層などを仮想敵として書こうと思っていたのですが、あまりにも感情論になってしまい、お叱りを受けたのでやめました。ぜんぜんかっこつきません。意気地、ないんです。しかしながら、批判ではなく主張として、ぼくの考えていたことは再度まとめたいと思っています。

リアルなひとだけでなく既に完成した作品のようなものを含めて、ひととの関わりのなかで、人間の考え方というのは変わっていくものです。「ライブ!」というコメントを、先日せしみさんからいただきましたが、まさにぼくはインターネットの世界で(も)生きているわけで、生成する思考のベクトルみたいなものをここに残すことができれば、と考えています。

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2006年1月22日

バッド・エデュケーション

▽cinema06-007:耽美的で重層的で。

B000BH4C42バッド・エデュケーション [DVD]
ペドロ・アルモドバル
アミューズソフトエンタテインメント 2005-11-25

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ホモの映画です。と言い切ってしまうとそれまでであり、念のため、そういう趣味はないのですが、何かを思いっきり求めることはせつないものだなあ、ということ考えました。映画監督の主人公に、その幼馴染みである売れない俳優が脚本を持ち込むことからはじまる物語なのですが、実際の体験と、映画の映像と、妄想的な世界などが錯綜して、非常に耽美的です。実はその幼馴染とは...というさらに重層的な仕掛けもある。ところで回想のシーンで修道院で少年が歌うのですが、「コーラス」という映画を観たことも思い出しつつ、ボーイソプラノって美しいな、と思いました。そこで趣味のDTMに飛躍してしまって、ボーイソプラノを再現するシンセサイザーってないのかなあ、サンプリングすればできるかも?とちょっと考えてしまいました。そういえば、冒頭の赤と黒のイントロも美しかったです。1月22日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(8/100冊+7/100本)

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雪が溶けるように。

東京では8年ぶりの大雪だったようです。そういえば8年前には、会社から帰宅するとき、最寄の駅の電車が止まってしまったので、いつもとは違う路線の駅から歩いて家に帰ろうとしたのですが途中で滑って転んで道を見失ってしまい(それほどの大雪でした)、あやうく遭難するかと思ったことがありました。きっと東北や北海道に住んでいるひとにとっては雪なんて当たり前のようなものかもしれませんが、こちらでは珍しいものです。そして大雪だとしても、数日後には消えてしまう。そのあっという間の感じが、サクラが咲くときのような束の間の感じがして、またよいのですが。

ちょうどそんな雪のように、昨年の末あたりから続いていた忙しさがひとつ溶けるように消えてしまって、やっと心も軽くなってきました。子供たちときちんと話をしたり遊んだりすることができて、趣味のDTMにも打ち込むことができる。さらに映画や本を楽しむ余裕があるということは、しあわせなことなんだな、とあらためて思っています。当然なのですが、この当たり前の生活というのが大事なことかもしれません。ただ、忙しさに追い詰められたぎりぎりの緊張した状態があったから、このまったりとした生活のありがたさがわかるのかもしれない。

ときに忙しさにかまけて忘れそうになるのですが、異なった領域を横断して、いろいろと考えを深めていくことがこのブログの目的でした。それはちょうど雪と雪解け、忙しさと余裕のある時間のように、違ったシーンを通じて感じたことを獲得していくようなものかもしれません。きれいなものと汚いもの、善と悪のような両面をみることができる視野の獲得ともいえます。あるいは、ひとつの考え方に対する変奏を追求すること、どれだけ思考を変奏できるか、ということなのかもしれません。

忘れそうなので書いておくと、リセットをかけて書き始めたときに、最初に谷川俊太郎さんの「コカコーラ・レッスン」を引用しました。いま、茂木健一郎さんの「クオリア降臨」を読んでいるのですが、その冒頭「世界を引き受けるために」の章で、茂木さんが沖縄の渡嘉敷島の前で、目前の海をぼんやりと眺めながら世界全体の生命について思いを馳せる部分があります。この部分の文章を読んでいて、ぼくは個人的に谷川さんの詩を連想しました。それはまったくの個人的な「こじつけ」なのかもしれませんが、あることについて考えつづけていると、ときにそんな偶然の出会いがあります。それは息子の発した何気ない言葉と哲学の一部分かもしれないし、映画のなかの台詞と企画書のなかのコンセプトかもしれない。あるいは技術的なブログに書かれていたことと、小説の一節かもしれません。そんな偶然の結びつきをぼくは求めているし、楽しみたいと思っている。

「愉快なこと、美しいことばかりではない。世界の歴史を振り返ってみれば、そこに現れるのは数限りない悲惨であり、不運であり、断腸である。」という茂木さんの一文も、すうっと通り過ぎていたのですが、いまあらためて読み直してみると、ぼくのなかに楔を打ち込むような気がします。というのは「愉快なこと、美しいこと」ばかりではない現実の生活に、ここ数日間どっぷりと浸かっていたからかもしれません。いまちょうど「「スカ」の現代を通り過ぎて」という中間辺りの章を読んでいるのですが、ここに出てくるインターネット批判もわかる、というよりも現実にぼくの抱えている問題として共鳴するような感じです。

というわけで知人からは、ぼくのブログは「行き詰っている」という指摘もいただいているのですが、この行き詰まりを経て、雪が溶けるように(といっても雪が降る前とは同じ風景なのかもしれませんが)、新しい風景の世界に一歩踏み出したいものです。

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2006年1月21日

成果をあげるには。

ユキですね。なんだか徹夜の疲れがいまごろになって、どーんと身体に重くのしかかってきました。犬はよろこび庭かけめぐる、という歌詞があったかと思うのですが、2歳の息子は家のなかを走り回っています。ユキなので。

さて、どうしても成果があがらない営業がいるとします。そんな営業はやめちまえ、と言いたくなるのですが、そんな営業にも生活はある。だから頑張ってほしいのですが、成果のあがらない営業には、あがらない法則があるようです。なんとなくわかってきました。そこで3つの法則を書いてみることにします。ぼくもそんな法則に当てはまっていないかな、と省みつつ。

ひとつ。「いい加減なこと」。

子供の宿題をみているときに、ぼくは息子を叱ることがあります。彼は、はやく終わらせてゲームをやろうと思うがために、漢字書き取りの書き順がめちゃめちゃだったり、棒が一本抜けてたり、名前を書いていなかったりする。そこで、「そんないい加減なことやってちゃだめだ。ひとつひとつを丁寧にやりなさい。丁寧にやったあとで早く仕上げなさい」と叱る。

同様に、ただ仕事を終わらせればいいやと思っている営業がいる。いくら概算だといっても見積りを作るときには、ちいさな根拠やロジックにあわせてひとつひとつの数字を積み上げて作るべきだと思うんですよね。とても地味な作業だと思います。こつこつ積み上げていく仕事です。ところが成果のあがらない営業は、感覚的に、こんなもんだろう、と適当に仕上げる。数万円の見積りも億単位の見積りも、同様です。きちんと数字の根拠を組み立てられない営業は、ぼくは信用できない。億単位の見積りが10行ぐらいで終わるのって、いい加減すぎますね。概算すぎです。もちろん時間がないから切り捨てなければならないこともたくさんあるのですが、ちいさな積み上げが大事だと思います。人生って、ちいさな積み上げで成り立っているものです。

ふたつ。「自分にはやさしいが、他人には厳しいこと」。

あるいは「自分では何もできないが、他人のやることには我慢ができないこと」でしょうか。どういうわけか自分で何でもできると思っている。そんなわけで仕事を抱え込むのだけど、そもそも「いい加減」だから、集中力も続かない。たいしたものができない。勉強もしない(というかできない)。実はそれをコンプレックスにも感じているので、他人がうまくやったものには頭にくる(うまくできなくても頭にくる。結局のところ不満ばかり)。いつまでも自分の担当した仕事は完成しないくせに、他人の部分にはケチをつけることになります。

昨日も書きましたが、だから創造的な対話ができないんですよね。他の誰かが、ちょっと面白いアイディアを出すと、いいねーこういうのはどう?と便乗して新しいアイディアを出すのではなくて、むっかーちっきしょーそいつ潰してやる!とアンチテーゼを引っ張り出すことにやっきになる。でも、たいしたアイディアは出てこないわけです。そこで、他のスタッフがかわいそうに思って、その営業が出した案をリメイクしてあげたとしても、他人がうまくやったということだけでそれが気に入らない。要するに根っこがネガティブなわけです。他人のやることは、いちいち気に入らない。どうしてそんなに不満なんでしょうね。というか、ぼくにはその理由がわかります。コンプレックスのかたまりなんです。

みっつ。「政治的なことばかりに注力すること」。

政治的なことは大事です。しかし、そこに注力する前に、まず基本的に「よい提案をすること」「きちんとした見積りを作ること」「全体をしっかり管理すること」が重要ではないでしょうか。日本の企業の営業さんは、政治的なことが大好きです。一見、ひとあたりがよくて気を配っているようにもみえますが、実は「自分の成果のため」やっていることがみえみえなので、なんだかみえすいた嘘を聞いているようで、気持ちよく仕事ができません。上司に気を配ったり、お客様のところでごまをすったり、そういうことには長けている。外資系的な考え方かもしれませんが、ぼくは「まずよい仕事をすること」が第一だと思いますけどね。政治的なあれこれに手をつけるのは、それができてからです。

一方で、ほんとうに心からスタッフを労ってくれる営業もいます。自分の仕事は終わっているのに、まだ企画の詰めに奮闘しているぼくのために残っていてくれて、「今日はクルマで来ているから、途中まで送っていきますよ」と声をかけてくれる。どこが違うか、というとなかなか難しいのですが、人間性でしょうか。気配りはとても大事なのですが、その根っこがどこにあるか、ということのようです。

ところで、この3つのポイントをすべて裏がしてしまえば、よい営業の条件になります。「きちんと論理と根拠のもとに予算を積み上げて、お客様の信頼を築くこと」「自分には厳しく、他人にはやさしいこと」「まず何が重要であるかを考えて、余計な周辺に注力するのではなく与えられたミッションをこなすことに集中すること」。

どんなに頭がよくても、オレサマ的な自画自賛ばかりで能力向上を怠ったり、ひとのせいにして自分を甘やかしたり、ネガティブなドクにどっぷりと浸かっていたなら、数年後にはもう使いものにならなくなる。不満にまみれた産業廃棄物になるような気がします。ぼくも気をつけなければ。

数字を扱っているせいでしょうか、営業には奢り高ぶったひとが多いようです。クリエイティブな部門に対して、おまえらを食わせているのはオレだ、どうだまいったか、という感じがある。だから勉強もしないし、誰かに何か言うのはいいとしても、言われるのは頭にくるらしい。おまえに指図されたくないんだよ、指図するのはオレだ、と。自慢話は大好きだけど、ひとの話は聞こうとしない。でも、ほんとうに営業ってそんなに偉いものでしょうか?そんなにすごいのかな?

謙虚にいきたいものです。成長には謙虚が大事です。

ぼくは前職で代理店さんの下で働いていたことがあるのですが、営業はとにかくそんな高飛車なひとばかりでした。虫けらのようにぼくらをみていた(たぶんお客さんの前では、ものすごく腰が低いんだろう)。しかし、マーケティングの部署は、まったく違いました。ものすごく紳士的で、言葉遣いも丁寧で、しかも仕事がめちゃめちゃできる。徹夜してもまったく平気な顔で、じゃあこれからプレゼンなので行ってきます、なんてことをさらりと言う。前向きで明るいんです。さらにものすごく誠実でほがらかで、いま思うといまひとつな仕事をしていたぼくらのような虫けらに対しても、敬語を使って話かけてくれました。そのときからぼくには代理店の営業に対する反感と、マーケティングに対する憧れが生まれました。紺のスーツを着て、あのかっこいいマーケッターにいつかぼくもなるのだ。そう思いました。

ほんとうに仕事ができるひとは、仕事ができることを自分で言ったりしません。仕事ができるひとは謙虚であり、寡黙であるような気がします。

人間はいくつになっても向上できるものだし、成長できる。もちろん環境は大事だけれど、会社が何もやってくれないからだめだ、という問題でもない。いろんな不祥事の渦中でもありますが、そもそも会社というものは、ぼくらを守ってくれるものとはいえないものになってきたのかもしれません。だとすると、会社に過度の期待をしても仕方がない。ぼくらはぼくら自身の生き方をみつけなければならない。自分で自分を守るべきです。そして自分の人生がしあわせで豊かなものであれば、それがいい。

おこがましいかもしれませんが、かつてぼくが代理店のマーケッターに憧れたように、ぼくは誰かの憧れになっているだろうか、目標となるような仕事をしているだろうか、そんなことを厳しくチェックすることにしました。子供は親の背中をみて育ちます。少なくとも、ふたりの息子たちにとって、パパの背中はかっこいいなあ、と思われるようになりたいものです。実際は、徹夜で疲れてよれよれなんですけどね。とほほ。

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2006年1月20日

共創感。

ひとは誰でも、自分の話をしたいものです。そして自分の話を聞いてもらいたいと思っている。もちろん、自己主張の少ないおとなしいひとだっていますが、それでも自分をわかってもらいたいという気持ちはある。まったく何も自分から話したくないというひとは、いないのではないでしょうか。無人島で生活しているのではなければ。いや、無人島で生活していても、いずれ島を訪れる誰かのために、文字で何かを記しておくかもしれません。そして自分のさびしさや、楽しかったことなどを残しておきたいと思う。

子供もそうです。うちの息子(長男)はとてもおとなしい性格で、参観日に学校に行くと、こいつ存在を消そうとしているな?忍者か?ニンニンと思うほどです。でも、彼もやっぱり自分の話を聞いてもらいたいと思っているし、話がしたい。学校では静かであっても家にいるときには、ぼくの部屋に何度もやってくるようなときには、どうした?というと堰を切ったように話しはじめることがある。もっと自分からどんどん話してくれるといいんですけどね。

昨日は大きなプレゼンがひとつあったのですが(企画書は100枚弱)、プレゼンというのはプレゼンテーターによって一方的に話をすることが多い。しかしながら、聞いているひとだって、話したい気持ちがむずむずしてくるものです。ぼくだって聞いている立場であれば、一方的に1時間も聞かされているのはつらい。ちょっと口を挟みたくもなる。プレゼンテーターとして一生懸命話していると、説明することでいっぱいいっぱいになって、聞き手の感情まで意識が回らないことが多いのですが、そんな聞き手の気持ちを配慮することも大事です。コミュニケーションというのは、聞き手があってのものなので。

プレゼンは一方的に説明をするもの、という固定観念を捨てると、対話も生まれてくる。そうして一方的な説明よりも、何らかのコメントをしたり、対話があるようなプレゼンは、いっしょに企画を創り上げたんだ、という協同意識が生まれる。共創感、みたいなものでしょうか(どこかのコンサルティング会社が使っているような言葉ですが)。アイディアはひとりで生み出せるものであっても、ビジネスとしての企画は、ひとりで創り上げるものではありません。たくさんのひとがアイディアを持ち寄って、それぞれの責任を果たしながら創り上げていくものです。

昨日のプレゼンでも、途中で「ちょっと余談ですが」といって、お客様にお話を投げかけてみました。戸惑われた感じもあったのですが、きちんと言葉を受け止めていただいて、お話をしてくれた方もいました。そして、そのお話を受けて、ぼくも思いついたことを話してみました。プレゼンテーターの一方的な説明を聞いていると、聞いている方は眠くなってしまうものです。食後であればなおさらです。話している方は気持ちがいいかもしれませんが、聞いている方は辛抱できないことだってある。一生懸命プレゼンしているぼくらとしては困ることですが、仕方がないことでもあります。そんなときに、ちょっと流れを変えるような気配りも必要になる。流れを変えるときだな、と、雰囲気を察知することも大切です。ついで付け加えると、あくまでも流れを変えることであり、話の腰を折ることではありません。

それから、社内はもちろん、外部の協力会社の方でも、ぽん、と投げた言葉に対して、ぽん、と投げ返してくれるひとたちがいる。ぽんぽんやり取りしているうちに、ものすごく創造的な対話ができるようになる。一方で、ぽん、と投げた言葉を、ちっきしょーどかーん、と受け取れないような言葉で投げ返されると、二度と投げたくなくなる。

創造的な対話というのは、気持ちのいいやりとりから生まれるものです。そして、そのためには、受け取る相手のことを考えることが大事なのかもしれません。彼女とデートするときだって、お互いに楽しい時間を過ごそうとする共創感があれば、すばらしい時間を過ごすことができます。仕事上でも、ライバル意識は必要だけど、あまりにとげとげしい競争感だけではうまくいかない。

難しいですけどね。

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2006年1月19日

ソラのイロ。

徹夜明けの6時15分。近所のコンビニに立ち寄ろうとしたら、東の空がビー玉のような薄い青色でした。太陽の昇るあたりはオレンジになりかけている。このソラの色をうまく言葉にできないのですが、きれいだなあと思いました。で、反対側を見上げてみたら、ぼんやりと滲んだような月が出ていた。コンタクトレンズをやめて眼鏡にしているせいかもしれませんが、ぼわーっとした月に思わずみとれてしまった。東の空と月を、携帯電話のカメラで撮影してみたのだけれど、なんとなくうまく撮れていない。明け方の静かな道路に、かしゃーっという携帯電話のカメラのシャッターの音が鳴り響いて、なんだかな、という感じだったのですが。

コーヒーの飲みすぎで、胃がむかむかしています。少し眠ったほうがいいのだけれど、現在6時55分。まだ眠くありません。コンビニで買った焼きそばとたこ焼きを食べて、ブラックハイボールドライジンジャーとかいうお酒を一缶飲んで、ぼーっとしている。仕方なく日記など書いている。子供たちはまだ眠っていて静かです。

今日の仕事がうまくいきますように。2時間ぐらい寝ておきますか。

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2006年1月18日

違うから気になる。

たぶん明日からあさってにかけて仕事は佳境となります。勝負です。頑張りどころかもしれません。しかし、頭をフル回転させて終電で帰ってくると、なんだか眠れなくなってしまうんですよね。お酒を飲んだりしてリラックスしようとしていたのですが、どうも頭がオーバーヒート気味なので、まあいいか、という感じで無理に眠らずに、眠くなるまで時間を潰しています。明日はゆっくり出勤して、たぶん徹夜コースになりそうです。

最近は個人メールはほとんど使わなくなっているのですが、メールを久し振りに読んだら、4人で運営している同窓会ブログのメンバーさんから写真をいただいていました。趣味ではじめたバレエの衣装づくりを本格的な仕事に展開している女性なのですが、もはや間違いなくプロの仕事です。写真はギャラリーにアップしておきました。同窓会ブログは放っておいてすみません。いずれ時間ができたときに、集中的に書き込みをすることにします(業務連絡でした。誰も見ていないかもしれないのですが)。

ちょっと驚いたのは、クリプトン・フューチャーメディアからのメールでVOCALOIDの男性版が2月あたりに発売されるとのこと。12月の終わりから最近まで、ネーミングを募集していたんですね。知らなかった。女性版はMEIKOだったのですが、男性版はKAITOというらしい。ちょっとかっこいい。しかしながら、デモソングもあるのですが、なぜ「からす」の童謡なんでしょうか。声質は演歌っぽい。

男の声であれば、 別にソフトウェアに歌わせなくても自分で歌ってしまうと思うんですよね(恥ずかしいから歌わないけど)。女性の声はどうやっても出せないから、MEIKOというソフトが面白かったのですが、KAITOを購入するかどうかは疑問です。

同様に、ぼくは自分が持っていないものを持っているひとに惹かれる傾向があるようです。どちらかというと共感や共有できる感覚よりも、差異であったり、まったく違った感覚を重視する。うちの奥さんもそんなひとでした。まったく趣味は合わないし、性格もぜんぜん違う。喧嘩した日には、殴り合いにもなったものです(もうやらないけど)。そんな接点のないふたりだったのですが、長く暮らしていると似てくるのが不思議です。

そもそも結婚とは、男性と女性という身体が構造的にまったく違うものたちの出会いであり、しかも育ってきた環境も背景もまったく違う。異質なものなわけです。けれども、この異質なものを許容できるかどうかが、あたらしい何かを生み出す上では重要じゃないか、とも考えたりします。ふつうは排除するものですが、異質なものを理解したり、許容したりしようとするときに世界が広がる。会社だってそうです。仲良しクラブ的にまとまるのではなくて、どうもよくわからない、不快だ、頭にくる、という人間といっしょに仕事をすると(まあ破綻することもあるのですが)なんとなく新しいものが生まれたり、新鮮な感じがする。ネガティブなタイプは、無理ですけどね。あわせようとしても不毛なだけだし、創造的な会話ができないので、疲れるばかりです。けれども人間である以上、どこかうまくやっていける接点というものがあるのでは?

ぼくの場合、まったく違う趣味を持っているひとや住んでいる場所がぜんぜん違うひとの言葉が刺激になります。最も違うものといえば異性なのですが、川上弘美さんや山田詠美さんをはじめとして、女性が書いたもの、女性にしか書けないものにも魅力を感じます。ブログや日記もそうかもしれない。もちろん茂木健一郎さんのように共感できる文章を読むのも好きだけれど、茂木さんのなかでも、これはちょっとわからないな、どういうことなんだろうと疑問を生じるような視点が気になる。共感できる部分はもちろんうれしいのだけど、それ以上何かを生み出すということはないんですよね。ああよくわかった、そうだよね、おしまい、という感じになる。わからないものこそが、これはどういうことだろうという好奇心や理解への欲求を生むものです。

父親と母親の遺伝を半分ずつもらって子供が新しい生命を得るように、創造的な活動は、同質なものたちよりも、異質なものたちの出会いから生まれるのかもしれません。物質の問題ではなくて意識の問題、なのかもしれませんが。

異業種交流会の意図も、そういうところにあるのでしょう。だから、気の合うひとよりも、ぜんぜん違った環境のひとと話をした方が、面白いんじゃないかと思います。気持ち的には、趣味の同じひとを探してしまいますけどね。

+++++

■Vocaloid KAITOのページ。いまひとつ購買意欲がわきませんが、デモはなんとなく面白い
http://www.crypton.co.jp/jp/vocaloid/vocaloid_name_compe.jsp

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2006年1月17日

モノフォニックな思考。

ほんとうは「忙しい忙しい」なんてことは書きたくないんだけれど、どうしても忙しいと「忙しい」ということを書いてしまいます。忙しいときにこそ、こころに余裕を持って忙しくないようなことを書いていたいのですが、なかなかそうはいかない。たとえば自動車を運転していて速度を上げていくと、次第に視野は狭まっていく。目の前のちいさな視界に飛び込んでくるものしか見えなくなって、それ以外のものは見過ごしてしまう。今日の空が青かったかどうか、歩道の脇のちいさな花がつぼみを開いたかどうかなんてことは、まったくどうでもいいことのように思えてしまうものです。それでいいのか?とちょっと考えてしまうのですが。

そんなことを考えていたら、モノフォニックな思考という言葉を思いつきました。単一な思考というイメージです。対する言葉としては、ポリフォニックな思考でしょうか。シンセサイザーにも、ひとつの音しか出ないモノフォニックなものと、和音を弾くことができるポリフォニックなものがあります。もちろん和音を弾ける方が、音としての広がりは生まれる。けれども、モノフォニックはつまらないかというとそんなことはなくて、単音だけど分厚い音を出すことができます。

いまぼくは茂木健一郎さんの本ばかりを読んでいる状態です。ほんとうはリリー・フランキーさんの「東京タワー」も読みたいのですが、こちらはじっくり読みたいので保留、ということにしています。茂木さんの本は「脳と創造性」、「脳と仮想」、そしていま「クオリア降臨」という順に読み進めてきました。漱石から綿谷りささん、ぼくも好きな保坂和志さん、ブログで取り上げた柴崎友香さんの「きょうのできごと」をはじめ海外の文学まで網羅し、さらに音楽や小津安二郎監督の映画まで言及する茂木さんの文章は、まさにポリフォニックという感じなのですが、海に飛び込むペンギンのエピソードなど何度も出てくるテーマもある。ワンパターンだ、ということもいえなくもないのですが、違う文脈(というか書籍)のなかで語られることで、読んでいるぼくのなかには分厚いイメージとして蓄積されていく。

新しいことが大事なのかどうか、という疑問もあります。同じことを何度も繰り返すこと、同じ穴を何度も穿つこと。おまえってそれしかないの?といわれても、ずーっと続けること。かっこよく言ってしまえば道を究める、ということもいえるかもしれないのですが、何かひとつのことに打ち込むことによって、同じ「あ」という言葉でも、音の深みも強さもまったく変わってくるのではないでしょうか。一方でちょっとだけかじった知識から発話した言葉は、薄っぺらなものです。仕事の上で、コンセプトやら、訴求やら、方向性やら、マーケティングや企画の用語を使うことも多いのですが、その言葉はほんとうに重みがあるのか?きちんと意味や背景の重みを背負って使ってんの?ということを考えました。できれば饒舌ではなくてもかまわないから、自分という人間の根っこにあるところから発した言葉を使いたい。世のなかってこんなもんだろう、だから気持ちのいい言葉を使っておくか、というのではなく、たどたどしくても(ときには不快であっても)寡黙でもいいから、自分の言葉で話したい。

太く、力強い言葉を使いたいものです。

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2006年1月16日

この質感がクオリアかも。

昨日、休日出勤&終電近くまで残業ということで、深夜の雨上がりの道をとぼとぼと歩いて帰ったとき、iPodでいつものようにブリティッシュロックを聞くのではなく、バッハの無伴奏チェロ曲を聴いてみたところ、ものすごい崇高な感じがしました。ひんやりとした雨上がりの空気が結晶化して、さらに透明度を増したような感じです。氷を飲み込んだときの喉の感じ、という気もします。最近、茂木健一郎さんの本にはまりまくっているのですが、このとき感じた気持ちの質感がクオリアなのかもしれない、と思いました。

同様の質感があるものを考えてみると、プリファブ・スプラウトの「アンドロメダ・ハイツ」というアルバムがあります。ぼくにとっては、そのアルバムも透明でひんやりとした同様の質感を感じられるものです。ちょっと変わった曲が多いので、全部を聴くのはしんどい気もするのですが、1曲目の「エレクトリック・ギターズ(とかいいながら、アコースティックギターのイントロからはじまる)」、2曲目の「ア・プリズナー・オブ・ザ・パスト」のあたりは秀逸です。

といっても、えーそうかな?と思うひともいるはずです。この印象を共有するのは結構難しいものです。言葉にすればするほど、なんか違うぞ、という違和感が強くなっていきます。ものすごく個人的な印象かもしれない。とはいえ、このうまく言い表せない個人的な印象こそが、クオリアであり、大事なものかもしれません。意味づけたり構造化したり解体したり、ということではなく、創造的なものを生み出す原動力になるのかもしれません。ということを「クオリア降臨」という本で読んだばかりなのですが。この本も最初の章からぼくはがつんとやられた感じがしました。このことを言いたかったのに言われちゃったか、という感じでした。今週は超多忙につきゆっくりと吟味できないのですが、また落ち着いたところで取り上げたいと思っています。

ところで、よしもとばななさんも「アンドロメダ・ハイツ」というアルバムが好きなようですね。「王国―その1 アンドロメダ・ハイツ―」という小説があります。冒頭には歌詞が掲載されていたようなきがします。まだ読んだことがないのですが、いつか読んでみたいと思っています。

+++++

■パディ・マクアルーンはブライアン・ウィルソン大好き、ということをどこかで聞いた覚えもありますが、まさにこのアルバムはブライアン・ウィルソン的です。とりとめがない部分も含めて。

B00005662Tアンドロメダ・ハイツ
パディー・マクアルーン
エピックレコードジャパン 1997-05-28

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■どんな内容なのでしょうか。よしもとばななさんだったらこう書くだろう、などということを想像してみるのですが、想像もつきません。きっと彼女がプリファブ・スプラウトのアルバムを聞いたときの印象を小説に展開したのではないか、と勝手に考えています。


410383403X王国―その1 アンドロメダ・ハイツ―
よしもと ばなな
新潮社 2002-08-22

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2006年1月14日

わかる、という誤解と幸せ。

金曜日にあるお客様を訪問したときに、「いつも私の言いたいことをすぐに理解してくれて、とても助かる」という言葉をお客様からいただきました。ぼくにとっては最高のほめ言葉なので、とてもうれしかった。企画書の出来がよいということはプランナーとしては当たり前であり、こちらの方が重要です。お客様のことを理解できなければ、よい企画書も書けないので*1。

けれども、その言葉を受けてぼくがお話したことは「最初はお話いただいたことの半分も理解できていなかったと思います。やっと最近わかるようになりました。ずいぶん長い打ち合わせの時間をいただき、いろんなことをお話いただいたからです。ありがとうございます」ということでした。これはぼくの正直な気持ちであり、誰かの言いたいことを瞬時に理解すること、なんてできないと思うんですよね。超能力者でなければ。

言葉にしたことの背景には、言葉にしなかった世界が広がっているものです。言葉というのは意識の氷山の一角であり、その下には言葉として選ばなかった意識が広がっている。氷山の下の部分まで推測することは難しい。しかしながら、その推測する姿勢が大事であり、誰かの話に耳を傾けること、わかろうと理解することが、仕事に対するEQを高める上では重要ではないかと思います。仕事だけでなく、家族や友人などの間でも大切になります。

さて。昨日読み終えた「脳と仮想」という本のなかにも、「他者という仮想」という章で、断絶した他者を理解することについての難しさが書かれていました。レビューにも書いたのですが、ぼくは茂木さんの本は「脳と創造性」の方から読んでしまい、いま発行時期を逆行するような形で彼の著作を集中して読書を進めている状況です。そして茂木さんの意図をできる限り理解するために、茂木さんが引用した作品については、これはと思ったものはできるだけ読んでみよう、映画を観てみようと思っています。結果として100%茂木さんの考えたことにシンクロすることは不可能ですが、彼のみていたものを追体験することで、思考が生まれた場を共有できるのではないか。そう考えています。

そんなわけで「脳と創造性」に引用されていた小津安二郎監督の「東京物語」という映画も鑑賞したのですが、この映画のなかで、静かなざわざわ感として印象に残ったのが、笠智衆さんが演じる年老いた父親が、知人と飲んだくれながら息子のことを批判するシーンでした。「脳と仮想」にもこの部分がかなり長く引用されていて、ぼくが漠然と感じていた「ざわざわ感」を的確な言葉で分析されていたので、思わずうーんと唸りました。

いつもニコニコしていて、人生を諦めた感じの年老いた父親(笠智衆さん)が、ぼそっと息子をなじる。刃(やいば)のような言葉をこぼすわけです。彼が冷たい内面をみせるのはこの一瞬だけなのですが、その一言が最後まで効いている。だから、人物像に深みが出る。茂木さんもこのシーンに着目していて、どんなに表面上はニコニコしていても、その人物の心のなかまではわからない、ということを書かれていました。

一方で、原節子さんが演じる「ええ人」も、戦争で行方不明になった夫について「忘れてしまいそうになるんです。思い出さない日さえある。だからわたしはずるいんです。いいひとなんかじゃありません」というようなことを言う。このシーンの伏線としては、夫の母親を自宅に泊めたときに、あなたはいいひとだ、と泣いてしまった母親に背を向けて、じっとうつろな目線をこちらに向けるシーンがありました。そのときに考えていたことを彼女は夫の父親に告白するわけです。

いいひとばかりではいられません。人間の内面は、表面に現れたものだけでは語りつくせない。上っ面で表現されたことだけが、そのひとのすべてとはいえないものです。しかし、だからこそ人間だと思う。茂木さんの言葉を借りていえば、脳は物質としては限られているけれど、そこに無限の仮想が広がっている。同様に、言葉は文字として限られているけれども、その向こう側には言えなかった、あるいは言わなかったさまざまな感情がある。その他者の隠された部分にまで目を向けられるかどうか。自分としてはときにはそんな内面を発露できるかどうか。そうした洞察(インサイト)の発見が、よりレベルの高い仕事をするために、心に触れるクリエイティブを行うために、力のある文章を書くために、人間という深みを理解するために、そして深みのある人間になるために、重要になるのではないでしょうか。ニコニコした人間であるためには、ニコニコできない人間の心についてもわかっておく必要がある。その両面をみることが、人間について理解するためには必要という気がしました。

誰かの痛みを忠実に理解することなんて不可能です。でも、不可能だからこそ理解したい。言葉はどんなに饒舌であっても言い足りないものであり、気持ちの全体を言い表すことなんてできません。でも、不可能だからこそ言葉を信じて、不可能を超えるような言葉を求めていたいし、コミュニケーションを諦めて口をつぐむのではなくて、発言していたい。発言から生じた波紋を受け止めて、さらに発言していたい。

実は昨日は学生時代の知人たちと(バンドを組んでいたこともある知人なのですが)、徹夜で語り合ってしまったのでした。ゼミの先輩の新しいマンションを訪問して、学生時代のように音楽や人生や(ちょっとお恥ずかしいお話なども)語り合いました。

素敵なマンションを手に入れてぼくらのために料理をちゃっちゃっと作ってくれて現在も音楽を続けている教師の先輩、ものすごく野球がうまい息子さんに何時間もつきあってあげてジャズギターで表現できることを追求し続けているやさしい先輩のお兄さん、企業のなかで我慢して生きることよりも不安や家族を背負いながら独立してコンサルタントとして生きることを選んだ逞しい友人、そんな3人の話を聞きながら、ものすごく充実した時間をすごすことができました。それぞれみんなが抱えている問題や喜びを、完全にわかったかというとわかっていないかもしれない。ただ、昨日生まれた一回性の時間、そこで共有できた気持ちを、それが幻想だったとしても信じていたいと思いました。

ちょっとかっこよく書きすぎたかもしれません。昨夜の熱が残っているようです。それにしても、もう徹夜で語り合うのは辛いですねえ。気持ちは若いのですが、年を取ってしまったなあ。

*1:ところで、そのお客様からは5つも課題をいただき、嬉しい悲鳴でした。意図をきちんと理解しながら、ひとつひとつを誠実に進めたいと思います。

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2006年1月13日

「脳と仮想」 茂木健一郎

▼book06-008:仮想だとしても、わかる。

4104702013脳と仮想
茂木 健一郎
新潮社 2004-09-22

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「脳と創造性」の方から読み始めてしまったので、茂木さんの思考を逆に辿ることになってしまいました。だからぼくにとっては、この本からさらに思考を深めた「脳と創造性」の方が衝撃的だったのですが、「脳と創造性」には書かれていなかった創造性に対する考え方に至るまでの経路、ということを追体験することができて、非常に面白かった。幅広い知識から言葉を選んで書く茂木さんの思考と比べれば、ぼくの思考なんて狭すぎるのですが、狭いながらも、ああ茂木さんの言うことがぼくにはわかる!という共感を得ました。ちょっと電気が走るというか、衝撃を受ける部分もあった。そうそう、これを言いたかったんですよ!という。それから「思い出せない記憶」の章で、茂木さんが学生時代に三木成夫氏の講演をガールフレンドと聴講ことがあり、そのときにガールフレンドが涙を流したことがあった、という個人的なエピソードを読んでいて、まるで自分の記憶のように、茂木さんの過去を追体験したような気がしました。それはまったくの仮想なのですが、この記憶の質感というのが、クオリアかもしれない。次は「クオリア降臨」を読む予定です。ほんとうに逆行しているのですが。1月13日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(8/100冊+6/100本)

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音あるいは文章のノイズなど。

とある駅で電車を待っていたところ、反対側のホームから電車が走り出したのですが、そのときにとても素敵なバイオリンの音が響いた。わーしゃれてるなあ、発車のときにこんな音楽を使うんだ、と思ったのだけど、どうやらそれは発車の音楽ではなくて、電車と線路が軋むことによって偶然に生まれた音のようです。5つぐらいの音階で、次第に上昇していくメロディだったのだけれど、ちょっとはっとするような音楽でした。もう一度聴いてみたい。けれども、きっともう聴くことはできないでしょう。たぶん一回性の偶然が作った音楽なので。

まったく人工的なんだけど、似ている音というものがあります。電車に関していえば、よく言われるのが電車のなかのノイズは、お母さんの胎内の音に似ているということ。うちのふたりの息子たちはどちらも電車好きで、どうしてだろうと不思議に思っているのですが、幼い子供たちが電車を好きなのは、電車のなかの振動音が胎内への記憶を呼び覚ますというようなところに秘密があるのかもしれません。同様にテレビのいわゆる「砂の嵐」の音も、幼児たちを安心させる、ということはよく言われます。放送終了後のざーっという音です。シンセサイザーでいうとホワイトノイズでしょうか。ぼくには耳障りとしか思えないのだけど、それがまだ幼い子供たちには胎内のなかにいる安心感を与えるらしい。そんなことを考えながら今日は耳を澄まして帰宅しました。クルマが走り去る音は、波の音に似ているかな、とか考えつつ。

音楽の世界にはマスタリングという最終的に音を整えたりお化粧をするような作業があるのですが、あるマスタリングの教則本のなかに、バイオリンの音と歪ませたエレキギターの音は最初の部分(アタック)をカットして部分的に短い断片だけを聴くと同じ音に聴こえる、という話が書いてあったような気がします。バイオリンというのは、次第に音が立ち上がっていくので、エレキギターのボリュームをくりくり回して音をだんだん大きくすることによって、バイオリン風に聴こえさせる奏法もあったりします。つまり特長的な部分を省略してしまったり、ボリュームのつまみなどをいじって真似をすると、まったく違う楽器でも同じ楽器のように聞こえるようです。

ということは、文章にも言えるかもしれません。具体性を欠いた曖昧な文章は、みんな同じ文章にみえてくる。要するに立ち上がるべき最初の発話を切ってしまうとか、文末を「思います」「ではないでしょうか」などでしめるとか、過激な発言を省略してしまうと、あたりさわりはないけれど文章の切れ味もなくなっていく。一方で、肉声に近い発言やそのひとならではの視点があると、文章もエッジが立ってくる。

ただですね、エッジが立ってないような文章にもよいものはあります。たとえるなら、グラスハープのような文章、でしょうか。グラスハープというのは、ワイングラスのようなものに水を入れて、水の量を調節することで音階をつくる。グラスの縁(エッジですね)を擦ることで、音を出すものです。そういえば先日観た「死ぬまでにしたい10のこと」という映画にもグラスハープを弾くひとが出てきました。大道芸人っぽい感じで、何度か映画のなかで現れる。これは何の意味があるんだろうと思ってしまったのですが。

グラスハープの音色のような印象の文章というのは、ふわっとした浮遊感と、あたたかみのある雰囲気をもつ文章のこと。グラスハープは擦って音を出すので、最初のアタックはあまり強くない。ふわーという感じで次第に音が大きくなる。文章にもそんな雰囲気のものがある。誰の文章がそうか、という例を挙げることはできないのですが、たまにブログを読んでいると、そんな文章に出会うことがあります。元気がいいわけでもなく、調子が悪いわけでもなく、なんとなくニュートラルな脱力感にあふれている。そういう文章を書けるひとはうらやましい。自然に書かれた文章で、狙って書いているのではなければ、さらにいい。

さて、めちゃめちゃ忙しい日々を送っています。もう2週間ぐらい息子の顔をみていないな、と思ったら、まだ3日だった。というよりも、今日が1月中旬であるということが信じられません。もう3月かと思った。そんな忙しいときに悪いコンディションにはまると、ノイズばかりが聞こえてくるものです。つまり、胎児にとって安らぐざーっという音が大人には神経をざわざわさせる雑音にしか聞こえないように、ふだんは聞き逃していたようなささいなことが、ざわざわと心を掻き乱すノイズになる。安穏としていた気持ちをささくれだたせてしまうわけです。しかしながら、木曜日に仕事に集中していたら、無音状態を経験することができました。あらゆる音が消えたような気がした。そしていつの間にか5時間ぐらいが経過していた。分析と企画書に集中していたわけですが、何か集中できることをみつけると、ノイズも聞こえなくなる。この集中を土日(休日返上)および来週後半まで維持しなければならないのがツライのですが。

ノイズと安らぐ音楽の境界は、紙一重という気もします。誰かにとっては安らぐ音楽も、誰かにとってはノイズになるかもしれない。いちいちそれを気にしていても仕方がないし、ノイジーな自分の心の状態もまたぼくの心には違いないものです。大事なことは、失敗してもトラブルを起こしても(嫌われても)書き続けることです。書き続けていれば何かが変わる。辞めてしまったら、それまでです。だからぼくはどんなにクオリティが下がっても、めちゃめちゃな文章になっても、書き続けることにします。

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2006年1月10日

堕天使のパスポート

▽Cinema06-006:お医者さんは、苦手なので。

B0006U0HBG堕天使のパスポート [DVD]
スティーヴン・ナイト
ショウゲート 2005-01-28

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ホテルで行われる闇の臓器売買についてのサスペンス。「アメリ」のオドレイ・トトゥが出演しているので借りてしまいました。バスローブから、ちらりと胸がみえたりしたのだけど、必要のないサービスという気がしました。移民社会の暗さ、アメリカへの憧れなどがうまく描かれていると思います。しかしながら、ぼくの感想はいまひとつ。すみません、お医者さん、苦手なんです。手術のシーンなんてみちゃいられません。最後もなんだか唐突でした。1月9日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(7/100冊+6/100本)

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2006年1月 9日

東京物語

▽cinema005:静かな、ざわざわ感。

B000VRRD20東京物語
笠智衆, 東山千栄子, 原節子, 杉村春子, 小津安二郎
Cosmo Contents 2007-08-20

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いい映画でした。心に染みた。泣けました。こういう映画を観ていたいです。ただし、いまだからこそ、余計にぼくの心に染みるという気がします。映画のなかと同じ年齢の年老いた母親が田舎にいて、結婚して息子がいるいまだからこそ、モノクロの向こうに描かれた物語の文脈に身を任せることができる。名画というだけで、ちょっと人生をわかったようなふりをして、20代にみていたらきっとまったくその深みをわからなかったかもしれません。上京した親に対して忙しいを繰り返して残酷までのうわべの思いやりと欲をみせる実の息子や娘と、ほんとうに親身に接する次男の嫁さんという人間の心理の深みの描き方が素晴らしいと思いました。成長した息子に期待するのは「世のなかの親の欲」であり、変わってしまった親子について「他人どうしでも、もっとあったかい」「世のなかって嫌」という言葉が痛かった。この老夫婦のように、年を重ねていきたい。書きたいことがたくさんあるのですが、もう一度、じっくりと観たいものです。1月9日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(7/100冊+5/100本)

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死ぬまでにしたい10のこと

▽cinema004:覚悟を決めた強さ。

B00185JPAW死ぬまでにしたい10のこと
イザベル・コヘット
松竹ホームビデオ 2008-06-27

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生きているということは、ただ生きているということに甘えているものかもしれません。だから愚痴も言う。くだらないことにこだわりもする。ぼくはたぶん余命数ヶ月と宣告されたら、きっとパニックになるような気がしました。この映画の主人公のように、やっておくことの10カ条を書き出して、誰にも死に至る病であることを告げずに、充分に生きていくことは難しいかもしれない。でも、もしかしたらぼくだって、明日には死ぬ運命かもしれないわけです。一日をきちんと生きていこうと思いました。隣の家に越してきたナースのアンの話に感動しました。それから主人公が口ずさむ、ビーチボーイズ(というかブライアン・ウィルソン)の、「God only knows(神のみぞ知る)」はぼくの大好きな曲ですが、やはり素晴らしいメロディだと思いました。1月9日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(7/100冊+4/100本)

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満足にはおしまいがない。

昨日、博物館に行った帰りにおもちゃ屋さんでお年玉を使ってほしいものを買い込んだうちの息子(長男)ですが、もう今日はいろいろ楽しんだからいいでしょう、と思っていたのに、「なんだかつまんない」とのこと。それまでは正月からどこにも行かずに家で遊んでいたはずなのに、楽しいことがあるともっと楽しみたいという欲が生まれるようです。満足というのは満たされると次の段階に向う。マズローでしたっけ、自己実現の欲求に向かう5段階の欲求というのは、モチベーションの本のなかでよく使われる言葉です。

そんなわけで明日みよう、と言っていた「ULTRAMAN」の映画を夜にいっしょに観たのですが、ミュータントとして人間が怪獣に変わっていくシーンなどは、ちょっと子供には怖すぎる。というか刺激が強すぎる映像があり、長男はいいとしても2歳の次男にはあまりみせたくなくて、そのシーンになると2歳の次男には目隠しをしたりしていました。一瞬だけど遠山景織子さんと大澄賢さんのキスシーンなんてものも、なんだかむずむずする。こういうのは子供と見るのは居心地が悪いものですね。

子供も大人も楽しめる映画というのは、なかなか難しいものです。ぼくは大人としてULTRAMANが楽しめたのですが、息子にとっては「怪獣は一匹しか出てこなかったじゃん」という感想でした。怪獣との戦闘シーンも控えめで(しかしCGによる映像はかなりすごい)、若いイケメンが主人公ではなく(といったら失礼だけどハムの別所さんがウルトラマン)、家族があって、さらに子供の頃に銀色の流星のような飛行機をみて空を飛ぶことに憧れていた=パイロットという仕事を選んだ=ULTRAMANになって自ら空を飛べる喜び、などが描かれているこの作品は、ぼくはいい映画だと思ったのですが、子供には伝わりにくい。

では、ヒーローもののように戦闘シーンもあって、子供に観せたい映画は何かというと、ぼくがいままで観たなかでは「アイアンジャイアント」かな、と思いました。実は殺戮が目的で作られた異星のロボットが地上にやってきて少年と出会う。その少年との触れ合い、ロボットの心のなかに生まれた感情などが描かれるわけですが、ぼくはとても感動した。しかしながら、息子に勧めたら断られた。しょぼん。

映画にしてもゲームにしても、戦闘シーンがあるから成長して犯罪をおかすようになる、というのは短絡的であると思います。これは仮想の世界である、現実の世界にきちんと戻れる、という判別さえ教えてあげれば、きっと問題にはならない。そのためには、親が現実世界の安全地帯になること、あたたかい場所を確保して子供たちが帰ってくることができるようにすべきだし、子供が仮想の世界に行って帰ってくることができなくなるような現実を作り出さないようにしなければならない。

残念ながらぼくはガンダムは全然観ていないし、ヒーローや戦隊モノに関するこだわりもありません。むしろこだわりはじめたのは、息子が生まれてからでした。しかし、いまの潮流として、オタクな大人たち、大人になれない大人たちを楽しませるための仕掛けが多すぎるようにも思います。もちろん、大人たちもかつては子供だったわけで、大人のなかにある子供ごころをくすぐるものは、現代の子供たちにとっても面白いものということはある。ただ、郷愁をそそるものが売れるから、ということで量産していくのは、ちょっとどうかなとも思います。

余談ですが、子供ができてよかったのは、子供の頃の自分を追体験できることです。つまり子供の遊びや興味を知ることで、ぼく自身が体験してきた出来事も明確化されるし、子供たちが好むものもわかる。大人は大きな子供であるし、子供はちいさな大人かもしれない。ある境界があって、そこから先は大人、というわけではなくて、子供は大人を内包しているし、大人も子供を内包している。

通常、劇場では子供といっしょに映画を観ることはあっても、自宅ではあまりないのですが、ULTRAMANをいっしょに観てしまって、もっと家でくつろいで子供といっしょに観ることができる映画を、と思ってしまったのでした。

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■アイアンジャイアントでも、さりげなくCGが使われています。CGというのは、実写でもアニメでもない、まったく違う何かを創り出すような気もしました。これ、ピート・タウンゼント(ザ・フー)が総指揮だったのか!

B000XG9PS4アイアン・ジャイアント 特別版
ピート・タウンゼント ティム・マッキャンリーズ
ワーナー・ホーム・ビデオ 2007-12-07

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2006年1月 8日

ULTRAMAN

▽cinema06-003:子供がいるから、強くなれる。

B0009IY9IWULTRAMAN
特撮(映像)
バンダイビジュアル 2005-07-22

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息子と一緒にみました。が、子供向けではないですねこれは。ウルトラマンになる主人公はイケメンではなく(別所哲也)、純朴な奥さん(裕木奈江)と幼稚園に通う子供がいる、ふつうの家族もちの男です。未来的な乗り物もないけれど、F-15のパイロットではある。そして、子供との約束をかなえるために怪獣と戦うのです。一時期、デビルマン、キャシャーン、キューティー・ハニーと、かつてのヒーローたちを実写で再現するということが流行っていたようですが、その流れにあるのではないでしょうか。賛否両論あるかと思うのですが、ぼくはよくできている映画だと思いました。CGはすごい。最近の映画は、ほんとうにびっくりします。日本の映画、頑張ってほしいです。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(7/100冊+3/100本)

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博物館的な時間。

快晴ということもあり、息子(長男)の冬休みも月曜日までなので、上野にある国立科学博物館に行ってきました。うちの長男といえば3歳ぐらいの頃からインドア派で、ディズニーランドに連れて行くと、到着した途端に「もう、おうちに帰りましょうよ」と言い出すような子供です。そんなわけで今日も行く前には、えーいいよお、と言っていたのですが無理やり連れ出した。でも、行ってみたところ、いろいろと楽しめたようです。

国立科学博物館の入場料は、大人は500円ですが子供は無料。冬休み最後の日曜日ということで、なかなかの混み具合でした。だいたい子供のいる家族連れなのですが、なかにはカップルもいる。パール展というものもやっていて、恐竜を目当てにやってきたため、どうしても頭のなかには恐竜という先入観があり、パールと言う古代生物がいたっけ?、と思ったのですが、単純に真珠の展示でした。しかし思い返してみると、結石もちの自分としては、石をつくる生物はある意味同士、ともいえる。見ておけばよかったかもしれません。

入り口のところでICカードを無料に貸し出すとともに、音声の解説を聞くことができるPDAの貸し出し(こちらは300円で有料)もしていました。IT関連業界にいるという仕事上、まず注目したのがこの仕組みです。なんとなくPDAも使ってみたかったのですが、とりあえずICカードだけを借りることにしました。

館内の至るところには、ICカードリーダーの設置されたタッチパネル式の端末が置かれていて、この端末上にカードをかざすと、ぴぴっとか、しゃらりーんという音がして、経路の情報が記録される(この音の違いは何だろう、と思ってしまいました)。ICカードは、ICのものとプリペイドカード型のものがセットになっていて、ICカードは返却しなければならないのだけど、プリペイドカードは持ち帰ることができる。で、このプリペイドカードにはIDとパスワードが印刷されていて、家に帰ってからインターネットで国立科学博物館のページを開いて、カードに記載されているIDとパスワードを入力すると、観覧した経路とさらに情報を詳しく知ることができるわけです。

なるほどなあ、と思いました。最近、博物館なんてあまり行ったことがなかったのだけど、外出してみるものです。学校の調べ学習などに利用すると、オフラインによる博物館+オンラインによるインターネットでさらに情報の収集という立体的な学習ができるわけです。美術館などもそういう仕組みになっているのでしょうか。パンフレットを購入して帰るのもいいのですが、このように鑑賞したものを再度、家で深く掘り下げるような仕組みはITならではのものという気がします。

さらに考えると、ぼくはFOMAのおサイフケータイを使っているのですが(いわゆるJRのSUICAと同じFeliCa技術によるICカードのチップが、携帯電話に内蔵されている)、カードをわざわざ貸し出さなくても、おサイフケータイを持っている人は、それを端末上にかざすことができれば、その場で携帯を連動させて情報が蓄積されるようになったらいいなあと思いました。もう少し先の未来には、そんな便利な世界も待っているのかもしれません。

というのも、国立科学博物館の展示はかなり盛りだくさんで、きちんと説明を読んだりしていたら、2時間ぐらいでは足りない。博物館のなかでしか体験できないことに集中して、付随的な情報は帰ってからじっくり、というスタイルの方がいい。展示にも温度差があるような気がします。息子としても昆虫や恐竜の展示では、おおっという声が出ていたのですが、地下の宇宙などに関する展示はいまひとつでした。エネルギーや物理学的な単位に関することなど面白そうなテーマもあるのですが、やはり昆虫や恐竜ほどのインパクトに欠ける。見せ方が難しい。

微生物から恐竜へ、恐竜から人類へ、人類からコンピュータの世界へ。というように、館内を一巡すると地球の歴史を一巡できる。技術の発展という展示で、パソコン以前の計算機といわれた頃のコンピュータも展示されていたのですが、こりゃあまるで恐竜だな、という感じがしました。人間の文化においても、恐竜の時代とホモサピエンスの時代がある。一方で、亜熱帯からシベリアまで、地球全体の生態系についても空間的に把握することができる。もちろんそれは仮想でしかないのですが、天気のいい日曜日、そんな博物館的な時間を過ごすのもいいもんだな、と思いました。

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■国立科学博物館のページ。右側にメンバーページへのログインがあります。

http://www.kahaku.go.jp/

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2006年1月 7日

コーラス

▽cinema06-002:美しいのは声だけではないのだ。

B000BBU2BAコーラス メモリアル・エディション
クリストフ・バラティエ ジャック・ペラン
角川ヘラルド・ピクチャーズ 2005-12-22

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決して有名にはならなくても、一生音楽を続けたという先生の姿に心を打たれました。信念を貫くことは大事だと思います。心が美しいからこそ、美しい音楽も奏でることができる。少年たちの合唱は、ほんとうに美しい(というか、少年も美しい)。人間の声は何よりも素敵な楽器ではないでしょうか。1月7日鑑賞。

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「姫君」 山田詠美

▼book06-007:脳が、さわがしい。

416755805X姫君 (文春文庫)
山田 詠美
文藝春秋 2004-05

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山田詠美さんの文章の切れ味が好きです。特に脳内であれこれ論理的な思考を深める文章。別の短編集ですが、「アイロン」という短編もいい。この本のなかでは「姫君」は秀逸だと思いました。なぜか、ずうっと前に住んでいたアパートの部屋の雰囲気を思い出しました。琴線に触れるものがあった。その琴線に触れたものが何かということを、言葉で言い表そうとすると陳腐になるので、あえて言いませんが。1月7日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(7/100冊+2/100本)

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音楽とスポーツ。

オンガクって何だろう、ということをふと考えました。音楽は音楽じゃん、と言われるかもしれませんが、音楽がなくても生活には何も支障がない。けれども、音楽がなければ生きていけないともいえる。一方で、言葉で書かれた小説に対して、歌詞のある音楽は言葉の世界があるという意味では小説に近いかもしれませんが、歌詞がない場合には、とても抽象的になる。風景画や肖像画が現実の世界を再現するものであるのに対して、インストゥルメンタルの音楽は抽象画に似ているといえるかもしれません。

コーラス」というフランスの映画を観たのですが、これはある問題児を集めた寄宿舎のある学校に、舎監として音楽の先生がやってくる。ものすごい問題児ばかりなので、やられたらやり返せ風の考え方によって厳しい体罰を与えているんだけれど、その先生は合唱によって、彼等のこころを変えていこうとするわけです。問題児のなかには歌の才能のある生徒がいて、彼は母子家庭なのだけど、その先生は彼の母親に恋をしたりする。なかなかあったかい気持ちになれる映画でした。ちょっと泣けた。

その映画のなかで、同僚の教師は音楽とスポーツをこよなく愛していて、人生にはこの2つが両輪のように動かなければいけないという哲学を持っている、というエピソードもありました。確かに、うまくなるためには練習が必要だし、ときには挫折もある。そんなわけで音楽とスポーツはまったく違うのだけど、似ているところもあるかもしれません。特に合唱は団体競技ともいえる。人間の声は基本的にはモノフォニックなので、ピアノのようにぽーんと複数の和音を出すことはできない。だからソプラノやアルトなどのパートに分かれて、みんなでハーモニーを奏でる。「コーラス」の映画のなかでは、そのハーモニーと挿入曲の美しさに感動しました。

ところで、挫折を乗り越える音楽ジャンルの映画として思い出すものは、「ドラムライン」と「レイ」でしょうか。「ドラムライン」は、ブラスバンドのエリート学校のお話ですが、主人公は天才的な才能を持つドラマーなのだけど、彼は楽譜が読めない。また、天才であるがゆえに協調性なども考えない。しかし、最終的には仲間の力を借りて、その挫折を乗り越えていく。叩くという演奏自体が既にスポーツ的なのですが、太鼓の威力というか、かなり熱い気持ちになりました。「レイ」は、レイ・チャールズの人生を描いた映画です。彼も盲目でありながら天才なのですが、みんなを楽しませるということを重視してきたあまり、オリジナリティに欠ける、どれもみな誰かのコピーに聴こえる、という指摘を受けて落ち込む。それでもプロデューサーとともに、新しい自分を切り開いていく。

ひとを変えることができるのは、やはりひととの関わりなんだろうな、と思います。ぼくの趣味のDTMは、ある意味、自己完結しているのですが、それでもいろんなひとの影響を受けています。リアルやバーチャルなひと以外に、小説であったり、映画であったりすることもあるのですが、小説や映画であっても、ひとが創作したということには変わりがない。作品を通じてひとに出会えることが大事なことです。

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■チアリーダーやブラスバンドはアメリカならではの文化という感じがします。筋トレもすごい。吹奏楽は文化部というイメージが変わりました。

B000VRXIL0ドラムライン (ベストヒット・セレクション)
ニック・キャノン, チャールズ・ストーン三世
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2007-10-24

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■レイ・チャールズが過去を回想する映像に号泣でした。目の前でちいさな弟を溺死させてしまったり、目が次第に見えなくなっていく回想など。悲しみがあったからこそ、深みのある音楽を創ることができたのかもしれません。


B0007TW7WSRay / レイ 追悼記念BOX
テイラー・ハックフォード ジェームズ・L・ホワイト
ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン 2005-06-10

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2006年1月 6日

宇宙戦争

▽cinema06-001:だからトラウマにもなるのですが。

B000FBHTO4宇宙戦争
H.G.ウェルズ
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン 2006-07-07

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技術的なことはわからないのですが、映像美がすごい。ちょっとかすんだ夢のような感じさえ思わせるようなトーンが逆にリアルです。カミナリとともに地面がめりめり割れて、宇宙人が出てきたらどうしようと思った。H・G・ウェルズの原作は、ラジオドラマとして放送したときに、ほんとうに宇宙人が攻めてくると勘違いしたひとたちでパニックがおきた、といういわくつきの作品ですよね。観ておいてよかった。1月6日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(6/100冊+1/100本)

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「此処 彼処 (ここ かしこ)」 川上 弘美

▼book06-006:ほろり、にこりな文章です。

4532165377此処 彼処 (ここ かしこ)
川上 弘美
日本経済新聞社 2005-10-18

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あっ、この場所には行ったことがある、という地名が出てきて、とても親近感を覚えました。川上弘美さんの文章を読んでいると、ほろり、にこりという感じです。短い文の挿入の仕方とか、ひらがなと漢字のバランスとか、文章の結び方とか、とてもうまい。1月6日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(6/100冊+1/100本)

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架空というリアル。

正月、田舎に帰ったときに、掃除をしていたらこんなものが出てきた、と、母から巻物のようなものを見せてもらいました。巻物は小学生の夏休みの日記らしく、障子紙でできていて、表側には絵が、裏側には文章が書いてある。絵を書くスペースは鉛筆で描かれていて、この部分は親が書いてあげたらしい。漢字の習得具合からみると、3年生から4年生ぐらいです。そして「弟が」と書かれているので、どうやらぼくが書いたものらしい。しかし、ぜんぜん記憶にありません。こんなもの作ったっけ?という感じです。

この記憶にはない夏休みというのが、あらためて読み直してみるとあまりにも充実した夏休みで、映画に行く、演劇を観にいく、海へ行く、プールへ行く、田舎で虫取りをするなどなど、非常に密度の高い夏休みを過ごしているようでした。父と母はほんとうに頑張ったなあ、という感じです。それに比べると、いま父としてのぼくは、手を抜いているかもしれない。とはいえ、教師だった父は夏休みが長かった、ということもあるかと思いますが。

この日記のなかで、演劇は「たつのこたろう」を観たらしいのですが、この龍の部分だけが、非常にリアルに描き込まれている。きっと子供ながらに印象に残ったのでしょう。で、この絵をみたときに、ああ、これはどうやらぼくが書いたらしい、ということに気づきました。というのも、最近はやめてしまったのですが、辰年には年賀状に手書きで龍を描いていた時期があります。その龍が、この日記の龍そのままでした。つまりあのとき見た龍のイメージが、そのまま何年後にも残っていたのだと思います。

ところで、昨日は疲れ果てているものの深夜にスティーブン・スピルバーグ監督の「宇宙戦争」を観てしまいました。実は古い映画のほうの宇宙戦争を少年の頃にテレビで観た記憶があり、あまりにも怖くてトラウマになっています。半月型の宇宙船に焼かれていく人間たちのシーンは、世界はぜったいになくならないし安全なものである、と思っていた自分の観念をがらがらと崩すものであり、世界の破滅におののいたものです。もうひとつ、グリフィンのようなものが出てくる映画(なんだったか覚えていません)も、かなり怖かった記憶があります。どうやら映画好きなうちの長男は、この宇宙戦争を観たがったのですが、ちょっとトラウマになるかなあ、と思ってみせなかった。ハリー・ポッターならみせてもいいよ、と言ったら、えーなんでハリー・ポッターなのさ、と気に入らないようでした。

この「宇宙戦争」は、映像の処理も含めて、ものすごくよかった。リアルでした。カミナリに乗って宇宙人がやってきたときに、なんだろうと人々が集まる。ふつうは怪獣や異星人があらわれると、きゃーとか逃げるシーンになりますよね。でも、ほんとうにそんなものが出現したら、まずは好奇心で見に行くと思う。群集のなかにクルマで突っ込んでしまい、オレもクルマに乗せろとパニックになるシーンもリアル。ビルに突っ込んだトライポッド(宇宙人のマシーン)も、うわーリアルだと思った。軍隊VS宇宙人の戦闘で、「見届けたいんだ」と父であるトム・クルーズの手を振り切るシーンにはなんだか泣けました。彼と息子がキャッチボールするんだけど、どうやら奥さんとは離婚しているようで、息子と娘とも離れて暮らしているらしく、息子から何か言われて苛立って強くボールを投げてガラスを割ってしまうシーンもよかったな。

映画は架空の世界ではあるけれど、ほんとうにのめりこんで観ることのできる映画は、もうひとつの人生を生かせてくれるような気がしています。今日は睡眠不足で辛いけど、なんだかすがすがしいものもある。願わくば、劇場で観たかった。今年はなるべく劇場にも足を運びたいものです。

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2006年1月 5日

最初のペンギン。

年末、仕事納めが納まらない、ということを書きました。実は今日は仕事始めですが、今度は仕事始めが始まりすぎ、という感じです。忙しい。目が回ります。いや、ほんとうにくらくらする。大丈夫だろうか。

しかし、学生の頃からそうだったのですが、忙しいとなぜか別のことに時間を使いたくなるものです。今日も昼食に外出したついでに新宿の紀伊国屋書店に立ち寄って、茂木健一郎さんの本を二冊も買ってしまいました。「脳と仮想」と「クオリア降臨」です。いつものクセでビジネス書の階に行ってしまい、そこにあった端末で検索をかけてフロアを探したのですが、思想書のフロアに行ってみると茂木さんのコーナーができていた。人気があるんですね。ぼくは、考えることが大事だ、いろんなことを考えたい、などと言っているわりには思想書やテツガク関連のフロアに行くのは久し振りで、レヴィ・ストロースの本が平積みにされているのを見て、おおー懐かしい、とか思ってしまいました。なんとなく欲しい本もあったのですが高いんですよね、この手の本は。

忙しいのでちょこっとだけしか読んでいないのですが、茂木さんの本は内容はもちろん、使われている言葉がいい。キーワードからさまざまなイメージが膨らみます。年末にツンドクを整理して、片付けたい本もたくさんあるのに、今日買った本から先に呼んでしまいそうです。

先日読んだ「脳と創造性」にも、たくさんの気になるフレーズがあって、昨日もざーっと読み直して、気になる言葉や引用されている作品などをカードに書き出したりしました。で、それに疲れると川上弘美さんのエッセイを読む。そして、またカードに書き出す。そんなことをやっていたら、夜更かしすぎになってしまいました。何事もほどほどが肝心です。

書き出した言葉のなかで、いちばん気に入っているのがタイトルの「最初のペンギン」です。英語では開拓者精神にあふれる、勇気がある、というような意味でも使うらしい。テレビなどでもよく放映されるのですが、ペンギンは最初のひと(ではないか、鳥?)が海に飛び込むと、次々とその後につづいていく。しかしながら、海のなかには、ペンギンを狙っているトド(だっけかな)のような動物もいて、最初に海に飛び込むペンギンは、そんな動物たちにねらわれてしまうキケンもはらんでいる。

まったく関係ないのですが、最初のペンギンという言葉から個人的に連想したのは、うちの長男でした。幼稚園の頃、いちばん背が低かった彼は、いつも最前列にいた。前ならえ、のときには、腰に手をあてるタイプです。ちょこちょこ歩く姿もどこかペンギンっぽい。お遊戯などをやる場合にも、真ん中にいれば、周りの真似をすることができるのですが、最前列だと後ろを振り向くわけにはいかないから、彼なりにいろいろと緊張もしたのではないかと思います。運動会のときには、開会式の体操でいきなりしゃがみ込んで動かなくなった。どうやら、おしっこがしたくなったらしい。先生が気がついて、彼を抱えていったのだけど、ぼくも慌てて付いていったら、トイレの入り口で「あとはこちらでやりますから」と、ぴしっと制止された。幼稚園児もいろいろと大変です。

あと、思い出すのは、彼がはじめて立ち上がったときの姿でしょうか。実はぼくは2歳ぐらいの頃に、足が悪かった。右足が内側にひねったかたちになっていて、ギブスをはめて直していました。そこで長男が立ち上がる頃に、大丈夫かな?きちんと歩けるのかな?と不安だったのですが、なんとかぺこぺこ歩けるようになって、ある日、公園に連れて行ったときに、いきなり駆け出した。わっと思って「危ないよ」と声をかけようとしたのだけれど、振り向いてなんともいえない顔で笑ったのが印象的だったことを覚えています。(ぼくはだいじょうぶだよ)そんな風に言ったような気がしました。

関係のない連想が長くなりましたが、ぼくは最初のペンギンでありたいと思います。最初のペンギンは、自分のための勇気だけではなくて、仲間たちのキケンを確かめる役割もある。キケンであることがわかっても一歩踏み出すこと、飛び込むこと。そんな勇気を持っていたいと思います。

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2006年1月 4日

思いつきを超えて。

いつごろからか気付きはじめて、自戒していたことなのだけれど、思いつきとアイディア、そして思いつきと企画には大きな隔たりがあります。つまり、思いつくことは誰にでもできる。こんなのあったらいいよね、とか、こうしたらいいんじゃないの、という思いつきを話すことは簡単にできるわけです。そんな風に考えたことを話すだけで、ああオレってすごいかも、みたいな気持ちになる。しかしながら、そのレベルではまだプロもしくは仕事で通用するものとはいえなくて、そこからアイディアや企画として完成させるまでには大きな道のりがある。茂木さんの「脳と創造性」、眞木準さんの編により19人のクリエイターがアイディアを生む秘訣について書かれている「ひとつ上のアイディア。」という本を読んで、あらためて仕事として通用する思いつきの発展方法を考えました。

では、どういうことが必要かというと、特許法の話ではないのですが、まず第一に新規性が重要になる。誰かが既にその思いつきを実現していないか、ということです。電話の発明の話なども連想しますが、先に申請なり実現したひとがいたとしたら、その思いつきは二番煎じになります。既存の文脈に絡みとられてしまう。もちろん二番煎じがダメだということはないのですが、誰かがやっていることをいかにもオリジナリティのあふれるもののように話すのは、ちょっと恥ずかしい。柳の下にドジョウがいる場合もありますが、そんなにうまくいく話ばかりではない。ただ、可能性としては、そこに何らかの新しい視点が加えられたなら、まったく新しいアイディアや企画になる可能性もあります。

そのために必要なことは、ひとつのアイディアをさまざまな角度から検証することでしょうか。これはマーケティング的な視点が必要になるかもしれない。コピーライター的な感性も必要なのだけど、一方で世のなかの動きにあっているかどうか、ほんとうにそういうものを求める気持ちがみんなのなかにあるか、ということを探る必要があります。アカウントプランニングという言葉も使われたことがありますが、インサイト(洞察)を見出して、クリエイティブに結びつける。消費者も賢くなってきているので、プロダクトアウト的な思考だけでは難しいな、と思います。もちろんほんとうに凄いアイディアは個人の直感から生まれるという気もしていますが、であっても検証は必要です。

さらに量産することも重要です。この一案でいける、という思いつきには不安を感じる。オレの感性を信じろ、なんて言われても、どうかな?と思う。世のなかを考慮して、上下前後左右から思いつきを検討した上で、まずはオプション案を作ってみる。その上でまったく新しい視点から別のアイディアも出してみる。コピーライターさんは、ひとつの案件に対して50以上もコピーを書きますが、企画も完成形に至るまでにあらゆるシナリオを検討する必要があります。この量産というのは結構きつい。これは趣味のDTMでも言えることですが、曲を創り続けることはかなりしんどい。代表作を完成させてあとはおしまい、って感じにした方が楽なのですが、駄作も含めて創り続けることは大事だと思っています。チャップリンだったかと思うのですが、あなたの代表作は?と聞かれて、Next Oneと答えたように。その気持ちがないと、クリエイターとしては終わってしまうものです。

だから大事なのは、情報感度を高めてアンテナを張り巡らせておくこと、たくさん本を読むこと、さまざまな映画や芸術に触れることなのかもしれません。素晴らしいひとに出会って話を聞くことも重要になる。水鳥は静かに浮かんでいるようで、水面下で一生懸命に足を動かしている、ということも言われますが(うーむ、これこそステレオタイプな表現だな)、クリエイティブであるためには、勉強に終わりというということはなくて、常に「完成をめざすベクトル」「完成までの発展途上段階」として勉強をしていたい。この文章の末尾は、ねばならない、ではなくて、していたい、です。自分の意思で勉強することを選び取ること、それがオトナ(社会人)の勉強です。この気持ちをちいさな息子たちにも伝えたいんですけど。

大きく本題からは外れるのですが、ぼくの個人的な思いとして、優等生である必要はないし、むしろ優等生であることを拒むこと、が重要だと考えています。他人からの評価を期待する優等生でいると、自らを他人の尺度の枠のなかに閉じ込めてしまうので、逆に成長ができなくなる。それこそ多様性のある社会というつながりのなかで、独自なノード(接点)として機能していたい。あるいは評価という文脈を拒みたい。ぼくの人生なのだから、ぼくが幸せであれば、おまえらから評価なんかされたくないし批評されたくないよ、という感じです。業績などは数値化された情報で読み取ることが重要なことは確かだけれど、一方で疑問も感じています。デジタル化されたことで削ぎ落とされてしまうことも多い。なんでも数値化すればいいってもんじゃないだろう、と思う。だからぼくは読んだ本や映画などに関して、感想を述べたとしてもランク付けや評点をつけるのはやめようと思っています。

辛辣な視点、ドクのある言葉が、ときには必要になることもある。世のなかの清い部分だけではなく濁りも許容できることが、人間としての深みをもたらすような気がしています。だからときには、やんちゃな発言もしてみたい。その発言は自分にも返ってくるものだから注意も必要なのだけれど、発言によって潰れたら潰れたまでのことだし、潰れたらまた立ち上がればいい。ぶっ倒れるまで終わりがないのが人生です。あ、でもぶっ倒れないようにしなくては。いや、これは切実なのですが健康は大事です。

ちょっと長くなりましたが、自分の考えをまとめてみました。最初はアイディア論になるはずだったのが、人生論になってしまった。とにかく、この方向で今年は行こうと思っています(ただし、軌道修正もきっとある)。

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2006年1月 3日

あたたかく、ありたい。

いま息子たちがはまっているアニメがあります。NHKの「おでんくん」です。これはもうずいぶん前にテレビで観た記憶があるのですが、再放送しているらしい。といっても、年末にはどういうわけか深夜の時間帯に放送していたようです(いまは朝の10時半に放映)。子供たちの番組なのに、なぜこんな時間にやるのかしらねえ、と奥さんは言うのだけれど、わからないこともない。このアニメは大人が見ても面白い。というか、大人だって面白い。いや、大人が見るべきです。実は留守番で次男をだっこしながら観ていて、ついつい涙ぐんでしまいました。そんな風に心のあったかい部分に触れられるアニメです。

いまでこそ、このタッチはこのひとでしかない、というのがわかるのだけれど、おでんくんの原作はリリー・フランキーさんです。おでんくんというロゴに、LILIY FRANKY PRESENTSとあって、ああっリリー・フランキーだったんだ、とあらためて気付きました。気付くのが遅すぎなのですが、風景の背後に東京タワーも出てくるし、ほわほわとした夕飯の湯気に包まれたような雰囲気は彼にしか描けない世界観だなあと思います。

東京タワーの下でおでんの屋台を開いているおじさんとペロというイヌがいて、そのおでんの鍋のなかにはおでんくんたちの世界が広がっている。このリアルとおでんワールドの2つの世界をつなぐ物語です。リアルの世界で展開されているちょっとさびしい物語が、おでんくんの世界とも連動していて、ときにはおでんくんたちの働きのおかげで現実世界の人々は前向きに頑張ろうと思ったり病気が治ったりもする。

主人公のおでんくんは、おでんの種類としては、もちきんちゃくです。頭のハチマキを外すとなかからもちが出てくるのだけど、そのもちがシューズになったり、おにぎりになったり、なわとびになったりする。つまりドラエもんのポケット的です。どうやら自分のためにはそのもちを使えないらしい(この設定がまたいい)。キャラクターには、たまごちゃんという優等生のアイドル的な女の子と、ガングロたまごちゃんという金髪でちょっと性格のきつい女の子も登場する。一方でウィンナーくんというのは男の優等生タイプです。テニスもうまい。こんぶくん、ちくわぶーなどさまざまなキャラクターがいて、この辺りはアンパンマン風でもある。ちなみにぼくはキャラクターのなかでは、いろいろと訓戒を言う「だいこん先生」が好きですね。ちょっと煮つまりすぎな色が気になりますが。

構造としてはヒットしたアニメのいいとこどりな感じもしますが、展開する人情的なテーマがリリー・フランキーならではのもので、他のアニメとはちょっと違っている。もう少し考察してみると、アンパンマンはアンパンマンワールドのなかでしか存在しない、ドラえもんは現実の生活のなかにのびた君と同居している、それに対しておでんくんはリアルと仮想がきちんと別れていて連動しているところが特長的なのかもしれません。アニメのなかではナレーションが入るのですが、おじさんが箸でおでんくんたちを現実の世界にひっぱり出してしまうと、現実の世界ではおでんくんたちはおでんにしか見えなくなる。ミヒャエル・エンデの「果てしない物語」をちょっと思い出したのですが、童話の世界を完全に隔離して安全地帯として作ってしまうよりも、現実と連動した仮想世界を作ったほうが童話としての広がりがあるような気がしました。鏡の国のアリスなどもそうかもしれません。

おでんくんの物語に人情やあたたかさを感じるのは、優等生も出てくるのですが、弱いひとたちや意地悪なひとたちがそのまま出てくる。弱さゆえに悩んだり落ち込んだりするのだけど、最後にはそれでも元気を出していこうと前向きになる。そんな全体を貫くテーマの設定にあります。しかしながら、頑張るぞ的なこぶしを振り上げるような力み具合はあまりなくて、そんなこともあるよね、いいこともあれば悪いこともあるのが人生さ、もうちょっとだけ頑張ってみようか、うん、というさりげない力の入り加減なのです。それがイラストのイメージともマッチしていて、なんだかほろりともするしかえって元気になる。癒されます。

仕事を頑張りすぎてへとへとになっているお父さんやお母さんは、きっと元気をもらうことができるはず。ちなみに、おでんくんの声は本上まなみさんで、ジャガーはピエール瀧さんだったりする。そんなキャストも楽しめます。

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■おでんくんは絵本にもなっているようですね。小学館のサイトです。キャラクターの紹介もあります。おでんくんの唇が厚い感じ、ぷよっとしたお腹はうちの次男そっくり。
http://www.shogakukan.co.jp/odenkun/

リリー・フランキーさんのHP。おおっ、1月26日に、おでんくんのDVD出るんだ。
http://www.lilyfranky.com/top/

■おでんくんの絵本。

4093860866おでんくん―あなたの夢はなんですかの巻
小学館 2001-12

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4093860874おでんくん―The adventure of Oden‐kun (2)
小学館 2002-12

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2006年1月 2日

「さようなら、私の本よ!」大江健三郎

▼book06-005:老人力は、あなどれません。

4062131129さようなら、私の本よ!
講談社 2005-09-30

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大江さんはすごい。深い。一方で、物語のなかの主人公である長江に対する感想ですが、老人といっても昔は青年だったわけで、青年の頃の行き場のない怒りや暴力を内包している。もちろん体力や精神力はかつてに比べて弱っていても、だからこそ内包された青年の存在が重要になる。いつか書こうと思っていたのですが、この小説からイメージしたのは「ファイトクラブ」という映画でした。去年の秋に、人間ドックに持っていった本でしたが、読み終えるまでずいぶん時間がかかってしまった。やっと終わった。1月2日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(5/100冊+0/100本)

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「コミュニケーションのノウハウ・ドゥハウ」野口吉昭

▼book06-004:楽しい本じゃなくても、いいんです。

4569642454コミュニケーションのノウハウ・ドゥハウ (PHPビジネス選書)
PHP研究所 2005-05-03

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さまざまな読者を意識すると(というか、ぶっちゃけた話、本が売れるためには)、やわらかい書き方、ちょっと元気になるような書き方が必要なのかもしれません。しかしですね、すみません、ぼくは下品な文章だなあという気がしました。マッキンゼー的なワンパターンな思考のフレームワークも気になります(編集の問題かも)。ちまたに溢れる成功の秘訣本的なあやしさを感じるので、もう少しきちんとした編集姿勢がほしかったです。せっかく感動的な挿話や、ためになる知恵などを集めた本なので、残念です。1月2日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(5/100冊+0/100本)

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環境が育てるということ。

弟が運転するクルマで年始の挨拶にまわったあと、温泉の近くの蕎麦屋で昼食をとりました。窓の外には、でっかい蘇鉄が生えていて、観光的には有名らしい。年老いた母は、この近辺の親戚など血縁関係についていろいろと説明してくれたのですが、田舎の血縁関係については、さんざん聞かされてきたせいか(かなり複雑に入り組んでいるせいか)、もうぜんぜん頭のなかに入ってきません。ただ、何気なく挿入された「あのキンモクセイもでっかいねえ」という言葉だけが飛び込んできて、ふとそちらの方を向くとでっかいキンモクセイがあった。芳香剤っぽいなどと言うひともいるのですが、ぼくはキンモクセイの匂いがどういうわけか大好きです。まだ独身の頃に住んでいたアパートは秋も深まると毎朝その香りのなかで目覚める感じで、ものすごく幸せでした。そんなわけで、あんなにでっかい木なら花が咲いたときにはどれほど幸せなことか、とぼーっと考えていたら、それだけでなんだか幸せになりました。

どうしてあんなにでっかいんだろうね、と言ってみると、弟が、温泉など地熱があるからじゃないかな、とのこと。なるほど、温泉といえば人間的には気持ちのいい癒されるものですが、温泉によって癒されるのは人間ばかりでなく、植物的にも(蘇鉄的にもキンモクセイ的にも)同じわけです。温暖な地域で、しかもいつもぽかぽか地熱によって暖められていれば、植物もでっかく育つ。環境というのは大事なものだな、と思いました。

さて、突然仕事の話になりますが、一般論ですが、仕事において「リーダーじゃなくてもリーダーシップは発揮できるだろう」「これはきみはやりがいがある仕事だろう」とスタッフの意向はまったく無視の勝手な解釈をして、仕事を任せるようなマネージャーも多い。しかしながら、この言葉の裏側には、おまえに権限与えると危険だから飼い殺しにしちゃっておくからね、面倒な仕事だからオレは責任もたないけどあとはよろしくね、というだけのことも多い。そんな意図は、部下にはわからないと思っていても結構わかってしまうものです。マネージャーのみなさん、注意してくださいね。

仮にそんなネガティブな環境のなかに長期的におかれたとすると、くさらないで頑張ってください、と激励されたとしても、くさってしまうものです。人間というのは理想だけでは生きていけない。給料だけでも生きていけない。社員は機械ではなくて、心と個々の生活をもった人間である。そんな基本的なこともわからないマネージャーは、面談といえば言いたいことだけを一方的に告げておしまいにしする。お客様との打ち合わせに行けば、打ち合わせの文脈に合わないようなとんちんかんな発言をして、お客様も同行したスタッフも困惑しているのに、気づかない。もっとひどいのは、言ってやった、みたいな誇らしげな顔をしていることもあるようです。EQ(=情動的な能力)に欠けるわけです。

オレがやる、といつまでもマネージャーが君臨していると、その下の人間は育ちません。君臨しているのがリーダーシップである、と勘違いしていると、長期的ならびに全体的には組織は弱体化するものです。トップの王様は気持ちがいいかもしれないけれど、ひとりっこ的なわがままで、積み木を作ったり壊したりするのと同じように組織体制を作ったり壊したりしていると、彼に使えるしもべたちはモチベーションを低下させる。それでもかなしいしもべたちは頑張ってなんとか与えられた使命をカタチにしようとするのですが、最後の最後に、こんなんじゃだめだ!と逆切れされたりした日には、あーあもう二度といっしょに仕事したくないなという気分にもなる。根っこのある植物とは違うので、人間は環境を選ぶことができる生きものです。

組織においてリーダーやマネージャーの役割は、プレイヤーではなくコーチ、脚本家や演出家のように表に立つのではなく裏側からスタッフを支援するのがベストのように思います。もちろん社風や積み上げてきた伝統などによって状況も変わるかもしれませんが、舞台に立つのはスタッフの方がぜったいに活気が生まれる。教師だって壇上から頭ごなしに教えるタイプより、教室の後ろから見守るタイプの方が信頼できるのではないでしょうか。そういう時代かもしれません。

今日読み終わった仕事関連の本のなかには、「育てるのではなく、育つ環境づくりを」という提言がありました。確かにスタッフひとりひとりがきちんと起業家意識を持ち、権限と責任を持って働くことができれば、それほどやりがいがあることはない。組織も活性化する。しかしそのための環境づくりとしては、地熱のようにそうした意識をあたためる土壌が必要になる。

子育ても同じです。まず、あたたかい愛情が大事。これは基盤です。茂木さんの本にも、10歳までは心の安全地帯としてママやパパがなんとかしてくれる、という安心感を持たせることが重要であるということが書かれていました。しかし、一方であまりにもやってやりすぎると、自分では何も考えない、できない子供になってしまう。この辺りの匙加減は、なかなか難しい。

しかしながら、今日は帰省先から東京に戻ってきたのですが、子供たちを見ていると、ああぼくがこいつらに育てられているなあ、と思う。ふたりの息子たちは、ぼくにぽかぽかな気持ちを与えてくれます。家族の地熱のような存在です。ありがとう。

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2006年1月 1日

「幸福論」Alain 神谷 幹夫

▼book06-003:意外に、役立つかも。

4003365623幸福論 (岩波文庫)
Alain 神谷 幹夫
岩波書店 1998-01

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名著らしいのですが、すみません、いまのぼくには少しだけ退屈な本でした。幸せになる方法についてはまったくわかりませんでしたが、少しだけ斜に構えて世の中を見渡す人間の視点はアランから学びました。しかしこれはある意味使えるかも。1月1日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(3/100冊+0/100本)

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「ひとつ上のアイディア。」眞木準

▼book06-002:プロの言葉は重い。

4844321889ひとつ上のアイディア。
眞木 準
インプレス 2005-11-02

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アイディアのプロの言葉には、数々の困難を切り抜けて積み上げてきた重さがあります。アイディアとは何であるか自分で言える?と自問してみました。愛である、というのはうますぎ。1月1日読了。

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「脳と創造性 「この私」というクオリアへ」 茂木 健一郎

▼book06-001:思考には翼がある。

4569633536脳と創造性 「この私」というクオリアへ
茂木 健一郎
PHP研究所 2005-03-19

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技術、小説、映画とジャンルを横断して深めつつ、けれども軽やかに飛翔する茂木さんの思考こそが、ぼくのめざしている思考でもありました。理系、文系という「文脈」を超えた思考を培うことが、21世紀に求められる教育であるようにも思います。1月1日読了。

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文脈から遠く離れて。

あけましておめでとうございます。田舎でまったりと時間を過ごしたら、正月の一日だけでもう三日も一週間も過ごしたような気分になりました。何をしたわけでもないのだけれど、なんだかとても大事な時間に浸ることができました。大事な時間というのは、日数ではないようです。内容でもないようです。いろいろな要素の絡み合う人生という文脈のなかで、ちょっと離れた場所に身体をおいたとき、ぽこっと穴ぼこのように生まれるものかもしれません。

帰省する電車のなかで、そして父の遺影が飾られた部屋で、じっくりと読書に耽ったのですが、茂木健一郎さんの「脳とクオリア「この私」というクオリアへ」を読んで、がつんとやられました。実はお名前は知っていたのですが、その著作について触れることはなかった。しかし、ひとと同様に小説や映画にも、出会うべきとき、というのがあると思います。著作としては新しいものではないのですが、2005年の終わりから2006年のはじめにこの本に出会えたことが、ぼくにとってはいちばんの幸せであり、出会うべきときに出会えた、という感じがしています。

ムーアの法則からピカソ、夏目漱石と、縦横無尽にジャンルを超えて脳と創造性というテーマについて飛びまわる茂木さんの思索は、まさにぼくがこのブログでやりたかったことであり、理想の世界でした。しかしながら、このブログを書く前に出会っていたら、たぶん茂木さんの思考をなぞることにしかならなかった気がします。まったく知らないところでぼくはブログをはじめて、ぼくなりに独自の道を模索してきたあとで、茂木さんの著作に出会って、ああよかった、という安堵がありました。

これは何かと言うと、茂木さんの言葉を借りていえば「安全地帯」をみつけたということになると思います。つまり、いままでぼくは試行錯誤してきたのだけれど、こうしたとりとめのない書き物が果たして何になるの?という不安が絶えずあった。ちまちま考えていないで動け、という声も自分のなかで絶えず聞こえていたし、もっとほかにやることはあるだろう、という焦りもあった。とはいえ、ぼくは考えることが好きなんだと思います。そして考えたことを書くことが、たまらなく楽しい。できれば、どっぷりとこの世界に浸っていたいのだけれど、なんだか不安を感じる。ひょっとしてぼくは特殊なんじゃないか、という疑問がある。ところが茂木さんの本から、それでいいんだよ、という優しくもあり頼もしい声を聞いた気がしました。これは、茂木さんの文脈に包み込まれた、という安心感でもあるのかもしれないけれど。

実はクリスマスの前に何気なく書いていたセレンディピティという言葉もこの本のなかにみつけて、おおっと感動しました。ただ、それはぼくにとってはあって当然だろう、という気もしたわけです。これはどういうことかというと、ぼくはたまに予知夢のようなものをみることがあるのですが(引っ越しの先の部屋の風景をみたり、まだお腹のなかにいる生まれてくる息子の笑顔をみたり)、それはぼくに特殊な能力があるわけではなく、いくつかの現実の可能性と、夢というものすごく曖昧なものを、文脈のなかで再構成しているんだと思うんですよね。

記憶はあいまいなものです。夢のなかの風景もあいまいです。しかし、リアルな風景とあいまいな夢(もしくは記憶)の共通項を抽出して、「つながり」を生み出す。文脈づくりとは、可能性の共通項を見出すことであり、コンピュータのように完全一致でなければダメというものではない。あいまいなものとあいまいなものを補完して、生成するものです。だからセレンディピティという言葉を本のなかにみつけた偶然だって、クリスマスに紐づけて何気なく記憶からぼくが引っ張り出してきたことを、その後買った本のなかの言葉を結びつけた(こじつけた)だけに過ぎないんじゃないかと思います。

ただし、茂木さんの本を選んだ直感、そしてその本のなかにセレンディピティという言葉が書かれていた偶然がすごい(本屋で購入したときには、まったく内容を読んでいませんでした。ほんとうに前書きが面白そうで買っただけでした)。直感と偶然が人生をドラマティックに演出してくれます。出会いというとちょっと不謹慎なイメージもありますが、偶然や直感の賜物であるところに意義がある。この意識を鍛錬していくと、求めているものが勝手に引き寄せられてくるようなフォースになるんじゃないか、なったらいいなあ、なんてことをふと考えました。たとえばネット検索でも、慣れてくると抽出された膨大な候補のなかから、こいつは違うな、これはなんか情報としていけそうだ、という判断が自然にできてくる。そんな風に、直感と偶然から出会いを創造することができたら、楽しい人生になりそうです。

何度も出てくるコンテキスト(文脈)という言葉ですが、なんだろうな?と思うひともいるかもしれません。ちょっと簡単に説明すると、というかぼくなりの解釈をまとめてみるのですが、たとえば「ぼく」という言葉があったとします。この一語だけでは、「ぼく」が何者かよくわからない。ところが「ぼくは都心の大学に通う学生です。」という文章にしてみると、「ぼく」の背景が少し見えてくる。次に「静岡から上京して一人暮らしです。」ということになると、かなり「ぼく」の生活がイメージとして広がる。誰でもそうですが、人間には生活や過去や信条などなど、その個人を中心として面や立体的に広がるつながりがあり、つながりのなかで生きている。その背景を文脈(コンテキスト)と言っているわけです。

ぼくにとっては、それこそ田舎から出てきた学生時代、ポスト構造主義を学びつつ、それをブンガク評論にどう生かしていくか、ということを考えていた時期に学んだ言葉のひとつが「コンテキスト(文脈)」でした。したがって、どこか懐かしい響きがあるのですが、社会人となってマーケティングという仕事をしている現在、父親として子供に接している現在で考えてみると、まったくあたらしい意味を生成するような気もしています。

ところで一方で世のなかには、いくつもの使い古された文脈があります。いわゆるステレオタイプな固定観念です。人脈が広くて明るいひとが素敵とか、アウトドア志向がかっこいいとか、クリエイターは私服でいるべきだ、のようなものでしょうか。世間一般で言われていることであり、あるものは広告代理店のような仕掛け人によって作られていたりもする。偏見も多い。ただ、そういう文脈から遠く離れて、正直なところ自分はどうなの?と問いただすこと。100万人がそうであっても、オレは違うね、オレはこれでいく、という新しい文脈を生み出そうとすること。そのために自分の内側から聴こえてくる声に耳を傾けること。それが大事だと思います。社会という文脈から遠く離れたところで聴こえる自分の内側の声こそが、クオリアではないでしょうか。

茂木さんの著作については、集中的に読み漁ってみるつもりです。同時に、再度この本を読み直してみて、キーワードからいろいろと考えてみようと思います。

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