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2011年1月10日

[映画] ノルウェイの森

▼cinema11-01:「僕」はいま、どこにいるのだ?

B002AQTCWEノルウェイの森 (松山ケンイチ 出演) [DVD]


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いちめんの草原、あるいは木々に囲まれた緑の風景がスクリーンに映し出されて、ああ緑だ、森なんだなとおもったら泣けてきました。その場所は、はじめて観たにも関わらず、ずっと前から知っていたような気がしました。想像力と映像の邂逅。80年代にのめり込んだ小説が視覚化され、やっと会えた、という。

映画館の闇のなかで、直子(菊池凛子さん)と「僕=ワタナベ(松山ケンイチさん)」の歩く風景は明るく、やさしい光にあふれていました。けれども、直子は躊躇いがちに言います。「私たちはどこにいるの?」。ワタナベは1周めぐってもとの場所に戻ってきたことを告げます。歩いても歩いても直子は無限ループから抜け出せない。終わりのない物語は残酷でせつない。

村上春樹さんの『ノルウェイの森』は、ぼくにとって特別な小説でした。といっても、ハルキストたちは誰もが自分なりの思い入れをたっぷり注いだ本だったかもしれません。手もとにある単行本(文庫ではない)は、1987年発行の第1刷。貪るように読み、読後は脱力して寝込むほど衝撃を受けた本でした。

だから映画化には訝りました。話題を呼んだ原作が映像化されると、がっかりすることも多々ありますよね。映画化されることを聞いたとき、薄っぺらな作品になっていたら嫌だなあ、とおもっていました。しかし、映画「ノルウェイの森」は不安を払拭するどころか、よい意味で予想を裏切ってくれました。観てよかった。

時代背景を押さえつつ、日本のようで日本らしくない映像。松山ケンイチさんのファッショナブルなかっこよさは、まるで古いモノクロの日本映画を観るような印象でした。カラーでありながら色彩を拭い去ったような謙虚さがある。そして雨降りの日の薄暗い室内も、風に揺れる草原も、あらゆるシーンが美しかった。さりげない光景を切り取るカメラの構図も丁寧な構成にも好感を持ちました。トラン・アン・ユン監督の感性の賜物でしょうか。

ある意味、村上春樹さんの小説よりも村上春樹らしい映画かもしれません。直子の繊細さ、緑(水原希子さん)の奔放さ。そして「僕」の自覚できていない残酷さ。プレイボーイの永沢さん(玉山鉄二さん)とハツミさん(初音映莉子さん)とワタナベの3人で音楽会に出かけるシーンは、フランス映画のようでした。ハツミさんの巻き上げた髪がきれいだったなあ。そして、ハツミさんがワタナベをたしなめるシーンの緊迫感。

あえて原作を読み直さずに映画に臨んだのですが、観賞後にあらためて原作を読み直すと、原作から松山ケンイチさんと菊池凛子さんのイメージが立ち上がってくるようでした。それだけ原作を大事に扱った映画なのだとおもいます。

しかし、美しいだけの映画ではありません。こころをざわめかせるものがある。


■■ 100パーセントの恋愛小説、恋愛映画。

ぼくが持っている「ノルウェイの森」の単行本の帯には、村上春樹さんの次のようなことばが記されています。

この小説はこれまでに僕が一度も書かなかった種類の小説です。
そしてどうしても一度書きたかった種類の小説です。
これは恋愛小説です。ひどく古ぼけた呼び名だとおもうけれど、それ以外にうまい言葉が思いつけないのです。激しくて、物静かで、哀しい、100パーセントの恋愛小説です。村上春樹

100パーセントの恋愛小説は、100パーセントの恋愛映画に成り得たか。ぼくは成り得たとおもいます。まず、批評になってないなあと照れくさいのを承知で率直な感想を述べるなら、「ノルウェイの森」は

キスしたくなる映画。とてもキスが気持ちよさそうな映画。

という印象でした。

110108_norumori.jpg直子つまり菊池凛子さんの唇は、いわゆるアヒル口で、上唇がめくれている印象なのですが、松山ケンイチさんとのキスシーンはとても気持ち良さそうでした。一方で、緑役の水原希子さんの唇は薄い感じで、そういう唇も悪くないなあ、と。室内でゆっくりとみつめながらのキスシーン、あるいは雨の誕生日にワタナベが直子を抱くシーンは、まるでそこにいるかのような息遣いを感じました。それは一種の息苦しささえ感じるような官能的な場面です。映像のなかに漂う雨の匂いを嗅ぎ、部屋のかすかな音さえ聴こえてきそうです。

直子とワタナベの会話は、とても静かであり、そのことばの肌触りが「近く」感じる。パンフレットから、狗飼恭子さんの解説を引用します。

松山ケンイチさんと菊池凛子さんが演じるワタナベと直子は、まるで囁きあうように会話をする。直子にいたってはほとんど吐息のようだ。
そのせいなのか、二人の会話は何を話していてもとても艶っぽく、耳元で紡がれあう睦言のように聞こえる。肩を寄せ合って生きる二匹の雛鳥のようだ。

100パーセントの恋愛小説(映画)に必要なのは、リアリティだとおもいます。そして、この映画には深くて誠実なリアリティがある。緑のことば、愛とは何?と訊くワタナベに対して、次のように答える場面があります。

「たとえば今私があなたに向かって、苺のショートケーキが食べたいって言うとするでしょ。そうしたらあなたは何もかも放り出して、走ってそれを買いに行って、そしてハアハアしながら戻って来て、それを私に差し出すの。そしたら私は『ふん、もうこんなものなんていらなくなっちゃったわよ』って言って、それを窓の外に放り投げるの。私が求めているのはそういうものなのよ」
「そんなの愛とは何の関係もないような気がするけどね」
「あるの! 私は相手の人にこう言ってほしいのよ。『わかったよ、緑、僕が悪かった。僕はロバみたいに馬鹿で無神経だった。お詫びに何か特別なものを買いに行ってあげよう。何がいい? チョコレートムース、それともチーズケーキ?』」
「するとどうなるの?」
「愛してあげるの」

このシーンにぼくはリアリティを感じました。村上春樹さんらしい洒落たユーモアの効いたフレーズで、現実に女の子はこんな会話はしないような気がする。けれども、物語内的物語のような暗喩的な会話が、逆に物語のリアリティを醸し出している。気まぐれな緑を象徴するような話であり、緑という女の子の輪郭をくっきりと描いているようにおもうのです。

ドラマとしての演出や修飾ではなく、ワタナベ、直子、緑、そしてレイコさんや永沢さんとハツミさんなどの人々の「生」が淡々と、しかしはっきりした生き様として「そこにある」と感じました。そして、映像がまるで実体験のように、こころのなかにある物語と連動する感覚がありました。映画は映像であり、小説はテキストにすぎないのですが、それだけでは済まされない何かによって、観ている/読んでいるぼくのこころが揺さぶられる。

物語における人物の相関図を、評論家の視点で構造的に取り出すことは簡単です。ワタナベ―キズキ―直子、直子―ワタナベ―緑、ワタナベ―緑―緑の彼氏、直子―ワタナベ―レイコさん、ワタナベ―ハツミさん―永沢さんなど。しかし、構造的な相関関係の輪は脆いものであって、いくつもの三角関係の輪が繋がるけれども、関係性の重さに耐えられないかのようにぷちんと千切れていく。「ノルウェイの森」は、不安定な関係性の上で紡がれては壊れていく。この脆さがリアルです。

リアリティといえば「死」も外せません。「ノルウェイの森」のなかでは、多くのひとたちが死にます。緑のお父さん、排気ガスで自殺する直子の幼馴染みであるキズキ、そして直子。原作のなかではゴシック体で強調されている次のことばを思い出します。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

この内包的な死、死を包み込む生が登場人物たちを躓かせる。

高校生のときに直子はキズキを失い、そのときからうまく喋れなくなります。人生との距離をうまく掴めなくなってしまう。ワタナベとの関係のなかで社会的な生き方を掴みかけながら、またバランスを失う。そんな彼女が饒舌にことばを吐き出す場面があります。診療所の草原をふたりで歩くシーンです。

直子は療養所の草原をジグザグに足早に登りながら、誕生日にワタナベに会ったときから、どうしようもなく濡れていた、セックスをしたくてたまらなかったと告白します。一方で、キズキを愛していたにも関わらず、彼とはできなかった。濡れなかった。だから手でしてあげていた、とワタナベに語る(後にキズキと同じようにワタナベにもそうします)。愛しているのにできなかった、愛していないのに濡れてしまった自分に対して、「どうしてそういうことが起きるのよ!」と叩き付けるように叫ぶ。

セックスと愛情の関係は、100%の恋愛小説としては主軸となるテーマといえるかもしれません。愛しているのにセックスできない、セックスしても愛していない。身体とこころを完全に「繋ぐ」ことはできずに、その決して通い合わない不完全な円環のなかで生きること。

相手を想うゆえに相手を傷付ける、存在していることが相手を傷付ける。それでも愛することをやめることができないし、やめることができないうえに欺瞞が生じる。裏切る。愛することは弱い。ほんとうに脆い。

リアリティとは脆さ、ではないでしょうか。中身のない卵のような。


■■ ビートルズの歌詞から。

タイトル通り、この作品はビートルズの「ノルウェーの森」という曲をテーマに掲げています。そこで音楽好きにはたまらない映画でした。

たとえばYMOの細野晴臣さん、高橋幸宏さんが出演されていること。細野晴臣さんはレコード店の店長さんで、カウボーイハットがよく似合っていました。高橋幸宏さんは療養所の監視員。一瞬だけとはいえ、いい味出していました。

映画音楽自体を担当しているのは、レディオ・ヘッドのギタリスト、ジョニー・グリーンウッド。歪ませてリバーブをかけたシュー・ゲイザー系の音でくるかな、とおもったのですが、ガットギターなどのアコースティックな音、バンドっぽいローファイな音が中心に使われていて心地よかった。どこかレディオ・ヘッドのアルバムを感じさせる音色でもあります。ストリングスの音作りも雰囲気があっていい。サウンドトラックのCDを買おうかどうか迷い中です。たぶん買ってしまうかも。

ところで、ビートルズの「ノルウェーの森」の歌詞をよく読んでみると、村上春樹さんの作品の世界と重なり合う文脈があることに気付きます。


NORWEGIAN WOOD (The Bird Has Flown)

I once had a girl
Or should I say she once had me
She showed me her room
Isn't it good, Norwegian wood

She asked me to stay
And she told me to sit anywhere
So I looked around
And I noticed there wasn't a chair

I sat on a rug, biding my time
Drinking her wine
We talked until two
And then she said, "It's time for bed"

She told me she worked in the morning
And started to laugh
I told her I didn't
And crawled off to sleep in the bath

And when I awoke I was alone
This bird has flown
So I lit a fire
Isn't it good, Norwegian wood

この曲を自分なりに物語風に和訳してみます。ちょっと村上春樹風に(笑)。

僕はかつてある女の子を引っ掛けた。というよりも、彼女がかつて僕を引っ掛けたというべきか。彼女は自分の部屋に連れていってくれた。悪くないね、ノルウェイの木材を使った家具が置かれた北欧風の部屋。ノルウェイの森のようだ。

彼女は僕に、ねえ泊まっていきなよ、どこにでも座っていいよ、と言った。でも周りを見回してみたんだけど、椅子なんてどこにもないんだ。絨毯に座り込んで、ワインを飲みながら時間を潰すうちに、すっかり話し込んで2時になった。すると彼女が言うんだ。「もう寝なきゃ」って。

彼女は僕に、朝から仕事なの、と笑う。僕は暇なんだけど、と言ってみたけれどもどうしようもなくて、仕方なくバスルームで眠ることにした。

翌朝、目が覚めてみると僕はひとりきり。小鳥は飛んでいってしまった、というわけだ。そこで僕は煙草に火をつけた。ノルウェイの森、悪くない。

要するにこの曲は、
「逆ナンされて、ヤレそうでヤレなかった歌」
なわけです(超訳)。

「Norwegian wood」は「Knowing she would ?」とかけているそうで、すると「ノルウェーの家具はいいね」は、「彼女がするって分かっているのはいいね」という二つの意味があるとか(『毒書のススメ』を参考にしました。非常にインスパイアされました)。

直子の家でワタナベと彼女は結ばれるのですが、その後、直子はワタナベとセックスできない。キズキとは愛しているのにできませんでした。緑は彼氏と旅行に出掛けたけれど、1週間も早く生理になってしまって、できなかった。また、ワタナベを拒む場面もあります。そんなシーンが、ビートルズの歌詞のイメージに重なります。

ジョン・レノンは自身の放蕩ぶりをこの歌に込めたのかもしれません。また、この歌が好きだという直子(レイコさんに演奏してもらうときには100円を払う)は、キズキなどとの関係を半ば自虐的にこの歌に投影していたのかもしれません。永沢さんと女の子を引っ掛けに行くワタナベの生活にも重なるところがあります。村上春樹さんのことなので、そういった歌詞の背景は自明として小説を描かれたのでしょう。

小説は、37歳の「僕」がドイツに到着するボーイング747のシートで、「ノルウェイの森」のメロディを聴いて頭を抱える、というシーンからはじまります。それは、直子のことをおもい出したと同時に、多くの女の子たちと遊んできた若い日々の記憶に頭を抱えたのかもしれません。小説の冒頭には「多くの祭りのために」と掲げられていて、若い時代へのレクイエムとして書かれたようにおもわれます。


■■ パンフレットの愉しみ、そして。

映画には、ワタナベのアルバイト先のレコードショップが出てきますが、「ノルウェイの森」のパンフレットは、レコードジャケット風です。真ん中に穴が空いているジャケットに入っています。こんな感じ。

110108_norumori1.jpg

ジャケットからパンフレットを取り出してみました。現在20歳ぐらいのひとは、ひょっとしてレコードを知らないのでは。もうしばらくするとCDの存在すら忘れ去られる時代になるかもしれないですね。

110108_norumori2.jpg

ジャケットの表面は緑ですが裏面は赤で直子(菊池凛子さん)の写真。緑と赤の配色は、小説の装丁にならったものでしょう。おしゃれです。

110108_norumori3.jpg

エンターテイメントが消費される現在、レコードジャケット型のノスタルジックなパンフレットは、80年代への想いをかきたてる仕掛けであり、ハルキストのツボをくすぐる演出だとおもったりして、まんまとマーケティング戦略に嵌まった気がしなくもないのですが、それもまたいいかな、と感じました。

最後に。うまく書けないし、書かないでおこうともおもうのだけれど、きれいにエントリをまとめましたが、実際に映画を観た後のぼくは、とても混乱していて、呆然としていました。年末の新宿の街はとてもきれいで人混みは賑やかではあったのだけれど、なぜだか現実感がなくて。そしていま、ふたたび古い本を開いて、次の行を読んでとても揺さぶられました。

「ほんとうにいつまでも私のことを忘れないでいてくれる?」と彼女は小さな囁くような声で訊ねた。
「いつまでも忘れないさ」と僕は言った。「君のことを忘れられるわけがないよ」
映画には登場しなかった37歳の「僕」と同じように、ぼくも混乱しています。
そして直子に関する記憶が僕の中で薄らいでいけばいくほど、僕はより深く彼女を理解することができるようになったと思う。何故彼女がぼくに向って「私を忘れないで」と頼んだのか、その理由も今の僕にはわかる。もちろん直子は知っていたのだ。僕の中で彼女に関する記憶がいつか薄らいでいくであろうということを。だからこそ彼女は僕に向って訴えかけねばならなかったのだ。「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」と。
そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。

忘却とともに深まる理解もある。けれどもすべて失われた後のことです。記憶のなかに生きることは難しいけれど、生きつづけている記憶がぼくを混乱させます。ぼくはいま、どこにいるのだ?と。(2010年12月27日観賞)

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トレイラー

公式ページ
http://www.norway-mori.com/index.html
110108_norumoriHP.jpg

サウンドトラック

B00409HC3Kノルウェイの森 オリジナル・サウンドトラック
サントラ カン
SMJ 2010-11-10

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インスパイアード・アルバム

B0043C3EAYフラジャイル~映画「ノルウェイの森」インスパイアード・アルバム
オムニバス カン ヴァン・モリソン サイモン&ガーファンクル ザ・バーズ フリートウッド・マック ニルソン ボブ・ディラン
SMJ 2010-12-01

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文庫

4062748681ノルウェイの森 上 (講談社文庫)
村上 春樹
講談社 2004-09-15

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406274869Xノルウェイの森 下 (講談社文庫)
村上 春樹
講談社 2004-09-15

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投稿者 birdwing 日時: 09:26 | | トラックバック

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