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2011年6月29日

ブロガーはどこへ行くのか。

ブログを書くひと、いわゆるブロガーという言葉は最近あまり使われなくなったようですが、いかがでしょうか。

TwitterやFacebookなどを使って、個人がリアルタイムで情報を発するようになった結果、「日記」は 「分記」や「秒記」 のように変わり、「いま」何を考えているかを共有することに重きが置かれるようになりました。ひとつのことをじっくり考える時間よりも、短文で秒刻みのリアルをつぶやくこと、変わっていく現実世界の刹那に面白さが見出されているようにもみられます。

かつて2004年はブログ元年と呼ばれていました。社会的な現象が隆盛する時代を総じて、なんとか元年とよく言われますが、ブログもまた元年と呼ばれて注目を浴びた時期がありました。このブログ黎明期には、ブログがよくわからないひとも多くいました。日記じゃないの?ネットで日記を公開して何が面白いの?という基本的な疑問を抱くひとが大半でした。

とはいえその後、生活の断片を日記として紹介するブログだけでなく、主として米国で社会や政治的な視点でブログを書くブロガーがジャーナリストとして地位を獲得しはじめたりアルファブロガー というネットに発言力のある人物が台頭してきたり。確かに社会の転換期だったのかもしれません。ブログ元年から7年。いまではブログが何かなどと基本的な問いを抱くひとはほとんどいないばかりか、忘れ去られつつあるようにさえみえます。

技術、つまりブログのシステムも変わりました。友人や知人とのつながりを重視したSNSに発展したり、ビデオや音楽や写真などリッチメディアを簡単にアップロードして共有できるものがあったり、多彩になりました。おもえば遠くへ来たものです。もしかすると、もはやブログはブログと呼べない別の何かになっちゃってるんじゃないかな。

最近、ぼく自身もTwitterへの投稿がメインになって、ブログのエントリがだいたい月1本程度に減少しているのですが、ブロガーとはどういう存在かについて、あらためて考えてみたいとおもいます。

振り返ってみると、はじめてブロガーということばを聞いたときの感想は、他のひとと同じようになんじゃそりゃ?でした。ただ、次第にいろいろな状況がみえてきて、自分なりに理解した瞬間、
「これだっ!!」
と背筋に電気が走ったような感覚があったことを覚えています。

趣味で小説を書いたこともあるけれど物語をつくるのが下手。長編は体力がつづかなくて、掌編ぐらいの作品しか書けません。難しくて堅苦しい論文は肌にあわず、そのときどきのニュースや瑣末な日常を描いたコラムは好きだけれど、書いて発表する場所がない。そんな自分がゆるーく文章を書いて発表する場といえば、ブログでしょ、というわけです。

漱石は小説に新しい文芸のスタイルを見出したといわれていますが、ぼくにとってもブログは新しいスタイルでした。これこれ、ぼくが待っていたのはこれなんだ、という感じ。そんなわけで、ブログにわざわざ「Blogger:BirdWing」などと記載して宣言しています。

ほとんどTwitterが中心になっていますが、これからもぼくはブログをやめないつもりです。そこで、2004年から書き続けてきた自分のブロガー観を確立してみようとおもいました。ぼくが考えているブロガー像、エントリの作法を「5つの私的ブログ作法」としてまとめてみます。


■■5つの私的ブログ作法


①アクセス数は月間1,000PVで十分。

アルファブロガー登場時には月に100万ページビュー(PV)などの凄いブロガーもいらっしゃいましたが、アクセス数は多くなくていいんじゃないかな。ブックマークなんてされなくて構いません。僻みじゃありません(笑)ほんとうにそうおもう。いや、ぜんぜん読まれないより、たくさんの方に読んでいただけるほうがいい。書籍でいうところの「20万部達成」のような書き手がいてもよいのですが、ぼくの目指しているものとちょっと違うのです。

アクセス数を上げるために努力したり、ブックマークに一喜一憂したり、それもまたブログの醍醐味かもしれないのですが、あるときぼくは気づきました。くだらない、と。というのは、ブログの場合はよい記事がアクセス数やブックマークが多いわけではありません。炎上目的の過激な批判などで煽れば、いくらでもアクセス数やブックマークの数は増やせるわけです。しかもアクセスを増やしたところで読者は、ブログの文章を全部読んでいるわけではありません。ただひとつのことばに脊髄反射しているだけのこともある。

本来、ブログはマスではないところがいい と考えています。だから100万PVもあるブログはブログじゃない。ロングテールの末端、恐竜のしっぽあたりに無数に存在して、おのおのが書きたいことを書いているのがブログらしさだとおもうのです。

等身大がいいじゃないですか。月間100万ものページビューを稼がなくても1,000ぐらいあればぼくは十分だとおもいます。ちなみに実際ぼくのブログは、更新しなくても月間700~1,000のページビューあたりアクセスされているようです。検索して、なあんだと離脱している方もいらっしゃるかもしれないけれど、ありがたいことです。それ以上を求めないし、十分だとおもっている。でもそれ以下でもちょっと寂しいかな、という感じです。


②エントリは感想・意見でOK。ただし感情に誠実に。

「何を書くか」ということはとても難しいですね。ブログでは何でも書けてしまうから難しい。ぼくがいちばんおススメするのは書評。そして音楽や映画についての感想や意見です。というのは、ブログでアウトプットしなきゃとおもって読む/聴く/観ることによって インプットの集中力が格段に高まる からです。

アウトプットとインプットのサイクルがうまく回っていくと、作品を楽しむ密度が変わります。ぼくはブログを書くようになってから、本を読んだり映画を観る機会が増えました。といっても、オレってこんなに読んでる(観てる)という量を誇示する自分語りが目的では、せっかくの鑑賞が形骸化していきます。量をこなすことによって質が変わることも確かですが、大事なことは量じゃありません。

書評などを書くときに気をつけること。「つまらない」本は「つまらなかった」と書いていいとおもいます。だって、つまんないんだもん。広告や宣伝ではないのですから、ブロガーは感じたことに誠実になったほうがよいでしょう。しかし、過剰に批判、誹謗中傷することもありません。というのは、訴えられるとか防衛的な意味ではなくて自身のためです。ブログの品位を落とすからです。

感想や意見に忠実であることは大事ですが、品性のない書き方はブログの品位を落とすばかりでなく、disることでしか快感を得られない魑魅魍魎をネットの闇から集めることになります。だから、一度クールダウンして、作品と自分の感情を客観的にみつめたあとで批判を書く。これが難しいのですが、能天気になんでもよいしょするブログ、企業の広報部が検閲したような優等生なブログより、感性に嘘をつかないブログのほうがぼくは好きです。

社会や政治・経済のことを書くのは難しい。が、そういうことを書いているブログやTwitterのつぶやきを読むと、実は意見になっていないことも多いものです。要するに、どこかのニュースでコメンテーターが発言したことの裏返しであったり、ただの所感にすぎない記事もあります。これはワイドショー好きな「おじさん・おばさん」的な記事だとおもいます。

みずからの見聞による一次情報や、独自の鋭利な視点が入れば意義がありますが、ワイドショー的なことをさも事情通のように繰り返していると感性が劣化するのではないでしょうか。要注意です。自分の感性のために。


③稼がない、儲けない、コメントを欲しがらない。

書評、映画や音楽の感想を書いていると、Amazonのアフィリエイトプログラムと連携させて、ちょっとお小遣いでも稼ぎたい・・・とヨコシマな考えが浮かぶことがありますが、そう世のなかは甘くありません。また、ブログで稼ぎたい、儲けたいとおもうと、記事のほうが商品に媚びるようになり、ブログらしさが失われます。儲ける手段としてのブログもありかとおもうけれど、そうしたブログはブログの体裁をした「広告」ではないでしょうか。広告に踊らされるのも、商品に踊らされるのも、あまり気持ちのよいものではありません。

とつぜん禅問答のようになりますが、
「欲しがるものは損なわれる」
とおもうのです。

どういうことかと申しますと、たとえばせっかく書いた記事だからコメントが欲しいな、と考えたとします。これだけ立派な文章を書いたのだから、誰かが読んでくれて「ブログ読みました。いいですね!」って書いてくれるだろうとおもう。ところがいつまでたってもコメントはゼロのまま。もともとコメントなんか付かないだろうとおもっていれば問題ないのですが、1つでも付くだろうと考えていると、期待値1にたいしてー1の損失感が生まれます。5つぐらいコメント付いちゃったりして、と考えた場合には、期待値5に対してー5の損失感が生まれるわけです。

期待という未来はそもそも実体化していない ものです。ところが、期待感を思考で定着させることによって、その未来はこころのなかで実体化する。その実体が得られなければ喪失感となる。

不満 = 理想の期待値 - 現在の満足度
という方式が成り立つような気もしています。

タラ・ハントは「ツイッターノミクス」という著書でギフト経済における通貨をウッフィーと呼びました。しかし、お金をウッフィーにおきかえて、ウッフィー亡者になるとしたら貨幣経済における金の亡者と同じことです。お金はもちろん、好意の実体化であるコメント(ウッフィー)も求めない、期待しないことが健やかにブログを運営する上では賢明でしょう。幸福・不幸は、現実と理想との落差であり、その差異をいたずらに広げると自分が苦しくなるばかりです。どうしても麻薬のように誰かからのコメントが気になるならば、コメント欄を閉じてしまうとよいでしょう。


④インディーズに徹して、矜持を正す。

インディーズの音楽がぼくは好きです。TVやステージのような陽のあたる場所で演奏する商業音楽ではなく、地下のライブハウスや路上で小ぢんまりとした聴衆を前にこつこつと曲を演奏する。働いて稼いだお金を投入して自主制作でアルバムを作る。洗練されていないし、技術も低かったりするのだけれど、何か熱さや真剣さだけは伝わってくる。大量生産のヒット工場にはない手作り感覚のぬくもりがあるような気がするのです。

ジャック・アタリは「ノイズ 音楽/貨幣/雑音」のなかで音楽家の起源をジョングルール(大道芸人)であったと述べています。路上のインディーズ・ミュージシャンはそんな大道芸人的な要素を持っているのではないでしょうか。そして、ブロガーも インターネットの世界におけるジョングルール(大道芸人) だと思うんですよね、基本的には。

ネットの世界では、網の目のようになったウェブを通じて、見知らぬひとたちが自由にトラフィックを行き交っています。トラフィックが集まる場所は開かれていて、自分の音楽を発表するのも、詩を朗読して見せるのも、インラインスケートの特技を動画でみせるのも自由です。こうしたひとたちがネットの世界におけるジョングルール=ブロガーというわけです。楽しませる内容は、最先端の情報であったり、個人的な風景のこともあるわけで、ごちゃまぜです。ときには辛辣な風刺の表現もあるだろうし、狭い地域だけにしかウケない表現もあります。ここには貨幣経済は成立しません。作品を称える賞賛がその作品の価値となります。

たとえば。インラインスケートの技をYouTubeで紹介している少女がいたとします。彼女は文字を書いていません。それでもブロガーでしょうか?

ぼくは"イエス"だとおもうのです。テキストではなくても、音声、音楽、映像、演技など自己表現となるものはすべて「ブログ」のコンテンツになります。もちろん基本はテキスト(文字)ですが、テキストで表現するだけのクリエイターがブロガーであるという制限を外したいのです。いまはテキストが中心ですが、いずれは言葉を語るように音楽を奏でるとか、日記のようにダンスのステップを踏むとか、そんなブロガーが出てくると楽しい。そしてそれを実現するだけの技術的なインフラはもう出来上がっているのです。

しかし、ネットには発表者とともに鑑賞者の厳しい目があります。よい作品にはアクセスが集まり、悪い作品を駆逐していくという自然の作用が生まれます。だから、インディーズといえども矜持を正して作品に磨きをかける必要があります。聴衆はそれほど甘くない。観衆の目が作品を磨き、さらによい作品を育てていく。大手の商業音楽にはあり得なかったことですが、視聴者とアーティストがブログのコメントで繋がれるということもすばらしいとおもいます。


⑤ライターであり、デザイナーであり、エンジニアであり。

ウェブの制作をしているとよくわかるとおもうのですが、インターネットのデザインは通常のデザインの知識だけで制作できるわけではありません。CSSやJavaスクリプトやHTML5など、さまざまな技術的な要素の知識が必要になります。場合によってはプログラムを組まなければならないことがあるだろうし、データベースと連動させた動的なサイトの場合には、システムエンジニアのような作業もしなければなりません。

ASPのブログサービスを利用しているブロガーの場合には、ただ書いているだけで十分という方もいらっしゃるかもしれませんが、一歩踏み出して、自分でサーバーを借りてブログを作ろうと考えると大きな壁に阻まれます。それが、ひとつにはデザインという壁であり、もうひとつはシステムという壁です。

ばりばりのデザイナーやエンジニアになる必要はないとおもうのですが、ブロガーである以上、すくなくともデザインや最新技術に対する関心を持っていたほうがいいでしょう。もともとブログを書いているひとには技術者・開発者が多かったため、最新技術に飛びつくことが多かった。その新しい技術への関心が、ブログパーツを面白がったり、さまざまなガジェットの登場を楽しむ文化になっている気がします。その風潮が、ブログ自体を楽しくしているとおもいます。

システムの仕様変更にわくわくしたり、新しい技術的なギミックに注目したり。「書くひと=ブロガー」という狭い部屋に閉じこもるのではなく、ブログをめぐるデザインや技術の周辺にも開いているブロガーでありたいものです。


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と、自分でエントリに書いてみて、ああ自分はこういう風にブログを書きたいのだな、こんなブロガーになりたいんだな、という客観的な発見がありました。ほかのひとはどんなふうに考えているのだろう、という関心も生まれました。絶対的なブログ作法はないとおもいます。それぞれが考えて書いてきた作法が正しい。いや間違っているかもしれないけれど、生きざまのようなもので、そうでしか書けなかった(生きられなかった)ともいえるでしょう。

ネットにしてもブログにしても、時代によって変わりゆくものです。変わっていくなかで、ときおり軌道修正や、スタイルを見直してみるのもよいのではないでしょうか。方法論ばかりに陥ると内容(コンテンツ)がなくなりますが、方法論と実際のエントリを書き上げる実践を往復することで、ブロガーはどこへ行くのか、見定めていきたいと考えています。

投稿者 birdwing 日時: 21:01 | | トラックバック

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