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2007年8月 6日

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手探り、手作りのブログ構築。

ブログライフをステップアップさせるために、初心者向けのレンタルサーバーを借りて、MovableTypeをインストールして、CSSなどを自己流でこつこつと学んで1週間。年契約のお金もコンビニで払いました。とほほ、小遣いが・・・。

そもそも英語などの外国語はもちろん、プログラム言語も含めて言語系には疎いんです、わたくし(泣)。HTMLやCSSは気になっていたのですが、苦手意識もあって、積極的に学ぼうという気持ちはいままでありませんでした。

というのはMS-DOS時代の苦いトラウマもあったからです。

いまパソコンのグラフィカルな操作を当たり前に思っているひとには信じられないかもしれないのですが、10数年前のMS-DOSというOSの時代には、パソコンといえばまず「>(プロンプト)」の横にコマンドを入力して、文字で操作するものでした。「DIR」と入力してリターンを押すと、だだだっとパソコンのなかのファイル名が表示される。ファイルのアイコンが表示されるのではなくて、ファイル名の文字です。おそろしく面倒くさい。

だからですね、無味乾燥なコマンドを覚えて、その結果を想像しなければならなかったわけです。

喩えるならば、エッチな小説を読んで実際の女性の身体をや反応を妄想するようなものでしょうか(笑)。ここをこんなことしちゃったらどうだろう、とか。違うか(苦笑)。あるいは呪文を覚えるようなものでした。呪文のかけかたが違うと、パソコンはうんともすんとも動いてくれない。

遠い昔、ぼくはDOSの呪文を必死になって覚えたのですが、Macintoshの登場と、それにつづいてMS-DOSもWindowsというGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)に変わって、覚えたコマンドは何も役に立たなくなってしまいました。マウスでドラッグ&ドロップしてフォルダごとファイルをコピーできるなんて、びっくりでした。と同時に、いったいぼくの苦労はなんだったのでしょーか(泣)とかなしくなったわけです。

というわけで、HTMLやCSSなんて覚えなくても、いずれそんなもの不要で使えるようになる時代が来るんじゃないか、ワープロ感覚でサイトなんかできちゃうのではないか、と思い、覚えなくてもいいや、と達観していたわけです。

現在、そんな理想はある程度は実現されていると思います。けれどもいま、システムの部分から自分でやろうとすると、ある程度、コードの知識も必要になる。そこで、家で埃にまみれていたCSSの本を俄然むさぶるように読むようになりました。それに、本など購入しなくても、インターネットで検索すると、ほんとうにいろいろなひとがいろんな解説をしている。これがとても参考になりますね。

無料のデザインテンプレートも公開されているので、探して組み合わせていけば、それなりのものがすぐに出来てしまう。ついでにコードを見て、ここはどうなってるのかな?と確認して、なんとなく構造が理解できると手直しもできる。便利な時代になったものです。あっちのパーツを引っ張り出し、こっちのパーツを組み合わせているうちに、手作り感覚でなんとなくブログらしくなってくる。書きながらいろいろなパーツを追加して進化させることができる。これが結構楽しい。

ちなみに、テンプレートやデザインでは以下のようなサイトを参考にしました。

■テンプレートで参考にしたサイト

アットスタイル(このブログのテンプレートを使わせていただきました)
http://atstyle.biz/blogtemptop.php

Vicuna
http://mt.vicuna.jp/

トウキョウブッダ
http://tokyobuddha.com/download/index.html

小粋空間
http://www.koikikukan.com/

それにしても、今回いろいろとトライアルをして、サービスを提供することの大変さを身をもって知りました。いやー、ひとつひとつサービスを作り上げて行くのは大変なことです。プログラマーも大変だけれど、デザイナーも大変だ。完成品を文句を言いながら使うぼくらは、どんなに楽なことか。

YouTubeではブログに埋め込むコードを生成してくれて、それをコピーしてブログに貼ればいいので簡単なのですが、どうすればいいのかわからなかったのがAmazonの本やCDを紹介する仕組みでした。けれどもこれも検索したところ、すぐにG-ToolsというWebサービスをみつけた。ぼくは初心者なのでまだまだ無知ですが、こういう便利ツールはもっと他にもあるように気がしています。時間があれば探してみよう。

ところで、Webサイトの基本であるHTMLのコードは、その内容(要素)の開始を宣言+終わりを宣言する、というようなペアの構造になっているようです。 ~内容~という感じ。最後は必ずスラッシュ(/)で閉じます。CSSも基本的に、開始と終了のコードがあります。というか、プログラムのコードってみんなそうなんでしょうかね。

この終わりの宣言というのが結構大事で、終わりの宣言をうっかり消してしまうと、レイアウトがぐちゃぐちゃになったりする。

そこで思わず連想したのは、

人生に似ているな

ということでした。物事にしっかりとけじめをつけないと、人生のデザインが、がたがたになる。無味乾燥なCSSから人生論を連想するのは、ぼくぐらいかもしれませんが(苦笑)。

優柔不断なぼくは、なかなかけじめというものをつけられないのですが、人生の節目に「/(スラッシュ)」によるコードをきちんと書き込もうと思いました。まあ、書き込むのに勇気がいるときもありますけどね。

投稿者: birdwing 日時: 23:44 | | トラックバック (0)

2007年8月 3日

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知のオープンソース、あるいは素敵なメイキング。

少し前になりますが、茂木健一郎さんがブログで次のようなことを書かれていました。「やがてうっそうとした」というタイトルのエントリーから引用します。

以前から、私は、
「クリエーターは言い訳をしては
いけない」と言い続けてきた。

 芸大の授業でも、学生たちに
そう言ってきた。

 作品として顕れるものが
全てで、
「本当はこうだったんだ」
とか、
「こういう意味なんです」
などと説明してはいけない。

かっこいいですね。でも、ぼくはあえて異議をとなえたいと思いました。

言い訳はよくないかもしれないが、クリエイターはもっと制作の過程について語ってもいいんじゃないか、いやむしろ語るべきではないか。茂木健一郎さんのような脳の創造性を解明しようとしているひとが、そんなことを言っていていいのでしょうか、と。

多くのクリエイターが、創作過程を才能というブラックボックスに閉鎖しがちだと思うのです。「きみの作品かっこいいなー。どうやって作ったの?」と訊いてみると、「ふっふっふっ。クリエイターは語らないのだよ。才能だ才能」なんてことを言ったりする。訊くんじゃなかったよ、むっかーと腹が立つこともあるのですが、才能と言う特権で片づけてしまうと、誰も近づけないじゃないですか。そこで思考停止してしまいます。才能のないやつお断り、のような排他的な何かが漂う。

あるいは「語らない」のではなくて「語れない」のではないか。創作過程を語るためには、まずクリエイターが創作者としての自己を客観視する必要があり、自らの創造のプロセスを構造化しなければなりません。これが実はかなり大変です。インスピレーションというかたちのないものの連続である創造の現場は、そう簡単に言葉にできない。達人には、身をもって教えなければ習得できない技があるように、単なる理屈だけで習得できない何かがある。

けれども曖昧なプロセスを明確なかたちにすることは、クリエイティブな作業においてはとても重要ではないかと思います。むしろ言葉化しなければ、次のフェーズにも進めない。言葉化することによって、何を創ろうとしていたのか方向性を見出せることもある。

ちょっと考え方を変えてみると、ドラッカーの本を読んでいてぼくが感銘を受けたことがありました。彼はビジネスマンはエグゼクティブであれと主張するのですが、エグゼクティブとは才能ではなく、こつこつと積み上げていけば誰にでもなれる、という考え方を提示していた点です。彼の理想とするエグゼクティブは、特権階級というブラックボックスの存在では終わらせなかった。

また、ドラッカーは予期せぬ成功も分析せよ、と述べています。予期せぬ偶然は構造化なんかできるわけないでしょ、と凡人のぼくは考えるのだけれど、彼はその偶然を分析するところに意義があると問う。凡人であっても努力すれば変わることができる、才能のないぼくを元気付けてくれる言葉に共感しました。その考え方をぼくの生きる姿勢として持っていたいと思った。

さらに話は変わりますが、現在、ウィキノミクスという本を読んでいます。

482224587Xウィキノミクス マスコラボレーションによる開発・生産の世紀へ
井口 耕二
日経BP社 2007-06-07

by G-Tools

ウィキといって思い出すのはWilkipediaですが、あの膨大なオンライン百科事典は、すべて一般のひとが書いている。かつて知識は博識な学者だけが持っていて、ブリタニカのような由緒のある出版社でなければ編纂できないものでした。それが、一般の誰でも参加できるようになりました。

このオープン性が、今後の社会を考える上で重要な鍵になる気がしています。

LinuxというOSは、フィンランドのリナス・トーバルスという学生が開発したものですが、彼は自分のシステムを秘密にしないで、すべてコードを公開してしまいました。こうやって作ったんですよ、と手の内をみせてしまったわけです。けれどもその太っ腹感に打たれた世界中の開発者が彼のコードを手直ししてあげた。それは営利を追求するマイクロソフトとはまったく別の方向にある動きですが、だからこそマイクロソフトも脅威を感じていたわけです。

技術ではなく知識も、閉鎖的に個人あるいは企業の秘密として抱えているのではなく、大勢のひとに開いていくことで相乗効果を生むことも出来るし、改善されていくのではないでしょうか。

ぼくは趣味でパソコンを使ってDTMによって曲を作っているのですが、制作中に考えたことを、できるかぎりブログで公開していこうと考えています。そのときに考えたことを作品といっしょに残していきたい。それは「言い訳」ではなくて、表現したいと考えているひとたちのきっかけになればよいと思うからです。知のオープンソース、といってしまうとかっこいいですが、実際にはただの創作裏話的なつぶやきかもしれないですね(苦笑)。

ただ、音楽を作っているひとの参考にならなくても、ひょっとすると文章に悩んでいるひとのひらめきを促すことになるかもしれない。ぼく自身も文章表現に悩むことが多いのですが、文章家の本ではなく、深澤直人さんなどデザイナーさんの書いた書籍からヒントをもらうことがあります。まったくジャンルの違うひとたちが書いたものが表現の参考になることもある。

というよりもそもそも、ぼくはメイキングが好きなんです(笑)。映画もそうだし、音楽なども制作現場の裏話などを読んだりドキュメンタリーを観たりするのが楽しい。サウンドレコーディングマガジンなどの雑誌に坂本龍一さんの創作についての考え方などが掲載されていると、むさぼるように読んでしまう。ビートルズの「レコーディングセッション」という録音裏話の集大成的な本は、ぼくにとってはバイブルでした。

4401612973ビートルズレコーディングセッション
内田 久美子
シンコーミュージック 1998-12-10

by G-Tools

言い訳をするのは男らしくありませんが、クリエイターはもっと創作論について語るべきではないか、とぼくは考えています。なので、ぼくはクリエイティブの方法論について語っていくつもりです。理屈っぽくなりすぎないように注意しながら。

投稿者: birdwing 日時: 22:20 | | トラックバック (0)

2007年6月 7日

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リアルのほうへ、光のほうへ。

どんなに鋭い社会批判のブログを書けるブロガーよりも、ネットの外の世界で行動し、いま自分が直面している生活を少しでもよい方へ変化させ、わずかでも現実生活を変革できるひとのほうが優れているのではないか――仕事が一段落して、なんとなく空いた時間でブログを読んでいたのですが、そんなことをふと考えました。

ぼくが読んでいたブログでは、たまたま社会批判的な文章を書いているブロガーどうしが、どっちが偉い?のような論争をしていて、またそれをブックマークしてコメントしているひとがいて・・・というネットらしい批判の入れ子状況になっていたのですが、そんなものに接していたら、なんだか不快な感覚が募って気持ち悪くなった(苦笑)。ブログもブックマークもどうでもよくなってしまった。これは不毛だ、と。それをまたゆるく批判している自分も不毛ではあるのですが、あえてまず前提としてそのことに触れておきます。

要するにぼくは、いわゆるネット特有の何か(閉ざされた世界のようなもの?)が好きではない、ということにあらためて気付きました。そのことを確認したからといって何にもならないのですが、たとえば瑣末な部分では、ネット内だけで通用する顔文字をあまり使いたくありません。匿名ブログを「増田」と呼んでしまう隠語のようなものも好きではない(というか嫌いだ)し、それを使っているようなひとにはできれば近寄りたくない。使うのは本人の自由だけれど、なんだか生理的な嫌悪感があるんですよね、そういう場所でストレス解消しているひとたちに。生理的な嫌悪感なので、理由はありません。ただ個人的に嫌いである、関わりたくない、という。

だからブックマークで批判的なコメントを付けて溜飲を下げているひとたちも、率直に言って嫌悪感があります。梅田望夫さんの言葉を借りれば、そんな場所でこそこそ批判しているくらいであれば、誰かを褒めたり、自分で何かを創造的なことをした方がずっといい。あるいはその時間に仕事に集中すれば、もっといい仕事ができるはずではないか。そんなところで批判しているのは現実から逃げているだろう、と。

けれども、逆に痛々しいぐらいにリアルな自分をさらけ出しているブログには好感を持ちます。社会批判があったとしても(あらゆる批判があったとしても)、文章にそのひとなりの生きざまがある。そういうブログはいいですね。どんなに不器用で不恰好だったとしても、そんな風に生きているひとは応援したいし、継続してブログを読みたい。少なくとも社会批判ブログでどっちが上だ?どっちが物事をよく知っている?という背比べをしている論争や知識をひけらかすだけの文章よりも、読みごたえがある。というのは、どんなに暗いことを書いていても、このひとは生きてるなあ、という眩しさを感じるからです。他者とは比較できない圧倒的な力を感じる。お前と俺とどっちが上?というようなくだらないことにこだわっている老人のような暇がない。密度の高い「いま」を生きている。

かつて別のブログを書いていたときにトラックバックをいただいた方があり、女性の方だったのですが、ものすごく辛辣な社会批判などを展開されていました。ただ、ぼくとしては彼女に好感を持っていた。個人批判をしないという自分なりのルールを定めている姿勢とか、歯に衣を着せない鋭い文章だとか、それでいて時折みせるちょっとおちゃめな部分とか、そんなところが気に入っていました。さすがに陰湿すぎる文章のときは引きましたが、その文章だけが、そのひとのすべてではない。人間そういうときもあるじゃないですか。多様性のなかで生きているものです。だから、世のなかをすべて負の力で解釈してしまうときがある。でも、ピンポイントで判断できない。 それがそのひとのすべてではない。

ところが久し振りにアクセスしてみると、その方は、ブログで一切の発言をしないことにしたと声明を書いたまま更新が途絶えてしまっていました。どうやら、「おまえは何様だ?」というコメントの書き込みが連続して、精神的に消耗し、別に自分が書かなくてもいいだろう、という結論に達したとのこと。なんだか非常に残念です。書きたいことを書けばいいのに。 というか、おまえは何様だ、とダイレクトにコメントを付ける配慮に欠ける暴力的な通りすがりの訪問者こそ、おまえが何様だよ、と思う。

余談ですが、こんな風に曖昧に引用すると「どうして実名を挙げないんだ?」のようなコメントをいただくことがありますが、なんでも明らかにしなくてもいいんじゃないでしょうか。実名を出してリンクやトラックバックをすることによって、誰かを批判することだけに喜びを見出す病んでいるひとたちをそのページへ誘導してしまう場合もあります。だから、手当たり次第リンクしたり、ダイレクトにコメントすることが正しいとはいえない。ときには抽象化することも必要だし、沈黙する必要もある。成熟した大人の思考の方であれば、わかっていただけると思うのですが。

今回は別としますが、最近ぼくがこのブログで心がけていることがあります。ブロゴスフィア内の誰かが書いたことをネタとして引用してブログに書かない、ということです(SNSのような場所では別ですが)。

茂木健一郎さんや梅田望夫さんのブログは別格として、その他のブログに書かれたことを仲間内だけで相互引用する馴れ合いは気持ち悪いと思うし、何か新しいものが生まれるかというと、とてもそうは思えない。もちろんぼくだって、どこかのブログに影響を受けるときもあるのだけれど、内容のないブログを書いてただリンクやトラックバックするだけが感謝の伝え方ではない。影響を受けたことをきちんと感謝しつつ、さらに自分の解釈や言葉を加える表現をした方がいいのではないか。

あるいは、ネットのなかで完結するのではなく、リアルに開いていくこと。そちらのほうが重要でしょう。ここでいうリアルは日記的な現実の生活である必要はなくて、映画や本や音楽であるとか、自分の五感を通じて得たものであってよいと思います。思考や妄想であってもいい。楽しいことだけを選んで書かなくてもよくて、かなしみやつらさがあってもいいのだけれど、その向こう側に光を見出せること。

そんなブログを書けたらいいですね。いや、書きたいと思っています。 リアルのほうへ、光の当たるほうへと意識を向けながら。ネットの闇に背を向けつつ。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2007年1月 4日

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助走としてのゼロ。

多様化された社会、というと一般的にはグローバリゼーションなどを指すと思うのですが、ネットとリアルという意味でもぼくらの生活は多様化しています。そして何をコンテンツとするか、ということも多様です。

ブログのコンテンツとしてはこれが優れている、こう書かねばならない、というルールはなくて、書きたいことを書けばいい。けれどもブログが世のなかにこれだけ普及して定着化することにより、さまざまな試行錯誤を経て、少しずつ方向性もみえてきたような気がします。そして、ブログのほんとうの面白さはこれからかもしれない、と考えています。

解凍された過去

実はぼくは2004年の11月から、はてなでブログを書き始めていました。

もう少し補足すると、その年の6月に某SNSで日記を書き始めていて、それがぼくのブログ(日記)のはじまりでした。SNSでなんとか書くことに慣れたので、ブログに移行しました。たぶんITの感度が高いひとたちは2003年には日記を書いていたと思うので、それほど早いスタートとはいえません。はてなで書き始めた翌月ぐらいに、学生時代の知人たちと4人で書く同窓会的なブログもスタートしています。そこでTypePadの管理機能なども学びました。

はてなで書き始めた日記は仕事の備忘録的なメモで、翌年の4月まで書いて中断していました。その後、古い日記は削除して、2005年の11月にリスタートしています。削除された過去の日記はパソコンのハードディスクに氷漬けにされていたのですが、昨日、解凍し、2004年に書かれたものを再度このブログにインポートして掲載してみました*1。

いまとなっては恥ずかしい文章です。知識に間違いもありそうなのですが、きちんと書いているなあ、という気もします(笑)。ただ、当時はいまよりずっと苦労して書いていたような気がするのですが、これだけの文章量だったっけ?という印象もあります。

回答のない未来

ぼくはブログで日々さまざまな局面で考えたことを綴っていこうと思います。

考えて綴ることで、立体的な思考をめざしたい。立体的な思考とは、好き/嫌いのような二元論を超えて、もっと多様な視点から3次元的にモノゴトを考えていくことです。

もちろん日記的なこともあるし、仕事に関連することの考察だったりもする。もともとぼくはSNS=プライベート(子供のこと、趣味のこと。改行を多用した文章)、ブログ=パブリック(仕事のこと。ブロックで書く大量のテキスト中心)というスタイルを使い分けていました。しかし、そのスタイルを混在させたかたちでブログで展開できないかと考え、去年までその方法論を追求してきたつもりです。

うまくいった部分もあると思います。けれども、うまくいかない部分もたくさんありました。プライベートとパブリックが錯綜することで、ついつい感情を吐露してしまったり、書きすぎてしまうことが欠点でした。そして、うわべだけの責任のない言葉を使っていないか、言葉の暴力をふるっていないか、ということを常に考えることにしています。それはブログを通じて得た貴重な経験でもあります。今後、いちばん大切にしたいことです。

正解はありません。ブログを書くこともそうですが、生きることにも正解はないような気がします。もしあるとすれば、自分で正解をみつけることが大切であると思います。みつからないかもしれませんが、みつけようとするベクトル(信じてつづける強さでしょうか)が大事という気もします。

そして、2007年1月というゼロ地点

と、自分の過去などを簡単にまとめてみたのですが、今年も仕事×家庭×趣味をクロスオーバーさせたブログを書きたいと思っています。

また、去年は個人プロジェクトとして、年間本を100冊読み、映画を100本観るという課題をすすめてみました。結果として本は92冊(92%達成)、映画は81本(81%達成)でした。

数量じゃないと思います。また、ランキングでもない。ぼくは作品に優劣をつけたくありません。もちろんひどい作品はきちんとひどいと言いたいけれど(笑)、優劣を比較するものじゃないでしょう。というわけでぼくはレイティング(5点で評価するとか)をしていないのですが、どんなに短くてもひとつひとつの作品には感想をつけました。その定性的な評価がぼくにとっては、重要であると考えています。モチベーション管理にも通じるかもしれないのですが偏差値のような基準で人間の価値を測るのはくだらないと思うし、ロングテールの時代には、大多数がよいと言っていなくても自分がよいと思った作品が断然よいものだ、そのよさを自信をもって言うべきだと、ぼくは(あくまでも私見ですが)考えています。

そこで、今年はどうしようか、と思ったのですが、ぼくはそもそもDTMを趣味としていて、音楽が好きじゃないか、ということを思い出しました(今頃、思い出してどうする)。そこで今年は、音楽も加えてみようか、と。つまり、

*年間本100冊+映画50本+音楽50枚

でいこうと思います。いま、購入(中古含む)とレンタルなどをどのように配分しようか悩み中。楽しむのはいいんだけど、お金もかかるのが困りものです。音楽に関していえば、新譜も聴いていきたいのですが、ロックの名盤といわれているものをぼくはまだずいぶん聴いていないような気がする(ものすごく偏って聴いてきたので)。そんな基本をフォローしてみたいとも思っています。

去年達成できていない部分を、今年になって100冊達成!までつづけるということも考えたのですが、去年はもう終わっちゃったし、まあいっか、と。そんなわけで今年は今年であらためて始めることにします。さらに、やっぱりカテゴリー化されていないと後々に面倒なので、はてな記法も学んでもう少しブログの書き方も勉強します(苦笑)。

趣味のDTMでは、今年は生楽器×打ち込みというスタイルを研究するつもりです。昨年は1ヶ月に1作品、などと考えたりもしたのですが、焦って公開しないでのんびり癒し系の曲、ちょっと実験的な曲などなどを創りたいです。

本来であればこういう方向性は頭のなかにしまっておいて、実際に書け、行動しろ、ということが重要だと思うのですが、年初でもあり(といっても、あまり年初に気合の入っている感じって好きじゃないんですけど。もともと脱力系なので)、ちょっとまとめてみました。

*1:インポート中に修正を加えたら2重にインポートされてまいりました。それからコメントもいただいていたのですが、インポートできなかった(泣)。せっかくコメントいただいた方々には申し訳ないです。でもローカルにはきちんと残っていて、あらためて読み直して考えるところが多くありました。

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2006年8月12日

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リアルライフの拡充。

今日の午後には、ものすごい雷鳴と豪雨でした。カミナリは電気で、豪雨は水にすぎないといえばそれまでなのですが、そんなものとして還元できない凄さがあります。人間だって、身体のほとんどは、水分で脳の活動は微弱な電気にすぎないのだけど、そんなものがどうして楽しんだりかなしんだり、つらくなるのだろうと思う。不思議です。

そんなめちゃくちゃな天候のせいか、飲みほうけたり仕事のあれこれストレスが蓄積されてしまったせいか、本日は非常にテンションが低く、ぼんやりと過ごしてしまいました。トレーニングと同様、ブログも書きつづけていると、書くことが習慣になるので苦にならなくなるものです。けれども一日でも止めると、なかなか身体が重くなって、書くことは苦痛になったりします。ただ、その苦痛を押して書きはじめると、いくらでも書けるようになってしまって、かえって書きすぎたりする。ほどほどがいちばんよいのですけどね。

ブログを書いて変わったことといえば、最近は、テキストで考えるようになりました。ブログ症候群といえるのかもしれないのですが、通勤電車に乗っているときに、書きたいアイディアがひらめくと、知らず知らずのうちに頭のなかでテキストを生成している。つまりイメージのキーボードをぱちぱちと打って、この部分は言い換えたほうがいいな、など推敲しているわけですが、そうやってエアーキーボードで打った文章は覚えていることもあれば、すっかり忘れてしまうこともある。かつては忘れてしまうことがものすごく悔やまれたのですが、最近は忘れるがままに任せているようなところがあります。

というのは自分が生成するテキストに執着がなくなってきた、ということもあるかもしれません。以前は、きちんと書いたものをバックアップしていたのですが、最近は書いたものが莫大な量になってきて、消えちゃってもまた書けばいいや、という妙な楽観主義になってきている。書き流してしまっているともいえます。果たしていいのだろうか、と思う。最近読んだマーケティング系のブログで非常に示唆に富むものがあり、刺激を受けました。日々の雑感をまとめるのもいいのですが、もう少しきちんと書きたい意識も高まっています。

さて、本日から夏休み(第一弾)に入りました。夏休みなのでリアルライフを充実させるために、1週間ほどブログはお休みすることにします。ゆっくりと充電&放電して、またブログの質をあげていきたい。

お忙しい方もいるかと思うのですが、みなさま、よい夏をお過ごしください。

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