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2006年8月11日

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混在する文体が生むもの。

最初のうちは明確にそうではなかった気もするのですが、ぼくはブログを書いているうちに、「ですます調」と「である調」が混在する文体を使うように変わっていきました。

なぜ「ですます調」を選択したかというと、これは自分でも意識していて、時として厳しい批判にもなりがちな文章なので、クッションが必要であると考えたわけです。また、それでいて実はのんびりとやわらかい文章を書いていたいので、ひらがなの持っているやわらかさを生かしたかった。「ぼく」という言葉を「僕」という漢字ではなくて、ひらがなにひらいているのも、意図的なものです。ただ、である調の断定の強さや歯切れのよさも捨てがたく、結果としてふたつの文体が混在するようになってしまったのだと思います。学校の作文の授業的には、ゆゆしき文体かもしれないのですが、なぜかこの文体が自然であって、いまではすっかり定着しています。

この文体の混在について、いま読んでいる冷泉彰彦さんの「「関係の空気」「場の空気」」という本にも書かれていて(現在、P.132を読書中)、非常に考えさせられるものがありました。

4061498444「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)
講談社 2006-06-21

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表現を混在させることは、言語学においては「コードスイッチ」と呼ぶらしく、「流行するコードスイッチ話法」という章(P.96)でそのことが触れられています。

まず、コードスイッチは最近になって登場したものであり、80年代ぐらいまでにはそうではなかったと書かれています。

八〇年代ぐらいまでは、話し言葉の場合、相当に親しく対等な関係では「だ、である。」、それ以外のフォーマルな場では「です、ます」体という枠組みが存在していた。その枠組みの中で話している限りでは、お互いに違和感なく会話ができたのである。

作文指導のなかでも守らなければならない基本中の基本であり、このルールを無視するとまず作文では落第点だったのかもしれません。ところがいまでは、教師がそういう口調になっていると冷泉さんは指摘します。小学校高学年の教室における先生の次のような言葉を例に挙げています。

「みんな、いいかな(だ、である)。そろそろ、時間ですよ(です、ます)。できた人は出してね(だ、である)。そうそう、名前を忘れないように注意してくださいね(です、ます)。」

この実例は説得力があります。テレビのドラマでも、そんな口調になっています。冷泉さんは、この教師は「だ、である」調の「ストレートっぽさ、パーソナルな感じ」を使って子供たちとコミュニケーションを促進するとともに、教師として「フォーマルな、そして厳かな宣言」にするために「です、ます」調を使っているとします。そして次のようにまとめます。

そして、文体を変えることで、リズムの変化がつき、一方的にその場を支配している冷たい感じを避けることができるのだ。

なるほど、と思いました。ただ、ぼくとしては違和感があったのは「だ、である」調の方が、フォーマルな感じがしたことです。というのは論文調だからということもあるかもしれないのですが、選挙演説にしても「だ、である」で語った方がストレートで説得力がありそうで、率直にいうと偉そうに聞こえる。俺様的な言語である、といえます。男性的かもしれません。一方で、「です、ます」はものごしがやわらかく、女性的かもしれない。ということは、それらが混在するというのは、男性/女性のハイブリッドな文体、といえるのかもしれない。

さらに考えてみると、論理的な左脳発想をするときには、「だ、である」調の方が論旨がはっきりしそうです。一方で、「です、ます」にすると、せっかく骨格のしっかりした論旨も輪郭がぼやけたものになってしまうのですが、一方で右脳的な感覚のみずみずしさが生まれる。

冷泉さんはこのコードスイッチ話法が、「下から上には使えない」とします。つまり上司から部下に話をするときには、混在話法でもかまわないのだけれど、部下が上司に話すときには「です、ます」調限定となる。最近は、上のものにタメ口をきくような若い人も増えてきたらしいのですが、原則的に部下が上のものに、「だ、である」調を使うのはNGとのこと。

ここで、日本語が「対等」であることを取り戻すべきであると書かれていて、ただ対等であるというのは部下がぞんざいな言葉を使うことではない。本来持っていた上下の関係を健全にすることが対等であり、「対等」ではないから「日本語の窒息」が生れる、とぼくは解釈しました。さらに、上のものだけが「だ、である」調を許されているということは、上のものだけにストレートにものを言う権利があるということで、だからこそ下のものの言うことを聞かなくなる。そこに、やわらかい「です、ます」調を混在させること、つまり「組織としてこれは常識だ」「俺の言うことを聞け」という命令口調ではなく、「きみの言っていることはつまり、体制に不満があるということですね」という表現を組み込むことで、コミュニケーションも円滑になる。コーチングにおいても、文体的なテクニックが重要になる気がします。

冷泉さんが使われている窒息という言葉は「空気」という観点から出てきた言葉だと思うのですが、理屈ではなく空気によって正しいか間違っているかを決定する日本の社会について鋭い視点が示されていて、とても面白かった。これは山本七平さんの「「空気」の研究」という本に書かれている視点を下敷きにしているらしく、ついついこの本まで買ってしまいました。

4167306034「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))
文芸春秋 1983-01

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ぼくはこのブログで、俯瞰的な視点、複眼的あるいは立体的な思考をめざして、いろいろなことをとりとめもなく考えたり、本を読んだり映画を観たりしているのですが、そもそも思考が立体であるためには文体もハイブリッドである必要があり、「だ、である」「です、ます」が混在していて、緊張と弛緩が同居していること、論理と感性を切り替えつつ使っていることが重要になります。したがって、このハイブリッドな混在した文体は必然的なもので、この文体があるからこそ立体的に考えようという姿勢を維持できるのかもしれないな、とちょっと思ったりしました。

一方で、いま電車のなかで化粧をしている女性も多いのですが、山田ズーニーさんの本では、そのことを他者がいないというような指摘をされていたような気がします。けれども、このような社会的な現象もコードスイッチ的であるといえるかもしれません。フォーマルとそうでない部分が混在しつつある。音楽を携帯する、電話を携帯する、ということも同様であって、ぼくらは非常に混在した複雑な世のなかに生きているような気もします。だから、問題はややこしい。

ところで、脳も身体の一部であり、身体と思考が密接に関わっているように、文体と思考も密接に関わっているのかもしれません。ということを書いて思い出したのですが、ぼくの卒論のテーマはそれだったんですよね。身体論=文体論のような観点から、漱石の「草枕」を読み解いたのでした。草枕の冒頭で、主人公である画工は坂道を登りながら住みにくい世のなかを考えます。端的なアフォリズムのような結晶化された文章は、登りながら(=身体)考える文体であって、だからこそ一種の超越した感じがある。坂道を下りながら考えたとしたら、草枕の冒頭はもっとだらだらと歯切れが悪く転がるような文体だったかもしれません。

思考に影響を与えるものだからこそカラダをもっと大事にしなくちゃ、と考えました。ただ、最近は文章を書くことで健康になっていくような感じもします。何が変わったのか、自分ではわからないのですが。

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■追記ですが、はてな人力検索の「コップに水をおいて、一方にはいい言葉をかけ、もう一方にはきたない言葉をかけると、あきらかに違う変化があるって本当ですか。」という質問にtawawajapさんが回答されていて、そこでぼくのエントリーを引用されていました。リンク元を辿って気付いたのですが、引用していただいてありがとうございます。

今回のエントリーにも関連していると思ったのですが、植物はともかく、言葉を操る生き物(By 小森陽一先生)であるぼくたちにとっては、どのような言葉を使うかによって、思考はもちろん、思考を通じて身体の状態にも変化をもたらすことがあるような気がしています。植物のことはわかりません。わからないけれども、同じ地球上の生き物であれば、通じる言葉があるかもしれない(ないかもしれない)。

ところで、上記の人力検索のなかでdaikanmamaさんが紹介されている「水は答えを知っている」「水からの伝言」については、ぼくは「出現する未来 (講談社BIZ)」という本で知りました。

水といえば、冷泉さんは山本さんの「「水=通常性」の研究」に書かれていることから、「水」を差されることで「空気」が消えるとして、正しくなくても押し切ってしまう日本の社会の「空気」という無言の圧力を収束させる現象は「水=通常性」である、ということについても述べられています。

無理やりこじつけてしまうと、ぼくの下の息子は喘息で、発作が起きると酸素が足りなくて非常に苦しみます。そして喘息になってから、寝る前などに水をごくごく飲む習慣ができました。ほんとうにでかい音を立てて飲むので、びっくりします。でも、水と空気はぼくらにはなくてはならないものということは確かです(8月12日追記)。

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■あ、あとさらにリンク元で焦ったのは、altavistaで英語に翻訳して読んでいる(ではなくて読んでいただいている)ひとがいる!趣味のDTM関連で、海外のVSTiサイトにリンクを貼ったからかもしれないのですが、きちんと書かなくちゃとあらためて思いました(8月12日追記)。

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2006年7月27日

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ふだん着の言葉と、継続は力。

めぐりめぐってまた同じ場所に戻る、というか、ぼくのブログは途方もない繰り返しと循環だと思うのだけど、最近はそれでいいのではないかと思いつつあります。そして、小森陽一先生が文芸評論家であることを公言したように、ぼくはブロガーであることをきちんと認識しようとも考えています。アルファもベータもつかない、ただのブロガーです。それはただのオトコであるとか、ただの会社員であるとか、その意味に等しいものであり、特別である必要はない。プロダクトデザイナーである深澤さんの言葉を借りるならば「ふつう」であることを大事にしたい。

ロバート・スコーブル+シェル・イスラエルによる「ブログスフィア」という本も読み始めたのだけど(また買ってしまった(泣)。夏よりもぼくの財布のなかの方が熱い。火の車です)、その冒頭で、ブログは生身の言葉であることが重要ということが書かれていました(P.8)。

4822245292ブログスフィア アメリカ企業を変えた100人のブロガーたち
酒井 泰介
日経BP社 2006-07-20

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ブロガーは、ブログを通して、とにかく単純に会話をする。投稿には文法ミスも多い。話題があれこれと移り変わっては、堂々巡りもしたりする。質問、提案、議論のふっかけなどによって、ブロガー同士のさやあてが起きたりもする。だからこそ、彼らの間に信頼が生まれるのだ。ブログ界の草分けのひとりデイブ・ワイナーは、このやり取りを「ふだん着の会話」と言う。

では、ふだん着の会話の反対は何かというと、「スーツ」だそうです。それは企業においては広報の言葉でもある。

さらにブロガーは、大多数の人々と同じように、企業の公式スポークス・パーソンの如才ない流れるような言葉遣いを、総じてうさん臭く思う。ブログ用語で「スーツ(お歴々)」といえば、投稿者が生身の人間ではないという含みがある。広報担当者の奇妙な言葉遣いは「コープスピーク」と呼ばれ、それは慎重な法律用語とマーケティング的誇張があいまったつじつまの合わない物言いを指す。コープスピーカーは、相手が聞きたいときにではなく、自分の都合で勝手に語りかける。

一時期、広告の時代は終わってこれからはPRだ、広報だ、という流れもあったかと思うのですが、統制されて抑止がきいた企業広報の言葉といえども、そのつくられた言葉が逆に消費者の心を打たなくなっている。そんな時代かもしれません。だからこそ、ホンネのトークが展開されるブログが注目される。もちろんブログにも倫理感は必要だと思うのですが、企業の倫理を個人に適用する必要はない。スーツを着ていては語れない言葉があるもので、なんとなく嫌なものは嫌だ、逆にこれはもう大好きだ、ということについて語ることができるのがブログであり、社会的な抑制や権力に縛られた評論家には語れないものだと思います。しかしながら企業広報の語る言葉もブログに遜色なくターゲットに届くスタイルやエクリチュールがあると思います。それは誠実であることを原則として語る零度の言葉、という気がしているのですが。

ぼくはブロガーとして、そんな風にうまく語れるようになりたいと思うのだけど、なかなか難しい。そのためにはセンスも必要になります。センスというのは難しいものだけど、地下鉄の駅で配布されているGOLDEN min.を読んでいたところ、藤巻幸夫さんの「サムライ・チェーン・マネジメント」というコラムに次のような一文がありました。ちなみにこれはSCM(サプライ・チェーン・マネジメント)にかけている言葉だと思うのですが。

たくさん美術品を見たり、良い物に触れたり、美意識を持つことがセンスを高めると、本とかに書かれているし、フジマキもそう思う。だけど、誰もが言うような"良い物"だけじゃなく、日常のなかにもセンスを磨く要素はたくさんある。例えば、気になる音楽があったらすぐに手に入れて、すぐ聴いて、たくさん聴くことで音楽のセンスが磨かれるわけ。そうやって何でも触れてみることが大事。センスは雑誌や本だけを読んで得るものじゃない。平たく言えば、日常の一瞬一瞬の中でひたすらにどう生きるか、どう楽しませるか、どう楽しむかを考え続けるっていう継続力こそがセンス。

うーん、いいなあと思いました。まさにぼくは昨日、衝動買いでCDを購入したところでもあり、その衝動買いが正当化されたからうれしいということもあるのですが、最後の「継続力こそがセンス」というのも思いっきり頷きました。当たり外れ、上昇と下降という波があるのだけど、それでもつづけることが大切です。継続して、積み重ねていったとき、アリとキリギリスじゃないけれど、夏のあいだ遊んでいたキリギリスには出せないパワーが生まれる(と信じていたい)。

それから、最終形を予測しないことも大事だと思います。どうなるかわからないけれど、とにかくつづける。読書としては、同時進行的に内田樹さんの「態度が悪くてすみません」を読んでいるのですが、書くという行為は、わかっていることを言葉にするのではなく、わかっていないことを書こうとするからいい、という表現があり、なるほどなーと思いました。引用します(P.8)。

4047100323態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い (角川oneテーマ21)
角川書店 2006-04

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私たちがものを書くのは、「もうわかっている」ことを出力するためではなく、「まだ知らないこと」を知るためです。自分が次にどんなことばを書くのか、それがここまで書いたセンテンスとどうつながるかが「わからない」ときのあのめまいに似た感覚を求めて、わたしたちはことばを手探りしているのです。

この表現、いいですね。内田樹さんの本は、ものすごく面白い。文章が詩的ですらあります。そしてぼくも、未知の何かを追い求めつつ、文章を書いていきたいと思っています。

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2006年7月22日

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スタイル、ことばづかいの選択。

所有すること、表現は誰のものか、ということを考えつづけています。いま自分が語っている言葉は、カギカッコで引用をしなくても誰かの言葉の影響を確実に受けていて、厳密にいえば、ぼく自身がオリジナルな表現はできない。また、たとえば会社で提出する書類を話し言葉で書けないように、ぼくらの言葉は、どこで使うかという社会的な枠組みの制約を受けています。いまぼくがブログで書いている言葉にも制約があって、自由に書きたいけれど何もかも自由に書くことはできない。ただ、どのような「ことばづかい」をするのか、という選択はできます。

ブログの文章にもいくつかのスタイルがあります。改行を多用したり、絵文字を使ったり、文字のサイズを大きくしたり色を使ったりすることもできる。スタイルはもちろんどんな「ことばづかい」をするか、ということも連動していて、たとえば絵文字の入った文章で社会批判をされてもちょっと説得力がないし、ちぐはぐな感じがする。やはり社会派のブログを書くのであればそれなりのスタイルが必要だし、友達とのさりげないやりとりをするのであれば、くだいた書き方の方がよいのではないでしょうか。

ぼくはいま段落で区切って大量の文章を書くスタイルでブログを書いていますが、もともとは改行して、もっと短い文章をぽつりぽつりと書くスタイルでした。つまり、はてなで書きつづけているうちに変わっていったのですが、スタイルが変わると内容やテーマも限定されていくような気がします(もっと言ってしまうと、リアルの生き方も変わってくるのかも)。もちろんこの書き方で「とかいっちゃったりして」とか「うーむ、それは困った」などと軽めの文章を書くこともできるのだけど、すべてその書き方で進めることはできません。どんどんスタイルが崩れてしまうので。スタイル先行で内容も書き方も固まっていくようです。

ぼくがこのスタイルをとるようになった背景には、はてなのシステムも大きな要因のひとつとなっている気がします。最初は使いにくさも感じていたのですが、最近ではこのシステムに慣れてしまって、むしろ気に入っています。編集ページでプレビューのタブができたのも、何気なくうれしい。けれども、システム以上に「はてな」という会社、近藤さんの社長としての考え方に共感するから、使いつづけているということもあります。

Think!という雑誌のNo.18は「ウェブ2.0時代の仕事力」として、さまざまな取材記事が掲載されているのですが、はてなの近藤社長の記事に、ネットが「知恵の増殖装置」という考え方が示されていて共感を得ました。株式を公開しない理由、ネットビジネスの資本は「人」であるというビジョンにも頷けました。ネット企業の志やモラルを感じたというか。

ところで、スタイルを選択することによって、ずるずると周辺のさまざまなものも選択をせざるを得ないようです。これはファッションでもそうかもしれません。ある種の洋服を着るときには、音楽とか、読む雑誌とか、映画とか、ファッションをきっかけにしてその他の文化も限定されることがある。その選択が自己表現ともいえます。

ということを考えている背景には、先日読んだ内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」に書かれていた、ロラン・バルトの考え方があります。さきほどの改行したり文字を大きくしたり、ということはどちらかというと「スティル(文体)」という視点だけれど、ほかに「エクリチュール」という考え方があり、これが「ことばづかい」です。ぼくがブログで「ぼく」という「語り口」を選んだ時点で、「私」という社会的な「ことばづかい」とは異なることになります。つまりこの時点で、会社員ではない自分の人生を「ぼく」を書くという行為を選び取り、その言葉で多様なぼくを統合していく。

テーマが拡散して論点がぼやけてきた感じがしますが、何を書きたかったかというと、自分らしい表現が何かと考えたとき、結局のところみんなが考えた既存の知恵の「選択や組み合わせ」でしかなく、その内容については「自分のものでなく人間全体のもの」であるということです。ということを考えた先に、クリエイティブ・コモンズのような著作権の考え方もあると思うし、技術でいえばリナックスなどのオープンソースの取り組みもあると思います。

バルトの言葉を使うと「作者の死」ということであり、インターネットが存在する以前にこのような考え方を提示していたことが、いまとなっては新しい気がします。内田さんの本では、「テクストの快楽」から次の文章を引用しています。

すなわちテクストは終わることのない絡み合いを通じて、自らを生成し、自らを織り上げていくという考え方である。この織物――このテクスチュア――のうちに呑み込まれて、主体は解体する。おのれの巣を作る分泌物の中に溶解してしまう蜘蛛のように。

内田さんも指摘されているように、ここに蜘蛛の巣(=ウェブ)という表現があるのが興味深いと思いました。引用の織物というバルトの「テクスト」の概念は、まさにインターネットのコンテンツそのままであり、「もともと誰が発信したものか」という作者のコピーライトは問題ではなくなる。そして重要なのは、意味を生み出すのは作者ではなく、読者であるということです。情報を創り出す側はもちろん、受信する側も重要になってくる。

内田さんは、オープンソースのOSであるLinux(リナックス)の話のあとに、この章を次のように結んでいます。

作家やアーティストたちが、コピーライトを行使して得られる金銭的なリターンよりも、自分のアイディアや創意工夫や知見が全世界の人々に共有され享受されているという事実のうちに深い満足を見出すようになる、という作品のあり方のほうに私自身は惹かれるものを感じます。それがテクストの生成の運動のうちに、名声でも利益でも権力でもなく、「快楽」を求めたバルトの姿勢を受け継ぐ考え方のように思われるからです。

まだあまり手をつけていないのですが、個人的に古いPCにFedra Coreというリナックスのディストリビューションを入れてみました。このシステムを無料で提供しているのか、と思うとすごい。さらに、たくさんのひとが協力して創り上げているシステムであるということに単純に感動すらします。ぼくは文系の人間なのでプログラムなどを書けないのが悔しいのですが、こういう活動には共感します。

ちょうど、Think!ではてなの近藤社長のページにも、同様のことを言及している部分があったので、引用してみます。

何億円持っているとか、いいクルマを乗り回しているとか、そんなことは死ぬときには何の自慢にもなりません。それより「ネットでたくさんの人が使っているあのサービスはぼくが考えたんだ」といえるなら、それは死んだ後も自慢になる。ぼくはそういうものを作っていきたいんです。

これはいいですね。自慢という言葉だけに執着すると意味を取り違えるのですが、最終的には名声もどうでもよいことであって、自分の好きなことをやっていたら社会のためにもなった、というマズローの究極の自己実現をめざすということかもしれません。

いまぼくが途方もなくブログを書きつづけている理由も、個人的な知恵の探求というテーマがあるからで、もし原稿料をもらえるような仕事だったら逆につづかなかったかもしれません。というのも、もちろん小遣いはほしいけれど、小遣いのために「文化的雪かき」をして、あまり書きたくもないテーマで原稿を書かなきゃいけないのであれば、書きたいことを書いていたほうがずっと楽しい。働いてそこそこ稼いでいるのだから、あとは自分の好きなことをやりたい。自分で選ぶこと。自分でテーマを決めて、スタイルを選択してつづけることが、いちばんつづくのではないかと考えました。

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2006年7月21日

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挨拶としてのブログ。

ブログ「挨拶」論として書こうと思ったのですが、よくわからないのでやめました。ブログに関する超・個人的な見解であり、まだ理論にもなっていません。とはいえ思ったことをまとめてみようと思います。ブログを長くつづけるための心がまえというか、個人的なぼくの覚え書きです。

韓国のオーマイニュースという市民ジャーナリズム(参加型ニュースサイト)が日本にも進出することが決まり、8月28日の創刊を予定されているそうです。鳥越俊太郎さんが編集長とのこと。これで一般の投稿も本格的にメディアになりそうな予感もするのですが、なかなか難しい問題もありそうな気がしています。というのはWeb2.0と騒がれていますが、日本のブログやSNSが成熟しているかというと、私見では疑問もありそうです。盛り上がってはいるけれど、内輪の話題だったりもする。さらに成熟が必要なのか、という観点もある。成熟とは何か、ということも考えてみるとよくわかりません。

ぼくも社会的な話題を書いてみたい、挑戦しようと思うときがあるのですが、結局のところ、権力をカタログ的に羅列して批判したときに、その行為自体が権力的であるというフーコー的な視点が気にかかります。別に社会的な話題で権力批判をする必要はなく、ただ日常の身辺で「こんなことがありましたー」というニュースを発信してもいいと思うのだけど、それでいいのかな?と疑問です。もちろん、このような考え方こそが「あらねばならない」偏見や執着にとらわれているのかもしれないのですが、単純に、日常生活で何か投稿するネタはないかと探しまくるような生活はおかしいと思うし、かといって流行っている話題を引用するだけのブログもマンネリに陥ります。それに、あまりに気負うと書きつづけられなくなってしまいそうな気がするのです。

そこで、崇高な見解を捨てて、ものすごく個人的な見解を述べるのですが、ぼくがなぜブログを毎日つづけられているか、というと、非常に個人的なことを書いているからです。さらにテーマすら絞り込んでいない。思考というテーマがあることはあるのですが、崇高なことを考えても、しょうもないことを考えても、それは思考の一部であり、よく考えてみると何を書いてもいいわけです。このいい加減さがつづける秘訣なのかもしれない、と思いました。日記でもないですね。というのは、今日あったことを書いていない日もあるので。

ついでに、文章を書いているとも思っていない。ブログ文章術について語られたブログもあったりするのですが、はっきりいって、文章術について語るのであれば面白い文章を書いてからにしてくれ、というようなブログもありました。妙にテンションが高い文章が面白い、と思っているかのような記述もあるのですが、読んでいる方はさむく感じていることもある。このレベルの文章を書いているひとに教わりたくないなあ、と思う。ぼくに関していえば、文章は上手くなりたいと思っているけれど、このブログは「ですます」「である」混在であるし、誤字もかなりあるし、ひどいものだと思います。高みから教えられるような能力はないのだけど、しいていえば息子の作文ぐらいはみてやることができる。そんなものです。

そこでぼくの持論なのですが、ブログは「挨拶」だと思います。ニュースでも良質の文章でもなくていいのではないでしょうか。

「こんにちはー、お元気ですか?」と世のなかに向って挨拶する。「今日は雨降っちゃいましたね。ちょっとブルーです」と世間話をつづけてみる。興にのってきたら「いま、こんなことに興味あるんですよ。ははは、面白いですよー」と言ってみる。最後に「じゃあまた」と挨拶をして終わる。礼にはじまり、礼に終わる、です。

挨拶だからといって、答えろ、と強要してはいけません。答えを強要した途端に、つづかなくなります。

ぼくは挨拶というものは、自分でするものであって、相手が答えてくれようがくれまいが、自ら挨拶することが大事だと思っています。そして一期一会、毎回はじめてのひとと出会い(もちろんいつも読んでいる方もいるかもしれないのですが)、はじめてのひとと別れることを大事にすべきではないかと考えました。だからブログの冒頭の文章は大事だし、最後の文章も大切です。はじめて出会うひとにきちんと礼を尽くし、きちんと別れる。もしかすると、また出会えることもあるだろうし、もう会えないかもしれない。でも、テキストがサーバーにアーカイブされているとはいえ、削除することも書き換えることもあるわけで、一回性の出会いだからこそ、大切にしたい。

特にブログは必ず新しいエントリーを読むわけではありません。検索エンジンを辿って、以前の記事を読むひともいる。そのときに、きちんと挨拶できているかどうか、ということが大事です。挨拶をコミュニケーションと置き換えることもできるかもしれませんが、必ずコミュニケーションが成立するとはいえません。まとまらないのですが、先日読んだ構造主義の入門書から、エクリチュールという考え方によってブログ論を展開できそうな気もしています。

今日は外出したあと、池袋のリブロに立ち寄って、Think!という雑誌(「Web2.0時代の仕事力」という特集です)、川上弘美さんの「ざらざら」という短編集、カフカの「流刑地にて」を買いました。いま恩師である小森陽一先生の「心脳コントロール社会」を読んでいて(P.56あたりを読書中)、こちらも面白い。つまらないことに腹を立てるのはやめて、楽しいことを考えていようと思います。

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2006年7月15日

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ニーチェで批判するネット社会。

午後には、ものすごい音でカミナリが鳴り、滝のように土砂降りの雨が落ちてきました。空が落ちてくる、というとキャロル・キングの歌のタイトルみたいですが、そんな感じです。少しだけ外出したときには、重苦しいぐらいに暑い空気で、暑さがまとわりついてくるようでしたが、午後からは本格的な外出は控えて、家でじっくりと趣味や片付けの時間にしました。そうして、考えること、書くことについてぼんやりと思いを巡らせました。

自分を語らずに自分について言及する、というと禅問答のようですが、そんなことができないかと考えています。というよりも、そうしたい、という理想のようなものです。ブログにしても論文などの文章にしても、他者を意識すると、どうしても本題とは別に、他者に対する「言い訳」的な文章を挿入するようになります。しかしながら、それがあまりにも多すぎると自意識過剰な印象があるし、なんとなく読んでいても冷めてしまう。メタ的に自分を他者としてとらえて言及したり解説するのではなく、自分のなかにある言葉をストレートに出した方が気持ちがよいし、また読む人にもストレートに伝わるのではないかと思いました。評価や感想は読むひとに任せればよいのであって、自分で自分を言及する必要はない。

よくビジネス系の雑誌にありがちなのですが「ちょっと待ってほしい」というフレーズがぼくは嫌いで、読者を待たせてどうする、と思う。はやく先に進めてください、ともどかしくなる。以前勤めていた会社で、とある雑誌の編集を担当していたときに、ライターさんからあがってきた原稿に400字に一度ぐらいの頻度で「ちょっと待ってほしい」と書かれていて、書くのがつらいのはわかるけど、このフレーズで文字を埋めないでほしい、と腹が立つのを通り越して脱力したことがありました。

このような他者の意識が思考に入り込んできたのは、構造主義的な世界観があったからではないかと思うのですが、内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」を読みながら、ベトナム戦争のときにアメリカはベトナムの気持ちなどを理解しなかった、それができるようになったのはつい最近である、というような指摘があり、当たり前のように思える他者のまなざしを感じ取る行為が、実は歴史上では新しいということにあらためて驚きました。

他者意識が過剰であるために、格差社会も広がりつつあるような気がしているのですが、構造主義・ポスト構造主義がもたらした弊害といえるかもしれません。一般に浸透している思想を乗り越え、新しい考え方のフレームワークを生み出さなければならない時代になっているのかもしれない。

しかし、そのためには気付かずに絡みとられている考え方、常識、「こころの格差社会」で海原さんが述べている言葉を借りるなら「ゴースト」の存在を意識し、語られたことよりもまだ語られていない何かを発見する必要があります。

「寝ながら学べる構造主義」から、ニーチェの「大衆社会」の批判を引用してみます(P.50)。

ニーチェによれば、「大衆社会」とは成員たちが「群」をなしていて、もっぱら「隣の人と同じようにふるまう」ことを最優先的に配慮するようにして成り立つ社会のことです。群れがある方向に向うと、批判も懐疑もなしで、全員が雪崩打つように同じ方向に殺到するのが大衆社会の特徴です。

同質化を求める社会ともいえます。裏返すと、多様化を拒む社会かもしれない。

ニーチェはこのような非主体的な群集を憎々しげに「畜群」(Herdeへールデ)と名づけました。
畜群の行動基準はただ一つ、「他の人と同じようにふるまう」ことです。
誰かが特殊であること、卓越していることを畜群は嫌います。畜群の理想は「みんな同じ」です。それが「畜群道徳」となります。ニーチェが批判したのはこの畜群道徳なのです。

これは古いニーチェの考え方なのですが、たとえばコミュニティの考え方にも通じるものがあり、ネット社会についても示唆を与えてくれるものかもしれません。次のような部分を読んで、そんな印象を受けました(P.53 )。

相互参照的に隣人を模倣し、集団全体が限りなく均質的になることに深い喜びを感じる人間たちを、ニーチェは「奴隷」(Sklaveスクラーフェ)と名づけました。
ニーチェの後期の著作には、この「奴隷」的存在者に対する罵倒と嘲笑の言葉が渦巻いています。

ブログにおいてトラックバックや引用は「相互参照的に隣人を模倣」する手段であり、もちろん批判も可能ですが、多くは引用者と「均質的」な喜びを得たいがための行為のように思えます。したがって、均質的な話題を増殖させていく。情報の奴隷となっていく。本人たちにとっては同質化した喜びがあるかもしれないのだけど、創造的な行為か、というと決してそうは思えない。

NHKの「おかあさんといっしょ」のスプーの絵描き歌で、歌のお姉さんが描いたキャラクターがあまりにも下手だったために、過剰にネットで盛り上がったという現象もありましたが、結局のところ「相互参照的に隣人を模倣」する行為がネガティブな部分に向えば、途方もない吊るし上げを展開することになります。それはまさに「畜人」の悦楽です。しかしながら、日刊デジクリというメールマガジンでそれを「気持ち悪い」と一刀両断していた記事があり、ぼくはその批判にすがすがしいものを感じました。やはりブロガーはマスメディアの優秀な記者には到底かなわないな、と思うのは、ゴシップや揚げ足取りや弱者に対するいじめが横行することで、批判するのであればもっと強いものを批判しろ、といいたい。例えば権力とか、しょうもない組織とか、別に正義のヒーローになる必要はないけれど、社会にはおかしい部分がたくさんあり、その部分におかしいと言及しなければ何も変わらないと思うのです。

基本的にぼくは力のないひとりの個ではあるのですが、個という地面を這いつくばった視点から、社会全体に対して何か提言できるようになりたいとも思っています。まだまだ力不足ですけど。

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