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2007年10月30日

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「月曜日は最悪だとみんなは言うけれど」村上春樹 翻訳

▼作家の生きざま、小説のメイキングを楽しむエピソードのコラージュ。

4124034970月曜日は最悪だとみんなは言うけれど (村上春樹翻訳ライブラリー)
村上 春樹
中央公論新社 2006-03

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この本のタイトルは、「ストーミー・マンデー」という有名なブルースの曲から取ったようです。トム・ジョーンズの短編に引用されているとか。次のような歌詞のようです。

They call it stormy monday, but,
Tuesday's just as bad.

「月曜日は最悪だとみんなは言うけれど、
火曜日だって負けずにひどい」

せっかくなのでYouTubeで調べてみたところ、T-Bone Walkerの演奏がみつかりました。

■T-Bone Walker - Stormy Monday Blues


なるほど、渋いですね。水割りが飲みたくなる(笑)このアンソロジーのなかでは、トム・ジョーンズの「私は・・・・・・天才だぜ!」という短編が収録されているのですが、確かに彼の作品はブルースっぽいスタイルかもしれない。

この本を知ったのは、ネットを通じて仲良くさせていただいている方からの情報でした(ありがとね)。デニス・ジョンソンの「シークレット・エージェント」という短編のことを知ったのだけれど、なんとなくですが、ぴぴっとセンサーが働いた。

そこで、仕事の打ち合わせの帰り、お茶の水の丸善でその小説が入っている村上春樹翻訳ライブラリーを探して立ち読み。「シークレット・エージェント」自体はあっという間に読めてしまったのですが、言葉のいくつかはもういちどじっくりと読みたい気がしました。さらにレイモンド・カーヴァーやティム・オブライエン、ジョン・アーヴィングなど村上春樹さんに馴染みの深い作家の話ばかりが並んでいる。

そんなわけで、ついつい購入してしまった本です。でも、購入して正解でした。とても面白かった。

短編小説もありますが、収録されている作品のいくつかは作家のインタビューや友人の追悼文のようなものです。作家の知られざるプライベートやどうやって作品が完成したかということを知る上で、とても興味深い内容でした。つまり、メイキングのコンピレーション、あるいは作家の肖像のコラージュという感じです。

冒頭から2作までの「誰がレイモンド・カーヴァーの小説を書いたのか?」D・T・マックス、「グッド・レイモンド」リチャード・フォードはレイモンド・カーヴァーの話。ものすごくよい人柄の作家のようです。そして、いいひとであるレイモンドの作品に、凄腕の編集者であるゴードン・リッシュがざくざくと手を入れていく。リッシュ自体も創作するひとのようでしたが、レイモンド・カーヴァーの作品の情緒的な部分を削除し編集することによって、結果として初期のスタイルが完成したようです。つまり、リッシュなしにはレイモンド・カーバーの作品はあり得なかった。

しかしながら、やはり温厚なレイモンドであっても、さすがに次第にその残虐な(苦笑)小説の編集に困惑するようになった。そこで、ふたりは決裂するわけですが、その後、リッシュは創作教室のようなものを開きながらも、自分の作品としてはたいしたものが作れなかった、という話が非常に面白いものでした。

つまり、レイモンド・カーヴァーは作家であり、ゴードン・リッシュは編集者でしかなかった、ということですね。作曲家とアーティスト、プロデューサーとシンガーのような関係においても同じことがいえそうですが、縁の下の力持ち的(あるいは参謀的)なポジションで力を発揮するひともいる。

その後につづく、ティム・オブライエンのエッセイと短編3作もうまいな、と思いました。けれども、やっぱり印象的で気に入っているのは、ボクサー、海兵隊、コピーライター、学校の用務員(笑)とさまざまな経歴を持ちながら50歳近い年齢で作家になったトム・ジョーンズでしょうか。なんというか無頼派?日本の作家でいうと、坂口安吾的なスピリッツを感じたかな?

という、はちゃめちゃな作家のあとで、デニス・ジョンソンの「シークレット・エージェント」を持ってくるところがうまい。秘密諜報員に憧れながらも、結局のところ落ちぶれた作家として生活し、貧しさ、さびしさ、悪臭、病や死、酒やドラッグなどに取り囲まれた退廃的な生活を送る主人公。けれどもそこには達観した何かすがすがしいような諦めと強い何かがあると思いました。たとえば次の言葉。

ひとりの人間がいなくなっても、人生は変りなく続いていくのだ。

そして、畳み掛けるようにして繰り返される、次の表現。

子供たちは、変わることなく子供たちであるだろう。人々は変わることなく、人々であるだろう。

個人的な話ですが、父の命日を11月に迎えるぼくとしては、この言葉がなんとなく心に残りました。そして、この言葉は生きている人間に対しても言えることかもしれないですね。あるいは作品に対しても言えることかもしれません。どんなに感動的な作品であっても、読み終えたときにぼくらのリアルはつづいていくものです。変わりなく、いつもと同じように。

けれども一瞬だけ交わって離れていく人生というのは、だからこそ意味があって、「変りなく続いていく」こと=永遠、ではないと思う。「子供たち」や「人々」、あるいは作家のようなものは変わらないかもしれないけれど、個人としての"ぼく"や"あなた"は変わっていく。

普遍性と刹那のようなことを考えていたのですが、作家にも普遍的な何かと個別の顔がある。うーむ、まとまらなくなってしまいましたが、stormy mondayでも聞きながら、あとはお酒でも飲みながらぼちぼち思考することにしますか。10月26日読了。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2007年10月22日

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「働く理由―99の名言に学ぶシゴト論。」戸田智弘

▼名言で編む仕事のテツガク。

4887595654働く理由 99の名言に学ぶシゴト論。
ディスカヴァー・トゥエンティワン 2007-07-12

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座右の銘って、よく言われますよね。偉人などの名言を心に刻んで行動規範としたり、挫けそうなときに自分に言い聞かせたりする言葉です。残念ながら、ぼくはそういう言葉を持っていません。もし就職活動などの面接の場で「あなたの座右の銘は何ですか?」などと質問されたらフリーズしてしまいそうです(苦笑)。

他人に座右の銘を語るようなときでは、「成せばなる」のような当たり前の言葉では印象が薄いので、自分なりのチョイスと理由付けが必要になります。どんな言葉を選ぶのか、というセンスが重要であり、個人のテツガクを感じさせるものでなければならない。

就活のエクササイズとして、座右の銘を探す、というのはイコール自分探しにもなるような気がしました。自分のオリジナル名言であってもいいと思うんですけどね。借りてきた偉人の言葉ではなく。

「働く理由--99の名言に学ぶ仕事論。」は、キャリアカウンセラーである戸田智弘さんが、仕事とは何かと考えつづけるなかで出会った数々の名言と対話しながら、働く理由についてテツガクを組み立てていく本です。

99の名言が引用されているのですが、名言と呼ばれる言葉はそれだけで力があります。したがって、偉人の言葉の力が強すぎて、戸田さんが言おうとしている趣旨が霞んでしまいがちな部分もあると思いました。引用された言葉のベクトルに引っ張られて、散漫な印象の部分もあります。引用って難しいなあ。

ブログも同様でしょう。ブログの場合には特に書き手の都合のいいように、書かれたエントリーの一部を切り取ることもできるわけで、場合によっては引用元からまったく意味が変わってしまうことがあります。

結局のところ、言葉って何?と考えると

「解釈の具体化」

かもしれません。リアルをどう切り取るかという解釈が言葉になる。たとえば赤い頬を「リンゴのほっぺた」と比喩的な表現を使ったとき、信号機やケチャップなどさまざまな赤いものの選択肢からリンゴをチョイスする。その現実の切り取り方=解釈が重要です。

「リンゴのほっぺた」というのは使い古された言葉でクリエイティビティを何も感じさせないのですが、手垢の付いた解釈は言葉としても切れ味が悪くなるし、コピーライターや小説家は、どれだけ新鮮な解釈によって読み手のアタマのなかにさわやかな風を吹かせることができるか、光を溢れさせることができるか、ということが重要になるとも考えられます。

しかし、その解釈の飛躍は、突拍子もないところから出てくるわけではありません。才能さえあれば努力もせずに飛躍できるというものではない。思考の飛躍を才能のあるひとだけに与えられた特権として考えると話は終わってしまうのですが、一般的なぼくらであっても思考を飛ばせることはできる。しかし、飛ぶまでのあいだには、地面を這うような助走が必要になる。

仕事にも通じるところがあります。ぼくは企画という仕事に携わっているのですが、世間一般で考えられている、ちゃらちゃらとした企画とはかけ離れていて(というのもどうかと思いますが)、その作業はものすごく地味です(苦笑)。こつこつと積み上げていくことが多い。

しかしながら、多くのスポーツや芸術などで同様なように、基礎ができていないところで飛躍もできないんですよね。基礎ができていないところで飛躍すると、短期的には目新しいかもしれないけれど、ぜったいに弱さやボロさが露呈する。音楽であっても、才能にばかり走りすぎると薄っぺらになる。ハッタリの才能に甘んじることなく、いろんなことを吸収し、人生経験を積むことが間接的によい仕事を生み出すことにもなります。したがって、そこには時間がかかる。

ここがですね、若いひとにはよくわからないことではないか。かつて若かったぼくも同様だったのだけれども(苦笑)。

ある程度の飛躍を可能にするためには、時間が必要なのです。こつこつと積み上げていく時間が大切になる。よい仕事をするためには、焦らずにじっくりと熟成させることが大事なこともある。このことを戸田さんは次のような法則であらわしています(P.164)。

「可能性」×「10年間の連続」=「才能」

そして、戸田さんが引用されているモーパッサンの言葉が非常に端的だけれど力がありました。

才能とは継続する情熱のことである。

畳み掛けるように引用されていますが、同様の言葉をいくつかまた引用します。

これは小説家としての問題だけではなくて、夢を持ったときに、どんなものでもいまの世の中は十年その願望を持ち続ければ、必ず成就するというふうに思いますよ。十年間なにかに熱中するということは、好きなことであってもなかなか難しい。逆にいうと、十年間がんばるという気持ちでいれば、大抵成就します。――高橋克彦
私は「ある方面での職業的成功とは、適性&かけた時間の総和であって、才能の問題にあらず」と考えている。――本多信一
才能というのは、その人が小さい時から自分の孤独と傷を癒すために、必死で自分を肯定しようとしてきた結果のことなんです。――小倉千加子
物事を成就させ成功させる力は何か、その力の中にはむろん能力があろう。だが能力は、必要な条件ではあってもじゅうぶんな条件ではない。じゅうぶんな条件とは、その能力に、起動力・粘着力・浸透力・持続力などを与える力である。そのような諸力を、私は執念とよびたい。――土光敏夫
「夢」っていう言葉は、とても綺麗な言葉ですが、ある意味では生ぬるい。それで事が成し遂げられるかと言えば疑問です。どうあってもこれを実現したいし、また実現しなくちゃならない・・そういうこだわりや固執、つまりもっと泥臭いものが必要じゃないかと思うんです。――錦本彰

これらはすべて自分という個のなかに帰属する言葉なのですが、一方で、才能は他者という社会のなかにある、という発想も書かれていて、こちらも重要ではないかと思いました。

力を注ぐことは大事なのだけれども、社会と調和しないことであれば成就するのも難しくなる。自分が求めていることと社会のマッチングができれば、成就の可能性も高まります。それは自分が何ができるか、ではなく、企業にとって何を貢献できるか、ということを説いたドラッカーの発想にもつながるところがあります。

そして、他者や社会性を考慮しつつ、

自分の人生は自分で選ぶ

という自律性が重要ではないでしょうか。マジック・ジョンソンの次の言葉に打たれました(P,144)。

「お前には無理だよ」と言う人のことを聞いてはいけない。 
もし、自分で何かを成し遂げたかったら、
できなかったときに、他人のせいにしないで、自分のせいにしなさい。
多くの人が、僕にも「お前には無理だよ」と言った。
彼らは、君に成功してほしくないんだ。
なぜなら、彼らは成功できなかったから。
途中であきらめてしまったから。
だから、君にもその夢をあきらめてほしいんだよ。
不幸な人は不幸な人を友達にしたいんだよ。
決してあきらめては駄目だ。
自分のまわりをエネルギーであふれた、
しっかりした考え方を持っている人で固めなさい。
自分のまわりをプラス思考の人で固めなさい。
近くに誰か憧れる人がいたら、その人のアドバイスを求めなさい。
君の人生を変えることができるのは君だけだ。
君の夢が何であれ、それにまっすぐ向かって行くんだ。
君は、幸せになるために生まれてきたんだから。

アランの幸福論からの次の言葉にも通じると思います(P.229、232)。

悲観主義は気分に属し、楽観主義は意思に属する。
成り行きにまかせる人間はみんなふさぎこんでいるものだ。
どんな職業も、自分が支配しているかぎりは愉快であり、
自分が服従しているかぎりは不愉快である。

自分の人生は自分で決められるものであり、会社が何にもしてくれない、と言うのであれば、別にその会社に執着することもなく、辞めてしまえばいい。その自由が個々人にはあると思います。愚痴や不満、反省をしている時間があれば、次に何をすべきかという時間にあてたほうが有意義です。

淡い夢、理想などというメルヘンは企業には必要がなく、重要なのは確固とした未来に対する構想であり、そのための戦略であり、積み重ねていく実績だと思います。という現実主義に立脚しながら、それでもあえて夢というカタチのないものを語ることができるか、ということをリーダーの要件として考えたいのですが。

仕事は仕事、遊びは遊び、という割り切る発想もありだとは思うのですが、最近、ぼくはその効率的な発想に疑問を感じています。仕事にも遊びにもとことん没頭すると楽しいじゃないですか。身体を壊してはどうかと思うのですが、寝食を忘れて没頭するような仕事/遊びがいい。

いまぼくは仕事も、そして趣味の世界も最高に楽しい。完全にうまくいっているわけではありませんが、厳しさに対しても自分で選択しているという考え方にシフトしようと考えています。そして、ぼくを支えてくれたり、成長させてくれたり、刺激を与えてくれるひとの存在に感謝したいと思っています。10月19日読了。

投稿者: birdwing 日時: 23:26 | | トラックバック (0)

2007年10月 5日

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「ワイルド・アット・ハート 眠ってしまった冒険者たちへ」ロバート・ハリス

▼大人のかっこよさを考える人生指南書。

4492042830ワイルド・アット・ハート 眠ってしまった冒険者たちへ
ロバート・ハリス
東洋経済新報社 2007-07-20

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気持ち的には学生の頃と変わらないつもりだけれど、そうも言っていられない年齢に差し掛かってきました。そんなおじさん境地に入りつつある昨今、よく考えるのは、

かっこよく生きたい

ということです。

このことを厳密に定義すると、かっこよくなりたいのだが、モテたいのではない。若い頃には、かっこいい=モテるという方程式が成立したような気がするのですが、最近、ぼくはモテなくてもいいから、かっこよく生きたいと考えています。それはどういうことか。

モテる、ということは他者に評価を求めるということだと思うんですよね。熱い視線を送ってくれる他者がたくさんいればそれが価値になる。たくさんの女の子にきゃーきゃー言われたいということです。しかし、モテなくてもかっこいいやつはいるのではないか。自分の生き方を揺らがせずに信念を持って生きている人間はかっこいい。表面的に繕ったり、いたずらに評価を欲しがるのではなく、100万人に否定されても1人のために生きる、というようなスタイルでしょうか。

マッチョではなくてもぜんぜんかまわない。たとえば仏像を彫ることに一生を捧げるようなひとは、ある意味、かっこいいと思う。胃の痛い思いをしながら、あっちの調整をして、こっちのご機嫌を取って、いまの生活水準を必死で守るために笑いたくもない場面でにこにこしているのよりも、ぜったいにいい。

たとえば、ブログにしても、アクセス数の増加やアフィリエイトでがっぽりと儲けを考えるのは「モテる」思考だと思います。その欲をぼくは否定しないし、そういう生き方もあっていいでしょう。むしろ世の中の成功者はそんな欲望に忠実なひとたちかもしれません。しかしながら、そうではない生き方もある。

他者を気にしながら生きるのは疲れます。というか事実、そうやって生きてきて疲れたのですが(苦笑)、だからぼくはもう、どんなに嫌われてもいいから、自分の言いたいことを言うし、書きたいことを書こうと思うわけです。ブログに関しても消したくなったら消す、修正したくなったら書き直す。リンクしてくれた方やトラックバックしてくれた方に申し訳ないから・・・などと過剰な気を遣わない。

ということを考えていると、どんどん肩の力が抜けるのですが、そんな励みに拍車をかけてくれたのが、ロバート・ハリスさんの「ワイルド・アット・ハート」という本でした。前置き長すぎ(苦笑)。

第6章「人生の荷物を整理しよう」というところで、「ペルソナをつくらない」ことを信条としている生き方が語られているのですが、自分がMであることをカミングアウトしたり、ミスコンの仕事は金輪際やらないことを宣言したり、ホンネが語られています。失恋して女友達に鼻水たらしながら泣いて慰めてもらったなんて話も書かれている。

外見の素敵なロバート・ハリスさんが語るからOKというところもあるのだけれども、その誠実な生きざまに共感しました。単純に真似をすると痛い目をみると思います。これもまたロバート・ハリス的に生きても意味がなく、自分なりにカスタマイズしなければかっこよくないと思うのですが。

ロバート・ハリスさんは定職につかずに、本屋を経営したり、映画の字幕の文章を書いたり、DJなどをやって気ままな人生を送ってこられたようです。しかし、その生き方は決して楽なものではなかったと思うし、言葉のひとつひとつにきちんと生きてきた重みのようなものを感じます。ここで言う「きちんと生きてきた」とは、安定した生活を送ってきたということではなくて、めちゃくちゃだけれど出会ったひとたちを大切にして、けれども合わないひとについてはすれ違うこともよしとして、自分の人生を肯定してきた、ということかもしれません。

第7章「心の重荷も捨ててしまおう」というページでは、マーク・トゥエインの次の言葉がトビラに掲げてあります。

最悪の孤独感とは、
自分自身に対して
不快感を抱くことである。

そして、自分を負け犬や落伍者と思ったり責めない生き方を説かれています。

ここでぼくが考えたのは、複雑化しつつある現代の問題は、他者を意識するあまりに、自分のなかの「他者としての自分」まで意識してしまうところにあるのではないか、ということでした。つまり、自分のなかにもうひとりの自分を存在させることによって、自分で自分を攻撃する。自傷行為のようなものです。

ブログの匿名なども似たところがあるかもしれません。ネットの住人としての匿名という別のペルソナを持つのだけれども、その別のペルソナに対して(他者から突っ込まれる前に)自分自身で突っ込みを入れてしまう。ライターもしくはブロガー、作者としての自分とリアルな自分を同期させることは意外と難しいもので、同期しつつもズレていることが多い。だから、あたかも他人のように自分を批判してしまう。その二重性が進展すると、ちょっとやばいのではないか。

だからこそぼくは書いていることとリアルな自己の同期が必要であると考えていて、もちろん自己の成長を踏まえて一歩先のことを文章に書き、リアルな自分を文章に追いつかせるような生き方もあるかもしれないのですが、あまり現在の自分と離れた自分を設定しても苦しむばかりで、等身大の文章を書くことが重要ではないかと思います。

本の前書きに戻るのですが、ロバート・ハリスさんはなぜこの本を書いたのか、という動機について次のように書かれています。

あいかわらずの官僚たちの癒着、汚職。
テレビではいまだに、金持ちの豪邸拝見などというバカな番組をやっている。
ロハスだの、エコだの、スローライフ、ワークライフバランスだのといったコンセプトが話題になっているが、結局そういうものも金で買う仕組みになっている。
チョイともてるにも、チョイとワルになるにも、高い車と、時計とスーツと、バッグと靴とが必要だそうだ。
バカバカしくて、もう一度この国から逃げ出したくなる。
でも、いますぐそうするつもりはないし、ぼくは生まれ育ったこの国が好きだ。
だから、この本を書いた。
これは、多くの団塊世代と同じようなサラリーマン人生を歩んでこなかったぼくなりの、いまの社会の流れに対するオルタナティブ・サジェスチョンである。

いいですね。ぼくは個人という地を這うような生活に立脚しつつ、遠い理想などに焦点を合わせて何かを書く姿勢に共感を持ちます。逆は不可です。大義名分のような曖昧な理想から個人を語るのは、どうかと思う。

何かモノを書くためには、ロバート・ハリスさんのように波乱万丈な人生を送らなければならない、とは考えません。もっと、いわゆるふつーのおじさんたちが自分のかっこいい生き方を追求したり、かっこよさとはどういうことかという考え方を書くことによって、日本の景気は活気が出るような気がします。雑誌に書かれていることの受け売りだけでは恥ずかしいですよね。全員が全員、イタリア製のスーツを着て、うまい店を探して、歯の浮くような台詞を語るのでは芸がない。

というわけで、自分なりの美学を大切にしながら、一方でロバート・ハリスさん的な「オルタナティブ・サジェスチョン」も考慮しつつ、ぼくはブログを書いていきたい。そんなことをあらためて考えさせてくれた本でした。10月3日読了。

投稿者: birdwing 日時: 23:34 | | トラックバック (0)

2007年8月16日

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「知の遠近法」ヘルマン・ゴチェフスキ編

▼科学・芸術・文学を横断した、見ることの考察。

4062583852東大駒場連続講義 知の遠近法 (講談社選書メチエ 385)
H. ゴチェフスキ
講談社 2007-04-11

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思考を可視化することは、あらゆる活動において大きな意義があるのではないでしょうか。文章にしても絵画にしても写真にしても、いまここで見えている世界、もしくは仮想的に脳内に広がる世界を再現もしくは表現するために、はるかな歴史のなかでさまざまな科学者や芸術家が挑戦してきたように思います。それはつまり「見えない世界」を見えるようにする挑戦だったような気もします。

見るということは、ただ目を使って世界からの刺激を脳内に伝えるということだけではありません。見るということは、世界を個人の遠近法によって関係性を距離でとらえるということでもあり、心の目で視ることもできれば、音を視ることもできます。

音を関係性でとらえるとき、そこには音を視覚化する意識が働いています。また、表現する主体の位置を変えることによって、見えてくる世界も変わる。絵画のような視角的な芸術だけでなく、見るという行為は、世界をとらえる科学や芸術において重要な「視点」=考え方をもたらすものだと思います。

という考え方のもとに、この本では天文学から絵画、写真、音楽、小説に至るまで、「見る」という行為、パースペクティブの問題を追求していきます。「東大駒場連続講義」というタイトルになんとなく近より難いものがあるのですが、ともかくアカデミックな講義を本のなかで再現されているということでは、ありがたい。ジャンルを横断して、さまざまなパースペクティブ論が展開される本としては、ぼくの知的好奇心を満たしてくれるものでした。

冒頭の序章では、編者であるヘルマン・ゴチェフスキ氏が、Perspectiva(ペルスペクティーヴァ)という中世に作られたラテン語の語源から、心眼として視ることを中心に考察する学問の成立について解説されています。perspecioという動詞は、ただ光学的に光をとらえるのではなく、「理解するために障害になるものを克服して理解する」という意味だったようです。つまり、ペルスペクティーヴァという言葉自体にも奥行きがあり、観察するという意味から、見えないものまで見て深く理解する、という意味まである。

確かに、「みる」ことにもいろいろなレベルがあり、ただぼーっと見ているだけもあれば、その動きのひとつひとつを見過ごさないように注意して見るときもある。特に理解できない相手を理解するためには、感覚のすべてを総動員して「みる」ことが必要になりますね。

いくつかの章について感想を書いてみます。

第1章「宇宙の地図づくり(舟渡陽子)」は天文学の話であり、専門的な話については文系出身のぼくはよくわかりません。しかしながら、「宇宙の地図づくり」として何も書かれていない天空に線を引き、座標によって星の位置を測ろうとすること。しかしながらそこには時間的な推移が関わってしまい、結局、いま見ている星は既に過去の星になっている。つまり三次元だけでなく四次元の考え方で見ようとしている、という指摘に興味を感じました。

非常に興味深いと感じたのは第3章「西洋近代絵画におけるパースペクティブの変容」で、ここでは絵画における遠近法の成立と、それがいわゆるステレオタイプ化して浸透していくことを壊そうとした芸術家の試みが紹介されていました。エドガー・ドガの「コンコルド広場」における緊張感のある構図は、産業の進展によって親密性を失った都市空間が表現されている、とその構図が読み解かれて解説されているのですが、次のように評されています(P.85)。

写真よりも先行し、浮世絵版画とも平行するかたちで、スナップショット的な視像、断片的な切り取り構図を提示し得たのが、まさにドガの絵画であった。固定された眼差しに収まる、統一性のある完結した世界像から、動く眼がとらえた、恣意的で、瞬間性を示唆する世界像へ。印象派の画家たちは刻々と変化する世界の様相を、それに相応しい「パースペクティブ」で表現したのである。

この瞬間性については、つづいてクロード・モネの「カピュシーヌ大通り」についても述べられています。批評家シュノーの言葉を引用して、次のように書かれている部分を興味深く読みました(P.88)。

離れて見ると「とらえがたいもの、移ろいやすいもの、動きの瞬間性」を見事に表現し得た「傑作」だが、近づいて見ると「不可解な色調のカオス状態の絵の具の屑」が目につく「下絵」に過ぎないという判断が面白い。

これは視点の焦点のあわせ方のような気もしますが、たとえば現実世界も分子レベルまで細分化してミクロの目でみるとしたら、「屑」の集まりに過ぎないかもしれません。けれども、そのレンズを引いてみると、複雑に分子が集まった人間という存在だったりもする。

インターネットの世界も同様かもしれないですね。それぞれの書くブログは屑のような文章かもしれないけれど、それらが集まるとブロゴスフィアのなかにおけるひとつの意思として力を持つ。

その他、音楽とパースペクティブ、小説におけるパースペクティブについての解説も面白かったのですが、ここでは触れないことにします。あまりに長文化しそうなので(苦笑)。何かの機会に思い出すことがあれば、思考を再開することにしましょう。

文学系の学部出身のぼくとしては、小説の話はもうひとつ突っ込んだ論点がほしい気がしたのですが、ヘンリー・ジェイムズの「視点(point of view)」という小説技法について触れながら、物語内の一人物の視点から世界を眺めつつ、非人称的な視点から客観的に彼を描く、という技法はなかなか面白いものがありました。

知識のメモ書きというか備忘録に過ぎない理系的なブログはともかく、ぼくのような文系の人間がプライベートでありながらデイリーコラムニスト的な観点から書こうとするとき、個人のPoint of Viewはもちろんのこと、その視点と距離を置いた客観性が重要になる。

パースペクティブ、知の遠近法、視点などについては、継続していろんな本を読んだり、考えつづけていくつもりです。

投稿者: birdwing 日時: 22:16 | | トラックバック (0)

2007年8月15日

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「海馬」池谷裕二 糸井重里

▼脳科学が哲学的で、キャッチコピーのような人生論がひろがって。

4255001545海馬/脳は疲れない ほぼ日ブックス (ほぼ日ブックス)
池谷 裕二
朝日出版社 2002-07-10

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投稿者: birdwing 日時: 23:56 | | トラックバック (0)