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2007年3月 9日

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「彗星の住人 無限カノン1」島田雅彦

▼book008:世代を超えて繰り返される恋の変奏曲。

410118710X彗星の住人―無限カノン〈1〉 (新潮文庫)
島田 雅彦
新潮社 2006-12

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かなわぬ恋に夢中になるのはなぜだろう。
ひとはなぜ、求めても手に入らないものを求めずにはいられないのだろうか。

簡単に手に入る幸福では満足できずに、手の届かない場所にある幸福を追い求めること。想ってはいけないひとなのに、想わずにいられない苦しみ。それは行き場のない痛みです。けれども、誰も自分から苦しみのなかに身を投げようとは思わない。偶然に出会ったひとが、手の届かない場所にいるひとだったのではないでしょうか。運命に翻弄されているだけなのかもしれません。だとすれば運命はかなしすぎる。

「彗星の住人」は、4世代を遡って描く、恋の系譜の物語です。

読み終わるのが残念でゆっくり読んでいたのですが、既に続編2冊も文庫になっていました。物語のつづきが読めると思うとしあわせです。物語の筋も魅力的なのですが、はっとするような表現がいくつかあります。この絢爛豪華な文体は、三島由紀夫的であるともいえる。家柄や才能に恵まれながらも、かなわない恋に落ちていく様子は、さながら「豊饒の海」の「春の雪」といったところか。

物語は「君」と呼ばれる椿文緒という若い女性が、父カヲルの墓を訪ねた後、血のつながらない姉で盲目となったアンジュの家を訪問するところからはじまります。アンジュの話から、父カヲルの父(祖父)である短命な音楽家の野田蔵人、さらにその父であるJB(ベンジャミン・ピンカートン・ジュニア)、そしてまたさらにその親として蝶々婦人の愛人であるベンジャミン・ピンカートンまで歴史を遡っていく。それぞれが不遇の生涯のなかで、かなわない恋に落ちる。歴史を越えた恋の物語が描かれていきます。一方で、友人である蔵人の死後、彼の妻を愛して彼女を失い、息子カヲルを養子に迎えるシゲルの物語もある。

小説には「無限カノン」という副題がついているのですが、カノンから想像するのは、パッヘルベルのカノンです。そもそもカノンとは"規則"を意味するギリシャ語とのこと。音楽用語については詳しくないけれど、対位法のような技巧が使われて、同じ進行のなかで少しずつ変奏していくのがカノンではないか。この物語においても、世代を超えて、かなわぬ恋の物語が繰り返し変奏されていきます。

あとがきには、「自分にしか書けない恋」の物語を書こうとした島田雅彦さんの決意と覚悟が書かれていて、小説と同じぐらいの感動したのですが、この想いは通俗的なコンセプトを超越していると思いました。それこそ小説に「恋」をするひたむきな作家の姿がある。

次の部分を引用します(P.495 )。


忘れられた恋がひとつ、またひとつ、盲目の語り部によって、物語られる。歴史は恋の墓場なんだろうか? それとも、恋はなかったことにするために、歴史はしるされるのだろうか? しかし、戦争も政治も陰謀も全て、恋と結びついている。

この言葉は小説中の次の言葉と呼応します

アンジュはひとつの物語を終えると、必ず君に念を押す。
――戦争も政治も陰謀も全て、恋と結びついているのです。でも、歴史は恋を嫌う。本当は恋と無縁の歴史なんてありはしないのに。

恋は、なかったことにはできない。生まれてしまった恋は、人生にとって戦争と同等の歴史のひとつのページを記載するほどの意義があるものです。この小説のなかで語られる恋は、プライベートな物語であると同時に歴史につながっている。茂木健一郎さんは解説のなかでは、「巨(おお)きな物語」に接続された「私秘的(プライベート)な愛」が指摘されていて、非常に興味深いものがありました(P.501)。


恋に欠かせないものは他者である。国家もまた、他者という鏡を通して自分を認識する。

国家間における戦争という憎しみも、他者(他国)に対する嫉妬や恋から生まれた、国家レベルの感情の闘争なのではないでしょうか。世界は、どのようなレベルであれ、人間によって営まれているものである以上、ちいさな(プライベートの)物語も、巨きな(パブリックな)物語も、同じ人間の情念という根源に接続される。恋の発生から消滅までの過程は、人間の歴史と等しい。だから恋の年代記(クロニクル)を説くことは、歴史を説くのとそう遠くないところにあるのではないか。

小説の中では、マッカーサー元帥の愛人として、彼の日本に対する狂気をおさめるための人柱として人生を投げ打った女優の松原妙子が象徴的です。若い蔵人は、その松原妙子に恋をする。そして彼女をいちどきり奪ってしまう。それは恋ではありながら、テロリズムのような危険も伴う。ただし、その恋は一度だけの成就を得て、終わってしまう。

理屈っぽくなってしまったのですが、恋は理屈ではありません。情動に動かされている。けれども作家である島田雅彦さんは情動をクールに制御して、狂気と冷静の狭間で言葉を綴っている。そのあやういバランスが心を揺さぶります。たとえば、こんな言葉(P.48)。


――許されない恋ってどんな恋ですか?
二人の恋がどんな顛末を迎えたのか知る由もない君は、そんな直球の質問を投げかけるしかなかった。
――普通、人はそれほど真剣に恋はしないものよ。恋に狂うなんて自殺行為だから。恋は遊戯だ、娯楽だって見切ることで、人は大人になってゆくのよ。大抵の人は許される恋しかしない。祝福されない恋というのはあっても、結局は許されて、認められるの。でもカヲルの恋は――
アンジュ伯母さんはそこでいい澱み、手探りで君の手を握ると、声を低めて、呟いた。
――カヲルの恋は無理やり引き裂かれたのよ。だから、カヲルは諦め切れないの。

恋という感情を持続させるものは、必ずしも前向きなものばかりではありません。フィジカルなものだけでもない。もう触れることができない肉体が逆に永遠の感情を想起させることもあります。身体的なものよりも観念的な恋のほうが手に負えないかもしれない。

カヲルの祖父JBは、子供を生んで死んでいった妻・那美を火葬にした後で、骨になった那美に次のように囁きます(P,269)。


私自身が君の墓になってやろう。君は死んだが、恋はまだ生きている。

この「死」に関する言葉は、次のような言葉にもつながっていきます。蔵人の育ての母である、ナオミがいまわの際に蔵人に伝える言葉です(P,305)。


――棺桶には一人しか入れない。でも嘆くことはない。死者は夢の中の人と同じ成分でできている。いつでも会いにおいで。

死は有限のためにあるものではなくて、「いつでも会いに」いける無限をつむぐためにある。

肉体というものは、いつかは終わりが訪れるものです。しかし、魂=恋に終わりはありません。しかしながら、許されない恋の相手を死者と同様に、あるいは夢の中の成分として永遠にその魂を存在させることは、狂気です。現実に存在する相手ではなく、観念的な誰か、あるいは言葉化された対象に恋することかもしれない。その恋には終わりがありません。なぜなら身体性を持たないからです。

大きく視点を展開させてみると、それは次のような部分とも関連するのではないか、とぼくは考えます(P.201)。音楽家であった蔵人の息子、カヲルは美しい声を持っていて、音楽に傾倒していた。けれども、アンジュの友人である不二子さんに恋をして、声変わりをした頃に、音楽から詩作に方向を変える。詩を作ったことが彼の人生を変えてしまったとアンジュは言います。


――そう、不二子さんが悪いのよ。
――悪いって何がですか? 詩を書くことが?
――そうよ。カヲルは両親の言う通り、音楽だけをやっていればよかった。そうすれば誰も傷つかずに済んだ。詩を書き出したとたんに、カヲルは危ない世界に飛び出してしまったんだから。カヲルは詩の犠牲になったようなものよ。

音楽は身体的なものです。何よりもビート(律動)は身体を揺らしたり、鼓膜を通じて振動を脳に伝えます。しかし、記号であるところの言葉は、心をふるわせるものであったとしても身体性を持ちません。音楽は、空間のなかで減衰していく。けれども、言葉という情報は損なわれることなく永遠に残る。

いま、ぼくが書き綴っている言葉も半永久的に残ります。ぼくの記憶や身体は失われたとしても、書かれた言葉は残っていく。明るい気持ちも残るけれど、行き場のない暗い想いも永遠に残る

ただ、残しておきたい想いがあります。カノンのように少しずつ変奏を繰り返しながら、時代を超えて語りつづけていく言葉もあるような気がしています。3月9日読了。

※年間本100冊プロジェクト(8/100冊)

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2007年2月22日

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「ドラッカー名著集1 経営者の条件」P.F.ドラッカー

▼book006:ふつうに語られる言葉に内包される叡智。

4478300747ドラッカー名著集1 経営者の条件
P.F.ドラッカー
ダイヤモンド社 2006-11-10

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新しいものを追いつづけることも必要ですが、古典的な叡智を学ぶことも必要ではないかと考えています。新しいトレンドは時代の波に埋もれて消え去ってしまうものも多いものです。Web2.0という言葉がどんなに注目されていても、あと10年後に、ああそんな言葉もあったっけ、と懐かしがられる程度にしかならないかもしれません(逆に、その言葉が分岐点だったと重要になるかもしれませんが)。

昨年、「ドラッカーの遺言」という本を読み、そこで使われている言葉の優しさにぼくは打たれました。そして、彼がナチスドイツの台頭による世界のかなしみを救うために「考える人」となった経歴を知り、ドラッカーの本を時間をかけて全部読破しようと決めました。ちょうどいい時期でエターナルコレクションという名著集が昨年11月から刊行されていたので、第1巻から読んでいくつもりです。

この本のなかでドラッカーはとりわけ難しい言葉も使わなければ、特異なことも語っていません。だからきっと退屈な本に思うひともいるでしょう。正直なところ、ぼくも途中で何度か眠くなりました(苦笑)。でも、さりげない言葉のなかに、はっとするような発想が潜んでいる。その発想は研ぎ澄まされているというよりも、思考のツボを押されるというかエッセンスのようなものです。ぼくの勝手な印象ですが、谷川俊太郎さんの詩はやさしいけれども深い真理を突いているように思います。それに近い感じ。

たとえば、すべての人間がエグゼクティブになれるということ。エグゼクティブとは「できる人」を指すようですが、才能や人格で決まるのであれば、夢も希望も持てません。けれども、思考や習慣を変えることによってどんな人間もエグゼクティブになれる、というドラッカーの提言は元気を与えてくれます。

さりげないけれども鋭い視点は、次のような部分にも感じられました(P.192)。正しい意思決定についての考察です。


意思決定についての文献のほとんどが、まず事実を探せという。だが、成果をあげるものは事実からはスタートできないことを知っている。誰もが自分の意見からスタートする。しかし、意見は未検証の仮説にすぎず、したがって現実に検証されなければならない。そもそも何が事実であるかを確定するには、有意性の基準、特に評価の基準についての決定が必要である。これが成果をあげる決定の要であり、通常最も判断の分かれるところである。

ドラッカーは、成果をあげることを第一に考えています。成果とは組織に対する貢献であり、そのための最善な方法を突き詰めていく。次のようにつづきます。

したがって、成果をあげる決定は、決定についての文献の多くが説いているような事実についての合意からスタートすることはない。正しい決定は、共通の理解と、対立する意見、競合する選択肢をめぐる検討から生まれる。
最初に事実を把握することはできない。有意性の基準がなければ事実というものがありえない。事象そのものは事実ではない。

これは重要ですね。たいてい、「市場がそうなっているから決定する」という風に事実が決定のための要因になる。データを引用することも多い。しかしながら、ドラッカーが重視しているのは、「意見」であり、それもオプションをいくつも考察した「対立する意見」を重視しているわけです。

そもそも日本的な環境では、対立する意見を出しにくい(苦笑)。対立意見を出すと、逆切れされて感情的に排除されたりもするわけです。それは成熟したビジネスといえるのかどうか・・・。つまりビジネスの成果を出そうとするのであれば、とことんさまざまな角度から検証しなければならない。まだこんな考え方もできるのではないか、いやこういう場合もあり得るのではないか、と想像できる限りのオプションを検討することが重要です。これに決まったからこれで、というマネジメントは一見潔く思えますが、マネジメントではない。

ドラッカーの言葉にはじわじわと効いてくる重みのある提言が多いのですが、また折にふれ、読み直しながら考えていきたいと思っています。2月14日読了。

※年間本100冊プロジェクト(6/100冊)

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2007年2月 8日

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「分析力のマネジメント」ジム・デイビスほか

▼book005:抽象的な概念よりも、ダイレクトな言葉が効くのでは。

4478331243分析力のマネジメント―「情報進化モデル」が意思決定プロセスの革新をもたらす
鈴木 泰雄
ダイヤモンド社 2007-01-13

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分析というタイトルに惹かれて購入したのですが、読み進めながらどうもすっきりしないものを感じました。個人・部門・企業・最適化・革新という企業が情報化を移行する5段階のモデルはわかりやすいのだけれど、抽象的な言葉が多く、ぼくの頭のなかで焦点を結んでいかない。

なぜだろうと感じながら表紙の裏をみて気付いたのですが(気付くのが遅すぎますが)、この本はどうやらビジネスインテリジェンス(BI)大手SASの啓蒙のための本らしい。共著として書いている作者はすべて、SASのコンサルタントのようです。なるほど。分厚いのに安価なのは、たぶんいくらか制作費も出ているからでしょう。また、導入事例が架空のメーカーになっているのは、販促・啓蒙としての雰囲気を意図的に消そうとしているからかもしれません。

法人向けサービスの啓蒙本を批判するつもりはないのですが、こういう本を読むと、非常に残念です。こうした作り方では啓蒙の効果を挙げられないのではないか、と考えてしまうからです。

というのも、SASというのは非常に優れたBIツールだと思うので、どうしてダイレクトにSASはこんなにすごいと書かないのだろうか、とじれったさを感じてしまう。もちろん、SASの詳細を述べた技術書もあるだろうと思うのですが、経営者向けであっても、遠まわしに啓蒙することが果たして効果的なのか、と考えます。BI導入したりさらに進化させようと考えている経営者にとっては、概念的なものよりも、ダイレクトにビジネスに直結する効果のほうが関心があると思う。具体的なシステム導入のメリットを書いた方が説得力があるのではないでしょうか。

もちろん、ダイレクトに製品やサービスの凄さを解説する本は、ある意味、自画自賛的な印象があるので嫌うひともあるでしょう。けれども、問題は誰をターゲットとするか、ということです。「分析のマネジメント」というタイトルから想定されるのは、企業の情報部門担当者かもしれないのですが、書かれている内容はそうでもない。では、経営者向けかというと、そうともいえない。非常に概念的な内容なので、コンサルタントがコンサルタントのために書いた本のような気がします(というと、SASを販売するパートナーのコンサルタント向けでしょうか)。読者の設定がなんとなく曖昧です。

この本を読んでいて、いちばんすっきりしたのは、巻末に掲載されていた(日本の)NTTドコモの事例でした。長いページを割いて解説されていた5段階のBIの進化も、この事例によってイメージすることができました。事例がいちばん説得力があります。実は、NTTドコモのDREAMSというシステムについては、過去にBI関連のセミナーで話を伺ったことがあり、関心を持ってもいました。ただし口頭で聴いていただけだったので、まとまった資料があると参考になります。

もしぼくが情報部門の担当者であれば、事例のページをコピーして上の人間に提案することもできる。一方で、5段階の進化・・・という概念的なページを持っていくことはできません。それを持っていったら「要点をいいたまえ。で、きみは何がしたいのだ!」と怒られそうです。経営者の方々は多忙です。情報の進化は・・・と基礎から講釈するよりも、結果で説得するほうが早いのでは

コンサルティングのフレームワークとしてこのBIの5段階について考えてみると、エンタープライズ(大企業)に特化したフレームであり中小企業には適応しにくいこと(というのは、BIが大企業向きなので当然ですが)、直線的な進化の構造に疑問を感じること、という2点に問題を感じました。特に後者については、本書のなかでも触れている部分がありましたが、ヒューマンリソースとしては進化しているが技術がともなわないなど、マトリックスのような形でとらえたほうが、非常に混沌とした情報化の現状には合っているような気がしました。2月6日読了。

※年間本100冊プロジェクト(5/100冊)

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2007年2月 1日

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「戦略「脳」を鍛える」御立尚資

▼book07-004:戦略思考のヒントが満載された入門書。

4492554955戦略「脳」を鍛える
東洋経済新報社 2003-11-14

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わかりやすく書かれた文章なので一日で読破しましたが、書かれていること自体は非常に興味深い視点ばかりでした。初版は2003年。けれども時代を超えて読み継がれる内容の本ではないでしょうか。戦略思考を身につけたいひとにはぜひおすすめしたい入門書です。

戦略思考の方式が公式化されているのですが、次のような公式です。

1.ユニークな戦略=定石+インサイト
2.ユニークな戦略=定石+(スピード+レンズ)
3.思考のスピード=(パターン認識+グラフ発想)×シャドウボクシング
4.発想力="拡散"レンズ+"フォーカス"レンズ+"ひねり"レンズ

パターン認識については、コスト系、顧客系、構造系、競争パターン系、組織能力系のそれぞれのコンセプトワードからパターンを認識する方法が示されています。ぼくがなるほどと思ったのは、先人がつくったパターンを事前に知っておくことも重要ですが、とにかくたくさんの事例を経験することによって現場からパターンを構築していく、というような考え方でした。ジェフリー・ムーアの「ライフサイクル・イノベーション」を読んだときには大量の事例に論旨を見失ってしまったのですが、その事例の共通項から公式を見出すことが重要だったのではないか、と思いました。

シャドウボクシングについては、これはまさにぼくは最近心がけていることですが、自分のなかにもうひとりの自分を仮想的に存在させて、まったく逆の視点から脳内会議を開くということです。ひとつの思考に盲目的にとらわれるのはキケンだと考えていて、可能な限りのオプション(選択肢)を考察する。それがどれだけ思いつくことができるか、討議した上で最初の仮説を捨てられる潔さがあるか、ということをぼくはポイントにしています。

BCGのDNAをあらわすスローガンとして「多様性からの連帯」という言葉があるということにも打たれました。外資系の企業なので当然のような気がするのですが、その言葉には同質集団ではいけない、という自戒がある。戦略のエキスパートとしてクライアントから評価を得るためには、異質の人材を投入してチームを組む必要が性がある、という理念をまとめたものだそうです。

その実践として、PNIルールというディスカッションの方法があることにも注目しました。P (ポジティブ)、N(ネガティブ)、I(インタレスティング)の順番で議論を行うそうです。ふつうブレインストーミングというと、肯定的な意見だけ言いましょう、ということを重視していると思うのですが、その後、ネガティブな意見も許容すること、さらに左脳的なロジックではなくて感覚的なI(インタレスティング)についても議論するところが幅広い。これはできそうで、できないことです。というのは、ネガティブな議論をしようとすると、どうしても人格否定になりそうなところがあるし、興味があるという視点でとらえようとすると、感覚でものを言っていないか?という批判もあり得る。特に日本人の会議では、IはともかくとしてNについての議論はしにくいのではないでしょうか。

コンサルティング会社は考えることがサービスであるからこそ、さまざまなナレッジが蓄積されています。学ぶところがとても多い本でした。というか実践しなければ。2月1日読了。

※年間本100冊プロジェクト(4/100冊)

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2007年1月30日

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「イノベーションの軸」前野拓道

▼book07-003:ポッドキャスティングでいいのかどうか・・・。

4806527599イノベーションの軸
経済産業調査会 2006-11

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世界各国がイノベーションを重視し、日本でも政府が掲げた「新しい考え方でつくる」というスローガンによって考えることが重視されつつある――そんな政治的な観点から、さまざまな書物、映画、文芸作品などジャンルを横断して取り上げ、革新的なソリューションを生み出すための思考とは何か、ということについて考察されている本です。しかしながら、率直な感想を述べてしまうと、この本はダメだ・・・と思いました。

ぼくは雇われて書評を書いているライターではないので、あくまでも私見によって(たとえベストセラーでなくても)自分がよいと思ったものは絶賛するし、ダメなものはダメだと誠実に言いたい。それをポリシーとしたいと考えています。そこでぼくは正直に言うのですが読後に、これじゃあダメだ、イノベーションどころではない、と強く感じました。

何がダメかということを考えてみると、ポッドキャスティングというソリューションありきで構成されていて、その結論を導くためにロジックを組み立てているからです。前半では幅広い分野を横断する知見にわくわくして、おおぼくもこういう文章を書きたいぞと思ってみたり、何枚も付箋を貼ったりもしたのですが、第6章以降の後半は、率直に言って読むに耐えない内容でした。ひどいと思います。というのも、世のなかの事象を取り上げつつ、かならず最後は"こんなときにはポッドキャスティング"で落としてあるからです。まるで水戸黄門の印籠のようにポッドキャスティングが出てくる。その度に、またか...と、いい加減うんざりでした。

たとえば高齢化社会の到来を踏まえて、おばあちゃんと子供のコミュニケーションにポッドキャスティングという提言もあるのですが(P.170)、はたしてポッドキャスティングが最適なソリューションなのでしょうか。FOMAが進化して完全にテレビ電話になれば、電話という手段のほうがお年寄りには身近だと思うし、一方でWiiにカメラのような周辺機器が付属すれば、ゲーム機から爆発的に利用が拡大する可能性もあります。あまり賢いとはいえないないぼくでさえそれぐらい考えられるのに、お年寄りにポッドキャスティング、という発想は無理がありすぎると思いました。新しい考え方を生み出すよりもまず先に、思考停止しているのではないか。

仮説ありきでロジックを組み立てるのは、コンサルティングの常套手段ではあります。けれども一方で、オプション(選択肢)をいくつも考察するのも大事ではないでしょうか。新しい考え方とは多様性を容認することである、と著者は本のなかで書かれているのに、ポッドキャスティングがあらゆる問題を解決する、という一元論的な結論に強引に導く論旨には大いに疑問です。

と考えると、前半の政治の問題や考える時代の到来という論点とポッドキャスティングというソリューションのあいだにも、大きな溝があります。まったくつながらないものを無理やりに接合している。たくさんの引用によって説得されそうになるのですが、どれだけ情報を積み重ねても、この論旨は違うなと感じました。

しかしながら、こういうロジックを使うことは多いですね。データベースを売るためにCRMを提案するとか、提案したい結果を導くために情報を収集するとか。それは世のなかのペイン(痛みや課題)に目をつぶってしまうことになりかねません。まず、現状をしっかりとみつめ、耳を澄ますこと。そして、現状から導き出される結果を可能な限り誠実に「考える」こと。その上で、優先順位を付けてほんとうの結論を見出すことが重要ではないかと思いました。また、ブロガーがいちばん嫌うのは、ほんとうによいものを薦めるのではなく、商業的な(あるいは政治的な)意図により、現実をねじまげて提案するような姿勢ではないでしょうか。頭のいいひとは得てして結論から入りがちですが、もう少し現実をみつめたほうがよいのではないか。頭の悪いぼくはそう思います。

非連続的な思考、飛躍する考え方の重要性についてブログに書いたのですが、それは発想の転換であって、売りたいがためのものを無理やりに持ってくるものではないと思います。ポッドキャスティングには可能性を感じているのですが、それが効果的に使われる場所を論じるには、政府の施策ではなく、ぼくらの生活を分析する必要がある。さらに可能性を論じるためには技術的なことも深く掘り下げる必要があるのですが、この本では、少しもそのことには触れていません(きっと技術がわからないおじさんに向けて書かれているのかもしれません。そういうおじさんたちはこの本を読んで短絡的に、これからはポッドキャスティングだ、とか言っちゃうんでしょうね。どういうものかも分からずに)。

茂木健一郎さんの講義を聴くときには、ポッドキャスティングって便利だと感動しましたが、この本を読んで逆にイノベーションとしてポッドキャスティングを推進しようとする考え方に眉唾なものを感じたというか、疑問が深まってしまいました。

ポッドキャスティングの啓蒙のために書かれた本であれば、もっと直球勝負で(考える時代やイノベーションなどの言葉を振りかざさずに)書いた方がよいのではないでしょうか。逆にイノベーションについて書くことが目的であれば、ポッドキャスティングは内容の一部にとどめておくべきか、むしろ不要な気がします。1月30日読了。

※年間本100冊プロジェクト(3/100冊)

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