02.bookカテゴリーに投稿されたすべての記事です。

2012年9月 9日

a001294

『草枕』を読みなおす。

夏目漱石という文豪の作品のひとつに『草枕』があります。漱石の作品は『こころ』『吾輩は猫である』『坊っちゃん』あたりが有名ですが、『草枕』はあまり有名ではないかもしれません。

ぼくは大学の卒論に『草枕』を選びました。卒論のタイトルは、「漂泊のエクリチュール : 『草枕』論」。エクリチュールとは要するに「書き言葉」なのですが、『草枕』という作品に書かれた文体と主人公である画工の身体との関係を論じたものでした。

ところで、久し振りに大学時代のゼミの恩師である小森陽一先生に会い、『草枕』という作品に対する関心が高まりました。自宅には、以前買った岩波書店の漱石全集(第二次刊行)全28巻+別巻1がどーんと並んでいて老後のために取っておいてあります。とはいえ、老後に読まずに終わる可能性も高いわけで、まずは『草枕』から読んでみることにしました。

この1週間ばかり、朝の連投ツイッターで『草枕』を読んで考えたことをまとめてきました。論文ではなく、あくまでも感想なのですが、その内容をあらためて見直し、日付順だった構成を入れ替えて全体を読めるものに加筆修正しました。以下にエントリします。

なお、見出しの横にある日付は実際にツイートした日であり、元の原稿が気になる方はぼくのツイログをご覧ください。引用した文章とページ数は、岩波書店の漱石全集第三巻によるものです。

+++++


『草枕』を読みなおす。

soseki120908.JPGのサムネール画像


■漂泊する文体と身体。(9月8日)

夏目漱石の『草枕』は、小説とも、哲学的なエッセイとも、漢詩や俳句を散りばめて絵画について言及した芸術論とも読み取れる風変わりな作品である。冒頭の次の文章は有名だ。

山路を登りながら、かう考へた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。(P.1)
この文章を読むと、主人公である画工は「山路を登りながら」「考へた」ことがわかる。つまり山路という傾斜を重力に逆らって登りながら考えた文体なのである。一歩一歩踏みしめる身体は短いリズムを作る。身体と文体は密接に関わっている。身体論×文体論が展開できる。

いったい画工はどこへ登ろうとしているのか。山路を登る視界の先にあるのは「非人情」の世界である。「人情」という住みにくい俗世間を離れて、画工は上昇する身体の姿勢によって「非人情」の世界を目指している。ところが路の途中で彼は「突然座りの悪い角石の端を踏み損なつた」。

余の考がこゝ迄漂流して来た時に、余の右足は突然坐りのわるい角石の端を踏み損くなつた。平衡を保つ為めに、すはやと前に飛び出した左足が、仕損じの埋め合せをすると共に、余の腰は具合よく方三尺程な岩の上に卸りた。肩にかけた絵の具箱が脇の下から踊り出した丈で、幸ひと何の事もなかった。(P.5)

路の上にある石に躓いた画工は、視線の先に「バケツを伏せた様な峰が聳えて居る」ことをみる。非人情の世界は峰の向こうにあるのではないか。人情の世界から非人情の世界へ「路はすこぶる難儀だ」と画工は語る。ゴシップ的な俗にまみれた「人の世」から俗世を超越した詩や画の非人情の世界には、なかなか到達できない。

『草枕』の物語全体を貫いているテーマは、画工の「人情」の世界から「非人情」の世界に漂泊する彼の試みである。ところが非人情の世界に達したかとおもうと、那古井の里にまつわる逸話に興味を抱いたり、那美さんという女性が湯に入る裸に惑わされたり、非人情の世界に至ることができない。

那古井の湯に仰向けに浸かって画工の視点がどこへ向かうかといえば、天井を通り越した天上の世界だ。山路を登る傾斜した身体の向かう先が非人情の世界であったことと同様、彼は湯のなかに横たわっても漂泊を続けている。画工は非人情の世界に辿り着けるのか。その関心が読者を漂泊にいざなう。


■波動する身体。(09月04日)

湯に浮かんで画工が見る波(=那美さん)は画工のこころに波紋を描く。

音も「波」である。音波が鼓膜を震えさせる。心拍数も波形であらわされる。「歩く」ときの身体の揺れもまた波といえるかもしれない。バイオリズムも長期的な身体の波であり、吐いて吸う深呼吸も身体を波打たせる。月経も波。人間の身体にはさまざまな波がある。身体を波動させることで生きている。

峰の連なりもまた「波」のようだ。峰から遠ざかったり近づいたりするとき、峰の連なりはさまざまな波にかたちを変える。峰という波が動く。『アフォーダンス-新しい認知の理論 (岩波科学ライブラリー (12))』では自分が動くと世界が動くというような理論が書かれている。風景を波立たせるのは自分の歩みだ。


4000065122アフォーダンス-新しい認知の理論 (岩波科学ライブラリー (12))
佐々木 正人
岩波書店 1994-05-23

by G-Tools


波動にはリズムがある。人間の身体を波立たせるとリズムが生まれる。呼吸という波もリズムをつくる。「自分の呼吸のリズムが他の人と共有されると、受け入れられているという自己肯定感が生まれてきます。」と齋藤孝氏は「呼吸入門 (角川文庫)」で書いた。このリズムを踏み外してはいけない。


4043786034呼吸入門 (角川文庫)
齋藤 孝
角川グループパブリッシング 2008-04-25

by G-Tools


対話もまた、相手と呼吸を合わせることが大事になる。相手の心拍に耳を澄ます。相手の呼吸をはかる。うまく相手のリズムと同期させることができると対話は弾む。同期できないと対話は波形の乱れた噛み合わないものになる。相手の呼吸と心拍数に合った対話は共感を生み、言葉をうつくしく波立たせる。

うつくしい波は連続体であるけれど、時間軸にしたがって切り出せば「刹那」の「美」になる。つまり静止した刹那の「画」を連続すると動きが生じ、ぼくらの世界は「生きる」。生きるということは刹那を波立たせることであり、波立つ身体の動きが世界をあざやかに変える。世界は刹那の連続体である。


■動くもの、動かぬもの。(09月06日)

人生は立ち止まらない。巻き戻すこともできない。感「情」は移ろいながら次々と変わっていく。「発話(parole)」は時間という線上に並び、最初に発話されたものから空間に消えていく。ところが消えていく言葉を書き留めた「書かれた言葉(écriture)」は情報として永遠に残る。

動画に対して写真は瞬間を切り取る。カメラは一瞬の風景を写す。インターネットの動画やデジタルビデオでは、一秒間に切り出すコマ数を「fps(Frames Per Second)」という単位で示している。1秒間に60回の静止画を記録した60fpsあれば、滑らかな動画になるという。

詩などの書かれた言葉あるいは「画」「写真」は、風景を切り取る。同様にこころというカメラも、視界のファインダーを通して瞬間を切り取る。カメラで切り取られた人物の表情は「情」を写しているようだが、移ろいゆく情は失われていて、どちらかといえば風景に近い。記録された写真や言葉は人情を超越した「非人情」の世界だ。

丹青は画架に向かつて塗沫せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。只おのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうらゝかに収め得れば足る。(P.4 )

詩あるいは絵画は静止している。静止しているものは「死」である。だからこそ「永遠」である。一方で、感情や物語は時間軸の上で動いている。変化するものは「生」といえるだろう。書かれた物語は何度も読み直すことができそうだが、物語を読む行為、つまり登場人物の「生」を辿る物語は基本的に一回性のものである。

動いている感情や人生は描きにくい。過去という静止画になったときに、はじめて描くことができる。しかし、もはや動かない過去の世界は「死」んでいる。ぼくらの動いている「生」は過去という動かない「死」を内包しながら、各々がそれぞれの主人公として動き続ける。生死の連続体として世界は成立しているのである。


■詩人という生き方。(9月3日)

「死」について考察した。では、「詩」とはなんだろう。音楽の歌詞を作る「詞」とは違うようだ。「小説」とも違っている。幼少の頃、改行された作文が詩であると考えていた。ところが「散文詩」というものに出会って混乱した。散文詩は改行されていない。だが詩なのである。

日本の詩である短歌や俳句は文字数が決まっている。短歌であれば五・七・五・七・七の五句体であり、俳句であれば五・七・五である。音韻として一定の時間的長さを持った音の文節単位を「モーラ」というそうだが、短歌は31モーラ、俳句は17モーラ。しかし形式だけが詩ではない。内容が求められる。

詩人とは自分の死骸を、自分で解剖して、其病状を天下に発表する義務を有して居る。其方便は色々あるが一番手近なのは何でも蚊でも手当たり次第十七字にまとめて見るのが一番いゝ。十七字は詩形として尤も軽便であるから。顔を洗ふ時にも、厠に上った時にも電車に乗つた時にも、容易にできる。十七字が容易に出来ると云ふ意味は安直に詩人になれると云ふ意味であって、詩人になると云ふのは一種の悟りであるから軽便だと云つて侮辱する必要はない。 (P.35 )

「物語」は構成要素を時間軸で並べることができる。一方で「詩」には時間軸という観点がない。時間的な視点から考えると詩は「映画」より「絵画」「写真」に似ている。物語や映画は、ばらばらに場面を構成していたとしても並べ替えて時間の流れを把握できる。詩や写真や絵画は瞬間を切り取っている。物語が有限の「生」であるのに対して、詩は「死」であり、ゆえに永遠なのだ。

人生は「時間軸」上に線的(リニア)な順序で並べられた物語である。ところが詩は時間軸という文法を超越している。時間軸でつながれた世界は「情」の世界である。詩に「人情」はあるが詩ごころは別の世界に超越している。「詩」から人情的な俗念を放棄した「非人情」が「刹那」の「画」となるのではないか。

苦しんだり、怒つたり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々した。飽き々々した上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞する様なものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持になれる詩である。(P9)

小説を書くのは小説-家、詩を書くのは詩-人。作家も脚本家も「家」だ。家とは職業を意味するものだろうか。文章を書いてお金を儲けるひとびとかもしれない。特に詩人は別格の人種のようだ。詩人は「人」でありながら金儲けの俗世を超越している。「非人情」の世界でしか生きられない。それが詩人のようだ。


■絵画と色について。(09月07日)

鉛筆によるデッサンはモノクロームである。白い画用紙の上に幾重もの黒い輪郭で描かれる。風景や静物だけでなく人物も描かれる。精緻に描かれることもあるが、たいていその存在の情に踏み込むことはない。一方、水墨画はさらに抽象的で、風景のなかにあっても人物の存在はひとつの「点景」になる。

画中の人物は動かない。想像のなかで動いたとしても、静止画の連続した風景にすぎない。遠くから眺めているのであればなおさらだ。こころの動き、すなわち「情」まで画にできない。移ろう人間のこころを画で描写することは難しい。人間の姿かたちを「点景」として描くことだけが可能である。

余も是から逢ふ人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも――悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見様。尤も画中の人物と違つて、彼等はおのがじゝ勝手な真似をするだらう。然し普通の小説家の様に其勝手な真似の根本を探ぐつて、心理作用に立ち入つたり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。(P.12)

西洋画の油絵や水彩画は彩色されている。画に「色」が着く。色は写実的である場合もあるし、点描画のように色彩の要素の集まりにこだわったものや、フェルメールのように光に忠実なものもある。とはいえ、やはり画のなかに「情」はない。刹那で切り取られた「情」の断片は、画のなかに閉じ込められた瞬間に死んでしまう。

たくさんの料理が並ぶ食卓は彩りが豊かである。ほんらい食「欲」を促すための色であるが、画家が綺麗だと色にこだわるのであれば人間の欲と情から距離を置いている。食べる人間の食欲を無視して一枚の画として視界に取り込んだことになる。あたたかい料理は冷めるが画は冷めない。画のなかで料理は永遠に新鮮さを保っている。

ターナーが或る晩餐の席で、皿に盛るサラドを見つめながら、涼しい色だ、是がわしの用ゐた色だと傍の人に話したと云ふ逸事をある書物で読んだ事があるが、此海老と蕨の色を一寸ターナーに見せてやりたい。一体西洋の食物で色のいゝものは一つもない。あればサラドとと赤大根位なものだ(P.45)

漱石は『草枕』のなかで赤にこだわっているようだ。赤は血痕の色であり、生命の色として喩えられているのかもしれない。しかし対比的に死の上に浮遊する色でもある。椿の花が水面に落ちるシーン。

見てゐると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものは只此一輪である。しばらくすると又ぽたり落ちた。あの花は決して散らない。崩れるよりも、かたまつた儘枝を離れる。離れるときは一度に離れるから、未練のない様に見えるが、落ちてもかたまつて居る所は、何となく毒々しい。又ぽたり落ちる。あゝやつて落ちてゐるうちに、池の水が赤くなるだらうと考へた。花が静かに浮いて居る辺は今でも少々赤い様な気がする。(P.122)

画のテーマには裸婦もある。衣服に包まれた何かを剥ぎ取るのはなぜか。肉感を強調するのはなぜか。裸体が「うつくしきもの」であるという考えからだ。ところが裸体をありのままに描くと低俗になる。性つまり「色」の欲にまみれるからだ。裸体の美は抽象を纏っていたほうがいい。抽象化された裸体は美しい。

湯のなかから眺める那美さんの裸体を画工は、一枚の画として観ている。だから俗を超越した芸術のような評論が生まれる。

しかも此姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が目の前に突きつけられては居らぬ。凡てのものを幽玄に化する一種の霊氛のなかに髣髴として、十分の美を奥床しくもほのめかして居るに過ぎぬ。片鱗を潑墨寂漓の間に点じて、虬龍の快を、楮毫の他にも想像せしむるが如く、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたゝかみと、冥邈なる調子とを具へて居る。六々三十六鱗を丁寧に描きたる龍の、滑稽に落つるが事実ならば、赤裸々の肉を浄洒々に眺めぬうちに神住の余韻はある。余は此輪廓の目に落ちた時、桂の都を逃れた月界の嫦娥が、彩虹の追手に取り囲まれて、しばらく躊躇する姿と眺めた。(P.92)


sosekizensyu.JPG


■三角形の恋。(09月05日)

「恋」は物語のテーマになる。ゴシップにもなる。しかしながら成就する恋は面白みがない。成就しない恋、許されない恋こそが物語の主題にもなり、読者が好むものである。許されない恋とは、不倫、三角関係、友人の恋人を奪うこと、既婚者に恋焦がれることなど。夏目漱石が好むテーマでもあった。

許されない恋は失う恋、つまり結果として失恋することになる。失恋を当事者がさなかに情にまかせて書き殴っても文章としての面白みはないだろう。失恋はすっかり終わってしまってから客観的に振り返り、ふたりの恋の歴史を第三者として記録するからこそ意義がある。詩や画として眺めることができる。

怖いものも只怖いもの其儘の姿と見れば詩になる。凄い事も、己を離れて、只単独に凄いのだと思へば画になる。失恋が芸術の題目となるのも全くその通りである。失恋の苦しいを忘れて、其やさしい所やら、同情の宿るところやら、憂のこもる所やら、一歩進めて云へば失恋の苦しみ其物の溢るゝ所やらを、単に客観的に眼前に思ひ浮かべるから文学美術の材料になる。(P.33)

三角の関係について考える。四角形のそれぞれの頂点は、つながれないひとつの頂点をもつ。しかしながら三角形は、それぞれの頂点が他のふたつと関係している。男女という関係を頂点に割り振ると男男女と女女男の三角関係がある。よく描かれるのは一般的に前者ではないだろうか。ひとりの女を奪い合う。

「那古井の嬢様にも二人の男が祟りました。一人は嬢様が京都へ修行に出て御出での頃御逢ひなさつたので、一人はこゝの城下で随一の物持ちで御座んす」(P.25)

四角な人間関係は利害のない他者がひとり介入するため「常識」が維持される。しかし、その第三者の常識を失った三角関係は、それぞれが当事者であり客観性を失いがちになる。情に流されやすくなる。だからこそ、このとき三角のうちのひとりが当事者でありながら客観性を失わなければ、芸術に昇華されるだろう。

旅行をする間は常人の心持で、曾遊を語るときは既に詩人の態度にあるから、こんな矛盾が起こる。して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。(P.33)

恋は楽しい。それよりもずっと苦しい。苦しさを「三本の松」のように風景として眺め、「三味の音」つまり三味線の音の像のように臨場感のある「パノラマ」として展開できるようになれば、芸術になる。みずからの恋を芸術として観賞したり聴く人間はいないかもしれない。しかし、客観性のある恋は芸術である。

三本の松は未だに好い格好で残つて居るかしらん。鉄燈籠はもう壊れたに相違ない。春の草は昔し、しやがんだ人を覚えて居るだらうか。その時ですら、口もきかずに過ぎたものを、今に見知らう筈がない。御倉さんの旅の衣は鈴懸のと云ふ、日ごとの声もよも聞き覚えがあるとは云ふまい。
三味の音が思はぬパノラマを余が眼前に展開するにつけ、余は床しい過去の面のあたりに立つて、二十年の昔に住む、頑是なき小僧と、成り済ましたとき、突然風呂場の戸がさらりと開いた。(P.88)

画工が風呂のなかに浮きながら、三味線の音を聴き、三本の松があった昔の風景について古い恋のように思いを巡らせているとき、風呂に入ってきたのは那美さんだった。


■画が生まれるとき、物語のはじまるとき。(9月9日)

『草枕』は十一章から急展開を迎える。春の夜に散歩をして和尚の棲家に辿り着いた主人公「余」は、みずからのことを「画工(ゑかき)」と名乗るのである。そして謎の女性の正体は「那美さん」という名前が使われる。個々の人生を動きはじめる。

画工(ゑかき)は自称かもしれない。「画工の博士はありませんよ(P.138)」と和尚に告げている。それだけでなく「道具丈は持ってあるきますが、画はかゝないでも構わないんです(P.140)」と話している。確かに画工は画を完成させないで、漢詩や短歌などの詩ばかり作っている。理屈に拘泥して画を描く行動を起こさない。

余は此温泉場に来てから、未だ一枚の画もかゝない。絵の具箱は酔狂に、担いできたかの感さへある。人はあれでも画家かと嗤うかもしれぬ。いくら嗤われても、今の余は真の画家である。立派な画家である。かう云ふ境を得たものが、名画をかくとは限らん。然し、名画をかき得る人は必ず此境を知らねばならん。(P.144 )

画工は「探偵」のように那古井に住む人物のゴシップに耳を傾けていた。しかしみずから画工と名乗ったとき、今度は探偵に付きまとわれる存在になる。「余の如き探偵に屁の勘定をされる間は、到底画家になれない。画架に向かうことはできる。小手板を握ることは出来る。然し画工になれない。(P.144)」という。

画を描かない画工という矛盾を抱えた主人公は、短刀をちらつかせた那美さんを目撃する。そして那美さんがある男と邂逅するところを見る。「芝居」のような光景に、いつ短刀を出すのかと画工はひやひやするのだが、短刀は使われず差し出されたのは財布だった。男は那美さんが離縁された亭主だった。

那美さんの元亭主は貧乏で日本にいられないから満州へ行く。旅費として那美さんから金を貰ったのだ。彼は那美さんとの息子であると思われる久一さんに「そら御伯父さんの餞別だよ」と短刀を託す。久一さんは戦争に行こうとしている。那美さんの元亭主も久一さんも生きて帰ることができるかわからない。

非人情を求めていた那古井の里にはさまざまなドラマがあった。画工は非人情に徹することができなかった。その画工は戦争に向かう久一さんを見送りに「汽車」の見える「現実世界」に行く。現実世界は人情の世界である。ところが、久一さんを送る那美さんの顔に「憐れ」を見出したときすべてが変わる。

那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。其茫然のうちには不思議にも今迄かつて見た事のない「憐れ」が一面に浮いている。
「それだ!それだ!それが出れば画になりますよ」
と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云つた。余が胸中の画面は此咄嗟の際に成就したのである。(P.171)

人情の世界は「動く」物語である。非人情の世界は刹那を切り取って「静止した」詩である。那古井という非人情で詩的な世界に人情を見出した画工は、詩を書きとめたとしても画にできなかった。ところが那古井の里を出て人情の世界で「胸中」の画は成就したという。ただし、移ろいやすく脆いこころのなかに「場面」つまりシーンとして。

「憐れ」とはなんだろう。憐れは同情せずにはいられないが行動できない状態ではないだろうか。精神は「人情」で動かされながら、身体は「非人情」に縛られている。人情と非人情を二項対立で考えていたとき画工は画が描けなかったが、人情の世界の時間を非人情が静止したとき画工の画は胸中で完成した。

画工の胸中に「画面」が生まれた瞬間、つまり『草枕』の最後で画が成就したときから、画工の物語は、はじまる。画工は胸中の画を紙の上に描くのか。元亭主を満州に送り出して、画工と那美さんの関係はどう変わっていくのか。画がうまれたとき。そのときから画工の真の物語がはじまる。

投稿者: birdwing 日時: 10:54 | | トラックバック (0)

2012年8月26日

a001291

「独立国家のつくりかた」坂口恭平

▼books12-01 :自律した「個」が社会実現をするために。

4062881551独立国家のつくりかた (講談社現代新書)
坂口 恭平
講談社 2012-05-18

by G-Tools

かつてバブル崩壊後の新宿の街には、たくさんの路上生活者がいました。

建物の影に寝転がっていたり、ダンボールで家をつくったり。路上生活者の姿はたくさんみられました。通勤時間の朝、ぼくは眠たい目をしょぼしょぼさせ、会社に遅刻しそうな足を速めながら、すこしだけ彼等のことを羨ましくおもったことがあります。というのは、路上生活者のみなさんは、ある意味、仙人のようで、社会や他者の視線から解き放たれて「自由」にみえたから。

彼等からぼくらのようなサラリーマンはどのようにみえるんだろうな。路上に寝転んでみればわかるかな、などと思ったこともあるのですが、実際にやったことはありません。日常のあわただしさのなかで、そんな子供じみた疑問は忘れてしまいました。

路上生活者たちには建物も土地もありません。建物や土地が「ある」「ない」の二元論から、きちんと家や土地を持っているひとは、彼らを見下した視線でみる。ところが一方で、家を購入したひとは35年のローンなどを組んで、あくせく働かなければなりません。それが当然だとおもっています。

いまでは若干、変わりつつあるかとおもいますが、マイホームを背負うことがサラリーマンとして当然であり、家を持ってこそ一人前のように語られていた時代もありました。

なぜ土地と家にお金を払わなければならないかという、ある意味当然で、しかしながら誰も疑問視したことのない問いにこだわったひとがいます。それが「「建築」は建てたことがない建築家」である坂口恭平さんです。

坂口さんの著書『独立国家のつくりかた』は刺激的でわくわくする本でした。

ぼくは最初、タイトルから政治的な本なのかなとおもって購入。冒頭で熊本生まれであること、現在三十四歳であること、70㎡で家賃6万円の家に住んでいること、200㎡の家賃3万円の事務所を借りて弟子が居ること、年収は約1,000万円で貯金は300万円であること、などのご自身の詳細なプロフィールが書かれていて面食らいました。

さらに建築家であること、卒業論文は「0円」ハウスというという本になったこと、執筆活動で四冊の単行本、二冊の文庫本、一冊の韓国語の翻訳、写真集と合わせて八冊の本を出されている作家さんであることに続きます。

0円ハウス

いったい坂口恭平さんとは、どういうひとなんだろう。

「まえがき」を読み進めると、「僕は、ギターを弾きながら歌を歌うことができる。日に1万円ほど、路上で稼ぐことができる」というところをに惹かれました。自分でもギターを弾いたりパソコンで音楽を作っているせいもありますが、おおっなんだかこのひとおもしろそうだ、と注目したわけです。そして「ぼくは独立国家をつくったのだ」という衝撃。独立国家?なんでしょうか、それは。

坂口恭平さんは子供の頃の体験を非常に大事にされている。「まえがき」のところでは子供の頃に考えていた質問を8つ掲げられていますが、はっと気付かされる視点がある。たとえば、次のような質問(P.6)

1.なぜ人間だけがお金がないと生きのびることができないのか。そしてそれはほんとうなのか。
2.毎日家賃を払っているが、なぜ大地にではなく、大家さんに払うのか。
3.車のバッテリーでほとんどの電化製品が動くのに、なぜ原発をつくるまで大量な電気が必要なのか。

このような疑問はふと浮かぶこともあるのですが、坂口恭平さんのすごいところは、その疑問に対する答えを行動によって探ること。疑問を突き詰めた結果、0円で生活している路上生活者のところへ行き、彼等の考え方を探ります。そして「レイヤーライフ(層生活)」という考え方を得ます。

同じ新宿の街であっても、一般の生活者がみている世界と路上生活者がみている世界は違う。たとえば2000年に隅田川で出会ったホームレスの家は、ふつうのブルーシートの家なのですが、屋根にソーラーパネルが付いているハイテクなものでした。そんな家があるんですね。そして、坂口恭平さんはその「家」の主にたずねます。狭くて大変じゃないか、と。住まわれている方の回答はこうでした(P.24)

「いや、この家は寝室にすぎないから」

つまり彼にとっては周囲の街全体が自分の家なのです。墨田公園はリビングでありトイレや水道、風呂は銭湯、キッチンはスーパーマーケットの掃除の残り。そうして考えると、寝室が家になるわけです。ぼくら一般的な人間は、狭い囲まれた家のなかにさまざまな機能であるLDK(リビング・ダイニング・キッチン)を詰め込もうとしますが、家の概念を拡張して周囲の街まで拡げると、家は寝室だけでよくなる。0円で「独立した」個として生活している。

「レイヤー」という言葉を使われていて、レイヤーとは層の意味なのですが、ふだんぼくらの生活しているレイヤーと、路上生活者のレイヤーはまったく異なっている。一般人のレイヤーでみると街はショッピング情報誌のような視点でしか見られないけれど、路上生活者の視点から見ると「新宿には何でも実っているからね。それをつまんでは食べたりするだけだよ」と「ジャングル」になる。このレイヤーの切り替えは面白いとおもいました。

そもそもぼくがブログを書きはじめた当初に掲げていたテーマは「立体的な思考の獲得」でした。点ではなく、線でもなく平面でもなく、3Dによる「立体的な思考」を獲得すること。要するに既成概念はもちろん独自な視点を獲得して、多数の視点から物事を多角的にみられるようにすることを目指していました。あるいは、地上を歩くイヌに対して上空から地上を俯瞰する鳥の思考かもしれません。はるか遠くの「空」への飛翔を標榜して「BirdWing」という匿名もつかっています。この匿名はブロガーとしての匿名であり、ぼくのブランディングと考えてもいいかもしれません。

坂口恭平さんの本は、ぼくらに自分で「考える」ことを薦めています。そこでぼくもこの本をテキストにして、さまざまなことを考えてみました。まずは次の言葉です(P.19)

歩き方を変える。視点を変える。思考を変える。
それだけで世界は一変するのである。自分に無数の「生」の可能性があることを知る。

この2行に思考を変革するポイントが凝縮されていると感じました。考えることは立ち止まっていてはだめで、歩く=行動し、視点を変えていくことによって得られるものである、ということです。なんとなくアフォーダンスの理論をおもい出したりもしましたが(視野は実体が移動することで形成されていく、というようなこと)、歩きながら視点を変えつつ考えることで世界が変わるわけです。

そこでプライベートなことをおもい出したのですが、そういえばぼくは大学時に国文学科に在籍し、卒論は夏目漱石の「草枕」をとりあげました。ちなみにタイトルは「漂泊のエクリチュール」。エクリチュールなんて言葉を使っているのが若気の至りで現在は恥ずかしいのだけれど、あのときぼくが考えたことに通じるような気がする。

草枕 (岩波文庫)

エクリチュール(écriture)は、簡単に言ってしまうと「書かれた言葉」です。パロール(話し言葉)に対応しています。ロラン・バルトやジャック・デリダなどの哲学者が使っていました。

エクリチュールの零(ゼロ)度 (ちくま学芸文庫)

エクリチュールと差異 上 (叢書・ウニベルシタス)

卒論でぼくは何を書きたかったかというと、「草枕」の有名な冒頭文「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」という書かれた言葉を「歩きながら考える文体」として、「身体論×文体論」を掛け合わせた考察をしました。

つまり「登る」という上昇する身体の傾斜が、俗世間から離れて上昇する身体をつくり、文体も端的でリズミカルなものに変えている、主人公である「画工」を人情の世界から「非人情」の世界に運ぶ、という考察です。ああ、いま書いたほうがうまく書けそうだ(苦笑)。それはともかく。

ちょっと「道」からはずれましたね。次の言葉も考えさせられます(P.48)。

僕たちが「考える」ことを拒否するから、政治や行政は暴走するのである。故障するのである。それに気付いても止めることができず「命」を疎かにするのである。それじゃあ、僕たちも路上生活者にならって、自分たちの「思考」を開始してみようではないか。

「政治なんてわからないもん」「未来は誰かがなんとかしてくれるでしょ」という他者依存の考え方と姿勢は思考停止を生みます。ところが路上生活者はまず、今日一日を生き延びるために何とかしなければならない。だから0円で給料などもらわずにいても、生きていける最低限の知恵と術を身につけている。

しかし、これからは路上生活者ではないひとびとも、のんびりとしていられません。リストラや老後の不安、育児や子供たちの教育問題、いじめや自殺者の増加など、社会は悲鳴を上げています。政府や行政に対する不満が高まり、それらが批判されています。しかし、他律的に不満をぶうぶう垂れていても社会は何も変わらないのです。

現代の病んでいる社会に対しては、坂口恭平さんは次のように嘆いています(P.186)

それにしても、どうしたらよいものかこの自殺者数は。年間三万人という数は、普通に考えてもおかしい。僕はこれは芸術と深い関係があると考えている。

ここで芸術と深い関係があると考えられているのは、芸術が余暇、いわゆる何もしないときに現れてくるのに対し、仕事に追われたり就活に追われたり勉強に追われたり、余裕のない社会に生きているから、と考えられているようです。生きるとはどういうことか。坂口恭平さんは次のように語ります(P.168)。

つまり「死ねない」。
これ、すなわち「生きる」である。

わかりやすい。とてもシンプルです。そうして「死ねない」社会をつくるためには、ぼくらはお金を稼ぐために働くのではなく、社会をより良くするために働かなければならない、ということをおっしゃっています。社会の構成要因としてひとりひとりに「個」の役割があり、それが連携した社会になれば「死ねない」。個を尊重するとしても、個がばらばらな場合には、大きなショックに襲われたときにそれぞれが吹き飛ばされてしまいますが、手をつないで守りあえば助けられるはず。そんな社会を実現するために動かなければならない、と強調されています。そして、「個」がそれぞれ考えなければならないのです。

就活や企業では、よく「自己実現」や「やりたいこと」という言葉が使われますが、坂口恭平さんはそれを次のように指摘します(P.163)。

だからやりたいことじゃない。若い人にはまずそこをわかってほしい。そこを見誤ると大変なことになる。実際、学生時代に「おれ、こういうことをやるんだ」と吠えていたちょっと変わった個性的な人とか、結局何もつくらないし、発言しないし、びびって、大人になったらどこかへ隠れてしまうのだから。悲しすぎるよ。
自己実現をするのではなく、社会実現に向かっていく。
それをまず決めるんだ。

共同体に依存すれば生きていける幻想は崩れたといっていいでしょう。日本にいれば大丈夫だ、日本が世界のトップだ、という時代も終わったのかもしれません。そのような現状をしっかり認識して、ぼくらの「個」がしっかりとしていかなければならない。そんなメッセージが坂口恭平さんの文章に込められてると感じました。

個の才能については次のように書かれています(P.176)。

ぼくにとっての才能というものは秀でているものではない。才能とは、自分がこの社会に対して純粋に関わることができる部分のことを指す。
才能は「音色」を持っている。才能には上や下はない。どんな音を鳴らしているか、それに近いのではないか。自分がどんな楽器であるかは変えることができない。でも、技術は向上させることができる。技術は経験によって習うことができる。つまり「答え」の出し方は伸ばすことができる。それさえ変化すれば、生き方自体が変化する。だからおもしろいし、希望がある。

才能に音色を見出すあたり、さすがギターを弾いて路上で稼がれているだけのことはあります。美しい表現です。そんな個々人の才能を活かしあう社会のことを、坂口恭平さんは「態度経済」と呼んでいます。

「態度経済」でおもいだした言葉は、クリス・アンダーソンの「フリー <無料>からお金を生み出す新戦略」の「非貨幣市場」、あるいはタラ・ハントの「ツイッターノミクス」に書かれていた「ギフト経済」でした。

フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略

ツイッターノミクス TwitterNomics

貨幣経済とは別のものであることは同じなのですが、坂口恭平さんの語る「態度経済」はやや異なるようです。次のように定義されています(P.112)。

態度経済というのは、通貨というような物質によって何かを交換する経済ではない。交換ではなく「交易」するものだ。交易。つまり、そこに人間の感情や知性などの「態度」が交じっていることが重要だ。ただの交換ではないのだ。

この言葉に重みを感じたのは、坂口恭平さんが自分の卒論を写真集にまとめ、それをご自身で出版社に売り込み(つまり交易し)、海外の営業までご自身で行い、さらには人脈から自分の絵を売るチャンスを得て、その結果、現在の生活に至り、熊本にある家と人脈を「新政府」と名づけて活動されるようになった背景を読んだからです。

凄い。このひとは凄い!

「まず資金がなくちゃ何もできないよ」と言い訳をするひとが大半です。しかし、必要なのは「行動を起こす」ことなのです。行動を起こさなければ、どんなに大きなビジョンがあっても絵に描いた餅にすぎません。また、才能がなければ、ということも言い訳に過ぎません。才能は既にあるのです。個人の「音色」として。

そんなことを考えていたら、がーんとアタマを殴られたような衝撃を受けました。いままで自分は何をやっていたんだ。大事なものはすべてここにあるじゃないか、と。そこでぼくもちいさな革命を起こそうと考えました。自律した個による社会実現のために。

行動することで、態度をみせることで、社会を変えられることができる。ぼくはそう信じています。また、考えるだけでなく行動しようと「考えて」います。

+++++

そして、ぼくの企画とは。

実際に行動する「企画」の骨子は次の通りです。

ぼくはこの本を読んで共感し、とても坂口恭平さんに会いたくなりました。会って話を聞いてみると、もっとご本人のことがよくわかるとおもったからです。とはいえ、本屋で平積みにされるような新書の著者であり、セミナーなどの機会もなさそうです。いや、それよりもまず熊本に住んでいらっしゃる。

とはいえ、ぼくは次の文章を読んじゃったのです(P.171)。

だから議論ならいつでも僕は受ける。どんな人の言葉にも返す。

この本がツイッターにつぶやいたことからまとめて作られたことも知りました。探してみると、ツイッターに坂口恭平さんはいらっしゃるではないですか!さっそくフォローしました。

というわけでぼくが考えているのは、ブロガーとして坂口恭平さんに向けた「ツイート公開インタビュー」なのです!もちろん独立国家の政府の活動にお忙しいでしょうし、事情があって無名の一般人であるぼくにはお返事いただけないかもしれません。けれどもそれでかまわない。行動することが大事である。

経緯がありましたら、またこのブログでご紹介したいとおもいます!

+++++

坂口恭平さんの新政府のビデオがありました。かっこいい!

投稿者: birdwing 日時: 12:47 | | トラックバック (0)

2011年10月30日

a001287

読書で心がけている5つの事柄。

最近、読書のペースが落ちています。読書の秋・・・というには季節はだいぶ寒くなりましたが、机に向かったり布団にもぐりこんだりしながら本のページをめくってみたい時期。なのに、いまひとつ本を読む気持ちになれません。どうしたものか。ツンドク本も積まれたまま途方に暮れています。

とはいえ読書欲には波があり、読みたい「読者」と読まれたい「本」の絶妙な出会いがあるとぼくはおもっています。ぴぴっと目が合うような出会いがなければ、無理に読まなくてもいいや、と。はっぱをかけて読書欲を煽ることもときには大切ですが、読みたくもないのに読んでも、せっかくの楽しい読書がつまらなく感じてしまいますよね。なので、無理して読まない。

読書のスピードも同様です。速読はすごいとおもうけれど、何のための速読なのか。次々と大量の本を読むための速読だとしたら、ちょっとさびしい。物語に夢中になっているうちにあっという間に読み終えてしまった、ということならよいとおもいますけれど、がつがつと貪るような読み方は、ぼくの場合、どこかで消化不良を起こす気がしています。

よく噛んで、味わって、飲み込んで読みたい。読む本によっては、超スロー・リーディングで何ヶ月もかけてもいいかもしれません。作品が内在するスピードに読者が読む速さをチューニングするようなこともあっていいでしょう。そのスピードは個々にカスタマイズされたものであっていい。

読書から離れた時期、逆に読書について考えてみようとおもいました。

こうやって読め、こう読むのが正しいというマニュアルを提示するわけではありません。読書は自由であっていいとおもうし、実用書や勉強の本など役に立つものばかりでなく、小説や詩など、実践的ではないけれど作品のなかでたゆとうことによって癒される本もあります。何かに役に立てようという打算が目的の読書はどこかあざとい気がしていて、結果として読後に役に立つことがあれば幸いだし、そもそも読書自体が愉しみなのだから実践的ではなくても構わない。

ぼくはどのように本を読んでいるのか。どういう読書が快なのか。考えてみたところ、次のような5つのポイントが浮かんできました。自分の読み方の整理とともに、読書をもっと愉しくするための提案として書きとめてみます。


■■読書で心がけている5つの事柄。


①作者をコンプリートする"垂直読み"のススメ。

さまざまな著者の本を広く浅く読むことによって、この作家は面白そうだ、この著者はひとくせある、のようにリサーチすることもできますが、こつん、と自分の核に触れるような作家に出会ったら、その作家の全作品をコンプリート(ぜんぶ読む)つもりで、作家にどっぷり浸かってみるのもいいでしょう。たとえば、「10月は村上春樹月間」とか、自分でキャンペーンにしてもいい。

ぼくはこれを「垂直読み」と呼んでいます。

111030_dokusyo1.jpg

垂直読みのよいところは、作品と作品をつなぐ関連性を辿れることです。要するに、作家の思考の流れを追体験することができる。難しいことばでいうと、インターテクスチュアリティ(間テクスト性)というのかもしれませんが、もちろん別の作家の作品とのあいだにも関連性はあり、この「つながり」を読むのが読書の愉しみでもあります。学者ならともかく、ただの読者であれば、時代考証や作家の背景を無視した、ぶっとんだ解釈をしても構わないでしょう。また、しっかり時代考証などをしながら読むことも愉しいものです。

ぼくが垂直読みをした作家には、ブンガクでは村上春樹さん、川上弘美さん、田口ランディさん、重松清さん、P・オースター、哲学では中島義道さん、永井均さん、エッセイでは香山リカさん、黒川伊保子さん、小池龍之介さん、ビジネスではドラッカーなどがいます。これから垂直読みしたい作家は、夏目漱石。なにしろ、「漱石全集」買っちゃったもんね(汗)ライフワークとして、漱石にじっくりと浸る時間を創りたいとおもっています。


②冊数ではなく、何を得たかにこだわる。

「オレ年間300冊読むんだぜ」「へえ、スゴイね。で何が面白かった?」「う・・・(しどろもどろ)」のように、読んだ冊数を威張りたいがために乱読するひともいるかもしれません。しかし、読書は「量より質」にこだわりたい

冊数にこだわるのはブログでアクセス数にこだわることと同じように愚かです。ブログで100万ページビューや膨大なブックマークを記録したとしても、炎上や自分勝手な極論が理由では誇れるものではないように、数字だけを指標としたいわば"生き方"をぼくは推奨しません。仕事とは逆に、趣味の世界であれば結果よりプロセス(過程)に意義を求めたい。

「何を得たかにこだわる」ということは、自分なりのモノサシを持つということでもあります。100万部のベストセラーであっても、読んでみたところ自分にとって意味がなかったのであれば、その本は自分にとっては良書ではあり得ない。

たとえば、ナシーム・ニコラス・タレブの「ブラックスワン」はベストセラーであり、池田信夫さんも推薦されているのですが、ぼくにとっては2冊も購入する価値のある本ではありませんでした。

4478001251ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質
ナシーム・ニコラス・タレブ 望月 衛
ダイヤモンド社 2009-06-19

by G-Tools
4478008884ブラック・スワン[下]―不確実性とリスクの本質
ナシーム・ニコラス・タレブ 望月 衛
ダイヤモンド社 2009-06-19

by G-Tools

翻訳もぶっきらぼうだし、大量の原稿を割きながら、ひとことでいって「黒い白鳥の出現に気をつけろ」しか言っていないとおもった。と、いうのは言いすぎかもしれませんが、ベストセラーという宣伝文句や分厚さ、価格にまどわされずに、自分にとって(あくまでも自分にとって。つまり主観でよいとおもいます)、何も得られなかった本は、この本から何も得られるものはなかった、と言ってしまってよいとおもうのです。

読んだ時間や小遣いを損した、という判断をするかどうかは自分次第ですが、何も得られなかったという感想を得られたことも、重要ではないでしょうか。すくなくとも全体に流されるよりも、個の感性を重視するという意味で、なぜ自分にとってこの本は何も得られなかったんだろう、ベストセラーなのに、という考察は意義があるようにおもわれます。みずからの感性を大事にしましょう。流行や一般大衆の空気にのまれて、感性をごまかしてしまうのではなくて。


③140文字以内のキャッチコピーを創りながら読む。

アウトプットが大事だといわれます。同感です。読書も書評とまでいかなくとも、感想を書く習慣をつけるだけで全然違うのではないでしょうか。

読書のアウトプットに最適なツールは、Twitterだとおもいます。

ブログに書くにはとにかく力量と技術が必要で、スタンドアローンのオフラインPC上に書き留めておくのは閉鎖的で発展性に欠けます。Twitterは140文字の制限がありますし、#(ハッシュタグ)を使って「#dokusyo」や「#books」などのタグを付けておくと、他の読者から「あ、その本読みました。面白いですよね」などの感想や共感を得ることができます。また「こっちの本も読んでみてください」というおススメも教えてもらえます。

読者という立場を一歩進めて、推薦者(影響者:インフルエンサー)になってみたらいかがでしょう。自分の好きな本をプロデュースするわけです。そのときに考案するのは、読了した作品のキャッチコピー。ライバルは出版社の帯のことば、あるいは新聞や雑誌の書評です。

そんなものタダで薦めてもお金にならないから無駄じゃん、とおもう方もいるかもしれません。確かに職業ライターではないのだから、ちゃりんちゃりんとお金が入ってくるわけではないのですが、ソーシャルメディアにおける貨幣は「共感」です。これは体験したひとではないとわかりにくいのですが、すこしでも「あ、それわかる」とか「そうそう!そんな感じ」という共感をいただくと、お金では得られないような満足が得られます。

ちなみにぼくも本の購入時、読書中、読了時にTwitterでつぶやくことにしています。優秀なキャッチコピーの例にはならないかもしれませんが、読書の感想ツイートの一例として、この半年間(5月~10月)に読んだ本の感想の抜粋を本の情報とともに掲載してみますね。

2011年05月05日(木)
木田元『反哲学入門』読了。良書。テープを起こしてお話された内容をまとめたそうだけれど、ソクラテスなどギリシア哲学からカント、ニーチェ、ハイデガーなど哲学を覆そうとしてきた"反哲学"の歩みが明瞭に読み取れる。哲学者の人物像もくっきり描かれている。 #books #dokusyo
4101320810反哲学入門 (新潮文庫)
木田 元
新潮社 2010-05-28

by G-Tools

2011年05月07日(土)
光文社のカント『永遠平和のために/啓蒙とは何か』読了。政治哲学の本を読みたくて、BRUTUSには簡単でおススメと書評があったので読んでみたが苦戦。ただ本書の3分の1を占めている中山元さんの解説を読んで驚くほど理解できてしまった。すばらしい解説。 #books #dokusyo

4334751083永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)
カント 中山 元
光文社 2006-09-07

by G-Tools

2011年05月19日(木)
岡本太郎『美の呪力』読了。石を積み重ねたエスキモーのイヌクシュクから綾とり・組紐まで。怒りや血や夜などさまざまな呪力に焦点をあてた岡本太郎によるキュレーション本。断定で書かれた言葉が熱い。空間・時間を自由に行きかった思考の混沌が、あまりにも芸術的。 #books #dokusyo

4101346224美の呪力 (新潮文庫)
岡本 太郎
新潮社 2004-02

by G-Tools

2011年05月25日(水)
外山滋比古『「読み」の整理学』読了。既知を読むアルファー読みと未知を読むベーター読みが提唱され、読書力の低下は古典など未知の文章を読むことが少なくなったからと警鐘を鳴らす。確かにそうかも。朗読少女というアプリもあったが音読で聞いて読む方法もある。 #books #dokusyo

448042380X「読み」の整理学 (ちくま文庫)
外山 滋比古
筑摩書房 2007-10

by G-Tools

2011年05月29日(日)
光文社文庫のニーチェ『ツァラトゥストラ(上)』読了。言葉の意味より「意志のダンス」のようなものを読んだ印象!ツァラトゥストラが空を飛んだり、ひきこもりたくなったり、タランチュラに噛まれるところで笑った!ニーチェの文章、びっくりマーク多すぎ! #books #dokusyo

4334752179ツァラトゥストラ〈上〉 (光文社古典新訳文庫)
フリードリヒ ニーチェ Friedrich Nietzsche
光文社 2010-11-11

by G-Tools

2011年06月04日(土)
外山滋比古『異本論』読了。本の「進化論」という印象。歴史のなかでさまざまな解釈が生まれ、異本が生まれる。しかし異本が収斂して古典となる。各章に重複した内容があり、この本自体も読者論のヴァリエーションになっている。解釈の多様性を認める立場に共感。 #books #dokusyo

448042749X異本論 (ちくま文庫)
外山 滋比古
筑摩書房 2010-07-07

by G-Tools

2011年06月13日(月)
光文社文庫ニーチェ『ツァラトゥストラ(下)』読了。劇作品風に仕立てられた狂気の文体。ツァラトゥストラが歩き回って、王様や研究者や醜い人間を自分の洞窟に集めるところが物語として読んで面白かった。しかし、正直なところさっぱりわからん。理解できん。 #books #dokusyo

4334752225ツァラトゥストラ〈下〉 (光文社古典新訳文庫)
フリードリヒ ニーチェ Friedrich Nietzsche
光文社 2011-01-12

by G-Tools

2011年06月18日(土)
ショウペンハウエル『読書について』読了。ただ文を短くするために改変された悪文や悪書を生み出すジャーナリズムを辛辣で鋭利な批判によって斬っていくが、十九世紀に書かれたものとはおもえないほど新鮮。読むこと、書くことの難しさをあらためて突きつけられる。 #books #dokusyo

4003363221読書について 他二篇 (岩波文庫)
ショウペンハウエル Arthur Schopenhauer
岩波書店 1983-07

by G-Tools

2011年06月22日(水)
見城徹『編集者という病い』読了。感動した。角川時代や幻冬舎設立の話など同じ成功談(要するに自慢話)が繰り返されるのだが、何度でも聞いていたくなる。本書にも書かれているが、見城徹という編集者の生きざまは誰にも真似できない。凄いひとだとおもった。 #books #dokusyo

4087464180編集者という病い (集英社文庫)
見城 徹
集英社 2009-03-19

by G-Tools

2011年07月01日(金)
仁木英之『僕僕先生』読了。杏のいい香りが立ち昇るファンタジー。唐時代の中国、少女の姿をした仙人とぐうたら息子の王弁が旅に出て、さまざまなひとびとや仙人たちと出会う。ふんわり癒し系の物語でほっこりあったかい。10代の頃にモーソーしながら読みたかった。 #books #dokusyo

4101374317僕僕先生 (新潮文庫)
仁木 英之
新潮社 2009-03-28

by G-Tools

2011年07月02日(土)
仁木英之『薄妃の恋』読了。僕僕先生シリーズ第2弾。連作短編で新しいキャラクターも登場。是枝裕和監督に「空気人形」という映画があったけれど、薄妃ってアレだなとおもった。難問に答える王弁は仙人的な強さがある。少女な仙人とのいちゃいちゃぶりも楽しい。 #books #dokusyo

4101374325薄妃の恋―僕僕先生 (新潮文庫)
仁木 英之
新潮社 2010-08-28

by G-Tools

2011年07月04日(月)
仁木英之『胡蝶の失くし物』読了。僕僕先生シリーズ第3弾。暗殺集団「胡蝶房」から先生たちに刺客が送られる。けれども敵のあしらい方が先生らしい。薄妃の恋の行方は切なかったな(涙)。現在のところ文庫化されているのはこの本まで。しかし続きが気になる。 #books #dokusyo

4101374333胡蝶の失くし物―僕僕先生 (新潮文庫)
仁木 英之
新潮社 2011-05-28

by G-Tools

2011年07月15日(金)
『エックハルト説教集』読了。教会の雰囲気がする文章。抽象的で(非常に)わかりにくいのだけれど翻訳にも問題があるんじゃないかとおもった。「貧しさ」ということばは貧富の意味で使われているのではない気がする。異端として排除されたようだが仏教的でもある。 #books #dokusyo

4003381610エックハルト説教集 (岩波文庫)
エックハルト 田島 照久
岩波書店 1990-06-18

by G-Tools

2011年08月16日(火)
川上弘美『パスタマシーンの幽霊』読了。料理の匂いのような、ほんわかした物語を集めた短編集。どこにもいそうで、それでいて作品のなかで独自の魅力を香らせている人物たちが、いとおしい。不思議なことも辛いことも楽しいことも、まあいっかという気持ちになる。 #books #dokusyo

4838721005パスタマシーンの幽霊
川上 弘美
マガジンハウス 2010-04-22

by G-Tools

2011年09月22日(木)
藻谷浩介『デフレの正体 経済は「人口の波」で動く』読了。人口の波のデータに注目し、生産年齢人口の減少が経済にもたらす課題を解く。非常に面白かった。高齢富裕層から若者への所得移転にも頷ける。問題は施行の難しさではないかとおもう。大枠の構想は納得した。 #books #dokusyo

4047102334デフレの正体 経済は「人口の波」で動く (角川oneテーマ21)
藻谷 浩介
角川書店(角川グループパブリッシング) 2010-06-10

by G-Tools

2011年10月23日(日)
小池龍之介『平常心のレッスン』読了。主にビジネスマンに的を絞って書かれている。メタ認知に近いと述べられているが、執着心を捨てて現在のありのままの自分を観察し、受け容れることは簡単なようで難しい。この著者の本は読むたびに和む。楽になる。 #books #dokusyo

4022734183平常心のレッスン (朝日新書)
小池龍之介
朝日新聞出版 2011-10-13

by G-Tools

2011年10月28日(金)
桑原晃弥『スティーブ・ジョブズ名語録』読了。読み始めたばかりにはふつうの言葉ばかりだな、とおもったが、読み終えるとジョブズの個性と才能がみえてきた。彼はアップルがほんとうに好きだったんだな。だからこそ妥協しない。 #books #dokusyo #stevejobs #apple

4569675204スティーブ・ジョブズ名語録 (PHP文庫)
桑原 晃弥
PHP研究所 2010-08-02

by G-Tools

以上はすべてTwitter上の実際のぼくのつぶやきです。読書日記をまとめた(トゥギャッた)だけですが、あらためて時系列で並べると自分の関心の波も感じられます。自分なりのキュレーションともいえます。

このなかで、ショウペンハウエルや仁木英之さんは、Twitterでフォローしているさきこさんの影響でした。外山滋比古さんや川上弘美さんは、やはりTwitteでフォローしている風詩さんの影響です。誰よりもソーシャルメディアに影響されやすいのは、このぼくかもしれません(苦笑)


④五感で読む(手触り、音読、視覚など)。

Kindle Fireも登場し、欧米では熱い電子書籍市場。しかし、日本ではどうも苦戦している印象が否めません。電子書籍vs紙の本のような安直な二項対立で考えたくありませんが、電子書籍のポータビリティに期待しつつ、古きよき紙の本のよさも次世代に伝えたいところ。

紙の本には電子書籍にない良さがたくさんあります。たとえば表紙の装丁。活字の印刷された匂い。紙の手触り。本棚に収まらないので厄介なのですが、変型の本などはカタチも愉しむことができます。

最近ちょっといいな、とおもった装丁は、村上春樹さんの「雑文集」でした。

111030_dokusyo2.JPG

表紙に半透明なビニールのカバーが付いていて、グレーっぽい茶色でタイトルが書かれている。そしてビニールを透かして、安西水丸さんと和田誠さんのカラーのイラストがみえる、という体裁です。変型で楽しいのは寄藤文平さんの「元素生活」ですかね。化学の本らしくないイラストが、ぱらぱらめくっていて面白い。

111030_dokusyo3.jpg

音読する愉しみもあります。日本と比較して自動車通勤の多い米国などでは、オーディオブックが売れているという記事を読んだ覚えがあります。また、日本では「朗読少女」というアプリが人気を集めています。黙読するだけでなく、気に入った文章は音読することによって、身体で読むこともできるとおもいます。音読は場所を選びますし、ちょっと恥ずかしいですけどね。

このように本を身体で読む、五感を総動員して読むことによって、読書に拡がりを与えることができるのではないか、とおもうのです。


⑤マッピングで縦横無尽に。

垂直読みという、ひたすら作家をコンプリートしていく読み方を挙げましたが、作家への理解が深まるメリットがある一方で、正直なところ飽きちゃいます。他の本への浮気心がふつふつと沸いてくるのは仕方がないもの。本ならば浮気OK。そこで自分の読書の領域を広げるために、マッピングして読んだことのない分野を探してみては。要するに自分の読書傾向を可視化(見える化)するわけです。たとえば、こんな感じ。

111030_dokusyo4.jpg

この場合は縦軸に文系/理系、横軸に文庫(安い)/単行本(高い)という設定をして4つの象限に分けています。比較的読んでいるのが、文系/文庫もしくは単行本。ちょっと手が出せないのが理系/単行本です。そういえば、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」も読もう読もうと言っておきながら、結局購入していないなあ。そんなことに気付く。

縦軸と横軸は、女性作家/男性作家(真ん中はおかま作家?)、古典文学/現代文学など、いろいろ設定できます。チャートをながめながら、自分の苦手な分野、盲点、ニッチな領域がわかるとおもいます。その領域をあえて避けることも可能ですが、読書家たるもの、挑戦してみてはいかがでしょうか。

+++++

つらつらと書き連ねてきましたが、読書の心得というより、読書をもっと愉しむための拡張方法という内容になりました。実のところ書きたかったのは、方法論はいいから読書をもっと愉しもうよ、もっと愉しめる読書があるよ、ということです。

ちなみに現在読書中の本は次の2冊です。

4048703005明日のコミュニケーション 「関与する生活者」に愛される方法 (アスキー新書)
佐藤尚之
アスキー・メディアワークス 2011-10-11

by G-Tools
4004313333日本のデザイン――美意識がつくる未来 (岩波新書)
原 研哉
岩波書店 2011-10-21

by G-Tools

コミュニケーションとデザインの本。積まれたままですが、うずうずと読みたい気持ちが高まってきました。機が熟してきたのでしょう。そして、買いたいなとおもっているのは次の本。

4062171260スティーブ・ジョブズ I
ウォルター・アイザックソン 井口 耕二
講談社 2011-10-25

by G-Tools
4062171279スティーブ・ジョブズ II
ウォルター・アイザックソン 井口 耕二
講談社 2011-11-02

by G-Tools

アップルの偉大な経営者であり、アーティストともいえるスティーブ・ジョブズの伝記。亡くなられたのが残念です。MacFan、MacPeople×MACPOWERの追悼号を2冊購入しましたが、彼自身の人生を詳細に知りたくなりました。いわば垂直読みです。ほんとうなら原書で読むことができればいいんですけれどね。

読書を客観的に対象化して、自分の方法論をみつめているうちに、また読書の世界に戻りたくなってきました。この行きつ戻りつの往復運動が、読書を活性化するのかもしれません。

いやー、読書ってほんとうにいいですね。

投稿者: birdwing 日時: 09:05 | | トラックバック (0)

2011年3月10日

a001280

「イシューからはじめよ 知的生産の「シンプルな本質」」 安宅和人

▼book11-01:結果よりも問い(イシュー)に重きを置く姿勢。

4862760856イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」
安宅和人
英治出版 2010-11-24

by G-Tools


ビジネスの世界では、結果が大事であるといわれます。多くの場合、結果とは数字です。売上や利益を出せたかどうか、数字で問われるわけです。過程は問われません。「こんなに努力した」「頑張った」も大事ですが、結果=数字を出さなければ過程はただの徒労。インプットされた労力に対してアウトプットが低ければ、生産性が低いと見做されます。

しかし、アウトプットをどうしたら最大化できるかということ、つまり生産性を上げることは遠い時代からビジネスの課題だったといえます。日本のカイゼン活動のようにメソッド化したものから、ワークハックのような身近なものまで、さまざまな生産性向上のための知恵が考案されてきました。暗黙知を形式知化して書物にまとめられたり、Webで公開されたりしています。

生産性向上について書かれた本のなかで、最近読んで目からウロコだと感じた本は、安宅和人さんの「イシューからはじめよ」でした。まず、イシュー(issue)とは何か。安宅さんは次のような定義をあげています。

A)a matter that is in dispute between two or more parties
 2つ以上の集団の間で決着のついていない問題

B)a vital or unsettled matter
根本に関わる、もしくは白黒がはっきりしていない問題

要するにイシューとは「問題」のことです。

答え、つまり結果も大事ですが、結果を出すためには、まずその問題に関わるべきか関わらないべきか明確にすること。関わるのであれば問題を見極めることが重要だと述べられています。確かに重要な問題が別にあるのに、瑣末な問題に関わっていることは生産的ではありません。そして問題自体を明確にすれば、より答えを導きやすくなる。

そもそも答えが出ないことは「問題(イシュー)」ではないのかもしれません。答えの出ないことを考えるのは迷宮に足を踏み込むようなもので、考えが堂々巡りをするだけです。このことを安宅さんは、<考える>と<悩む>の違いとして区別されています(P.4)。

「悩む」=「答えが出ない」という前提のもとに、「考えるフリ」をすること
「考える」=「答えが出る」という前提のもとに、建設的に考えを組み立てること

当然のようなことではありますが、ぼくらは答えが出ない問いに関わることで、悩むことが多いですね。考えずに悩んでいる時間が非常に長い。

問題に取り組む前に、「この問いは答えが出るのか、出ないのか」ということを見極めることは建設的だとおもいました。人生論のようなものは別でしょう。答えの出ない問いを考えることも有意義かもしれません。けれども、ビジネスにおいては、最終的に答え(結果)を出せない問いに取り組むことは意義がない(P.5)。

特に仕事(研究も含む)において悩むというのはバカげたことだ。
仕事とは何かを生み出すためにあるもので、変化を生まないとわかっている活動に時間を使うのはムダ以外の何ものでもない。これを明確に意識しておかないと「悩む」ことを「考える」ことだと勘違いして、あっという間に貴重な時間を失ってしまう。

安宅さんは、「一心不乱に大量の仕事をする」アプローチを「犬の道」に踏み込むと喩えて、この「犬の道」に踏み込んではいけないと諭します。また、「根性に逃げるな」とも叱咤します。労働時間よりも価値ある「アウトプット」があればいい、というのです。

時間ベースで考えるのかアウトプットベースで考えるのか。それが「レイバラー(労働者)」と「ワーカー」の違いであり、「サラリーマン」「ビジネスパーソン」、そして「プロフェッショナル」の違いだとします(P.36)。

一方で、一定のフレームワークやツールを使えば答えは導き出しやすくなるのですが、「自分の頭でものを考える」重要性も指摘しています(P.39)。

論理だけに寄りかかり、短絡的・表層的な思考をする人間は危険だ。

一次情報が重要であるという指摘は、とても頷ける部分でした。

ロジック(論理)は大事だけれど、論理だけで組み立てていくと、どこか現場から離れた机上のシミュレーションになってしまうことがあります。

考えることと同様に、知ること(知覚すること)が重要かもしれません。直感を研ぎ澄ませると、論理的にはOKであっても、なんとなくこのプランはやばいぞ、と感じることがあります。そのとき感じた危険性は、結構、正しいものです。リスクマネジメントにもいえることかもしれませんが、直感で「やばさ」を感知するセンサーが鈍ってしまうと、大きな問題を見過ごしてしまう。問題を深く理解するためには、動物的な嗅覚が必要でしょう。人間の仕事である以上、論理だけでなく感性も求められます。

この本では、最初に脱「犬の道」として考え方を示した後、生産性の高い仕事をするためのプロセスとして、「イシュードリブン」「仮説ドリブン」「アウトプットドリブン」「メッセージドリブン」という順に解説されます。

著者である安宅さんの経歴は、コンサルティング会社のマッキンゼーを勤められてから、脳科学者として大学院で学位を取得し、現在はヤフーのCOOという異色なもの。コンサルタントの経歴からか、この本で書かれている「生産性の高い仕事」というのはコンサルティングや科学分析の分野の色合いが強いと感じたのですが、企画やマーケティング職にある方であれば、そうそう!と頷く部分が多いのではないでしょうか。

特に読んでいて、にやりと感じたのは、書かれている内容が主として「3」で構造化されている点です。例外的に4つや5つの項目が挙げられている部分もあるけれど、多くは条件や理由などを3つにまとめています。例えば次のような項目(P.55)。

よいイシューの3条件
▼1 本質的な選択肢である
▼2 深い仮説がある
▼3 答えを出せる

あるいは仮説を発見するための「材料」となる情報収集のコツを列記した部分(P.75 )。

情報収集のコツ
コツ① 一時情報に触れる
コツ② 基本情報をスキャンする
コツ③ 集めすぎない・知り過ぎない

そして、「分析の大半を占める定量分析においては、比較というものは3種類しかない」として定量分析の3つの型を挙げます(P.152)。

定量分析の3つの型
1 比較
2 構成
3 変化

最後の「メッセージドリブン」でも、「ストーリーラインを磨き込む」として3つのプロセスが挙げられています(P.208)。

3つの確認プロセス
1 論理構造を確認する
2 流れを磨く
3 エレベーターテストに備える

これだけ徹底して3の構造でまとめているとすかっとしますね。

マッキンゼーの伝統的手法なのかもしれませんが、「スティーブ・ジョブズ驚異のプレゼン」という本でも、ジョブズのプレゼンの演出として「3つのキーメッセージ」でまとめる方法が強調されています。

スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン―人々を惹きつける18の法則

3部構成という構造が有効に使われているわけです。カリスマに学んで形から入るのも悪くないとおもいます。どんなときでも3つで要点をまとめる練習をしていると、それなりに視点が研ぎ澄まされるのでは。

この本の中間部分はどちらかというと調査分析系、コンサルタント向けの内容です。しかし、単に時間を短縮して効率化をはかるハッキングのノウハウではなく、「質の高いアウトプット」に注目しているところが重要であり、他のさまざまな業種においても考え方の基盤として使えるのではないかとおもいました。

引用の引用になりますが、「人工知能の父」と言われるMIT人工知能研究所の設立者、マービン・ミンスキーがリチャード・ファインマンを評した次の言葉が印象に残りました(P.195)。

いわゆる天才とは次のような一連の資質を持った人間だとわしは思うね。
●仲間の圧力に左右されない。
●問題の本質が何であるかをいつも見失わず、希望的観測に頼ることが少ない。
●ものごとを表すのに多くのやり方を持つ。一つの方法がうまく行かなければ、さっと他の方法に切り替える。
要は固執しないことだ。多くの人が失敗するのは、それに執着しているというだけの理由で、なんとかしてそれを成功させようとまず決め込んでかかるからじゃないだろうか。

結果=答えありきで考えると、結果=答えに縛られます。しかし、問い=イシューにこだわればいくつもの解が得られる。解を導くための「引き出し」を多くすれば、独創的な組み合わせで結果を導き出すことも可能です。問いと答えの整合性を取ることに力を注いでやっきになると、本筋から離れて「犬の道」に入り込むことにもなりがちです。問い自体に重きをおけば、誤った仮説は捨てて、新たな見解を受け入れることができたかもしれないのに。

結果(答え)ではなく、問い=イシューに重きをおくこと。

ビジネスは結果重視という通説からいえば、逆転の発想でしょう。しかし、早急に結果を求めすぎる現在、問いに重きを置くことは重要な姿勢ではないかと感じました。

余談ですが、哲学者の中島義道さんや永井均さんは哲学は「問い」である、というようなことを著書のなかで述べられています。良質な問いこそが真の哲学になり得る、ということです。ぼくは同意するとともに、いまの時代に哲学は必要だと感じているのですが、哲学が必要ということは、良質の問い=イシューが必要であるということにもなります。

若い世代の活字離れが問題にされることがあります。しかし、活字離れより「思考離れ」が問題だとおもう。つまり、問いがおざなりにされて考えなくなること、面倒な問いを捨てて簡単に答えが出る問いにとどまり、思考停止してしまうことが問題なのではないでしょうか。

幼い子供の世界には問いがあふれています。けれどもいつしかぼくらは、問うことを忘れてしまう。あるいは問いから逃げる。けれども問い続ける姿勢、次々と良質なイシューを生み出す姿勢こそが、いま求められているとおもうのです。

投稿者: birdwing 日時: 20:20 | | トラックバック (0)

2010年11月28日

a001277

「考えない練習」 小池龍之介

▼book10-13:思考から離れて、囚われないこころへ。

4093881065考えない練習
小池 龍之介
小学館 2010-02-09

by G-Tools


考えるひとでありたい、問題を直視して考えつづける強靭な思考力を大切にしたい。考えるための方法論を確立したい。そう切望していた時期がありました。

思考停止せずに、とことこん考え抜くこと。狭い見解ではなく多角的で奥行きのある立体的な思考を獲得すること。思考力や洞察力が有能な証拠とおもい込んでいたせいかもしれませんね。哲学書に関心をもったのも、難解な哲学に考えるヒントがみつかるのではないかという期待を抱いたからです。

考える道筋を誤るとネガティブループに嵌まってしまったり、思考の遠心力によって問題の核心から逸れていってしまったり、際限なく考えていくうちに到達点を見失ったり。思考力を養うのは、そう簡単ではありませんでした。

そんな風に思考力に拘りがあったぼくなので、小池龍之介さんの「考えない練習」というタイトルを書店でみつけたとき、第一印象としては、若干の違和感がありました。

考えないことは手抜きじゃないか、とおもったからです。自分の価値観を否定されたようなショックもありました。どうせ自己啓発本にありがちな"シンプルに考えることで人生が楽になる"というたぐいの短絡的な内容なんだろうな、と勝手に想像しつつ手に取りました。

しかし、小池龍之介さんがこの本で書かれていたことは、若干ぼくの想像とは異なっていました。自分(の思考)なんてものは、ほんとうはどこにもないんだ、と禅の思想を背景に説かれていたのです。考えることに拘りつづけていたぼくには、その着眼点が意外に心地よかった。「考えない練習」は、どちらかといえば考えすぎの加熱したぼくのアタマを冷却し、すーっと癒してくれる本でした。

小池龍之介さんのいくつかの本で繰り返し述べられていますが、まずこころには3つの毒があるといいます(P.19)。

心の衝動エネルギーのうち、大きなものが「心の三つの毒」であるところの「欲」「怒り」「迷い」です。

これらの毒によって生まれる思考を、ぼくらは「ほんとうの自分」あるいは「自分の思考」と勘違いします。

たとえば「仕事で評価されたい」という欲。この欲に突き動かされていくつもの理由をその周辺に固めていきます。こんなに自分は頑張っているという自画自賛、他者との比較による優越感、もっと頑張らなくちゃという追い込み。現実に評価されない場合には「怒り」が生じます。怒りが他者に向かえば攻撃的な批判、自分に向かえば自己嫌悪になります。「こんな職場にいていいんだろうか」という「迷い」を生むことにもなります。

思考の毒にやられているときには、囚われた「欲」「怒り」「迷い」から逃れることができません。けれどもこの思い込みこそが問題。「苦」の刺激を快感と感じる思考に惑わされているだけだからです(P.173)。

私たちは「自分の意見は正しい、間違っていない」と思い込み、見解を常に補強したがる「見」の欲に支配されがちです。

思考と感情は違うと考えますが、人間である以上、思考は感情に根ざしたものが多いでしょう。いくらクールダウンしても、思考には感情の残滓が沈殿します。冷血だと非難されるスタートレックのミスター・スポックのように感情を抜いた論理的思考だけで考えることは人間には難しい。

純粋な思考だと考えていても、ぼくらの思考のなかには「欲」や「怒り」が混在することがあります。ブログやツイッター、あるいはコメントを振り返って、こんな発言はありませんか。

「オレって凄いんだぜ」
「過去、一流大学に在籍して一流会社に勤めていたんだ」
「こんなに有名なひとと知り合いなんだ」
「たくさんの本を、映画を、音楽を知っている」
「貴重なものをたくさん持っている」

いわゆる自分語りです。「超多忙」ということを誇示したいがためのつぶやきもあります。つぶやかなくてもいいことなのに、つぶやかないわけにはいきません。これらは「慢(プライド)」という「欲」から生じたことば群でしょう。

一方で、批判や反論、悪口や誹謗中傷は「怒り」に根ざしています。「あなたのここは間違っていますよ」という発言は、自分の意見を言っているようにみえますが、その根底には「こんなことも知らないのかよ。あんたよりオレのほうがよく知ってるんだよ」という自慢が隠されている(P.173)。

人は誰でも、誰かに勝ちたい、自分のことを認めてもらいたい、という衝動を潜在的に持っていますから、グロッキー状態にある人を見つけると、相手の話は大して聞かず、思考ノイズに乗っとられてすぐに意見をぶつけたくなるのです。

脊髄反射的な反応、ことばの揚げ足取りは自分の優位性を示すための攻撃的言及です。あるいは、同情も同様(P.175)。

他人に対してかわいそうと思える自分に興奮し、「かわいそうと思っている自分は良い人である」というイメージに浸っているのかもしれません。

重要なのは、「欲」「怒り」「迷い」に
無自覚なこと
です。

無自覚な「欲」「怒り」「迷い」はコントロールできない。翻弄されるだけです。この思考や感情を自覚する方法は、心理学の認知療法でいうところの「外在化」に通じるものがありますが、自分の感情を対象化して自分とは切り離してしまうことです(P.44/194)。

もし、ムカつく!と思ったら、すぐにこの「ムカつく!」をカギカッコでくくってしまうのです。
頭の中にやってくる思考ひとつひとつを見つめ、≪「○○」・・・・・・と思っている≫とカッコでくくってしまうことです。自分の感情を観察し、突き放すことです。

自分の思考を客観的にみつめることはいいですね。客観的にみつめることによって自覚できる。冷静にみつめると、自分の思考だとおもっていたことが実は枠組みに嵌まったステレオタイプなことばであるとわかることもあるでしょう。自分の思考パターンに気付くことを仏教の修行道では「慧」というようです(P.220)。

「慧」は「止観」の「観」、その集中状態で自己観察して、自分に組み込まれてしまっているパターンに気づくということです。

パターン化した思考をみつめ直し、実践的な行動指針を示していただいている内容もありました。謝罪、慈しみ、感謝をあらわすときの繊細な見解が参考になりました。

まずは謝罪から(P.47)。

本人は心から謝るつもりもないのにとりつくろって謝るなら、「機械的にしょうがなく謝っている感じ」が隠しきれていないため、相手に謝罪の意が伝わらないのです。
謝罪する必要がある時は、単に「申し訳ありません」「すみません」と言うのではなく「もう繰り返さないようにします」と言うことです。

ことばではなく今後の行動を約束することが大事。次の部分は、さらに繊細な観点であると感じました(P.121)。

電子メールでは、「お返事が遅れて、すみません」「すっかりご無沙汰してしまって、申し訳ありません」という言い訳から書き出す方が多いようです。
もちろん相手の性格にもよりますが、こうした書き方は相手のプライドをほんの少し、傷つけてしまうことがあるように思います。

定型語だから問題ないんじゃないの?ともおもいましたが、やや補足すると、自分の返事を待っていたと相手に感じさせることで、相手の自我を刺激してしまうことがある、とのこと。「なるべく相手の自我を刺激しないというのが、人間関係におけるたしなみです」と書かれていました。なるほど。

慈しみに関しては次のような部分に頷きました(P.170/172)。

実際のところ、困っている人にしてあげられる最も大事なことは、静かにしていてあげることです。黙って話を聞いてあげることです。
本人が苦しんでいるのに、それまでのすべてを肯定して、「あなたは何も悪くない」などと言うのは、その場しのぎの気休めでしかありません。

納得。慰めていたつもりが、ひとの弱みにつけ込んで、知らず知らずのうちに自分はこんなに凄いという自慢になっていることもありますね(苦笑)あるいは空虚な気休めのことばをかけている場合もあります。しかし、これは難しいところです。定型語であっても気休めであっても、ことばをかけてあげたほうがよいときがあるような気がしました。もちろん自覚の上で、ですが。

最後に感謝(P.64)。

たとえば、人に何かをいただいたら、「ありがとうございました」と言ったり書いたりするのではなく、「○○を美味しくいただきました」とか「家族で嬉しくいただきました」とするなど、「ありがとう」という言葉を使わずに感謝の意を伝える工夫を凝らすと、先方にも気持ちが伝わりやすくなります。
つまり、定型化していない言葉を選ぶ工夫をすればいいのです。

これも共感しました。「ありがとう」は気持ちのいいことばで乱発しがちですが、「何に」感謝しているかということは相手やシチュエーションによって異なるもの。抽象的な感謝より具体的な感謝の気持ちを受け止めるセンサーを働かせたい。感謝をきちんとみつめると、相手に合った繊細な表現になります。

「考えない」というのは決してぼーっとすることではなく、より現実を現実としてとらえることなのですね。冒頭(P.5)に、考えない練習とは「五感を研ぎ澄ませて実感を強めることにより、思考というヴァーチャルなものを乗り越える手立て」と書かれていました。

強い刺激に晒されがちな現代では、感性が磨耗します。その結果、マニュアル的な定型化された人間関係、排除の構造、思考の肥大化、過剰な情報とノイズによる混乱が生じているようにおもいます。

思考のなかに閉じ篭もるのではなく「いま」を自覚的に「生きる」ことの重要性を感じました。そしてそれは小池龍之介さんが述べているように、触感を味わいながら食べること、音に耳を澄ませること、きちんと現実をみつめることなど、五感による身体的な関わりが重要になるのではないでしょうか。

と、難しいことを書きましたが、小池龍之介さんは1978年生まれ、東京大学教養学部卒の僧侶さんです。お寺とカフェが合体した「iede cafe」を展開されたり、ウェブサイト「家出空間」では、かわいらしい4コママンガなども描かれています。他の本では「がーん」とか「・・・ッ」のような表現もあって、とても親しみやすい印象でした。

+++++

■家出空間
http://iede.cc/
101118_iede.jpg

投稿者: birdwing 日時: 18:46 | | トラックバック (0)