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2008年10月11日

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「風花」 川上弘美

▼book:寄り添えない距離、はじまらない関係。

4087712079風花
川上 弘美
集英社 2008-04-02

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たぶん相性の問題だと思うのですが、ぼくは川上弘美さんの小説にとても弱い。もちろんすべてがすべて弱いというわけではないのだけれど、彼女の小説には、こころを乱されることが多いようです。したがって、精神状態がかんばしくないときには読まないようにしています。

「風花」が書店に並んだのは今年の四月。真っ先にみつけたにも関わらず、ぼくは購入しませんでした。帯に書かれていた「夫に恋人がいた。/離婚をほのめかされた。/わたしはいったい、/どう、したいんだろう――」という紹介文を読んで、うーむ、こういうのはいけないなあ、暗くなりそうだ、と読む前に敬遠してしまった。綺麗な装丁は気になっていたのだけれど、書店で本を物色するときに何度もこの本の前を素通りしていました。ところが、まあそろそろよかろう、ということで買ってしまったんですよね。

で、・・・。まいりました。やっぱり川上弘美さんの小説はダメだ(泣)。

最近はビジネス書ばかりを読んでいて小説は久し振りだったにも関わらず、一気に数時間で読了してしまったのですが、半分ぐらい読み進んだあたりで、なんだか息苦しくなり中断。体調があまりよくなかったこともあり、お酒を飲んでいたせいもあるのだけれど、とても辛くなった。恥ずかしいのですが、読了後の正直な感想として書きとめておきます。

川上弘美さんの小説は、熊や人魚と対話するような初期のものであればともかく、恋愛小説は何か特別な技巧や仕掛けがあるわけではありません。むしろ淡々とありふれた日常を描写していきます。「風花」で進展するストーリーも筋だけ追ってしまえば、主人公が語るように、不倫に関する結婚生活の崩壊を描いた「出来の悪いドラマ」でしかありません。

けれども、とてもびみょうな主人公のこころの揺れ具合や、割り切れない関係の機微が正確に描かれていきます。この正確さが、読んでいるぼくには痛い。感情の波動と共鳴することになり、ぼくには川上酔いとでもいえそうな眩暈が生じることになります。

物語について触れてみると、主人公の日下のゆりは33歳。システムエンジニアの夫である卓哉と7年間、暮らしてきたのですが、ある日、夫の会社に勤める誰かからの匿名の電話によって、夫が松村里美という同僚と恋愛していることを知ります。傷心のまま叔父である真人と旅行に出掛けたり、別居して働きはじめたり、里美と会って彼女がニンシンしていたことを知ったり、卓哉の転勤に付き合って引越しをしたり。膠着した結婚生活を引き摺りながら、日常を生きていく。

あらすじを書きながら、物語の筋を抽出することによって削ぎ落とされるものが多く、もどかしさを感じました。のゆりと卓哉は危機的な状態にありながら、それでも決して終わってしまうことがなく、惰性のように結婚生活を継続している。破綻しながらもつづく脆い関係にあります。その不安定な日常の雰囲気こそが、「風花」の読みどころという気がしました。風に飛ばされる雪のような繊細さが延々とつづくところが、せつない。

夫婦の危機を契機として、お互いのまったく知らない面を発見して、ふたりは困惑します。きちんとかみあっているはずだったのに、結婚生活の水面下で、そもそもスタートから何かが間違っていた。いちばん近くにいるのに、こころは遠い。寄り添えない距離がお互いを消耗させるのだけれど、消耗しつつも別れることができない。

たとえば、のゆりが「卓ちゃん」と夫を呼んでふたりの核心に迫ろうとしたとき、彼が「その呼びかた、ほんとうは、苦手なんだ」といきなり話の腰を折るシーンがあります。

そこで「卓哉さん」と呼びかえるのだけれど、呼び方を変えることによって夫であるはずの男の輪郭が崩れていってしまって、のゆりは何も語れなくなってしまう。ふたりの距離が変化する。その呼び方が嫌いならもっと早く言ってくれたらよかったのに、というのゆりに対して、悪くて言えなかった、我慢していた、と卓哉から真実が語られます。

これはささやかな告白ではあるのだけれど、けっこう酷いですよね。ちいさな我慢であっても、蓄積されると溝を生むものです。瑣末な日常であったとしても、その瑣末さゆえに大きくふたりの関係を破綻させる要因となる。

恋愛は、そして恋愛とはどこかまったく別物である結婚は、単純ではありません。どうしようもなく割り切れない複雑さがある。と、当たり前のことを書いて苦笑なのですが、寄り添いたいと思いながら傷付けてしまうこと、相手を愛おしく思う気持ちがありながら意地悪な言葉を浴びせてしまうこともあります。すっかり気持ちが冷めているのに別れられないかと思うと、別れることを決意した瞬間に、愛しさが募ったりもする。ひとすじなわではいかない。

特に女性はそうではないのかな、と思いました。女性は、どんなに愛おしいひとに対しても背反したふたつの気持ちを抱えていて、複雑な感情のまま、たゆとうように生きているものではないでしょうか。

男性は、課題がそこにあれば解決してしまいたい衝動に駆られます。だから関係を修復させるか解消するか、そのどちらかしかない。早急に結論を急ぐかと思うと、やりなおすために食事に誘うなどの対処方法を重ねてみたり、態度をあらためようとする。暴力的なほど前向きかつ合理的です。行動で片付けようとする。けれども女性は解決を求めるのではなく、いま置かれている状態について思いを馳せることのほうが大きい。行動よりもまず考える。

解決なんかどうでもいいと思っているわけではないのでしょうが、むしろ状況を享受することが、女性にとっては大事なのかもしれません。愛憎はもとより、別れる/別れないという結果さえ留保して、いずれでもない状態で絡み合った複雑な関係を複雑なまま解きほぐそうともせずにつづける。それは女性が女性ならではの特性のように思われました。

それに比べると、おとこって馬鹿だな、と思いました。というぼくもおとこなのですが、単純すぎる。行動も思考のパターンもシンプルで、わかりやすい。のゆりの視点から描かれる卓哉のエピソードを読んでいて、ああ、おとこは馬鹿だと痛感しました。特に愛人である里美に歯を磨かせて、そういうところがもう耐えられない、と語る里美のエピソードなどは、きついものがあります。

女性は複雑であるがゆえに強い。その強さは弱さの裏返しであったりもするのだけれど、耐える強さでもあります。うーん・・・やはりうまく書けないですね。書きたいことの核心に迫らないような気がしました(苦笑)。

むしろ困惑気味な感想を書くよりも、引用したほうがわかりやすいかもしれません。そこで読んでいて、いちばん辛かったシーンを引用してみます(P.172)。

「卓哉さん、わたし、卓哉さんと離れたくないの」
卓哉さん、という言いかたにも、だいぶん慣れた。のゆりは思う。舌も、もつれなくなった。
「のゆりには、プライドは、ないのか」
つめたい声を、わたしに向かって、平気で出せるんだな。のゆりは目をぎゅっとつぶる。それからすぐに目をあけ、みひらく。がんばれわたし、がんばれ、と、頭の中で繰り返す。
つ、と寄っていって、のゆりは卓哉の首にそっと手をかけた。ね、卓哉さん、ね。言いながら、のゆりはのびあがって、卓哉のくちびるに、くちびるをあわせた。卓哉は拒まなかった。拒まないけれど、協調もしなかった。
のゆりは押しつけているくちびるを少しだけひらき、卓哉のくちびるをついばむようにする。卓哉は石のように立ちつくしたままだ。みっともないな、今のわたし。思いながら、のゆりはくちづけつづける。
みっともないことなんだな、他人と共にやってゆこうと努力することって。
のゆりの鼻から、涙が出てくる。目からはほとんど出ず、鼻だけから、すうすうと流れでてくる。ほんとうに、みっともないよね、わたし。つぶやきながら、のゆりは卓哉にぎゅっとかじりつく。卓哉の腕が少しだけあがって、のゆりの背中に、力なく、まわされる。
がんばれ、がんばれ。何回でも、のゆりは自分に、言いきかせる。

このシーンは辛かった(涙)。

拒まないけれど協調もしない卓哉との関係を維持するために、のゆりは自分を励ましながら、彼にくちづけつづけます。もはや、がんばらなければ維持できないふたりの関係。行き場のない努力。みっともない状態に耐えながら、のゆりは卓哉に身体をあずけて必死でつなぎとめようとします。けれどもほんとうに愛しているかどうかさえ、わからなくなっている。離れたくはないのだけれど、では好きかというと、きっとそうともいえない。

結婚というのは、とてもみっともない関係だと思いました。関係を維持しようとすればするだけ、みっともないことが多くなる。美しいこともあるかもしれないけれど、そうではないこともたくさんある。

結末で、川上弘美さんは、のゆりと卓哉の関係を曖昧にしたまま物語を閉じています。ふたりは、もう何かをはじめることはできない。けれども終わることもできない。そんな投げ出された物語に、ぼくは作家としての川上弘美さんの力を感じました。10月11日読了。

投稿者: birdwing 日時: 09:06 | | トラックバック (0)

2008年10月 8日

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「サラリーマン合気道」箭内道彦

▼book:体系化不可能な、弱者が強くなる処世術。

4344015517サラリーマン合気道―「流される」から遠くに行ける
箭内 道彦
幻冬舎 2008-09

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やりたい仕事をみつけなさい・・・就職においてはそんな指南がよく言われます。きちんと明確な意志を持って仕事に臨みなさい、と主体性を求める。けれどもホンネで語ってしまうと、多くの企業にとって自分のやりたいことが強すぎる人材は使いにくくてかなわないものです。

究極のシビアなことを言ってしまうと、まだ社会というものの複雑さを知らずに、即戦力にならない新人がカイシャを勘違いして強固な主体性を持ってしまうと、組織にとっては機能を滞らせる障害にさえなりかねない。むしろ、どんなにつまらない仕事であっても、はいっ、はいっ、と素直に笑顔で引き受けてくれる柔軟性のある人材のほうが重宝される。

また、やりたい理想とつまらない現実が乖離している場合には、それが不満になるから、やりたい仕事ができない人材は愚痴が多くなる。こんな職場では自分が活かせない、もう辞めてしまいたい・・・というように、本人にとってもモチベーションを下げてしまう原因になります。

と、いうぼくも、そんな気持ちを抱きながら仕事をしていた時期がかなり長くありました(苦笑)。これはなかなか辛い。仕事が楽しめません。

サラリーマンという言葉を使ってしまうところが既に巷にあふれる仕事の指南書に対して(ささやかな)反逆精神に溢れていると思うのだけれど、箭内道彦さんの「サラリーマン合気道」は、「流される」から遠くへ行ける、ということをサブタイトルに掲げた一風変わった仕事術の本です。

合気道は相手の力を利用して、相手を遠くに投げる。したがって、自分というものを捨てて仕事に臨むことで、仕事を大きく飛躍させることができると述べられています。そして、さまざまな側面における肩の力を抜いた仕事の進め方がまとめられています。

というより、そもそも自分がないことを、長い間、箭内さんは悩んでいた。その鬱々と悩み苦しむ時間のなかで、仕方なく編み出したのがこの「脱力」の処世術でした。大学には3回落ちて、7年間以上も会社で自分のやりかたがわからずに悶々としていた・・・という暗い状況下から、そうせざるを得ないカタチで追い込まれて到達したのが、この合気道の境地だったというわけです。

たとえば自分を捨ててクライアントのことを考える、という考え方は、きれいな言葉でまとめてしまうと顧客重視の考え方といえます。ところが、多くのビジネス書が太字で使いたがるそんなきれいな前向きのポリシーに、箭内さんの思考はおさまらない。読んでいて感じられるのは、社会やカイシャに不適応な弱者の視点であり、けれどもその弱さを強さに転じた反逆性です。それがぼくにはとても魅力でした。

そもそも箭内さんは、金髪だったりする(笑)。もと博報堂にお勤めのアートディレクターだから当然だとはいえますが、金髪だけれど礼儀正しいひと、らしい。見た目の派手さは演出だ、と言い切るあたり、計算してサラリーマンとしての自分を武装しています。自分がない、といっておきながら、他人に与えるインパクトは整然と測っているところは、実はなかなかのやり手です。

その作られたスタイルが誠実ではない、という視点もあるかもしれません。しかし、ぼくはこういうスタイルが好きですね。

というのは、ビートルズをはじめとするモッズ系の音楽では、きちんとスーツを着てネクタイを締めながら、エレキギターを抱えてロックをやる。若いぼくはそのミスマッチなスタイルに打ちのめされました。制度や制約に縛られながら、何かをぶち壊すような表現をするひとたちに、ぼくはずっと憧れていました。それが本物のプロだと思います。制限のないところでやりたい放題をやるのは幼稚だと思うし、制限があるからこそ破壊してやる、という気概も生まれるものです。

箭内さんの文章は非常に読みやすく共感するところも多いせいか、ずんずん読み進めることができました。しかし、ぼくが感じたのは、これはわかりやすいけれど一筋縄ではいかない過激さがあるなあ、ということでした。

というのは体系化できないんですよね。型に嵌まるな、と言っているそばから、相手に合わせなさい、などという矛盾を語っています。通常、このようなビジネスの指南書は、3つのポイント、とか、5つの心構え、のように箇条書きにして論理を整理できるものです。しかし、箭内さんの主張は、そのような体系化を拒む何かがある。

そして、箭内さんご自身も語っていますが、この本に感化されて、じゃあちょっと箭内の生き方を真似してみるか、と表層だけ箭内スタイルでいっても、うまくいかない気がします。というのは、7年以上も鬱々と考えつづけた過去があるからこの突き抜け方ができるわけで、その重みなしに形式だけ真似しても、きっとうまくいかない。

ほんとうはひとつひとつ引用して、その考え方を検証してみたい気もするのですが、やめておきます。もしこの文章を読んで、なんとなく気になった方がいれば、ぜひ書店で内容をちらりと読んでみてください。

実は、先日「風に吹かれて。 」というエントリーを書いたあとで何気なく書店に行ってこの本をみつけて、ああ、同じようなことを考えているな、という偶然にびっくりしました。その後、ブログで何を書きたいかということについてもまとめたのですが、箭内さんが前書きで書かれている次の言葉が参考になりました。少し長文ですが引用します。

僕は決して人の心を癒すカウンセラーではないし、自信を持って答えを出す先生でもありません。この本を手にしてくれた人に「悩める若者たちよ、元気を出せ」みたいなことを言う気もありません。ある意味で、鬱々としていた昔の僕のままです。
ひとつ気をつけていただきたいのは、袋小路でぐるぐる悩むのも実は重要だということ。行き止まりにいる時間や経験が後々の自分の力になっていくこともまた確かなんです。まだ壁に突き当たったばかりのときに、この本を読んで「なんだ、力を抜いていい加減にやればいいのか」と思ってしまうのはもったいない。だから、ある程度は自分で悩んでいただいた上で、状況打開のヒントとしてこの本を利用してほしい。
自分ひとりで思いつくことなんてあまりにも小さい。
目の前の相手と向き合ってそこから生み出せばいい。
そのことに気が付いて僕は少し楽になりました。
流されるからこそ遠くへ行けるのだと。

同感ですね。「苦しんでいたかつての僕と同じように社会のシステムや会社の仕組みにうまく適応できない人たちに有効なのではないか」という箭内さんの言葉を真摯に受け止めました。

ぼくもただ単純にきれいなこと、明るい言葉を語るのではなく、鬱々として悶々とした状況を突き抜けて、しなやかな強さの境地に辿り着きたいと思っています。だから箭内さんの言うことがわかる。

この本を下敷きにして、ぼくはどう考えるか、自分なりのテツガクやスタイルを構築できるか、そんなことを考えていきたい。とてもよいきっかけを箭内さんから与えていただきました。10月3日読了。

投稿者: birdwing 日時: 02:06 | | トラックバック (0)

2008年8月 5日

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「勝間和代のインディペンデントな生き方実践ガイド」勝間和代

▼book:自立したい女性のバイブルあるいは入門書。

488759626X勝間和代のインディペンデントな生き方 実践ガイド (ディスカヴァー携書 22)
勝間 和代
ディスカヴァー・トゥエンティワン 2008-03-01

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勝間和代さんといえば、ひととき書店で平積みにされている写真付きの本が多く、雑誌などにも取り上げられていてよく拝見しました。時代の勢いに乗っている印象があり、気にはなっていたのですが、読んでいなかった著者のひとりです。

「勝間和代のインディペンデントな生き方実践ガイド」は勝間さんの原点ともいえる一冊とのこと。女性に向けて書かれています。いい女になるために知っておいたほうがよい生き方のガイドという内容です。

自立した女性を「インディ」と呼び、逆に男性や社会に依存した女性を「ウェンディ(ピーターパンの夢見がちな妖精)」に喩え、いままであまり語られてこなかったインディになる方法について、非常にわかりやすく解説されています。コラムを挟みつつ、ポイントを箇条書きにまとめて、さらに参考図書なども掲載。若干高めなのですが(1000円)、お得な感じがする。

女性向けの本であるのに、なぜ男性のぼくが?という疑問を自分でも感じたのですが、ひとつには、ぼくは自分にはない視点を獲得することで、思考を拡げたいという知的欲求があります。外国の文化でも構わないし、子供の発想でもよいのですが、カマタリつつある脳をやわらかくしたい。デザイナーの考え方も参考になることが多く、感性や直感にすぐれた女性の思考も同様です。思考をほぐしてくれる何かを摂取したい。

また、Lifestyle Innovationとブログのタイトルに掲げているだけに、情報化を含めたライフスタイルについて考えていきたいとあらためて思っています。しかも、あまり術にこだわりすぎるのではなく、生き方のテツガクであるとか、思考系のテーマに関心があります。

そういう意味で購入した本ですが、ささっと読めて、しかもいろいろと考えるところが多くありました。また、生き方を押し付けるのではなく、(あまり多くは語られていないのですが)ご自身の離婚経験にも触れながら、インディな生き方のデメリット、ウェンディで生きる選択もある、という柔軟な姿勢に共感を持ちました。

アタマのいいひとの多くは、まとめる力があると思います。要約力がある。というのは、エレベーターテスト(エレベーターに乗っている時間で社長にプレゼンする)のようなことにも言えると思うのですが、ポイントをきちんと指摘できる。勝間さんの本でも各章のポイントが箇条書きにされていて、その部分だけを読んでもかなり参考になります。

というわけで、この本に書かれているポイントを抜粋、まとめてみました。

■インディの条件
1)年収600万円以上を稼げること
2)自慢できるパートナーがいること
3)年をとるほど、すてきになっていくこと

■ウェンディになりがちな理由
1)家、学校、職場でインディになる方法を教えてくれるひとがいなかった
2)具体的に目標になるインディがいなかった
3)インディにならなくてもいいように甘やかされてきた
 3-1.何かに依存して現実から目を背ける「甘え」
 3-2.責任や決断を避ける「甘え」

■インディになるための法則
1)じょうぶな心
 1-1.自分の想いで環境を作る
    a.言い訳をやめる
    b.なぜ自分ばかりが損をするのか、という気持ちを捨てる
    c.目標を持つ

 1-2.周りと調和する
    a.こざっぱりとした服装・髪型と笑顔を忘れない
    b.「アサーティブ」に振る舞う

 1-3.すべてをゼロイチで考えない
 1-4.がんばりすぎない

2)学び続ける力
 2-1.メンターとコミュニティラーニング
 2-2.仕事の場の外で学び続ける
    ・英語
    ・読書
    ・「ながら学習」
    ・「わらしべ長者理論」
 2-3.お金をコントロールする力

■インディにとっていい男の条件
1)年収1千万円以上を余裕を持って稼げる男であること
2)インディの価値を認められる男であること
3)インディと一緒に、年齢とともに成長していく男であること

■インディになるための6つの約束
 「じょうぶな心」のために
 約束1:愚痴を言わない
 約束2:笑う 笑う 笑う
 約束3:姿勢を整える

 「学び続ける力」のために
 約束4:手帳を持ち歩く
 約束5:本やCDを持ち歩く
 約束6:ブログを開く

ポイントをざっと追うだけでも頷ける観点が多いと思います。たぶん問題意識の持ち方によっては、さっぱり意味がわからないかもしれないのですが、ぼくはものすごくよくわかった。もちろん個人的な視点からみると、これだけではちょっと・・・という印象もあります。たぶんこれは基礎的な生活習慣のようなもので、その先に進むともう少し必要なスキルがある。もしかすると勝間さんの他の本で書かれているのかもしれませんね。

余談になりますが、本筋とは別にいくつか関心のある内容も書かれていました。抜粋してみると、たとえば「身体全体で記憶する」ということ(P.74)。

まだ科学的には完全に検証されていない仮説の段階のものですが、記憶は脳ではなく、身体全体で行われている、という学説が出てきているのです。
この学説が出てきた背景には、最近、臓器移植が盛んになってきたということがあります。臓器移植によって、元の持ち主の記憶や好み、嗜好が移植を受けた人に移る、ということが複数回、観察されるようになってきたのです。

これは面白いですね。例えば、指先で記憶する、舌で記憶するということがあるかもしれない。そして、その記憶が潜在的に思考や行動に反映される。すなわち、美しいものに触れ、すばらしい味を体験したひとには、その蓄積された体験をベースに身体自体が再構築されていく感じでしょうか。

それから、姿勢を整えることの重要性を説かれたところで引用されている「メラビアンの法則」です(P.183)。

これは、1971年にメラビアンという人が行った実験で、
55%=Visual(視覚情報:見た目・表情・しぐさ・視線)
38%=Vocal(聴覚情報:声の質・速さ・大きさ・口調)
7%=Verbal(言語情報:言葉そのものの意味)
で、人は影響を受けやすい、というものです。

つまり、どんなにいいことを言っていても、見た目が変だったら信じてもらえない。視覚情報は重要であるということです。こうした知識をさらりと書けるのは、勝間さんの普段からの「学び続ける力」がベースにあるからでしょう。

女性の視点から、いい男の見分け方も書かれています。いい男の条件については抜粋しましたが、なかなか鋭い。いい女が気をつけなければならないのは「オレ様系」と「依存してくる男」だそうです。えーと、引用すると痛いので、詳細は触れないでおきます(苦笑)。

この本を読んでいて感じたのは、先日読み終えた阪本啓一さんの「ゆるみ力」に重なる部分がある、ということでした。頑張りすぎずに、けれどもきちんと自分の目標を定め、他人と比較せず、人生を楽しむ。漠然としていますが、おふたりの共通点を括ると、そんなしなやかな生き方がみえてきそうです。

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)

2008年7月30日

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「ゆるみ力」阪本啓一

▼Book:現実を直視すること、蓋を外すこと。

4532260078ゆるみ力 (日経プレミアシリーズ 7)
阪本 啓一
日本経済新聞出版社 2008-06

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阪本啓一さんといえばサラリーマン時代に翻訳したセス・ゴーディンのマーケティング書「パーミションマーケティング」がヒットして、独立および起業された方です。もとから偉いコンサルタントだと思っていたのですが、40代過ぎまで、ふつうに企業にお勤めだったことを知って愕然としました。

阪本さんの書かれる書物は、あたたかい。ご自身の体験をもとに情に訴える箇所が多いので、肌に合わない方もいるかもしれません。しかし、うがった視点ではなく、ストレートに読むと気持ちよいものがあります。どこかのアタマでっかちのコンサルタントが書いた本よりも心に染みる。ぼく自身は、阪本さんの本では、「マーケティングに何ができるかとことん語ろう!」 を読んだことがあります。こちらも上から目線ではなく、語りかけるスタンスで書かれた本であたたかい。

というのはやはり、阪本さんがさまざまな辛い思いをしてきたから、ということにあるかもしれません。

誰もが複雑な社会のなかで複数のペルソナ(仮面)を持っています。けれども、その仮面を崩さなければならないときがある。「見たくない現実」を直視しなければならない。けれども、このペルソナが崩れるときにきちんと向き合うことが重要である。そう阪本さんは書かれています。

ここまで書いてしまっていいのか、と思うぐらいに無防備に自分の弱さを晒す阪本さんの文章は、読んでいてとても辛い箇所も多い。たとえば人間関係で薄い関係しか作れなかった阪本さんが、その原因を、子供の頃に浮気で離婚したご自身の父親にあるということに気付くところ。48歳のときだそうで、わずか2年前という最近のことだそうです。長いのですが以下、引用します(P.70)。

両親の離婚の理由は父の浮気だ。しかし、ぼくは父を恨んだり、怒りの感情をもったりしたことがなかった。ずっと、ニュートラルな気持ちでいた。しかし、これらの平たい気持ちは、こころの地下水脈に流れる本当の気持ちに蓋をしていたからに過ぎなかった。四八歳の誕生日、友人たちがレストランで祝ってくれて、夜遅く帰宅した。楽しかった夕べの余韻を感じながら、居間で家人と雑談していた。何かの拍子に、父の話題になった。家人が聞いた。それは直球ストライクど真ん中の球だった。

「本当に、お父さんいなくて淋しくなかったの?」

いつもならニュートラルな感情のはずが、その夜は、どういうわけか、ポン、とこころの地下水脈の蓋が取れた。あまりにど真ん中へストライクが入ったから。蓋の取れた途端、「おとうちゃんがいなくて淋しかった!」「おとうちゃんに甘えたかった!」「おとうちゃんに相談したいことがいっぱいあった!」などの幼児のような感情が噴出してきた。漢字一文字で表現するなら、「淋」。地下水脈のこころが一気に溢れ出し、それは涙となり頬を伝って、口からは号泣の声が轟々と飛び出した。


泣けました。大人になるということは、さまざまな感情に蓋をすることで、けれども蓋をすることによって過剰に問題を避けたり、こころの深いところでは辛いのに楽しそうに繕ったりもするものです。しかし蓋をした感情は、積もり積もって大きな痛みとなる。蓋を取ってしまうことは怖いのですが、誠実に問題を直視し、向き合うことで、はじめて「ゆるむ」ことができる。この考え方に共感します。

だからこそ、すべてに意味があり、自分の弱さも過去も全部肯定できるのであって、誰かに嫉妬や猜疑心に苛まれることもなく、自分の人生をきちんと生きることができるのでしょう。自分の弱さを認めることは負けではないし、マイナスではない。弱さを認めてしまえば、肩の力も抜けます。頑張らなくてもいい。そのままでいい。

スローライフという言葉も聞かれますが、結局のところスタイルやファッションではなく、こころの在り方に拠るところが大きいと思います。どんなに田舎で解放的な生活に変えても、オーガニックな生活に変えても、こころがゆるんでなければ根本的な解決にはならない。そして、ゆるむためには逃げるのではなく(厳しく辛いこともあるけれど)根本的な問題や現実に向き合い、蓋をされて隠されている感情に向き合うことが大切です。

ところで、個人的には健康面で「経皮毒」について書かれていることが参考になりました。経皮毒とは、「日用品に含まれている化学物質が皮膚を通して浸透、体内で有毒な作用を引き起こしたり、蓄積すること」だそうです。健康に気をつけているひとであれば、ふつうに知っていることかもしれませんが。以下、引用(P.217)。

子宮内膜症と診断された女性が、医師の治療を受けても一向に良くならず、友人の薦めで無添加のシャンプーとリンスに変えたところ、どんどん痛みが減り、一年で治ってしまった事例がある。
また、女子中学生が無添加のシャンプー、リンスに変えただけで、生理痛が激減した事例もある。
私は家庭内で食器洗いの担当なのだが、無添加の食器洗い石鹸を使ったおかげで、この冬は手のあかぎれやひびわれがなかった。

これもまた、現実を直視し、ほんとうに問題となっているものの蓋を取り去ることで、ゆるむことができる実例なのかもしれません。そして、正しい知識を得ることがゆるむための近道となります。

とはいえ、最近、公務員の不正が発覚したり、電車の駅員さんが寝坊して切符が買えないようなことがあったり、社会全体がどこかゆるみがちな気がするので、しゃきっとしなきゃならないところはしゃきっとすべきだと思いますけどね。頑張っているひとにはゆるみ力は大切ですが、社会全体には「しまり力」が必要ではないか、と思ったりしています。7月30日読了。

+++++

■関連図書

4881358057パーミションマーケティング―ブランドからパーミションへ
Seth Godin 阪本 啓一
翔泳社 1999-11

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4534035624マーケティングに何ができるかとことん語ろう!
阪本 啓一
日本実業出版社 2003-03-26

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投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年4月28日

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「50代からの選択」大前研一

▼Book:ポジティブな諦めの境地から。

408746266850代からの選択―ビジネスマンは人生の後半にどう備えるべきか (集英社文庫 お 66-1) (集英社文庫 お 66-1)
大前 研一
集英社 2008-02-20

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「企業参謀」という著作で挫折した経験のあるぼくは、大前研一というひとは難しいことを言うとっつきにくいおっさんだ、という先入観がありました。また、講演などでは経営者やビジネスマン(やはりおっさん)たちに人気があるらしいが、どうせコンサルタントらしいもっともなことを言っているんだろうな、という表面的な認識しかなかった(思いっきり失礼ですね。すみません)。しかしながら、最近、いろいろと大前さんの著作を読んで認識が変わりつつあります。

大前研一さんの考え方に惹かれます。というか深みのある人間性が素敵だ。ぼくがおっさんになったからかもしれません。けれども、「50代からの選択」にも書かれているように大前さんご自身もかなり変わったのではないでしょうか(といってもこの本は2004年に発行されたものなので、いまではさらに変わられているかもしれませんが)。

「50代からの選択」で述べられている大前さんの見解は、過激だと思いました。過激だけれど、ものすごく惹かれる。ひとつひとつに説得力がある。

たとえば、40代で会社で頭角をあらわしていないのなら、この先、会社で浮かぶことはないよ、ということをストレートに指摘されていたり、50代では成仏することを勧めていたりします。日本の歴史は、リセットやオールクリアの歴史だったとして、過去を引き摺るよりは大切に抱え込んでいるものを全部捨てちゃえ、最初からやり直せ、などということも書かれている。実はうじうじと終わったことを後悔しがちなぼくには、頬をひっぱたかれたような刺激があります。目が覚める。

年金問題に関する視点も新鮮です。お金を貯め込んでいるのは65歳以上であり、シニアにお金を使わせろ、割をくっているのは若い世代たちだ、と主張されている。そして、そんな世代間格差を変革しようとして選挙に出馬したのに票を入れなかった40代の世代のことなんて俺は知らないね、悔しかったら老人世代に反逆を起こしてみろ、でも俺だけは襲わないでね、なんてことが書かれている(笑)。びみょうな問題を孕んでいると思うので、ここまでシンプルには考えられないとは思うのですが、それでもとてもわかりやすい。

年老りは敬い大切にしましょう、というのが通常の考え方ですよね。電車でも席は譲ってあげたい。その倫理観と混同して社会についても考えがちなのだけれど、大前さんはすっぱりと切り離して、お金を持っているのはシニアなんだぜ、暇だから投票にも熱心だ、社会の主導権を握っている、でも困るのは選挙にも行かずに社会の問題から逃げたり後回しにしているおまえら若い世代なんだぜ、と指摘しているわけです。ううむ。反論できない。

革命の起こせない「少年ジャンプ世代」という批判も痛かった。ちいさなしあわせを大切にして、大きな問題から目を背ける。スケールの小さい勝利に目を向ける、という。ああ、ぐさっとくる。コンビ二で買ったサントリーの缶コーヒーに付いてきたポルシェのミニカーに、ささやかなしあわせを感じている自分がちいさいことであるなあ(苦笑)。

世代に対する鋭い考察があるかと思うと、ご自身の嫁と舅の問題のようなプライベートのようなことまで書かれています。要するに、これもまた問題解決(ソリューション)として、コンサルタントの視点から解決されているのだけれど、とても参考になりました。

また、選挙の大敗に関しても、丸の内でしか通用しないビジネスの言葉で選挙に臨んだ自分の驕りのようなものを素直に反省されている。失敗を認める姿勢が、すがすがしい。プライドや体裁にこだわらずに吹っ切れていて、気持ちいい。辛辣だけれど言葉のひとつひとつが瑞々しい。こんな風にブログで新鮮な見解を述べられるといいですね。

しかしながら基本的に、ぼくは大前研一になれません。ぜったいに無理。やはり住んでいる世界が違う。世界を相手にして活躍されてきた大前さんとぼくは、あらゆる面で格が違いすぎます。

それでも、ここに書かれていることを起点として自分なりに行動もしくは思考を展開してみたいと思いました。過剰な夢を抱くのではなくて、諦めてみることが大切かもしれません。しかしそれは妥協としての諦めではなくて、あくまでもポジティブな諦めです。大前研一さんにはなれないけれど、では大前さん的な思考をぼく個人のスケールで展開してみたらどうなるか。まったく同じことをやったら工夫も何もありませんが、枠組みだけお借りして、あとは自分で考える。

ひとつ考えているのは、センセイになりたい、ということです。

といっても、学校の教師でなく(だいたいぼくは教職免許を持っていない)、またサムライ業(弁護士など「士」がつくひとびと)の資格を取得して、自律して仕事をはじめることでもありません。つまり、

若い世代に何かを教えられるひとになりたい

ということです。職業や資格にカテゴライズされないセンセイになりたい。

うーむ、しかし考えてみると、いま教えられることはあまりないなあ(涙)。でもいいのだ、なければ学べばいい。誰かに何かを教えられるぐらいに究める、という目標を前提として50歳を目指して学習していけばいい。困ったことに50歳のぼくが想像できないのだけれど(苦笑)、枯れて、それでもやさしい目をしたセンセイでありたい。なれるかなあ。いや、なろうと思えばなれるだろう。

教えることは趣味のDTMでもいいかもしれないし、映画や本や音楽のことだって、究めれば教えられるようになれるかもしれないですね。あるいはちょっと長く生きているので、人生でもいい。就職では苦労したし、仕事では随分悩んできたので、そのなかで考えてきたことでもいい。何か次の世代のためになることを総括して、体系化して、伝えたい。

可能であれば、お金は要らないから地方のコミュニティでセミナーのようなこともできるといいですね。いちばん手っ取り早いのはブログで語ることかもしれません。観客は3人でもかまわない。ぼくが教えられるのはきっとその程度のキャパだろうと思うから。

大前研一さんの本を読み、自分にできること、できないことを腑分けしつつ、ポジティブな諦めの境地から少しずついろんなことを考えつつあります。諦めると肩から力が抜ける。言いたいことも言えるようになる。ポジティブな諦めの境地は、結構大切です。

投稿者: birdwing 日時: 23:05 | | トラックバック (0)