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2009年2月 3日

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グラディーヴァ マラケシュの裸婦

▼cinema09-04:夢と現実、入り組んだ倒錯の物語。

B0010OI5ZCグラディーヴァ マラケシュの裸婦 [DVD]
アラン・ロブ=グリエ
アット エンタテインメント 2008-03-07

by G-Tools

アラン・ロブ=グリエといえば「去年マリエンバートで」の脚本家として知られていますが(監督だと勘違いしていたところ、アラン・レネが監督でした)、監督として彼の名前がクレジットされていたこと、そしてジャケットの芸術的だけれどもエロティックな写真に惹かれて、たまにはこういうのもいいだろ(照)ということで借りてきた映画でした。

ところが知らずに観ていたところ、ウジェーヌ・ドラクロワの名前が出てきて、え?彼にまつわる話なんだ!と思わずにやり。というのも、映画を観賞する前に、コールドプレイのアルバムを聴いていたからです。コールドプレイのアルバムには、彼の「民衆を導く自由の女神」の絵が使われています。直感的にレンタルDVDの棚から引き抜いてきた作品なのだけれど、偶然による連携のセンサーが効いている。いい感じです。このセンサーの働きがよくなると、芋づる式に知を引っ張り出してくれるので。

夢と現実が錯綜した官能的な物語です。モロッコのマラケシュでドラクロワの調べものをしているジョン・ロックのもとに、不明の小包が届きます。開封すると、ドラクロワのデッサンのスライドが入っている。その後、町を歩いているとデッサンのモデルにそっくりの女性に出会い、彼女を追いかけて、盲目の(といっても、ほんとうは目が見えるのだけれど)案内人に導かれて、あやしい場所へ。そこでは、女性たちが演劇という名のもとに、縛られたり傷付けられたり拷問を受けているような倒錯の世界が展開されていて・・・。

複雑に入れ子状になっていて、とてもわかりにくい。ジョン・ロックが出会うレイラという女性は、過去に亡くなっているドラクロワの愛人だけれど、彼の夢のなかに存在している。しかし、彼女が描く物語のなかでジョン・ロックが存在していたりもする。どれがほんとうの夢で、どこまでが現実なのか、とても曖昧です。そして、妄想のなかの狂気が現実を侵食していく。

複雑な物語、身動きの取れない不自由な感覚、望まないのに踏み込んでしまう危うい世界。その息の詰まるような苦しさが官能的です。エクスタシーが呼吸を奪うように、ぼくはオルガスムスに達する息のできない感覚こそが官能であると思います。それは身体的だけでなく、精神的に追い詰められたときの窒息するような息苦しさも同じでしょう。胸を塞ぐかなしみは、どこかしら官能に近い。

愛情の反対は憎しみではなく無関心だ、というマザー・テレサあるいはエリー・ヴィーゼルの言葉を先日のエントリーで引用しましたが、感情の強度という観点からは、愛情も憎しみも類似している。ここでぼくがさらに考えるのは、愛情と憎しみは別々に存在するものではなく、ブレンドされることもあるのではないか、ということです。双方の感情が強ければ、2倍の強い情動となるのでは。

たとえば、愛情が強く燃え上がるためには、憎しみというスパイスが必要になることがあります。ひどい喧嘩をすることによって、より深く愛し合うようになる場合です。もしかすると、"いいひと"があまりスリリングな恋愛に展開しないのは、憎しみという刺激に欠けるからかもしれません。悪女であったり、悪いやつに溺れてしまうとき、精神的に傷つけられる痛みが甘い愛情に変わるのではないでしょうか。もちろん前提として、愛情を抱いている場合です。そうでなければ嫌悪するだけなので。

いとしいあまりに傷付けたくなる。あるいは、傷付けているのにたまらなくいとしい。アンビバレンツという言葉で括るには安易な、そんな感情があります。どこか子供じみた印象もありますが、逆に複雑で成熟した感情かもしれません。サディズムやマゾヒズムの根底に潜むものについて、ぼくは詳しい知識を持ちません。しかし、その暗闇に引かれるものがないわけではありません。どんな人間にも、わずかばかりの狂気やきわどい欲望の感情は組み込まれている。愛し合うときに、それが過剰に発動したり、表面化するか、あるいはこころの底で進展するかというだけのように思います。

ジョン・ロックの家にはモロッコ人の女性が召使としているのですが、彼女は彼を愛するあまり反抗的に挑発します。「分かりません、ご主人様」という言葉で突っぱねる。ジョンは怒って暴力的に彼女をベッドに縛り付けるのだけれど、そうされることが彼女にとってはいとおしい。そして、盲目の案内人に連れて行かれるあやしい家では、さらに過激な鞭打ちなどが行われます。映画のなかでは、妄想の世界なのか現実に行われていることなのか、はっきりしない。

モロッコ人の召使女性の褐色の裸体も美しいと思ったのですが、ぼくは最初にジョン・ロックをあやしい部屋のなかに導いていく後ろ髪を結った女性と、その豊満とはいえない白い胸に、なにやら気持ちがざわつくものを感じました。どうしても映画のなかで彼女を追いかけてしまう。画面の向こう側にいる彼女(名前は忘れた)に惚れてしまったようです。美しいと思いました。しかし、その美しい肌が罪もないのに刃で傷付けられて、拷問のためにあざやかな血が赤く流れていくのだけれど。

という狂気と倒錯をはらんだ映画なのですが映像は美しい。特に構図がすばらしいと思いました。たとえば、赤茶けた岩なのか土なのかで作られたマラケシュの家屋の前に、白い瓦礫の道があります。そこへオートバイに乗ったジョン・ロックがやってくるのだけれど、ああ、ここでバイクが止まったら完璧だ、と思っていたらまさに完璧な構図のなかに止まった。計算されているんですね。唸りました。

フランス語でかたられることばもまた官能的であり、最後にレコードで流れるオペラも印象に残りました。倒錯の世界によってもたらされる結果について語りませんが、愛情と嫉妬と憎しみのなかでもたらされる最後に、あわいせつなさが残りました。とはいえ全体的にはどうでしょう。うーむ。2月1日観賞。

+++++

YouTubeからトレイラー。えーと、かなりきわどいヌードが出てくるので、よいこは見ないようにね。脚に触れるシーン、映画のなかでもどきどきしました。

■Gradiva (C'est Gradiva qui vous appelle) (2006) trailer


投稿者: birdwing 日時: 22:49 | | トラックバック (0)

2009年1月15日

a001050

カンフーダンク

▼cinema09-03:中国的な、なんでもアリの面白さ。

B001H4VTD0カンフー・ダンク! スタンダード・エディション [DVD]
ジェイ・チョウ, チェン・ボーリン, バロン・チェン, シャーリーン・チョイ, チュウ・イェンピン
角川エンタテインメント 2009-01-09

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中国というのは、凄い国だと思います(行ったことないけれど)。海賊版の製品が多く、日本のヒット商品も次々に真似をされているようなことを聞いた覚えがあります。商魂の逞しさには、ほとんどあきれるほど凄いなと思ってしまう。

また、なんでもアリのめちゃめちゃな発想も面白い。IT系のニュースで、中国製のノーブランド(メーカー名さえ記されていないことが多いらしい)の携帯電話を紹介した記事を読んだことがありました。太陽電池で充電できる電話など、中国製おもしろケータイはあらゆるものを融合させてしまうらしい。

ちなみに太陽電池付き携帯電話は、ほとんどすぐ使えなくなるとのこと。しかし、文句を言うと、充電すればいい、と切り替えされるようなところが中国的です。エコなのか何なのかわかりません。機能的には全然ダメなのですが、発想がすべてであとは知りませーん、のような無責任な脱力感が、なんだか気持ちいいですね。本気で考えると、怒りたくなりますが。

年末に「カンフーパンダ」という映画を家族で観ました。なかなか面白かったらしく、子供たちは3回ぐらい観ています。で、カンフーつながりの作品ということで、テレビでも紹介されていたので借りてきたのが「カンフーダンク」なのですが、結局、家族はあまり興味がないようでした。仕方なく、おとーさんはひとりで観てしまったよう(苦笑)。「少林サッカー」というヒット作品もありましたが、あのスタッフが作っているらしい(やっぱりねえ)。こちらの「カンフーダンク」は、格闘技(カンフー)+バスケットボールという組み合わせです。

発想法のポイントは組み合わせだ、ということを広告業界ではジェームス・ウェブ・ヤング、あるいは野口悠紀夫さんなどが言っていたように記憶していますが、パンダ+カンフーという組み合わせもあれば、カンフー+バスケットボールという組み合わせもあります。東洋的なものと西洋的なものの組み合わせです。

この組み合わせが実は難しいもので、ただ継ぎ足すだけでは完成された作品にならないと思う。異なる文化を融合させるところに意味があるのではないか。

と、思っていたのですが、あきらかにトンデモナイ結合感覚で作られた「カンフーダンク」にまいりました(笑)。これってありか?とひどい展開があるのだけれど、笑えます。はちゃめちゃな組み合わせぶりが中国のパワーなのかもしれない。具体的には映画の内容には触れませんが、ふつうはここまでやらないだろう・・・と困惑でした。しかしながら、なんとなく押し切られて納得してしまう。

スポーツ根性ものの要素もあれば、ブルース・リーから引き継がれてきた伝統的なカンフー映画の醍醐味もあり、ワイヤーアクションやSFXもある。ついでに恋愛映画の少しだけ切ないシーンもある。韓国映画のパクリか?と思うような涙を誘う場面もありました。ひょっとしたらそもそも、日本のマンガ「スラムダンク」を思いっきり意識している気がする。

屋外のバスケットコートの傍に捨てられていた赤ん坊ファン・シージエ(ジェイ・チョウ)は、カンフーの学校で育つのですが、公園で百発百中で缶をゴミ箱に捨てていたところ、リー(エリック・ツァン)に出会います。リーはプロモーターあるいは父親の役割を担って、彼を大学に編入させるとともに、両親を探している天涯孤独な天才バスケット選手として売り出します。

という物語の枠組みだけをとらえると、去年の終わりごろに観賞した「奇跡のシンフォニー」と重なりました。あの映画でも、子供たちストリートミュージシャンからお金を巻き上げるブローカーをロビン・ウィリアムズが演じていて、主人公の少年を音楽家として育てます。ただ、圧倒的に違うのは、どちらもお金儲けに目がないブローカーもしくはプロモーターなのですが、リーのほうは、結局のところお金よりも絆を選ぶということです。演じているエリック・ツァンの人間的な魅力もあるのだけれど、「カンフーダンク」のほうがあたたかい。ひとのつながりによるぬくもりを感じます。

というわけで、なんだか「ノーカントリー」「ダークナイト」とつづけて観た暗い気持ちを、笑いやら涙やらで、すかーっと爽快に吹き飛ばしてくれました。こういう映画もいいなあ、たまには(1月12日観賞)。

■YouTubeからトレイラー

■公式サイト
http://www.kf-d.jp/

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)

2009年1月12日

a001047

ダークナイト

▼cinema09-03:救われない暗黒の物語。

B001AQYQ1Mダークナイト 特別版 [DVD]
クリスチャン・ベール, マイケル・ケイン, ヒース・レジャー, ゲーリー・オールドマン, クリストファー・ノーラン
ワーナー・ホーム・ビデオ 2008-12-10

by G-Tools

ヒーローがヒーローになれない時代です。ぼくらが子供の頃にはヒーローといえば頼れる存在であり、何の迷いもなく悪を滅ぼせばよかった。勧善懲悪というステレオタイプの物語のなかで、善玉と悪玉の役割は水と油のように明確に分かれていました。

ところが、子供たちのテレビ番組(仮面ライダーやウルトラマンなど)に関しても同様のことがいえるのだけれど、数年前からヒーロー像が大きく変わりつつあると感じています。何が善で何が悪か、ということがはっきりしなくなってきました。ヒーローのなかにも悪いやつがいる。また、こいつは悪なのか善なのか?と立ち位置が曖昧なヒーローまで登場するようになりました。かと思うと、侵略者や怪獣にも倒すべきではない善人(善獣?)がいたりする。どうなってるんだ。

さらにヒーロー自体が、おれは正しいのか?と悩むようになってしまった。人間的な側面というか、弱さを開示するようになりました。ヒーローでありながら、プライベートな個人としてのしあわせ(恋人と結婚すべきか断念すべきか)と、汚れた悪人から社会を守ることの義務を天秤にかけたりもする。ある意味リアリティがあるのかもしれませんが、ヒーローはマッチョなだけでなく精神的にもタフであってほしいと思うのは、ぼくだけでしょうか。だから、なんとなくがっかりする部分でもあります。ヒーローは強くなくっちゃ。

アメリカンコミックに登場するヒーローたちも、昔はもっと単純だった印象があります。ところが、バットマンにしろスパイダーマンやスーパーマンにしても、ヒーローたちの苦悩は年々作品を追うごとに深まりつつあり、なんだかとても複雑なことになってきています。悪を滅ぼすことによって悪の力を強めているのではないかのような、殺虫剤を使ったら遺伝子の突然変異で強力な繁殖力をもった蚊が出てきちゃったんだけど、それって退治したぼくのせい?というようなことで、ちまちま悩むようになってしまった。あげくの果てに悪を倒すことにためらいまで生まれるようになりました。

うーん、ヒーローのみなさま。考えすぎじゃないのかなあ、これ(苦笑)。

世知辛く生きるのがツライ現実ですが、ヒーローもたいへん生きにくそうです。それだけ世のなかが複雑になってきているのでしょうね。世相を反映しているのだと思います。

たとえばインターネットという技術革新(=ヒーロー)によって世のなかは便利になったけれど、一方で人間の闇を掘り起こして、新たな犯罪も生まれています。人々にとってよいものが純粋によい結果をもたらすとはいえない社会です。よいものであるからこそ悪影響を及ぼすこともある。そうした社会の多様性をぼくは容認したいと思っているし、姜尚中さんの「悩む力」ではないのですが、悩むからこそヒーローは強くなれるのかもしれません。わかっているつもりです。わかるのだけれど映画としてはどうだろう。観賞後にすっきりしない。

「ダークナイト」は、映画としては珠玉の出来だと思います。バットマンシリーズはほとんど観ていますが、物語の緻密さでいうと、今回の作品がいちばん優れているような印象を受けました。

口が裂けた道化師のようなジョーカーの狂気、光に溢れた希望も一転して奈落に落ちるという人間の闇の描写、SFではなく純粋にマフィアの映画としても通用するようなハードボイルドな映像、サイケデリックな雰囲気など、ひとつひとつが見事です。単純にバットモービルのアクションだけでは終わらない深みがあります。きっとバットマンが救ってくれるだろう、という希望を抱きつつも、ヒーローでもどうしようもないことってあるよね、という切実なかなしみも感じられました。

しかしですね、暗い。暗すぎる。そして心理描写に重きを置いたせいか、派手なスタントや破壊シーンがあったとしても、なんとなく地味です。一瞬だけ人間性における信頼を回復できるようなシーンもありますが、全体を覆う暗さは拭いきれません。率直な感想としては、救われない映画でした。こういう映画を生み出してしまった時代に、うすら寒いものを感じます。なんだか滅入った。

「ノーカントリー」の後につづけてDVDを借りてきて観たせいかもしれません。「ノーカントリー」に登場する殺し屋も、金や名誉のために人を殺めているわけではありませんでした。トミー・リー・ジョーンズが演じる保安官が首を傾げて、結局のところ立ち向かうのを放棄するように、彼を殺人に駆り立てているのは狂気です。だから、理解の範疇を超えている。コインを投げて目の前の誰かを殺すかどうか運に委ねたりするわけで、そこには論理的な筋道はない。

ちょうど重なったのですが、「ダークナイト」のなかでも「光の騎士」と称賛されて悪を一掃するために全力を尽くす新人検事ハービー・デント(アーロン・エッカート)は、コインに運命を委ねます。しかし善意で使われていたコインの使い方が段々あやしくなってきます。

計画性ではなく運にすべてを任せること、意思とは関係のない狂気に犯罪の動機があることが、うすら寒さの要因かもしれません。だから理解できないし、コントロールもできない。守ろうとしていたものも守れなくなっていく。信念も揺らいでいきます。その不条理な結果として生まれるのは、無力感と不信感です。

映画の外の世界、つまり2009年の社会においても、動機の理解できない犯罪が増えてきました。お金を欲しさに・・・というのであれば、わかりやすいのですが、衝動的とも計画的とも言い難い犯罪が毎日のように報道されています。不安が犯罪を煽るのか、犯罪によって不安になるのかわかりませんが、この無力感は、「ダークナイト」の全体を覆う救われない感覚と同期するように感じました。

「ダークナイト」は、時代の共感を確かに生むでしょう。しかし、共感を生んで絶賛されることが、映画の外にある現実として果たしてよいことなのかどうか。ぼくには疑問ですね。

ゴッサム・シティの腐敗した警察官たちは、映画のなかのフィクションの話でとどめておいてほしい。映画という空想の世界が現実を侵食していかないように、無力なぼくは祈るばかりです。ただ、去年のうちに観ておけば、もう少し楽しめたのかもしれないな、ということも少しだけ考えました。どのような作品であっても、観賞したときの社会の文脈によって評価は変わると思うので。

願わくば、もう少し希望を描いてほしかったなあ。ほんと(1月12日鑑賞)。

■YouTubeからトレイラー

■公式サイト
http://wwws.warnerbros.co.jp/thedarkknight/

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)

2009年1月10日

a001045

ノーカントリー

▼cinema09-02:タフさと無力さと、そして底知れぬ恐怖感と。

B001APXBUAノーカントリー スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]
トミー・リー・ジョーンズ, ハビエル・バルデム, ジョシュ・ブローリン, ウディ・ハレルソン, ジョエル・コーエン;イーサン・コーエン
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン 2008-08-08

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景気が悪化したせいでしょうか、いま世のなかでは、首を傾げたくなるような犯罪が多発しています。起き抜けに高校生の息子が父親を刺し殺したり、タクシーを狙った強盗であったり。日本は治安のよい国だと思っていたのに、不安が募るばかりです。テレビやマスコミの報道が連鎖した犯罪を煽っているようにも思えるのですが、どうでしょう。どこかで歯止めをかけることが必要ではないでしょうか。でもどうすればいいのか・・・。

「ノーカントリー」は麻薬の密輸売買に関わる殺し屋と、なんとなくお金をゲットしたばかりに事件に巻き込まれていく溶接工、そして事件を追う保安官の物語です。登場する保安官が、最近の犯罪は動機がよくわからなくなった、数十年前にはこんな犯罪が起きるとは予測できただろうか、というひとりごとを語るのですが、海外の遠い世界の物語ではなく、いま現在の日本の状況にぴったりの言葉であると感じました。背筋が寒くなりました。

そもそもコーエン兄弟監督の映画は、ふつうのひとがなんだかわからない不条理な犯罪にちょっと足を突っ込んでみたところ抜けなくなって、悲劇なのか喜劇なのかわからない状況に追い込まれるという映画が多いような気がします。一時期、集中してコーエン兄弟監督の作品を観たのですが、個人的に気に入っているのは「バーバー」でした。これも平凡な床屋として生きていた男が、どこかつんのめるようにしてまったく軌道を外れた人生に落ちていく、というような映画だったと記憶しています。

圧搾空気のボンベを担いで空気の圧力で施錠されたドアを吹き飛ばしたり、人間のアタマを打ち抜く殺し屋アントン・シガー(ハビエル・ダルビム)は、その存在感が恐ろしい。というか変な長髪が怖い(笑)。コインを投げて殺すかどうか決めるなど、この殺人鬼はどこか狂っています。正気ではない。正気ではないけれど、めちゃめちゃタフです。瀕死の状態になっても、自分で自分の身体を修復して、執念深くターゲットを追い詰めていく。ターミネーターかと思いました(笑)。

一見すると無駄とも思える会話が多いのですが、その冗長性もコーエン兄弟ならでは、という感じでしょうか。麻薬組織の銃撃戦のあとから大金を発見して逃げるルェリン・モス(ジョシュ・ブローリン)は、ガゼルのような動物を狙って弾を外すところから登場します。要するに射撃が下手なのに得体の知れない自信があって、金を持って逃げるどころか、殺し屋と戦おうとさえする。ただの溶接工なのに、おいおい、大丈夫か?という感じで、めちゃめちゃ心配でした。しかし、この彼もまたタフで、あらゆる手を使って追っ手からの逃亡をはかります。

保安官エド・トム・ビル(トミー・リー・ジョーンズ)も、使命感はあるのだけれど諦めムードが漂っていて、彼の存在から感じるのは、凶悪犯罪と暴力に関して無力であるという脱力感です。通常の映画の枠組みを考えると、勧善懲悪というか、保安官が使命に燃えて殺し屋を追い詰める物語を想像するのですが、この映画のなかでは悪人のみが元気であり、しかしばったばったと死んでいくばかりで、警察や保安官は手のほどこしようがありません。

この無力感が、いまの時代を象徴しているのかもしれないな、と思いました。メキシコの荒涼とした風景がメインなのですが、見終わったあとに殺伐とした感じが肌寒い恐怖感に変わっていきます。どこか淡々と進行されていくストーリーだからこそ、よけいに怖い。

じわじわと効いてくる映画かもしれません。そういう映画はたちが悪いものです。よい印象であれ、悪い印象であれ、観終わった瞬間に、ああ面白かった!で終わることができるエンターテイメントは害がない。しかし、「ノーカントリー」はエンディングのせいもあるかもしれないけれど(ネタバレになるので書きませんが)、なんだか終わった感じがしないのです。きっちりと終わってくれないので、観たぼくらのこころのなかに何かをつづけさせる。

問題ですね、これは。とんでもない問題作だと思いました(1月10日観賞)。

■YouTubeからトレイラー

■公式サイト
http://www.nocountry.jp/

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)

2009年1月 4日

a001042

マイ・ブルーベリー・ナイツ

▼cinema09-01:遠まわりの恋、色彩美の味わい。

B001AP0GLWマイ・ブルーベリー・ナイツ スペシャル・エディション [DVD]
ノラ・ジョーンズ, ジュード・ロウ, デヴィッド・ストラザーン, レイチェル・ワイズ, ウォン・カーウァイ
角川エンタテインメント 2008-09-12

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ウォン・カーウァイ監督の映画といえば、色彩美という印象があります。それも淡い色彩ではなく、どちらかというと赤と黒、蛍光色のグリーンのような、けばけばしい淫靡で官能的ないろあいです。雨の夜のネオンという感じ。そのイメージで思い出したのは、スティーリー・ダンの「Aja」というアルバムのジャケットでした。山口小夜子さんがまとっている布の彩りのような印象でしょうか。

彩(エイジャ)

ぼくがいままでウォン・カーウァイ監督の作品で観た作品は、金城武さんが出演している「恋する惑星」、「花様年華」、「2046」(木村拓哉さんが出ていた)といったところですが、「花様年華」の暗くしっとりとした大人の映像にやられました。トニー・レオンかっこよすぎる。抑制された大人の愛を描いた映画ですが、夜のしじまにタバコの煙とかくゆらせてみたくなりますね、あの映画を観ると。

という意味では色彩を含めて、大人(そして大人の愛)を描くのがうまい監督といえるかもしれません。この「マイ・ブルーベリー・ナイツ」は、監督初の英語による映画とのこと。アジアの俳優ではないと、どこか湿り気がなくなって乾いた感じになるのは否めませんが、それでも色彩美は健在でした。とはいえ、スローモーションの多用と、ブルーベリーパイにアイスが溶けていくアップの映像はどうかな、と思いましたが。

そもそもこの映画に注目したのは、エリザベス(ノラ・ジョーンズ)とジェレミー(ジュード・ロウ)が、くちびるを触れるか触れないか接近させたまま眠っているようにみえるサントラ盤のジャケットでした。CDショップをうろうろしながら、フリーペーパーの表紙に掲載されていたのをみつけて、この映画のことを知ったのだった。

このショット自体がくらくらするほど官能的です。もちろん映画のなかにも出てくるのですが、ぼくは静止画のほうがよかったかな。まるで中国の陰陽マークのようだと感じたのですが、そういう意味ではアジア的な構図かもしれません。監督が意図したかどうかはともかく。

「マイ・ブルーベリー・ナイツ」の物語は、付き合っていた彼氏に新しい女性ができて失恋したエリザベス(ノラ・ジョーンズ)がジェレミー(ジュード・ロウ)の喫茶店に現れるところからはじまります。鍵にちなんだ名前のその店では、何人ものお客が鍵を預かってもらっている。そして、エリザベスも恋人の部屋の合鍵をジェレミーに預かってもらう。

失恋の痛みに行き場所をなくした彼女に、ジェレミーは何も言わずにつきあってあげて、残り物のブルーベリーパイを食べさせます。やがてエリザベスは何度か店を訪れるようになり、ふたりは親しくなるのですが、ある日、彼女はふいに姿を消す。そして、遠い場所で昼夜ふたつのバイトをしてクルマを買うために働きはじめます。けれどもジェレミーとは手紙をやりとりして、いろいろな話をします。付き合っていた彼のことを忘れるためには、失恋の痛手を癒すためには、遠い場所で働く「遠まわり」が必要だった。

その遠まわりの旅で、エリザベスはさまざまなひとと出会うのですが、妻に浮気されて、それでも愛しつづけていてぼろぼろな警察官の話は辛かった。愛情が強すぎるあまりに妻を縛りつけてしまい、妻から愛想を付かされてしまう。束縛しようとする彼から逃げ出そうとしたわけです。しかし、お互いに辛い状態になりつつも、それでも別れられない。愛しているはずなのに傷つけあうことしかできない。その関係の対極として、エンレン(遠距離恋愛)とでもいうべき、エリザベスとジェレミーの関係があるような印象を受けました。

ギャンブル好きな女性と出会うところからは、どこかロードムービー風になっていくのですが、アメリカのひとたちはこういう物語が好きですね。広大な土地のせいかもしれないけれど、誰かと出会ってクルマをかっとばす、あるいはドライブしながら自分の人生についてみつめる(「エリザベスタウン」という映画もそんな感じ)という展開が好まれる。ちょっとステレオタイプな気もするけれど、型にはまった気持ちよさがあります。

しっかし、ジュード・ロウもまたいい男だ。どこかおバカタレントとして名をあげた「羞恥心」のメンバーっぽい雰囲気も感じたりしたのですが、きっと逆でしょうね。日本のタレントが彼等の真似をしたんではないだろうか。

何がいい男かというと、もちろん見た目もあるけれど、この映画のなかでは、失恋して心を痛めているエリザベスに何もいわないこと、甘いものを食べさせてあげること。ぼくは我慢ができずに、つい何か言ってしまいそうな気がします(苦笑)。余計な慰めとか、解決方法の提案とか、女性はそんなものを聞きたいわけではないですよね。黙ってそばにいてほしいのだと思う。辛いときには。

ジェレミー(ジュード・ロウ)みたいになりたいと思いました。反省。いや、ここは反省するところではないか・・・。音楽好きとしては、この映画に挿入されたノラ・ジョーンズの歌声も素敵です(1月6日鑑賞)。

■YouTubeからトレイラー


■公式サイト
http://blueberry-movie.com/

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)