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2008年1月28日

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ヴィム・ヴェンダースpresents Rain

▼Cinema08-004:雨が覆う断片的な物語たち。

B000U7PEJKヴィム・ヴェンダースpresents Rain [DVD]
マイケル・メレディス
トランスフォーマー 2007-10-05

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作品とは関係ないのだけれど、レイン(Rain)という語感がぼくは好きです。R音の怜悧な感じ、冷たく透き通った印象。けれども、最後のN音で包み込まれるようなあたたかさ。なんとなく黒川伊保子さん的な分析だけれど、この語感自体がいい。実際の雨は鬱陶しいものかもしれないけれど、ときどき雨の降る日が好ましく思えることがあります。雨の降る日には深くとりとめもなく考えに耽ることができそうで。

「ヴィム・ヴェンダースpresentsRain レイン」は、3日間降り続くモンスーンの雨の日、クリーブランドで暮らす6組のひとびとのさりげないエピソードを断片的につないだ映画です。断片的とはいえ、先日観た「バベル」が複数の物語が絡まりあって大きなうねりを描くのに対して、こちらではほんとうに詩的に組み合わせられるだけ。その全体をつなぐのは、JAZZです。クリーブランドのラジオ局から届けられるJAZZが雨のように全体に降り注いでいる。

乞食にモノを与えようとして妻と不仲になる夫婦とか、雨降りのためにだいなしになったタイルの粘土を前に呆然としてお金のやりくりに困る職人とか、酩酊してだらしなく息子を頼る老人(ピーター・フォーク)とか、息子を失って呆然としたまま客を乗せるタクシー運転手とか。どこか悲しくて救いがない。ちょっと文学的で、村上春樹さんの翻訳によるデニス・ジョンソンの「シークレット・エージェント」的な荒廃感を抱いたのだけれど、Amazonの解説から引用すると「19世紀末に短編小説界に革命を起こしたアントン・チェーホフによるいくつかの短編」をもとに作られているとのこと。なるほど、文学的なわけです。

ピーター・フォークといえば思い出すのは「刑事コロンボ」で、最近ではDVD付き雑誌もあったような気がします。いまは亡き父が「刑事コロンボ」が大好きで、NHKで放映されるドラマを酒を呑みながらずっと観ていたっけなあ。しかし、このピーター・フォークの甲高い声というのがぼくは苦手で、このひとはもっと低音の魅力で語っていたら、人気のある俳優になったんじゃないか、などと勝手なことを考えてしまうのでした。この声だからいいんだ、というファンも多いと思いますが。

結論として。ぼくはちょっと入り込めないというか、飽きる感じの映画だったかな。いまひとつ。ヴィム・ヴェンダースに惹かれたのだけれど、結局のところ製作総指揮で監督ではないし、JAZZも無理やりな挿入という印象で、おしゃれにしようと努力しているのだけれど、思想がないので薄っぺらな印象のお店、という感じがしました。というような感想は、雨に流すことにして。1月28日鑑賞。

投稿者: birdwing 日時: 23:58 | | トラックバック (0)

2008年1月24日

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バベル

▼Cinema08-003:子供たちを守らなければ。

バベル スタンダードエディションバベル スタンダードエディション
ブラッド・ピッド.ケイト・ブランシェット.ガエル・ガルシア・ベルナル.役所広司.菊地凛子.二階堂智.アドリアナ・バラッサ アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ


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水面に一滴水のしずくを垂らすと、その波紋が大きく広がっていきます。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督(言いにくい)の「バベル」は、弾丸という水滴によって国境を越えて広がった大きな波紋を描いた映画かもしれない・・・とそんな風に思いました。

放牧民の子供たちが手にした銃。何気なく撃った弾丸が、時空を超えてさまざまな因果を引き起こしていきます。大きな事件の発端となったのは、あどけない好奇心でしかありませんでした。そうしてモロッコ、アメリカ、メキシコ、日本と国境を越えて紡がれた物語は、運命に翻弄される人間の愚かさや、切なさや、孤独だけれども寄り添うあったかさなどに収束されていきます。

映画館で観ようと思いつつ見逃していた作品ですが、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督(やっぱり言いにくい。苦笑)の映画は、伏線の絡み合いが見どころですね。この監督の作品は「21グラム」から観て、その後、闘犬をめぐって生きざまが交差する「アモーレスペロス」を観たのですが、いずれも複数の平行する物語が複雑に絡まりあっています。その多層的な構造が魅力です。

物語のスケールも大きいのですが、映像的な広がりもありました。赤茶けた砂ばかりのモロッコの砂漠、平和なアメリカの家庭、結婚式で盛りあがるメキシコのパーティー、そして原色のけばけばしいイルミネーションのなかで展開される都会的でありながらどこかノスタルジックな日本の夜。ばらばらにしたパーツを再構成するようにして組み合わされた映像は、さまざまな文化のコラージュともいえます。

さらに、音楽的な広がりもある。メキシコのラテン系のリズムと、一方で日本のクラブで騒がしく奏でられる電子音。そして耳の聞こえないひとたちが感じる、音のない世界の音。

物語のなかでは、複数の親子関係も複雑に絡み合っています。

モンゴルでは、知人から買い取った銃をふたりの息子たちに渡す男。最初から非常に危なっかしいなあという感じがしたのですが、狙って引き金を引け、ということしか教えずに彼は銃を子供に与えます。兄弟の関係もうまく描かれていて、長男は銃を撃つのがヘタな一方で、弟は銃を撃つのも上手ければ色気づいて姉の着替えを覗いていたりする。ありがちですが、弟の方が優秀だったりする。

アメリカでは、冷え切った関係の夫婦(ブラッド・ピット 、ケイト・ブランシェット)と女の子、男の子ふたりのちいさな子供たち。けれども親たちの関係がギクシャクしているのは、三人目の赤ん坊が死んでしまったことにあります。そして、残された二人の子供たちを世話するベビーシッター。

そのベビーシッターの母親は、メキシコに住む息子の結婚式のパーティーに出席する。ところが世話をしている二人の子供を連れて行ったところ、これがとんでもないことに巻き込まれる。とんでもない、といってもこれもまた魔が差す、というかちょっとした運命の悪戯から引き起こされた事件なのですが、このときクルマを運転するのがガエル・ガルシア・ベルナルで、激走するシーンは「アモーレスペロス」を思い出させました。ガエル・ガルシア・ベルナルは「恋愛睡眠のすすめ」のような、ほわわわわんな映画より、緊張感のあるバベルのような映画のほうが合っている気がする。

そして、日本。大企業に勤める父(役所広司)と聾者の娘・智恵子 (菊地凛子)の関係が描かれています。行き場のない苛立ちを、クラブで踊ったり、下着を脱ぎ捨てたり、ドラッグをしたり過激な行動に身を染める智恵子ですが、その強がりの向こう側にさびしさとか、愛情を求める切々とした想いがある。

ぼくはこの4つの親子関係に考えるところが多くありました。

子供たちは決して未熟なわけではなく、大人たちの縮図のようなものとして存在しています。ちいさな子供たちの世界にも争いがあり、喜びがある。一方で、大人たちのなかにも子供じみた考え方があり、決して成熟しているとはいえないのではないか。モロッコのシーンでは、事件にあったバスがちいさな村で救援を待つのですが、うろたえる大人たちの行動には大人とは思えないものがありました。極限時においては、人間の根本的な姿があらわになるもので、だからこそ子供じみた感情も発露する。

物語の伏線といっても、明確なラインが引かれているわけではないですよね。断片的な物語をつないでいくのは、ぼくらの思考です。そして、国境といっても明確な線は存在しなくて(もちろん警備や検閲などはあるだろうけど)、強行突破しようと思えば突破できる。あるいは血縁という絆。伏線をつなぐのがぼくらの意識であるように、血縁による絆といっても目にみえる赤い糸が存在するわけでなく、そこに絆を感じたときに線ができる。それらをつなごうとする、線を作ろうとするのが人間の意識です。

しかしながら明確な絆はみえないとしても、血縁というのは大きなつながりです。そしてベビーシッターのように、明確なつながりがなくても数年間いっしょに育ててきたのであれば、その関係は血縁に近いものがある。では、親として大切なことは、なんだろう?

ほんとうに子供たちが助けを求めているとき、危機的な状況に直面したときに、手を差し伸べることができるかどうか。

それが親として大切なことではないだろうか、とぼくはこの映画を観ていて思いました。子供たちには親が必要であり、弱者を守るのは大人たちである。守るといっても、大声を出したり拳銃で威嚇する必要はなく、高い場所から飛び降りようといている背中をぎゅーっと抱きしめてあげるだけでいい。

罪に問われたり、やるせない思いを抱えていたり、ほんとうにそばに居てほしいときに居てあげることができるかどうか。いちばん過酷なヤバイ状況のときに、逃げないでそんな自分の子供たちの側に立っていられるかどうか、それが親として求められることではないか。

まったく「バベル」から脇道にそれてしまったかもしれませんが(苦笑)、子供たちを守らなければ、というのがぼくがこの映画から受け取ったメッセージでした。1月23日鑑賞。

■Babel trailer

公式サイト
http://babel.gyao.jp/

投稿者: birdwing 日時: 23:58 | | トラックバック (0)

2008年1月19日

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コーヒー&シガレッツ

▼Cinema08-002:コーヒーとタバコのある、モノクロームの時間。

B000A2Q7YGコーヒー&シガレッツ [DVD]
アスミック 2005-09-09

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苦味のあるものって、どこかオトナっぽくないですか。ビールもそうなんだけど、コーヒーとかタバコとか、そんな嗜好品には苦味があり、オトナの匂いがする。

かつて予備校時代にはぼくはかなりのヘビースモーカーだったのですが(といっても、キャスターとかフィリップモーリスとか、軽いタバコばっかり吹かしていましたが)、いまはタバコはすっかりやめてしまいました。でも、先日コンビ二に行ったら葉巻が売っていて、なんとなく美味しそうと思った。ちょっと手が伸びそうになりました。一方で、コーヒーは毎日のように摂取しています。あまりこだわりがなくて、缶コーヒーとかで十分に満たされちゃうんですけどね。

「コーヒー・アンド・シガレッツ」は、コーヒーとタバコのある風景をモノクロで描いたジム・ジャームッシュ監督の映画です。12の短編ムービーのオムニバスで構成されています。なんでもない雑談風景ばかりなのですが、これがまたいい。何も起こらないのだけれど、会話に妙な緊張感が生まれたり、哀愁に包まれたり、ときにはくすりと笑わせるようなユーモアがあって楽しめます。ぼくは気に入りました。本年度第一のおすすめです。

ほんとにコーヒーとタバコで雑談するだけの映画なんですよ(笑)。ただ、別の短編で同じ話が繰り返されたりして、それもまたおかしい。そして、モノクロという画面のせいもあるかと思うんですが、ものすごくおしゃれです。白いカップのなかに注がれるコーヒーも素敵な色だし(というか色がないからこそ映えるものだし)、気まずい空気のなかにたゆたうタバコの煙もいいなあと思いました。

実は出演しているひとたちもちょっと豪華で、イギー・ポップとトム・ウェイツというミュージシャンふたりが喫茶店で話すような短編もあります。渋い顔でコーヒーを飲み、タバコを吸いながら「おまえの曲、あのジュークボックスに入っていなかったぞ」みたいな牽制をする。言われた方はクールにしていながら、実は内心動揺しまくっていたりする。

ところで、ぼくはタバコとコーヒーを飲む女性って、ちょっと好きなんですよね。もちろん自分の彼女でニンシンしてお腹に赤ちゃんがいれば控えるように言うと思いますが、嫌煙家にメイワクをかけないのであれば、自己責任のもとにタバコだってかまわないと思う。それがオトナってものでしょう。この映画のなかでは「RENEE」という作品に出てくる女性がめちゃめちゃ素敵です。美しい。

YouTubeで動画をみつけました。でもこの動画、バックの音楽を別のものに変えているのでがっかり。だいなしだ(泣)もとの映画では、流れているバックの音楽を含めて最高なんですけど。

■coffee and cigarettes - renee

何を読んでいるのかと思えばファッション雑誌ではなくて、銃のカタログらしきところもいい。

「RENEE」だけでなく、ほとんどの短編で雑談の映像とともにコーヒーに砂糖を入れるシーンを上から俯瞰して撮っているのですが、これがおしゃれです。さりげなく置かれた小物、テーブルクロスなどを含めてなんとなく映像に癒される。どこか待ってました的な映像です。まったりとした会話風景にこの映像が挿入されることで、なんとなく映像に締りができる。

飄々としてとぼけていながら笑えるシーンも多いのですが、「二コラ・テスラは、地球を1つの共鳴伝導体であると捉えた」というフレーズも2作品で繰り返されていて、これもなんだかわからないけどよかった(笑)大きなコイルのようなもの(テスラコイル)を持ち込んで、学生らしき男の子がガールフレンドにそれを実演してみせるシーンは面白かったです。

好奇心で調べてみたらテスラコイルってほんとうにあるんですね!以下のテスラコイルはでかい。迫力があります。

■BIGGG TESLA COIL OF OKLAHOMA

まあ、こんなものを喫茶店でばちばちやられたら店のひとは困惑ですが(苦笑)。

ビル・マーレイのへんてこな給仕役もよかった。これがいちばん笑いました。黒人ふたりを相手に、ほんとうに俳優のビル・マーレイとして登場する。ぼくはビル・マーレイが結構好きで、ソフィア・コッポラ監督なのですがトウキョーを舞台に年の差がある女性との淡い恋愛を描いた「ロスト・イン・トランスレーション」とか、ジャームッシュ監督の作品では、突然匿名の手紙で息子の存在を知らされて過去に付き合った女性に会いに行く「ブロークン・フラワーズ」なども楽しめました。

任侠ものの映画を観ると肩をいからせて歩きたくなるものですが、この映画を観たら、無性に喫茶店でコーヒーを飲みながらタバコを吸いたくなりました。日曜日、奥さんには内緒で喫茶店に行って吸ってこようかなー。不健全なものに過度に依存するのはよくないと思うのですが、たまにはいいよね。できればそこに談笑できる相手がいてくれるといいのだけれど。1月19日鑑賞。

■公式サイト
さすがにサイトもおしゃれです。全作品の紹介など充実しています。
http://coffee-c.com/
080119coffee_and_cigarets.JPG

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年1月14日

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トランスフォーマー

▼Cinema08-001:キカイという生命体との共生。

トランスフォーマー スペシャル・コレクターズ・エディショントランスフォーマー スペシャル・コレクターズ・エディション
シャイア・ラブーフ マイケル・ベイ タイリース・ギブソン


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子供たちは変身とか変形とか、合体が大好きです(ある意味、大人も合体は好きかもしれないけれども。照)。かつて遠い昔には子供であったぼくも、少年の頃には合体するロボットに憧れたものでした。マジンガーZとか、ゲッターロボとかになってしまうのですけどね。知っているひとは同世代ということで。

そもそも21世紀である現在、産業ロボット以外に消費者に手に入るロボットといえば玩具のようなものしか(いまのところは)ありませんが、それでもロボットは身近な存在になりつつあります。隔週でパーツが付いてきて、組み立てるとロボットになる、という雑誌まで販売されていて、機械モノ好きなぼくも購入しようと思ったのですが、家族の反対もあり(全部購入すると10万円ぐらいになる)結局のところ、腕の部分ぐらいまでしか手に入れていません。ふたりの息子たちが大人になる頃には、街をがしがしロボットくんが歩いていたりするのでしょうか。

長男くんが観たいといっていたので、借りてきた「トランスフォーマー」。地球外生命体である彼らはキカイの身体を持ち、地球のさまざまな乗り物に変形することができます。しかし、そこには悪いトランスフォーマーと良いトランスフォーマーがいて、彼等の星は悪いやつらに滅ぼされてしまった。そしてワルロボ(ディセプティコンズ)たちは地球を侵略するためにやってきて、そこで地球人とゼン(善)ロボ・・・オートボッツというらしい・・・との戦いが繰り広げられるわけです。

意外なことに、というか当たり前なのかもしれないけれど、長男くんはトランスフォーマーに詳しい。友達のひとりに、ものすごく詳しい子がいるらしく、これが隊長、これがなんとかだよ、と解説してくれる。しかしながら、DSやりながら観るのはどうだろうか、と父は思った。結局のところきみはロボット出てくるところしか観てないじゃん。

しかしながら、やはり小学生以上のひとたちも対象にしているので、さすがにキスシーンはなかったものの、マスとか童貞とかいう言葉が出てきて、ドウテイってどういう意味?とか聞かれたらどうしよう、しかし10歳なのでそろそろ教えてもいいか、いや自分はそんなこと父親から教わった記憶ないぞ、うーむどうすれば・・・などと父は苦悩した。そんな苦悩をよそに、まったく彼は聞いちゃいないようでした。ほっ。

とにかくCGが凄い。最初はロボットの全体像が見えないのだけれど、徐々に見せていく演出も憎い。けれどもビジュアルだけではなくて、好きな女の子とずーっと前から同じクラスなのに名前すら覚えてもらえなかった存在感のない主人公が、彼のひいじいさんが残した秘密によりロボットたちの戦いに巻き込まれてしまうのだけれど、戦いのなかで成長していき、素敵な女の子(ミーガン・フォックス。この子が結構かわいい)といい仲になってしまう伏線など、脚本もしっかりしていて好感を持てました。

それにしても、映像の動きが早すぎ(苦笑)。

変形しつつぐわんぐわん動き回るCGに、CG酔いしそうでした。カットの切り替えも早くて目が回る。先端のゲームをやっているひとたちには、これぐらいの動きは何でもないのでしょうか。おじさんには辛いぞ(泣)。でも、実写と思えるぐらいリアルな映像は十分に楽しめました。年々、CGによる映画は凄くなってきている気がします。特撮なんて言葉は遠い昔の言葉のようです。

ついでに、このごちゃごちゃしたメカニカルな感じがアメリカ的なんでしょうね。ぽてっとした体系のゴジラも輸出したところ、なんだかゴジラっぽくないスマートでリアリティのある巨大なトカゲになってしまった気がしますが、つるりんとしたロボットではなくて、ごちゃごちゃした感じがいいんだろうなあ。

シボレー・カマロ型のロボットに主人公と女の子は乗り込むのですが、このクルマはぼろいと口を滑らせてしまったばっかりに、自動車型のロボットが拗ねてしまうところに微笑ましいものがありました。けれども、自動車ロボットくんは自己再生のようなことをすることによって、かっこいい最新型の自動車に姿を変形するわけです。いいなあ。年齢を経てくたびれつつあるわたくしも、あんな風に変形できたらいいのに。というか、アンチエイジングの技術が進歩すると、そんな変形もできるのでしょうか。

身の回りのキカイと対話し、共生する時代がやってくるのかもしれません。機械とお話するのは寂しい気もするし、それってどうだ?というテクノロジーに対して批判精神も起こったりするのですが、結局のところ技術の進化が行き着く先は、人間の生活にキカイが溶け込むような世界ではないか。いまは冷たいハードウェアが多いのですが、モノ的にやわらかい素材を使うような工夫だけでなく、感情を持ったキカイが生まれたら、より人間と共生できるようになるかもしれません。

映画のなかで、自動車に変形するロボットを見て「きっと日本製だ」などと呟くシーンがあったのですが、世界的にも優秀な日本のモノづくりとしては、ロボットの分野で頑張ってほしいものです。

ちなみに「日本の玩具をもとに映画化したんだよね」とウンチクをぼくが語ったところ、「違うよ、これはアメリカがもとなんだよ」と切り返されました。ところがいまWikipediaで調べてみたら、やはりもとは日本の玩具のようではないか。ふっふっふっ。勝ったな。こんなところで勝ってもどうかと思うのだが、まあいいか。1月12日鑑賞。

■Transformers trailer

■公式サイト
http://www.transformers-movie.jp/top.html

投稿者: birdwing 日時: 15:30 | | トラックバック (0)

2007年11月19日

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パフューム ある人殺しの物語

▼永遠に残したい想いと香り、芸術家で科学者で殺人者で。

パフューム スタンダード・エディションパフューム スタンダード・エディション
ベン・ウィショー.レイチェル・ハード=ウッド.アラン・リックマン.ダスティン・ホフマン トム・ティクヴァ


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芸術と狂気が紙一重であるように、純粋さと人を殺める衝動も紙一重なのかもしれません。

ということを書いていて思い出したのは、茂木健一郎さんのレオナルド・ダ・ヴィンチ論です。ダヴィンチは絵画と解剖学という芸術と科学のふたつの視点から人間を眺めていたという観点ですが(いま本がどこ行っちゃったのか探せずに断念)、美や愛を排除した科学的な視点を持ちつつ芸術に関わったからこそ、崇高な作品が出来上がったのかもしれない。けれどもその天才的な感覚も行き過ぎると、変質的になる。

この映画は、18世紀、類まれな嗅覚を持って生れた主人公ジャン=バティスト・グルヌイユ(ベン・ウィショー)が、究極の香水を作るために次々と女性を殺めていくという物語です。腐敗したサカナとか汚物とか、ぐちゃぐちゃな映像ではじまっておげっと思ったのですが、その映像があるからこそ崇高な何かも感じられる(気がする)。汚れた世界で育ったグルヌイユが、貧困と悪臭のなかから人間の力を超えた香りを追求していく過程に興味を惹かれました。彼は科学者的ともいえます。

グルヌイユは幼少の頃から匂いをかぎ分ける力に優れていたのだけれど、皮なめし職人の家に仕えながら、出かけた町でひとりの女性の匂いにひきつけられ、彼女を殺してしまいます。このとき、死体から彼女の匂いが消えていくのが我慢できずに、自分が惹かれた女性の匂いを“永遠に残したい”と思うわけです。

ちょっとヘンタイ的なのですが、わかるなーと思ってしまったわたくしはどうしたものでしょう(苦笑)。というのはですね、文章を書くのも、音楽を作るのも、そして写真や映像を撮るのも、究極の動機付けは「感情もしくは場の雰囲気を永遠に残したい」という切ない願いがあるような気がするからです。もちろんそうじゃない動機で文章を書き、音楽を作り、写真や映像を撮るひともいるとは思うのですが、少なくともぼくは何かを残したいという衝動が創作の原動力になっている。しかも、できれば永遠に。

どんなものでも色褪せていくことを止められないじゃないですか。美しいクリスマスのイルミネーションも、あと1ヵ月後には消えてしまっている。どんなに思い焦がれて、通じ合っていたはずの愛情も冷めてしまうことがある。そもそもぼくは過剰に熱しやすく急速に冷めやすいタイプでもあり、だからこそほんわかといつまでも持続して香るような何かに憧れます。だからこそ、永遠に残しておきたいと思う。

主人公はちょっとしたきっかけから調香師(ダスティン・ホフマン)の家で働くことになるのだけれど、そこでも匂いを永遠に残す方法にこだわります。蒸留することで香りのもとを精製することを学ぶのですが、鉄やネコ(!)を蒸留して「匂いにならないじゃないか」と怒ったりする。そして、永遠に香りは残せないことを知って、気絶したりする。ピュアといえばピュアなんだけど、どこか常軌を逸している。そして、究極の香水を作るために次々と女性を殺める。香水の「材料」を抽出するために殺人を繰り返す。

調香師が語った言葉で、香りは音楽と似ているという表現も印象的でした。トップ、ミドル、ベース(違ったかな)という最初に感じる匂いから残り香として持続する匂いを組み合わせることで、和音が生まれる。これは聴覚を嗅覚の比喩として使っているのだけれど、五感には共通の何かがあるのかもしれません。

それから嗅覚と官能って、どこか通じるものがありますよね。というのは、オルガスムスに達する窒息感が、すばらしい匂いで息を止めてしまう感覚に通じるからではないか。ネタバレになるので詳しくは書きませんが、彼が作った究極の香水は、まるで麻薬のようにひとびとに効いて、そこに集まっていた群衆の怒りを消し去るばかりか、互いに愛し合うような状態にさせてしまい、えーとですね、なんか大乱交状態になっちゃうわけです(照)。あらららら、みたいな感じで、このシーンはどうだろうと思いましたが。

特に感動というわけではなかったのですが、映画的な深いトーンが気持ちよかった。そしてどちらかというとぼくは感覚的というよりも、考えさせられることの多い映画でした。11月18日鑑賞。

投稿者: birdwing 日時: 23:13 | | トラックバック (0)