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2012年11月18日

自分のなかにカリスマを。

クリスマスまでもうすぐ。イルミネーションが華やかな時期になってきました。

ツイッターを使って、ぼくは140文字×5ツイートの連投で考えたことを発信しています。朝5時に起きて考える+書くことを習慣にしたいとおもっているのですが、今月は朝の時間を取ることができず、夜に書いたこともありました。ほんとうは長文のエントリにしたいツイートもあるのですが、なかなか時間もなく、連投するだけで力尽きています。希望を述べてしまえば、この連投ツイートだけを別ブログで展開したい気持ちもあるのですが。うーむ。

とはいえ、月刊誌のような感覚で、連載コラムをまとめた記事として読んでいただけるといいかな、とおもっています。10月下旬~11月中旬に配信したもののなかからセレクトした10個のコラムです。どうぞ。


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■クリス・アンダーソンの仕事場にある未来。(11月13日)

クリス・アンダーソンの『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』 は読んでいてお尻がむずむずする本だった。どうも落ち着かない。『FREE』は概念論的で、ビットの世界の話が中心である。しかしながら『MAKERS』は小ロットで欲しいものが創れるモノ(アトム)のロングテールの実践だ。


4140815760MAKERS―21世紀の産業革命が始まる
クリス・アンダーソン 関美和
NHK出版 2012-10-23

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ラジコン飛行機を自動操縦できないかという趣味から、クリス・アンダーソンの試みは始まった。ソフトウェアはオープンソースのチカラを借りて次々と改良され、オープンハードウェアを使って基盤から部品まで作りはじめる。やがて彼の趣味は3Dロボティクスという立派な企業として収益をあげる。

レーザーカッター、3Dスキャナ、3Dプリンタ、CNC装置。そんな名前を聞くと、ぼくは製造業の中小企業の人間じゃないから、と腰が引ける。しかし家庭用3Dプリンタが登場する時代も近いという。キャラクターのフィギュアはファイルを入手して、自宅で3Dプリントができるような時代がくる。

ビットの世界のオープンソース化が、アトムの世界も変えようとしている。既製品の椅子を買うのではなく、目の前で3DのCADファイルをいじって、世界に1個だけのカスタムメイドの椅子を作ることが可能になる。アップロードされたデザインはさらに手が加えられていく。デザインの協創化である。

『MAKERS』の最後にはクリス・アンダーソンの自宅の作業場にあるハードウェア、ソフトウェアもリストアップされていた。半田ごてでパワーアンプなどを作った少年の頃がよみがえった。製造業といっても遠いものではない。ぼくらの子供の頃にそこにあった、あの世界がものづくりの原点だったのだ。


■自分のなかにカリスマを。(11月10日)

アドバイスには迂闊に従ってはいけない。というよりアドバイスなど話半分に聞いておいたほうがいい。たとえば「会社なんて辞めちゃえ」という無責任な忠告は、たいてい金銭的に問題のないひとが会社を辞めても生活できる場所から煽る意味も含めて投下している。あなたとは状況が違う他人の言葉である。

「人生なんて面白おかしく生きろ」という言葉も無責任だ。もしあなたが余命2週間で病の床に臥していたのであれば、その言葉のどこがアドバイスとして有効だろう。しかしながら、余命2週間のあなたがその言葉を発するのであれば、それはまた別のメッセージとして捉えられるかもしれない。

いまネットの界隈で若い人たちの支持を得ている方々の発言に対して疑問を感じるのは「わかりやすく浅い言葉が多過ぎないか」ということだ。深みがない。何も眉間に皺を寄せて難しく生きるのが正しい、エライというわけではないが、本質から目を背けて表層的に生きることは生を劣化させるとおもう。

というぼくが書いたアドバイスめいたものもまた、どうでもいいことだろう。大切なことは自律して考えること、自分なりの尺度をもって物事を測り、取捨選択できる能力を有することではないだろうか。カリスマ的なリーダーの言葉に寄り添いたくなる気持ちもわかるが、自分のなかにカリスマを持ちたい。

自由であるということは束縛から解き放たれることではない。みずからを解き放つことだ。他人の言葉を全面的に信用しているのも自分であり、他者からのやっかみに囚われているのも自分だ。すべて自分の覚悟に依る。「あのひとのアドバイスだから」を言い訳にしていないかよく考えたほうがいい。


■スーツマン。(10月24日)

通常、仕事中にはスーツを着用している。私服でも構わないよ、という職場でもスーツを着用していた。夏でも長袖の白いワイシャツにネクタイ。クールビズだからネクタイなんて外せばいいのに、といわれたけれどネクタイをきゅっと締めていた。上着も持っていた。それがぼくのスタイルだからだ。

いつもスーツ着用であるのは、仕事中に私服では気が緩んでしまうせいもある。私服よりスーツのほうが楽だからということもある。ネクタイを緩めたり外したとき飲むビールが美味いせいもある。しかし基本的にスーツが好きなのだ。憧れのビートルズがスーツ姿で音楽を演奏していたことにも影響を受けた。

リッケンバッカーのギター、ヘフナーのバイオリンベースを抱え、スーツ姿で刺激的なロックを奏でるビートルズスタイルが、かっこいいとおもった。シリコンバレーでベンチャー企業が隆盛していた頃、スーツ姿のIBMがバカにされ、ヒッピーみたいな格好がよしとされたが、ぼくはスーツ派だった。


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*Photo:Op de set van The Beatles (VARA, 1964).

ぼくの父親は公立高校の校長を勤めた男であるが、校長の職に就く時代の前から学校にはスーツで通っていた。ぱりっと糊のきいたワイシャツを着て、スーツ姿で決めた親父の背中はとても格好良かった。誇りだった。防虫剤であるナフタリンの匂いかもしれないが、凜としたスーツの匂いがぼくは好きだった。

古い映画で観る昭和初期のビジネスマンのスーツ姿もかっこいい。日本の男子はかつてはとても紳士的であったとおもうのだ。紳士的だが世界中が目を瞠る驚異的な経済成長を実現していた。スタイルから入ってもかなわないかもしれないが、ぼくも毎朝ネクタイを締めることで矜持を正しているつもりである。


■日本に足りないもの。(11月4日)

日本人は「製品・サービスを創った」後に「市場に投下する」ことは得意だ。しかし逆に「どんな市場が求められているか考える」ことから「製品・サービスを創る」ことは苦手なようだ。「マーケティングが弱い」といわれる所以である。将来的に拡大する市場を創造(想像)できない。

いまさらながらであるが、米国は逆である。こんな市場が求められているだろう、という発想のもとに製品やサービスを創り出す。スティーブ・ジョブズなどはマーケティングリサーチの結果さえ信用していなかったようだ。この市場はぜったいに必要だという信念が、ものづくりを支えていた。

日本の特技は「カイゼン」である。日本語も漢語を輸入して改善したものであり、多くの製品も改善によりすばらしいクオリティを維持することができた。カイゼン力がダメだとはおもわない。ただ、日本はマーケティング的な構想から市場創造をしなければならない時代に追い込まれているように感じる。

日本の文化は「組み合わせ」から生み出されることも多い。組み合わせは発想法のひとつとして最強の手法だ。モバイルや電子書籍と日本文化的な何か、伝統な日本の文化と新しい技術を組み合わせて、新しい市場を生み出すことができないだろうかとふと考える。多くのひとが考え抜いた道筋だろうけれども。

組み合わせから何かを生み出すという思考の枠自体が日本人的な感じがして、何かもやもやする。ほんとうは自律する「覚悟」が足りないのだろう。これで食っていく、日本の未来を変えるのはこれしかない、という覚悟で注力すれば、すくなくとも何らかの実績は残せるはず。足りないのは覚悟かもしれない。


■直感も創られる。(11月15日)

直感は侮れない。「直感的に」いいとおもった、目を奪われた、共感したというモノは、本質的に優れていることが多い。第一印象ですべてが決まるとはいわないが、購買意識にも大きな影響を与える。広告ではAIDMAの法則のうち主にAttention(注意)とInterest(関心)に関わる。

「需要創出(Demand Generation)」というマーケティング用語がある。見込み客の「獲得(Lead Generation)」「育成(Lead Nurturing)」「絞込み(Lead Qualification)」の段階をくくった言葉で、特に見込み客の育成は重要だ。

見込み客の育成(ナーチャリング)段階において、ソーシャルメディア(またはEarned Media)による製品やサービスの評価の醸成は、インバウンドマーケティング的にも重視すべき点だろう。このとき企業側のメッセージが明確に伝わることはもちろん「直感的な」良さが共有されると効果的だ。

「直感的な良さ」はプロダクトやサービスがもともと持っているものもあるかもしれないが、見込み客や消費者が評価する際に「育成」され、洗練されていくものもあるだろう。企業の意図とは全く別に、評価を通じて見込み客や消費者がプロダクトやサービスの直感的な良さを見出すこともあると考えている。

「直感も創られる」といったら大袈裟だろうか。従来はCMなどの広告が担う分野であったイメージやメッセージなどのクリエイティブが、ソーシャルメディアの評価のなかで醸成され、支持されるようになる時代だとおもう。われわれがプロダクトやサービスの直感的良さを磨き上げる時代でもある。


■社会実現のために。(11月16日)

就活や仕事をする上で「自己実現」は重要だといわれる。マズローの欲求5段階説では安全など低次元の欲求が満たされると、高次元の自己実現の欲求に向かうと解説される。しかし、坂口恭平氏の著書『独立国家のつくりかた』のなかで自己実現より「社会実現」をめざせと書かれていてガツンと打たれた。


4062881551独立国家のつくりかた (講談社現代新書)
坂口 恭平
講談社 2012-05-18

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「社会実現」。考えもしなかった。自殺者が少ない社会にしたいであるとか、子供たちの教育に恵まれた社会にしたいだとか、そんな理想をうっすらと考えることはある。しかし、どうせ無理だろう、と斜に構えて思考を打ち切ってしまう。自分のことでせいいっぱいだ。社会のことなど考える余裕もない。

「志」が低いのかもしれない。かつて高度成長期の日本には、がむしゃらだったけれど先進国に追いつこうという志があったのではないか。日本はその原動力のもとに躍進したのだが、現在は向かうべき目標を失っている気がする。政治のことも他人任せであり、みずから動く前に諦めてしまうことが多い。

個人が生きることでせいいっぱいの時代だが、津田大介氏の『ウェブで政治を動かす!』を読みながら、わずかではあるが日本の将来に対する希望を感じた。原発の再稼動反対のときのデモなど、日本を変えていこうとする新しいチカラはまだぼくらのなかに眠っている。その潜在能力を信じていたいとおもう。


B00A47EMP8ウェブで政治を動かす!
津田 大介
朝日新聞出版 2012-11-13

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いきなり社会を動かそうとおもっても絶望するばかりだ。志を高く掲げろといっても困ってしまう。できることから、ちいさなことからはじめればいい。社会のこと、政治に関心をもつというスタートでもよいだろう。機会は訪れている。自分の周辺1メートルの思考から脱皮することからはじめてみたい。


■感動の持続。(11月17日)

sora121115.jpg感動という言葉は「感」じて「動」くと書く。動かされるのはまず「こころ」だ。懐かしいひとに出会って、あるいは素晴らしいアートに出会って、こころが揺さぶられる。こころの動きは内部から身体の動きとしてぼくらを突き動かす。おもわず拍手したくなる、駆け寄って抱きしめたくなる、というように。

感性のレベルはひとそれぞれ違う。ぼくらが何をもって感動するかは千差万別である。いつもと同じ凡庸な青空にふと空って青いんだなと感動することもあれば、壮大なスペクタクル映画に涙を流して感動することもある。感性が磨耗すると感動を察知できなくなってしまうかもしれない。それは寂しい。

作品、つまり音楽や小説や詩や絵画やアートのようなものだけに感動するわけではない。スポーツ選手が記録を更新した瞬間、競技で勝利を勝ち取った瞬間にも感動する。政治家や経営者などリーダーによる力強いスピーチにも感動する。地球の果てに広がる荘厳な光景、憧れの地を旅して感動することもある。

ぼくらの感動はなかなか普遍化できない。持続することも難しい。ガツンときた感動も放っておけば衰退していく。忘れられる。だからアーティストは、多くのひとを感動させ、数千年に渡って感動を持続させるような芸術作品を残そうとするのだろう。刹那の感動を持続させるための営みは容易ではない。

最近何か感動したことがあったか。脳天を殴られる衝撃があったか。情報過多なネットの世界にも感動はある。ネットだからこそ感動を誰かに伝えることで感動のエコシステム(生態系)を循環させることだってできる。感動を創り出すことは難しいが、せめて感動の伝道師(エヴァンジェリスト)でありたい。


■エンターテイナーと批判。(11月2日)

ツイッターで楽しいとおもうときは、非公式リツイートの連続やメンションで、ひとつのアイディアに対して多様な角度から、こんなことも考えられる、こうも考えられると発想がつながって集積されていくとき。情報でもいい。音楽を聴いているときに、この曲もいいよ、と推薦されると嬉しい。

インターネット界隈の著名人の批判が、非公式リツイートでつながっていくこともある。批判といえば聞こえはいいが、悪口に過ぎない幼稚なものもある。読んでいて不快なことも多い。しかし本人たちは楽しいのだ。他人を楽しませているという意味では、批判されている著名人はエンターテイナーといえる。

自覚的であっても無自覚であっても、関心はもちろんその逆の批判を巻き起こすひとは「エンターテイナー」だ。極論や暴論で批判の渦を巻き起こすひとに対して、賢明な人間は相手にしない。本業に集中するようにしている。しかし、いいように煽られて、扇動者の批判にのめり込んでいくひともいる。

煽られて批判の渦にのめり込んでいくひとたちの模様がガラス張りの状態でみえてしまうから、押井守氏は『コミュニケーションは、要らない』という本でツイッターが愚かであると指摘されたのであろう。しかしながら、熱くなっている批判者の影に無数の沈黙している良識者がいることを忘れてはならない。


434498255Xコミュニケーションは、要らない (幻冬舎新書)
押井 守
幻冬舎 2012-03-30

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米フェイスブックのマーク・ダーシー氏が「ad:tech Tokyo 2012」に登壇して語った言葉をウェブの記事で読んだ。企業と消費者(BtoB)であっても消費者同士(CtoC)であっても、基本にあるのはローカルなコミュニケーションだ。人間同士のソーシャルな世界が基本である。


■引用におけるモラルとセンス。(11月12日)

文学や芸術は「引用の織物(テクスト)」であると言われる。ある物語の主人公の台詞に古典で著名なフレーズが引用されていたり、他の芸術作品からの文脈が流れ込んでいたり、幾重にも引用によって織られているという比喩である。何を引用するかによって作者の「教養」が問われるともいえるだろう。

ブログ界隈を彷徨っていたら「引用はパクリか」という言及に出会った。アフィリエイトのためにどこかのサイトから人気グッズの案内を拾ってコンテンツを作り、読んだことのない本を引用しているようなサイトは確かに読んでいて気分がよくない。自分の利益のために情報を勝手に拝借している印象がある。

個人的な感想としては、面白そうだから(載せとけばアフィリエイトで稼げそうだから)なんでも取り上げてしまえ、というブログは品がない。ブロガーが書く記事のモラルとセンスを問う。書籍を掲載するのであれば少なくとも読むべきだろうし、グッズなら買って使ってからブログに載せるのが誠実だろう。

一時期流行して急速に消えてしまったが「キュレーション」であっても、情報や作品や作家や社会的な文脈背景など時間をかけて調べたり勉強することが必要となる。二次情報を手軽に入手できる「まとめ」サイトも便利だが、ほんとうに信用できるのは一次情報、つまり「体験したかどうか」だとおもう。

デジタル関連の著作権は、クリエイティブ・コモンズのライセンス規約などのように、ある程度ゆるくしていただけるのが希望だ。だからといってリブログと大差ない安易な引用ばかりで書かれたブログは、ブロガーの編集能力のレベルが低すぎて読むに値しない。引用のモラルとセンスは重要である。


■語尾感覚。(11月18日)

先日、レンタルCDショップで中古CDのワゴンセールをやっていたので、松田聖子さんのCDを6枚も買ってしまった。通常あまり歌謡曲は聴かない。しかし久し振りに松田聖子さんのCDを聴いて、80年代の歌謡曲は凄いとおもった。最近のAKB48などにはない楽曲のクオリティがあると感じた。

松田聖子さんの曲を聴きながら感じたことは、松本隆氏が書いている歌詞の秀逸さと語尾の違和感だ。たとえば「Rock'n Rouge」。「動機が不純だわ」とあるけれど、その「だわ」に何か異質な感じがある。たぶんAKB48などが歌うとすれば「不純だよ」とか「不純だね」になるとおもう。



個人的な感覚であるが、女性言葉の「だわ」という語尾は廃れつつあるのではないだろうか。しかし、だからこそぼくのようなシニアに片足を突っ込んだ男には訴えるものがある。川上弘美さんの小説の文体にも同様なことを感じる。「だわよ」という語尾の表現があって、なんだかみょうに惹かれてしまった。

歌謡曲(いまならJ-POPなのか)のアイドルの歌詞から考察すると、かつては年齢差のある恋人どうしという物語世界があったのに対して、現在では友達感覚もしくは同年齢の恋人どうしという印象を感じる。これは私見であり、さまざまな歌詞が書かれているとおもうのだが、歌詞の世界に変化を感じた。

アイドルにどんな歌詞を歌わせるかということは時代の文脈を反映する。ぼくは日本語は変化するものであっていいと考えている。そもそも中国の言葉を輸入して改良したオリジナルではない言語であり、だからこそアイデンティティはないかもしれないが、フレキシビリティはある。日本語の変化は面白い。

投稿者 birdwing 日時: 08:01 | | トラックバック

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