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2010年11月28日

「考えない練習」 小池龍之介

▼book10-13:思考から離れて、囚われないこころへ。

4093881065考えない練習
小池 龍之介
小学館 2010-02-09

by G-Tools


考えるひとでありたい、問題を直視して考えつづける強靭な思考力を大切にしたい。考えるための方法論を確立したい。そう切望していた時期がありました。

思考停止せずに、とことこん考え抜くこと。狭い見解ではなく多角的で奥行きのある立体的な思考を獲得すること。思考力や洞察力が有能な証拠とおもい込んでいたせいかもしれませんね。哲学書に関心をもったのも、難解な哲学に考えるヒントがみつかるのではないかという期待を抱いたからです。

考える道筋を誤るとネガティブループに嵌まってしまったり、思考の遠心力によって問題の核心から逸れていってしまったり、際限なく考えていくうちに到達点を見失ったり。思考力を養うのは、そう簡単ではありませんでした。

そんな風に思考力に拘りがあったぼくなので、小池龍之介さんの「考えない練習」というタイトルを書店でみつけたとき、第一印象としては、若干の違和感がありました。

考えないことは手抜きじゃないか、とおもったからです。自分の価値観を否定されたようなショックもありました。どうせ自己啓発本にありがちな"シンプルに考えることで人生が楽になる"というたぐいの短絡的な内容なんだろうな、と勝手に想像しつつ手に取りました。

しかし、小池龍之介さんがこの本で書かれていたことは、若干ぼくの想像とは異なっていました。自分(の思考)なんてものは、ほんとうはどこにもないんだ、と禅の思想を背景に説かれていたのです。考えることに拘りつづけていたぼくには、その着眼点が意外に心地よかった。「考えない練習」は、どちらかといえば考えすぎの加熱したぼくのアタマを冷却し、すーっと癒してくれる本でした。

小池龍之介さんのいくつかの本で繰り返し述べられていますが、まずこころには3つの毒があるといいます(P.19)。

心の衝動エネルギーのうち、大きなものが「心の三つの毒」であるところの「欲」「怒り」「迷い」です。

これらの毒によって生まれる思考を、ぼくらは「ほんとうの自分」あるいは「自分の思考」と勘違いします。

たとえば「仕事で評価されたい」という欲。この欲に突き動かされていくつもの理由をその周辺に固めていきます。こんなに自分は頑張っているという自画自賛、他者との比較による優越感、もっと頑張らなくちゃという追い込み。現実に評価されない場合には「怒り」が生じます。怒りが他者に向かえば攻撃的な批判、自分に向かえば自己嫌悪になります。「こんな職場にいていいんだろうか」という「迷い」を生むことにもなります。

思考の毒にやられているときには、囚われた「欲」「怒り」「迷い」から逃れることができません。けれどもこの思い込みこそが問題。「苦」の刺激を快感と感じる思考に惑わされているだけだからです(P.173)。

私たちは「自分の意見は正しい、間違っていない」と思い込み、見解を常に補強したがる「見」の欲に支配されがちです。

思考と感情は違うと考えますが、人間である以上、思考は感情に根ざしたものが多いでしょう。いくらクールダウンしても、思考には感情の残滓が沈殿します。冷血だと非難されるスタートレックのミスター・スポックのように感情を抜いた論理的思考だけで考えることは人間には難しい。

純粋な思考だと考えていても、ぼくらの思考のなかには「欲」や「怒り」が混在することがあります。ブログやツイッター、あるいはコメントを振り返って、こんな発言はありませんか。

「オレって凄いんだぜ」
「過去、一流大学に在籍して一流会社に勤めていたんだ」
「こんなに有名なひとと知り合いなんだ」
「たくさんの本を、映画を、音楽を知っている」
「貴重なものをたくさん持っている」

いわゆる自分語りです。「超多忙」ということを誇示したいがためのつぶやきもあります。つぶやかなくてもいいことなのに、つぶやかないわけにはいきません。これらは「慢(プライド)」という「欲」から生じたことば群でしょう。

一方で、批判や反論、悪口や誹謗中傷は「怒り」に根ざしています。「あなたのここは間違っていますよ」という発言は、自分の意見を言っているようにみえますが、その根底には「こんなことも知らないのかよ。あんたよりオレのほうがよく知ってるんだよ」という自慢が隠されている(P.173)。

人は誰でも、誰かに勝ちたい、自分のことを認めてもらいたい、という衝動を潜在的に持っていますから、グロッキー状態にある人を見つけると、相手の話は大して聞かず、思考ノイズに乗っとられてすぐに意見をぶつけたくなるのです。

脊髄反射的な反応、ことばの揚げ足取りは自分の優位性を示すための攻撃的言及です。あるいは、同情も同様(P.175)。

他人に対してかわいそうと思える自分に興奮し、「かわいそうと思っている自分は良い人である」というイメージに浸っているのかもしれません。

重要なのは、「欲」「怒り」「迷い」に
無自覚なこと
です。

無自覚な「欲」「怒り」「迷い」はコントロールできない。翻弄されるだけです。この思考や感情を自覚する方法は、心理学の認知療法でいうところの「外在化」に通じるものがありますが、自分の感情を対象化して自分とは切り離してしまうことです(P.44/194)。

もし、ムカつく!と思ったら、すぐにこの「ムカつく!」をカギカッコでくくってしまうのです。
頭の中にやってくる思考ひとつひとつを見つめ、≪「○○」・・・・・・と思っている≫とカッコでくくってしまうことです。自分の感情を観察し、突き放すことです。

自分の思考を客観的にみつめることはいいですね。客観的にみつめることによって自覚できる。冷静にみつめると、自分の思考だとおもっていたことが実は枠組みに嵌まったステレオタイプなことばであるとわかることもあるでしょう。自分の思考パターンに気付くことを仏教の修行道では「慧」というようです(P.220)。

「慧」は「止観」の「観」、その集中状態で自己観察して、自分に組み込まれてしまっているパターンに気づくということです。

パターン化した思考をみつめ直し、実践的な行動指針を示していただいている内容もありました。謝罪、慈しみ、感謝をあらわすときの繊細な見解が参考になりました。

まずは謝罪から(P.47)。

本人は心から謝るつもりもないのにとりつくろって謝るなら、「機械的にしょうがなく謝っている感じ」が隠しきれていないため、相手に謝罪の意が伝わらないのです。
謝罪する必要がある時は、単に「申し訳ありません」「すみません」と言うのではなく「もう繰り返さないようにします」と言うことです。

ことばではなく今後の行動を約束することが大事。次の部分は、さらに繊細な観点であると感じました(P.121)。

電子メールでは、「お返事が遅れて、すみません」「すっかりご無沙汰してしまって、申し訳ありません」という言い訳から書き出す方が多いようです。
もちろん相手の性格にもよりますが、こうした書き方は相手のプライドをほんの少し、傷つけてしまうことがあるように思います。

定型語だから問題ないんじゃないの?ともおもいましたが、やや補足すると、自分の返事を待っていたと相手に感じさせることで、相手の自我を刺激してしまうことがある、とのこと。「なるべく相手の自我を刺激しないというのが、人間関係におけるたしなみです」と書かれていました。なるほど。

慈しみに関しては次のような部分に頷きました(P.170/172)。

実際のところ、困っている人にしてあげられる最も大事なことは、静かにしていてあげることです。黙って話を聞いてあげることです。
本人が苦しんでいるのに、それまでのすべてを肯定して、「あなたは何も悪くない」などと言うのは、その場しのぎの気休めでしかありません。

納得。慰めていたつもりが、ひとの弱みにつけ込んで、知らず知らずのうちに自分はこんなに凄いという自慢になっていることもありますね(苦笑)あるいは空虚な気休めのことばをかけている場合もあります。しかし、これは難しいところです。定型語であっても気休めであっても、ことばをかけてあげたほうがよいときがあるような気がしました。もちろん自覚の上で、ですが。

最後に感謝(P.64)。

たとえば、人に何かをいただいたら、「ありがとうございました」と言ったり書いたりするのではなく、「○○を美味しくいただきました」とか「家族で嬉しくいただきました」とするなど、「ありがとう」という言葉を使わずに感謝の意を伝える工夫を凝らすと、先方にも気持ちが伝わりやすくなります。
つまり、定型化していない言葉を選ぶ工夫をすればいいのです。

これも共感しました。「ありがとう」は気持ちのいいことばで乱発しがちですが、「何に」感謝しているかということは相手やシチュエーションによって異なるもの。抽象的な感謝より具体的な感謝の気持ちを受け止めるセンサーを働かせたい。感謝をきちんとみつめると、相手に合った繊細な表現になります。

「考えない」というのは決してぼーっとすることではなく、より現実を現実としてとらえることなのですね。冒頭(P.5)に、考えない練習とは「五感を研ぎ澄ませて実感を強めることにより、思考というヴァーチャルなものを乗り越える手立て」と書かれていました。

強い刺激に晒されがちな現代では、感性が磨耗します。その結果、マニュアル的な定型化された人間関係、排除の構造、思考の肥大化、過剰な情報とノイズによる混乱が生じているようにおもいます。

思考のなかに閉じ篭もるのではなく「いま」を自覚的に「生きる」ことの重要性を感じました。そしてそれは小池龍之介さんが述べているように、触感を味わいながら食べること、音に耳を澄ませること、きちんと現実をみつめることなど、五感による身体的な関わりが重要になるのではないでしょうか。

と、難しいことを書きましたが、小池龍之介さんは1978年生まれ、東京大学教養学部卒の僧侶さんです。お寺とカフェが合体した「iede cafe」を展開されたり、ウェブサイト「家出空間」では、かわいらしい4コママンガなども描かれています。他の本では「がーん」とか「・・・ッ」のような表現もあって、とても親しみやすい印象でした。

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■家出空間
http://iede.cc/
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投稿者 birdwing 日時: 18:46 | | トラックバック

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