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2012年9月23日

視点が変わると世界が変わる。


少年時代、自分の眺めている青空と他人の眺めている青空が別物ではないかという考えが浮かんで、愕然とした覚えがあります。なかなかこの感覚を誰かに伝えることができませんでした。青空は同じ青空ではないか、と言われてしまいそうで、胸のうちにそっとしまい込んでおきました。

欲張りなぼくは、自分の見ている世界だけでなく他人の見ている風景も眺めてみたいなあ、とよく考えていたものです。しかしながら、自分は自分であり、他人の視点からものをみることはできません。残念でした。どうしたら他人の視点を獲得することができるだろう。そんなことを真剣に考える少年でした。

自分にこだわり続けると視野は狭まるものですが、他人の視点に想像を働かせることによって、わずかばかりではありますが視野はひろがります。そんな「見る」ことをテーマに朝の連投ツイートを書いてみました。

9月10日~9月18日までのツイートをまとめて掲載します。若干、推敲などをしました。


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■青空を見上げる。(09月10日)

青空が好きだ。自宅から近い場所にぱあっと空が開ける場所があって、毎朝そこで空を見上げてから出掛けることが多かった。空は毎日違う顔をみせてくれた。雲が多い日もあれば、雲ひとつなく青空が広がっているときもある。ぽかんといくつかの雲が浮かんでいることもある。空の表情が楽しかった。

いつからか空の写真ばっかり撮っている。広角レンズの一眼レフであれば広い空をそのまま切り取ることができるのかもしれないが、自分が持っているデジタルカメラや携帯電話では空の一片しか記録できない。空のいちばん素敵な部分を撮ってパソコンにアーカイブする。フォルダが空の写真ばかりになった。

P1000238.jpg少年の頃、青空をテーマにした小説らしきものを書いたことがある。こんな物語だ。ある日気がつくと空に何かがぶら下がっている。横に引っ張ると、すぅーっと青空がファスナーのように開いて、その向こうに見知らぬ暗黒の世界がみえる。一気に引きおろすと主人公は別の世界にいる、というような掌編。

先日、書店でブルータスという雑誌をめくっていたら芸術家集団Chim↑Pomが取り上げられていた。随分有名になったものだなあとおもったが、彼等のことがあまり好きではない。というのはかつて、彼等は飛行機を使って広島の空に「ピカッ」と落書きをしたことがあったからだ。それが許せなかった。

幻想的な夕焼けをみた日。明日は晴れるだろうとおもったら、やはり一面の青空だった。季節によって青空の深みにも違いが出る。飛行機の上から眺めた青空は、とてつもなく青かった。トウキョーと地方の青空の色も違うだろう。遠く離れた国も違う。ぼくときみが眺める青空さえ異なっていて、それがいい。


■見えないもの。(9月11日)

トウキョーでは星が見えないとおもっていた。植物も少ないし、昆虫もいないとおもっていた。ところが、わずかであったとしてもトウキョーでは星はみえる。田舎と比べたら少ないかもしれないが、植物だってたくさんあるし昆虫も生活を営んでいる。先入観が星や植物や昆虫を見えなくさせているのだ。

「見ない」と「見えない」は違う。「見ない」は見ることができるはずのものから意識的に視線を外すことに対して、「見えない」は無意識のうちに見ていない。見えない世界は、そのひとのなかに存在しない。ぼくらの世界は個々人が見えているものしか信用しない。見えないものは世界から抹殺される。

インターネットの世界では「スルー力」というものが強調される。自分にとって不快であったり気に障る情報は、さっと目を通しても深く関わらずにやり過ごすことである。その発言に関わることを拒否するわけだ。情報を無視しているのような印象もあるが、陰湿な負の言語が飛び交うネットの世界では賢い。

「見る」には「視る」「診る」「看る」「観る」などの漢字もある。「視る」は調べる、「診る」は診断、「看る」は世話をする、「観る」は見物することである。メラビアンの法則というコミュニケーションについて調べた結果がある。他人に最も影響を与えるのは「視覚情報」=Visual」だそうだ。以下、Wikipediaから引用する。

この研究は好意・反感などの態度や感情のコミュニケーションについてを扱う実験である。感情や態度について矛盾したメッセージが発せられたときの人の受けとめ方について、人の行動が他人にどのように影響を及ぼすかというと、話の内容などの言語情報が7%、口調や話の早さなどの聴覚情報が38%、見た目などの視覚情報が55%の割合であった。この割合から「7-38-55のルール」とも言われる。「言語情報=Verbal」「聴覚情報=Vocal」「視覚情報=Visual」の頭文字を取って「3Vの法則」ともいわれている。

他人や社会の悪いところは「見えない」ほうがしあわせなことがある。あまりに繊細では自分が傷付きやすくなる。ときには自分の感度を劣化させて「見えない」ことも自分を守る上で大切になる。何もかも見えればいいわけではない。見えることで苦痛ならば、見なくてもいいものは見えなくていい。


■ホークアイ。(9月12日)

職場に置いてあった大前研一氏とアタッカーズビジネススクール編著の『決定版!「ベンチャー起業」実践教本』を借りて読んでいたところ、「ホークアイ」という言葉が使われていた。上空から獲物を狙う鷹のように、地上全体を俯瞰(ふかん)する視点ということ。事業計画のプランニングで重要だという。


4833418398決定版!「ベンチャー起業」実戦教本
大前 研一 アタッカーズビジネススクール 織山和久 炭谷俊樹 森本晴久 竹内弘高 小川政信 高橋俊介 千賀秀信 平山達大
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かつて「鳥の視界とイヌの視界」という比喩で、地上を俯瞰した視線の獲得をめざしたい、という自分の理想を書いた。地上を歩くイヌは路上のあれこれを詳しく見ることができるが、道の先に何があるか見通すことができない。しかし、地上から遠く離れた上空を飛ぶ鳥は道の全体を見渡すことができる。

「木を見て森を見ず」という言葉もある。物事の細部にばかりとらわれて、全体を見失うことである。木を見るのがイヌの視線であるとすれば、森を見るのは鳥の視線、つまりホークアイといえる。経営的な言葉を使えば、木を見るのは現場の担当者の視点であり、森を見るのは経営者の視点といえるだろう。

部分を見る/全体を見るという対比を時間に応用すれば、部分をみる思考は「いま」を生きること、全体を見るのは「いま」を含む過去と未来全体を見渡すことになる。また、この対比を社会に当て嵌めると、部分を見るのは住んでいる地方行政を見ること、全体を見るのは国家全体の政治を見ることになる。

鷹は人間の約8倍の視力を持っているといわれる。上空1,500メートルから獲物を見極めることができるそうだ。ホークアイとは全体を見渡すとともにターゲットを絞り込んで獲物を注視している。「森」だけでなく「木」もみている。鷹のような視界をもちたい。鷹のようにゆったりと上空を飛翔したい。


■見る/見られる関係。(9月13日)

ひとは他者を「見る」と同時に「見られる」存在でもある。登壇する講師は複数の参加者から見られている。ゴシップで話題になった政治家や芸能人も見られている。見る/見られる関係のうち、どちらが優位かといえば「見る」立場ではないだろうか。受動的であることからも「見られる」立場のほうが弱い。

インターネットではROM(Read Only Membe)という和製英語もある。掲示板やSNSを読むだけで書き込まない人物である。ROMしている人間には書き込む勇気のない興味本位の存在もあるかもしれないが、良識があって語らないひともいる。書き込まないユーザーの存在は「見えない」。

監視という言葉もある。警察やセキュリティーの面から常に相手の状況を見張ることをいう。インターネットで目立つ発言をするひとは衆人監視の状況にあるといえるだろう。問題発言は逐次取り上げられて拡散する。揚げ足を取られることもある。暴力的な視線で見られたり批判されたりすることもある。

見られる立場は弱いかもしれないが、女性やアイドルたちは視線で磨かれることがある。「見られている」ことが彼女たちをうつくしくする。視線が彼女たちを研磨する。見られていることは緊張感を生んだり、演出の仕方をより洗練させていく。見られていると意識すれば、品のない言動は慎むようにもなる。

どんな時代にも若いひとたちは自意識過剰なものだが、見られていることを過剰に意識するとたいへん疲れるものである。それほど他人は自分のことを見ていないことも多い。自分像を勝手に作り上げて「俺ってこういうやつなんだよね」と言及するのは苦しい。他人の視線を意識しないぐらい傍若無人でいい。


■視点が変わると世界が変わる。(9月14日)

zu120923_re.jpgコップに半分水が入っている。「まだ半分水がある」と考えることができる一方で「もう半分しか水がない」と考えることもできる。ポジティブ思考の例に使われる比喩だが、ぼくは両方の考え方ができるほうがいいとおもう。ネガティブだったとしても「もう半分しか」と考えなければいけない場合もある。

マーケティングリサーチの結果で80%が「はい」と答えて残り20%が「いいえ」と答えた場合も同様だ。80%に着目して結果を考察する場合と20%に着目して考察する場合では、考察の方向がまったく異なってくる。どちらが正解とは一概には言えない。選択と考察にマーケッターのセンスが問われる。

長所は裏返せば短所になる。協調性が高いということはリーダーシップに欠けることかもしれない。短所は裏返せば長所になる。細部にばかり拘るということは慎重であるということかもしれない。自己否定ばかりするひとは肯定的に考えてみたらどうだろう。認知の歪みで自分を貶めているかもしれない。

視点が変わると世界が変わる。自分が見ている世界が絶対であるという思考の拘束を解き放ってみよう。もっと違う世界がそこに現れることがある。他者の見ている世界を批判せずに、どうしてそういう見方ができるのか、理解を試みてみよう。他者の視点を獲得すれば自分の視野はもっと広がるものである。

世界にはさまざまな見方と解釈があり、それぞれが正解であり、かつ正解はない。正解があるとすれば、多くのオプション(選択肢)から「自分は」何を選ぶかということだ。他者の視点に惑わされたり迎合するのではなく、視野狭窄な自分の視点に拘るのではなく。客観性と自律性を持ちえた視点は尊い。


■音に色を見るひとたち。(9月15日)

「心眼」という言葉がある。目に見えないものを見抜く心の目のことである。武術などでは相手の技や間合いを心眼で見抜くともいわれる。オカルト的に信じるわけではないが、確かに心の目はある。動物的な勘と言い換えられるかもしれない。術を究めた人間にしかできない境地であるとも考えられる。

音に色をみることができるひとがいる。「共感覚(synesthesia)」と呼ばれる特殊な知覚現象である。音に色をみることは「色聴」と呼ばれ、絶対音感をもつひとに多いらしい。作曲家でピアニストのオリヴィエ・メシアンは共感覚の持ち主で、連想する色を楽譜に書き込むことも多かったらしい。

最相葉月著『絶対音感』によると、オリヴィエ・メシアンは「ド・レ・ミ♭・ミ・ファ♯・ソ・ラ♭・シ♭・シの音程配列ではグレーの奥から金が反射してきて、オレンジ色の粒が散らばって、そこに黄金色に輝いている濃い目のクリーム色」という色がみえるそうだ。音階とともに変化する色が興味深い。


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ぼくらは聴覚、視覚などの五感を別々に分けて考えている。しかしインプットする器官は違っていたとしても、情報を処理する脳はひとつである。だから、音を聴いて色が見えること、色を見て音を感じることは決して特殊とはいえないとおもう。潜在的にぼくらはそのような能力を持っているのではないか。

「共感覚(synesthesia)」の持ち主は、書かれた言葉に色を見ることもあるという。数字にも色が見えるらしい。共感覚のない自分には、共感覚の持ち主に世界がどのように見えるのかさっぱりわからないが、きっと世界はいま見ている世界以上に色彩に溢れているのだろう。なんだか悔しい。


■見守る役割。(9月18日)

親が子供に接するとき、いちばん大切なことは教えることでも褒めることでも叱ることでもないとおもう。見守ることが最も大切ではないか。きちんときみのことを見ているよ、きみのことをわかっているよ、ということ。無関心ではなく、しっかり気にかけていることが大切ではないだろうか。

うわの空で接していてはいけない。空返事をしてもいけない。「ねえねえ」と子供から呼ばれたときに、しっかり向き合い、子供がやっていることを認めてあげる。「そうだね、これが好きなんだよね」とか「上手く描けたね」という言葉をかけてあげるだけで、子供の満足そうな顔は随分違うものだ。

子供のことを見守るだけなのに、これが意外と難しい。頓珍漢な答えをしてしまって「違うよ」と子供からそっぽを向かれてしまうこともある。見守ることは理解することでもある。ただ見ているだけでも子供には十分に想いが伝わるのだが、子供が何をしたがっているのかを理解することは大切。

教師と生徒も同様だろう。叱ることができない、教えることができない教師が増えているような気がするが、最低でも子供たちのことを見守っていてほしい。見て見ぬ振りをするのではない。きちんと直視してほしい。子供たちのいじめを加速させるのは、見守る教師の視線が足りないからではないだろうか。

教壇の上から見下すのではない。子供たちの視線に降りて見守ること。家庭でも同様だろう。子供たちの視点を理解しながら、その視点の先にあるものを見守ること。監視することではない。やさしさをもって見守る大人たちが増えてほしい。そうすれば次の世代の子供たちを育むことができるとおもうのだ。

投稿者 birdwing 日時: 10:05 | | トラックバック

2012年9月15日

これからのマーケティングを考える。

個人的な印象に過ぎないが、数年前と比較して電車のなかで携帯電話の画面をみているひとが少なくなったのではないだろうか。

数年前には、誰もが電車のなかで携帯電話の画面をみながら、メールやSNSやサイトなどを閲覧していたり、指を動かして何かを書き込んでいた。もちろんいまでもそういうひとは見かけるが、圧倒的に少なくなった。では何をしているかというと、本を――電子書籍ではない――読んでいる。だからといって、モバイルの時代が終わったとはおもわない。スマートフォンなどの一時的なブームは過ぎ去って、その利用は浸透段階を迎えているのだろう。

一部のジャーナリストは、マスコミなどで騒がれていたブームが沈静化すると、すぐに「時代は終わった」といいたがる。「TVが崩壊」したり、「新聞が消滅」したり、メディアの終焉を告げたがる。もちろん広告の売上が減少し、一部のメディアは撤退を余儀なくされ規模も縮小したかもしれないが、まだTVも残っている。新聞もある。


4798111147テレビCM崩壊 マス広告の終焉と動き始めたマーケティング2.0
Joseph Jaffe 織田 浩一
翔泳社 2006-07-22

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41666070812011年新聞・テレビ消滅 (文春新書)
佐々木 俊尚
文藝春秋 2009-07

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2004年は「ブログ元年」、2010年には「ソーシャルメディア(マーケティング)元年」といわれていた。ツイッターは爆発的に知られるようになり、フェイスブックもつづいた。しかし、最近では沈静化しているようにみえる。これも同様にソーシャルメディアの時代が終わったわけではない。ソーシャルメディアが浸透化し、メディアの淘汰も含めて使われるようになったからであると考える。

ソーシャルに対する動きは3.11の大震災そして脱原発のデモ以降、止められないものになったのではないだろうか。それは香山リカ氏が『〈不安な時代〉の精神病理』で言うところの「うつ病にかかっている国」を抜け出し、内向的な認知の歪みや視野狭窄をあらためて、外部へ、社会実現のために向かおうとしている傾向にあるからだと考える。

4062881012〈不安な時代〉の精神病理 (講談社現代新書)
香山 リカ
講談社 2011-04-15

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ところで、ソーシャルメディアの時代という表現はともかく、ソーシャルメディアにマーケティングが付加されて、ソーシャルメディアマーケティングといわれるとき、ぼくは何か違和感を抱かずにはいられない。バズマーケティングやコンテンツマーケティングや、いろいろなマーケティングが流行り言葉のように使われてきた。しかし、ソーシャルメディアを使いこなそう試みる「個」人として、ぼくは企業のマーケティングに利用されてしまうのは納得がいかない。抵抗がある。

どういうことなのか考察してみたい。


■ マーケティングとは何か。

基本的な知識から確認していきたい。マーケティングとは何か、ということだ。アメリカ・マーケティング協会(AMA;American Marketing Association)の2007年の定義をまず引用する。「活動」「制度」「プロセス」と表現されている。

マーケティングとは、顧客、依頼人、パートナー、社会全体にとって価値のある提供物を創造・伝達・配達・交換するための活動であり、一連の制度、そしてプロセスである。

Marketing is the activity, set of institutions, and processes for creating, communicating, delivering, and exchanging offerings that have value for customers, clients, partners, and society at large.

1990年の日本マーケティング協会の定義は次のようになっている。

マーケティングとは、企業および他の組織がグローバルな視野に立ち、顧客との相互理解を得ながら、公正な競争を通じて行う市場創造のための総合的活動である。

「総合的活動」という言葉が使われている。また、「市場創造」とあるがこれは「"market(市場)"+"ing (創ること、継続的な商品サービスの提供)"」を日本語として置き換えたものだとおもわれる。経営機能のなかでマーケティング活動の本質を「顧客と市場の創造」であると喝破したのは、ピーター・ドラッカーといわれ、その言葉も背景にあると考えられる(参考:小川孔輔著『マーケティング入門』。)。


4532133696マネジメント・テキスト マーケティング入門
小川 孔輔
日本経済新聞出版社 2009-07-10

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「活動」と呼ばれると幅広い。しかしながら、誤解されやすいのは「広告宣伝活動」(advertising)、「販売促進活動」(sales promotion)のようないわるマーケティング・コミュニケーション、あるいは「市場調査」(market research)がマーケティングと考えられていることである。

商品やサービスが売れる仕組みを作るという「営業活動」(selling)に着目すると、マーケティングは「売れる仕組みづくり」と呼ばれる。中小企業の経営者などにはわかりやすく、好まれる表現だろう。しかしながら、売れること、つまり利益を生む活動だけがマーケティングではない。非営利組織にもマーケティング活動はある。

売り手側からの視点からマーケティングの4Pといえば、Product(製品)、Price(価格)、Place(流通)、Promotion(プロモーション)のことをいう。このうち、「広告宣伝活動」や「販売促進活動」は4つ目のプロモーションのことに焦点を絞り込んでいて、広告代理店などではこの部分を扱う。しかしながら、どのように顧客に届けるかというPlace(流通)、要するに「ロジスティックス」(business logistics)もマーケティングの一部である。

One to Oneマーケティングやリレーションシップマーケティングの登場により、「顧客との関係性(リレーションシップ)構築」と「顧客維持(リテンション)」の側面が強調されたことがマーケティングの考え方の転換になったようだ。市場を拡大するのではなく、ひとりの顧客が生涯ある製品を買い続けるような関係性の深さに注目した。

広報活動(PR:Public Relations)と違って、マーケティング・コミュニケーションは費用対効果が重要になる。つまり「売れる仕組みづくり」という言葉が端的にあらわすように、「儲ける」ための活動と捉えられがちだ。売上が増加してこそ、マーケティングの意義があると一般的に考えられている。

ソーシャルメディアのマーケティングを考えるときに納得がいかないのはこの部分で、個人的には、ソーシャルメディア上で流通するのは非貨幣経済的な価値だと考えている。タラ・ハントの『ツイッターノミクス』などを読んで、自分なりに考えてきたソーシャルメディアの在り方である。


4163724001ツイッターノミクス TwitterNomics
タラ・ハント 津田 大介(解説) 村井 章子
文藝春秋 2010-03-11

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利益を追求するマーケティング活動はソーシャルメディア的ではないと感じる。もちろん企業や製品のみえないブランド価値などを付加するものでもあるかもしれないのだが。


■ ランディングページの拡張。

続いて「顧客と市場の創造」というマーケティングの意義から「集客」について考える。特にWebマーケティングの分野を取り上げる。

Webサイトに「集客」するためにSEO(Search Engine Optimization:検索エンジン最適化)やSEM(Search Engine Marketing)という手法が取られてきた。特定の検索エンジンでより上位に表示されるようにキーワードを書き換えたり、メタタグと呼ばれるHTMLの記述を充実させたり、Webサイトの構造自体を見直したりする。

このとき訪問者が最初に訪れるページを「訪問者が着地するページ」という意味でランディングページ(landing pages)と呼び、このページを工夫し、会員登録や商品購入など取引の割合(コンバーション・レート)を高める施策のことをLPO(Landing Page Optimization:ランディングページ最適化)と呼んだ。

しかしながら、サイトの内部コンテンツだけでは集客できない場合がある。そこで、例えばニュースサイトなどで自社サイトの記事を掲載し、そのニュースサイトの会員を自社サイトへ呼び込む手法も取られる。これはランディングページを外部サイトに用いた例といえる。つまり、アクセス数が多いサイト、あらかじめ会員を多数有しているサイトを利用することで自社サイトへの導線とするわけである。

さらにソーシャルメディアの登場により、ブログやSNS、掲示板などで自社の製品などが取り上げられるようになると、そのページをランディングページのように扱い、ソーシャルメディアから自社サイトへの導線を作るようになった。これをSMO(Social Media Optimization:ソーシャルメディア最適化)と呼ぶ。


スライド1.JPG


このように訪問者が検索などによって最初に訪れるランディングページは、自社サイト内のコンテンツから、外部のニュースサイト、ソーシャルメディアを活用するように、その領域を広めてきた。今後はOtoO(オンライン・トゥ・オフライン)の考え方を重視する傾向もあり、ソーシャルメディアなどの集客を店舗などのオフラインの場にどのような導線を作るかが重視されるのではないだろうか。

とはいえ、これらのランディングページによる集客のネックは、いずれもが「待ちの姿勢」であることが考えられる。広告のように企業から配信するものではない。押し付けがましい広告の信頼度が低下し、ソーシャルメディアによって賢い消費者が生まれたせいではあるが、企業にとっては消費者を製品に導く施策を「管理」しにくい時代なのである。


■ LTV(顧客生涯価値)の考え方。

マーケティングの目的として「集客」を確認したが、ドン・ペパーズとマーサ・ロジャーズにより提唱されたOne to Oneマーケティングやリレーションシップマーケティングで重要とされていたLTV(顧客生涯価値)の考え方を振り返ってみたい。ソーシャルメディアは、集客よりむしろ顧客を維持し、継続的に価値を醸成していくことに意義があると考える。


447850119XONE to ONEマーケティング―顧客リレーションシップ戦略
ドン ペパーズ マーサ ロジャーズ Don Peppers
ダイヤモンド社 1995-03

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この考え方が登場する以前は、市場の顧客をどれだけ獲得するか、ということが重視されていた。しかし、One to Oneマーケティングやリレーションシップマーケティングの登場により、ひとりの顧客にどれだけ自社製品を買わせるか、ファンにさせるかということが重視されるようになった。要するに、顧客の維持(リテンション)である。

市場の拡大を縦、時間の推移による顧客の購入頻度を横に軸を取ると、従来のマーケティングでは縦の拡がりを重視したことに対して、One to Oneマーケティングやリレーションシップマーケティングでは横の継続(維持)を重視する。顧客指向であるともいえる。

ところがこのマーケティングがうまくいかなかった理由は、池田紀行氏の『キズナのマーケティング ソーシャルメディアが切り拓くマーケティング新時代』の言葉を借りれば、「キズナ」を形成できなかった点にあるだろう。


4048685619キズナのマーケティング ソーシャルメディアが切り拓くマーケティング新時代 (アスキー新書)
池田 紀行
アスキー・メディアワークス 2010-04-09

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どういうことかというと、システムに任せて、定期的に個別にカスタマイズされたメールを配信すれば、関係づくり(リレーションシップ)が構築できるかというとそうではない。かえって冷淡で、煩わしく感じさせるだけである。システムではなく、ほんとうに企業と顧客の信頼を構築するような人間的なつながりがないと上手くいかない。

多くのシステム会社がOne to Oneマーケティングやリレーションシップマーケティングを謳いながら、実は定期的なメール配信システム、問い合わせの自動化システムを押し売りしていた。システムにはほんとうの意味での「リレーションシップ」はない。人間的なつながりとはどういうことかを無視して、システムに依存しても関係づくりは実現できない。

よく言われることだが、近所の八百屋さんのほうが理論は知らなくてもOne to Oneマーケティングやリレーションシップマーケティングを実践している。ひとりひとりのお客さんの名前を覚え、何を買いたがっているかを熟知し、今日の取れたての野菜をおすすめをする。Amazonのようなレコメンデーション(推薦)機能は便利だが、どうしても機械的な印象を受ける。

その弱点を突破できなかったところがOne to Oneマーケティングやリレーションシップマーケティングの限界であり、企業のマーケティングがソーシャルメディアに推移した理由であると考えられる。


■ インバウンドとアウトバウンド。

企業と顧客の関係づくりという意味で、「インバウンド(inbound)」と「アウトバウンド(outbound)」と呼ばれる関係性のベクトルを整理したい。最近では「インバウンドマーケティング」という言葉も使われるが、早急にマーケティングを論じるのではなく、古くからあるコールセンター(またはメール機能に特化したコンタクトセンター)で使われた用語を振り返ってみる。

一般的に、コールセンターで「インバウンド」といえば問い合わせ対応だ。顧客からの製品に対する問い合わせ、質問、クレーム対応を含めて窓口として電話・FAX・メールアドレスなどを設置する。そしてデータベースに格納した顧客情報と照会して、最適な回答を迅速に提示する。一方でアウトバウンドといえば営業活動といってよい。自宅にインターネット回線の開設や保険などの売り込みの電話がかかってくることがあるが、そうしたものはアウトバウンドコールと呼ばれる。


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インバウンドの問い合わせ窓口が飽和したからとも考えられるが、一時期、アウトバウンドコールをマーケティング活動として請け負う会社が多くあった。要するに営業のアウトソーシングである。成功報酬型の仕組みもあった。つまり、アポイントを取った数によって依頼先から費用をいただき、アポイントを取った顧客リストは依頼先の企業に伝える。

アウトバウンドコールは当初、数を重視していたが、その後は内容を重視するようになった。つまり短い時間の電話で切ってしまうのではなく、なるべく長い時間通話して、競合の状況、快諾がいただけないのであればその理由など情報収集と既存顧客のアフターフォローなどを行うスタイルに変わった。ヒアリングを充実させたという意味ではリサーチ業務に近づいたといえる。

とはいえ、インバウンドは企業の外部から内部に向けた受身型、アウトバウンドは企業から外部に対する能動型という印象は否めない。そしてアウトバウンドは押し売り営業という印象がある。そのことを確認しておく。


■インバウンドマーケティング批判。

最近よく聞くようになったのが「インバウンドマーケティング」である。米国では一部で盛り上がっているようだ。コールセンターのインバウンド/アウトバウンドの対比から考えると、押し付けがましくなく謙虚であるような印象も受けるが、マーケティング活動としてはいくつもの落とし穴があるのではないか。列記して考察してみたい。

1)「get found(見つけられる)」では遅すぎる。

インバウンドマーケティングで核となるコンセプトは「get found(見つけられる)」といえるだろう。SEOなど検索で真っ先に見つけられることと同様、法人や消費者から見つけられることを重視している。しかし、見つけられるまで待っていていいのだろうか? もちろん、そのための施策は行うとしても。

見つけられるためには、まず企業からの「アウトバウンド」による情報提供が必要である。さらに言及するならば、マーケティングにおいて4Pのうちのプロモーションが優れていても、製品やサービス(Product)が優れていなければ情報は「見つけられない」。広告代理店などにとっては手の打ちようのない問題かもしれないが、重要なのはプロダクトである。

ゲーミフィケーション(gamification)というゲームのメカニズムをマーケティングに使う試みも注目されている。楽しい体験をさせることによって顧客に製品やサービスを印象付ける。だが、楽しければ顧客は満足して製品やサービスを購入するほど愚かではないだろう。楽しい体験は楽しかったと認識するとして、やはり製品やサービスを購入するためには賢く吟味するはずだ。

したがって、認知手段のマーケティングとして考えるならば「get found(見つけられる)」という消極的な姿勢自体は弱すぎる。著名な企業であればブランドが確立しているので、押し付けなくても見つけてもらうことができるだろう。しかしながら、まだブランドが確立していない、これから新商品やサービスを展開していく企業としてはこの「待ち」の施策は効果的ではない。

有効な企業もあるかもしれないが、まず「インバウンド」による待ちの姿勢自体が注目されない恐れがあることを指摘したい。

2)ソーシャルメディアは「媒体」ではない。

「get found(見つけられる)」のためにインバウンドマーケティングが活用するのがソーシャルメディアのようだが、従来のメディアのターゲット層が合わなかったり、適切なサイズがないからインバウンドマーケティングを使うという代替的な発想には疑問を感じる。どういうことかというと、すべてが「広告(advertising)」の発想を基盤にしているが、ソーシャルメディアは広告媒体、マス4媒体という意味での「媒体」ではないからだ。

繰り返すが、ソーシャルメディアは貨幣経済的な価値ではなく、非貨幣経済的な価値があるものだと考えている。したがって購入することもできなければ、予算をかけるというものではない。

メディアという用語が使われているため、新聞・ラジオ・テレビ・雑誌というマス4媒体とインターネットは同じ尺度で語られがちであり、電通などの媒体調査などでも比較対象になっている。しかし、インターネットのうちペイドメディア(広告)やオウンドメディア(自社メディア)は別として、ソーシャルメディアはまったく別の性質を持つのではないだろうか。

古きよき広告時代にしがみついているようなアドマンに進言したいのだが、もう広告が権威を保っている時代ではない。キャッチコピーやイメージばかりの広告は信頼されていない。一度、古い広告的な発想をリセットしたほうがよい。ソーシャルメディアの価値は、オールドメディアの枠組みではとらえられないものに変わっている。その現実を直視できなければソーシャルメディアを存分に活用できない。

ソーシャルメディアはメディアバイイング、「媒体」を買う発想ではどうにもならないものであり、だからこそ価値があるのだ。

3)「個」客は管理できない。

広告は管理できた。インターネット広告は費用対効果を数値で把握することができた。しかし、ソーシャルメディアを形成する「個」は基本的に管理できないものである。企業に飼いならされるようであれば、ソーシャルメディアを担う「個」とはいえない。企業や製品の広報的検閲から逃れて、自由に発言できるからこそソーシャルメディアなのである。

アドボカシー・マーケティング(Advocacy Marketing)という考え方がある。目先の利益を考えずに顧客にとって有益であることを優先させる手法である。ときには競合先の企業の製品やサービスやおススメすることもあるという。しかしながら、それが結局は企業の利益に貢献するという点で、どこか計画的なものさえ感じさせる。

炎上させれば「集客」はできるが、その手法で集めたひとびとはネガティブな意見に反応する野次馬ばかりで、法人としては行うべき施策ではない。一方で、面白いものは話題を集めやすいが、だからといって購入に結びつくとも限らない。広告はもちろん、バズやバイラルなどの口コミですら簡単に信用しないほど顧客は賢くなっている。

いっきに良い製品やサービスの認知度を上げることは、ソーシャルメディアといえども不可能だ。良い製品やサービスはじわじわと浸透し、継続的に支持されていくものである。時間のかかるファンの熟成に耐えられない企業はインバウンドマーケティングを維持できない。早急に結果を求める企業には向いていない。

従来のインターネット広告のように即効性のある効果を期待し、顧客を管理できると考えている企業にはインバウンドマーケティングは向かないだろう。また、それだけの資金や体力のない企業にも向かない。したがって、インバウンドマーケティングはエンタープライズ(大手企業)向けかもしれないが、従来のマーケティング手法との違いを見出すことは難しい。


■それぞれのミッション。

考察してきたことをもとに、これからソーシャルメディアを利用する個人、企業、そして広告代理店が何をミッションとしてマーケティング活動を行えばよいのか、自分なりにまとめてみた。

まず、ソーシャルメディアを利用する個人。企業に飼いならされてはいけない。企業のマーケティングの道具となって、わずかな報酬や利益のために自由に発言できる権利を放棄してはいけない。ソーシャルメディアの時代には、個人が自律してそれぞれが考えたことを発言できるものだ。企業の思惑にとらわれずに、良い製品やサービスは良いと、悪い製品やサービスは悪いと、確かな視点で評価するチカラを持っていたい。

次に、ソーシャルメディアを利用しようとする企業。ソーシャルメディアは「管理」できないこと、また導入すれば大きな効果が得られる「魔法の杖」ではないことを認識すべきだ。さらに、ほんとうにマーケティングを考えるのであれば「プロモーション」の手法にこだわるのではなく、注目に値する自社の「製品・サービス」を生み出すことが重要。「価格」や「流通」を刷新するものであってもいい。プロモーションの斬新さで消費者や顧客を誤魔化すことはできない時代である。

マーケティングは経営活動の一環であるという認識を持つ必要がある。ソーシャルメディアは、市場拡大より顧客の維持(リテンション)に向いていて、その活動を通してじわじわと顧客は広がっていく。中長期的な視点が必要だ。

最後に、ソーシャルメディアを利用しようとする広告代理店。欧米から輸入したシステムや考え方が有効な時代はもう古い。借り物の施策だけでは効果的な提案ができない。使いまわしの企画書ではクライアントも納得しない。システムを導入させたいがための提案も見抜かれる。「ぼくらが新しい広告を作っていこう」という意気込みだけの精神論では何も変えることができない。広告的な発想を潔く捨てて、自律的な思考力が重要になる。

WebプランナーがWebサイトのことだけを考えていればいい時代も終わった。OtoO(オンライン・トゥ・オフライン)のコミュニケーションを考える企業も輩出している現在、オンラインからオフラインまでのプロモーション全般を見渡せるコミュニケーション・デザインが求められている。可能であれば、クライアントの経営計画やビジョンを理解し、経営者と同じ視点からプロモーションを俯瞰できる人材が求められているとおもう。


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こうしたそれぞれのミッションを踏まえたうえで、ソーシャルメディアを使う個人、企業、広告代理店が協業できれば、これからのマーケティングは活性化するのではないだろうか。概論にすぎないが、そんなことを考えている。

投稿者 birdwing 日時: 10:27 | | トラックバック

2012年9月 9日

『草枕』を読みなおす。

夏目漱石という文豪の作品のひとつに『草枕』があります。漱石の作品は『こころ』『吾輩は猫である』『坊っちゃん』あたりが有名ですが、『草枕』はあまり有名ではないかもしれません。

ぼくは大学の卒論に『草枕』を選びました。卒論のタイトルは、「漂泊のエクリチュール : 『草枕』論」。エクリチュールとは要するに「書き言葉」なのですが、『草枕』という作品に書かれた文体と主人公である画工の身体との関係を論じたものでした。

ところで、久し振りに大学時代のゼミの恩師である小森陽一先生に会い、『草枕』という作品に対する関心が高まりました。自宅には、以前買った岩波書店の漱石全集(第二次刊行)全28巻+別巻1がどーんと並んでいて老後のために取っておいてあります。とはいえ、老後に読まずに終わる可能性も高いわけで、まずは『草枕』から読んでみることにしました。

この1週間ばかり、朝の連投ツイッターで『草枕』を読んで考えたことをまとめてきました。論文ではなく、あくまでも感想なのですが、その内容をあらためて見直し、日付順だった構成を入れ替えて全体を読めるものに加筆修正しました。以下にエントリします。

なお、見出しの横にある日付は実際にツイートした日であり、元の原稿が気になる方はぼくのツイログをご覧ください。引用した文章とページ数は、岩波書店の漱石全集第三巻によるものです。

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『草枕』を読みなおす。

soseki120908.JPGのサムネール画像


■漂泊する文体と身体。(9月8日)

夏目漱石の『草枕』は、小説とも、哲学的なエッセイとも、漢詩や俳句を散りばめて絵画について言及した芸術論とも読み取れる風変わりな作品である。冒頭の次の文章は有名だ。

山路を登りながら、かう考へた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。(P.1)
この文章を読むと、主人公である画工は「山路を登りながら」「考へた」ことがわかる。つまり山路という傾斜を重力に逆らって登りながら考えた文体なのである。一歩一歩踏みしめる身体は短いリズムを作る。身体と文体は密接に関わっている。身体論×文体論が展開できる。

いったい画工はどこへ登ろうとしているのか。山路を登る視界の先にあるのは「非人情」の世界である。「人情」という住みにくい俗世間を離れて、画工は上昇する身体の姿勢によって「非人情」の世界を目指している。ところが路の途中で彼は「突然座りの悪い角石の端を踏み損なつた」。

余の考がこゝ迄漂流して来た時に、余の右足は突然坐りのわるい角石の端を踏み損くなつた。平衡を保つ為めに、すはやと前に飛び出した左足が、仕損じの埋め合せをすると共に、余の腰は具合よく方三尺程な岩の上に卸りた。肩にかけた絵の具箱が脇の下から踊り出した丈で、幸ひと何の事もなかった。(P.5)

路の上にある石に躓いた画工は、視線の先に「バケツを伏せた様な峰が聳えて居る」ことをみる。非人情の世界は峰の向こうにあるのではないか。人情の世界から非人情の世界へ「路はすこぶる難儀だ」と画工は語る。ゴシップ的な俗にまみれた「人の世」から俗世を超越した詩や画の非人情の世界には、なかなか到達できない。

『草枕』の物語全体を貫いているテーマは、画工の「人情」の世界から「非人情」の世界に漂泊する彼の試みである。ところが非人情の世界に達したかとおもうと、那古井の里にまつわる逸話に興味を抱いたり、那美さんという女性が湯に入る裸に惑わされたり、非人情の世界に至ることができない。

那古井の湯に仰向けに浸かって画工の視点がどこへ向かうかといえば、天井を通り越した天上の世界だ。山路を登る傾斜した身体の向かう先が非人情の世界であったことと同様、彼は湯のなかに横たわっても漂泊を続けている。画工は非人情の世界に辿り着けるのか。その関心が読者を漂泊にいざなう。


■波動する身体。(09月04日)

湯に浮かんで画工が見る波(=那美さん)は画工のこころに波紋を描く。

音も「波」である。音波が鼓膜を震えさせる。心拍数も波形であらわされる。「歩く」ときの身体の揺れもまた波といえるかもしれない。バイオリズムも長期的な身体の波であり、吐いて吸う深呼吸も身体を波打たせる。月経も波。人間の身体にはさまざまな波がある。身体を波動させることで生きている。

峰の連なりもまた「波」のようだ。峰から遠ざかったり近づいたりするとき、峰の連なりはさまざまな波にかたちを変える。峰という波が動く。『アフォーダンス-新しい認知の理論 (岩波科学ライブラリー (12))』では自分が動くと世界が動くというような理論が書かれている。風景を波立たせるのは自分の歩みだ。


4000065122アフォーダンス-新しい認知の理論 (岩波科学ライブラリー (12))
佐々木 正人
岩波書店 1994-05-23

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波動にはリズムがある。人間の身体を波立たせるとリズムが生まれる。呼吸という波もリズムをつくる。「自分の呼吸のリズムが他の人と共有されると、受け入れられているという自己肯定感が生まれてきます。」と齋藤孝氏は「呼吸入門 (角川文庫)」で書いた。このリズムを踏み外してはいけない。


4043786034呼吸入門 (角川文庫)
齋藤 孝
角川グループパブリッシング 2008-04-25

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対話もまた、相手と呼吸を合わせることが大事になる。相手の心拍に耳を澄ます。相手の呼吸をはかる。うまく相手のリズムと同期させることができると対話は弾む。同期できないと対話は波形の乱れた噛み合わないものになる。相手の呼吸と心拍数に合った対話は共感を生み、言葉をうつくしく波立たせる。

うつくしい波は連続体であるけれど、時間軸にしたがって切り出せば「刹那」の「美」になる。つまり静止した刹那の「画」を連続すると動きが生じ、ぼくらの世界は「生きる」。生きるということは刹那を波立たせることであり、波立つ身体の動きが世界をあざやかに変える。世界は刹那の連続体である。


■動くもの、動かぬもの。(09月06日)

人生は立ち止まらない。巻き戻すこともできない。感「情」は移ろいながら次々と変わっていく。「発話(parole)」は時間という線上に並び、最初に発話されたものから空間に消えていく。ところが消えていく言葉を書き留めた「書かれた言葉(écriture)」は情報として永遠に残る。

動画に対して写真は瞬間を切り取る。カメラは一瞬の風景を写す。インターネットの動画やデジタルビデオでは、一秒間に切り出すコマ数を「fps(Frames Per Second)」という単位で示している。1秒間に60回の静止画を記録した60fpsあれば、滑らかな動画になるという。

詩などの書かれた言葉あるいは「画」「写真」は、風景を切り取る。同様にこころというカメラも、視界のファインダーを通して瞬間を切り取る。カメラで切り取られた人物の表情は「情」を写しているようだが、移ろいゆく情は失われていて、どちらかといえば風景に近い。記録された写真や言葉は人情を超越した「非人情」の世界だ。

丹青は画架に向かつて塗沫せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。只おのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうらゝかに収め得れば足る。(P.4 )

詩あるいは絵画は静止している。静止しているものは「死」である。だからこそ「永遠」である。一方で、感情や物語は時間軸の上で動いている。変化するものは「生」といえるだろう。書かれた物語は何度も読み直すことができそうだが、物語を読む行為、つまり登場人物の「生」を辿る物語は基本的に一回性のものである。

動いている感情や人生は描きにくい。過去という静止画になったときに、はじめて描くことができる。しかし、もはや動かない過去の世界は「死」んでいる。ぼくらの動いている「生」は過去という動かない「死」を内包しながら、各々がそれぞれの主人公として動き続ける。生死の連続体として世界は成立しているのである。


■詩人という生き方。(9月3日)

「死」について考察した。では、「詩」とはなんだろう。音楽の歌詞を作る「詞」とは違うようだ。「小説」とも違っている。幼少の頃、改行された作文が詩であると考えていた。ところが「散文詩」というものに出会って混乱した。散文詩は改行されていない。だが詩なのである。

日本の詩である短歌や俳句は文字数が決まっている。短歌であれば五・七・五・七・七の五句体であり、俳句であれば五・七・五である。音韻として一定の時間的長さを持った音の文節単位を「モーラ」というそうだが、短歌は31モーラ、俳句は17モーラ。しかし形式だけが詩ではない。内容が求められる。

詩人とは自分の死骸を、自分で解剖して、其病状を天下に発表する義務を有して居る。其方便は色々あるが一番手近なのは何でも蚊でも手当たり次第十七字にまとめて見るのが一番いゝ。十七字は詩形として尤も軽便であるから。顔を洗ふ時にも、厠に上った時にも電車に乗つた時にも、容易にできる。十七字が容易に出来ると云ふ意味は安直に詩人になれると云ふ意味であって、詩人になると云ふのは一種の悟りであるから軽便だと云つて侮辱する必要はない。 (P.35 )

「物語」は構成要素を時間軸で並べることができる。一方で「詩」には時間軸という観点がない。時間的な視点から考えると詩は「映画」より「絵画」「写真」に似ている。物語や映画は、ばらばらに場面を構成していたとしても並べ替えて時間の流れを把握できる。詩や写真や絵画は瞬間を切り取っている。物語が有限の「生」であるのに対して、詩は「死」であり、ゆえに永遠なのだ。

人生は「時間軸」上に線的(リニア)な順序で並べられた物語である。ところが詩は時間軸という文法を超越している。時間軸でつながれた世界は「情」の世界である。詩に「人情」はあるが詩ごころは別の世界に超越している。「詩」から人情的な俗念を放棄した「非人情」が「刹那」の「画」となるのではないか。

苦しんだり、怒つたり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々した。飽き々々した上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞する様なものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持になれる詩である。(P9)

小説を書くのは小説-家、詩を書くのは詩-人。作家も脚本家も「家」だ。家とは職業を意味するものだろうか。文章を書いてお金を儲けるひとびとかもしれない。特に詩人は別格の人種のようだ。詩人は「人」でありながら金儲けの俗世を超越している。「非人情」の世界でしか生きられない。それが詩人のようだ。


■絵画と色について。(09月07日)

鉛筆によるデッサンはモノクロームである。白い画用紙の上に幾重もの黒い輪郭で描かれる。風景や静物だけでなく人物も描かれる。精緻に描かれることもあるが、たいていその存在の情に踏み込むことはない。一方、水墨画はさらに抽象的で、風景のなかにあっても人物の存在はひとつの「点景」になる。

画中の人物は動かない。想像のなかで動いたとしても、静止画の連続した風景にすぎない。遠くから眺めているのであればなおさらだ。こころの動き、すなわち「情」まで画にできない。移ろう人間のこころを画で描写することは難しい。人間の姿かたちを「点景」として描くことだけが可能である。

余も是から逢ふ人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも――悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見様。尤も画中の人物と違つて、彼等はおのがじゝ勝手な真似をするだらう。然し普通の小説家の様に其勝手な真似の根本を探ぐつて、心理作用に立ち入つたり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。(P.12)

西洋画の油絵や水彩画は彩色されている。画に「色」が着く。色は写実的である場合もあるし、点描画のように色彩の要素の集まりにこだわったものや、フェルメールのように光に忠実なものもある。とはいえ、やはり画のなかに「情」はない。刹那で切り取られた「情」の断片は、画のなかに閉じ込められた瞬間に死んでしまう。

たくさんの料理が並ぶ食卓は彩りが豊かである。ほんらい食「欲」を促すための色であるが、画家が綺麗だと色にこだわるのであれば人間の欲と情から距離を置いている。食べる人間の食欲を無視して一枚の画として視界に取り込んだことになる。あたたかい料理は冷めるが画は冷めない。画のなかで料理は永遠に新鮮さを保っている。

ターナーが或る晩餐の席で、皿に盛るサラドを見つめながら、涼しい色だ、是がわしの用ゐた色だと傍の人に話したと云ふ逸事をある書物で読んだ事があるが、此海老と蕨の色を一寸ターナーに見せてやりたい。一体西洋の食物で色のいゝものは一つもない。あればサラドとと赤大根位なものだ(P.45)

漱石は『草枕』のなかで赤にこだわっているようだ。赤は血痕の色であり、生命の色として喩えられているのかもしれない。しかし対比的に死の上に浮遊する色でもある。椿の花が水面に落ちるシーン。

見てゐると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものは只此一輪である。しばらくすると又ぽたり落ちた。あの花は決して散らない。崩れるよりも、かたまつた儘枝を離れる。離れるときは一度に離れるから、未練のない様に見えるが、落ちてもかたまつて居る所は、何となく毒々しい。又ぽたり落ちる。あゝやつて落ちてゐるうちに、池の水が赤くなるだらうと考へた。花が静かに浮いて居る辺は今でも少々赤い様な気がする。(P.122)

画のテーマには裸婦もある。衣服に包まれた何かを剥ぎ取るのはなぜか。肉感を強調するのはなぜか。裸体が「うつくしきもの」であるという考えからだ。ところが裸体をありのままに描くと低俗になる。性つまり「色」の欲にまみれるからだ。裸体の美は抽象を纏っていたほうがいい。抽象化された裸体は美しい。

湯のなかから眺める那美さんの裸体を画工は、一枚の画として観ている。だから俗を超越した芸術のような評論が生まれる。

しかも此姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が目の前に突きつけられては居らぬ。凡てのものを幽玄に化する一種の霊氛のなかに髣髴として、十分の美を奥床しくもほのめかして居るに過ぎぬ。片鱗を潑墨寂漓の間に点じて、虬龍の快を、楮毫の他にも想像せしむるが如く、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたゝかみと、冥邈なる調子とを具へて居る。六々三十六鱗を丁寧に描きたる龍の、滑稽に落つるが事実ならば、赤裸々の肉を浄洒々に眺めぬうちに神住の余韻はある。余は此輪廓の目に落ちた時、桂の都を逃れた月界の嫦娥が、彩虹の追手に取り囲まれて、しばらく躊躇する姿と眺めた。(P.92)


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■三角形の恋。(09月05日)

「恋」は物語のテーマになる。ゴシップにもなる。しかしながら成就する恋は面白みがない。成就しない恋、許されない恋こそが物語の主題にもなり、読者が好むものである。許されない恋とは、不倫、三角関係、友人の恋人を奪うこと、既婚者に恋焦がれることなど。夏目漱石が好むテーマでもあった。

許されない恋は失う恋、つまり結果として失恋することになる。失恋を当事者がさなかに情にまかせて書き殴っても文章としての面白みはないだろう。失恋はすっかり終わってしまってから客観的に振り返り、ふたりの恋の歴史を第三者として記録するからこそ意義がある。詩や画として眺めることができる。

怖いものも只怖いもの其儘の姿と見れば詩になる。凄い事も、己を離れて、只単独に凄いのだと思へば画になる。失恋が芸術の題目となるのも全くその通りである。失恋の苦しいを忘れて、其やさしい所やら、同情の宿るところやら、憂のこもる所やら、一歩進めて云へば失恋の苦しみ其物の溢るゝ所やらを、単に客観的に眼前に思ひ浮かべるから文学美術の材料になる。(P.33)

三角の関係について考える。四角形のそれぞれの頂点は、つながれないひとつの頂点をもつ。しかしながら三角形は、それぞれの頂点が他のふたつと関係している。男女という関係を頂点に割り振ると男男女と女女男の三角関係がある。よく描かれるのは一般的に前者ではないだろうか。ひとりの女を奪い合う。

「那古井の嬢様にも二人の男が祟りました。一人は嬢様が京都へ修行に出て御出での頃御逢ひなさつたので、一人はこゝの城下で随一の物持ちで御座んす」(P.25)

四角な人間関係は利害のない他者がひとり介入するため「常識」が維持される。しかし、その第三者の常識を失った三角関係は、それぞれが当事者であり客観性を失いがちになる。情に流されやすくなる。だからこそ、このとき三角のうちのひとりが当事者でありながら客観性を失わなければ、芸術に昇華されるだろう。

旅行をする間は常人の心持で、曾遊を語るときは既に詩人の態度にあるから、こんな矛盾が起こる。して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。(P.33)

恋は楽しい。それよりもずっと苦しい。苦しさを「三本の松」のように風景として眺め、「三味の音」つまり三味線の音の像のように臨場感のある「パノラマ」として展開できるようになれば、芸術になる。みずからの恋を芸術として観賞したり聴く人間はいないかもしれない。しかし、客観性のある恋は芸術である。

三本の松は未だに好い格好で残つて居るかしらん。鉄燈籠はもう壊れたに相違ない。春の草は昔し、しやがんだ人を覚えて居るだらうか。その時ですら、口もきかずに過ぎたものを、今に見知らう筈がない。御倉さんの旅の衣は鈴懸のと云ふ、日ごとの声もよも聞き覚えがあるとは云ふまい。
三味の音が思はぬパノラマを余が眼前に展開するにつけ、余は床しい過去の面のあたりに立つて、二十年の昔に住む、頑是なき小僧と、成り済ましたとき、突然風呂場の戸がさらりと開いた。(P.88)

画工が風呂のなかに浮きながら、三味線の音を聴き、三本の松があった昔の風景について古い恋のように思いを巡らせているとき、風呂に入ってきたのは那美さんだった。


■画が生まれるとき、物語のはじまるとき。(9月9日)

『草枕』は十一章から急展開を迎える。春の夜に散歩をして和尚の棲家に辿り着いた主人公「余」は、みずからのことを「画工(ゑかき)」と名乗るのである。そして謎の女性の正体は「那美さん」という名前が使われる。個々の人生を動きはじめる。

画工(ゑかき)は自称かもしれない。「画工の博士はありませんよ(P.138)」と和尚に告げている。それだけでなく「道具丈は持ってあるきますが、画はかゝないでも構わないんです(P.140)」と話している。確かに画工は画を完成させないで、漢詩や短歌などの詩ばかり作っている。理屈に拘泥して画を描く行動を起こさない。

余は此温泉場に来てから、未だ一枚の画もかゝない。絵の具箱は酔狂に、担いできたかの感さへある。人はあれでも画家かと嗤うかもしれぬ。いくら嗤われても、今の余は真の画家である。立派な画家である。かう云ふ境を得たものが、名画をかくとは限らん。然し、名画をかき得る人は必ず此境を知らねばならん。(P.144 )

画工は「探偵」のように那古井に住む人物のゴシップに耳を傾けていた。しかしみずから画工と名乗ったとき、今度は探偵に付きまとわれる存在になる。「余の如き探偵に屁の勘定をされる間は、到底画家になれない。画架に向かうことはできる。小手板を握ることは出来る。然し画工になれない。(P.144)」という。

画を描かない画工という矛盾を抱えた主人公は、短刀をちらつかせた那美さんを目撃する。そして那美さんがある男と邂逅するところを見る。「芝居」のような光景に、いつ短刀を出すのかと画工はひやひやするのだが、短刀は使われず差し出されたのは財布だった。男は那美さんが離縁された亭主だった。

那美さんの元亭主は貧乏で日本にいられないから満州へ行く。旅費として那美さんから金を貰ったのだ。彼は那美さんとの息子であると思われる久一さんに「そら御伯父さんの餞別だよ」と短刀を託す。久一さんは戦争に行こうとしている。那美さんの元亭主も久一さんも生きて帰ることができるかわからない。

非人情を求めていた那古井の里にはさまざまなドラマがあった。画工は非人情に徹することができなかった。その画工は戦争に向かう久一さんを見送りに「汽車」の見える「現実世界」に行く。現実世界は人情の世界である。ところが、久一さんを送る那美さんの顔に「憐れ」を見出したときすべてが変わる。

那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。其茫然のうちには不思議にも今迄かつて見た事のない「憐れ」が一面に浮いている。
「それだ!それだ!それが出れば画になりますよ」
と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云つた。余が胸中の画面は此咄嗟の際に成就したのである。(P.171)

人情の世界は「動く」物語である。非人情の世界は刹那を切り取って「静止した」詩である。那古井という非人情で詩的な世界に人情を見出した画工は、詩を書きとめたとしても画にできなかった。ところが那古井の里を出て人情の世界で「胸中」の画は成就したという。ただし、移ろいやすく脆いこころのなかに「場面」つまりシーンとして。

「憐れ」とはなんだろう。憐れは同情せずにはいられないが行動できない状態ではないだろうか。精神は「人情」で動かされながら、身体は「非人情」に縛られている。人情と非人情を二項対立で考えていたとき画工は画が描けなかったが、人情の世界の時間を非人情が静止したとき画工の画は胸中で完成した。

画工の胸中に「画面」が生まれた瞬間、つまり『草枕』の最後で画が成就したときから、画工の物語は、はじまる。画工は胸中の画を紙の上に描くのか。元亭主を満州に送り出して、画工と那美さんの関係はどう変わっていくのか。画がうまれたとき。そのときから画工の真の物語がはじまる。

投稿者 birdwing 日時: 10:54 | | トラックバック

2012年9月 1日

連投ツイートをコラムにまとめる。

現在では脳科学者というより芸能人の印象が強い茂木健一郎さんは、ご自身のツイッターで、つぶやきを連続させ、考えたことを発信されています。

茂木健一郎さんにならって、ツイッターでコラムを書くようになりました。ぼくの場合は毎朝5時に起き(老人か)、この時間を連投ツイートに当てている。TLを汚さないためでもあり、早朝に何かを考えることが気持ちいいからでもあります。ツイートは断章になってしまうので、個別の用語や名称などを重複させて書いています。この散在するツイートを集めて、重複する部分を推敲し、きちんと読めるコラムにまとめてみました。

毎日、書くために要する時間は30分から60分。最少文字数で140字×5ツイートなので700字。およそ400字詰め原稿用紙2枚弱です。毎日継続することをこころ掛けています。

ツイートの構成は変わっていませんが、引用の間違いと誤字や脱字を修正、文章をすこし変えています。実際のツイートが気になるかたは、ぼくのツイログを参照してください。

同時に、参考図書へのリンクも貼っておきました。興味があれば、それぞれの本やサイトや映画などをご覧ください。なお、コラムは日付順にならんでいません。内容から組みなおしました。

以下、8月25日(土)~9月2日(日)までのツイートを推敲したり情報を追加して、コラム風にまとめてみました。

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自信について。(8月26日)
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自信は文字の通り「自ら」を「信​じる」ことである。決して「他者」を信じる「他信」ではない。シ​ョウペンハウアーという哲学者は「自分を慰める上に外部からはほ​とんどあるいは全然何ものをも必要としない人間が、いちばん幸福​である」と『幸福について―人生論 (新潮文庫)』に書いている。

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哲学者の言葉を引用したが、ぼくらは一般的に自分を信じるより他​者の言葉や評価を信じてしまう。「みんながそういってるよ」とか​「有名人がいった言葉だよ」とか。社会全体の評価という大きなも​のに頼って大多数の仲間入りをすることで安心を得る。というのは​自分の思考を捨てたほうが楽になるからだ。

自分で考えることはツライ。他者の考えに頼ってしまったほうが楽​だ。しかし、他者の考え方に頼ってしまったとき、ぼくらの思考は​停止する。安全地帯に逃げ込んだようにほっとするが、そのような​安住が実は危険である。他者の考えに安住すると、思考に緊張感がな​くなる。他律的になる。盲目になる。

尊敬するひと、カリスマを持つこと、こころのなかに理想の人物を​掲げることは大事だが、「自分」で考えるチカラを捨ててはいけな​い。要するに「信者」になってはいけない。信者はカリスマの悪い​ところがみえない。カリスマを批判するひとたちを嫌悪し、排除し​ようとする。彼の世界観を守りたがる。

他者を頼って安心を得たとしても一時的な安らぎにすぎない。ほん​とうに大切なことは「自分」を頼ること。自分のなかに不完全なも​の、欠点があってもいい。そんなマイナス面も含めてそれが自分の​人生なのだ。人生を生きるということは自分を生きることである。​決して他者の思考をなぞることではない。


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いまを生きること。(8月27日)
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「未来はない」と言ったら誤解を生​むだろうか。これは「将来の希望はない」という意味ではない。ま​た、「未来はぼくらが創っていくもの」というポジティブ思考でも​ない。ぼくは「未来」も「過去」もないと考えている。どちらも各​個人のアタマが創り出したものだからだ。

たとえば「過去」について考えてみる。過去は記録される。映像で​、写真で、文章で。しかしそれらはすべて「終わってしまったこと​」。自分のアタマのなかにある「過去」は自分の解釈の産物で、他​者の過去とは違っている場合がある。過去の「解釈」はすべて創ら​れる。解釈が変われば過去が変わる。

過去と違って「未来」はまだ記録されていない。しかし過去と同様​に「未来」もまた創り出されたものである。それは大勢に共有され​た未来のようにみえても、結局は各個人のアタマのなかにある妄想にすぎない。各個人の未来であれば、さらに脆い妄想にすぎない。​だから未来を信じることは不毛である。

在るのはただ「現在(いま)」だけだ。ぼくらは「いまここ」に存​在している。疑うのであれば、自分の身体を感じ直してみればいい​。それは妄想だろうか、儚いものであろうか。違う。ぼくらが「い​まここ」に居ることは疑いようのない事実である。信じられるのは​「現在(いま)」。過去や未来ではない。

「いまここ」は否定できない。ぼくらは「いまここ」に生きている​。刹那に生まれて死んでいく。ぼくらは毎日生まれ変わる。ぼくら​は毎日違う生を生きている。「いまここ」の連続が人生なのである​。「過去」や「未来」は存在しないが、人生を生きることはできる​。いまを生きること。それが人生。


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逃げろ、追いかけるものたちから。(8月28日)
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逃走、逃避。逃げることはよ​くないとされる。逃げないで堂々と闘えといわれる。そうだろうか​。堂々と闘うことが不毛なときもある。議論であっても、建設的な​何かを生み出せない不毛な議論に関わる必要はない。何も生み出せ​ない対話は閉ざしたほうがいい。

諺では「逃げるが勝ち」ともいう。論争のスタイルには、闘う、防​御する、逃げるがある。正面切って闘わずに勝つ「逃げる」はひと​つの戦術だ。ただし、恐怖心やチキン(臆病)でその場を放棄する​こととは違う。怯えや恐れではなく、強いこころで自覚的に逃げる​のである。冷静に逃げることを選択する。

かつて遠い昔に浅田彰氏という思想家は『逃走論―スキゾ・キッズ​の冒険』という本を書いた。自分なりにこの本を解釈すると、文化​や社会は常に枠組みをつくろうとする。思考を固めようとする枠組みから常に「知的に」逃げ続けること。それがぼく​らの知の戯れになる。時代や文化からの逃走である。

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逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)浅田 彰

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いじめられている子供たちは、身体や精神が「逃げられない」状態​にある。けれども、自分の意思で逃げ出してもいいんだよ。「弱虫​」と罵られてもかまわない。思考停止して、されるがままになって​いるから、さらに相手はいじめたがる。いじめられているきみは逃​げろ。きみには逃げる権利がある。

いじめられているきみがどこへ逃げ込むか。安全地帯である両親の​もとかもしれない。あるいは、別の場所かもしれない。法律などを​学び、反撃のチャンスをうかがうためにひきこもることかもしれな​い。追いつこうとするものに、追いつかないほど遠くに「逃げる」​こと。それは知的な戦闘のひとつなのである。


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自由人という在りかた。(8月29日)
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自由を縛るのは他者ではない。自分のこころである。ほんとうに自由な人間は自分の感情や環境から解き放たれている。『ショーシャンクの空に』という映画でアンディ・デュフレーン(ティム・ロビンス)は終身刑の罰から牢獄に入れられた。しかし自由を決して諦めなかった。

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「フリーランス」が自由な働き方のように考えられてきた。最近では「ノマド」という場所を選ばない働き方も注目されるようになった。しかし、ほんとうに自由なのだろうか。ぼくは「自由人」というフリーな生き方が自由であると考える。自由人は企業に働いていても仕事内容や環境から解放されている。

身体的な「私」が拘束されていても、こころが解き放たれていれば、ぼくらは「自由」である。明治時代には大学の教育を受けて経済的余裕のあるひとを「高等遊民」と呼んだ。夏目漱石の小説『それから』にも登場する。現在、大学卒業にあたって就職も進学も考えなかったひとが約3万3000人いたらしい。

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自由人は経済や社会や思考に脅かされることはない。自分の生きている「価値」を把握しているからだ。しかし、現代のいじめや自殺者の増加はどうだろう。他者や社会に追い詰められている。気付いてほしい。自分の思考や行動は自分で選択できる。自由は無責任ではない。自分で覚悟を決めることが自由なのである。

日本国憲法第21条では「表現の自由」や「言論の自由」が守られている。自由人は憲法に守られている一方で品格を保たなければならない。自由で満たされていれば他者を罵倒することもない。貨幣的に裕福ではなくてもいい。こころが豊かであればいい。だから自由人は、他者に対してやさしさを施すことができる。

自由人であることは、特定のひとには難しいかもしれないが、自己実現のセミナーを受けたり修行することもない。自分で自分のこころを解き放てばいいのだ。ぼくらは誰でも自由を守られている。自由人になれる。こころの鍵を開けることが大切。そして閉ざしていた扉から青空にこころを解放すること。


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親になること。(8月30日)
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一般に結婚して子供が生まれると必然的に「親」になる。男性であれば「お父さん」に、女性であれば「お母さん」に。了承を得てなるわけではない。ある日突然妊娠したことを告げられ助走をはじめ、出産することで親になる。だが、子供ができても真の意味で親とはいえない。

「親がなくても子供は育つ」という。そうだろうか。これは地域や親族によるコミュニティが機能していた時代の話だ。その頃の子供は周囲を頼りながら自律的に成長できた。現代は様相が違う。都市圏では地域社会との断絶が加速化しつつある。「親」がなければ子供は育たない。育児は放棄できない。

「親」の意味を拡張すると、中高年シニアの世代は「社会」の親でなければならない。人生の知恵を蓄え余裕もできた親たちは、次世代の子供たちを育成(インキュベーション)する存在であるはず。ところが、親になれない大人が増えているようだ。子供の権利を奪い、育成を妨げている。「老害」である。

政治活動や企業や学校には老害が蔓延しているかのようだ。一方で、よい年齢をしたオトナたちがインターネットなどの「遊び」に耽っている。良識を問う。日本国憲法第26条では教育の義務を謳っているが、教師による性犯罪、いじめの多発はどうしたことか。学校教育における「親」は何をしているのか。

高校や大学に「親学」なるものはない。当然、家庭の親は知識をもたずに親になる。企業の「親」である上司にも部下の教育は必要になる。手探りをしながら「親」になるしかないが、時代や社会の変化にしたがって、親の役割や教育の意義も変わる。「親」になる方法は資格もなければ正解もないのである。


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コミュニケーションを考える。(8月31日)
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「コミュニケーション」は「伝達」とも訳されるが「コミュケーションはキャッチボールである」ということを『コミュニケーション100の法則』という本で読んだ。この意味は深い。相手がいて相互間で成立するものということ。そして、受け止められない球を投げてはいけないということ。

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コミュニケーションは双方向間で行われる。しかし広告業界では広告主から消費者への一方的な情報伝達にとらえがちで、だからインターネットの登場により「インタラクティブ・コミュニケーション」が強調された。ここで重視されるのは効果測定。どれだけの人が受信して売り上げに直結したのかが重要。

ソーシャルメディアの時代にコミュニケーションを数値のみで測っていてよいのだろうか。もちろん数値化はぼくらの交流を「みえる化」してくれる。しかしサン=テグジュベリの『星の王子さま』に書かれているように「 大切なものは、目に見えない」。相互間の信頼は言葉にはできないものである。

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ディスコミュニケーションの課題は受信と発信の双方にある。発信者側では相手を特定しない発言、理解されない言葉、受信者側では情報のブロック、理解力あるいは想像力の欠如。ハイコンテクストな文化をもつ日本人は理解されることを前提にコミュニケーションを試みるが、届いていない言葉も多い。

広義のコミュニケーションは「ノンバーバル(非言語)」なコミュニケーションを含む。ノンバーバルとは身振りや態度など、言葉化されない表現である。主としてリアルな場における対話で行われるが、YouTubeなどの映像メディアによってインターネットにおいても可能ではないか、とおもわれる。

ディスコミュニケーションもコミュニケーションのひとつであれば、相手のメッセージを遮断することも情報伝達の意思ととらえられるかもしれない。あるいは無関心を装うことも。しかしながらほんとうに無視している、関心がない、メッセージに気付かないことはコミュニケーションといえるかどうなのか。

マーケティングの世界では、BtoB(企業と企業)、BtoC(企業と消費者)あるいはBtoE(企業と社員)などの言葉が使われてきた。今後はOtoO(オンラインからオフラインへ)が重要になるといわれている。時代は変化しつつある。新しい時代に合ったコミュニケーションが求められている。


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アドバンスド・プランニング 拡張型プランナーをめざして。(8月25日)
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かつてぼくはプランナ​ーだった。編集者を経験した後のプランナーなので、ぼくの企画書​はレイアウトやデザインに凝っていて、目をひく企画書が営業に注​目され、単独のプランナーになった。しかし、当然のことながら、​大事なことは体裁ではない。

意識を刷新するひらめき(アイディア)、最初から最後まで一貫し​た論理(ロジック)、考え方の枠組みをつくる構想(コンセプト)​、そしてクリエイティブ(制作物)や実施計画、運営組織、概算費​用。それが企画書に必要となる。プランナーは制作や営業と協力し​て、それらを組み立てていく。

プランナーにもいろいろあって、ぼくはセールスプロモーション(​販売促進:SP)の企画を立てるプランナーだった。例えばゲームプランナーのことをぼくは知らない。彼等の書く​企画書はまた違っているだろう。ただ慣れてくるとわかるのだが、​SPの企画はだいたいフレームが決まっている。使いまわせる。

しかしながら、ぼくは企画書の使いまわしに疑問を感じた。提案す​るお客さまを馬鹿にしていないか。それぞれのお客様がそれぞれの​悩みを抱えているわけで、これにしましょうと画一的なものを押し​付けるのでは押し売りといっしょだ。お客さまが抱えているモヤモ​ヤをカタチにしてあげるのが企画では。

そこでぼくはプレゼンの方法を変えることにした。一方的な説明型​プレゼンテーションではなく、対話型プレゼンテーションにしたの​だ。説明が終わって、はい質問は、ではなく、市場の整理のページで​あれば、「・・・と判断したのですが御社ではいかがですか?」と​きいてみる。コンペの場では難しいけれど。

つまりプランナーであるぼくは、プレゼンの場をヒアリングの場で​あるとも考えたわけだ。もし、それで提案が通らなかったとしても​情報が得られる。次に書く企画書のヒントをいただけることもある​。企画書なんて通らなければただの紙切れなのだが、コンペ落ちし​た企画書にも意味を見出せるようにした。

そうやって対話型プランナーのぼくは、企画書を書くばかりでなく​、コミュニケーション能力を磨くきっかけになった。偉そうに上か​ら話してもダメだ。カタカナ用語で煙に巻いてもいけない。エンタ​ープライズであれば大企業の言葉で、中小企業であればオーナー社​長に響くような言葉を使い分けていく。

企画書だけ書けばあとは営業の仕事でしょ、というプランナーもい​るかもしれないが、それは違うとおもう。自分のアイディアや構想​がいくらのお金を生み出したか、アカウントにも責任を持たなけれ​ばいけない。最終的には提案先の企業さまの経営において、どれだ​けの効果を上げたかという責任も必要。

中期経営計画・短期経営計画があり、企業の理念と目標があり、そ​のなかで自分の組み立てている企画書はどのような費用対効果をあ​げるか。そこまで目が届き、責任を負うことができなければ、ホン​モノのプランナーとはいえない気がする。最初は難しいことだが、​意識を高めておくとみえるようになる。

お客さまの経営に貢献するプランナーになるためには、ビジネス書​やマーケティングの理論書を読んでアウトプットを充実させること​は必要。とはいえ、コンセプト作りは感性によるもので、小説や音楽​、映画などに対しても開いて自分の感性を高めておく。仕事とおも​わなくても人間形成の一環と考える。

ぼくはただの企画書かきから、対話型プレゼンによって企業の悩み​に耳を傾けるマーケッター、経営計画を(難しいので財務などは弱​点だったか)理解することで、事業プランとシンクロするようなプ​ロモーションプランナー、最終的には事業のプロデューサーというより併走者でありたいと模索した。

あまりに自分の理想と目標を高く掲げすぎたため、結局、俯瞰的なプ​ランナーにはなれていない気がする。しかし、生き残るプランナー​であるためには、企画書を書いて満足していてはいけないのだとお​もう。プランナーの領域を拡張するのだ。


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恩師と語った夜。(9月1日)
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ぼくの恩師は、東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻の小森陽一先生である。先生が成城大学にいらっしゃった頃にぼくは教えていただいた。あの頃、先生はゼミの学生に多大な質問を投げかけた。特に「おまえはそれでいいの?」が口癖だったような気がする。

東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
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成城大学
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金曜日の夜、小森先生と下北沢のイタリア料理店、トラットリア イル・コンソラーレでワインを飲みながらおおいに語った。先生と語り合うのは1989年に大学を卒業してから実に23年ぶり。髪に白いものが増えて老眼鏡を取り出しながらメニューを選んでいらっしゃったが先生は先生だ。


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小森先生は熱心にメニューという「テクスト」を読み、気になった部分はトラットリア イル・コンソラーレの店で働いているかわいい女の子に「これ何」と質問した。若い女の子とお話したかっただけかもしれないが(ぼくもお話したかったが)、テクストを解析しようとする真摯な姿勢を感じた。

美味しいイタリア料理とワイン。居心地のいい空間。暗闇のなかでひとり内省ばかり繰り返す精神の病による日々から解放され望んだ仕事を得て、ぼくはみょうにテンションが高まっていた。小森先生は『草枕』が夏目漱石の転換期の作品であったことにふれ、いまのぼくもそうであるとご指摘いただいた。

23年という空白をまったく感じさせない夜。事前にブログの原稿は郵送でお渡しした。そして本を書きたいというぼくの意志を伝えて、ツイッターをまとめた原稿を読んでいただいた。しかし、小森先生はネットを断固拒否している。オールドメディアのなかでどこまで生き残れるか覚悟をされている。

小森先生とは反対にぼくはインターネットを信じている。先生によると冷たい世界であるネットの世界をあたたかいものに変えたいと考えている。「やりなさい」と先生はおっしゃった。ぼくは経験からメディア論、コミュニケーション論などを展開した。先生はにこやかに聞きながら同意や反論を語る。

マイケル・サンデル批評、東浩紀氏の『日本2.0 思想地図β vol.3 』批評であるとか、そんなお話も面白かったが、ぼくは小森先生の知の教え子であるとともに人生の教え子でもある。先生とぼくの人生論を重ね合わせた議論が楽しい。人生を学ぶことができるゼミなんて他にあっただろうか。

日本2.0 思想地図β vol.3
日本2.0 思想地図β vol.3東 浩紀 村上 隆 津田 大介 高橋 源一郎 梅原 猛 椹木 野衣 常岡 浩介 志倉 千代丸 福嶋 麻衣子 市川 真人 楠 正憲 境 真良 白田 秀彰 西田 亮介 藤村 龍至 千葉 雅也 伊藤 剛 新津保 建秀

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「悩むことが人間を大きくする」という、ある意味シンプルで、この部分だけ切り出すと陳腐にもおもわれそうな小森先生の言葉が、ぼくの胸を打った。たぶんあのときの対話のなかにいて、場とコンテクスト(文脈)を共有しなければ屹立しない発話である。しかし、ぼくは忘れない。

店を出て、小田急線下北沢駅の改札の前で、小森先生は二度、ぼくの背中を叩いてくれた。そんなさりげない行為が、ぼくのこころにあって殻のようにまとわりついた何かを、ぽろぽろと落としてくれた。背筋が伸びた。先生は常に人生の先を行かれている。だが、ぼくは先生に追いつきたいと考えている。


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創造的に生きるために。(9月2日。9月3日追加)
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創造的なことをクリエイティブ(creative)と呼ぶ場合もあるけれども「創造」でよいのではないか。創造は、広告代理店や制作会社のコピーライターやデザイナーなどの職に限られた権利ではない。あらゆる人間が創造的に生きられる。生活を創造的に変えられる。

「創造力」には「想像力」が欠かせない。カタチのない未来や製品を想像することによって、まず思考のなかにプロトタイプ(試作品)が形成される。思考のなかにある試作品は脆い。だから現実の試作品に落としこむ。このときに想像はみえるようになる。想像が創造になる。現実化することが創造力。

創造力は製品やサービス、アート、文化などを生み出す。政治や行政も創造的な活動であり、日本の行く末を実体化する。日常生活において創造的であるためには、他者に対する想像力は不可欠かもしれない。また、想像力の基本となる発想(アイディア)は、まったく新しいものを考える必要はない。

まったく新しいものを発想するのではなく既存の何かを組み合わせて新しい発想を生むことは、野口悠紀雄氏の『「超」発想法』に書かれている。同様のことが、広告業界ではバイブルとも言われていたジェームス W.ヤング『アイデアのつくり方』、ジャック フォスター『アイデアのヒント』にもある。

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野口 悠紀雄
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ジェームス W.ヤング 竹内 均
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4484031019アイデアのヒント
ジャック フォスター 青島 淑子
阪急コミュニケーションズ 2003-01-10

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創造的に生きることは難しいことではない。日常の何かと何かを組み合わせてみてはどうだろう。組み合わせは関係性ともいえる。父親と息子の組み合わせ、母親と娘の組み合わせから新しい生活が生まれるかもしれない。組み合わせたことがない関係をつなぐこと。身近な場所から創造的なヒントは生まれるものである。

投稿者 birdwing 日時: 13:21 | | トラックバック

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