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2012年9月23日
視点が変わると世界が変わる。
少年時代、自分の眺めている青空と他人の眺めている青空が別物ではないかという考えが浮かんで、愕然とした覚えがあります。なかなかこの感覚を誰かに伝えることができませんでした。青空は同じ青空ではないか、と言われてしまいそうで、胸のうちにそっとしまい込んでおきました。
欲張りなぼくは、自分の見ている世界だけでなく他人の見ている風景も眺めてみたいなあ、とよく考えていたものです。しかしながら、自分は自分であり、他人の視点からものをみることはできません。残念でした。どうしたら他人の視点を獲得することができるだろう。そんなことを真剣に考える少年でした。
自分にこだわり続けると視野は狭まるものですが、他人の視点に想像を働かせることによって、わずかばかりではありますが視野はひろがります。そんな「見る」ことをテーマに朝の連投ツイートを書いてみました。
9月10日~9月18日までのツイートをまとめて掲載します。若干、推敲などをしました。
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■青空を見上げる。(09月10日)
青空が好きだ。自宅から近い場所にぱあっと空が開ける場所があって、毎朝そこで空を見上げてから出掛けることが多かった。空は毎日違う顔をみせてくれた。雲が多い日もあれば、雲ひとつなく青空が広がっているときもある。ぽかんといくつかの雲が浮かんでいることもある。空の表情が楽しかった。
いつからか空の写真ばっかり撮っている。広角レンズの一眼レフであれば広い空をそのまま切り取ることができるのかもしれないが、自分が持っているデジタルカメラや携帯電話では空の一片しか記録できない。空のいちばん素敵な部分を撮ってパソコンにアーカイブする。フォルダが空の写真ばかりになった。
少年の頃、青空をテーマにした小説らしきものを書いたことがある。こんな物語だ。ある日気がつくと空に何かがぶら下がっている。横に引っ張ると、すぅーっと青空がファスナーのように開いて、その向こうに見知らぬ暗黒の世界がみえる。一気に引きおろすと主人公は別の世界にいる、というような掌編。
先日、書店でブルータスという雑誌をめくっていたら芸術家集団Chim↑Pomが取り上げられていた。随分有名になったものだなあとおもったが、彼等のことがあまり好きではない。というのはかつて、彼等は飛行機を使って広島の空に「ピカッ」と落書きをしたことがあったからだ。それが許せなかった。
幻想的な夕焼けをみた日。明日は晴れるだろうとおもったら、やはり一面の青空だった。季節によって青空の深みにも違いが出る。飛行機の上から眺めた青空は、とてつもなく青かった。トウキョーと地方の青空の色も違うだろう。遠く離れた国も違う。ぼくときみが眺める青空さえ異なっていて、それがいい。
■見えないもの。(9月11日)
トウキョーでは星が見えないとおもっていた。植物も少ないし、昆虫もいないとおもっていた。ところが、わずかであったとしてもトウキョーでは星はみえる。田舎と比べたら少ないかもしれないが、植物だってたくさんあるし昆虫も生活を営んでいる。先入観が星や植物や昆虫を見えなくさせているのだ。
「見ない」と「見えない」は違う。「見ない」は見ることができるはずのものから意識的に視線を外すことに対して、「見えない」は無意識のうちに見ていない。見えない世界は、そのひとのなかに存在しない。ぼくらの世界は個々人が見えているものしか信用しない。見えないものは世界から抹殺される。
インターネットの世界では「スルー力」というものが強調される。自分にとって不快であったり気に障る情報は、さっと目を通しても深く関わらずにやり過ごすことである。その発言に関わることを拒否するわけだ。情報を無視しているのような印象もあるが、陰湿な負の言語が飛び交うネットの世界では賢い。
「見る」には「視る」「診る」「看る」「観る」などの漢字もある。「視る」は調べる、「診る」は診断、「看る」は世話をする、「観る」は見物することである。メラビアンの法則というコミュニケーションについて調べた結果がある。他人に最も影響を与えるのは「視覚情報」=Visual」だそうだ。以下、Wikipediaから引用する。
この研究は好意・反感などの態度や感情のコミュニケーションについてを扱う実験である。感情や態度について矛盾したメッセージが発せられたときの人の受けとめ方について、人の行動が他人にどのように影響を及ぼすかというと、話の内容などの言語情報が7%、口調や話の早さなどの聴覚情報が38%、見た目などの視覚情報が55%の割合であった。この割合から「7-38-55のルール」とも言われる。「言語情報=Verbal」「聴覚情報=Vocal」「視覚情報=Visual」の頭文字を取って「3Vの法則」ともいわれている。
他人や社会の悪いところは「見えない」ほうがしあわせなことがある。あまりに繊細では自分が傷付きやすくなる。ときには自分の感度を劣化させて「見えない」ことも自分を守る上で大切になる。何もかも見えればいいわけではない。見えることで苦痛ならば、見なくてもいいものは見えなくていい。
■ホークアイ。(9月12日)
職場に置いてあった大前研一氏とアタッカーズビジネススクール編著の『決定版!「ベンチャー起業」実践教本』を借りて読んでいたところ、「ホークアイ」という言葉が使われていた。上空から獲物を狙う鷹のように、地上全体を俯瞰(ふかん)する視点ということ。事業計画のプランニングで重要だという。
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かつて「鳥の視界とイヌの視界」という比喩で、地上を俯瞰した視線の獲得をめざしたい、という自分の理想を書いた。地上を歩くイヌは路上のあれこれを詳しく見ることができるが、道の先に何があるか見通すことができない。しかし、地上から遠く離れた上空を飛ぶ鳥は道の全体を見渡すことができる。
「木を見て森を見ず」という言葉もある。物事の細部にばかりとらわれて、全体を見失うことである。木を見るのがイヌの視線であるとすれば、森を見るのは鳥の視線、つまりホークアイといえる。経営的な言葉を使えば、木を見るのは現場の担当者の視点であり、森を見るのは経営者の視点といえるだろう。
部分を見る/全体を見るという対比を時間に応用すれば、部分をみる思考は「いま」を生きること、全体を見るのは「いま」を含む過去と未来全体を見渡すことになる。また、この対比を社会に当て嵌めると、部分を見るのは住んでいる地方行政を見ること、全体を見るのは国家全体の政治を見ることになる。
鷹は人間の約8倍の視力を持っているといわれる。上空1,500メートルから獲物を見極めることができるそうだ。ホークアイとは全体を見渡すとともにターゲットを絞り込んで獲物を注視している。「森」だけでなく「木」もみている。鷹のような視界をもちたい。鷹のようにゆったりと上空を飛翔したい。
■見る/見られる関係。(9月13日)
ひとは他者を「見る」と同時に「見られる」存在でもある。登壇する講師は複数の参加者から見られている。ゴシップで話題になった政治家や芸能人も見られている。見る/見られる関係のうち、どちらが優位かといえば「見る」立場ではないだろうか。受動的であることからも「見られる」立場のほうが弱い。
インターネットではROM(Read Only Membe)という和製英語もある。掲示板やSNSを読むだけで書き込まない人物である。ROMしている人間には書き込む勇気のない興味本位の存在もあるかもしれないが、良識があって語らないひともいる。書き込まないユーザーの存在は「見えない」。
監視という言葉もある。警察やセキュリティーの面から常に相手の状況を見張ることをいう。インターネットで目立つ発言をするひとは衆人監視の状況にあるといえるだろう。問題発言は逐次取り上げられて拡散する。揚げ足を取られることもある。暴力的な視線で見られたり批判されたりすることもある。
見られる立場は弱いかもしれないが、女性やアイドルたちは視線で磨かれることがある。「見られている」ことが彼女たちをうつくしくする。視線が彼女たちを研磨する。見られていることは緊張感を生んだり、演出の仕方をより洗練させていく。見られていると意識すれば、品のない言動は慎むようにもなる。
どんな時代にも若いひとたちは自意識過剰なものだが、見られていることを過剰に意識するとたいへん疲れるものである。それほど他人は自分のことを見ていないことも多い。自分像を勝手に作り上げて「俺ってこういうやつなんだよね」と言及するのは苦しい。他人の視線を意識しないぐらい傍若無人でいい。
■視点が変わると世界が変わる。(9月14日)
コップに半分水が入っている。「まだ半分水がある」と考えることができる一方で「もう半分しか水がない」と考えることもできる。ポジティブ思考の例に使われる比喩だが、ぼくは両方の考え方ができるほうがいいとおもう。ネガティブだったとしても「もう半分しか」と考えなければいけない場合もある。
マーケティングリサーチの結果で80%が「はい」と答えて残り20%が「いいえ」と答えた場合も同様だ。80%に着目して結果を考察する場合と20%に着目して考察する場合では、考察の方向がまったく異なってくる。どちらが正解とは一概には言えない。選択と考察にマーケッターのセンスが問われる。
長所は裏返せば短所になる。協調性が高いということはリーダーシップに欠けることかもしれない。短所は裏返せば長所になる。細部にばかり拘るということは慎重であるということかもしれない。自己否定ばかりするひとは肯定的に考えてみたらどうだろう。認知の歪みで自分を貶めているかもしれない。
視点が変わると世界が変わる。自分が見ている世界が絶対であるという思考の拘束を解き放ってみよう。もっと違う世界がそこに現れることがある。他者の見ている世界を批判せずに、どうしてそういう見方ができるのか、理解を試みてみよう。他者の視点を獲得すれば自分の視野はもっと広がるものである。
世界にはさまざまな見方と解釈があり、それぞれが正解であり、かつ正解はない。正解があるとすれば、多くのオプション(選択肢)から「自分は」何を選ぶかということだ。他者の視点に惑わされたり迎合するのではなく、視野狭窄な自分の視点に拘るのではなく。客観性と自律性を持ちえた視点は尊い。
■音に色を見るひとたち。(9月15日)
「心眼」という言葉がある。目に見えないものを見抜く心の目のことである。武術などでは相手の技や間合いを心眼で見抜くともいわれる。オカルト的に信じるわけではないが、確かに心の目はある。動物的な勘と言い換えられるかもしれない。術を究めた人間にしかできない境地であるとも考えられる。
音に色をみることができるひとがいる。「共感覚(synesthesia)」と呼ばれる特殊な知覚現象である。音に色をみることは「色聴」と呼ばれ、絶対音感をもつひとに多いらしい。作曲家でピアニストのオリヴィエ・メシアンは共感覚の持ち主で、連想する色を楽譜に書き込むことも多かったらしい。
最相葉月著『絶対音感』によると、オリヴィエ・メシアンは「ド・レ・ミ♭・ミ・ファ♯・ソ・ラ♭・シ♭・シの音程配列ではグレーの奥から金が反射してきて、オレンジ色の粒が散らばって、そこに黄金色に輝いている濃い目のクリーム色」という色がみえるそうだ。音階とともに変化する色が興味深い。
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ぼくらは聴覚、視覚などの五感を別々に分けて考えている。しかしインプットする器官は違っていたとしても、情報を処理する脳はひとつである。だから、音を聴いて色が見えること、色を見て音を感じることは決して特殊とはいえないとおもう。潜在的にぼくらはそのような能力を持っているのではないか。
「共感覚(synesthesia)」の持ち主は、書かれた言葉に色を見ることもあるという。数字にも色が見えるらしい。共感覚のない自分には、共感覚の持ち主に世界がどのように見えるのかさっぱりわからないが、きっと世界はいま見ている世界以上に色彩に溢れているのだろう。なんだか悔しい。
■見守る役割。(9月18日)
親が子供に接するとき、いちばん大切なことは教えることでも褒めることでも叱ることでもないとおもう。見守ることが最も大切ではないか。きちんときみのことを見ているよ、きみのことをわかっているよ、ということ。無関心ではなく、しっかり気にかけていることが大切ではないだろうか。
うわの空で接していてはいけない。空返事をしてもいけない。「ねえねえ」と子供から呼ばれたときに、しっかり向き合い、子供がやっていることを認めてあげる。「そうだね、これが好きなんだよね」とか「上手く描けたね」という言葉をかけてあげるだけで、子供の満足そうな顔は随分違うものだ。
子供のことを見守るだけなのに、これが意外と難しい。頓珍漢な答えをしてしまって「違うよ」と子供からそっぽを向かれてしまうこともある。見守ることは理解することでもある。ただ見ているだけでも子供には十分に想いが伝わるのだが、子供が何をしたがっているのかを理解することは大切。
教師と生徒も同様だろう。叱ることができない、教えることができない教師が増えているような気がするが、最低でも子供たちのことを見守っていてほしい。見て見ぬ振りをするのではない。きちんと直視してほしい。子供たちのいじめを加速させるのは、見守る教師の視線が足りないからではないだろうか。
教壇の上から見下すのではない。子供たちの視線に降りて見守ること。家庭でも同様だろう。子供たちの視点を理解しながら、その視点の先にあるものを見守ること。監視することではない。やさしさをもって見守る大人たちが増えてほしい。そうすれば次の世代の子供たちを育むことができるとおもうのだ。
投稿者 birdwing : 2012年9月23日 10:05
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