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2015年2月 8日
はてしない物語。
梅の花がちらほらと咲き始めた今日このごろ。トーキョーでは雪の日もありますが、立春を越えて、冬が少しずつ遠くなり春が少しずつ近くなります。
受験生のみなさんは、いざ出陣という時期でしょうか。頑張ってくださいね!体調には充分に気をつけて。いままで培ってきた力を存分に発揮するには、まず健康であることが第一です。入試当日が雪のこともあり得るので注意しましょう。
おもえば、ぼくが大学入試の時期、たくさん雪が降った記憶があります。
江戸川区の小岩という下町で1か月1万3,000円(!)の家賃の部屋でひとり暮らしをしていました。風呂なし、トイレ共同、四畳半の下宿です。御茶ノ水の予備校に通う浪人生でした。試験を目前にして、大雪の中をわしわし歩いて朝食の買い出しにコンビニに出掛けた記憶があります。合格発表の日にも雪が残っていました。
やがて3月になれば、多くのひとたちは卒業そして入学という季節を迎えます。終わりと始まりが重なるこの時期、いろいろな想いを抱くひとも多いのではないでしょうか。
とはいえ。Life goes on。人生は続きます。はてしない物語のように。その物語もいつかどこかで終焉を迎えることになるのですが、それでも世界は続いていくことでしょう。よろこびやかなしみの物語を綴りながら。
と、追憶を辿りながら、懐かしい曲をカヴァーして弾いてみました。
リマールというアーティストの「ネバー・エンディング・ストーリー」という曲です。ミヒャエル・エンデ原作の童話が映画化されたときのテーマ曲でした。80年代、若さを謳歌していたときに聴いた大好きな曲です。
YouTubeで公開しました。ご覧ください。
バックトラックは、MacBook Airに無料で付属しているGarageBandで作りました。ループ音源を切り貼りすると同時に、ステップ入力で一音ずつ音を置いていく制作方法を取っています。このときに、MacBook Airの処理が遅くて困った(苦笑)ひとつ音を置くと30秒ぐらい固まってしまう。要するにMacの場合は虹色の円がくるくる回っている状態になるわけです。
そんなわけで、こつこつと途方もない時間をかけてバックトラックを作りました。土曜日に昼ご飯を食べるのを忘れて、10時間ぐらい打ち込みに集中していたこともあります。どこかプラモデル作りに似ている感じ。今日は8小節分だけ作ろう、などと考えて曲を組み立てていきました。
録音と録画および映像編集は、やはり朝からはじめて午後3時ぐらいまで、お昼ご飯抜きで集中。何かに熱中すると寝食を忘れてしまうのですが(苦笑)、至福のときでもあります。映像編集には Adobe Premiere CC 2014 を使っています。こんなこともできるのか!と使うたびに発見があります。
「ネバー・エンディング・ストーリー」は名曲だけに、いろいろな方がカヴァーされています。まずは本家のリマールの楽曲を。
ぼくがいいなとおもったのは、坂本美雨さんのカヴァーですね。坂本美雨さん自体が好きなアーティストでアルバムも持っているのですが、クラシカルなアレンジがいいです。
坂本美雨さんといえば、VOCALOID(要するに初音ミク)の歌声ライブラリを彼女の声で構成した『Mew』がほしかった。坂本美雨さんの声で自作曲を歌ってもらえるのは素晴らしい。いつかDAW環境を整えたら買いたいです。
YAMAHA VOCALOID 3 Library MEW NEO (MEWNJP) 【国内正規品】 ヤマハ 2013-10-11 by G-Tools |
もうひとりはthe guitar plus me。ご存じない方も多いかもしれませんが、ぼくはタマス・ウェルズのライブで彼の出演の前に演奏していたthe guitar plus meをみて、「ZOO」というアルバムを買ったことがあります。アコースティックに英語の歌で、かなりよい曲を書かれる方です。個人的に趣向がぴったり合うアーティストさんです。
あらためて聴くといいですね!このアコースティックなアレンジ。
それから自分のカヴァー曲を完成させて、日高屋でしょうが焼き定食を食べていたところ、店内のBGMに日本語の「ネバー・エンディング・ストーリー」が流れてきて、おおお!?とおもいました。E-girlsというアイドルグループがカヴァーしているようです。それにしても、あまりの偶然というか、タイミングのよさに笑った。
フジテレビのドラマ『ビブリア古書堂の事件手帖』の主題歌として使われていたらしい。確かにぴったりの曲ではあるような気がします。
羽賀健二さんもカヴァーされているようだけど・・・これはいいや(苦笑)
ところで、映画化された「ネバーエンディングストーリー」の原作はミヒャエル・エンデです。ミヒャエル・エンデは、学生時代に付き合っていた同じ大学の年下のヨーロッパ文化学科の女の子に教えてもらったと記憶しています。エンデの他には「スノーマン」が好きで、絵を描いている子でした。
はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー) ミヒャエル・エンデ 上田 真而子 岩波書店 1982-06-07 by G-Tools |
大学の近くに現在、チョコレート色をした外壁の三角柱の区立図書館が建っていますが、ぼくが学生の頃、その場所は図書館建設予定の空き地でした。
雪が降ったある日、大学からの帰り道にその空き地に侵入して、雪だるまをふたりで作ったことを覚えています。空き地の隣家の2階から、おばさんに「雪だるま作ってるの。寒いのにあんたたち、よくやるわね」みたいな声をかけられた記憶があります。
恥ずかしい思い出を晒してしまうと、お互いの関係がうまくいかなくなったときのことです。彼女は埼玉の奥に住んでいたのですが、最寄り駅まで出掛けて偶然に会えることを期待して、駅のベンチで待っていたことがありました。
どこかストーカーちっくでもあり、自分は危ないやつだったかもしれん、と現在おもい出すと変な汗が出ます。雪が降っていて寒い日でした。しばらく待っていたのですが、雪が強くなってきたので帰りました。
後日、彼女にそのことを告げたら、冷たい目で「そんなことをしてわたしが喜ぶとおもった?」と言われて、めちゃくちゃ凹みました(苦笑)
ということをさらにその後、mixiを使っていたとき、なんとなく過去のエピソードとして投稿したところ「当たり前でしょ」と主婦の方から手厳しい批判をいただいて、さらにガラスのような心がぱりぱりと壊れました(苦笑)
おっしゃる通りでございます。ぼくは彼女を喜ばせようとおもって待っていたわけではありませんでした。ただ会いたかっただけです。
しかし、どこかで「こんなに待っちゃったんだぜ」みたいなナルシスティックで恩着せがましい気持ちがなかったかというと否定できない。若かりし自分には自覚できなかっただけで、潜在的にあったはず。それをきちんと見透かされていた。恥ずかしいですね。若い男の子の愚鈍さって、そういうところにある。
では50歳という齢に達した現在、オンナごころを理解できるようになったかというと、まったく自信がありません。いまでも、ぜんぜん理解できてない。自分は学生時代から進歩してないかも、とおもうことが多々ある。
いや、オンナごころだけでなく、他者というものが理解できていないんじゃないか。ただ、超能力者じゃないんだから他人のこころなんて読めないよ、とおもいます。他人を理解しなさいと言われますが、相当ムリがあるでしょ、それは。
この他者理解に関しては、ぼくは2つの考え方を持っています。
第一に、他者は基本的に理解できない、と諦めること。「それわかるなあ」「共感した!」というような言葉を、ぼくも安易に使ってしまうことが多いです。しかし、ほんとうにわかってんのか?という自省が常に必要だと感じています。
たとえば被災者の気持ち、障がい者の気持ちがわかるというけれど、ほんとうかよ?とおもいませんか。かつてぼくは、うつ病の方を「甘えだろ」とラジカルに批判したことがありました。しかし、自分が罹患してわかりました。そんなもんじゃない。とてもとてもしんどいものです。
なので、実際に同じ体験をしなけば、ほんとうのところは他者の痛みなんて理解できないとおもう。理解していないのに表層を繕って、わかったような顔をして語るのは傲慢の極みである。誠実じゃない。偽善者という印象さえある。
第二に、理解できないことを前提として、それでもひとは他者を理解する努力をすべきである、ということです。理解できないからほっとけ、じゃいけない。また、理解できない考え方を排除したり、みずからの価値観や世界観で暴力的にねじ伏せようとするのも間違っています。理解できない考え方も世界には存在することを認めたい。それが「多様性の容認」だと考えます。
今回、イスラム国による邦人ふたりの殺害によって、イスラム国自体に対する批判が高まっています。まったく彼等の考えていることは理解の範囲を越えていると感じました。しかしながら、イスラム国の自爆要員の方が、翻訳した日本語で日本人とコミュニケーションしているツイッターを読んで、彼等には彼等なりの切なさを抱えていることを痛感しました。(「日本語でTweetしていたイスラム国自爆要員ハーデスさんが切なすぎる。」)
あなたとわたしはまったく違う人間だ。
だから、悪いけどあなたのことは完全には理解できない。
でも理解しようとしているよ。
そう考えないと、さびしいじゃないですか。
ぼくはこの年齢にして他者に対する理解が未熟であると感じています。ただ、なんとかして理解したい。そして、どうすればあなたは喜ぶのかな、どうすれば悩んだり不安になったりしていることを解消できるのかな、ということを忘れずにいたい。女性に限らず男性や高齢者や若者など異なる世代に対しても同じことがいえます。
他者を理解するのは難しいですね。その課題があるからこそ人生や、ぼくら人間たちには「はてしない物語(The Never Ending Story)」が続くのかもしれません。
投稿者 birdwing : 2015年2月 8日 11:38
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