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2010年1月28日

「排除の空気に唾を吐け」雨宮処凛

▼book10-03:雇用崩壊の行く末に。

4062879832排除の空気に唾を吐け (講談社現代新書)
講談社 2009-03-19

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雨宮処凛さんの本、迫力がありました。ぐいぐい読ませるルポルタージュです。喩えるなら、戦場の最前線に踏み込んで銃弾の飛び交うなかで、実況中継するような印象でしょうか。

これは比喩でも何でもないのかもしれません。というのは、不安を抱えて派遣村に集まる人々、仕事に就けないシングルマザー、子供たちの餓死、生活すべてに行き詰った末に感情を爆発させて無差別に人を殺める通り魔事件など、貧困から派生した日本の問題を、さまざまな現場から報告する本だからです。

著者の引用によると、警察庁の発表では、07年の1年間の自殺者は3万3,092人。16分にひとりが命を絶っている計算になり、そのうちの57%が無職だそうです。年齢別では50代がもっとも多く、原因でもっとも多いのは「健康問題」。健康問題のトップはうつ病です。

無職、高齢者、うつ病の多さなどから、貧困や働くことができなくなったときのセーフティネットの欠如という問題が浮き彫りになります。生活困窮者を支援しているNPO「自立生活サポートセンター・もやい」の湯浅誠さんは、「五重の排除」という概念を提示しているそうです。以下のような5つの排除から、ひとびとは貧困に陥ると解説されています(P.40)。

1.教育課程からの排除
2.企業福祉からの排除
3.家族福祉からの排除
4.公的福祉からの排除
5.自分自身からの排除

痛切に感じたのは、5番目「自分自身からの排除」。

もちろん企業福祉や公的福祉は大事です。家族も含めて、まず社会が最低限の生活を支援する状態になければ、厳しい現状から立ち直るきっかけがつかめない。しかし、自分自身の存在を社会から排除してしまうと、もはやどんな救いも無力であり、役に立ちません。

記憶から遠ざかりつつあったのですが、秋葉原の無差別殺人事件が取り上げられていて、あの報道を視聴したときのやるせない気持ちを思い出しました。本日、初公判が行われ、今後の結果が気になるところです。

製造業の派遣労働者全体に厳しい波が押し寄せるなかで、圧力の歪みから弾き出されるようにして発生した事件でした。無差別殺人自体は、許されることではありません。しかし、雨宮処凛さんの指摘するマスコミの「正論」のふりをした「暴力」には深く頷きました(P.44)。

秋葉原の無差別殺人事件を受けて、読売新聞は以下のように述べた。
「世の中が嫌になったのであれば自分ひとりが世を去ればいいものを、『容疑者』という型通りの一語を添える気にもならない」(読売新聞「編集手帳」〇八年六月一〇日)
この言葉は、私の周りの自殺志願者たちに大きな衝撃を与えた。「やっぱり私のような人間は黙って死ぬべきなんですね」。ある人は寂しそうに呟いた。別に読売新聞のコラムだけじゃない。こういった「正論」のふりをした「暴力」が、この国には溢れている。
「お前の努力が足りないからだ」
「能力がないから悪いんだ」
「同じ境遇でも歯を食いしばって頑張っている人がいるじゃないか」
「それなのにお前は」
どれもある意味「正しい」言い分だ。その「正しさ」がわかるからこそ、人は黙り込んでしまう。そしてそんな言葉を、常に一〇〇倍ぐらいにして自分に投げかけているは他ならぬ自分だったりする。しかし、その「正しさ」には圧倒的に何かが欠けている。

マスコミから放たれて社会に蔓延したバッシングの「空気」によって、弱者たちが傷付けられることがあります。このとき弱者とは、狂気の行動に至る一歩手前で立ち止まり、良心によってバランスを取っているひとたちです。「空気」の圧力を敏感に感じ取り、良心の呵責から彼等は、犯罪ではなく「自分自身からの排除」の方向に自分を追い詰めていきます。

一方で、成功や夢を語ることは大事だけれど、明るさや頑強さだけで追い詰められてしまう繊細な弱者もいます。前向き思考は大事とはいえ"いけいけどんどん"という大昔の標語を唱えて、単純な頑張りで業績が上を向く時代ではなくなりました。そんな時代の変化に気付かない鈍感なシニアも多い。その鈍感さが、無意識のうちに若い人材や弱者を生き難さのなかへ追い込む。

元気を出せ、頑張れ、のような体育会系のエールや熱血だけで社会や景気が活性化するのであれば、これほど気楽な社会はありません。けれども、いま景気は長期的に停滞し、社会状況は複雑です。頑張っても右肩上がりの成長は望めません。そんなこと言われても・・・という戸惑いがあります。

人を殺すぐらいなら自分で勝手に死ねということばには、他者に対する寛容さの喪失、感性の鈍りが感じられました。シンプルでわかりやすいけれど、思考停止しているのではないか(P.47)。

もちろん、殺人や犯罪を擁護するわけでもなんでもない。ただ、「死にたいなら一人で死ね」ということは、一種の思考停止だし丸投げだ。この社会に生きる人間として、確実に何かを「放棄」してしまっている。

このあと著者が語るように、この十数年で生きることのハードルは一気に上がりました。格差や競争は激化して、負けたやつは去れ、戦えないやつは使い捨てだ、と一蹴される(P.51)。

多くの人が傷つき、疲れ果てている。そんな中、ギリギリの状態でこの社会にしがみついている。一度「弱者」と見なされてしまえば、社会から徹底的に排除されるからだ。一度のうつ病、病気、怪我、或いは非正規雇用、高齢という理由で、人はあっという間に社会からずり落ちてしまう。

社会にポジションを確保するためには、弱みはみせられません。ネットがしばしの癒しの場であったのも、そんな状況があったからでしょうか(P.68)。

企業は不況の中、「即戦力」だけを欲しがり、社会の空気からどんどん余裕がなくなっていった。学校でも職場でも、競争はどんどん激しくなり、一度そこから脱落してしまうと「ダメ」の烙印を押され、二度と這い上がることはできないと脅された。九〇年代は、他人に少しでも弱みを見せるとたちまち自らが引き摺り下ろされるという恐怖から、この社会から急速に「優しさ」が失われていく過程でもあった。だからこそ、リアルの世界で疲れ果てた者たちは、ネットの世界で弱い自分を曝け出し、束の間傷を舐めあった。そうすることが、必要だった。

「他人に少しでも弱みを見せるとたちまち自らが引き摺り下ろされるという恐怖」という言葉には、ぞっとするような共感がありました。だから強がってしまう。オーバーフローなのに、ひきつった笑顔で、まだまだ大丈夫、と言う。身体や精神にはっきりとわかるような影響として歪みが現れたときには、すべてがぼろぼろになっています。

東京に居るとわからないのですが、地方によっても困窮の状況に温度差があるように感じました。

2007年7月に、北九州市で起きた52歳の男性の餓死事件の詳細はショッキングでした。生活保護を打ち切られて10日間何も食べずに、「オニギリ食いたい」と書き残して死んでいった元タクシーの運転手。北九州市では、05年に68歳の男性、06年5月に56歳の男性が餓死しているそうで、餓死や自殺が多発する背景には「ヤミの北九州方式」という、一日の生活保護の申請件数を制限するような独特のシステムがあったようです。

「数値目標」で職員が生活保護の申し出を管理し、上限を超えたら切り捨てていく方針は、どう考えても人間を人間としてみていません。そんな北九州市のやり方を国は「モデル福祉事務所」として高く評価していたそうです。目標数値の達成しかみていなかったのでしょう。

餓死に関しては、シングルマザーが子供を置き去りにする事件も徹底的に取材されていました。

本書でも取り上げられていましたが、是枝裕和監督の「誰も知らない」という映画はぼくも観たことがあります。男と出て行った母親のために置き去りにされた子供たちが、ぐちゃぐちゃな部屋のなかで必死で生きていく姿に凄惨さを感じました。この作品は実際にあった1988年の「巣鴨子ども置き去り事件」をもとに作られたようです。

誰も知らない [DVD]

この問題においても、育児放棄した母親をバッシングすることは簡単です。しかし、モラルの劣化だけでは片付けられない側面もあるようです。睡眠薬で子供を眠らせたあとで夜の仕事に行く、という別のシングルマザーのエピソードには、何ともいえない後味の悪さを感じました。

豊かな国であるはずだったのに、その片隅で、老人やシングルマザー、子供たちのような弱いものが餓死しつつある。働きたくても働けないひとたちが排除されていく。

どうしてこんな日本になってしまったのだろう。
日本はどうすれば変わるのだろう。

最終的にぼくが感じたのは、「唾を吐け」という批判、もしくは自暴自棄の行動は刹那的な意識改革を生んだとしても何も変えないだろう、ということです。病の本質をとらえ、的確な行政や法による治療手段を確立しなければ、社会は健全にならないのではないか。

「労働組合」の枠を超えた「労働/生存運動」として、インディーズ系労組が誕生し、自分たちの権利を勝ち取ったという実績は明るいものといえます(P.56)。

しかし、この本で紹介されていた、熊本KY[くまもと よわいもの]メーデーのような盛り上がり方は、いかがなものでしょう。メンへラー(うつ病や自傷などの精神的な病を患っているひとたち)が「前代未聞」の「ばか騒ぎ」をしたのはどうかな、と正直なところ首を傾げました(P.65)。

その宣言文通り、熊本KYメーデーは前代未聞のばか騒ぎデモとなった。私は行けなかったのだが、当日の動画を見ると、マクドナルド前で「時給を二〇〇〇円にしろ!」と叫ぶわ、「練炭を買う金がないぞ!」なんてシュプレヒコールを上げるわ、プラカードには「引きこもりも社会人だ」と堂々と書いてあるわ、ほぼ全員がコスプレでアニソン(アニメソング)で踊りまくり、商店街や線路の上で寝転がるわと、今までたまりにたまった憤懣を爆発させるような革命的デモとなったのだった。そうして「絶望の他は失うものを持たない」彼らは、「メンへラー」が「逆ギレ」した時の底力を、まざまざとこの社会に対して見せつけたのだった。

優等生を気取るつもりはありません。メンへラーはメンへラーらしくおとなしくしていろ、というつもりもありません。けれども、うつ病で休職しているような人間が、デモには積極的に参加して、ばか騒ぎに注力するのは何かが歪んでいる気がします。社会に訴え、啓蒙し、「よわいもの」の存在を主張する活動の一環であっても、そのチカラの使い方はどこか間違っていないでしょうか。幼稚に感じるのは、ぼくだけでしょうか。

チカラの使い方が間違っているというのは、その後、最終章「民営化された戦争」で、民間軍事会社が傭兵を含む「派遣社員」によって、戦争を機会に雇用を活性化させていた、ということを読んだからです。

ネットカフェ難民にも自衛隊への勧誘が多いとか。行き詰った先に路上の通行人を無差別に殺戮することとは規模が違うのですが、雇用活性化という大義のもとに、戦争という機会を作り出す、あるいは戦争に派遣社員を送り込むというような事態になれば、日本の未来がほんとうに不安です。「ばか騒ぎ」は、衝動的にそんな社会の(悪いほうへの)変化を肯定しかねないものだと感じています。

ということからふと思い出したことがあります。

先日「G.I.ジョー」という映画を観ました。VFXによる最先端の兵器にかっこいいなあと感動したのですが、もしかすると洗脳的に戦争のプロモーションの一端を担っている映画かもしれない。兵隊はかっこいいぞー、男は戦うべきだぜー、というような。たぶん考えすぎでしょう。

多くの大量虐殺型のゲームもまた、戦争に対するモラルを劣化させる一端となっているのではないでしょうか。暴力的ゲームが有害かどうかという議論は昔からあって、殺し合うゲームが子供の暴力性を促進させるものではない、という心理学の調査結果のレポートも読んだ覚えがあります。

しかし、社会の状況(文脈=コンテクスト)によって、映画やゲームなどの意味付けも変わります。

経済的に困窮し、精神的にも追い詰められ、想像力が劣化し、殺し合う相手の痛みを理解する感性が失われた社会では、「戦争で兵隊?働けるなら、それもいいじゃん。寝る場所も食べ物も用意してくれるんでしょ。最高でしょ!」となりかねないのではないか。実際に、食事もできず寝る場所もない状況で、留置所に泊まれることを動機として、通り魔の犯罪を起こしたという女性の話も雨宮処凛さんの本には書かれていました。

大袈裟かもしれないのだけれど、こんな時代だからこそ、大量虐殺型の映画やゲームのコンテンツは、作る側も楽しむ側も矜持を正す必要があるのではないか、と考えます。エンターテイメントだからいいじゃん、楽しければいいじゃん、という単純な理由による肯定的な勢いに疑問を提示したい。

排除型社会に対する批判を諦めるのは残念ですが、逆に、暴動を起こしたり、破壊的な活動を機会として刹那的な経済的需要を求めても、かえって社会は荒廃するばかりのようにおもわれます。

ところで本日、アップルからiPadの発表がありました。

テクノロジーとデザインが優れているのはもちろん、製品を取り巻く生活様式(ライフスタイル)そのものを変えてしまう可能性を感じました。

これからの産業で、ほんとうに革命を起こすのは、革新的な思考に裏付けられたテクノロジーとデザインではないか、と感じています。もしかすると新しいモノづくりの可能性もあるかもしれません。雇用状況を改善する突破口も、社会をよりよく変えていく糸口も、そこにあるのではないか、と考えているのですが。

投稿者 birdwing 日時: 20:32 | | トラックバック

2010年1月24日

[DTM作品] Fine after cloudy

はやいペースですが、先週に引きつづき趣味のDTMでまた新曲ができました。"なんちゃってジャズ"第2弾です(笑)。

柳の下に泥鰌を探しつづけることが自分流の切磋琢磨、なのでしょうか。よくわかりません。とはいえ、テクノやエレクトロニカのぴこぴこサウンドはお休みにして、もうすこし別の音楽スタイルを徹底的に追求してみようと考えました。ぼくの苦手な3連符系の音楽です。

今回はジャズっぽい雰囲気を大切にしながら、わずかばかりポップスの明るさを心がけてみました。構成は前回と同様、ピアノ、ベース、ドラムスのトリオによる打ち込みです。

俳句に似ている気もしますが、五・七・五という枠のなかでことばの世界を構築するように、楽器の構成を決めてしまうと、あとは決められた枠内でどのように打ち込むかに集中できます。音色の選択やそれぞれのアレンジを考える必要がなくなるので、その分だけ負荷が減ります。

といっても俳句が個々のことばの研ぎ澄まし方が重要になるように、個々の楽器のきめ細かな音づくりが必要になります。さらに苦手な3連符のノリなので、いまひとつまだ修行が必要、なのですが。

タイトルは「曇りのち晴れ」。日本語でもいいかなとおもいつつ、英語で「Fine after cloudy」としてみました(合っているのでしょうか)。ブログで公開します。お聴きください。
 
 
■Fine after cloudy(3分28秒 4.76MB 192kbps)

作曲・プログラミング:BirdWing
 
 
1月。寒い日がつづきますね。午前中は晴れたと油断していると午後からにわかに雲ってしまったり、曇り空の寒い日だなーと襟を閉ざしていると、急に晴れ間が広がったり。太陽が出ていても風は冷たい。耳たぶや鼻が痛くなります。童話にあるような、北風と太陽の根競べのような、曇天と晴天がめまぐるしく変わる天候を曲にしたいと考えました。

マイナーコードからはじまって、サビでメジャーに展開します。安易ですが、この展開によって「曇り(かなしい空模様)」から「晴れ(明るい青空)」を意識しました。けれどもサビの部分にもマイナーコードを残して、すっきりと晴れてしまわずに雲の合間からわずかに陽が差し込むような音をめざしました。快晴というわけではなくて、雲の多い晴天です。

なんとなくサビのコード進行は、小室哲哉さんっぽいかな、というのが気がかりです(苦笑)。仕方ないですね。80年代、デビュー前のTMNのPVを渋谷で観て、衝動的にJUNO-106というシンセサイザーを分割払いで購入したひとなので。誰も知らないとおもいますが、TMNの1枚目のアルバム「RAINBOEW RAINBOW」は、個人的にはニック・ヘイワード(ネオアコでは有名なヘアカット100のミュージシャン)テイストの雰囲気がある名盤だとおもいます。

B00005G4STRAINBOW RAINBOW
TM NETWORK
エピックレコードジャパン 2000-03-23

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B0000076E8風のミラクル [+9]
ニック・ヘイワード
BMGインターナショナル 2000-04-21

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曲を作っている最中、いやー楽しかった。ギターやピアノを弾いていると時間を忘れるというひとが多いけれど、正直なところ、ぼくもPCの画面に向かってマウスで音を置いていくと(ほんとうに!)時間の過ぎるのを忘れました。楽しくて仕方がない。

読み手のことを考えて書きなさい、聴き手のことを考えて曲を作りなさい、とよく言われます。しかし、過剰に受け手を考慮して創造すると、下手をすると受け手に媚びを売っているような文章や音楽になります。

創作に集中しているときは、ぼくにとっては、ほとんど自己満足の世界です。けれども、自分が読みたい文章や聴きたい曲を夢中で追い求めている。自分自身が第一の読み手/聴き手であり、まず自分という読み手/聴き手を満足させる必要があるのかもしれません。

で、いったいぼくの音楽はどこへ向かおうかな?と考えました。

クラシックを聴きながら、ジャズ的な曲を作ったかとおもうと、エレクトロニカを聴いていたりする。アコギによるフォークソングも好きです。

できれば柔軟にあらゆる音楽を吸収していきたいのですが、それでは曖昧なので、憧れをひとつひとつ検証した上で、ロジャー・二コルスのようなソングライティングをしたい、という目標を立ててみました。いま制作している音楽とはぜんぜん違っていて、どこが?という感じもあるけれど、それがぼくの趣味の曲づくりにおける究極の目標です。

ロジャー・二コルスはカーペンターズに曲を提供したことでも有名ですが、The Small Circle of Friendsというユニットで数枚アルバムを出しています。40年ぶりの新譜には、ドラムスは打ち込みでありながら、時代を感じさせないあったかさがあって感動しました。「懐かしさと新しさと。」というエントリーや「Full Circle」というアルバムの紹介をブログに書きました。

Fineつながりでとても好きな曲「Love So Fine」と「The Drifter」をYouTubeから引用します。

B001E2N5LYFull Circle
Roger Nichols & the Small Circle of Friends
NOW SOUNDS 2008-10-28

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■Love So Fine - Roger Nichols & The Small Circle of Friends

■"The Drifter" - Roger Nichols & The Small Circle Of Friends (1969)

こんな感じのポップスを作ることができれば、しあわせですね。あらためてロジャー・二コルスの音楽を聴き直して刺激を受けました。刺激といえば、先日観た「Little DJ」という映画にも、音楽に対する想いという意味でインスパイアを受けています。

素晴らしい音楽を作るために、たくさん映画を観る、たくさん本を読む・・・という方法論もあります。しかし、ぼくはまず「・・・のために・・・する」という姿勢に、どこか作為的で同感できない何かを感じてしまう。場合によっては「たくさん」のほうが目的になって「こんなにたくさんの本を読んだぜ(音楽を聴いたぜ)」という量自慢になりかねない。

大切なことは、他人にはどうであっても自分が夢中になれる何かを探すこと、ではないでしょうか。どんなに知識を増やしても到達できない場所があります。難しい知識はなかったとしても、自分の素直な感情に向かい合うと、すっと自然にできあがる作品もある。

自分さえ夢中になっていれば、社会が晴れていても曇っていても、それなりにしあわせなのではないだろうか、などと考えています。

投稿者 birdwing 日時: 09:50 | | トラックバック

2010年1月22日

Little DJ 小さな恋の物語

▼cinema10-05:死が生の原動力を与えてくれることも。

B0014CD2LMLittle DJ 小さな恋の物語 [DVD]
アミューズソフトエンタテインメント 2008-04-25

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確か12歳のときだったと記憶しているのですが、親父からソニー製のラジカセを買ってもらいました。ほんとうはマイクとミキシングができるラジカセがほしかったのだけれど、親父が買ってきたのは、ほんとうにベーシックな機能だけのシンプルなラジカセでした。子供ごころながら、すこしがっかりしたのを覚えています。それでもオールナイトニッポンなどの深夜放送を布団のなかで聴いたり、自分の声を録音して楽しんだりしたものです。

中学生になってからは、小遣いを貯めてソニー製のミキサー(MX-5)を購入。ミキサーといっても3系統だけの入力(モノラル入力・出力)なのだけれど、5,000円程度だったその機材は当時のぼくには宝物で、さらにダイナミックマイクを購入し、自分でディスクジョッキー(DJ)の真似事をして遊んでいました。

コンデンサーなどの部品を集めてオーディオ機器を自作する機械好きな友人がいて、彼の作ったトランスミッター(FM電波を飛ばす機械)で、近所に生放送をしたことも覚えています。あと、生放送だナマロクだといって、自転車にラジカセを積んで海に波の音を録りに行ったことも。

当時に買ったミキサーはいまでも大事に持っています。箱もきちんと残っています。何しろ、ぼくが音楽を趣味とする原点となったような機材ですから。

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そんなディスクジョッキー好きの過去があったため、「Little DJ」というタイトルに惹かれました。どうやら病院の院内放送のストーリーらしい。採血するときの注射針をみられないほど病院は苦手です。どうしようか半分は迷いつつ、それでもDJの誘惑に負けて借りてきました。

物語は、とあるFM局のディレクターである海乃たまき(大人の役は広末涼子さん)が、番組を打ち切られてしょげるシーンからはじまります。彼女の担当しているのは深夜3時の番組で、リクエストが一通も来ない。けれども、彼女がその仕事に就いたのは、ひとりの少年の忘れられない思い出があったからでした。そして、その少年、高野太郎(神木隆之介くん)の回想シーンに入っていきます。

野球の試合中に倒れてから調子を崩して入院した太郎は、退屈な入院生活をもてあまして、大先生(原田芳雄さん)の部屋に忍び込みます。定期的に院内放送を流しているその部屋には、壁一面にレコードがあり、オープンリールのデッキなどオーディオ機器が揃っている。思わずサウンド・エクスプレスのDJ尾崎誠(小林克也さん!)の真似をして、曲をかけながらマイクに向かって話しかける。と、それを大先生にみつかって、院内放送でDJをやってみないか、と話を持ちかけられます。いつもはレコードを流すだけの放送に、太郎の喋りを加える。

ええと、ワタクシゴトばかりで恥ずかしいのだけれど、実はぼくも少年の頃、自宅でミキサーを使って遊ぶだけではつまらなくなって、学校の放送委員になり、昼の放送をディスクジョッキースタイルにがらりと変えてしまったことがありました。保健室のかわいい先生から、「BWくん、大きくなったらDJになりなよ!ぜったいなりなよ」と言われて、照れたことがあったなあ(遠い目)。

大先生の部屋で、最初に神木隆之介くんが再生した音楽はシュガー・ベイブの「SHOW」 。思わず、にやりでした。まいりました。いい曲だ。

B000BNM8W4SONGS 30th Anniversary Edition
シュガー・ベイブ
ソニーレコード 2005-12-07

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その後、何回かDJのシーンがあるのですが、TULIPの「ブルー・スカイ」がかかったことにも感動。この曲、親父がFM番組からカセットに録音して、ドライブのときによく聴いていたテープに入っていました。当時はコード進行などわからなかったのですが、かなしみと嬉しさが交互にあらわれてくる感じでいいなあと、この曲がかかるのを待ち望んでいました。映画の場面で「チューリップ・ガーデン」という2枚組みのレコードが大先生の部屋にありましたが、ぼくもこのレコード持っています。これ、ほんとうに擦り切れるほど聴いたっけ。

TULIPの「ブルースカイ」はこんな曲です。いまでも青空の写真をよく撮りますが、空を好むようになったのは、この曲がきっかけだったかもしれない。

B00005HQL0チューリップ・ガーデン
チューリップ
EMIミュージック・ジャパン 2000-12-06

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音楽はもちろん、随所に70年代的なノスタルジックな小物が登場します。太郎の父親(石黒賢さん)が乗っているクルマは赤のスカイライン。丸いテールランプが懐かしかった。うちの父親のクルマもスカイラインでした。

と、物語の筋には関係のない共感ばかりを書き綴ってしまいましたが、太郎のDJによって、退屈な入院生活がはなやいできます。同じぐらいの年齢の友達もできる。個室から大部屋に移ってからは、大人たちとの交流も生まれます。一風変わったひとたちばかりだけれど、みんなあったかい。

太郎の父親は、彼にクィーンのアルバムを買ってくるのですが、ノートを覗き見していたため、太郎は怒ってレコードを投げ捨ててしまう。同室で入院している結城(光石研さん)の息子周平(賀来賢人さん)は「そんな風にレコードを扱っちゃだめだ」と諭します。

周平もまた父にそのレコードを買ってもらい、そんなの好きじゃないよ、と突っぱねていた。ぼくも、せっかく父から買ってもらったラジカセをミキサーがついていないなど贅沢な不満を感じたことがありました。いま息子たちにたまに変わった玩具を買って帰ると叱られます(苦笑)。父と息子の両側面から、わかるなあ・・・と思った場面でした。

そして、交通事故で入院し、太郎が"ミイラ"とあだ名をつけた海乃たまき(少女時代は、福田麻由子さん)との淡いレンアイ。オリオンの下にある星がみえると願いをかけられるとか、いっしょに深夜、ベッドのなかで寄り添ってミュージック・エクスプレスの深夜放送を聴くとか(これは耐えられないとおもうなあ。中学生の少年としては。笑)、くすぐったいようなシーンが連発です。いや、でもこんなにかわいい女の子が同室で入院していたら、ぜったいに熱が出るとおもう。

無愛想でとっつきにくい、中村捨次(松重豊さん)は、太郎に20年前に好きになった女がいまでも忘れられない、いい声だった・・・のようなことを語り、太郎に、たまきはいい女になる、想いを伝えなきゃダメだ、ぜったいに放すな、と伝えて去っていきます。

いま伝えなければ、想いは永遠に伝えられない。

それはとてもよくわかります。レンアイというものは、そういうものです。機会を失うと永遠に次のチャンスはめぐってはこない。太郎は、たまきに何度も想いを伝えようとしながら、勇気がなくて伝えられません。手紙も渡せなかった。たまきと映画を観るために、太郎は病院を抜け出すのですが、その結果、冷たい雨に打たれて無理をして倒れてしまいます。渡せなかった手紙を読んで、父親(石黒賢さん)が堪えながら涙を流すシーンには、ぼろぼろ泣けました。

太郎がたまきと映画「ラストコンサート」をいっしょに観たあとで、たまきは「ステラは白血病でありながらずっと隠し通して、残された命を恋にかけた。できる?そんなこと」というようなことを太郎に言います。無邪気な感想なのだけれど、残酷なことばです。子供の無邪気さは、ときに残酷になる。

結局、後半ぼくは号泣。久し振りに映画を観て泣きました。

できすぎた話だよね、という冷静な感想はありだとおもいます。ただ、ぼくはDJ(ただの皿回しではなく、曲と曲をうまくつなぎ合わせる技術者ではなくて)というシチュエーションや、70年代のノスタルジー、何かを伝えようとする表現者としての苦悩、函館という舞台の叙情など、そんなものを含めてこの映画に打たれました。観てよかった。

そうしてぼくが最後に強く感じたのは、残された海乃たまき(広末涼子さん)の現実に負けない、生きようとする力です。ひとりの少年の死が、彼女に生きる力を与えた。彼女は打ちひしがれた現実に負けずに、伝説のDJの存在や、かつてのようなわくわくする感動を蘇らせようとしている。ことばにならない力をこの映画から与えてもらったような気がしました。

ブログも(あるいは、ついったーのようなつぶやきも)、ぼくにとってはDJに近いのではないか、とおもうことがあります。

音声のように消えてしまうものであり、インターネットの情報の波にのまれて消滅するものであったとしても、表現することで聴いている(読んでいる)誰かをたったひとりでも生かすことができれば。とても素敵なことではないでしょうか。

■PV15(Little DJ)

■公式サイト
http://www.little-dj.com/
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投稿者 birdwing 日時: 20:25 | | トラックバック

2010年1月21日

「なぜ日本人は劣化したのか」香山リカ

▼book10-02:日本の劣化に歯止めをかけるには。

4061498894なぜ日本人は劣化したか (講談社現代新書)
講談社 2007-04-19

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2000年以降、世界の経済情勢の変化はもちろん、日本において何かが大きく変わりつつあると感じていました。長引く不況だけが原因とは言いがたい。複雑に絡み合った不安が社会に蔓延し、ぼくらのこころの奥底に澱んでいた気がしています。それはいったい何だったのか。

2010年、過去の10年とこれからの10年を考えてみようと本を探して書店を彷徨っていたのですが、香山リカさんの著作「なぜ日本人は劣化したか」というタイトルを本棚でみつけて、わかりやすいキーワードにすこしだけ抵抗を感じつつ、ああそうか、日本人は劣化したという考え方もあるのか、とみょうに納得しました。2007年発行の本で若干古いけれど、現在でも頷ける部分があります。

雪印のような大企業の不祥事。衝動的な通り魔による殺人事件。派遣村、内定取り消しなどの雇用問題。迷走する政治。社会の歯車が噛みあわなくなった出来事に、日本はどうしちゃったんだろう、何かが緩んでしまったのではないか、と感じていました。

精神科医でもある香山リカさんは、そのような現象に、若年層の基礎体力、活字を読む力、他者のこころのうちを読み取る想像力の低下などを加えて、日本の病を「劣化」と診断し、多岐にわたって劣化の兆候を挙げています。

たとえば、電車やコンビ二の前で座り込む「ジベタリアン(死語でしょうか)」。彼ら、彼女らは、決して礼儀を失っているのではなく、そもそも「立っていられない」とのこと。おもわず失笑してしまったのですが、体力の低下が座り込む若者を輩出しているという解説に脱力しました。モラルの低下だけではないのです。

確かにそうかもしれません。耐性が衰えている。さらに驚いたのは、大学で「不可」をもらうことによって情緒不安定に陥ってしまう学生がいるということでした。学校の課外活動で先生に叱り付けられただけで、自傷にまで向かってしまう事態もあるそうです。そこまで日本人は打たれ弱くなっていたのか、と底知れない不安を感じました。あまりにも傷付きやすい。個人の甘えとしてバッシングされそうなことですが、社会的な病として原因がありそうです。

結局、生きる力自体が劣化しているのではないか、と香山リカさんは指摘します。この嘆きにも同意せざるを得ません(P.144)。

こうなるともはや、生物として生命を維持する力そのものが劣化しているのではないか、とさえ言いたくなる。ちょっとしたことで傷ついて、「もう死んだほうがいい」と考える若者が増えているのも、心が弱くなっているのではなくて、生物としての耐性が低くなっており、「死にたい」という発想がわくのは、彼らのとってはある意味で自然の反応なのではないか、とさえ思うことがある。

いくつか挙げられている劣化の現象において、ぼくがいちばん脅威に感じたのは、「排除型社会」と「寛容の劣化」でした。

米国を例に考えても、あらゆることを訴訟など法的手段に訴える社会は、徹底的に話し合い歩み寄ろうとする「寛容」の劣化だとも考えられます。その結果として、厳罰社会が待っているわけです。他者を監視し、制裁を加えることで解決を行う。あるいは銃弾で解決する。合理的な考え方の進化の結果なのかもしれませんが、思考停止の極みともいえなくない。

インターネットはもちろんあらゆるコミュニティにおいても、共感と同時に強烈な排除の意識が場を占めることがあります。空気(ルール)の読めない人間を排除していく。仲間うちだけで通じる隠語の使用もそうですが、異質なものの排除は、多様性に対する「寛容さ」の喪失ともいえます。

自由な発言の場であるはずのコミュニティが自由を縛り付ける。自由な考え方をしている人間は口を噤むことになり、もし口を開いたとすれば、総攻撃のバッシングが待っています。炎上という現象も、劣化の視点からみれば、寛容さの劣化といえる側面もあるかもしれません。

すこし話を戻すと、香山リカさんは犯罪学者でニューヨーク市立大学特別教授のジョック・ヤングが提示した「ゼロ・レトランス」という概念を引用しながら、包摂型社会から排除型社会への変化を解説しています。

ゼロ・レトランスとは、「市民道徳に反する行為を絶対に許さず、しつこい物乞いや押し売り、浮浪者、酔っ払い、娼婦を厳しく取り締まり、街中から逸脱者や無秩序を一掃すること」であり、次の6つの要素を挙げています(P.114)。

1.犯罪や逸脱にたいする寛容度の低下。
2.目的達成のために懲罰を利用し、過激な手段を用いることも辞さない。
3.礼儀や秩序、市民道徳の水準を、知られうるかぎりの過去まで戻す。
4.市民道徳に反する行為と犯罪が連続したものとみなされ、「生活の質」を維持するための規則を破ることは、重大な犯罪とつながっているとみなされる。
5.市民道徳に反する行為と犯罪は関係があり、市民道徳に反する行為を監視しておかなければ、さまざまな形で犯罪が増加すると信じられている。
6.そうした考え方を広げるために、同じテキストが何度も繰り返し言及される。それは、一九八二年に『アトランティック・マンスリー』誌に掲載され、もはや古典として知られるようになった、ウィルソンとケリングによる「割れ窓(Broken Window)」という論文である。

このゼロ・レトランスによる排除型社会の背景には、社会の衰退があるといいます。衰退の例として「失業者の増大、コミュニティの崩壊、伝統的な核家族の解体、他者への尊厳の念の喪失、社会病理の蔓延」をヤングは挙げていますが、「衰退」は「劣化」に置換できると香山リカさんは言及します。

最近、コンプライアンスも最重視されるようになりました。しかし個人的には、行き過ぎたコンプライアンスは監視社会や厳罰社会を生み、社会全体の勢いを失速させるような気がしています。法を守ることは大事です。しかし、近視眼的に目の前のことばかり注視して取り締まるのではなく、社会やビジネスの将来的な発展を考慮した上で、何を取り締まり、何を解放するかについて考える必要があるのではないでしょうか。

保守的な思考に陥ると、未来よりも過去のこと、「むかしはよかった。あの時代に戻るべきだ」という嘆息も出てくるもの。ヤングのことばで「衰退と欠乏が問題にされると、そこにはいつもノスタルジーが続く」という指摘が強調されています(P.118 )。

社会民主主義者から保守主義者までが「ほのぼのとした家族や職場、地域共同体の思い出に浸」り、"かつての価値"を復権させようと目論んでいる。狭量で不寛容な排除型社会の裏には、このノスタルジーというやっかいな怪物が潜んでいる可能性があることを、ヤングは鋭く指摘している。

確かに日本にも昭和懐古などの風潮はありましたね。

このことを考えると、衰退、劣化ということばとともに「老化」ではないか、ともいいたくなります。よい意味でとらえると成熟化ですが、成熟して豊かになったかというと、むしろ「先がない」。袋小路に追い詰められた印象が強い。追い詰められて行き場のない先で、消耗しつつあります。これは老化ではないか。

社会全体が老化したとしても、新しい世代のひとたちは困るばかりです。老化、劣化は食い止めなければならない。では、どうするか。

最後の第九章では、この劣化を防ぐためにどうするべきかを論じています。劣化によって人口が減少すれば「そこそこみんなが幸せ」という社会に軟着陸できるのではないかという、上野千鶴子さんの楽観的なのか捨て鉢なのかわからない見解などが引き合いに出されていました。それもいかがなものでしょう。

香山リカさんの書かれていることからぼくが重要だと感じたのは、自分たちは劣化しているという「病識」を持つということと、「無理と自制心」の必要性でした。

前者は精神科医らしい見解と感じました。後者は、企業の不祥事などの対策も含めて大事なことです。企業倫理の劣化が新聞を賑わす不祥事ほどに事が大きくなれば、企業側の危機感も募ります。しかし、ほんとうに大事なのは、もっとささやかな生活レベルやビジネスの現場で自制心を発動することではないか、とおもいました。

「えんぴつで奥の細道」のような漢字をなぞる本がベストセラーになったことに対して(幼稚園などの子供向けにそんな学習教材がありましたが、大人向けの本まであったんですね)、出版社や編集者が「いくら売れるからといって、こんな本を出すのは活字を扱う人間としてどうか」と自省すべきという主張には同感でした(P.158)。

最後の"売る側の矜持"は、「すべてを市場に委ねる」という新自由主義的な考え方とは相容れないものだ。新自由主義は、「売れるものは、市場で多くの人に選ばれたよいもの」という"魔法の大義"をものの作り手に与えてしまった。「売れたことは売れたが、作品としてのクォリティが低いから作り手としては満足できない」といった言い方は、いまや通用しなくなった。その逆の「売れなかったけれど、作品としてはよくできていた」も同様である。

ブームとなっている新書にも、ときどきひどい本があります。タイトルだけキャッチーだけれど内容はカスのような本だったり、ブログじゃないのに(笑)などと挿入されていたり。お金を出して購入しているのだから、真面目に作ってほしい。

日本人としての矜持を正すこと。
これがいちばん大切なことではないか、とぼくは考えます。

コンプライアンスであっても、ただ法を守るだけという形骸的な目的になってしまうと、刑罰しか目がいかなくなります。何のために法を守らなければならないか、あるいは行動規範そのものを見直して、日本人として誇りを持てることが重要だと感じました。劣化を止めようとしても個別の問題にかかずらわっていると、本質を見失う。それこそ「病識」をきちんと捉え、本質から変えていく必要があります。

音楽産業が衰退(=劣化)したのも、売れることを第一主義とした市場重視の姿勢にあったのではないでしょうか。小室哲哉さんの詐欺事件のようなスキャンダルも、市場重視的な姿勢から生じたと考えています。金儲けに目が眩み、金に追い回されるのではなく、クリエイターとしての矜持を正していれば、世間を騒がすような悪態を露呈せずに済んだはず。

劣化を食い止めるためには、体力も知力も必要になります。若者だけでなく、大人であるぼくらも体力・知力を鍛えなければ。そう感じました。

投稿者 birdwing 日時: 08:09 | | トラックバック

2010年1月17日

[DTM作品] Sophisticated Fiction

趣味のDTMで作った新曲は、"なんちゃってジャズ"です(苦笑)。

クラブジャズという音楽が一時期、流行っていました。CDショップの店頭にコーナーがあったことを覚えています。いまはどうなっているのでしょう。そんなクラブジャズ風の軽く踊ることのできそうなジャジーな曲を作ってみたいとおもいました。ジャズには詳しくないので、いい加減な解説ですみません。

タイトルはS.F.つまり「Sophisticated Fiction」。洗練された小説、ぐらいの意味でしょうか。完成したばかりの曲をブログで公開します。


■Sophisticated Fiction(2分39秒 3.62MB 192kbps)

作曲・プログラミング:BirdWing


インスパイアされたのは、まずジャズとは関係ないのですが、先日ブログにも感想を書いた「4分間のピアニスト」という映画でした。女囚であるジェニー・フォン・レーヴェン(ハンナー・ヘルシュプルング)の弾く低音を使ったバッキングが、かっこよかった。ピアノの打楽器的な奏法に惹かれました。

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ギャガ・コミュニケーションズ 2008-06-06

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ピアノのバッキングを聴いて思い出したのが、北欧ジャズのラーシュ・ヤンソン・トリオによる「Witnessing」というアルバムです。インディペンデントレーベルのせいなのか、amazonでジャケットが表示されないため、デジカメで撮影したものを掲載します。

091017_lars.jpg

全体的には、メロディアスで透明なやさしい音がラーシュ・ヤンソンのピアノのよさだと思うのですが、1曲目「Success-Failure」のラスト5分ぐらいのところで、ベースと呼応するように低音の鍵盤を、がが、がが、のように弾くところがあります。ノイズともいえる音なのだけれど、セッションの最後にお遊び的に付け加えられたパーカッシヴな演奏がみょうに印象に残りました。

ラーシュ・ヤンソン・トリオの公式ページは以下になります。

■日本語オフィシャルサイト
http://www.lars.jp/
100117_lars_hp.png

そんな背景をもとに今回、楽曲的には、クラップ(手拍子)以外は、すべて打ち込みで作っています。そして、打ち込みでぼくがいちばん苦手とするのが、シャッフル(スウィング)の曲なのです。

3連符のノリが苦手。どうもうまくいかない。ちーちきちーちきとハイハットを刻んでいるけれど、何かが違う。悩みました。ピアノの音を細かく調整しても、どこかがズレている。変だ。今回だけは、絶対に生で弾いた音楽にかなわないなと投げ出したくなりました。ドラムのスネアの入れ方も、何度もジャズのアルバムを聴いても法則性がわからない。

また、3ピース(トリオ)編成の3トラックだけの打ち込みのため、気が抜けません。細かい手抜きがくっきりと聴こえてしまう。ついつい、3ピースのバンドをやっていた頃の緊張感を思い出しました。ベースは、アンプシミュレーターを通して強烈にコンプレッサーをかけています。

社会人バンドをやっていた頃、ばりばりのジャズギタリストのお兄さんに、ウォーキングベースの理論を教えてもらったことがあったっけ。のみ込みの悪い生徒なので、きちんと覚えられなかったのですが、「次のコード展開を予測してラインを作る」という知的な法則に打たれました。通常はルート(基本となる音。Cならド)を弾くのがベースなのだけれど、加えて次の和音に橋渡しをするように音をつないでベースを「歩かせる」。そんな話だったように記憶しています(合っているかどうかは不明)。

ソフィスティケイテッド(洗練された)とタイトルに付けたのだけれど、完成度としては、まだまだ。洗練された打ち込みニストをめざしたいものです。

さてさて。いつものように余談です(笑。実はこれが自分としては楽しみ)。

タイトルはSFにしようと最初に決めました。で、さて何の略にしようか、と。単純にScience Fictionでは面白くない。ニューウェーブ的には、Speculative fiction(思弁小説)という呼び名もあるようです。しかし、もうひとつ。藤子・F・不二雄さんは「すこし・ふしぎ=Sukoshi-Fushigi」という造語をSFと呼んでいるらしい。ラーシュ・ヤンソン・トリオの「Success-Failure」もSFですね。サンフランシスコも略すとSF。ちょっとお恥ずかしいところでは、sex friendもSFだったりして(Wikipediaの「SF」を参考)。

SFという略ではいろいろなことを思い出したのだけれど、ショート・フィルムなども考えられます。ブロードバンドが普及して、短編どころではない長い尺の映画も配信できるようになりました。

映画でSFといえば、ミュージックビデオでは著名な中野裕之監督の「SF サムライ・フィクション」も印象的な作品でした。モノクロの映像に布袋寅泰さんの音楽が渋い。着物姿の緒川たまきさんがかわいらしかったりして、おもわず中古DVDを購入してしまいました。

B000063C4YSF サムライフィクション+ノンフィクション ~Collecter's Edition~ [DVD]
ポニーキャニオン 2002-04-24

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■「サムライ・フィクション」予告編

サムライはどうかとして、モノクロ映画、コーヒー、タバコの煙、酒のようなものがジャズに似合う。ちょっと大人の雰囲気を醸し出してくれます。

SFではありませんが「Sophisticated」つながりとして、ホンモノのジャズでは、デューク・エリントンに「Sophisticated Lady」という曲があります。

■Sophisticated Lady - Duke Ellington and his orchestra

ううむ・・・(無言)。

すばらしいですね。感動。しかし、志は高くもっていたい。趣味とはいえ、打ち込みでどこまで生の音楽に匹敵するような感動を作り出せるか、こつこつと切磋琢磨していきたいものです。え?これが打ち込みなの?というような、"洗練された"音源を完成できるようになりたいです。頑張りましょう。

投稿者 birdwing 日時: 11:37 | | トラックバック

2010年1月16日

宮本笑里 / 東京 et 巴里(× solita)、break

▼music10-01:クラシックの文脈から軽やかなポップスへ。

東京 et 巴里
宮本笑里×solita
東京 et 巴里
曲名リスト
1. 東京 et 巴里
2. edelweiss
3. 東京 et 巴里 (カラオケ)

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break(DVD付)
宮本笑里
break(DVD付)
曲名リスト
1. break
2. sweets
3. 東京 et 巴里
4. ALIVE (ヴァイオリン&ウクレレヴァージョン)
5. Le manege
6. 東京 et 巴里 (ヴァイオリン&ピアノヴァージョン)

1. break (ビデオクリップ)
2. 東京 et 巴里 (ビデオクリップ)
3. 宮本笑里 -break- メイキングオフショット映像

Amazonで詳しく見る
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やっぱりステージで宮本笑里さんがヴァイオリンを弾いているところをみたいですね。と、いきなりの感想ですが、ヴァイオリンという楽器は音もさることながら、弾いている視覚的なイメージが素敵です。

エレキギターだってそうかもしれないけれど、ぼくは演奏している宮本笑里さんのソリスト姿にやられた。とにかく、かっこよかった。美しかった。衝撃的でした。コンサートに行きたい。演奏している宮本笑里さんをみたい。しかし残念ながら難しいので、とりあえずはCDやDVDで我慢して楽しんでいます。

実は某家電量販店のポイントが貯まっていて、まず「東京et巴里」のシングルCDを手に入れました。ジャケットに見惚れてしまいました。正方形のポストカードも付いています。

100116_emiri1re.jpg

ついでに「のだめカンタービレ巴里編」のイラストシール付き。

このシングルCDに収録されている「edelweiss」も洗練されたアレンジです。ボサノヴァ・タッチの編曲で、歌とヴァイオリンの対話のような構成。フレンチポップス的なおしゃれな印象です。全般にわたってタイアップの曲が多いのですが、この曲は篠原涼子さんがブランドキャラクターを勤めているワールド「Reflect(リフレクト)」のイメージソングだったようです。

結局、その後「break」を購入したので、「東京et巴里」ばかりいくつもダブってしまいました。いまさらながらですが、何度聴いてもこの曲はいい。気に入っています。ブリッジ部分の翳りがある次のメロディと歌詞がよいです。

C´était là nos plus belles années
Qu´aucun souci ne pouvait altérer

楽しかったあの頃
心配事なんて何にもなかったよ

むぅ。アクサンテギュの表示に苦労してしまった(苦笑)。

エキサイトの翻訳ツールを使って、この単語がこういう意味か、と調べてみました。しかし、学生時代にフランス語はめちゃくちゃな成績だったので、これ以上何も語りますまい。フランスといえば余談をすこし。シャルロット・ゲンズブールがベックの全曲書き下ろし、プロデュースによる新譜「IRM」を1月27日に出すようですね。前作「5:55」もおもい出したように聴く一枚ですが、新譜のほうも気になっています。

さて、話を戻すと、「break」は6曲入りのミニアルバムです。6曲のうち、2曲は「東京et巴里」で、ピアノとヴァイオリンによるバージョンもあります。残る4曲のうち2曲はCMソングです。「break」はヤマザキナビスコの「コーンチップ」、「ALIVE」は日本テレビ系「ズームイン!!SUPER」「ズームイン!!サタデー」冬のお天気テーマとのこと。

コーンチップのCMがYouTubeにあったので引用します。

それぞれの曲には「based on the theme from ・・・」と書かれていて、基本的にクラシックの音楽を下敷きに作られています。

以前、「東京et巴里」がラヴェルのボレロをベースにしていることはブログにも書いたのですが、「break」はパッヘルベルのカノン、「sweets」はバッハの「無伴奏チェロ組曲」、「Le manége」はモーツァルトの「トルコ行進曲」のようです。すべてクラシックのポピュラーなものばかり。ベースになった曲が何か当てる謎解きのような聴き方もできます。

DVDの「break」のPVでは、宮本笑里さんがカノンのレコードをプレイヤーにかけるシーンがあり、関連性をほのめかしている場面であると感じました。確かに間奏では、はっきりパッヘルベルのカノンであるとわかる箇所もあります。カノンって美しいコード進行だなとあらためて感じました。

どこかで聴いたことがある、という直感はあるのだけれど、ベースになったクラシックからまったく別の旋律や編曲を導き出しているので、すーっと聴き流してしまいます。元の曲がわかりにくい。それはぼくがクラシックの初心者だからかもしれませんが、著名な曲ばかりです。それでもわからない。

たとえるならば、懐かしい風景に出会ったときの感じでしょうか。この風景、いつかどこかでみたことがあったのだけれど・・・想い出せない。視覚や聴覚に何かが残されています。それは確かです。残されていながら、眼前にあるのはまったく別のものです。

幼少の頃に育った街を数十年後に再び訪れたときの感じといってもいいでしょう。古い家が壊されて新しいビルが建ち、でこぼこの道はきれいに舗装されている。街の姿はまったく変わってしまっています。けれども、自分が住んでいた頃と変わらない匂いのようなもの、雰囲気が、どこかからかすかに感じられる。そんな印象です。

クラシックとポップスの融合、というようなキャッチフレーズを考えると何か陳腐で戸惑ってしまうのだけれど、クラシックの名曲をベースにポップスに突き抜けた「break」は、変わってしまった古い友人のような親密感があります。彼あるいは彼女は都会的に洗練されてしまった。けれども、古い過去の匂いが染み付いていたり、過去の幻影がそこにはある。あったかい。

ぼくは音楽にしても文学にしても、過去の表現や憧れを継承した作品が好きです。現代に忽然としてあらわれた異端児のような創造性ではなく、文化などの文脈でつながっている作品がいい。「break」はクラシックではありません。しかし、クラシックを破壊して創造されたものではなく、クラシックを愛する演奏家の文脈のなかから生まれてきたのではないか。

とはいえ、ぼくはいつか宮本笑里さんが弾く正統派のクラシックも聴いてみたいですね。「dream」というアルバムを買おうか思案中なのだけれど、なぜか美形のクラシック演奏者が次から次へとあらわれる昨今、目移りせず、じっくりと腰を据えて、いろんな宮本笑里さんの曲を聴いてみたいとおもっています。

投稿者 birdwing 日時: 18:00 | | トラックバック

2010年1月13日

4分間のピアニスト

▽cinema10-04:極限で叩きつける情動の迫力。

B0015XEZ2U4分間のピアニスト [DVD]
ギャガ・コミュニケーションズ 2008-06-06

by G-Tools

ピアノは打楽器なのだなと実感するときがあります。構造上、弦をハンマーで叩くのだから鍵盤のある打楽器には違いないのだけれど、やさしいゆったりとした曲を聴いているときはそれほど感じません。しかし、感情を込めて低音の鍵盤をパーカッシブに叩き、がんがんががーんというような力強いバッキングを聴くとき、ああ、弾いているよりも叩いているな、と感じます。

「4分間のピアニスト」の女囚ジェニー・フォン・レーヴェン(ハンナー・ヘルシュプルング)の演奏は、さらに過激です。グランドピアノの弦を爪で引っ掻いたり、足でリズムを取り鍵盤の蓋の部分をリズミカルに叩くなど凄まじい。ギターでいえばタッピング奏法のような演奏をみせてくれます。舞台上のピアノがちいさくみえました。

身体全体で激しい感情を表現するジェニー。指や顔は傷だらけなのだけれど美しい。背中の大きく開いた黒い衣装は、黒い女豹のような野蛮さとシックな雰囲気が共存している印象でした。破壊的な演奏が終わり、舞台上できちんとお辞儀する彼女の視線にはいっそう凄みがあります。あの目つき。観終わった後も脳裏に残っています。

物語の舞台はドイツの刑務所です。ピアノ教師として勤める老婦人トラウデ・クリューガー(モニカ・ブライプトロイ)は、新しいグランドピアノを購入し、囚人たちを相手にピアノ教室を開こうとします。ところが生徒は看守も含めてたったの4人(ひとりは自殺してしまう)。習いにきた囚人のうち、ジェニー・フォン・レーヴェンは途中でぶち切れて、看守をめちゃめちゃに殴りつけてしまう。野蛮な猛獣のように手に負えません。しかしクリューガーは、即興で弾いた彼女の演奏を聴いて、即座に彼女の天才的な能力を見抜きます。

感情の赴くままに他人も自分も傷付けるジェニーは、何度も暴力行為を繰り返します。しかし、クリューガーはなんとかして彼女のピアノの才能を開花させたい。女囚でありながらピアノの天才である彼女は、新聞社の取材を受けて後ろ手に手錠で縛られながら演奏したり、派手なこともやってのける。クリューガーはそんな彼女を叱り、下劣な音楽ではなくきちんとしたクラシックを演奏するように指導していきます。檻のなかの猛獣のようなジェニーは逆らいながらも、年老いたクリューガーに次第にこころを開いていく。しかし開いたかとおもうと、また自分を閉ざしてしまう。

感情をあらわにせずジェニーを見守るクリューガーと、傷だらけで何にでも噛み付こうとする野蛮なジェニーは、「静」と「動」という対比になっています。この均衡が崩れるときの脆さや危うさが、この映画の素晴らしさでしょうか。

100114_4min2.jpg「個人的な関心はない」「音楽だけに関心がある」という年老いたクリューガーが孤独な自分の過去について語るところ。誰にも話したことのない愛情を告白する切羽詰まった表情。感情を爆発させてジェニーをドブネズミと罵る場面。そんなシーンもよいのですが、ちょっとした冗談で気難しいクリューガーが笑う何気ない瞬間がよかった。なんだかほっとする笑みでした。モニカ・ブライプトロイ、素敵なおばあさんであり、いい女優さんですね。

監獄で連想したのは、あまりにも有名な「ショーシャンクの空に」という映画です(DVDを持っていて、先日また最初から観直しました。よかった)。あの映画と同様、囚人や看守の陰湿な嫌がらせや、世間体を気にする監守の狭量さも描かれます。鏡を割って自分の身体を痛めつけたり、他人から傷付けられたり、いったいジェニーはコンクールに出られるのか、とはらはらする。

やっと辿り着いたコンクールのステージで、4分間だけの演奏にジェニーはすべてを込めます。それはクラシックでもないし、「下劣な音楽」でもない。極限の状況下で叩きつけられた彼女自身の情動、奔流のように溢れ出した才能です。

観終わって感じた大切なこと。クリューガーはクリューガーらしく、ジェニーはジェニーらしく、妥協なしに生きることがそれぞれを輝かせるということでした。過去に翳りがあっても構わない。めちゃくちゃな感情を押さえつけなくてもいい。お互いにぶつかり合い、すれ違うからこそ、理解も深まる。最初はナチスの回想や監獄などドイツ的な暗さが気になったけれど、いい映画です。

背中を丸めながら歩く小柄なおばあさん(クリューガー)の姿が記憶に残っています。コンクールの舞台に上がらなければならないのに、あばずれな普段着のTシャツ姿でやってきたジェニーに服を貸して、観客席の片隅で、派手なTシャツを着て恥ずかしそうにうずくまる彼女も印象的でした。1月11日観賞。

■トレイラー

■公式サイト
http://4minutes.gaga.ne.jp/
100114_4min1.jpg

投稿者 birdwing 日時: 20:06 | | トラックバック

2010年1月12日

おとうさんというカタパルト。

成人の日を迎え、各地で晴れやかな新成人の門出が祝福されました。総務庁によると、2009年にあらたに成人を迎えたひとは127万人。そのうち125万人は初めての平成生まれだそうです。ついに平成の成人デビューですか。

少子化により、成人の人口は減少傾向にあるとのこと。相変わらず式をぶち壊すような暴動もあったようです。元気が有り余っているんだな、もったいないな、という気がしました。かたちだけの成人式なんてなくしちゃえば?という意見もあります。ただ、そんなことを言いはじめたら、多くの国民の祝日はどれも形骸的だとおもうんですけど。

自分自身を振り返ってみても、成人式に、成人=オトナになったという感慨はありませんでした。あえていえば大人になったと感じたのは、社会に出て初めての入社式か、結婚式か、あるいは子供が生まれたときか。それとも?

成人式不要論にぼくは反対で、ひとつの節目として成人式は必要ではないかと考えています。20年も生きちゃったんだな、という意識付けのために。成人式からさらに20年生きてしまった40歳に、第2成人式というものがあってもいいかもしれませんね。これからシニア(中高年)なんだぞ、という心構えのために。

自分にとって20歳という時期は、興味のあることや悩みごとが多すぎて、20年生きてきた、これからオトナの仲間入りだ、という感慨に浸る余裕がありませんでした。19歳も20歳もぜんぜん変わらないじゃん、と斜に構えていた。田舎から東京に出てきて、ひとり暮らしをはじめて、その自由に溺れていた時期です。活動範囲を急速に広げて、刺激を吸収するのに夢中でした。

いまでも精神的には子供な自分ではありますが、もっともっと子供でした。子供にかぎって、えへん、一人前なんだぜ、と胸を張りたがるものです。傍からみれば痛々しい自己主張です。とはいえ、ぼくもそうだったなあ。20歳の頃、無駄に背伸びをしていました。

ちなみに、何でもできるとおもっていた20歳の自分はこんな顔。

100112_old.jpg

遠目には、あまりいまと変わりないか(そんなことはありません。苦笑)。

何でもできることが大人ではない。むしろ無謀に何でもできるということは子供であって、分別をもって「しない」ことができるのが大人です。あるいは、したことに対して責任を負うことも。

しかし、「しない」のではなく、大人になると「できない」状態になってしまう。楽観論はやめにして正直に語れば、身体的にも精神的にも、可能性を狭めていくことが大人になるということです。成長するということは成熟に向かうと同時に、可能性を損ないつづける過程でもあります。だから成人式は、何でもできるんだと暴挙に出るのではなく、暴れることができなくなる節目だと考えたほうがいい。

可能性に満ちて何でもできた若者も、いずれは子供を産み、可能性の輪を狭めながら年老いていく。成人の時点ではまだわからないかもしれませんが、大人の「覚悟」が必要になります。

自分の子供もまた成人を迎えます。その子供に親として何ができるか。そんなことを考えなければならない時期が到来します。

子育ては知力より体力だと最近実感するのですが、10代をすぎて成長した子供たちは、かつて自分がぎゅうっと抱きしめていた子供たちとは「別物」になります。思考転換とともに、力の入れどころを変えていかなければならない。教育とは宿題をさせることではありません。と、偉そうなことを書きながら自分ができないのだけれど、親としての教育は算数や国語を教えることではない。

一方でどれだけ子供のことを考えたとしても、おとうさんは孤独です。うちの父もそうでした。退職後、夕方からキッチンのテーブルに座り、ゆっくりと酒を飲みながらひとりで映画を観ているのが常でした。そうして、みんなで夕食後にトランプなどのゲームで楽しんでいるとき「オレはいい」といって席を外します。団欒に加わればいいのに、とおもったものでしたが、気が付くと自分もそんなちょっと気難しい、孤独を好む親父になりそうです。

最近観た映画にも、親子関係を考えさせられるものがいくつかありました。

「4分間のピアニスト」という作品では、女囚である娘が出場するコンクールのホールで、父親は「シューマンを演奏するのか、いい選択だ」と声をかけます。ところが娘の返事は「死んでよ、パパ」。

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ギャガ・コミュニケーションズ 2008-06-06

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「ノウイング」では、地球滅亡の危機にどうすべきか悩む父(ニコラス・ケイジ)に、5歳ぐらいの息子が「なぜ何も教えてくれないの?子供扱いしないでよ」と問いただします。結局、あの作品は、見方によっては「姥捨て山」なのですが、選ばれた可能性のある人間だけが救われて、その他は破滅する。種を残すということは選択と排除であり、年老いたものには可能性がない。

B002AQTCVKノウイング プレミアム・エディション [DVD]
ポニーキャニオン 2010-01-06

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子供のために生涯を捧げる必要はないとおもいます。自分の人生をしっかり生きればいい。しかし、子供と衝突するときがあれば、全力で立ち向かう「おとうさん」でありたいですね。たぶん気力も体力も衰えていくと、逃げ腰になる。そのときが父親としての勝負どころ、踏ん張りどころです。

ぶつかったことが子供にとって踏み台になり、可能性のはるか彼方に子供をぶん投げられるようでありたい。つまり、子供の発射台(カタパルト)として、子供の潜在的な能力を飛躍させるための父親をめざしたいものです。可能性を押し潰す障害ではなくて。

成人式もひとつの機会だとおもいます。おまえらをここまで20年のあいだ育ててきた、あとは勝手にやれ、えいっ、と放り出す。成人式をもって親離れもするし子離れもする。あとは対等の人間として、たまに会っていっしょに酒を呑むぐらい。干渉もしないし、干渉もさせない。

おとうさんは乗り越えられるもの。カタパルト型おとうさんが理想です。

投稿者 birdwing 日時: 20:19 | | トラックバック

2010年1月10日

ノウイング

▽cinema10-03:人類滅亡の視点からみれば。

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ポニーキャニオン 2010-01-06

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自分の人生はあらかじめ決められているものなのか。それとも偶然の重なりで変わっていくものなのか。

10代の頃に、友達と議論したような気がします。その頃のぼくは運命は決定されていると考えていたように記憶しています。諦観ではなく、歴史を俯瞰すれば過去が年表として記述されるように、未来も決められているはず。現在から先の歴史のロールは、「いまここ」の時点に生きるぼくらにはみえない知りえないだけだ、と考えていました。いまはどちらかというと、ランダムな理論(偶然の重なりで変わっていく説)を支持するかもしれません。

「ノウイング」では、宇宙物理学者のジョン(ニコラス・ケイジ)が、マサチューセッツ工科大学の講義でそんな問いを学生たちに投げかけるシーンがあります。

彼は、運命は偶然の重なりだと考えている。というのも、ホテルの火災で愛する妻を失ったのですが、事前にわかっていたのであれば、彼女を救えたはずだと考えたからです。自分の妻が煙に巻かれて死んでいくとき、ジョンは庭の手入れをしていた。第六感などというものもなかった。だから彼は、運命決定論に否定的な態度をとります。

しかし、小学生の息子ケイレブ(チャンドラー・カンタベリー)が持ち帰った一枚の紙が彼とそして息子の運命を変えていきます。

その紙は、50年後に開封することを目的に小学校に埋めた金属製の入れ物"タイムマシン"に入っていたものでした。他の子供たちが未来の風景、ロケットなどの絵を描いて残していたのに、その手紙だけは、びっしりと数字で埋め尽くされていました。異様な手紙です。

最初は子供のラクガキにしか思わなかったジョンですが、その数字が過去50年間の大惨事の日付けと犠牲者を羅列したものだと気付きます。そして、数字が予告した日に飛行機が墜落し、彼はその場に立ち会ってしまう。死者も紙に記された通りです。数字はでたらめではない、預言だ、とジョンは確信します。そして、手紙を書いた女の子の消息を探り、数字の意味を解明していくのですが、最後には人類にとって恐るべき事態の預言が・・・。

飛行機の墜落シーン、VFXだとわかりながら実写のように凄かった。操縦不能になったジャンボジェット機が高圧電線をぶちきりながら、渋滞の道路に向けて、翼を地面に擦りながら墜落。爆発して、あとかたもなくばらばらになる。事故の現場には、パニックになったひとや火だるまになって転がり悶えるひとがいる。実際の飛行機事故の凄惨さを再現するような、迫力のある映像でした。

わずかに「シックス・センス」や「サイン」のM・ナイト・シャマラン監督風の雰囲気を感じたのですが、監督は「アイ,ロボット」のアレックス・プロヤス監督です。人類滅亡の危機がテーマの映画というと、キアヌ・リーヴスが主演の「地球が静止する日」を思い出したのだけれど、率直なところ、あの映画よりはよかった(苦笑)。しかし、似ている設定もなきにしもあらずです。暗号解読による謎とき、ニコラス・ケイジ扮するジョンと家族との確執、ありがちとはいえ難聴のケイレブと手話で「二人はいつも一緒だよ」と対話するシーンなど、人物描写に(「地球が静止する日」と比較すると、まだ)深みがありました。

とはいえ、ニコラス・ケイジは、なんだか悩みすぎ。人類滅亡の危機を一身に背負って救おうとするのはわかるのですが、もうすこし複雑で繊細な心理描写がほしいところ。息子に、宿題終わったか、というようなことばかり言う、ぴりぴりした父親を演じていて居心地が悪い(が、それがリアリティなのかもしれません)。出演者でいうと、華奢なローズ・バーンが、子供たちを救おうとして涙でぼろぼろになりながら必死でクルマを走らせるシーンにはじーんときました。

さて、もし今日人類が滅亡するとしたら、いったいどうするでしょう。

救われるものと切り捨てられるもの。そんな勝ち組と負け組みの選別があると嫌だなあ、とおもいます。加えて選別の基準が決められていなければ不条理です。しかし種を保存する意味では、すぐれた遺伝子を残す必要があるかもしれない。もし、救済されるものとして選ばれずに滅亡していく星に残されたとしたら、できることなら平常心でふだんと変わらぬ日をすごしたいものです。でも、きっとこころは穏やかではないでしょうね。パニックにならない強靭さを持っているかと自問すると、疑問を感じます。1月8日観賞。

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投稿者 birdwing 日時: 10:30 | | トラックバック

2010年1月 9日

G.I.ジョー

▽cinema10-02:テクノロジーの進化に驚愕。

B0024NJY3AG.I.ジョー [DVD]
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン 2009-12-11

by G-Tools

冒頭、中世の時代に味方と敵に同時に兵器を売りさばいたとして、処刑される人物の映像からはじまります。彼は絞首刑になるのではなく、焼いた鉄の仮面を被らされる。その人物の子孫が"コブラ"として、表面上はMARSという戦略兵器の開発企業として世界征服を企みます。

彼等は、NATOの資源を使って開発した、ナノマイトという鉄を食い尽くす細菌兵器を主力製品としています。資金を出させて開発だけさせて、その兵器を奪おうとする。フランスでエッフェル塔を腐食させて倒して大混乱を起こし、CNNを通じてその力をプレゼンテーションするなど、大胆な策略を実行します。その悪に立ち向かうのが、国際機密部隊"G.I.ジョー"です。

いやーびっくりした。年末に「トランスフォーマー リベンジ」を観て、もはや実写とVFX・CGによるアニメは区別がつかないな、映画の世界おそるべし、とおもったのだけれど、フランスの凱旋門を前にしたカーチェイスとVFXによるアップテンポのストーリー展開で、息もつかせぬアクション(宣伝にありがち)には、ほんとうにまいりました。

エッフェル塔にナノマイトという金属を食い尽くす細菌兵器を打ち込もうとする敵に、G.I.ジョー側は加速スーツで追いかけるのだけれど、どっかんどっかん通行するクルマをぶっつぶし、敵はといえばぐるんぐるん眼前にあるクルマを宙に投げ上げ、ロボット姿のG.I.ジョーがTGV(フランスの特急)を突き抜けるシーンは圧巻。アーマードスーツで人間兵器となったふたりが悪の組織を追いかけるのですが、特急の窓をぶちやぶった相棒に、飛べるんだよ、きちんとマニュアルを読めよ、と言ったデューク(チャニング・テイタム)の台詞には笑いました。

「そう遠くない未来」と前書きで語られるだけあって、作品内で使用される最新兵器には、そう遠くない未来に実現しそうな機器が多い。たとえばウェアラブルコンピュータ、音声認識(タヘイン!と叫ぶとミサイルが発射される)、3Dによる立体映像など。脳内に差し込んで彼が観ていた映像を録画するガジェットや、画面が立体的に拡大して、人間の影と時刻からその人物の居た場所を探知するソフトウェアなど、007を思わせるような近未来グッズにわくわくしました。パソコンも進化して、小型化と高機能のガジェットになってほしい。

G.I.ジョーということばから想起するのは、遠い昔にあった人形です。男の子向け着せ替え人形といった感じで、コンバット用の洋服を替えたり、マシンガンなど兵器を取り替えたりできる。似たようなものに、ミクロマンという玩具がありました。ミクロマンじゃなかったような気がするのだけれど、ぼくも似たような玩具を持っていたっけ。現在では仮面ライダーの人形のようなものかもしれませんが、異なっているのは、パーツだけが別売りになっていて自分なりの戦士をカスタマイズできるところ。これがおおいに違う。どのような戦士にしようか、とアタマのなかでイメージする楽しさがありました。

映画そのものの物語はもちろん、G.I.ジョーの魅力はアーマードスーツのような身体にフィットした武器であり、近未来的な兵器です。戦争には反対だけれど、こうした武器が"男の子"のなかにある闘争本能をくすぐるのは仕方がない。しかも、使いこなすためには武器の能力だけでなく、格闘技のような人間的な運動能力を高める必要があるところがスポーツの原点ともいえる。

戦士のなかには敵(悪)にも味方にも忍者的な人物がいて、味方のスネークアイズに対して敵のストームシャドーはイ・ビョンホンが演じています。少年の頃から敵対してきた因縁のふたりです。背中に日本刀を背負っていて、おもわずニンニンと言いたくなるのですが、このふたりの回想シーン、東京というテロップが入りながら、ぜんぜん東京じゃない(苦笑)。中国です。ああっ、外国からみた日本ってやっぱりこういう世界なのかー(泣)とかなしくなった。もうすこし外国人の映画監督の方には、日本を理解していただきたいものです。忍者と中国拳法が混じってしまっています。

敵のリーダー格の女性バロネス(シエナ・ミラー)は、かつてデュークの恋人だったこともあり、彼を抹殺することに苦悩したりもする。一方で、G.I.ジョー内における社内恋愛というか、リップコード(マーロン・ウェイアンズ)と才女スカーレット(レイチェル・ニコルズ)の好意のゆくえも気になるところ。アクション映画では、こういうサイドストーリーも観どころですね。

アニメにもなっているようで、どこかバットマン的な善悪の構図がわかりやすく、若干、陳腐さを感じたりもします。すこし詰め込みすぎなのでは、という印象もありました。それでもとにかく楽しめました。戦闘シーンの迫力と最先端のテクノロジーに、すかーっとする映画でした。1月6日観賞。

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投稿者 birdwing 日時: 12:47 | | トラックバック

2010年1月 7日

「醜い日本の私」中島義道

▼book10-01:日本文化のきれいごと、醜さを見抜く。

4101467285醜い日本の私 (新潮文庫)
新潮社 2009-11-28

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けばけばしい商店街の装飾。エンドレステープによる店頭の呼び込み。まったく役に立っていない「放置自転車はやめましょう」の貼紙。マニュアルにしたがって機械的な挨拶を繰り返すファーストフードやコンビ二の店員。騒がしい防災放送・・・などなど。

一般人としてはスルーしてしまいそうな、生活に根ざした日本文化の「醜さ」について、闘う哲学者である中島義道さんが独自の感性で糾弾していきます。「うるさい日本の私」の続編的な本です。

以前は新潮選書でした。文庫化されたので購入したのだけれど、原色の造花の写真をコラージュとして掲載した表紙は、中島義道さんの本らしくない。というのも彼の本の大半は、どちらかといえばシンプルであったり、絵画調の装丁だったからです。内容に合わせて派手にしたのでしょうが、中島さんが嫌う原色の装飾のコラージュにしなくてもいいのでは。装丁としてはいまひとつ。

内容を読み進めて、なるほど、とおもったのは、日本の祭りにおける夜店のけばけばしさが、渋谷や新宿などのイルミネーションにつながり、べたべたと飾られた垂れ幕などにも継承されている、ということです。

そうか、繁華街というのは毎日がお祭り(ハレ)なのだな、と納得しました。

とはいえ、お祭り好きな自分としては、ごたごた感も悪くない、とおもいます。中島義道さんが独自の美的感性によってお祭り的な装飾を嫌うのもわかるのだけれど、しーんと静まって垂れ幕のひとつもない商店街は、どこか活気に欠けるのではないか。ハレの場だからお金もぱあっと使っちゃおう、と販売促進にも寄与するのではないでしょうか。

ごてごて感を下町文化と考え、あったかいものとして受け入れる感性もあります。人間と人間のふれあいを大切にした、懐かしい感覚が残っている気がする。

一方で現在の商店街の装飾について個人的な印象を述べると、品のない過剰な客寄せの垂れ幕(またはPOP)は、消費者に「媚び」た感じが気持ち悪い。

最近のDVDショップなどでは、カリスマバイヤーのおすすめ、だとか、消費者の感動の声、などを表示することも多くなりました。これらは媚び感が薄れている気もするのだけれど、戦略的(意図的)に媚び感を薄れさせているのだとすれば、もっと気持ち悪い悪質さを感じます。

洋画の映画で日本のシーンになると、なぜか繁華街のごちゃごちゃした風景ばかりが映し出されて苦笑します。外国人がイメージする日本は、依然としてアジアの片隅の雑然とした国なのでしょうね。その雑然さのなかに感じるのは、構ってちょうだい、みていってちょうだい、というストリートガールのような猥雑な「媚び」です。その媚びが谷崎潤一郎文学的な官能と陰翳に表現されている場所もあります。うまく言い分けられないのですが、そういう文化的な澱みのような場所には、ぼくはあまり嫌悪感を抱かない。いいとおもいます。

視覚的なものから聴覚的なものに論点を移すと、肉声による客寄せの言葉とテープなど機械によるオートリピートの宣伝は、コミュニケーションの観点から考えると、まったくの別物と考えられます。

肉声であれば、「おばちゃん今日は白菜が安いよ」「あらどうしようかしら」などの双方向的なコミュニケーションが成立する。しかし機械的な宣伝は一方的であり、やりすぎると騒がしいだけです。ノイズとして、脳のなかでフィルタリングされてしまう。聞こえているのだけれど、聞こえない。

そういえば、うちの近くのスーパーで一時期、景気のいいオリジナルソングらしきものを店頭のラジカセで大音量で流していたことがありました。しかし、いつの間にか消えてしまった。道を歩いていて何気なく耳に入ってくるのだけれど、それだけでも気恥ずかしい。なんだこりゃ的な苦笑ものの歌詞だったので、消滅して当然でしょう。制作費は無駄に消えたに違いありません。もったいない。

中島義道さんは、電信柱と電線も嫌っています。

100107_densen.jpg空好きなぼくとしては、障害物のない場所で、だだっぴろい空を眺めることができるのはうれしい。しかし同時に、電信柱と電線のある風景も嫌いではありません。むしろ趣きがあると感じるときもあります。

また、いまから日本の電線をすべて地下に、といったところで、移行費にかかるコストを算出すると、とんでもない予算が必要になる。これだけ電線が張り巡らされてしまうと、身動きが取れません。日本の都市部は、縦横無尽に走る電線によって景観が縛り付けられている。こうなる前に計画的に日本の景観を考えるべきだったのではないでしょうか。

日本における自然という言葉の意義を次のように解説しています(P.69)。

私も以前、日本人にとって「自然」とは固有の領域ではなく「副詞的自然」つまり自然にという意味しかもたない、と論じたことがある(『日本人を<半分>降りる』ちくま文庫)。すなわち、わが国では自然は人工や人為の対極にある概念ではなく、むしろそれは微妙な仕方で人為と融合している。

商店街のけばけばしい装飾や電信柱の林立する風景は、「自然に」そうなっちゃった。そして、中島義道のようなひとではない限り、それを自然に容認する。異議をとなえない。「自然に」自分たち日本の景観として受け入れてしまう。

言葉の問題が出てきたので話題をかえて、言葉について論じている部分で注目した箇所をいくつか抜粋します。まずは、すこし長いのだけれど、彼が嫌悪する日本の言語観、コンテクスト(文脈)の機能について言及しているところ(P.131)。

日本人の言葉の使い方一般に対して、私は大いなる違和感と嫌悪感をもっている。それは、おいおい述べていくが、ひとことで言えば、言葉の文字通りの意味を尊重しないこと、よって(書かれたあるいは言われた)言葉に反することをしても平然としていること・・・・・・つまり言葉を「信じない」ことである。
この背景として、社会学者は「ハイ・コンテクスチュアル・カルチャー(high contextual culture)」という概念を提示している。言葉自体を状況=コンテクストから独立に尊重する文化は「ロウ・コンテクスチュアル・カルチャー(low contextual culture)」と呼ばれ、これを代表する文化は欧米文化(とくに来たヨーロッパやアメリカ文化)である。これとは異なり、言葉を常に状況との関連で理解しようとする態度が濃厚な文化を「ハイ・コンテクスチュアル・カルチャー」というわけだ。日本はこの典型であり、人々は言葉の文字通りの意味よりその「裏」を読もうとする。そう語った「真意」を探ろうとする。

確かに日々実感していることですが日本語は曖昧であり、どういう場面で語られているか文脈を理解しないと、まったく逆の意味に解釈してしまうことさえあります。また、曖昧だからこそ「裏」を読もうとする。

ぜったいに謝らない西欧人に比べて、日本人は簡単に謝ってしまうのだけれど、ほんとうに悪いと「言葉通りに」自省しているかというとそんなことはない場合もあります。形式的な謝罪も多い。言葉を重視していながら反面、言葉を信じていない、という二律背反の状況もよくわかります。したがって、形式的な謝辞や注意の喚起は「祝詞」である、という皮肉な指摘にも頷くことができます(P.140)。

言語哲学者の加賀野井秀一は、こういう日本人の言語観を「言霊思想」と呼んでいる(『日本語は進化する』NHKブックス、『日本語を叱る!』ちくま新書)。日本人の言語使用にあたっては、言葉はその意味伝達機能を無限に希薄化され、ただ「語っていること」が異様に前景に出てくる。加賀野井が言っているように、その典型例は「祝詞」であって、「交通安全」も、「駅前放置自転車クリーンキャンペーン」も祝詞なのである。

実際のコミュニケーション機能から表層の言葉だけが剥がれて形骸化すると、「嘘」になります。眼前の現実を無視した「きれいごと」にもなるわけです。オリンピック選手が「みなさんのおかげです」とコメントすることを、中島義道は自分の絶え間ない努力と能力によって勝ち得たという胸のうちを表明しない「悪質な嘘」といっています(P.156)。

ここには、自分の本心を徹底的に探ろうとしない怠惰さが世間から排斥されたくないという計算高さと融合している。だからこそ、じつは人を害する嘘より数段悪質な嘘なのである。

「みなさんのおかげです」は公共の場におけるステレオタイプの文句であり、選手個人が感じていることは他にもいくつかあるでしょう。しかし、一位の選手がドーピングしたおかげで、とか、すべて自分の努力と実力で、などとは言いにくいものです(P.156)。

こうして、われわれ日本人は、公共空間で発話しようとするやいなや、自分が「ほんとうに思っていること」と「思うべきこと」とが渾然一体になってしまい、いわば"will(語りたいこと)"と"should(語るべきこと)"との境界が消えてしまう。「語りたいこと」は「語るべきこと」に隅々まで管理され、チェックされ、こうして徹底的に濾過された無難な言葉だけが、公共空間に飛び散る。

自由な発言が許されるようにみえるインターネットも、公共空間である以上、語りたいことが語るべきことに管理されることがあります。ペルソナ(仮面)を被った書き手による演技といえなくもないでしょう(P.157)。

社会学の専門用語を使えば、演技には「表層演技(surface acting)」と「深層演技(deep acting)」がある。前者はいわゆる演技として見透かされるような演技であるが、後者は、まったく面識のない人の葬式に言っても自然に涙が流れるとか、どんなつまらないものを贈られても、飛び上がらんばかりに喜んでしまう・・・・・・というように、その人の性格にまで、あるいは体質にまでなっているほどの演技である。つまり、社会的に期待されていることを、ごく自然にできてしまう演技である。

この深層演技の達人に対して、中島義道は不愉快をあらわにします。

なぜなら、演技するということは、自ら考えることを放棄して自分の内面を隠して、他者に「期待されている自分」をあたかも自分自身の考えのように振る舞うからです。

ここまで考えを進めて、商店街の垂れ幕や電信柱や防災放送の騒音など、中島義道が嫌悪するものを振り返ってみると、彼が批判している醜さとは、

「思考停止した日本の文化」

であることがわかりました。「お年寄りを大事にしましょう」「放置自転車を追放しましょう」など、とりえあえずカタチを整えました、言っておけばいいか、という姿勢によるスローガン(=祝詞)。一方的にがなりたてて注意を促せばよしとする防災放送。いつしかこんな景観に「自然に」なってしまった絡み合うような電線の空。公共空間の設計は無計画であり、その場所を飛び交う言葉は徹底的に濾過され、きれいに磨かれた表現です。けれどもだからこそ嘘っぽい。きれいごとに聞こえる。

社交辞令や定型的なスローガンは社会を円滑にするために必要な言葉だったとしても、無意識のように「演技」できるようになってしまうと、本心と言葉が乖離します。自分が何を言っているのか認識し、それは現実と違う、あるいは自分はそうは考えない、という感性は錆びさせるべきではありません。

中島義道さんのように意固地にならなくても、ああ、自分はいまお決まりの演技をしているな、期待されている言葉や行動をしている、しかし本心は別のところにある、という自省は大切です。言葉と本心のギャップに後悔したとしても、罪悪感なしにスルーするより、後悔できる繊細な感性をもっているほうがいい。

しかしながら、ここで著者である中島義道さんについて冷静に考えてみます。

文庫に挟みこまれていた新刊案内に彼の写真があったのですが、かっこよかったなあ。それはともかく(笑)。

100107_nakajima.JPG

哲学者としての問題提議は興味深いのだけれど、現実的かつ合理的に考えると、問題提議の「その後」が重要になる。

改善策を考えずに感性として醜い醜いだけ言及しているだけなら、クレームだけを騒いでいる偏屈じいさんでしかあり得ません。言いたいことを言ってのける面白いひとですが、騒音問題や商店街の美化、電線の醜さを訴える彼は、どこかただの「困ったじいさん」にもみえる。だから哲学者は困りものだ、という気持ちも率直なところあります。

クレームだけでは何の解決にもなりません。じゃあどうする、ということをビジネスあるいは行政による改革の施策として考えなければ。

問題提議をするひとは大切で、ああ、そういう感性もあるのだな、という新たな視点を提示してもらえる点では興味深いのだけれど、いつまでたっても「祝詞」で終わってしまうのであれば、彼の発言もまた、形骸化された演技のひとつではないでしょうか(騒がしい店外放送をやめさせるなど、行動によっていくつかの成果はあったようですけれどね)。

とはいえ、あえて問題提議する「醜い」自分を曝け出す中島義道さんの強さには、毎度のことながら、彼の著作を読むたびに、がつんと打たれます。

何かがおかしいとおもっていたとしても、ぼくらには行政にクレームをぶつける勇気や気力さえない。腑抜けて、まあいいか、と黙り込む。さわらぬ神に祟りなしと問題から目を背けることが多い。余計な波風を立てない。

空気を乱さない沈黙を善とする日本の社会において、中島義道的な強靭な存在は特異です。だからこそ魅力的なのだなあ、ぼくにとっては。

投稿者 birdwing 日時: 19:45 | | トラックバック

2010年1月 5日

動画のゆくえ。

音楽や映画が好きなので、ブログにはYouTubeからの動画をいくつも埋め込んでいます。ところが最近ちょっとYouTubeに困惑気味です。

まずひとつめ。一部の動画の再生中に、再生画面の下部にポップアップで広告が出るようになったこと。

数秒放置するかクリックすれば消せるのですが、そういう問題ではないでしょう。たとえると、リビングのテレビでニュースをみているとき、最も大事な場面でテレビの前を子供が怪獣の玩具を持ってうろうろするようなものでしょうか。ああっ、みえないよう、気が散る、どけっ!と言いたくなります。

動画再生後に表示されるのであれば仕方がありません。邪魔にもなりません。しかし、ブログの狭い埋め込み動画の画面をさらに狭くしてどうする。広告収益が大事だとはいえ、このビジネスモデルはいかがなものだろうか。というのは、せっかくの広告が「邪魔もの」と認識されてしまい、広告の商品やサービスに反感を抱くことさえあり得るのではないか、と考えるからです。実際、短気なぼくは、お気に入りのPVを観ている最中に土足で踏みにじるように広告が表示されたとき、その広告主に敵意を抱きました。

そしてふたつめ。これはいまに限ったことではないのだけれど、著作権侵害の名のもとに急速にコンテンツが削除されていること。

覚え書き的にブログに動画を埋め込んでメモしていることもあるので、あのPV久し振りにみたくなったなーとおもって自分のエントリで動画をみようとすると、ほとんど再生できなくなっています。仕方がないとはいえ、その数が多すぎです。書いたエントリを修正しようにも、動画がないと何のことやらわからない記事になってしまうこともある。だから修正できません。

「このコンテンツは削除されましたが、タイトルに類似する動画はこちらです・・・」のように、動画再生後のレコメンデーションのようなリスト表示がされるといいのに。しかし、コンテンツを勝手にアップロードされた企業が、芋づる式に類似コンテンツを発見して削除するようになるかもしれませんね。だめかー。

著作権は大事です。著作権を守ることは正しい。正義です。

けれども素直な気持ちでは、何かが納得いかない。邪魔なポップアップ広告同様、「○○○○の著作権侵害の申し立てにより、削除されました」、とコンテンツを制作管理しているメーカーやプロダクションの名前が表示されると、あの会社が圧力かけて削除させたんだな、仕方ないけどさあ、せっかくの楽しみが奪われちゃったよ、もうちょっと広いこころで許可できないものかね、というネガティブな感情がわずかに芽生える。ぼくだけかもしれません。こういう社会の規律や常識に逆らった被害妄想的な偏屈な思考をする人間は。

インターネットの新しいサービスが加速度的に拡大するときには、かならず何かしら「ヤバイ」ものがあります。だからこそ先鋭的な刺激を求めるひとたちに喝采をもって受け入れられます。しかし、それがメジャーになれば、法的に放っておけなくなることも出はじめる。

しかし、残念でならないのは、せっかくの素晴らしいコンテンツを口づてに拡げる可能性のある場が、規制のもとに次々と潰されてしまうことです。

音楽や映画のコンテンツを提供する側は、個人がアップロードした動画を「商品」として侵害されたと考えるのではなく、「プロモーション」に貢献してくれたと考えられないのでしょうか。YouTubeにアップロードされた動画は、これっていいよ、おすすめだよと、プロモーション費ゼロ円で多くのひとに紹介しているわけです。

どうぞどうぞ、ご自由にお使いください、ウチの商品をみんなに知らせてくださいね、と前向きに考えて、寛容に振るまえないものかな。法務のがちがちなアタマでは柔軟な発想は無理かもしれませんが、音楽業界や映画業界が不振だとすれば、ファンの勝手なアップロードだとしても、宣伝費を削減し、購買のチャンスを増やす策のひとつになるとおもうのですが。

ちなみに個人的な体験を語ります。

先日のエントリにも書いたのですが、急速にヴァイオリニスト宮本笑里さんのファンになり、YouTubeで「東京et巴里」のPVを何度も繰り返しみました。

この曲、アレンジが秀逸だとおもいます。

フォークトロニカ風に逆回転のフレーズなどもあって電子音と生音であるヴァイオリンが融合し、さらにフランス語の歌詞、というところがいい。

しかも、サビに重なるヴァイオリンの旋律は、ラヴェルのボレロです。そうか、イントロではパッヘルベルのカノン的なアレンジがされていて、どこかで聴いたことがあったメロディだとおもったけれど、ボレロだったか、ということで図書館でラヴェルのCDを借りてきました。すると、まったくクラシックのど素人的発見で恥ずかしいのですが、ボレロが同一の旋律を15分間も繰り返す斬新な曲だということを知って、びっくりしました。

そんな脱線もしつつ視聴しているうちに、これはやっぱり買うしかないでしょう、DVDで大きな画面で観たい、ということで、宮本笑里さんの「break」を買ってしまいました(照)。

B001QL35JKbreak(DVD付)
宮本笑里
SMJ(SME)(M) 2009-03-18

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ダウンロード音源ではなくCD/DVDで所有していたい世代なので、アルバムが手元にあるのがうれしい。何度も繰り返し聴きながら、ヴァイオリンと電子音の相性はなかなか難しいな、とか、ピアノとヴァイオリンだけの「東京et巴里」もいいな、とか、いろいろなことを考えています。

まんまとYouTubeによるCGM的なマーケティングに嵌まったわけですが、ブログの黎明期から言われていたように、こういう購買に向けた導線はいまだにありだとおもいます。

ただし、メディアの観点からもうすこし考えてみます。

この子は誰だ?と気になったとき、AISASの法則などもあるように、まずインターネットを使ってGoogleで検索するでしょう。しかし、検索時にオフィシャルサイトにダイレクトに誘導できれば、YouTubeなどをCGMとして使う必要はありません。オフィシャルサイトが「メディア」になるからです。公式なページで動画を配信すればいい。

また、テレビやラジオの露出が増えれば、その導線からのファン獲得も可能になります。CGMによる効果は全体からみればわずかなので、駆逐してしまっても問題はないでしょう。あるいは、許可なく勝手にアップロードされたコンテンツを排除することによって、オフィシャルサイトの重要性を高め、宮本笑里さんのブランド価値を守る、という意図も考えられます。そんな戦略的な判断があったのかもしれません。

とはいえ、YouTubeにチャンネルを持つのは費用がかかるにしても、もうすこしゆるく著作権を考えてもいいんじゃないのかなあ、とおもいました。統制も必要だけれど、視聴者に親しみを抱かせるような目にみえない企業姿勢も資産となり、大切です。そのためには多様な視点を検証する必要があります。ぼくのように、コンテンツ削除をネガティブにとらえるひねくれものもいる。

ともかく宮本笑里さんはブログもかなり人気のようです。これからもヴァイオリンで素敵な曲を奏でていただいて、たくさんのひとに聴いていただけるといいですね。ファンのひとりとして応援しています。と、同時に彼女の動画をもっと気軽にみることができるといいのに、と切望しています。

投稿者 birdwing 日時: 07:58 | | トラックバック

2010年1月 3日

ONCE ダブリンの街角で

▽cinema10-01:路上からはじまる音楽と恋。

B0016XF4OWONCE ダブリンの街角で デラックス版 [DVD]
ジェネオン エンタテインメント 2008-05-23

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パートナーを探すのは難しいものです。相方といってしまうとなんだか芸人みたいですが、異性にしても同性にしても、生涯を通じて協働できるひと(相方)をみつけるのは難しい。お互いを理解し、ハーモニーを奏でられる関係の相手にめぐり会えるのは稀有といっていい。

協働の結果、生み出すものは、創造的なアートではなくても構いません。ともに生活できる相手でもよいでしょう。しかし、世界にたったひとりとおもえるようなパートナーと偶然に出会えても、一緒に暮らしたいけれど暮らせない状況だってあります。運命はときに非情あるいは理不尽です。

「ONCE ダブリンの街角で」を観て、そんなことを考えました。
いい映画でした。ちょっと泣けた。

ストリートミュージシャンとしてダブリンの街角でギターを弾きながら歌う男(グレン・ハンサード)は、掃除機の修理屋である父親を手伝いながら、自作の曲を作りつづけています。路上でかき鳴らす彼のギターは、ピックで削られて穴が空いている。

画面でギターのヘッドをよくみると、ぼくが持っている中古で買ったエレアコと同じメーカー(Takamine)だったので、ささやかですが、うれしくなりました。また、5000円ぐらいのぼろぼろのギターを演奏して天使のような歌声を聞かせてくれた、タマス・ウェルズのライブを思い出しました(そのときのエントリはこちら)。

彼のもとに、チェコから移民して雑誌や花を売って生計を立てている女(マルケタ・イルグロヴァ)が現れます。最初は掃除機を修理してもらおうと付きまとう彼女に、男はそっけない態度を示すのですが、いろいろと話をするうちに、彼女がピアノを弾いて歌うことができるのを知る。

いつも昼休みに彼女が1時間だけピアノを弾かせてもらえることができる楽器店で、彼が自作の曲をすこしずつ教えながら、ふたりで演奏するシーンは、こころがあたたまりました。いいなあ。ひとりで作った曲が誰かとの演奏で精彩を放つ。ぞくぞくする瞬間です。バンドをやった経験のあるひとであれば、こんな理想の出会いに一度は憧れることがあるのではないでしょうか。

そのときの楽曲がいい。「Falling Slowly」という曲ですが、覚えやすいメロディと歌詞、メインボーカルに寄り添うようなマルケタ・イルグロヴァのハーモニーが心地よい。北欧的な透明な印象と、あたたかさを感じました。YouTubeから引用します。

■ONCE: Falling Slowly

男には別の誰かのもとに去っていった恋人がロンドンにいて、女は結婚していて旦那をチェコに残したまま母親とちいさな娘と暮らしています。

ほんとうは音楽だけでなく互いに求めているのだけれど、だからこそふたりは音楽に徹して距離を隔てる。近付きたいのだけれど節度を保って、友情をあたため、音楽に向かい合うふたり。やがてデモテープを作るために、路上で演奏する仲間を集めてスタジオで録音します。

最新式のデジタル録音のミキシングコンソールを使って音を録るのですが、明け方の4時過ぎまで録音して、そのあとエンジニアのクルマに乗って海までドライブして、カーステで自分たちの曲の仕上がりを確かめるシーンにじーんときました。そういえば社会人バンドをやっていた頃、バンドのリーダーだった大学の先輩のクルマのなかで、こうやって自分たちのオリジナル曲を何度も聴いたっけ。

同様に些細だけれど胸に迫ったのは、マルケタ・イルグロヴァが借りたCDプレイヤーでデモを聴きながら、娘が眠るベビーベッドの隣りで歌詞を考えていて、電池が切れてしまう場面。娘の貯金箱からお金を借りて深夜のドラッグストアで電池を買い、夜の街を口ずさみながら家に帰ります。

立派な機材に恵まれていなければ音楽ができないのではなく、貧しいなりに、楽器店で1時間空いているピアノを貸してもらうとか、借りもののCDプレイヤーで何度も繰り返しデモを聞くとか、そんなひたむきさが大切なんだよなあ、とあらためておもいました。バンドのメンバーを集めてからも、彼らはスタジオではなく、グレン・ハンサードの演じる男のベットルームにドラムスまで持ち込んで練習します。お父さんがお茶菓子を差し入れたりする。こういうことってあるよね、と微笑んでしまいました。

サウンドトラックも人気だったとのこと(全米チャートで2位)。ぼくも久し振りに映画のサウンドトラックがほしくなりました。

映画そのものは、はじめは全米で2館の公開だったそうですが、その後口コミで話題になり、140館まで劇場数を増やしたそうです。わかる気がする。ぼくにとっては、根底にインディーズの匂いがあり、音楽への愛情が貫かれているところがよかった。たぶんそれはアフレコなどではなく、グレン・ハンサードにしてもマルケタ・イルグロヴァにしても、きちんと演奏できるアーティストを起用したためでしょう。監督のジョン・カーニーは、グレン・ハンサードとバンドを組んでいたこともあるようです。

音楽好きにはたまらない映画だとおもいます。バンド、やりたくなりました。1月2日観賞。

■トレイラー

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100103_once.jpg

投稿者 birdwing 日時: 18:39 | | トラックバック

2010年1月 1日

2010のはじまりに。

2010という文字の配列をみていると、どこか未来的な何かを感じませんか。21世紀の21がふたつのゼロで挟まれているからかもしれません。2009までの一桁から二桁時代に移行したからかもしれません。

年が明けました。あけましておめでとうございます。

年賀状は別に作ったのですが、ブログ用に数十分で書いた手書きのシートでご挨拶です。ラフな描画ですみません。

toratora2.jpg

いきなり年頭に脱力したことを書きますが、年が変わったからといって自分は何も変わりません。正月であることをいいことに焼酎(かんのこ)で飲んだくれて、正体を失ってふにゃふにゃになっています。年頭の決意を、と拳に力を込めてみようとするのだけれど、どうも腑抜けて力が入りません。そこで、今年は

向上心より恒常心

でいこうとおもいます。寅年だからといって、うがーっと、のどちんこを全開にして咆哮したくない。決して怠惰に手を抜いたりしないけれど、頑張りすぎたりもしない。勉強のために苦しみながら本を読むよりも、楽しんで読書したい。疲れたら本なんて読まないでいい。趣味なのだから、夕鶴のように自分の羽を抜いて音楽を作らなくてもいい。作りたいときに音楽が降りてきたら、それをかたちにすればいい。

グッド・タイムスそしてバッド・タイムス。よいこともあるでしょう。きっと悪いことも。

よいときには決して奢らず、悪いときには過剰に落ち込まず、ひたすら平静なこころを恒に保っていたい。こころが乱されるのも結構。それもまた自分の人生です。変わらずにいようとおもっても変わってしまうのがぼくらの人生だから、変わってしまうようなことがあれば、恒常心には執着しない。

恒常ということばで連想するのはホメオスタシスです。Wikipediaの解説から引用します。

恒常性、ホメオスタシス(ホメオステイシスとも)は生物のもつ重要な性質のひとつで生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず生体の状態が一定に保たれるという性質、あるいはその状態を指す。生物が生物である要件のひとつであるほか、健康を定義する重要な要素でもある。生体恒常性とも言われる。

もともと生物には、環境に適応する力が備わっていました。けれども生物学的な見地はもちろん、情報化社会における現在を社会的に見渡すと、環境に過剰適応したり、環境に適応できずに身体とこころのバランスを崩したり、恒常ならぬ状態に追い込まれています。だから「健康」ではない。内部や外部の環境因子にしたがって、ぐらぐら揺れながら生き難い日々をすごしています。

ぼくがぼくであること。ぼくの人生をきちんと生きること。

そんな基本に立ち返ることができるといいのですが。実はそれがいちばん簡単そうにみえて難しいことです。すくなくとも環境の変化に乱されている自分に気付き、身体とこころの平衡を取り戻せるようになりたい。

そんなわけで今年もゆるゆるとブログも書きつづけていきますね。よろしくお願いいたします。

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

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