« ノウイング | メイン | 4分間のピアニスト »

2010年1月12日

おとうさんというカタパルト。

成人の日を迎え、各地で晴れやかな新成人の門出が祝福されました。総務庁によると、2009年にあらたに成人を迎えたひとは127万人。そのうち125万人は初めての平成生まれだそうです。ついに平成の成人デビューですか。

少子化により、成人の人口は減少傾向にあるとのこと。相変わらず式をぶち壊すような暴動もあったようです。元気が有り余っているんだな、もったいないな、という気がしました。かたちだけの成人式なんてなくしちゃえば?という意見もあります。ただ、そんなことを言いはじめたら、多くの国民の祝日はどれも形骸的だとおもうんですけど。

自分自身を振り返ってみても、成人式に、成人=オトナになったという感慨はありませんでした。あえていえば大人になったと感じたのは、社会に出て初めての入社式か、結婚式か、あるいは子供が生まれたときか。それとも?

成人式不要論にぼくは反対で、ひとつの節目として成人式は必要ではないかと考えています。20年も生きちゃったんだな、という意識付けのために。成人式からさらに20年生きてしまった40歳に、第2成人式というものがあってもいいかもしれませんね。これからシニア(中高年)なんだぞ、という心構えのために。

自分にとって20歳という時期は、興味のあることや悩みごとが多すぎて、20年生きてきた、これからオトナの仲間入りだ、という感慨に浸る余裕がありませんでした。19歳も20歳もぜんぜん変わらないじゃん、と斜に構えていた。田舎から東京に出てきて、ひとり暮らしをはじめて、その自由に溺れていた時期です。活動範囲を急速に広げて、刺激を吸収するのに夢中でした。

いまでも精神的には子供な自分ではありますが、もっともっと子供でした。子供にかぎって、えへん、一人前なんだぜ、と胸を張りたがるものです。傍からみれば痛々しい自己主張です。とはいえ、ぼくもそうだったなあ。20歳の頃、無駄に背伸びをしていました。

ちなみに、何でもできるとおもっていた20歳の自分はこんな顔。

100112_old.jpg

遠目には、あまりいまと変わりないか(そんなことはありません。苦笑)。

何でもできることが大人ではない。むしろ無謀に何でもできるということは子供であって、分別をもって「しない」ことができるのが大人です。あるいは、したことに対して責任を負うことも。

しかし、「しない」のではなく、大人になると「できない」状態になってしまう。楽観論はやめにして正直に語れば、身体的にも精神的にも、可能性を狭めていくことが大人になるということです。成長するということは成熟に向かうと同時に、可能性を損ないつづける過程でもあります。だから成人式は、何でもできるんだと暴挙に出るのではなく、暴れることができなくなる節目だと考えたほうがいい。

可能性に満ちて何でもできた若者も、いずれは子供を産み、可能性の輪を狭めながら年老いていく。成人の時点ではまだわからないかもしれませんが、大人の「覚悟」が必要になります。

自分の子供もまた成人を迎えます。その子供に親として何ができるか。そんなことを考えなければならない時期が到来します。

子育ては知力より体力だと最近実感するのですが、10代をすぎて成長した子供たちは、かつて自分がぎゅうっと抱きしめていた子供たちとは「別物」になります。思考転換とともに、力の入れどころを変えていかなければならない。教育とは宿題をさせることではありません。と、偉そうなことを書きながら自分ができないのだけれど、親としての教育は算数や国語を教えることではない。

一方でどれだけ子供のことを考えたとしても、おとうさんは孤独です。うちの父もそうでした。退職後、夕方からキッチンのテーブルに座り、ゆっくりと酒を飲みながらひとりで映画を観ているのが常でした。そうして、みんなで夕食後にトランプなどのゲームで楽しんでいるとき「オレはいい」といって席を外します。団欒に加わればいいのに、とおもったものでしたが、気が付くと自分もそんなちょっと気難しい、孤独を好む親父になりそうです。

最近観た映画にも、親子関係を考えさせられるものがいくつかありました。

「4分間のピアニスト」という作品では、女囚である娘が出場するコンクールのホールで、父親は「シューマンを演奏するのか、いい選択だ」と声をかけます。ところが娘の返事は「死んでよ、パパ」。

B0015XEZ2U4分間のピアニスト [DVD]
ギャガ・コミュニケーションズ 2008-06-06

by G-Tools

「ノウイング」では、地球滅亡の危機にどうすべきか悩む父(ニコラス・ケイジ)に、5歳ぐらいの息子が「なぜ何も教えてくれないの?子供扱いしないでよ」と問いただします。結局、あの作品は、見方によっては「姥捨て山」なのですが、選ばれた可能性のある人間だけが救われて、その他は破滅する。種を残すということは選択と排除であり、年老いたものには可能性がない。

B002AQTCVKノウイング プレミアム・エディション [DVD]
ポニーキャニオン 2010-01-06

by G-Tools

子供のために生涯を捧げる必要はないとおもいます。自分の人生をしっかり生きればいい。しかし、子供と衝突するときがあれば、全力で立ち向かう「おとうさん」でありたいですね。たぶん気力も体力も衰えていくと、逃げ腰になる。そのときが父親としての勝負どころ、踏ん張りどころです。

ぶつかったことが子供にとって踏み台になり、可能性のはるか彼方に子供をぶん投げられるようでありたい。つまり、子供の発射台(カタパルト)として、子供の潜在的な能力を飛躍させるための父親をめざしたいものです。可能性を押し潰す障害ではなくて。

成人式もひとつの機会だとおもいます。おまえらをここまで20年のあいだ育ててきた、あとは勝手にやれ、えいっ、と放り出す。成人式をもって親離れもするし子離れもする。あとは対等の人間として、たまに会っていっしょに酒を呑むぐらい。干渉もしないし、干渉もさせない。

おとうさんは乗り越えられるもの。カタパルト型おとうさんが理想です。

投稿者 birdwing : 2010年1月12日 20:19

« ノウイング | メイン | 4分間のピアニスト »


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://birdwing.sakura.ne.jp/mt/mt-tb.cgi/1218