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2007年6月29日

Asobi Seksu / Citrus

▼music07-034:インディな雰囲気がいい、アートなドリームポップ。

Citrus
Asobi Seksu
Citrus
曲名リスト
1. Everything Is On
2. Strawberries
3. New Years
4. Thursday
5. Strings
6. Pink Cloud Tracing Paper
7. Red Sea
8. Goodbye
9. Lions and Tigers
10. Nefi+Girly
11. Exotic Animal Paradise
12. Mizu Asobi

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名前がどうかなー、ちょっと恥ずかしいぞ、と思ったのですが、NY出身のシューゲイザー・インディ・ロック・バンドです。ボーカルは日本人女性のYuki Chikudateさん。シューゲイザー・ユニットではGuitarも日本人女性のボーカルアヤコ・アカシバさんを起用しているし、ジャンルは違いますが人気のあるBlonde Redheadもカズ・マキノさんという日本人女性ボーカルです。うーむ、アニメの次に日本から世界に輸出できる文化は女性ボーカルではないか、などと思ったりして。特にインディ・ロックでは引っ張りだこのようですね。

個人的にぼくは思うのだけれど、日本人の女性はやっぱりいい。ボーカルの声質はもちろん、そのスタイルやルックスも素敵です。黒人ボーカルの真似をして歌い込むとか、そういう路線ではなくて、ビブラートなしのややかわいい系のヴォイスで英語の歌詞を歌い、バックはノイジーなギターと重低音なベース、タイトなドラムという編成がベストではないでしょうか。エレクトロニカ系でも増えています。

そもそもグローバリゼーションに反しているのかもしれないのですが、ぼくは日本人女性の贔屓で(音楽以外の面でも)やっぱりかわいいですよ、日本人女性。しおらしさや奥ゆかしさもあるし、それでいて大胆だったり強さもあり、貞淑かと思えば気が多かったりして(まあ、実際に直面するとそういうのは非常に厄介なんだけど)、エキセントリックな魅力的があると思います。日本に生まれてよかった。日本人女性は最高だ。世界に向けて胸を張ってください、日本人の女性のみなさんっ。

と、音楽から大きく離れて個人的な趣味の世界を展開してしまい、しばし反省。Asobi Seksuのサウンドは"ドリーム・ポップ・ワールド"と称されているようですが、「かつてのLUSHなどを彷彿させる世界観を持つ楽曲の数々を披露(CDJarnal)」とあるように、轟音かつフィードバックしたギターに深めのリバーブで音響的な広がりのある音作りをしていて、なかなか好みです。でもですね、アルバム全曲通して聴いたら、ちょっと疲れた(苦笑)。なかなかアーティスティックでもあります。もう少し、Blonde Redheadみたいなポップ感があるといいのですが。

英語と日本語の混在した曲が特長的です。好みの曲はまずは3曲目「Strawberries」。ルート外しのベースが好みです。あとぐうわーっという轟音とか。それから、やはり4曲目「Thursday」でしょうか。9曲目の「Lions and Tigers」もひそやかな部分と盛り上がる部分のコントラストがよいです。つづく10曲目「Nefi and Girly」の男性ボーカルとのからみもいいですね。なんだかとても懐かしい感じ。12曲目「Mizu Asobi」はもろに日本語なのですが、この曲は日本語はどうかなという印象です。ラララで歌う部分のほうがよかったりする。

たぶん音的には、残念ながら日本ではあまりヒットしないんじゃないかな(苦笑。ヒットしてほしいけれども)。NYのインディーズ好みという感じがします。爆発的な人気にならなくてもいいので、よい曲をリリースしてほしいと思いました。できればもう少しゆっくり目のエレクトロニカ風シューゲイザーというか、ポップスのスタンダードっぽい曲があると(個人的には)うれしいです。6月28日鑑賞。

+++++

アルバムのなかから「Thursday」。コラージュ風の映像がよいですね。あと非常に海外におけるふつーの日本人女性っぽいところとかいい。ほかのPVでは、すごく海外の日本人女性ファンにウケそうな映像っぽいものもありました。この曲は比較的聴きやすいほうです。こういう曲をもっと作ってほしいと思いました。

■Asobi Seksu - Thursday

公式サイト
http://www.asobiseksu.com/

*年間音楽50枚プロジェクト(34/50枚)

投稿者 birdwing 日時: 23:00 | | トラックバック

Ulrich Schnauss / Far Away Trains Passing By

▼music07-033:打ち寄せる波のようなリズム、ずっと聴いていたい。

Far Away Trains Passing By
Ulrich Schnauss
Far Away Trains Passing By
曲名リスト
1. Knuddlemaus
2. Between Us and Them
3. Passing By
4. Blumenwiese Neben Autobahn
5. Nobody's Home
6. Molfsee

1. Sunday Evening in Your Street
2. Suddenly the Trees
3. Nothing Happens in June
4. As If You've Never Been Away
5. Crazy For You
6. Wherever You Are

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エレクトロニカのコーナーでausなどを購入したときにみつけたアーティスト/CDなのですが、その当時はausの派手なきらきら感のほうに惹かれてしまい、購入しませんでした。なんとなく地味に思えたんですよね。ところが最近、とある音楽ブログでタイトルを拝見して思い出して、むしょうに聴きたくなった1枚です。店頭ではみつからなかったのですが、先日、ふらりと立ち寄ったところ入荷されていることを発見。購入となりました。

ウルリッヒ・シュナウスは、1977年生まれのドイツ人ひとりユニットのようです。これは2001年のデビュー・アルバム。マイ・ブラッディ・ヴァレンタインなどを好んで聴いていたらしく、その後、シューゲイザー系のアルバムも出しているとか。

クセがあるとか、特別に何かに凝っているとか、そういう音作りではないですね。とにかくベーシックで、あまり特異なところがない。けれども、繰り返される単調なリズムパターンを聴いていると、その流れになんだか癒される。夢心地になる。いつまでもリズムの波に揺られていたい気分になります。たぶんこのアーティストの魅力は、上ものというよりもリズムです。少なくともぼくにとってはリズムの魅力が、Ulrich Schnaussの魅力であると感じている。

メインのディスクで好きなのは、3曲目「...passing by」のちょっとボサ・ノヴァっぽいリズムでしょうか。同じコード進行の繰り返しなのですが、それがいい。なんでもない打ち込みが、こんなに心地よいのに驚きです。つづく4曲目「blumenwiese neben autobahn」のローファイなハイハットからはじまり、ちょっとピコピコサウンドなリズムも気持ちいい。

ボーナスディスクでは、2曲目「suddenly the trees are giveng way」がいいですね。遠い感じといい、パッド系のシンセの浮遊感といい。そして3曲目の裏打ちのハイハットから入る「nothing happens in june」にひそやかにつながれる感じもよかった。使われている音にあまりバリエーションはなくて、どれもが同じように聴こえてしまうところが残念といえば残念だけれど、それがこのユニットのよさでしょう。永遠にこの音を出しつづけてほしい気がします。6月25日鑑賞。

+++++

2月3日追記

ブログを書いたときに掲載した空の高速度撮影の映像によるビデオが消されてしまっていたので、正式なPVではないのですが、一般の方が写真を撮ってBGMとして「...passing by」を使ってスライドショーとした作品です。

■Ulrich Schnauss - Far away trains passing by

*年間音楽50枚プロジェクト(33/50枚)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

頭のいいひと、ストッパーを外すこと。

関心というサーチライトを灯しながら、昨日は書店を歩き回って三冊の本を購入しました。これがすごい。三冊ともに外れなしでした。よかった。すべての本が、ぼくの好奇心に刺激を与えてくれます。

久し振りに読書の醍醐味を感じているというか、あまりの嬉しさに脳内カーニバル状態で、どんどこしゃかしゃか脳内でアップテンポのパーカッションが高らかに鳴り響いているのですが、ちょっと落ち着こう(苦笑)。ラテン系のリズムのボリュームを絞って、書かれていることを冷静に記述しながら考えてみたいと思います。

というのも、いま同時並行的に三冊を読んでいて(+さらに並行して読んでいる他の本が三冊、計6冊)超・パラレルな読書状態になっているのだけれど、感動のメーターを振り切ることが多すぎて次々と忘れてしまうのです(苦笑)。こちらの本で、おおーっと感動したかと思うと、今度は別の本で、へぇーっと感嘆したりする。そんなわけで、えーとさっきのおおーっは何だっけ?と思い出せなくなってしまう。これではいけない、と。

いつもはきちんと読み終わってからレビューするのですが、感動が薄れないうちに気付いたことを書き留めておくことにします。ほんとうは佐々木正人さんの「アフォーダンス 新しい認知の理論」に書かれていた「情報は光の中に」という視点や、レオナルド・ダ・ヴィンチが鏡面文字でメモを取っていたことなどについても書きたいのですが、収集がつかなくなりそうなので、まずは脳科学者の池谷裕二さんと糸井重里さんの「海馬 脳は疲れない」(現在、P.72を読書中)から気付いた部分を抜粋してみます。これ、文庫になっていることに気付かずに、ハードカバーで購入しちゃったんですよね(泣)。

海馬/脳は疲れない ほぼ日ブックス (ほぼ日ブックス)海馬/脳は疲れない ほぼ日ブックス (ほぼ日ブックス)
池谷 裕二 糸井 重里


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頭がいいということはどういうことか、という命題から入っているのですが、この部分がまず面白かった。糸井さんの次の言葉がストレートに響きます。ここでは「百貨事典がわり」に物識りであることがアタマがいいのか、ということに対して次のように言及されています。引用します(P.23)。


ぼくにとっての「頭がいい」って何だろうと考えると、そういうことではありません。自分が「これは好きだ」と思ったことを十分に汲み取ってくれる人がいますよね?たぶんそれが、ぼくにとっての「頭がいい」という人なのかなぁと思います。

そして、芸術作品を例に挙げながら、次のようにつづけます。

つくり手が「通じなくてもいいや」と考えながら発表している芸術作品というのを、ぼくはとても苦手なんだけど、そういうものの何が嫌かと言うと、きっと「情報の送り手と受け手のコミュニケーションがあまりないから」なんですよ。

よくわかるなあ。ぼくも同感です。たとえばぼくがポップスを好きなのは、万人に受け入れられる音楽だからです。その背景にジャズがあったとしてもエレクトロニカがあったとしても、ポップス的なものはそんな予備知識なしに受け止められる。一見さんお断りのような排他主義がない。ところが理解を拒むような言葉や芸術は、どんなに高尚なものであったとしても、ひとりよがりになる。他者との共感など、心の流通が生まれないんですよね。どんなに高邁な思想であったとしても、理解されないものに価値はない。

この考え方の延長線上として、糸井さんは、頭のいい=好きなひと、頭の悪い=嫌いなひと、という考え方を提示します。好き嫌いで頭のよさを考えている。これが糸井さんらしくてよかった(笑)。まいりました。

言うことがわかる/言いたいことを理解してくれる、そんな他者が「頭のいいひと」である、というわけです。IQとか知識の量というモノサシではなくて、自分と誰かのコミュニケーションつまり関係性で頭のよさを判断しているわけです。だから誰かにとっては頭がいいひとも、別の誰かにとっては頭が悪くなることもあるでしょう。でも、ものすごくわかりますね。

ところで、池谷さんというよりも糸井さんの話からの抜粋になるのですが、「ストッパーを外せる」ひとという考え方も面白かった。若干長い部分ですが引用してみます(P.42)。


ぼくはストッパーを外すことで伸びてきた人間かもしれないです。もとの力を増やすのはものすごくたいへんだけど、ストッパーは意識ではずせますから。

事件にまきこまれたりすると、ストッパーをはずしたり、事件をこっちから飲み込んでしまうぐらいのことをしないと、問題に対処できないじゃないですか。

昔の芸人さんが、事件を起こしたり、たくさん恋愛をしなさいとか言われたのは、ストッパーを外すということに、ちょっと似ているような気がします。

社会と適合しないことをすることで、不慮の事故の処理能力や適応能力が増すんですよね。だから芸人さんは、生活が荒れるようなことを、あえてしたりもする。

ちょうどぼくもこのことを考えていたのですが、ストッパーを外せるということはピュア(純粋)であるともいえます。一方で、きちんとストッパーを機能させることは大人といえるかもしれません。


ストッパーを外すと、過剰な刺激が入り込んでくる。これはまさにぼくが眼科で瞳孔を開く目薬を差していただいた状態で、瞳孔が開ききると過剰な光が飛び込んでくる。目を傷めることになりかねません。けれどもこのときに見えた光は、通常のストッパー状態では考えられもしない感動をもたらすこともあります。


バランスの取れた大人は、ストッパーが完全に機能しています。それは常識や良識かもしれません。しかしながら、外界からの刺激をシャットアウトして強力に機能しているストッパーが外れたとき、逆に非常に打たれ弱くなってしまう。


と、ここで別の文章を思い出してしまったのですが、今週号のR25の巻末コラムで石田衣良さんが書いていた「心のタフネス」でした。


要約すると、最近の話で、新聞社にある優秀な若い記者がいて、当直だったので仕事を終えてジャージに着替えて寝転がって本を読んでいたところ、酔っ払った上司が帰ってきて怒鳴った。おまえ先輩記者が仕事してるのに、何をやってるんだ、と。で、その優秀な記者はどうなったかというと、会社に来られなくなってしまった、とのこと。クリニックに通い、1ヶ月間の長期休職。新聞記者といえばバンカラな印象があるから、なんとなく信じられません。ものすごい競争率を勝ち抜いて入社したエリートばかりでもあります。そんな若者たちが非常に脆い。


コラムを通じて、石田衣良さんは「もろくて壊れやすい」若者たちが増えてしまったのはなぜだろうと疑問を提示すると同時に、「心のタフネス」が必要ではないかということを語ります。


それはひょっとするとストッパーを外しても耐久できるエクササイズができていないから、かもしれない。昔の親たちは、平気で子供をぶん殴りました。ぼくも親父に張り倒された経験があるし、叱られて外に締め出された経験もある。いまそんなことやったら、児童虐待で奥さんから訴えられますよね(苦笑)。親父の権威は失墜している。


当然、ぶん殴ればいいのかというとそうではないのですが、まず親たちが勝手にストッパーを作っています。ストッパーの加減を知らなくなった、といえるかもしれません。過剰に叱り過ぎたり、過剰に何もしなかったりする。適正に叱るということがわからない。叱らないことが誠実である、と思ったりもしている。


ぼくは過剰にストッパーの効いた社会=抑圧された社会は、どこか歪みを生むような気もしています。かといって、抑圧を緩めてそれぞれが強く生きること、強靭であればすべて大丈夫、という短絡思考もどうかと思う。精神の耐久性ではなく他者を蹴落とすようなサバイバルの力でもなく、外部からの力を吸収してしまうようなしなやかな精神を持てないか、ということをずっと考えていて、そのための方策を探りたいのですが、これは信頼という前提があってこそ可能になるものかもしれません。


かつて日本はコミュニティ(ここでは地域社会のことを指します)が非常に機能していて、他人の子供であろうとダメなやつは叱る、という責任を親が引き受けていました。叱るということは他者に対する制裁だけでなく、自分に対しても戒めになるのではないでしょうか。ところがいま、個々は個々のことしか考えないし、地域全体のこと、ましてや日本全体がどうなろうが知ったことではない。個々の利益を追い求めることにせいいっぱいで、他者に何かを与えようとは考えない。むしろ奪うことを考えている。


盲目的なのかもしれませんね。ノイズキャンセラーつきのヘッドホンをかけて、外界のノイズをシャットアウトするような社会です。パブリックな場においても、プライベートな空間が確保できればそれでいいと考える。逆に、そのプライベートを侵害するようなものに対しては過剰に攻撃的になるし、排他的にもなる。


不信感にあふれた社会では、過剰な防衛が崩れたときに、自己は脆くなる。言っても大丈夫、言われても大丈夫、という相互補完的な大丈夫な社会って何だろうと思ったのですが、考えてみるとかつての昭和初期の日本だったのかもしれません。そんな社会であれば失敗しても大丈夫、挑戦すれば大丈夫、という気持ちにもなる。懐古主義に逃避するつもりはありませんが、現在の社会では失敗が命取りになるようなところもあります。寛容ではない。


希望的な観測かもしれないのですが、日本の文化は決して西洋にひけをとるものではなかったのではないか。全面的に諸外国の真似をしなくても、希望を持てるような気がしました。そして自分の国に希望を持たなければ、ぼくらに生きている価値というのはあるのだろうか、とも思う。


隣人を指をくわえてみていてもきりがないし、ないものねだりをしてもまたきりがないので。とはいえ、一方で海外を見渡す視線はかなり重要です。鎖国的に自国を思うのではなく、外部へ開かれたパースペクティブがあってこそ、日本を再発見できるのかもしれません。

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2007年6月28日

「魂のみなもとへ―詩と哲学のデュオ」谷川俊太郎, 長谷川宏

▼book017:散文の思考、詩の思考。そしていまを生きること。

4022615346魂のみなもとへ―詩と哲学のデュオ (朝日文庫 た 46-1) (朝日文庫 た 46-1)
長谷川 宏
朝日新聞社 2007-05-08

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「詩と哲学のデュオ」とサブタイトルに付けられたこの本は、近代出版編集部の桑原芳子さんの次のような企画から生まれたことが、長谷川宏さんの書いた「おわりに」で語られています。

谷川俊太郎の詩を一篇選んできて、それにわたしの短文(四百字詰め原稿用紙四枚)を一本つける。そんんなつけあいを三十回くりかえして一冊の本に仕立てる。テーマは、「生・老・死」。

このアイディアが秀逸だと思いました。長谷川宏さんの短文は長すぎもせず短くもなく、谷川俊太郎さんの詩と交互に読んでいると、心地よいリズムが生まれる。詩の解説というわけでもないし、テーマは重なっているけれども散文では少しずつズレていくので、表現の世界が広がる。場合によっては、詩と散文の対決のようにも思える。

そんなことを考えながら、詩と散文の違いは何だろう、ということを考えました。少年時代には、改行すれば散文は詩になるのではないか、などという乱暴なことを考えていた時期があり、確かに改行で体裁を変えることによって言葉のつながりが断絶されるので、散文的な文章は擬似的に詩にみえるようになる。

息子の書く作文は、詩なのか作文なのか明確に分かれていないところがあり、けれども改行させると、どこか詩らしくなる。あるいは、助詞など言葉と言葉をつなぐものを省略して、単語を羅列すると詩っぽい。邪道かもしれないのですが、3分間で息子の作文を詩らしくするには、それがいちばん最短な方法だと思います。

この本を読みながら考えたことは、ピンポイントで刹那を直感的にキャッチして書かれたものが詩であり、そのピンポイントでキャッチした感覚を時間をかけて思索したものが哲学ではないか、ということでした。つまり詩人は外部からのインプットであるセンサー、哲学者は内部の処理能力である思考回路が重要になるような気もします。つまり、詩と散文は体裁の問題ではなく、思考の問題でもあります。散文詩は詩なのか散文なのか、非常にびみょうな分類という気もしています。ブンガクの形態なんて、すべてびみょうなものかもしれないのですが。

好き/嫌いという感情に関するテーマについてはブログに書いたのですが、最近、どちらかといえば子育てから意識が離れつつあるぼくは(以前は子供のことばっかり考えていた気がする)、谷川俊太郎さんの詩「子供は駆ける」に打たれました(P.86)。引用します。

もう忘れてしまった
くちのまわりに御飯粒をくっつけたきみ
拳闘選手みたいに手を前へつき出して
はじめて歩きはじめたきみ
昨日のきみを
私はもう忘れてしまった
それはきみが私に
思い出をもつことを許さないから
きみがいつも今を全力で生き
決して昨日をふり返ろうとしないから
きみは日々に新しく
きみは明日を考えずに
私よりも一足先に明日へ踏み込む
いっしょに散歩するときも
きみはきまって私の先を駆けてゆく
その後姿が四つになったきみのイメージ

この詩を受けて、長谷川宏さんは次のように書きます。まずは冒頭の部分。
「精神は反復をきらう」といったのはポール・ヴァレリーだ。精神の人ヴァレリーに似つかわしい寸言だ。
裏返せば、肉体は反復を好むことになる。あるいは、自然は反復を好むことに。

そして次の言葉につないでいきます。
さて、問題は子供だ。
子供は反復を好む。ヴァレリーのさきの寸言に接したとき、わたしの頭にまっさきにひらめいたのがそのことだ。

確かにそうですね。子供と遊んでいると、楽しいと思ったことは何度でも繰り返す。抱っこして飛行機、などというときは、もう一回!と言われつづけるとへとへとになります。それはきっと、過去の経験を反復しているというよりも、一回性のわくわくやどきどきや嬉しさを、なんども一回性の楽しみとして繰り返すからでしょう。大人はそうは思わない。それってさっきやったでしょ?と思う(苦笑)。

大人は効率的です。既にやったことは同じこととして共通項でくくろうとする。けれども子供にとっては、いまやった飛行機と、さっきやった飛行機は違う。それぞれがユニークな体験として認識するわけです。次のようにも書かれています(P.90)。

子供が反復を厭わないのも、まるごとの体がいまを精一杯生きているからだ。過去を引きずらず、未来を思いわずらうこともなく、いまという時間をまるごと生きる体は、同じことを何度くりかえしても、そのたびに経験が新鮮なのだ。そこには、しあわせというものの原型が示されているように思う。

「過去を引きずらず、未来を思いわずらうこともなく」というくだりがいいですね。いまある自分をまったく新しい自分として、生きてみたいものです。そんなことを考えさせてくれる詩と散文です。

谷川俊太郎さんが書いた詩を生きる、長谷川宏さんが書いた散文を生きる、ということが詩と散文を日常において実践することかもしれません。詩と散文、そして芸術は決して日常とかけ離れたところにあるものではなく、日常を豊かにしてくれます。そういう意味で、ほんとうの詩と散文は生活と乖離せずに、むしろ生活に対して実践的ではないでしょうか。6月22日読了。

※年間本50冊プロジェクト(17/50冊)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

恋愛睡眠のすすめ

▼Cinema07-019:現実と妄想の映像美、懐かしいけど若すぎる痛い恋愛。

恋愛睡眠のすすめ スペシャル・エディション恋愛睡眠のすすめ スペシャル・エディション
ガエル・ガルシア・ベルナル.シャルロット・ゲンズブール.アラン・シャバ.ミュウ=ミュウ ミシェル・ゴンドリー


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徹夜明けなどのとき。眠くてモーローとしていて、現実なのか夢なのかわからなくなることがありませんか。ぼくはあったな。ふわふわして足元が頼りない感じ。帰宅するユウレイのような浮遊感。

実体のある現実だけが現実かというとそうでもなく、脳内で考えた仮想も思い込めば現実と同等、もしくは現実以上にリアルな重みを持つものかもしれません。考えてみると世界が像を結ぶのは網膜ではなく脳内であって、世界は脳内にあると言えないこともない。子供たちは、ウルトラマンの映画を現実のように楽しんだり怖がったりするのですが、若い頃は妄想と現実が分離していないですね。だからひとりよがりにもなるし、他人を傷つけたりもする。きちんと現実を妄想から分けて考えられるようになることが、大人の思考なのかもしれません。

「恋愛睡眠のすすめ」は、妄想癖があって夢と現実の区別がつかないステファン(ガエル・ガルシア・ベルナル)が、隣りに引っ越してきたステファニー(シャルロット・ゲンズブール)に恋をする。その夢なのか現実なのかわからないドタバタが、ほんとうにボーダーレスな映像で展開されていきます。

夢のなかではステファンはときに男らしく、ステファニーとうまくいっているのだけれど、現実では、大丈夫か?こいつ・・・というアブナイ人間だったりする。その無軌道ぶりにはらはらしながら、ちょっとわかるなー(苦笑)と思ったりする。誰かを本気で好きになったりすると、正気ではいられなくなるものです。

ミシェル・ゴンドリー監督といえば、数々の音楽系のプロモーションビデオ制作で有名ですが、ダンボールで作った自動車とか、ぱたぱた倒れたり起き上がったりする街並みとか、アニメーションがかわいらしい。これがほんとうに現実と夢の境界なしに展開されるので、面食らったりもするのですが、そのボーダーレスな奇妙な映像は、ほぉーっという感じでした。とはいえ、なんとなく映画全体がプロモーションビデオっぽい、という食傷感もあるのですが。

率直なところ映画として観たときには、ストーリーはないし、そもそもコメディ映画って、うまくはまらないとなかなか居心地が悪いものがあります。子供っぽくて危なっかしいステファンの言葉や行動に、なんとなく引いてしまう感じもなきにしもあらず。しかしながら、笑いのなかにほろりとした感情があっていい。

妄想が暴走したステファンは、ステファニーが大好きであるにも関わらず余計な詮索をして傷つけてしまうとか、落ち着いて会えばいいのに気持ちばかりが高ぶって自滅(自爆?)してしまうところとか、非常に痛い(苦笑)。痛いのだけれど、過去の自分に通じるものがあって涙腺が緩みました。とはいえ冷静に観ているところが、自分もまあ大人になっちゃったことであるな、と感じましたが。

さまざまな造語やアイテムが登場するのですが、個人的には1秒タイムマシンがよかった。時間を逆行するときに会話が逆回転になったりして、趣味のDTMで音声ファイルをリバースかけまくって作っているぼくとしては、こういう小細工に妙に受けてしまう(苦笑)。あと、ピアノの音がうまく響くと、綿で作った雲が部屋に浮かぶシーンもよかったですね。ステファンの脳内のスタジオにドラムセットとかオルガンが置いてあって、彼がひとりでマルチプレイヤーになって演奏する場面も好みです。まあ、ひとり遊びなんだけど。ぼくの趣味のDTMもそういうところがある気がする(苦笑)。

あとP・S・R(並行同時発生的無原則)がよかった。これは通りですれ違うときに、あっ相手が右によけるな、と思って右に身体を動かすと、相手もそちらの方向に身体を動かして、永遠に右・左・右・左と身体を動かして通り抜けられないような状態です(笑)。あるある。

映画を観ると必ずパンフレットを買ってしまうのですが、女性ウケする映画だからか、パンフレットはレポートのように縦型でミシンで綴じてありました。開いてみると蛍光色のページがあったりして、目がちかちかする。映画の内容もそうなのですが、パンフレットにもなんとなく気恥ずかしいものを感じてしまいました。たまにはいいか(よくないか)。

070628_renaisuimin1.jpg 070628_renaisuimin2.jpg

■公式サイト
http://renaisuimin.com/


*年間映画50本プロジェクト(19/50本)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2007年6月24日

通りは光で溢れているか。

明日も晴れでしょうか・・・・・・と日記に書いたら思いっきり雨降りになってしまいました(苦笑)。東京の日曜日は雨模様。ようやく梅雨らしい天候ともいえます。晴天と雨天がめまぐるしく変わって、暑かったり寒かったりする。うっかりすると体調崩しそうなので、みなさん気をつけましょう。

それにしても、望んだようにはならないものです。晴天を望んでいるときには雨が降り、雨を待ちわびていると乾いた天気になる。人生も似たようなものかもしれません。

しかしながら、天気を人生に結びつけるのはどうでしょうか(と、自分に突っ込んでみる)。天気は天気であって、地上のぼくらの人生とは関係ありません。脳内の機能がそうなっているせいか、人間はあらゆるものを結び付けたがります。一匹の蝶が羽ばたいたから台風が起きた、というようなことも言ったりする。けれども、あまりにもいい訳が過ぎるのもどうかと思う。ほどほどにしておいたほうがよい気もします。

さて。あまのじゃくなぼくは、晴天の日には雨の歌を公開したのですが、雨降りの日に光に溢れた風景の曲を公開してみます。タイトルは、「Street ray(通りの光線)」としました。縮めると「Stray(彷徨う)」になります。眩しくて目がくらんで、通りを彷徨う感じでしょうか。

そういえばアズテック・カメラにそんなアルバムがありましたっけ。

B000NDFJ3Wストレイ
アズテック・カメラ
ワーナーミュージック・ジャパン 2007-04-25

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まさに先週の出来事なのですが、眼科に行ったときに瞳孔を開く目薬を差していただいた。そのとき、ぼんやりと視界が滲むとともに、外に出た途端に光が眩しくて仕方なかった。その体験がきっかけになっています。そんなものをきっかけに曲を作るのもどうかと思いますが、趣味のDTMでは完成度よりも日常のきっかけから即行で音にする試みをしているので、公開してみます。


■070624_street_ray(2分50秒 192Kbps 3.9MB)




AG+曲・プログラミング:BirdWing


表現したいのはストレートなロックでした。10代の頃(遠すぎる目)の気持ちでしょうか。不器用なんだけれど、なんでもできそうな気がして夢と現実の境界が曖昧で、それこそハレーションを起こしている。世界が自分の手のなかにある感じ。ヘタだとか上手いとか、技術があるとかないとか、知識が豊富だとかバランスが取れているとか、そんな常識をぶっとばすイメージでしょうか。とにかくお金も地位も名声もないけど(ついでに彼女もいないけど)、気持ちだけはあるぞ、どうだ、という(笑)

うーむ。常識にがんじがらめにされている現在の自分とは遠い世界ですね。だからこそきっとそんな曲を作りたかったんでしょう。音的にまず確保したかったのは、高めのカンっというようなスネアドラムの音でした。リズムのリバーブだけは時間をかけて調整しました。あとはざらざら感を残しつつ、きらきらしたギターの音でしょうか。ギターの録音はものすごくおそまつな状態で行っているので、いろいろと改善したいところです。

眼科から外に出て、薬で瞳孔開いちゃっているぼくには、世界がものすごく眩しく見えました。その過剰な光はひょっとすると目を潰してしまう危険もあるのだけれど、そんな光に限りなく近づいてみたい好奇心があります(闇のほうではなくて)。そして、そこから得たインスピレーションで自分を変えて行きたい。音楽に取り組む姿勢、スタイルのようなものも変えられるといいですね。ポップなんだけど過激、抱えてるのはエレキではなくてアコギ+ラップトップコンピュータ。で、服装はとげとげの服ではなくてネクタイにスーツ。それでも気持ちはどこかパンクみたいな。

そんなスタイルを模索中です。とはいえやっぱり、おじさんなんですが(涙)。ほんとうに外見はどうにもならないので、せめて気持ちだけでも。

+++++

Aztec Cameraの「Stray」をむしょうに聴きたくなったのですが、YouTubeのほうでみつからないので、アルバムの5曲目「Good morning Britain」を。元クラッシュのミック・ジョーンズとのコラボです。

■Good morning Britain

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2007年6月23日

ハカイオー。

本格的に東京は夏ですね。暑い1日でした。このまま梅雨はワープして季節は夏突入という感じでしょうか。とはいえ、気持ちがすかっと晴れていい気分です。うーんと外で伸びをしたら、昼間の空に半月がみえた。肉眼では結構でかくみえたのですが、デジカメで写真を撮ったら月なのか雲なのかわからない。残念。

久し振りに子供の話を。うちにはふたりの息子がいるのですが、6つ違いとはいえ、とても仲のよい兄弟です。もちろん兄弟なので似ているところもあるのだけれど、それぞれ個性的で面白い。長男くんは慎重派+左脳タイプ+データ重視という感じなのですが、次男くんは逆にワイルド派+右脳タイプ+感性重視です。

この次男くん(4歳)は喘息持ちにもかかわらず、とにかく落ち着きがないというか、元気というか。

ただ赤ん坊の頃からその傾向はあり、幼稚園に入る前には、公園に連れて行くと地面に置くやいなや(置くという表現もどうかと思いますが。苦笑)ダッシュして30分ぐらいは休憩なしに走っているような子供でした。滑り台とか、ブランコとかで遊ばないの?と訊いても、ぶんぶん首を振ってただひたすら走っている。大丈夫か?こいつ、と思ったものです。

いっしょに話をしているときには、うれしくなるとぴょんぴょん飛び上がる。もっとうれしくなると部屋のなかでダッシュをはじめる。ADHD(多動性症候群)ではないか、とよくわからずに不安になったりもするのですが、子供ってそういうもんだろ、と思うことにしています。

さらに彼は、走るたびに何かにぶつかって破壊している(苦笑)。いちばん困るのは、自分を破壊して(自滅か?)泣いてしまうことですが、とにかく彼のことは「ハカイオー」と呼びたい。

彼の破壊した数々のなかからちょっと紹介してみると、とあるロボットの食玩があったのですが、箱を開いたときに「みせてみせて!」とやってきたので貸してあげると、5秒で腕を折ってくれました(泣)。あ”−っと叫んだら逃げていったのですが、大胆なわりに小心なようで、ちょっと凹んだようでした。

これが彼が破壊したロボットです。

さらに、先日は長男くんが充電していたニンテンドーDSを踏んでしまったらしく、これも画面が自由に動くように破壊(苦笑)。DSくん頑張れ、という家族の声援に応えて、酷い目にあってもしばらくは電源が入るようになっていたようですが、本日ついに昇天されたようです。

これが彼が破壊したDSです。

破壊されたDSは修理を断念し、本日あらためて新しいDS(ホワイト)購入となりました。大手家電量販手では売り切れだったのですが、家の近くのなんでもない店に新品が入荷していたので。

そんな彼だけに、次は何を破壊するのか、とびくびくしています。最近彼のお気に入りはアコギで、ぼくが練習や録音をしていると、アコギのところにやってきて「ぴっちゅは?」と訊きます(ぴっちゅはピック。ギターの弦を弾くときに使う逆三角形のアレです。彼はいまだにクがうまく発音できません。なのでクマは“ちゅま”になる)。どきどきしながら“ぴっちゅ”を貸すと、じゃかじゃか弾いて、ときに、がこん!とかスタンドから落として繊細な父を青くさせてくれます。やれやれ。

彼のパワーを外で発散させてあげればいいのかもしれない、ということで今日は夕方になってからハカイオーを連れて公園へ。水を得たサカナのようなハカイオーは、ものすごい勢いで走り回り、滑り台やブランコなどで遊び回り、追いかけるぼくのほうが参った。

これがあらゆるものを破壊しつつ、壊れることを知らないハカイオー(逃げていく後姿)です。

とはいえ、彼と手をつないでの帰り道、見上げると半月とともに手でちぎった和紙のような雲が輝いてきれいでした。どういうわけか最近、月が嫌いになってしまった彼は、なかなか夜の月を見ようとしないのですが、昼間の月なら大丈夫らしい。

ここ1ヶ月ばかり少し肉体的にも精神的にも疲れ気味でしたが、ハカイオーから元気をもらいつつ、パパであるぼくが壊れないように気をつけなければ(苦笑)。そんなわけでハカイオーと眺めた青空で締めることにしましょう。

ぼくの近所では、電線や建物などの障害がなく、青空をきれいに写すことができるポイントを探すのが難しい。明日も晴れでしょうか。

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2007年6月22日

好き/嫌い、感情というアナログ。

ブログの影響からか、最近は雑誌やフリーペーパーの記事でも、ライターである個人を全面に出した記事をみかけるようになりました。署名原稿であれば昔からそんな記事はあったのかもしれませんが、それでも個人的な感情はある程度抑制して書かれていた気がします。ところが最近では、感情をあからさまに表現した文章が増えた気がする。しかも「好き/嫌い」で判断していることもある。

昨日、AERA No.29のジョニー・デップの特集を引用しましたが、この記事を書いているフリーランス記者である坂口さゆりさんは、ジョニー・デップに「会いたい一心」からライター稼業についたと冒頭で宣言している通り、彼の熱烈なファンのようです。文章から愛情が滲み出ています。例えば次のような部分。

静かで深い声。初期の、孤独感漂う感じが好きだったんだけど、なんて温かなオーラで包まれているの。あぁ、ジョニー。あなたの慈愛(憐憫?)に満ちた黒い瞳を忘れません。

なんだかくすぐったくなっちゃいますね(笑)。古いジャーナリストの方であれば、なんだこれは!と眉をひそめるかもしれないのですが、ぼくはいいと思うな。たぶん、この記事を書いているとき、坂口さんは幸福感に満ちていたことでしょう。ジョニー・デップのことを思い出して、瞳は潤んできらきらしていたりして。そんな文章の裏側というかライターである彼女の書いている姿まで想像して、にこにこしながら記事を読んでしまった。悪い感じはしませんでした。むしろ好感触でしょうか。

感情も情報である、とぼくは考えています。技術的には、コールセンターなどの補助的な機能として音声情報から感情を解析する技術というのはありましたが、最近は、テキストマイニングの応用として文章のなかの感情的な要素を分析する取り組みもあるようです。

もちろん、共感したり感情を判断する部分を機械に任せてどうかという疑問もありますが、研究の過程で人間の感情に関連するさまざまな発見があるのはうれしいことですよね。とはいえ、ブログで自己表現をするひとが増えてきている現在、人間のほうの能力を向上させることも大事ではないか。書くひとは増えたけれど、書き方などの問題はまだまだ未整理な印象があります。

関係性を変えてしまう言葉

ところで、ジョニー・デップが好き、青空が好き、エレクトロニカが好き、という言葉と、特定の誰かに向かって、あなたが好き、という言葉は同じ「好き」であっても異なります。

谷川俊太郎さんと長谷川宏さんの共著である「魂のみなもとへ」を今日読み終わったのですが、そのなかに「好きと嫌いと」という長谷川宏さんの散文があり、これが、がつんと殴られるぐらいぼくにとっては考えさせられた文章でした。引用します(P.32)。

好き、といわれた相手は、その言葉に応答しなければならない。山が好き、川が嫌い、とちがって、あなたが好き、あなたが嫌い、は、あなたの応答を予想することばとして発せられている。相手は、受けいれるにせよ、いれないにせよ、なんらかの応答をしないではすまない。態度をきめかねて黙りこくるのも、それはそれで、無視する、という応答の形なのだ。空がただ頭上にあり、川が変わらず流れているのとは、わけがちがう。

特定の誰かに、好き/嫌いが発せられたとき、その言葉はコミュニケーション機能の側面が強まります。文字面(記号)は同じであっても、一般的な好き/嫌いという表現と働きが異なる。

長谷川さんは次のようにつづけます。これは、恋愛過渡期にあるような方には、ぜひ読んでおいてほしい気がする考え方です。恋愛はどうも・・・と思うひとでも、誰かに何か声をかけるとき、ほんの少しだけ気に留めておきたい。この視点は大切だと思います。

あなたが好きの「好き」は、たんなる自己表現ではない、と、そういってもよい。相手を巻き込もうとする「好き」なのだ。相手は身がまえざるをえない。身がまえたところから出てくるのが応答であり、そこをくぐった二人の関係は、くぐる前と同じだとはもういえない。人間関係を大きく変えるものとして、あなたが好き、ということばはあり、だからこそ、それにまつわる話は、近代小説の好個の題材となってきたのだ。

うーむ、深い。哲学者おそるべし。何も難しい言葉は使っていないのですが、真理をぎゅうっと掴んでいる気がする。そして、さらに次のように書かれています。好き、という言葉によって追い込まれるのは他者だけではない。自分も追い込まれる。

相手に応答をせまり、相手との関係に変化をもたらすことばは、発言者のほうにはねかえり、発言者の心を波立たせずにはおかない。あなたが好き、とはいったが、本当に好きなのか、なにが好きなのか、どう好きなのか、・・・・・・。疑問が疑問を呼んで、心は落ち着かない。

ここでは、好きだ、という言葉をめぐるコミュニケーションについて考察されていますが、なんとなく思い巡らせたのは、ブックマークにおけるネガティブなコメントの問題についても、この考え方から考察できる気がしました。

実はブックマークに付ける短いコメントを、コミュニケーションと考えているひとはあまりいないのではないでしょうか。そもそも能動的に見にいかなければ見られないものだし、記入画面でも書いた内容は意識していても、書いたひとを意識することは少ない気がします。天気がひどい、世の中がひどい、映画がひどい、と同じレベルでコメントをつけているのではないか。

けれども、つけられた個人にとっては、自分に突きつけられたコミュニケーションの言葉となります。つまり、その言葉は相手に「変容」もしくは「応対」を迫る一種の刃になってしまう。発信者の意図があろうとなかろうと、コミュニケーションという文脈に絡め取られてしまうわけです。だから問題になる。

コメントを付ける人間にリテラシーが欠けていると、相手の実体というものは希薄です。相手はただのテキスト情報としか捉えられません。つまり無機質なニュースにひとりごとを言うのと同じ感覚で個人のブログを批判してしまう。共感力に鈍感なひとたちは、何気なくつけた言葉が相手を追い込んでいることを理解しません。というぼくもそうでした。幸いなことに、ぼくはそのことに気付くことができたのだけれど。

それでも、言葉を発するとき

好きである、嫌いである、という言葉は、告げたときに関係性を大きく変えてしまう破壊力を秘めた言葉かもしれません。最終兵器的なものもあり、できればその言葉は回避して、曖昧な状態のまま、ずっと仲のよいお友達でいたい。

けれども、告げなければならないとき、告げなければならないひとがいるのではないでしょうか。発せられた言葉によってどんなに悪い状況に変わり、最悪の場合は関係性に終止符が打たれることになっても、思い切って言葉にしなければならないときがある。

「魂のみなもとへ」を読み進めていって、谷川俊太郎さんの「しぬまえにおじいさんのいったこと」(P.170)の詩にじーんとしました。

全体がひらがなで書かれているのですが、「わたしは かじりかけのりんごをのこして/しんでゆく/いいのこすことは なにもない/よいことは つづくだろうし/わるいことは なくならぬだろうから」という静かな諦めにも似た呟きのあとで、最後には次のように語られます。

わたしの いちばんすきなひとに
つたえておくれ
わたしは むかしあなたをすきになって
いまも すきだと
あのよで つむことのできる
いちばんきれいな はなを
あなたに ささげると

泣けた(涙)。ぼくがいちばん大切なひとに捧げるのは花でしょうか。あるいは言葉かもしれないし、自作の音楽かもしれません。できる限り生涯を通じて「すきだ」を連発しないつもりでいるのですが、だからこそ告げた言葉はできれば永遠に保持していたい。そういう重みのある言葉を使いたいものです。

でも、一方で言葉によっては言わない選択というものもある。その言葉をコメント欄に書き込むことで、誰かを追い込んでしまわないか。変わることを余儀なくさせないか。傷つけないか、力づけられるのか、ほのぼのと癒すことができるのか、生かすことができるのか・・・難しいですね。理屈ではわかっていても、ぼくにはまだまだできない。反省することが多い。

たかがコメントであったとしても、言葉の重みを感じることが重要ではないでしょうか。それはリテラシーとかシステムとか、冷めた思考でくくることができない何かのような気がします。というよりも、温かいものであってほしいという個人的な希望なのですが。

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2007年6月21日

詩人、哲学者、ジョニー・デップ。

少年の頃、谷川俊太郎さんのような詩を書きたいと真剣に考えていた時期がありました。あまり大きな声ではいえないのだけれど、彼のような詩人になりたいと思っていた。けれども詩人にはなりたいと思ってなれるものではありません。詩人であるひとは、生まれながらにして詩人である気がします。

一度、御茶ノ水の丸善のサイン会で「にじいろのさかな」という絵本に谷川俊太郎さんのサインをいただいたことがありました。この絵本はMarcus Pfisterの作品を翻訳したもので、シリーズになっています。

4062619512にじいろのさかな 世界の絵本
Marcus Pfister
講談社 1995-11

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生・俊太郎さんは、とにかく異星人のようだった。彼の存在はそこにいるだけでもう詩人で、詩人のオーラというか一種のかぐわしい匂いのようなものに包まれていました。近寄りがたいというか、神々しい何かがあった。いやーこれは詩人にはぜったいになれないなあ、とそのとき思い、そんなわけで以後ぼくは詩を書くことを断念しました。ときどき谷川俊太郎さんの詩を読みながら、会社員やってればいいや、と。

先日、谷川俊太郎さんの詩と、その詩に関連した長谷川宏さんの哲学的な散文で構成された文庫を書店でみつけて読んでいます。もう少しで読み終わるところ。

4022615346魂のみなもとへ―詩と哲学のデュオ (朝日文庫 た 46-1)
朝日新聞社 2007-05-08

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そもそも谷川さんのお父さんは哲学者である谷川徹三さんであり、「はじめに」で「生まれ落ちたときから、うちには哲学者がひとりいた。だから哲学者がどういう人間かはよく知っている」からはじまる文章を書かれています。これがものすごくほのぼのとしていて、いい。息子さんである谷川俊太郎さんの詩に、欄外に寸評をメモしてくれたらしい。けれどもやはり哲学者であったから、「ことばあそびうた」のような語呂合わせで論理的でないものは認めなかったとか。

後半の部分がまたいいですね。引用します。

ところで、私はうちの哲学者の書いた文章が気に入っている。難しい哲学用語を使っていないからだ。哲学者も詩人も、書くもので読者に評価されるが、読者であると同時に身内でもある人間は、書くものだけで評価しない。哲学者も詩人も、身内には毎日の暮らしの中でのその人となり、行動によって評価されるのは致しかたのないことだろう。

ふむ。哲学者も詩人も、家庭のなかにおいては父である。難解なことを言っていても「おならもするしげっぷもする」ひとりの人間であり、日常性と乖離していないほうが人間として信用がおける。

哲学者も詩人も、その考えや表現の根っこを毎日の生活に下ろしているのである。プラトンの言うイデアという考え方だって、いきなり空中に出現したのではないだろう。日常のうちに生きながら、日常を超えた何ものかに向かおうとするところに、哲学者と詩人の接点がある。それを他者に伝えるのに、難解な哲学用語や詩語は必ずしも必要ではないと私は思う。

いいですね。すごくいい。ぼくはこの"哲学"が根底にあるからこそ、一連の谷川俊太郎さんの詩が生まれたのだな、と思いました。谷川さんの詩もまた、難しい言葉はあまり使われていない。けれども心のなかにしっくりと馴染んで、深く染みわたる。それはたぶん、神々しい何かを掴みながら、やはりその両足は日常という地面に接しているからだと思う。

ところで、いきなり話が飛ぶのですが、「日常のうちに生きながら、日常を超えた何ものかに向かおうとする」という言葉で思い出したのは、AERA No.29の特集「子育てで大化けジョニー・デップ」でした。

こちらも好きな俳優さんです。かっこいいもんね、ジョニー・デップ。シリーズ第3作の「パイレーツ・オブ・カリビアン」は公開後17日間で興行収入60億円を突破だそうで、ものすごく人気があるらしい。彼がこれだけ大きな俳優に変わったきっかけについて、次のように書かれています。

一体、何が彼を変えたのか。
「子どもがすべてを変えた」
ジョニーはさまざまなインタビューでそう答えている。確かに彼が子供たちについて語るとき、彼のまなざしはとりわけ柔らかい。
「娘を抱いたとき、僕を覆っていた霧がすっかり晴れて、すべてがクリアに見えたよ。今、僕には立つべきしっかりとした土台がある。ヴァネッサと子供たちは僕に居場所を与えてくれたんだ」

くー、かっこいい。ヴァネッサ・パラディに対する愛妻家ぶりもよく言われることですが、この姿勢がとにかくいいですね。そして彼は、子供たちのために仕事、つまり作品を選ぶようになった。「ネバーランド」「チャーリーとチョコレート工場」「パイレーツ」シリーズなど、出演作を子供たちの視点から選別するようになったとのこと。

とはいえ、ぼくが彼の出演した作品で妙に印象に残っているのは(おすすめはしないけど)、ジム・ジャームッシュ監督の「デッドマン」であり、運命に翻弄されてどこまでも流されていくモノクロの映像のなかの彼もなかなか魅力的でした。挑戦的に出演したという「リバティーン」のような退廃的かつアダルトなものはどうかとも思うのだけれど、子供向け以外のものにも挑戦してほしい気持ちはあります。子供の成長に合わせて、いろんな作品にも挑戦していくのかもしれませんね。

AERAには、彼が出演した全42作品のリストもあって、これが参考になりました。観ていない映画が結構あります。ジョニー・デップつながりで観ようかと思ったりして。9月には、「LONDON CALLING/ザ・ライフ・オブ・ジョー・ストラマー」というドキュメンタリーにも出ているとのこと。彼がクラッシュについてどう語るのか、気になるところです。

B002HMLE0Oデッドマン スペシャル・エディション [DVD]
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン 2009-09-25

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B000IB11UYリバティーン [DVD]
スティーヴン・ジェフリーズ
アミューズソフトエンタテインメント 2006-11-24

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AERAの記事のなかにも触れられていたのですが、シャルロット・ゲンズブールが主演の「フレンチなしあわせのみつけ方」にもジョニー・デップがちょこっと出ているようです。ずーっと観たいと思っていたのですが、まだ観ていません。特に、CDショップのなかで出会うシーンはいいですね。YouTubeからそのシーンを引用しましょう。

■Johnny Depp in a french film

うーむ。いま気付いてしまったのですが、以前にこの映像を観たときに、いいなあと思ってこのシチュエーションに憧れたことがありました。

自己分析してみると、ダウンロード販売の隆盛期にぼくはわざわざCDショップに立ち寄って試聴して音楽を購入しているのですが、ひょっとすると、いつかこんなことがないか?という淡い期待が潜在的にあるからかもしれません。残念だけれど、まあ・・・ないな(きっぱり。苦笑)。というか、ぼくの場合、音楽にほんとうに集中すると外界にブラインドが下りちゃうので、素敵なひとが通ったとしてもわからないかもしれない。機会を損失しまくっている。

ふたりがヘッドホンをかけながら聴いているときに流れている音楽が、またいい。あえて曲のタイトルは書きませんが、歌詞を読んでいくと、主人公である「僕」は美しい世界に漂う「羽」のような特別なひとに出会います。そして彼女と同じ世界に存在しつつ、自分だけは彼女にとって特別なひとでありたいと願う。けれども特別にはなれない。特別になるどころか、つまらない自分がいる。どうしようもないほど特別な彼女に対して、比較しようもないぐらいダメな自分がいる。

この曲を書いたソングライターは、やはり彼の人生のなかで特別な女性に出会い、彼女を想い、うまくいかなかった経緯があるようです。リアルな日常において一途に想いつつも破局した経験があったからこそ、ガラス細工のような名曲が生まれたのでしょう・・・・。あらためて、この曲は泣ける(涙)。ぼくはDTMを趣味としていて曲を作っているのですが、インストが多い。けれども、こんな曲を作りたいものだ、と思いました。

ちなみにこの歌詞の最後「I don't belong here. (ここは僕の居場所じゃない)」は、ジョニー・デップ自身がインタビューで語った「ヴァネッサと子供たちは僕に居場所を与えてくれたんだ」に対比するとも思いました。

さて、ちょっと感傷的になってしまいましたが、もし朝起きたら彼氏あるいは旦那さんがジョニー・デップだったらどうでしょう。

ぼくはもう、どきどきしちゃいますね(ぼくがどきどきしても仕方ないのだが。苦笑)。外見的なものは仕方ないとして、考え方だけでもジョニー・デップになれないでしょうか。まあ、いきなりジョニー・デップの言葉だけ借りちゃったりすると、あんた悪いもんでも食べたんじゃないの?と冷たく批判されることになります(苦笑)。やはり言葉だけ拝借していてはだめで、根っこの部分、思考を変えないとダメですね。

ぼくの私見だけれども、かつてパブリック(仕事など)とプライベートをきちんと分けること、けじめをつけることが良識であると考えられていた時代があったように思います。けれども、ブログなどで個人を表現できるようになった現在、パブリック×プライベートという混合により、ライフスタイルを多様化あるいは立体化するスタイルがかっこいい(かっこよければいいのか、という視点もありますが・・・)気がしています。

もう少し難しい言葉で言ってしまうと、日常という瑣末に立脚しつつ高邁な理想を夢見る、ということでしょうか。犬のように日常という泥にまみれながら歩きつつ、鳥のように青空から俯瞰した世界を眺めることができること・・・・・・そんな表現をかつて使ったこともありました。部分思考と全体思考をバランスよく統合していくことかもしれません。

これが結構難しいんですよね。けれども難しいからこそ、挑戦のしがいがある。そして、この生き方のポイントは「しなやかさ」ではないか、と睨んでいます。

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2007年6月20日

見える、という幸福。

自分の体調不調のことをブログに書くのもどうかとも思うのですが、昨日から右目が見えにくくなり、不安を感じていました。なんだか右サイドの視界中心にハレーションを起こすというか、きらきらしてきれい・・・じゃなくて、見ていて非常にうっとうしいものがあり、食欲不振などもあったので安静にしていました。が、やはり右側の視界すべてがきらきらするのは困惑もので、歩いていても眩暈がしてくる。そんなわけで本日は眼科へ行ってきました。明るい素敵な眼科でした。

読んでいる女性の方にはヒンシュクをかいそうですが、なぜか美しい女性の看護師さんが多い。ここで多いというのは比率の問題だけではなく、人数も多い。ひょっとしてオーディションしているのではないか、医師(男性)の方のシュミではないか、という感じもしたのですが、美しい上にピンクの服がかわいいので、男性のぼくとしては非常によろしい。また来ようかな、と思いました(眼科の常連になってどうする。苦笑)。

背が低めの凛々しい女性の看護師さん(かなり好みのストライクゾーン)に視力検査をしてもらい、意味もなく緊張。その後、眼底検査をしましょう、ということで右目だけに薬(たぶん瞳孔を開く薬?)を落としていただいて、その薬が効くまで待合室で待っていました。

見えなくなりますよ、と言われていたのですが、次第に右側の視界がぼんやりと霞んでいく。ちょうどすりガラスがどんどん重なっていくような感じです。ひょっとしたら眼底が破れちゃったのかも、などと余計な妄想も生れてくる。このまま視力を失ったらどうしよう・・・と。

そんな風にフェードアウトしていく右目の視力をもてあましながらぼーっとしていると、美しい女性看護師さんが、よいしょっ!と勢いよくしゃがんだ。わっぱんつ見えそう、と思ったのですが、コンタクトを外して裸眼0.02の超近眼である上に薬の効果もあるので、まったく見えない。モザイク処理どころじゃありません。敵もさるもので(敵なのか?)、見えないと思って大胆にしているようなところもある。悔しいやら情けないやらで不貞腐れて目をつぶっていたら、冷房もよく効いていたので思わず熟睡してしまいそうになりました。と、そんなことはどうでもいいのですが。

障害を持たれている方もいるかと思うので、慎重に語らなければならないと思うのですが、視力を失うということにあらためて不安を感じました。

視力を失うとどうなるだろう。そんなシミュレーションをあれこれ思い浮かべてみたのですが、まずネットはできなくなる。そして仕事もできない。だから仕事を探さなければならない。さらに、趣味の映画鑑賞は無理です。サウンドトラックしか聴こえなくなる。本も読めない。趣味のDTMであっても、いまぼくは鍵盤ではなく、ピアノロールにマウスで音を置いていく作り方をしているから、それもできなくなる。

などと不安を募らせ、少しだけ暗い気持ちになりながら診察を受けたのですが、眼底は大丈夫とのこと。ほっ。たぶん、軽い閃輝暗点症ではないかと言われました。

せんき・・・なんでしたっけ?とまたこれも確認してしまったのですが、眼球の問題ではなく、脳の問題らしい。通常、右の眼球からインプットされた視界は左の脳で画像として処理され、左の眼球からインプットされた視界は右の脳で画像として処理されます。つまりタスキがけのように処理されるわけですが、たぶんぼくの場合、ストレスなどで左脳の働きが悪くなり血管が収縮した。そのせいで右の視界に障害が出たとのこと。

ふむふむ、なるほど。と感心して説明をうかがっていたのですが、先生が一生懸命になって図で説明しているのですが、その・・・コンタクト入っていないので、ぜんぜん見えないんですけど(苦笑)。

とはいえ、眼底の問題ではなかったのでひとまず安心して、帰りにコンタクトを入れてもらいました。焦点の合った世界であらためて見る世界の鮮やかなこと。看護師さんは天使かもしれない、と感動。外へ出てみると光が眩しい。真夏のような快晴だったせいもあるのですが、右目は薬で瞳孔開いちゃっているから、それこそ白い壁なんか飛んでしまって本格的に白です。世界はこんなに眩しかったか!と。

帰宅してWikipediaで調べてみたところ、閃輝暗点症には次のようなことが書かれていました。

ストレスがたまり、ホッとしたときにこの症状に見舞われることが多い。

なるほどね。ロジックを組み立てて左脳を駆使する仕事ばかりが多かったので、左脳に負荷がかかったのでしょう。しかし、次を読んでちょっと眉をひそめた。

中年の場合で、閃輝性暗点だけあって、その後に頭痛を伴わない場合は、まれに脳梗塞、脳動静脈奇形、脳腫瘍や、血栓による一過性の脳循環障害が原因である可能性がある。

ううむ。これは簡単に済まされないのでは。うちの親父も脳の病で亡くなったわけだし。

健康に留意しようと思いました。お忙しいお仕事のみなさんも、十分にご注意ください。そして、無理をされないように。無理はせずに、いまを大切にできますように。

+++++

ここで紹介するのはどうかと思うのですが、今日の話題に関連した映像を引用します。

よく拝見している方の日記で「泣ける」と紹介されていたアジア系の映像をYouTubeから。カメラマンさんと美容師さんの恋なのですが、ぜったいに泣くと思って拒否していたけれども、ついつい観てしまい夜中に号泣。だからぼくは涙腺弱いんだってば(泣)。でも、教えていただいてありがとうございます。泣ける映画、じゃんじゃん教えてください。

見えるってことは幸せですよね。たまに、見なくてもいいようなものも見ちゃいますが。それでもきちんと見えているときに、できる限りのあらゆるものを見ておきたいと思います。

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2007年6月19日

「イノベーションと企業家精神」P.F.ドラッカー

▼book016:イノベーションの本質を探る名著。

4478000646イノベーションと企業家精神 (ドラッカー名著集 5)
上田 淳生
ダイヤモンド社 2007-03-09

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学生時代に読んでおけばよかったと思う本、あるいは手薄だったジャンルがいくつかあります。経営書もそのひとつですが、特にドラッカーの著作は学生時代にきちんと読んでおけばよかった。けれども、学生時代の浮ついた自分には、その言葉はしっくりと馴染まなかったかもしれません。いまだからこそ意義がある。

社会に出て面白いことも面白くないことも経験し、実現可能なことも可能性の限界も分かりはじめ、それでも静かに前を向こうとする現在。自分にとってドラッカーを読む時間はしあわせです。どれだけ時間がかかったとしても、ドラッカーの名著集を読破したいと思っています。ほんとうに時間かかりすぎなのが、どうかと思うのですが(苦笑)。

易しい言葉で語られるドラッカーの文章は、場合によっては刺激が少なく、平明すぎて引っかかりに欠けるような印象もあります。けれども、その平明さのなかに鋭い洞察が隠されている。たとえば、「予期せぬ成功と失敗を利用する」という、イノベーションのための7つの機会の第一。不確実な要因をイノベーションの機会の第一に持ってくるところに、ドラッカーの卓越したセンスを感じました。

情勢をじっくりと見極め、資料だけでなく現場を訪問して、そこで何が起こっているのかを自分の目で確認すること。その自分の目で確かめたことを自ら考え、分析によって体系化・構造化せよ、というのがドラッカーの基本的な姿勢ではないでしょうか。ドラッカーの本質はこの姿勢にあるのではないかとこの本を読んで感じました。

けれども、分析しやすいこと、パターン認識しやすいことを第一に考えるのではなく、イレギュラーな予測もつかなかった変化をあえてイノベーションのチャンスと捉えている。しかも成功だけでなく、失敗も機会となる。この思考にぼくは注目したい。

変化というものは、最初はほんのわずかな動きであることが多いものです。一般のひとにも変化が感じられるようになったときには、もはやそれは変化ではなく時代の主流になっている。この変化の芽をわずかな段階でキャッチするためには、鋭いセンサーを働かせる必要があります。経験はもちろんのこと、直感も必要になる。

この本のなかでは、大量の事例が紹介されていますが、過去に起こった事例からパターン認識と分析・構造化が繰り返されていきます。そうして最終的には作り上げたフレームワークにこだわるのではなく、前触れもなく訪れた現在もしくは未来の新しい(パターン認識できない)何かを掴み取ることを重視されています。

75歳のときの著作でありながら、その若々しい思考には、ほんとうに頭が下がります。むしろぼくらの方がアタマが固いんじゃないかと思ってしまうぐらいで、ドラッカーのように柔軟な思考でありたい。

いま、イノベーションは注目されるキーワードのひとつであり、書店には背表紙にその言葉を掲げた本がたくさん並んでいます。もちろん新しいイノベーション論も参考にしたいと思うのですが、ではドラッカーの本が古いかというとまったくそんなことはありません。現在でも十分に通用する。

翻訳の上では変更点もあり、かつて「起業家精神」と書かれていた言葉は、今回の訳にあたって「企業家精神」と書き換えられたそうです。確かにベンチャー企業隆盛の頃には、「起業家」という言葉が目につきました。けれどもそんな一時的なバブルが過ぎ去ったあとで、永続的に使える言葉として「企業家精神」という風に落ち着いたのでしょう。読み始めたときには若干違和感があったものの、あとがきの解説を読んで、なんとなく納得しました。むしろ起業家よりも企業家のほうが、ベンチャー企業も含めてエンタープライズ(大企業)までを含んだ理論として読むことができます。

この書物のなかでは、第一に、第二に・・・という風に体系的にポイントが語られていきます。全体を構造化したいところですが、ぼくの興味のある部分に限って、覚書的にまとめてみることにしましょう。

まずは、第1章「イノベーションと企業家精神」において、7つの機会が提示されているのですが、その7番目の「新しい知識を活用する」から、知識によるイノベーションの特徴・条件・リスクを抜粋してみます。

■知識によるイノベーションの特徴(P.115)
1)リードタイムが長いこと(25〜35年を要する)
2)知識の結合

■知識によるイノベーションの条件(P.129)
1)分析の必要性
2)戦略の必要性
2-1.システム全体を自ら開発し手に入れる
2-2.市場だけを確保する
2-3.重要な能力に力を集中し重点を占拠する
3)マネジメントの必要性

■知識によるイノベーションのリスク(P.136)
1)時間との闘い
2)生存確率の減少

知識によるイノベーションについて解説された後で、アイディアによるイノベーションについても言及されているのですが割かれているページは非常に少ない(苦笑)。アイディアも重要なのだけれど、知識レベルに昇格させなければ事業としては危なっかしい、アイディアは事業ではない、というドラッカーの厳しい視点が感じられます。

広告業界などではアイディア一発のようなところもあり、それがまた楽しいのだけれど、事業化するにあたっては「ラスベガスのスロットマシーンで儲ける」ようなギャンブル的な夢想を避ける、ということでしょう。ドラッカーはアイディアによるイノベーションについても認めながら、その可能性については非常に疑問視しています。

つづいて、第13章「既存企業における企業家精神」からまとめてみます。イノベーションは新規事業だけでなく、既存企業においても重要になる。どちらかというとぼくにとっては、特殊ではない通常業務のなかにおけるイノベーションのほうに関心があります。

■企業家精神の4つの条件(P.174) 1)変化を脅威ではなく機会とみなす組織を作り上げること 2)イノベーションの成果を体系的に測定すること 3)組織、人事、報酬について特別の措置を講じること 4)いくつかのタブーを理解すること

■イノベーションの段階(P.177)
1)組織の衛生学 最高の人材の確保、資源の投入、過去事例の廃棄
2)ライフサイクルによる現状把握(製品、サービス、流通チャネル、工程、技術)
3)イノベーションの領域、期限の明確化
4)企業家としての計画化

■企業家精神のための具体的方策(P.180)
1)機会に集中すること 問題に集中する会議+機会に集中する会議
2)戦略会議の開催
3)トップマネジメントが部門の若手と定期的にミーティング
 (開発研究、エンジニアリング、製造、マーケティング、会計)

■イノベーションの評価(P.184)
1)成果を期待にフィードバックすること
2)活動全体の定期的な点検
3)成果全体を、目標、市場における地位、企業の業績で評価

通常、イノベーションというと先端企業であるとか、ベンチャーであるとか、そんな特殊な状況を思い浮かべます。けれどもイノベーションはあらゆる企業において必要であり、可能である。以下のようにも書いてあります。(P.175)

イノベーションを異質なものとして推進していたのでは何も起こらない。日常業務とまではいかなくとも日常的な仕事の一つとする必要がある。そのためには、企業家精神のマネジメントといくつかの具体的な方策が必要である。

ジェフリー・ムーアの「ライフサイクル・イノベーション」にも通じることでしょうか。ぼくはさらにそれを企業内ではなく、個人の生活のなかにおける「日常業務」として考えてみたい気がしています。

読了後、感想を書くまでに時間が経ってしまいましたが、読み進めながら集中力が途切れてしまった感じもあるので、再度読み直してみたい気もしています。最後に、最終章から次の言葉を。

企業家社会は継続学習を必然のものとする。

中盤は省略しますが、次のように語られます。いままで継続学習をしなければならないひとは、芸術家や学者、僧侶など特別なひとだったのですが、これからの社会ではそれが特別ではなくなる。企業家である以上、すべてのひとが継続学習が必要になるとのこと。

ところが、企業家社会ではこの例外が当然となる。企業家社会では、成人後も新しいことを一度ならず勉強することが常識となる。二一歳までに学んだことは五年から一〇年で陳腐化し、新たな理論、技能、知識と代えるか、少なくとも磨かなければならなくなる。そのため、一人ひとりの人間が、自らの継続学習、自己啓発、キャリアについて責任をもたなければならなくなる。もはや少年期や青年期に学んだことが一生の基盤になることを前提とすることはできない。それは、その後の人生において全面的に依存すべきものではなく、そこから離陸すべきスタート台にすぎなくなる。
ぼくは梅田望夫さんの述べているサバイバルの意味もここにあるような気がしました。サバイバルという言葉が、他者を蹴落とす競争と捉えがちだから誤解も生むのだけれど、自己を革新していく、つまり自己の絶え間ないイノベーションがサバイバルではないか、と。ほんとうに闘うべき相手は自分のなかにいます。それは妥協したり、まあいいっかと自ら限界を設定するような自分であり、それを超える必要がある。

日々学習です。そして、いまここが離陸すべきスタート台であることを認識しようと思います。6月7日読了。

※年間本50冊プロジェクト(16/50冊)

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下降と上昇。

バイオリズムや運勢というものが人間にはあるようです。年周期なのか月周期なのか、あるいは一日のなかで時間によって変化するものなのかわからないけれど、確かに波のようなものに翻弄されながらぼくらは生きている。

もちろん物理的な波ではないから、ぼくらにその波の実体は見えない。見えないから厄介であって、うまく波に乗れるときもあれば、波にのまれて沈んでしまうこともある。その波は自分で変えられるものかもしれないし、自分では変えられないものかもしれません。変えられない波であれば乗り方を工夫するしかなくて、あるいは波を予測して対処するしかない。

ブログを書いていて思うのですが、日記を書くという行為にもやはり周期があります。見えない波に影響されます。インスピレーションを受けて神様が降りてきたような文章を書けそうだ、という波もあれば、ダークサイドに落ち込んでとんでもないことを書いてしまいそうだ、という波もある。人生は寄せては返す波のようなものかもしれない(誰かが言っていそうなフレーズですが)。

下降と上昇の差が激しいと、まるで乱気流の飛行機のような人生になります。本人は大変かもしれないけれど、それはそれで面白いんじゃないのかな、と思う。一度きりの人生であれば、社会から脱落しない範囲で、メーター振り切るぐらいの体験をしてみるのもいい。しかしながら、実際にそんな体験をしてみると、もう懲り懲りだと思うものかもしれません。平穏無事に暮らしたい、と思うのかも。

一方で縁側でぼんやりと微笑みながらお茶を飲んでいる老人のような生活もあり、それはいわば凪のような人生といえるでしょう。打ち寄せる波は決してないわけじゃないのですが、静かで穏やかで、その高低の変化率は少ない。よろこびもかなしみもフラットで、大きなよろこびもないかわりに大きなかなしみもない。

そのどちらを選ぶか、という問題でもないような気がして、結局のところ、放っておけばぼくらは老人になるものであり、いずれは淡く生きる(生きざるを得ない)ようになってしまう。もちろん老いても過激に怒りや憎しみをぶちまけたり、年不相応な愛情に溺レルひともいることでしょう。それはそれでそのひとの人生としては有意義なのだろうけれども、やはり傍からみると恥ずかしいものもあったりする。まあ、本人さえよければいいのですが。

音楽にも波があります。リズムはゆったりと身体を揺らし、波を作る。自作曲をチェックするために何度もヘビーローテーションにして繰り返し聴いていたのですが、その世界にのめり込みすぎて離れられないような感じになりました。で、ヘッドフォンを外すと、なんだか船酔いしたような気分になる。聴きすぎです(苦笑)。

健康な状態から体調不調の状態に下降すると、こんなにしんどいものだったか、健康でありたい、と望む。逆に、不健全な状態から健康を回復すると、世界のあらゆるものが美しく、美味しく、素敵に思える。人生という波に翻弄されるのも、それほど悪いものではないのかもしれません。

波に揺られてみますか、ほどほどに。そしてお手柔らかに。

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2007年6月18日

強さが目指すものは。

言葉はときにひとり歩きします。たいていぼくらは書かれたものの全文をじっくり読まない。キャッチーなフレーズだけに焦点を当てて読むことが多い。だから、書き手の意図に反して、ブログに書かれた文章やコメントも一部分だけがクローズアップされてしまう。しかし、書かれたものである以上、どのように解釈されようと仕方ないものかもしれませんね。解釈は自由であり、だからこそ解釈することが創造的な活動にもなる。

ブログ内の言葉に言及しない、社会批判的なことは書かないようにしている、ということを以前に書いたのだけれど、梅田望夫さんのブログの「サバイバルのための人体実験を公開すること」というエントリーについて考えることがあったので、今日はそのことについて書いてみます。

ここでも「サバイバル」「人体実験」が過剰にクローズアップされすぎている感じがしました。というぼくもその言葉について書こうと思っているのですが(苦笑)。

まず最初に梅田さんのブログで何を問題にされているかというと、最近、はてなブックマークをはじめとしたコメントで柄の悪い表現が増えていること、あるいはネットイナゴについても触れて、ネットにおけるサバイバル、強靭さについて言及されています。

一回性の人生を生きる、ということ。

まず「人体実験」という言葉が気にかかったのですが、ぼくもまたブログを通じて人体実験のようにいろいろなことを試みています。梅田さんの「総表現社会」というキーワードに影響を受けて、そのコンセプトを実現すべく、ネットで自作曲を日記のように作っては公開しています。最近はそればっかりになってしまいましたが。

とはいえ「人体実験」に関しては、若干、梅田さんの言葉が与える影響に危惧を感じました。たとえばまだネット初心者の若いひとたちのなかに

「なんか梅田さんの言っていることって新しそう、失敗してもリセットできるからなんでもやればいい、面白いからいいじゃん、どんどん人体実験やれば」

というひとも出てくるような気がします。しかしながら、ぼくはそうした姿勢に疑問を感じます。なぜならば、

人生はリセットできない(ブログはリセットできたとしても)

と、考えるからです。

SFでもなければ、あのときに遡ってもう一度生きる、なんてことはできない。当たり前のことだけれど、やり直すことのできない一回性の人生をぼくらは生きています。

あなたの人生は実験なのか。観察されてデータを収集されるモルモットなのか。梅田さんはあえてご自身の身体で実験しているのだけれど、その実験を面白半分で安易にとらえるべきではないのではないか。

ハードディスクのOSを消して再インストールするように、自己をすべて入れ替えることはできません。やり直すとしてもトラウマや後遺症は必ず残るし、(ぼくが弱いのかもしれませんが)過去のあれこれはそう簡単に忘れられないものです。それほど大きくひとは変われるものではない。過去の想いが自分を縛り、清算されない想いをじっと抱えながら生きていかなければならないこともある。実験が取り戻せない失敗をすれば・・・・・・人生もまた取り戻せなくなる。

ぼくもかつては、「人生は何度もリセットできる!」というオプティミスト的な理想を掲げていたことがありました。だからこそ奔放にブログを書いたこともあった。

けれどもホンネを言ってしまうと、実験なんかしていないで自分の人生をきちんと生きるべきだと思うし(実験ではなく挑戦は必要です)、時間はどんどん過ぎていくからリセットしようにも若さは取り戻せない(苦笑)。リセットしなければならないような状況は、できれば回避したい。辛い思いをするのはしんどい人体実験で学んだ自分だけで十分であって、誰かに実験は勧めたくはない。できればこれから実験を考えているひとには、くだらない実験なんてやめたほうがいい、と進言したい。

もちろん雑草のように踏み潰されても立ち上がる強いひともいるでしょう。何度も何度も人生をやり直して、結果として成功をつかむひともいる。どんなに叩かれても信念を貫くひともいる。しかしながら、世のなかは強者ばかりではない。強者にならなくちゃとわかっていても、なれないひともいるだろうし、弱者であることをあえて選択した生き方もあるような気がします。

かつて格差社会を批判したある雑誌の記事を読んで疑問を感じたのですが、その記事では「下流であるひとたちは努力が足りない、強くなれば変わることができる」というような提言が書かれていました。ぼくはなんとなくその考え方に違和感があった。それはそうだけどさ、なんか違うんじゃないのかな、そんなに簡単なものじゃないんじゃないのでは、と。

そこで深く考えてしまうのは、強さっていったいなんだろう、ということです。

弱者を守ってこそ強者ではないのか。

たとえば、こんな場合はどうでしょう。梅田さんに続けとばかりに人体実験をやるぞと奮起して、過激な発言によって実験を遂行した若いはてな日記のユーザーがいたとします。あまりにも過激なことを書き過ぎてエントリーが炎上してブックマークでも辛辣なコメントが続き、悪質なコメントで収拾が取れなくなり、さらに実名だったので特定の個人を突き止められ、精神的に追い込まれたとする。彼は疲れ果てて、最終的に自分を殺めてしまう。

彼は強靭ではなかった、強くなれなかった、と傍観者の立場で言ってしまうことは容易いでしょう。でも、その批判には生命の重さを感じ取る共感力に欠けているのではないか。そう言い切れるあんたは確かに強いかもしれない、けれども人間についてほんとうにわかってんのか、と憤りを感じる。そしてさらにぼくは次のように考えます。

このとき、システムを提供しているはてなは、企業として、自殺したブロガーのために社会的責任を負えるのだろうか?、と。

「いや、システムは提供しましたが、書くのは個人の責任においてであって、われわれの責任ではありません」と逃げないだろうか。「50%ルールで進めていますが、システムもリテラシーも不完全な維新的な状態だからこういうことも起きる。いずれは改善していくつもりです」といい訳しないだろうか。梅田さんは「彼は弱かったんだ。強靭になればそんなことにはならなくて済んだはずだ」とコメントするのでしょうか(そんなコメントをしないことを祈りつつ)。

言い過ぎかもしれないけれども、彼はブログによって、あるいはブログ社会によって殺されたのであり、はてなのシステムが(ここで、はてなはあくまでも例であり、どんなブログやSNSも同様だと考えます)彼を追い込むのに加担していないとは言い切れない。あるいは彼に影響を与えた(煽った)人間に罪はないのか。

梅田望夫さんは人体実験というけれども、そこまで覚悟があるのなら、企業としても技術やサービスの進化だけでなく、誤った方向に進まないような努力であるとか、抑止するための仕組み、社会的なインフラについて(強靭さについて言及しているよりも)もっと積極的に着手すべきではないでしょうか。もちろん、システム面においては、はてなでは伊藤直也さんがその実現を進めているわけですが、その動きと重ねてみると、梅田さんの「強靭になればいい」という言葉は無責任な気がするし、どうしてもぼくには強者の理論に思えてしまう。

そう。個人の人生論としては、シリコンバレー主義を持ち込んでネット社会で強靭であれ、というのは充分に納得できます。けれども、そこにブックマークの柄の悪いコメントなど、はてなの問題が絡んでくると、どうしてもそちらの文脈の影響を受ける。悪質なコメントに負けない強靭な精神を持て(システムの改善に依存するのではなくて)と勝手に文脈をつないで解釈を進めてしまう。だから不快感を煽るのであって、はてなに関係している人間であればそのふたつを連関させることは問題だと思うし、もう少し慎重な発言が必要なのではないか。

書物を書かれたり、啓蒙されていることは意義があると思うのだけれど、それだけでは(あえて厳しいことを書かせていただけば)不十分のように感じます。梅田さんは具体的なサービスを担うのではなく、はてな自体のソースコードを書いている=企業としてのはてなのビジョンを担っているという考え方もわかる。けれども高邁な理想も具体的なサービスに落とし込まなければ意味がない、とも考えます。

伊藤直也さんがリテラシーの回復とシステム面からの改善を述べていて、ぼくは非常に好感を持ちました。まずはそのことを断っておきます。けれどもここにおいても、一方でぼくは、集合知を利用するのも大切ですが、集合知に依存するのではなく、はてなの企業としての姿勢を示すべきことが重要ではないかと思いました。外部に耳を傾けることも大事だけれど、じっと自らの企業のあり方に耳を澄ますことも大切です。

梅田さんのサバイバル発言は個人の人生論としては十分に意義があり、そういう生き方もあるのだけれど、はてなのシステムを改善する上では構想として何も機能しない気がするのが残念です。つまり、強靭であれ、という言葉自体が思考停止を招く。強靭ではないものにとっては途方に暮れるだけです。

これはあらゆる企業においても言及できることかもしれません。理想を掲げるのは容易いものです。さらに「そのことはずいぶん前に言った」という発言をよく聞くのだけれども、言ったと言及するのもまた容易い。しかしながらリーダーやマネージャーであれば、言ったことを計画や行動に変え、組織を指揮して発言を実現に向けて動かさなければ意味がない。言うだけなら誰にでもできるわけで。

たとえば、交通事故を起こすのはドライバーの責任だ、と言うこともできますよね。でも、自動車メーカーは被害を最小限にとどめるべく企業努力をしています。最近、倫理のねじが緩みがちなところもあるかもしれないのですが、それでもより安全な社会を実現するために努力している。それが企業の信頼につながり、本質的なブランド価値にもなる。だから安心してそのメーカーのクルマを選ぶ。

情報化社会を生き抜くためには、個々が強くなり、自衛の力を付けること(簡単に言ってしまうとスルーする力かもしれないのですが)も大切だと思います。けれども、社会において強者である企業は弱者である個を守るための活動を重視すべきではないか、と思う。それは集合知であるみなさんからアイディアを募集しましょう、という問題ではないのではないか。サービスを提供している企業の倫理として、企業が頭を悩ませて、決定しなければならないことではないでしょうか。

イジメについての問題に通じるところもあるかもしれません。イジメられている人間に強く生きろ、ということは簡単です。けれども、強さこそがすべて、というのはなんとなく湾岸戦争などにおけるアメリカ的な力の理論であって、ものごとはそれほど単純なものではなく、強さですべてを片づけるのはあまりにも無責任な気がする。確かにエグゼクティブである梅田さんや一部の特権的なブロガーだからこそ、強靭な力によって勝ち残れ、という言葉も重みがあるのかもしれない。けれども特権的であるからこそ見えないこともあるのではないか。

強者だからこそ弱者を守る論理がなければいけないと思います。

ぼくも強くなりたいと思うのだけれど、ぼくが強くなれるなら、弱いものを守るために強くなりたいですね。青臭い理想論かもしれないのですが、ヒーローがなぜ存在するかというと、弱いものを守るためにある。とかなんとか書きつつ、そもそも体調不調ばかりのぼくは強くなれませんが(苦笑)。

実験を受け止められる社会でなければ。

人体実験的にブログを利用して過激な発言をしてみたり、ぎりぎりのプライベートをパブリックに公開してみることによって、ぼくも痛い目をみたり、凹んだりもしました(苦笑)。確かに強靭であることは重要で、ブログを続けていると強くなれることも確かです。いや、ほんとうに打たれ強くなりますね、これは。1年前と比べるとずいぶん強くなりました。

ただ、すべてのひとがネットのネガティブな部分を受け止められるかというと、疑問を感じます。冒頭にも書きましたが、ぼくらの人生は実験用のモルモットではない。失敗したら替えがあるわけではない。テキストだけの情報は簡単に削除できたとしても、その背景にリアルな命という価値があり、テキストと身体はまるっきり別々ではない。テキストの文体のなかに、生々しい身体性が息吹いていることもある。

ぼくがなぜ人体実験的な危険を冒すかといえば、アタマが悪いので経験してみなければわからないということもあるのだけれど、幼いふたりの息子のため、ということもおぼろげに考えていました。これから情報化社会を生きていく子供たちのために、どんな恩恵があり、どんな闇があるのか、また危機に直面したときどのような回避ができるのか、父親として知っておいたほうがいいかな、という気がした。まあ、それほど強く意識していたわけではありませんが。

ぼくは決して梅田望夫さんの姿勢を否定しているのではなく、つまり覚悟ができているからこそ、ご自身を人体実験的に使って身をはってネット社会を体験されているのだと思う。シニアの人間、つまり大人たちは次世代のための実験をどんどんすべきだと思うし、ネットのなかの「親」として弱者である「子(=個?)」を守る必要がある。

しかしながら、実験しても失敗を取り戻せるインフラがなければ、実験することが致命的になることもありますよね。シリコンバレーのような場所では何度もやり直しができる文化であっても、現実の日本においてはまだまだ困難かもしれない。かつて明治維新の頃には、欧米に倣え!ということがあったかもしれないけれど、いますべてをシリコンバレー風あるいは欧米のようにすれば解決できるかと言うと、そうでもないんじゃないか。

逆に日本だからこそ意義のある文化もあるのではないか。

システムを育てるのではなく、個を育てるために。

集合知という言葉は好きだけれど、ぼくは、人間ひとりひとりが全体のシステムの構成要素である、という考え方はあまり好きじゃないですね。人間はシステムのコンポーネントではないし、プログラミングの一部でもない。全体の関係性、もしくは社会的な文脈のなかに生きているけれども、個々はやっぱり個であると思う。

「個」は「孤」なのかもしれないけれど、だからこそ数百万分の一ではなく、一分の一の尊さがある。一分の一の尊さを記述できるのがブログのすばらしさであって、もちろん全体のためにやっているひともいるかもしれないけれど、すばらしい多様性である個=弧は、それぞれ勝手がいい。個=孤の自律なくして、全体に対する協調もないと思う。

そんな個をインキュベーションする場所がネットではないかと思うのですが、インキュベーションするのはシステムではなくて個という人間です。そして、そのためには全員が実験をする必要はなくて、実験を受け止められる成熟した大人=親となれる人々が必要だと思う。

ここで言う大人は年齢的なものではなく、アスキーアートで遊んでいるだけの大人ははたして大人なのだろうか?と首を傾げたくもなるし、逆に20代であっても世界に目を向けてたくさんの本を読み、新しい技術を貪欲に吸収して新たな何かを構築しようとしている人物は立派な大人ではないかとぼくは思います。年齢や職業に関わらず、実験に許容力があるひともいるし、実験すべきでないひともいる。それを見極める必要があり、誰でも実験すればいいというものではない。

と、いつになく超・長文で語りまくりましたが、ぼくもDTMで遊んでばかりではなく、精神のほうを少しばかり大人にしていきたい(苦笑)。というわけで久し振りに少し真面目に考えてみました。

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2007年6月 9日

Elliott Smith / New Moon

▼music07-032:飾らない、純朴な声が、そして音が心に染みる。

New Moon
Elliott Smith
New Moon
曲名リスト
1. Angel in the Snow
2. Talking to Mary
3. High Times
4. New Monkey
5. Looking Over My Shoulder
6. Going Nowhere
7. Riot Coming
8. All Cleaned Out
9. First Timer
10. Go By
11. Miss Misery [Early Version]
12. Thirteen

1. Georgia, Georgia
2. Whatever [Folk Song in C]
3. Big Decision
4. Placeholder
5. New Disaster
6. Seen How Things Are Hard
7. Fear City
8. Either/Or
9. Pretty Mary K [Other Version]
10. Almost Over
11. See You Later
12. Half Right

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そもそもこのアルバムをみつけたのは、iTunesの画面でした。時勢に反してダウンロード販売で音楽を買う習慣があまりない時代遅れなぼくですが、たまたま立ち上げたiTunes Storeの画面にこのアルバムジャケットが表示されていて、思わずメモしていました。というのは「月」という言葉がぼくにとっては重要なテーマだったからでもあり、このジャケットの青い色が気に入ったからでもあります。

聴いてみて、アコギの弾き語りっていいなあ、とあらためて感動。最近はフォークトロニカというかアコギ+エレクトロニカというちょっとテクノロジー+アコースティックなものに憧れている傾向があるのですが、純粋にアコギで弾き語るスタイルの音にも癒されます。駅前で歌う勇気はありませんが、秋ぐらいになったらTakamineのアコギをハードケースで抱えて持ち出して、公園で歌っていたりしたいものだ、とか思ったり。

「New Moon」は2枚組みにも関わらず、ぜんぜん飽きません。むしろこの音楽をずーっと聴いていたい気持ちになります。

ディスク1の目玉はやはり、「グッド・ウィル・ハンティング~旅立ち~」という映画で使われた「Miss Misery」のアーリーバージョンでしょう。音楽とは関係なくなりますが、天才であるがゆえの苦悩という映画では、「ビューティフル・マインド」に近い物語という気もするのですが、ぼくは「ショーシャンクの空に」を加えて、この3つの映画が好きです。ヒューマンタッチの映画をよく観ます。エリオット・スミスの歌とギターは、そんな心あたたまる映画のシーンにしっくりと馴染む音であるような気がしました。

シンプルな音ですが、6曲目の「Riot Coming」の指をスライドさせたときのノイズだとか、アルペジオの空間的な広がり、ピックでカッティングしたときの音もきれい。どうやったらこんな風にアコギを録音できるんだろう、と思ったりもして。そして弾き語りもいいのですが、4曲目「New Monkey」 のようなバンド編成もいい感じ。

ディスク2では、6曲目「Seen How Things Are Hard 」から、オルガンも入ったバンド演奏っぽい7曲目「Fear City」、8曲目「Either/Or」の辺りが好み。お酒でも飲みながら聴きたい感じでしょうか。とはいえ、いちばんすきなのは10曲目の「Almost Over」ですかね。熱さが伝わってくる。その熱さのあとにクールなカッティングとトーンを落としてやわらかめのボーカルの「See You Later」がくるところもいい。

ダブルボイスという用語だと思ったのだけれど、コーラスやフランジャーなどのエフェクターがなかった時代に、同じヴォーカルをユニゾンで二度録音する(つまり同じ音程のメロディを二度録音する)ことでボーカルに深みを与える録音技術があったかと思います。失礼ですが、あまり歌の上手くないアイドルの歌唱力をごまかす手法でもあった。ビートルズも使っていたと思います。10代のぼくは自宅で多重録音しながら、これってすごいんだぜーというような感じでダブルボイスを使っていたこともありました(ただ二重録音しただけで、どこがすごいんだか。苦笑。もちろん多重録音のデッキがないボウズ頭の中学生頃のことで、2台のテープレコーダーの音をダビングして作っていたのですが)。

エフェクター使用の部分もあるかもしれないのですが、エリオット・スミスのボーカルを魅力的にしているのは、この処理によるところも大きい気がします。歌声の厚みが70年代っぽくて、なんとなくノスタルジックなのは、さりげなくボーカルが処理されているからかもしれません。このボーカルがまたいい味なんですよね。せつなく、もの哀しい。

ドラッグとアルコール依存症で、最後は胸に刃物を突きつけて亡くなったとのこと。34歳という短命で亡くなったことが残念ですが、短いけれども密度の高い人生を生き、そしてすばらしい作品を残したのだと思う。そんな生きざまに敬意をあらわしながら、聴いてみたいものです。ウィスキーでもあれば、完璧ではないかと。6月9日鑑賞。

+++++

アルバムのなかの曲ではないのですが、モノクロの映像と歌がよかったのでYouTubeから。

■Elliott Smith - Angeles (from Lucky 3)

*年間音楽50枚プロジェクト(32/50枚)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

ペルスペクティーヴァを究める。

未読の本が机の隣りには山積みになっているのですが、それでいて新しい本を購入してしまう浮気ものです(笑)。本屋をうろうろするのが趣味で、先日もそうやって趣味の書店散策をしていたところ、タイトルに惹かれてまた3冊ほど購入。山積みにされた本にはなぜか気持ちが入り込めなくて、この本から読み始めています。

4062583852東大駒場連続講義 知の遠近法 (講談社選書メチエ 385)
H. ゴチェフスキ
講談社 2007-04-11

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学生に向けて書かれた本です。ぼくも学生時代に、こういう本を読んで知を究めていたらよかったのに、とわずかばかり後悔するのですが、いくつになっても知を吸収する気持ちはあっていいのではないか。本を読んだからといって偉いわけでもないし、実践的に役立つわけではないのだけれど、新しい考え方に触れる時間はわくわくするものです。単純に楽しい。

読書した時間にもし外出していたら・・・などということを考える必要はなくて(そんなことを考えると、どんな時間であっても没頭できなくなります)、読書であっても趣味であっても、そしてもちろん仕事や誰かと過ごすときであっても、絶対的に純粋に楽しめる時間って尊いと思うんですよね。他者との比較もしくは仮想的な「もし、別のいまを生きていたら」の世界を拒絶すること。そんな風に選択肢をなくして現在に集中することによって、いまを生きている時間は深まり、密度も高まるのではないか。そんな風に考えます。

パースペクティブ(Perspective)という言葉は、視点とか遠近法という意味で使われるようですが、かつてぼくがブログで重視していた言葉でもありました。この本は、パースペクティブの語源となったラテン語のペルスペクティーヴァ(Perspectiva)を発端として、宇宙、絵画、写真、音楽、そして小説と、さまざまなジャンルを横断して「視る」ということはどういうことなのかを考察していきます。あまりにもぼくの趣向にぴったりでうれしい(笑)。

内容によっては、基礎知識がないとわかりにくい部分もあるのですが、一冊のなかに凝縮されたさまざまな知に触れたテーマが興味深いものばかりで、久し振りに楽しい読書ができそうです。読書する時間は基本的には孤独な時間でもあるのですが、読書はやっぱりいい。

かつて、情報はたくさん摂取しなければならない、ひとにはたくさん会わなければならない、と考えていた時期があり、大量の本を読んだり、RSSリーダーに大量のブログを登録したり、異業種交流会に参加して名刺を配りまくったときもあるのですが、いま思うと、そこに主体がなければ、情報やツールやひとに流されるだけです。ものすごく忙しそうで充実しているような日々になるのですが、その見せかけだけの忙しさに意味があるのかと省みると、ただ忙しかったり慌しかったりするだけだったりする。結局のところ何も残らない。

ぼくはいま、ほんとうに大切なもの(書物、音楽、映画、ひと・・・)だけを絞り込み、あるいはそれらをまさに遠近法(パースペクティブ)の視点によって配置し、ときには近づき、ときには離れながら接していくことができれば、などと考えています。

流行や外部に流されると疲れてしまう。大切なものはまずはぼくのなかにあり、そして自分のなかにある大切なものを通して「視る」=つまり光を認識できる限定された世界のなかにこそ、大切なものを見出すことができるのではないか。つまり自分のなかに闇があれば、どんなにすばらしいものが外界にあったとしても光を当てることができない。

疲れちゃっていろんなことに手を出せない(苦笑)という体力的な限界もあるのですが、体力の限界という「ふるい」にかけたあとに残ったものは、かなり自分にとって大切なものなんじゃないかな、と思ったりもしています。

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2007年6月 7日

DNTEL / Dumb Luck

▼music07-031:妙に懐かしいメロディと、奔放なノイズ。

Dumb Luck
Dntel
Dumb Luck
曲名リスト
1. Dumb Luck
2. To A Fault
3. I'D Like To Know
4. Roll On
5. The Distance
6. Rock My Boat
7. Natural Resources
8. Breakfast In Bed
9. Dreams

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Postal Serviceは聴いたことがなかったのですが、Svoyを購入したときにPostal Serviceが好きなひとにも、のような売り文句があり、なんとなく気になっていたところ、Postal Serviceの片割れであるジミー・タンボレロのソロプロジェクトDNTELの新譜があったので思わず試聴。むむむ、これは何だ!という衝撃が第一印象でした。リズムがない。そして今回はアコギなど生楽器も投入されているようですが、なんだか妙に懐かしい。ノイズ満載なのに。

1曲目の「DUMB LUCK」から、不思議な世界が展開されます。リズムがないと思っていると、途中から16ビートの細かいリズムが刻まれたり、かといってそれが続くわけでもなく、コーラスのパートになったかと思うと、またアコギになったりする。なんでしょうか、これは。けれどもノイズ、サンプリング、逆回転、生楽器というなんでもありな凝った音作りにはまります。

あまりよくわからないのですが、参加アーティストはかなり幅広く豪華とのこと。もう少しこの世界を追求しないとうまく語れないものがあります。女性ボーカルも印象的で、3曲目の「I'D Like To Know」ではベルリンのエレクトロニカ・レーベルであるモー・ミュージックの代表グループ、ラリ・プナの韓国出身ヴァレリーが歌っていたり、4曲目「Roll On」ではロサンゼルスのバンド、ライロ・カイリーの女性ボーカルであるジェニー・ルイスがアコースティックでなかなかいい感じの歌を聴かせてくれたり、6曲目「Rock My Boat」では日系ハーフのミア・ドイ・トッド(土井美亜さん)の歌がいい感じだったりします。国籍もばらばらですが、全体的に表現力のあるアーティストさんばかりという感じです。

まったりとした音の流れのなかに、時折緻密で冷淡な打ち込みが加わり、一方で音響的なノイズが広がったりもする。それでいてボーカルはあったかい。エレクトロニカでありながら、オールディーズのような温もりのある音作りです。7曲目「Natural Resources」のブラスはジャズっぽくもある。実は困惑のほうが強いのですが、どういうわけか妙なアレンジがしっくり身体に馴染んだりする。久し振りによくわからない音楽にめぐり会いました。6月6日鑑賞。

+++++

アルバムのなかの5曲目「The Distance」のPVをみつけたのでYouTubeから。エレクトロニカなのかオールディーズなのか、判別できない懐かしくも新しい音です。操り人形たちの織り成す世界も幻想的。

*年間音楽50枚プロジェクト(31/50枚)

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「ノイズ―音楽/貨幣/雑音」ジャック アタリ

▼book07-015:音楽の変遷について考えつつ、最新動向も考えつつ。

4622072777ノイズ―音楽/貨幣/雑音
Jacques Attali
みすず書房 2006-12

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ジャック アタリがこの書物を書いたのは1977年のようですが、DRM廃止などが論じられている現在において読み直す、あるいは解釈し直すと、新しい見解が生まれるような気がしました。この本は音楽論ではなく、音楽という現象をサンプルとして社会がこれからどのように変わるか占うようなところがあり、そのアプローチが面白い。

性能の悪いぼくのアタマで、この本に書かれていた音楽の変遷をまとめてみることにします。

音楽の社会的な意義は、まずジョングルール(大道芸人)によって演じられる一回性の音楽、そして祝いなどの儀礼的な音楽がありました。しかしながら暗記して継承されていたものが、記譜されること、記譜されたものが印刷によって流通することにより、そこに経済的な価値が付与され、音楽は反復されるものとなった。反復されるものは制度化され、あるレベルの階級だけが享受できる音楽になる。

ところが制度化された音楽を破壊する試みもあり、特権階級でしか聞けなかった音楽を大衆のものとする。大衆のものになったときにさらに反復され、ヒットパレードのようなランキングも生まれる。ここでまたさらに破壊する試みがあり、商業音楽を原初的な雑音(ノイズ)に戻そうとする。こうした一連の流れについて書かれていて、これは録音を印刷に置き換えると小説などの流通にも当てはまるといえます。

DRM(Digital Rights Management)廃止について考えてみると、DRMはコンテンツの流通・再生に制限を加える機能であり、制度・機能的にデジタル音源がコピーによって広がるのを抑止します。つまり、きちんと対価を支払った人間だけが、音楽を聴く権利を有することができる。それは当然のことかもしれませんが、音楽を聴く自由を奪っているともいえます。つまり、別に他人に譲渡する意図ではなくても、DRMがあることによって音楽を再生できる機器や場面が制限されることがある。

そもそも音楽って何だっけ?という基本的な問いを感じてしまったのですが、制度のための権利?、利益を生むための商品?、それとも自然のノイズと同様に世界にあふれている美しさのひとつ?という。真似したとか、勝手に歌詞を書き換えたとか、著作権に関わるさまざまな問題も重要なことかもしれませんが、音楽以外の制度が音楽をつまらなくしていることも多く、個人的な感想を述べてしまうと、もっとオープンソース的な音楽(クリエイティブ・コモンズ的なのかもしれませんが)の考え方にしたがった純粋かつ自然な音楽があってもいい気がします。

というよりも、それをぼくらアマチュアが作ればいいのかもしれない、とも思いました。商業的なクオリティの高い音楽から見下せば、ぼくらが作る趣味のDTMなどはノイズ(雑音)に過ぎないかもしれないのですが、時代を逆行して、ネットのジョングルールとして日記のように音楽を作り、無料で配布していきたい。そういうスタンスがあってもいいのではないでしょうか。

無駄といえば無駄だし、そんなに苦労してなぜ一銭にもならないものを公開しているのか、プロを目指す向上心はないのか、という考え方もありますが、ぼくに関していえば、残念ながらそんな気持ちはまったくありません(苦笑)。反体制的なスタイルを気取るつもりもないのだけれど、ぼくの場合は音が勝手に生まれてくる。つまりぼくにとっての音楽は、朝起きて食事をして眠るぐらいに自然なことだったりします。仕事として曲を作って稼ごうという意識があまりはい。それはブログの言葉だって同じですね。ゴミのような言葉かもしれないけれど、原稿料で稼ごうという意識の前に、言葉が勝手に溢れ出すのだから仕方ない。

それでいいんじゃないでしょうか、創造するということは。難しい本の内容をしかめっつらで読み進めつつ、そんな純粋な創造性について思いを馳せました。世界は複雑でややこしいものだけれど、あえてややこしく複雑にする必要はないような気がしています。6月6日読了。

※年間本50冊プロジェクト(15/50冊)

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リアルのほうへ、光のほうへ。

どんなに鋭い社会批判のブログを書けるブロガーよりも、ネットの外の世界で行動し、いま自分が直面している生活を少しでもよい方へ変化させ、わずかでも現実生活を変革できるひとのほうが優れているのではないか――仕事が一段落して、なんとなく空いた時間でブログを読んでいたのですが、そんなことをふと考えました。

ぼくが読んでいたブログでは、たまたま社会批判的な文章を書いているブロガーどうしが、どっちが偉い?のような論争をしていて、またそれをブックマークしてコメントしているひとがいて・・・というネットらしい批判の入れ子状況になっていたのですが、そんなものに接していたら、なんだか不快な感覚が募って気持ち悪くなった(苦笑)。ブログもブックマークもどうでもよくなってしまった。これは不毛だ、と。それをまたゆるく批判している自分も不毛ではあるのですが、あえてまず前提としてそのことに触れておきます。

要するにぼくは、いわゆるネット特有の何か(閉ざされた世界のようなもの?)が好きではない、ということにあらためて気付きました。そのことを確認したからといって何にもならないのですが、たとえば瑣末な部分では、ネット内だけで通用する顔文字をあまり使いたくありません。匿名ブログを「増田」と呼んでしまう隠語のようなものも好きではない(というか嫌いだ)し、それを使っているようなひとにはできれば近寄りたくない。使うのは本人の自由だけれど、なんだか生理的な嫌悪感があるんですよね、そういう場所でストレス解消しているひとたちに。生理的な嫌悪感なので、理由はありません。ただ個人的に嫌いである、関わりたくない、という。

だからブックマークで批判的なコメントを付けて溜飲を下げているひとたちも、率直に言って嫌悪感があります。梅田望夫さんの言葉を借りれば、そんな場所でこそこそ批判しているくらいであれば、誰かを褒めたり、自分で何かを創造的なことをした方がずっといい。あるいはその時間に仕事に集中すれば、もっといい仕事ができるはずではないか。そんなところで批判しているのは現実から逃げているだろう、と。

けれども、逆に痛々しいぐらいにリアルな自分をさらけ出しているブログには好感を持ちます。社会批判があったとしても(あらゆる批判があったとしても)、文章にそのひとなりの生きざまがある。そういうブログはいいですね。どんなに不器用で不恰好だったとしても、そんな風に生きているひとは応援したいし、継続してブログを読みたい。少なくとも社会批判ブログでどっちが上だ?どっちが物事をよく知っている?という背比べをしている論争や知識をひけらかすだけの文章よりも、読みごたえがある。というのは、どんなに暗いことを書いていても、このひとは生きてるなあ、という眩しさを感じるからです。他者とは比較できない圧倒的な力を感じる。お前と俺とどっちが上?というようなくだらないことにこだわっている老人のような暇がない。密度の高い「いま」を生きている。

かつて別のブログを書いていたときにトラックバックをいただいた方があり、女性の方だったのですが、ものすごく辛辣な社会批判などを展開されていました。ただ、ぼくとしては彼女に好感を持っていた。個人批判をしないという自分なりのルールを定めている姿勢とか、歯に衣を着せない鋭い文章だとか、それでいて時折みせるちょっとおちゃめな部分とか、そんなところが気に入っていました。さすがに陰湿すぎる文章のときは引きましたが、その文章だけが、そのひとのすべてではない。人間そういうときもあるじゃないですか。多様性のなかで生きているものです。だから、世のなかをすべて負の力で解釈してしまうときがある。でも、ピンポイントで判断できない。 それがそのひとのすべてではない。

ところが久し振りにアクセスしてみると、その方は、ブログで一切の発言をしないことにしたと声明を書いたまま更新が途絶えてしまっていました。どうやら、「おまえは何様だ?」というコメントの書き込みが連続して、精神的に消耗し、別に自分が書かなくてもいいだろう、という結論に達したとのこと。なんだか非常に残念です。書きたいことを書けばいいのに。 というか、おまえは何様だ、とダイレクトにコメントを付ける配慮に欠ける暴力的な通りすがりの訪問者こそ、おまえが何様だよ、と思う。

余談ですが、こんな風に曖昧に引用すると「どうして実名を挙げないんだ?」のようなコメントをいただくことがありますが、なんでも明らかにしなくてもいいんじゃないでしょうか。実名を出してリンクやトラックバックをすることによって、誰かを批判することだけに喜びを見出す病んでいるひとたちをそのページへ誘導してしまう場合もあります。だから、手当たり次第リンクしたり、ダイレクトにコメントすることが正しいとはいえない。ときには抽象化することも必要だし、沈黙する必要もある。成熟した大人の思考の方であれば、わかっていただけると思うのですが。

今回は別としますが、最近ぼくがこのブログで心がけていることがあります。ブロゴスフィア内の誰かが書いたことをネタとして引用してブログに書かない、ということです(SNSのような場所では別ですが)。

茂木健一郎さんや梅田望夫さんのブログは別格として、その他のブログに書かれたことを仲間内だけで相互引用する馴れ合いは気持ち悪いと思うし、何か新しいものが生まれるかというと、とてもそうは思えない。もちろんぼくだって、どこかのブログに影響を受けるときもあるのだけれど、内容のないブログを書いてただリンクやトラックバックするだけが感謝の伝え方ではない。影響を受けたことをきちんと感謝しつつ、さらに自分の解釈や言葉を加える表現をした方がいいのではないか。

あるいは、ネットのなかで完結するのではなく、リアルに開いていくこと。そちらのほうが重要でしょう。ここでいうリアルは日記的な現実の生活である必要はなくて、映画や本や音楽であるとか、自分の五感を通じて得たものであってよいと思います。思考や妄想であってもいい。楽しいことだけを選んで書かなくてもよくて、かなしみやつらさがあってもいいのだけれど、その向こう側に光を見出せること。

そんなブログを書けたらいいですね。いや、書きたいと思っています。 リアルのほうへ、光の当たるほうへと意識を向けながら。ネットの闇に背を向けつつ。

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2007年6月 5日

カタチにするチカラ。

職業には名称や呼び名があります。教師だとか、バスガイドだとか、板前さんだとか。乱暴に羅列してみましたが、すべてプロフェッショナルなお仕事ですね。専門的な技能を活かす職種といえます。サラリーマンは職種ではないと思うのですが、ビジネスマンにはスペシャリストとゼネラリストがいる。そして、営業であるとか、人事だとか、プログラマーだとかの職種があります。

ぼくは調査分析や企画立案を仕事としているのですが、おちまさとさんのように派手な面白い企画を立てられるわけではないし、かといって多変量解析のような統計的分析をばりばりやるわけでもない。ぼくの携わっている仕事はうまく言葉にできません。というのは、何でも屋のようなところがあるからで、問題解決=ソリューションと言ってしまうときれいですが、困ったときに誰かを支援する裏方的な感じもある。黒子でしょうかね。

その中途半端な感じ、根なし草のようなふわふわしたポジションを不安に思っていたことがあるのですが、逆にいまは浮雲のような所在なさが心地よかったりしています。何者でもないかわりに、何者にもなれる。液体のように器にしたがってカタチを変えることができる。年を取ってくると、安定や保守的なものを求めるようになるものであり、ぼくもそれほどふわふわしていられないな、とは思うのですが、言葉化できないもの、不安定さや変化を楽しむのもまたいいものです。何かを言葉化してしまうと、それで損なわれてしまうものもある。

とはいえ、強いてぼくのやっている仕事を言葉にするならば、

「カタチのないものにカタチを与える」仕事

ではないかと思っています。

カタチのないものにカタチを

ブログを書いていることにも通じることかもしれません。文章を書くという行為も、もやもやっとした意識というカタチのないものにカタチを与えることではないでしょうか。カタチの与え方によってはナイフのように研ぎ澄まされたものにもなるし、他者のこころにぽっと灯をともすようなものにもなる。臨場感あふれるリアルを再生する言葉にもなれば、抽象的で難解な哲学にもなる。

言葉のプロとしては、作家はもちろんコピーライターの発想が面白い。ぼくの仕事でも、ときには一文で説得できるような言葉のチカラが必要になります。このときぼくは一時的にコピーライターモードに入ります。文筆家が憑依した感じでしょうか。一方で、図解やチャート化が求められたりすることもあるのですが、このときにはデザイナーモードに入る。専門的にコピーライターやデザイナーのお仕事をされているひとには大変申し訳ないのですが、そうやって不謹慎にもさまざまなモードをチェンジしながら(プレッシャーも含めて)楽しくお仕事をしています。

企画という仕事を考えるとき、突拍子もない発想をするアイディアマンがよいプランナーであるという認識をしているひとが多いと思うのですが、ぼくはそうは思っていなくて、お客様のなかに既にある何かを、きちんと言葉や図解で整理してあげることがいちばん大切ではないか、と考えます。アイディアは企画ではない。プロとして考えると、自己満足にすぎない突飛な発想より、たとえステレオタイプであったとしても、お客様のなかに潜在的に眠っている夢を掘り起こすことができる能力のほうが重要ではないか。

現場から遠く離れた別世界から突拍子もない答えを引っ張ってくるのが企画ではない。答えは、既にいまここ(=お客様の脳内)にあり、それをきれいに体系化・構造化して表現すればいい。木のなかから仏を掘り出す仕事が企画ではないか、と。あるいはデザインもそうかもしれません。斬新で変わっているものがよいデザインではなく、実は生活のなかに違和感なくしっくりとおさまるものがよいデザインなのかもしれません。深澤直人さんあたりが言っていそうな言葉ですが。

企画という特殊な職業ではなくても、他の職業であっても、企画力あるいはクリエイティブなチカラが必要になることがあります。新しいものを創造すること、つまりクリエイティブな能力は、一部の特権的なひとたちに与えられたものではありません。ぼくらの生活をちょこっとだけ豊かにするのが、クリエイティブなチカラです。

五感をカタチにする

生活のなかでは五感を表現することが重要になることもあります。五感は基本的に個別のものですが、しかしながらうまく表現すると共感を生むものです。曖昧な感覚をカタチにすることによって、錯覚かもしれないけれど他者と感覚を共有できる。五感について少しばかり考えてみました。

視覚。画家やイラストレーターは視覚的なイメージをカタチにするプロです。ぼくは映像作家にも憧れるのですが、動画では時系列は物語、空間は詩的な表現になります。最近、視覚的な表現の大切さをしみじみと感じているのですが、自分の視覚的人生の大半を占めているのは雲と青空のような気がする(苦笑)。デジタルカメラで撮影した写真は、家族以外は圧倒的に空ばかりなので。

嗅覚。アロマセラピストなどは、匂いをカタチにする職業でしょうか。料理人も間接的に匂いをカタチにしているような気がします。どうでもいいことですが、知人の家を訪問すると、その家独特の匂いってありますよね。別に創造しているわけではないのだけれど、なんとなく作ろうとしても作れない匂いです。香水などもさまざまな匂いをブレンドするようですが、匂いの要素に分類できるものがあるのでしょう(よく知りませんが)。細分化していった場合、よほど嗅覚がすぐれていなければ言葉化するのが難しそうですね。

触覚。メタリックな冷たさ、和紙のざらざら感、液体のぬるぬるした感じ、ぬくもり、手触りなど、触感で楽しむ余暇というのは非常に贅沢な時間のように思えます。触感アーティストって言葉をどっかで聞いたことがあるような、ないような。ぼくは息子のほっぺたの触感が好きです。ぷにぷにしている感じ。息子たちは粘土好きですが、何かを作るよりあの触感がすきなんじゃないか。とはいえ、ひとのぬくもりに勝る触感はなし、かもしれません。

味覚。食に対するこだわりのあるひとも、贅沢な趣味人だと思うのですが、残念ながらぼくはあまり食にこだわりがあるとはいえません。だからといって何でも食べられるわけでもなく、高校のとき母が詰めてくれた弁当にタケノコが入っていたのですが、タケノコというより既に立派な竹で、あれには泣きました。パンダじゃないだから。竹は食べれませんって。しかもタッパー全部竹だし(号泣)。ぼくは非常に曖昧な舌の持ち主らしく、先日も舌の付け根が痛いと思っていたら先っぽにでっかい炎症ができていた。舌に鈍感力です。そういうもんですかね舌って。レストランガイドなどの表現は美麗な言葉のオンパレードですが、味覚を表現する新しい言葉を創造するのは意外に難しそうです。

聴覚。音にはこだわりたいですね。ただ、ぼくは安っぽいラジオでも音楽さえ聴ければいいや、というところがあって、まだまだかなと思います。趣味が音楽の割には貧弱なステレオで聴いているので、余裕ができたらよいスピーカーなど揃えたいものです。音がイメージするサウンドスケープを言葉化したり、言葉として感じられたイメージを音化したくて、趣味のDTMでそんな試みをやっているのですが、どうやら言葉に還元できないものが音かもしれない、と思う今日この頃。

と、あらためて五感を俯瞰してみると、ぼくの書いている文章は視覚と聴覚がメインになっている。嗅覚、触覚、味覚のジャンルの話は、結構苦手かもしれません。苦手な部分にも挑戦してみることにしますか、いずれは。

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2007年6月 3日

ダニエラという女

▼Cinema07-018:ストーリーも何もなかった(泣)。美しさの価値さえも。

B000NQQ0L4ダニエラという女
モニカ・ベルッチ ベルナール・カンパン ジェラール・ドパルデュー
ハピネット・ピクチャーズ 2007-05-25

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モニカ・ベルッチに誘われて借りて観てしまったのですが困惑。そもそも宝くじに当たったから、娼婦(モニカ・ベルッチ)を買い占めるという設定からしてどうでしょう。急に照明が明るくなったり、過剰に派手に叫んでみたり、ギャングが出てきたり、部屋で会社の連中といきなりパーティーがはじまったりなどなど、コメディなのか本気なのか(本気だったとしたらさらに幻滅なのですが)わからない演出ばかりでした。どうなんでしょう、この映画は(苦笑)。

もちろん娼婦という設定だからかもしれませんが、なんとなく下品な感じもして、モニカ・ベルッチ自体の高貴な魅力もあまり引き出せていない気がしました。彼女自体は充分に美しいし、露出過多なシーンも多いのですが、だから官能的かというとそうでもない。

裸をみせればぼくらが喜ぶというのは間違いで(まあ、うれしいことは確かですけど)、いくら男性だといっても、映画として観ている以上は物語がなければ感じないのではないか。単純に視覚的な裸体も大事だけれど、そこに至るまでのストーリーがあってこそ絡み合うシーンが効果的なわけで、だから裸などみせなくても充分にくらくらするような官能的な映画もある。身体ではなく、思考という脳内で感じる、というか。

個人的にはジュゼッペ・トルナトーレ監督の「マレーナ」に出ていたモニカ・ベルッチが非常に印象的であり、痛々しいほどの官能があったと思うのですが、監督や脚本のセンスによって女優を生かすのも殺すのもできるのだな、というのが率直な感想です。

とはいえ、かつて、朝起きてみたら奥さんが眞鍋かをりさんになっていたらどうしよう、という妄想を描いてぼくはアタマが爆発しそうになったことがあるのですが(ならないって。苦笑)、朝起きてみたら奥さんがモニカ・ベルッチになっていたら、きっと心臓が止まると思う(笑)。この映画のなかで娼婦である彼女を買い占める主人公は心臓に病気を持っていたりするのだけれど、朝「仕事に行っちゃうの?」という風に彼女に裸の胸を押し付けられて心臓の発作を起こしてしまいます。奥さんがモニカだったら、気になっておちおち仕事もできないな。というか毎晩のように頑張っちゃいそうだし大変だ。それこそ刺激が強すぎて心臓に悪い。

さて。どうも最近、映画をキャッチするセンサーが鈍っているようです。流れを変えることができるといいのですが。6月3日鑑賞。

公式サイト(音が出るのでご注意ください)

http://crest-inter.co.jp/daniela/

*年間映画50本プロジェクト(18/50本)

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アダム -神の使い 悪魔の子-

▼Cinema07-017:やり直せない一回性の人生だからこそ。

B000MZHQC8アダム -神の使い 悪魔の子-
ロバート・デ・ニーロ グレッグ・キニア レベッカ・ローミン
松竹ホームビデオ 2007-04-26

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8歳の誕生日を迎えたばかりの息子アダムを交通事故で失ってしまった夫婦に、クローンで再生しないかという話を遺伝子学者(ロバート・デ・ニーロ)が持ちかけます。彼の話を承諾して、別の場所でもういちど息子との人生をはじめるのですが、8歳を過ぎたあたりから何やら不思議なことが起こる・・・というサスペンス。


なんとなくクローンというテーマに惹かれて借りてみたのですが、いまいち(苦笑)。ロバート・デ・ニーロも精彩に欠けてふつうのおじさんという感じでした。そんなわけであまりレビューを書く気力もなく1ヶ月ぐらい寝かしてしまったのですが、もし自分が息子との日々をもう一回やり直すことができたとしても、たぶんその選択はしない気がします。ぼく自身の記憶もリセットしてやり直せるのであればともかく、記憶を維持しながら新しい息子にどう接してよいのやら。


いまをきちんと生きよう、と思ったのでした。5月13日鑑賞。


公式サイト


http://www.adam-movie.com/


*年間映画50本プロジェクト(17/50本)

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紙飛行機を折る。

とりたてて記述することもない休日なのですが、ドラッカーとジャック・アタリの本を交互に読み進めたり(まだ読んでる。苦笑)、古本を売りに行ったりして過ごしました。外出したついでに子供たちに本を買って帰ったのですが、にいちゃん(長男くん)には鉱物・岩石の図鑑、次男くんには付録つきの学習雑誌です。最近の長男くんは石に興味があるらしい。つくづくコレクター志向の(若干、オタッキー的な素養が心配な)子供だと思います。

それから昨日、子供たちが紙飛行機を折って部屋のなかで飛ばしていたので、紙飛行機の本を購入。これです。

4576050540親子であそぶ折り紙ヒコーキ―かんたんに折れて、よく飛ぶ名作・新作13機
戸田 拓夫
二見書房 2005-03

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ほんとうはブログにも書きましたが、トミー製の室内向けラジコン飛行機だとか、トンボのかたちをしたラジコンだとか、そんなものがほしい気がするのですが、紙で折るのもまた楽しいものです。

といっても自称「設計図が読めない女」である奥さんは折り紙が苦手で、その遺伝子を引き継いだためか、長男くんも折り紙が苦手です。そんなわけで、ぼくが必死になって折っていたのですが、そのうち飽きてしまった子供たちをほっといて、勝手にぼくが熱くなってしまった(苦笑)。

ぼくが子供の頃、父親に折り方を教わったオーソドックスな三角形型の紙飛行機があって、これがぼくにとっては紙飛行機の基本なのですが、この本のなかでは「へそヒコーキ」として紹介されていました。なんとなくそのネーミングはかっこ悪いものがある。でも、機体の下あたりに三角形に折る部分があるので、そこがへそなんでしょう。一方で、滞空記録のある「スカイキング」という紙ヒコーキは有名らしく、長男くんは知っていました。

本をぺらぺらとめくっていたら、「紙ヒコーキの歴史」というウンチクがあって、これが面白かった。以下、引用します(P.6)。

日本の平安時代に、陰陽師の安倍晴明(あべのせいめい、925〜1005年)をめぐる物語に、紙ヒコーキと思えるものが登場する。「懐(ふところ)より紙を取り出し鳥の姿に引き結びて、呪を誦じかけて空へ投げ上げたれば、たちまち白鷺になりて、南を指して飛び行きけり」と『宇治拾遺物語』にあるが、平安朝の宮中では鳥の形の折り紙ヒコーキを飛ばしていたのだろう。

ちなみに作ってみた飛行機を写真に撮ってみました。ギャラリー風に紹介してみます。

まず「ほたる」。安定してふわふわ跳びます。

070603_1hotaru.jpg

次に「怪獣トロトロ」。ツノが出ているところが怪獣なんでしょうか。

070603_2torotoro.jpg

そして、「ニュー折鶴号」。宇治拾遺物語に出てくる鳥の形をした折り紙ヒコーキとは、こんなやつだったのでしょうか。これが意外に安定して飛ぶ。

070603_3turu.jpg

最後はステルスみたいな「ウェーブライダー」。これは形ばっかりで、ぜんぜん飛ばん(怒)。見かけ倒しでした。というより、ぼくの作り方がまずいのか。

070603_4wave.jpg

ところで、うちの近くに落ちてきた鳥の雛のことを日記に書いたのだけれど、あの鳥はどうやらシジュウカラのようでした。「ザ!鉄腕!DASH!!」をみていて気付いたのですが、ちょうどシジュウカラの雛が巣を作って雛を育てる話を放映していて、ああこの鳥じゃん、ということに気付きました。

さらに余談ですが、子供たちの本を購入したついでにビデオレンタルショップに立ち寄ったのだけれど、そこで秋山莉奈さん似のかわいい店員さんを発見。お腹のあたりで拳をぎゅっと握り、よっし、これからはビデオ借りに来るのはこの時間帯だ、お散歩行ってきまーすということにして・・・と思ったのですが(笑)。

パパもときには巣から出て、ふらふらと飛びたいものです。しかしながら、飛びたい気持ちは紙ヒコーキに込めることにしますか。より真っ直ぐに、姿勢を正して凛として飛ぶようなヒコーキ作りをめざして。

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2007年6月 1日

May Your Heart Be The Map / Epic45

▼music030:アコギ+エレクトロニカ+甘いボーカルに号泣。

May Your Heart Be The Map
エピック45
May Your Heart Be The Map
曲名リスト
1. may your heart be the map
2. the stars in spring
3. summers first breath
4. forgotten mornings
5. the stars in autumn
6. we left our homes for winter
7. lost in failing light
8. you are an annual
9. the balloonist
10. winterbirds
11. the trees and lanes
12. we grew up playing in the fields of england
13. early 80's snowfall

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ダウンロード販売の隆盛に逆らうように店頭でCDを漁る時代遅れな自分ではありますが、最近なんとなく感じていることがあります。ショップに立ち寄ると、たいてい3枚ぐらい買うことにしているのだけれど、2枚決まったところで諦めずにねばっていると、これは!というアルバムにめぐりあうことが多い。たぶん潜在的なセンサーがしびれをきらして、ああーっもうこれ買わなきゃだめでしょー!と教えてくれるのかもしれません。しかしながら、そんなスロースタータではなくて、のっけから働いてほしいのだが、センサーくん。


と、どうでもいいような前置きはともかく、2枚選んでレジを待っていたところ時間がかかりそうなのでふらふらしてしまい、そこで試聴してみつけたのがこのアルバムでした。1曲目を聴いて、おおっと思い、2曲目を聴いたところアコギのきらきらしたアルペジオにがつんと殴られて涙出そうになってしまい、もう勘弁してください、これ以上ここでは聴けません(泣)ということでレジに走りました。加えて趣味のDTMでちょうどアコギ+打ち込みのスタイルを模索している自分としては、はやく帰宅してDAWソフトを立ち上げたくてうずうずしました。


epic45はポストロックの「バンド」としてスタートしたようですが、現在はベン・ホルトンとロブ・グローヴァーの2人によるユニット形態のようです。3年ぶりの3rdアルバムだとか。


とにかく美しい。アコースティックギターを弾き、さらにサンプリングで加工しているかと思うのですが、フェネス的なノイズも入ったりする。ディレイで空間的な広がりのあるサウンドスケープが作られていく。そして力の抜けたボーカル。癒されます。


木漏れ日のアルバムジャケットのような、ひそやかな、けれども美麗な調べが展開されます。アルバムタイトルでもある「may your heart be the map」は、まさにテクノロジーとアコースティックが融合したような感じで、そこから2曲目の「the stars in spring」に流れていく構成は秀逸。アコギの背景でエレピが鳴っていたり、遠くでディストーションギターがリバーブに埋もれていたりするのもいい。そうして逆回転風のリズムから、「summers first breath」のコーラス。ううう(泣)。6曲目「we left our homes for winter 」の囁くようなボーカルや、8曲目「you are an annual」もたまりません。


いま気付いたのですが、12曲のうち前半6曲には季節がタイトルに入っている曲が多い。そしてタイトルもいいですね。4曲目の「forgotten mornings」とか、ハーモニクスがきれいな「winterbirds」とか。エクストラ・トラックの「early 80's snowfall」はまさにフェネス的なノイズからはじまるのだけれど、あらためてタイトルを知って泣けたー。タイトルイメージにぴったりの音です。ぼくにとっては全曲好みで、まったく外れがない。


これは長期的に何度も聴くアルバムになりそうです。とか書きつつ、本日はもう3回以上ローテーションしているのですが。6月1日鑑賞。


myspace
http://www.myspace.com/epic45


+++++


新しいアルバムのなかの曲ではありませんが、モノクロームの寂しげな海と音がよかったのでYouTubeから。


■Epic45 - They Cut Into The Hill


*年間音楽50枚プロジェクト(30/50枚)

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インプット×アウトプット。

ここ2週間、プレッシャー満載の仕事がつづいていたのですが、アウトプットの連続で脳内の泉が枯渇してきたので、今日はお休みをいただいちゃいました。充電期間です。長男くんも39度の熱が出てお休み中。まったりと静養するお休み親子な金曜日でした。

ぼーっと過ごしていたら、天気がよかったので本日の青空&雲をスナップ。

疲れた目が癒されますね。

ところで、“目”という器官は人間の部位のなかで非常に重要な気がします。画竜点睛という言葉があることを挙げるまでもなく、心の窓といわれるせいか、世界を認識する情報の多くが視覚に拠るところが大きいからか、目は重要な部位として扱われているのではないでしょうか。

アイコンタクトなどという言葉もあるように、コミュニケーションの手段としても使われます。よく報道などでは目の部分を隠したりしますが、目が人間のなかで個性を特定するためのいちばん重要な要素となっているのかもしれません。このあたり、なぜ目を隠すようになったのかなどの文化的背景が気になるところですが、どんな文献を紐解けばよいのやら。

目隠しされていた人物の目の部分が明確になったりすると、どきーっとすることもある。それこそ画竜点睛を欠いていたプロファイルが、目を公開した途端にはっきりとする。そのひとのリアルが立ちのぼる。ばらばらになった世界のピースが完成する感じ? たぶん口を隠しておいて、ぱっと見せときよりもインパクトがあるのではないでしょうか。目は口ほどにものを言うものです(違うか)。

ところで目と口が出てきたところで、耳はどうかというと、村上春樹さんの小説「羊をめぐる冒険」には、「完璧な耳」を持った女性が登場します。

羊をめぐる冒険羊をめぐる冒険
村上 春樹


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ちょっとフェチっぽいテイストのあるエピソードなのですが、彼女が耳を開放すると、物語の主人公である「僕」は世界が変わってしまったかと思うほどに衝撃を受ける。ただこれは比喩としてではなく、実際にわからないこともないですね。普段は耳が隠れている長い髪の女性の耳がふとした瞬間にみえたりすると、どきどきすることがある。それを文学的にデフォルメすると、そんなエピソードにもなるのかな、と。


それにしても、かなり大袈裟な表現なので引用してみます。「耳の開放について」という部分から彼女が耳を「開放」すると次のように「僕」は感じます。



彼女は非現実的なまでに美しかった。その美しさは僕がそれまで目にしたこともなく、想像したこともない種類の美しさだった。全てが宇宙のように膨張し、そして同時に全てが厚い氷河の中に凝縮されていた。全てが傲慢なまでに誇張され、そして同時に全てが削ぎ落とされていた。それは僕の知る限りのあらゆる観念を超えていた。彼女と彼女の耳は一体となり、古い一筋の光のように時の斜面を滑り落ちていった。

「君はすごいよ」とやっと一息ついてから僕は言った。

「知ってるわ」と彼女は言った。「これが耳を開放した状態なの」


耳を開放した彼女を前にして、ウェイターは動揺してうまくコーヒーを注げなかったりもします。どういう耳だそれは(苦笑)。


とはいえ、なんとなくここで考えたのは、目と耳に共通するのは、どちらもインプットする部位=情報を外界から取り入れる部位じゃないのかな、ということです。一方で、口はといえば(味覚というインプットもありますが)主として話す行為によるアウトプットする部位=情報を外界に発信する部位です。通常はアウトプットする部位のほうが、そのひとの個性を特長づけるような気がします。けれども、インプットの部位が実は重要なのかもしれない。


乱暴ですが、他者と対峙しているとき、伝えることはもちろん、きちんと見てくれること、聞いてくれることが重要です。双方向のコミュニケーションを考えるとき、話すというアウトプットよりも、インプットとしての見る、聞くという行為を相手に求めることが多い。インプットとしての器官である目と耳を隠蔽するとコミュニケーションが断絶する。だから距離ができるのでしょう。


逆に目と耳を開放すると、ぐっと距離が近くなる。身振り手振りの仕草や笑顔、話している言葉が届いていると感じるときに、その関係性は生きるものであって、見ざる・聴かざるの器官を閉鎖した状態では、情報が流通しない。情報が流通する状態というのは、まさに目と耳を開放したときに生まれるもので、村上春樹さんの小説において、耳を開放した彼女が世界を変えてしまうのは、フェチだけの視点ではなく)インプットの経路を開放し研ぎ澄ませることによって世界を変えてしまうこともできるという、美の成り立ちを暗に比喩にしているのではないか、と考えました。うまく言及できていませんが。


見ること、聞くことは、話すこと以上にわれわれにとっては重要な意味を持つのかもしれません。たとえばネットのコミュニティでは、誰かのブログやコメントを読むだけで発言しない人間をROM(リード・オンリー・メンバー)などと呼んでいたりしましたが、実は書いたものを読んでもらえるだけでも意味がある。


ネットにはリアルな耳や目は存在しませんが、例えばコメント欄を封鎖したブログなどは「耳」のないブログといえるかもしれません。あるいはログ解析は訪問者を見る(監視するという意味も含めて)「目」なのかもしれない。


最近、アウトプットばかりでインプットのほうがいまひとつ疎かになり、読書も滞りがちだったのですが、書物に関わらずさまざまなものを摂取していきたいと思いました。6月になったということで、気持ちも新たに。

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