« ダニエラという女 | メイン | リアルのほうへ、光のほうへ。 »

2007年6月 5日

カタチにするチカラ。

職業には名称や呼び名があります。教師だとか、バスガイドだとか、板前さんだとか。乱暴に羅列してみましたが、すべてプロフェッショナルなお仕事ですね。専門的な技能を活かす職種といえます。サラリーマンは職種ではないと思うのですが、ビジネスマンにはスペシャリストとゼネラリストがいる。そして、営業であるとか、人事だとか、プログラマーだとかの職種があります。

ぼくは調査分析や企画立案を仕事としているのですが、おちまさとさんのように派手な面白い企画を立てられるわけではないし、かといって多変量解析のような統計的分析をばりばりやるわけでもない。ぼくの携わっている仕事はうまく言葉にできません。というのは、何でも屋のようなところがあるからで、問題解決=ソリューションと言ってしまうときれいですが、困ったときに誰かを支援する裏方的な感じもある。黒子でしょうかね。

その中途半端な感じ、根なし草のようなふわふわしたポジションを不安に思っていたことがあるのですが、逆にいまは浮雲のような所在なさが心地よかったりしています。何者でもないかわりに、何者にもなれる。液体のように器にしたがってカタチを変えることができる。年を取ってくると、安定や保守的なものを求めるようになるものであり、ぼくもそれほどふわふわしていられないな、とは思うのですが、言葉化できないもの、不安定さや変化を楽しむのもまたいいものです。何かを言葉化してしまうと、それで損なわれてしまうものもある。

とはいえ、強いてぼくのやっている仕事を言葉にするならば、

「カタチのないものにカタチを与える」仕事

ではないかと思っています。

カタチのないものにカタチを

ブログを書いていることにも通じることかもしれません。文章を書くという行為も、もやもやっとした意識というカタチのないものにカタチを与えることではないでしょうか。カタチの与え方によってはナイフのように研ぎ澄まされたものにもなるし、他者のこころにぽっと灯をともすようなものにもなる。臨場感あふれるリアルを再生する言葉にもなれば、抽象的で難解な哲学にもなる。

言葉のプロとしては、作家はもちろんコピーライターの発想が面白い。ぼくの仕事でも、ときには一文で説得できるような言葉のチカラが必要になります。このときぼくは一時的にコピーライターモードに入ります。文筆家が憑依した感じでしょうか。一方で、図解やチャート化が求められたりすることもあるのですが、このときにはデザイナーモードに入る。専門的にコピーライターやデザイナーのお仕事をされているひとには大変申し訳ないのですが、そうやって不謹慎にもさまざまなモードをチェンジしながら(プレッシャーも含めて)楽しくお仕事をしています。

企画という仕事を考えるとき、突拍子もない発想をするアイディアマンがよいプランナーであるという認識をしているひとが多いと思うのですが、ぼくはそうは思っていなくて、お客様のなかに既にある何かを、きちんと言葉や図解で整理してあげることがいちばん大切ではないか、と考えます。アイディアは企画ではない。プロとして考えると、自己満足にすぎない突飛な発想より、たとえステレオタイプであったとしても、お客様のなかに潜在的に眠っている夢を掘り起こすことができる能力のほうが重要ではないか。

現場から遠く離れた別世界から突拍子もない答えを引っ張ってくるのが企画ではない。答えは、既にいまここ(=お客様の脳内)にあり、それをきれいに体系化・構造化して表現すればいい。木のなかから仏を掘り出す仕事が企画ではないか、と。あるいはデザインもそうかもしれません。斬新で変わっているものがよいデザインではなく、実は生活のなかに違和感なくしっくりとおさまるものがよいデザインなのかもしれません。深澤直人さんあたりが言っていそうな言葉ですが。

企画という特殊な職業ではなくても、他の職業であっても、企画力あるいはクリエイティブなチカラが必要になることがあります。新しいものを創造すること、つまりクリエイティブな能力は、一部の特権的なひとたちに与えられたものではありません。ぼくらの生活をちょこっとだけ豊かにするのが、クリエイティブなチカラです。

五感をカタチにする

生活のなかでは五感を表現することが重要になることもあります。五感は基本的に個別のものですが、しかしながらうまく表現すると共感を生むものです。曖昧な感覚をカタチにすることによって、錯覚かもしれないけれど他者と感覚を共有できる。五感について少しばかり考えてみました。

視覚。画家やイラストレーターは視覚的なイメージをカタチにするプロです。ぼくは映像作家にも憧れるのですが、動画では時系列は物語、空間は詩的な表現になります。最近、視覚的な表現の大切さをしみじみと感じているのですが、自分の視覚的人生の大半を占めているのは雲と青空のような気がする(苦笑)。デジタルカメラで撮影した写真は、家族以外は圧倒的に空ばかりなので。

嗅覚。アロマセラピストなどは、匂いをカタチにする職業でしょうか。料理人も間接的に匂いをカタチにしているような気がします。どうでもいいことですが、知人の家を訪問すると、その家独特の匂いってありますよね。別に創造しているわけではないのだけれど、なんとなく作ろうとしても作れない匂いです。香水などもさまざまな匂いをブレンドするようですが、匂いの要素に分類できるものがあるのでしょう(よく知りませんが)。細分化していった場合、よほど嗅覚がすぐれていなければ言葉化するのが難しそうですね。

触覚。メタリックな冷たさ、和紙のざらざら感、液体のぬるぬるした感じ、ぬくもり、手触りなど、触感で楽しむ余暇というのは非常に贅沢な時間のように思えます。触感アーティストって言葉をどっかで聞いたことがあるような、ないような。ぼくは息子のほっぺたの触感が好きです。ぷにぷにしている感じ。息子たちは粘土好きですが、何かを作るよりあの触感がすきなんじゃないか。とはいえ、ひとのぬくもりに勝る触感はなし、かもしれません。

味覚。食に対するこだわりのあるひとも、贅沢な趣味人だと思うのですが、残念ながらぼくはあまり食にこだわりがあるとはいえません。だからといって何でも食べられるわけでもなく、高校のとき母が詰めてくれた弁当にタケノコが入っていたのですが、タケノコというより既に立派な竹で、あれには泣きました。パンダじゃないだから。竹は食べれませんって。しかもタッパー全部竹だし(号泣)。ぼくは非常に曖昧な舌の持ち主らしく、先日も舌の付け根が痛いと思っていたら先っぽにでっかい炎症ができていた。舌に鈍感力です。そういうもんですかね舌って。レストランガイドなどの表現は美麗な言葉のオンパレードですが、味覚を表現する新しい言葉を創造するのは意外に難しそうです。

聴覚。音にはこだわりたいですね。ただ、ぼくは安っぽいラジオでも音楽さえ聴ければいいや、というところがあって、まだまだかなと思います。趣味が音楽の割には貧弱なステレオで聴いているので、余裕ができたらよいスピーカーなど揃えたいものです。音がイメージするサウンドスケープを言葉化したり、言葉として感じられたイメージを音化したくて、趣味のDTMでそんな試みをやっているのですが、どうやら言葉に還元できないものが音かもしれない、と思う今日この頃。

と、あらためて五感を俯瞰してみると、ぼくの書いている文章は視覚と聴覚がメインになっている。嗅覚、触覚、味覚のジャンルの話は、結構苦手かもしれません。苦手な部分にも挑戦してみることにしますか、いずれは。

投稿者 birdwing : 2007年6月 5日 00:00

« ダニエラという女 | メイン | リアルのほうへ、光のほうへ。 »


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://birdwing.sakura.ne.jp/mt/mt-tb.cgi/201