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2006年11月29日

左脳的な兄と、右脳的な弟と。

うちにはふたりの息子がいます。長男(にいちゃん)は9歳で、次男は3歳。どちらも水瓶座A型です。別に占星術に詳しいわけではないので、だからどうだということは言えないのですが、誕生日の誤差があまりにも少なくてちょっとつまらないような気もしています。といっても兄は兄らしく弟は弟らしくなるもので、変わらないところもあれば大きく変わっていくところもある。将来どんな大人になるのか予測もできませんが、成人後にも仲のいい兄弟でいてほしいものですね。

にいちゃんはどちらかというと奥さんに似ているようです。おとなしいけれども意地っ張りで、スマートに生きているようで不器用だったりする。次男はぼくに似ている。見た目はやさしそうなんだけれど、実は過激な性格で好き嫌いが激しくて、嫌いになると徹底的にひとや食べ物や玩具を嫌ったりする。でも、どちらも半分づつぼくらの遺伝子を受け継いでいるわけで、ときどきぼくに似たり奥さんに似たりする。その一方でやはり独立したひとりの人間でもあって、21世紀のいま、子供なりの世界に悩んだり楽しんだりしているようです。

怒られると決して認めないのがにいちゃんで、2歳ぐらいの頃には、ぎゅーっと目をつぶって現実逃避してしまうので困りました。一方で、弟の方はすぐに折れる(笑)。先日、田舎から帰ってきて疲れているところに、なんだかわがままを言ってうるさかったので叱ったのですが、「ごめんちゃい、ごめんちゃい」と泣きながら頭を下げていました。その格好がおかしかった。両手を水平に身体の横に伸ばして、頭だけひょこっと下げる。さながら、ひしゃげたペンギンみたいな姿で、叱りながら思わず笑ってしまった。笑ってしまったあとでなんだか悲しくなって、涙が出ました。子供を叱ることは大切だけれど、できれば叱らずに褒めていたいものです。

面白いもので、兄弟といってもそれぞれの個性がある。にいちゃんはどちらかというと左脳的で、論理にすぐれている。ポケモンやデュエルなどのデータベースを頭のなかに構築していて、そのデータはかなり正確です。ちいさい頃には電車が好きだったのですが、211系なんとか、とか正確に言うことができました。このちいさい頭にどうしてこんなにデータが入っているんだろうと感心したものです。一方で弟の方は、電車が好きだったとしてもかなりアバウトで、「あ、ほわいとすーぱーだっ」とか平気で適当な命名をする。

けれども次男にも才能を感じさせるところがあって、絵が上手い。ものすごく雰囲気のある絵を描きます。そういえば、彼が2歳ぐらいのころに電車の絵を描かされたことがあったのですが、「違うっ!」と、かなりの剣幕でぼくは2歳児にダメ出しされたことがあったっけ(泣)左脳的な兄に対して、右脳的な弟といえるかもしれません。

最近、この3歳の弟くんは、ひらがなやカタカナを通り越して漢字に目覚めたようで、いろんな難しい漢字を真似して画用紙に書いています。今週の作品には、こんなものがありました。

E-1.jpg

左下にイヌの顔のようなものが書いてあります。これ、なぜだと思いますか?

ちょっと彼の思考回路を再現してみましょう。


+++++ 3歳児の思考回路・再現中 +++++


漢字だーいすき。画用紙に書いちゃおう。
えーと、よめないけど、こうしてこうしてこういう字か。ふーん、おや?
(「次」という漢字を真似して書きながら、つくりの部分で気がつきます)

E-2.jpg

これって何かに似ている気がする。えーと、えーと。
あっ(きらきらり〜ん☆)、こっこれはっ!!
わんわんのおくちではないですかっ。
よーし、書いちゃおっと。

E-3.jpg

ふふん、うまく書けたっと。


+++++ 3歳児の思考回路・再現終了 +++++


というような思考回路が展開されたのではないでしょうか(笑)ちなみに奥さんは何も誘導していなかったようです。放っておいたら、こんな絵を描いていた、とのこと。そして、耳がないけどこの動物はイヌらしいです。で、もう少し口がギザギザになるとライオンらしい。

あははは。この絵を見ながら、遅い夕飯を食べていたら、とてもしあわせな気分になれました。子供はぼくら大人たちをしあわせにしてくれます。楽しいことばかりではなくて途方もなく辛いことや悩みも多いのが大人の社会ではありますが、息子たちの何気ない言動にずいぶん救われている気がします。あらためて、ありがとう。きみたちがいて、よかったよ。きみたちはぼくの宝物だ。

だからその分だけ、子供たちをしあわせにしてあげたいものですね。

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2006年11月28日

「コンスエラ―七つの愛の狂気」ダン・ローズ

▼book06-083:残酷かつ切ない愛を描いた寓話として、この短編集は凄すぎる!

4122047390コンスエラ―七つの愛の狂気 (中公文庫)
Dan Rhodes
中央公論新社 2006-09

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まいった。この短編集には正直まいりました。愛情も閾値を超えると狂気になり、オーヴァードライブさせた感情は憎悪も愛情も変わらないのかもしれないなあ、などと考えました。

寓話のような大人のファンタジーのような七つの物語が収録されているのですが、そもそも文庫を手に取ったきっかけは一作目の「カロリング朝時代」でした。

この短編には、なんと挿絵ではなくて楽譜が挿入されている。建築学の教授が、美しい女性の学生を前に個人指導をするのだけれど、歌いながら建築について教えていくわけで、その教授の歌が楽譜になっている。洒落ているな、と思いつつ読み進めたところ、すぐに物語に引き込まれました。個人指導をしながら、老教授は次第に目の前の女子学生に惹かれていく。女子学生も教授の声を心地よく感じて、歌の内容がわかったときには喜んだりしている。やがて女子学生も美しい声で旋律を奏でて、ふたりは一瞬、音楽と建築の知識を介して愛を交し合う。ようにみえるのだけれど、実は・・・。うーむ、残酷です(泣)。

このあまりにもメロディアスな切ない物語を読んで、美しい文章と軽快なテンポにめまいを感じたのですが、さらに次の「ヴィオロン・チェロ」には泣けた。

これは図書館の階段で自己流のチェロを弾くゴックという綺麗な女性に惚れるテュアンという青年の話なのですが、どれだけ誘っても彼女からいい返事がもらえない。そっけなくふられてしまう。そこでついに彼女といっしょにいるために、テュアンはあやしい中国人の老人に頼んでチェロになろうとするわけです。自分の命を捨てて魂だけを残して、美しいチェロになってしまう。ところが、彼女は・・・。くー、そうきましたか(泣)。


だいたい、愛情というものは、奪うよりも与えるほうが切ないものかもしれません。さらに、どんなに与えても、それが相手にとってピントが外れていたり、きちんと心に届かないのがいちばん辛い。また、追いかけているときには夢中だけれど、追いかけられると醒めてしまうものかもしれません。ぼろぼろになりながらも夢中な恋愛もあって、ある意味当事者は幸せともいえるのですが、冷静に傍からみると滑稽だったりもする。もちろん、そんなぼろぼろな恋愛はしたことがないひともいるかもしれませんが、したことがあるひとには、この短編集は痛い。そして、研ぎ澄まされた心象を寓話的な形でまとめてしまうダン・ローズという作家の力量にまいりました。

ぼくが好きな作品は「ヴィオロン・チェロ」とともに「ごみ埋め立て地」なのですが、この作品は、ごみ埋立地で出会う美しい女性マリアの話で、彼女はごみ埋立地が大好きで、そこで働きたいと思っていて、埋立地の上に菜園やレジャー施設を作るという壮大な夢を持っている。その彼女に惚れてしまう男が主人公なのですが、こいつがほんとうに哀れで、ごみ埋立地なんて好きじゃないのに彼女に合わせてみたり、じらされたかと思うといきなり至福なときが訪れたり、自分の美しさをわかっているマリアに翻弄される。心を込めて作った贈り物をゴミ扱いされたりもする(苦笑)。やがて念願がかなってゴミ埋立地のエリートとして迎えられたマリアは、保安上の理由から通電フェンスで彼をシャットアウトしてしまうのですが、惚れた男の弱みと言うか、彼はマリアのことが諦められない。自分の手紙や贈り物を「ゴミ」として捨てる。捨てることで、埋立地のなかにいる彼女に届くと思っているわけです。はぁ。切ないです。

誰かにとって大切な思いを込めたプレゼントも、なんとも思わないひとにはゴミにすぎない、という救いどころのない隠喩、というか痛烈な皮肉に心底やられました。でも、これはある意味、とてつもない真理だと思う。誰かを好きになるということは盲目になることであり、その盲目な気持ちの箍がはずれてしまうと好きな相手さえ見えなくなってしまう。相手が何を考えているかさえ、どうでもよくなってしまう。そうなるともはや自分の気持ちしかみえません。これは狂気的であり、とてつもなく滑稽かつ哀れでもある。

表題作となる「コンスエラ」に至っては、あまりに凄すぎて語る言葉もありません。これは、「ひとが誰かを愛するとき、いったい何を愛しているのか」という究極の命題を深く追求してしまう作品であり、結婚というものの本質を突いているともいえます。牧歌的にはじまるのですが、最後のおどろおどろしさは筆舌しがたいものがあります。

恋愛って何だ?愛情って何だ?と考えたいひとには、ぜひおすすめしたい一冊です。でも、失恋したひと(特に男性)は読まないようにね。ものすごく辛くなると思う。この小説に出てくるような小悪魔的な女性にはまってしまうタイプのオトコもいるような気がする。純粋であることは、ときに滑稽であり、途方もなくかっこ悪いものかもしれません。ダン・ローズの別の作品「ティモレオン」も読んでみようかと思ったのですが、どうしますか。11月26日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(83/100冊+74/100本)

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事・理・情のバランス。

雨が地面にすっと滲み込むように、活字が心(あるいは脳)に滲み込んでくる日があります。ここ数日はそんな感じでした。面白いように本が読める。逆に、どんなに集中しようとしても文字の上を視線が滑っていく日もあります。そんなときは通勤電車のなかにいても無理に本を開かずに、目を閉じて眠ることにしています。無理に読もうとしても楽しくないし、目をつぶる時間も大切なものです。そうして、さまざまな音に耳を澄ます。

読んでみたいと思っていながら保留にしていた本を昨日購入しました。

博報堂ブランドデザイン著の「ブランドらしさのつくり方−五感ブランディングの実践」です。現在、読書中(P.76あたり)。

4478502722ブランドらしさのつくり方―五感ブランディングの実践
博報堂ブランドデザイン
ダイヤモンド社 2006-09-29

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冒頭でダニエル・ピンクさんの本から引用があって、なるほどなあという感じです。「ハイコンセプト」については、それをどう実践するか、ということが重要ではないかと思っていたのですが、感性重視の方向性を実際にマーケティングに応用したのが「ブランドらしさのつくり方」なのかもしれません。

そもそもぼくは音のクオリアのようなものに関心があってブログに書いたり、アロマ発生装置に興味を持って記事を書いたりしていたのですが、この本は総合的な視点から五感に訴えるブランディングを解説した本といえるのではないでしょうか。ただ、やはり科学的な方法論に比べると、どこか脆いものも感じました。それでも五感に訴えるアプローチは魅力的で、可能性を感じているのですが。

五感もバランスよく機能させることが重要ではないかと思いますが、文章もまた同様です。先日読了した「情報のさばき方」という本には、「事」「理」「情」のバランスが必要である、ということが書かれていました。この3つの均衡をとることは、非常に大事であると感じました。

まず、「事」について。次を引用します(P.200)。

「事」とはいうまでもなくファクト、基本となる「事実」や「データ」を指します。「理」と「情」がどれほど優れた文章であっても、「事実」そのものがあいまいであったり不確かであったりすれば、情報としては信頼性に欠けます。

つづいて「理」(P.202)。

「理」にかなった文章とは、ある「情報」と、別の「情報」を結ぶ脈絡が、すっきりとしていて、すぐに関係が頭に入りやすい文章のことです。

情報をつなぐ文脈が理である、という見解ですが、ジャーナリスティックだなと思ったのは、その少し前の次のような文章でした(P,201)。

権力は「力の論理」を押し通そうとするのに対し、情報を伝えるメディアは、「論理の力」で対抗し、権力をチェックします。

つまり圧倒的なパワーをもつ権力に対して、「論理」で対抗するという主張に記者としての力強さを感じました。とはいえ、逆にその論理を強行するとメディアとしての間違った力を持つことにもなるような気がします。論理を駆使しすぎると言葉の暴力にもなる。いちばん気をつけなければならないことです。

そして最後に「情」(P.206)。

新聞記者には「私という主語は避けろ」という鉄則があります。記者はあくまで観察者であって、当事者ではない。主観は避け、できるだけ現場や状況をして語らしむようにしろ、という教えです。

しかしながら、ここが新聞とブログの大きな違いではないでしょうか。ブログではむしろ「情」の部分の情報こそが重要になることもある。もし新聞とブログが協調を取るとするならば、新聞にはない情の部分をブログが相補的に補うことによって、うまく協調できるような気がしました。つまり観察者として事実を伝える新聞に、それをどう受け止めたかという読者としての「情」を付加していく。このときにメディアとしても広がりが生まれるのでは?(といっても、あまりにも剥き出しな情は困りものですけどね)。

最初に書いた五感ブランディングのような考え方も、事実や左脳的な論理に、感性という付加価値(もしくは付加情報)を加えることによって、より広く人間の心理に訴えることができるのではないか、という気がします。

さて、理屈っぽくなったので、五感ブランディングと文章論についてはこの辺にしておきましょう。

まったく違うお話を。

帰宅する途中、家の近所にちいさなCDショップがあります。ログハウス風の店内で、品揃えは決して多くないのだけど、なんとなくいい感じです。新譜と中古の両方を扱っている。たいていぼくは新宿の大規模なお店を利用するのですが、この自宅の近所にあるちいさなお店が気に入っていて、たまにぶらりと寄ってCDを購入します。ぼくよりも10歳ぐらい年上の眼鏡をかけた上品なおばさんがひとりでレジにいて、お店の番をしている。たまに駅ですれ違うので、どこか別の街からこの店にやってきているらしい。

自主制作のCDがレジの横に飾ってあったので聴かせていただいて、なかなかよかったので350円で購入したこともありました。それを機会に、CDを買ったときにはちょびっとずつ(ふたことみこと)、その上品なおばさんとお話をして帰ることにしています(何も話さず何も買わずにぐるりと一周して帰ってしまうこともある)。きっと若い頃には、音楽が好きだったんだろうなあという感じで、年齢はもうシニアなのですが、音楽の話をするときにはとてもいい笑顔をしている(ちょっとかわいい)。どうしてお店を開いたんですか?どんな音楽がお好きなんですか?と、そんなことを聞き出すまでには5年ぐらいかかりそうですが、月に一度ぐらいは立ち寄ることを楽しみにしています。恋をしているわけではありませんが。

今日はそのお店でこのCDを買いました。アコースティックギターと弦の音が心地よいです。

B00005HO4Aファイヴ・リーヴス・レフト
ニック・ドレイク
ユニバーサル インターナショナル 2000-10-25

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そんな音楽を聴きつつ、また明日。

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2006年11月27日

「エミリー」嶽本野ばら

▼book06‐082:多様化を認めることが、いじめ現象を飽和させるのでは。

4087745740エミリー
集英社 2002-04

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最近、新聞やテレビで盛んに取り上げられる「苛め」ですが、いまに始まった話ではなくて、たとえば黒人やユダヤ人に対する人種差別は国際的な意味で「苛め」だったのではないでしょうか。つまり戦争の歴史は、巨大な苛めの物語でもあった。では、なぜ苛めが起きるのかというと、マイノリティーの存在があるからだと思います。あまりにも当然といえば当然ですが、少数派に対して差別の目が向けられるわけです。さらに付け加えるとすると、「マイノリティーだが魅力的な人物、あるいはそのマイノリティーを楽しむような人物」に対して、人間は苛めたくなるのではないでしょうか。

この心理は何かというと、嫉妬だと思います。あいつ、おとなしいままでいりゃいいのに、ちょっと目立ちやがって、というような嫉妬があると苛めたくなる。逆に考えてみると、苛めるような人間は個性がなくて、あまりにも一般的・標準的な人間かもしれません。要するに、特長のないつまらない人間だからこそ、愚痴を言ったり誰かを苛めたりする。つまらない人間は自分を主張できないので(主張できる個性というものがないので)、誰かを攻撃して自分を満足させようとするのでしょう。誰かを貶めることによって、自分が優位であるかのように錯覚するわけです。さびしい人間だけど、まあそれも人間だ。そんなつまらない人間もいるのが、世のなかというものです。

この短編集には3つの物語が収録されているのですが、タイトル作でもある「エミリー」では、バレエとバレーを間違えてバレー部に入部してしまった主人公の少女の悲劇が展開されます。けれども彼女は、放課後にEmily Temple cuteの服を着てラフォーレ原宿の前でしゃがみ込むことによって、そのときだけ自分であることを実感する。ところが、その姿を写真に撮られてファッション雑誌に掲載されてしまった出来事を発端として、他の同級生をはじめとした学校全体に知られてしまって、ひどい苛めを受けるようになるわけです。

苛められている彼女は、ラフォーレ原宿という自分だけの場所で、絵が好きな少年に出会います。彼は苛められてはいないものの、学校では自分の存在を消している。というのも彼はホモで、陸上部の男性の先輩を好きになっている。この彼もまたマイノリティーで、結局はその先輩からひどい仕打ちを受けることになります。

彼らのオタク的な趣向性と設定に、ちょっとぼくはうっと眉をひそめて引いてしまったのですが(申し訳ない)、ふたりは個性的といえなくもない。その個性を認めるか認めないかによって、苛めも生まれたり生まれなかったりするのではないでしょうか。しかしながら少年期にはマイノリティーが認められにくいものです。他人と同一であることが重要な時期であり、だからこそふつーではないような、みんなと異なった人間は差別される。

けれどもですね、ぼくは標準的あるいは平均的な少年・少女というか、絵に描いたようなふつーの人間はいないんじゃないか?と思っています。どんな人間だって、ある部分ではマイノリティーな影の部分を持っているものです。アンドロイドではないから画一であるわけがない。

苛め問題を飽和・解消させる手段が何かないだろうかと考えつづけているのですが、この本を読んで、苛めている人間の影の部分を徹底的に明るみに出すことがいいのではないか、と思ったりもしました。運動は得意で明るい(いじめ)少年だけれど、実は妹とテレビでプリキュアをいっしょにみているとか(笑)そんな、ちょっとした影の部分を徹底的に炙り出す。誰かを苛めることで結束しているけれども、おまえもほんとうにふつーの人間なのか、優位に立てるような人間なのか、実は変じゃないのか?ということを追求していく。いじめている人間の各個人のマイノリティーを相互に認めさせたときに、苛める結束も崩壊するのでは。

そうやって最後には多様性(ダイバーシティ)の混沌のなかに個々をばら撒いてしまえば、誰かを苛めようと思う気持ちもなくなってしまうのではないだろうか?などと考えたりしました。みんながそれぞれマイノリティーであれば、結束して誰かを吊るし上げるのも馬鹿馬鹿しいものです。みんな勝手に生きりゃいいじゃん、という気持ちにもなる。けれども、そのなかで「へーきみってそういう価値観なんだ。ぼくはこうなんだけどね」という理解、というよりも相互認識ができそうな気がします。あくまでも私見ですが。

世のなかには、おかしな人間がたくさんいます。おかしな人間も人間として認められるようになると、少しだけ大人になれるものです。ただ、迷惑な人間という範疇においては、その限りではないかもしれません。ひとには迷惑をかけないようにしたいものです。でも、そう言いつつ迷惑をかけちゃうのが、これまた人間の悲しいところなんですけどね。11月23日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(82/100冊+74/100本)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

新聞は、死なない。

父の墓参りに行ってきました。墓のなかの父と対話しつつ、あらためて思い出して考えたことがあります。

以前に勤めていた会社で、ぼくはある調査パブリシティ(独自調査をやってPRすること)を自主的に企画して実施したことがありました。ランキング調査の一種だったのですが、幸いなことにコネクションを総動員することによって、ちいさいけれども日経新聞で取り上げていただけた。それが嬉しくて帰省したときに父に報告したところ、晩酌の焼酎(お湯割り)を傾ける手を止めて、一瞬考えた後で、父はぼくをまっすぐにみつめて次のように言いました。

「おまえはそれを面白くてやったのか?それとも、そのことで何か世のためになると思ってやったのか?」

絶句でしたね。どちらかというと前者だったからです。

まだ若いぼくは、世のなかのためになるなんてことは考えもしなかった。まずは話題性のある面白い調査結果を提供することにより、マスコミを通じて自社をアピールすればよい、と考えていました。ところが父は、ランキングの下位の組織にとって調査結果が参考になるのかならないのか、ただ結果を面白おかしく提示することで上下関係(格差)を煽るだけの下衆な記事に過ぎないのではないか、ということを追及したかったようです。

高等学校の校長として、父は偏差値教育の弊害などに悩んでいた第一線の教育者だったので、意識するしないに関わらず、その厳しい批判はつい口から出てしまった言葉かもしれません。あるいは頼りない長男に対するいつもの厳しい指導だったのかもしれない。しかしながら、新聞に掲載された、というただそれだけで有頂天になっていたぼくは、親父の言葉にへこみました。ちっきしょーいつか世のためになる仕事をしてやる!と心に誓ったものでした。

いまぼくは世のためになる仕事をしているのか、というとまるっきり自信がありません。日々の経済的な雪かきに追われているだけのような気もします。最近、ブログも文学や映画やレンアイなどの軟弱な話ばかり書いているのですが、ふと冷静になってみると、自分を対象化できていないべたべたな内容で、そんな軟弱なテーマで好奇心によるアクセスを稼いでも仕方ないと思います。情けない。

志は高く持っていたいものです。ぼくは結局のところ、いまでも父を超えていないのですが(悔しいけど、まだまだ超えられないなあ)、あと10年後にみてろ、と野心も抱いています。そのためにはとにかく背筋を伸ばすこと、前を向くこと、紳士でありつつ日々謙虚にあらたな知識を吸収し、未来を構想し、正しいと思ったことを継続していきたい。まだ間に合うはず。というか間に合わせてみせましょう。

そんな熱い思いになったのは、外岡秀俊さんの「情報のさばき方」という本を読了したからです。この本はすばらしいと思いました。

外岡秀俊さんは朝日新聞東京本社の編集局長であり、30年近く現場で記者の仕事をされていたそうです。その後、GE(ゼネラル・エディター)という職で、紙面に対して全面的に責任を負うポジションになられた。朝の会議で30分で紙面構成を決めるという仕事ぶりにも驚いたのですが、徹底したプロの仕事ぶりと現場から得たナレッジの体系化にまいりました。ブログで社会的な文章やニュースを書きたいと思っている方、そうでなくても情報をさばく必要のあるビジネスマンの方には一読の価値がある本だと思います。

かつて、ブログは新聞などのジャーナリズムを抹殺するのではないか、という議論もありました。しかしながら、この外岡秀俊さんの本を読んで、それはありえないのではないか、と痛感しました。まず書き手=記者としての志の高さがぜんぜん違う。報道する(=情報発信する)基本姿勢がアマチュアのブロガーとはまったく異なります。そして、伝統ある組織力としての先輩たちの指導と、培われた実績やノウハウ、現場の厳しさがまったく違う。

情報のウラを取る徹底したチェック体制もすばらしくて、語られている要諦にいちいち背筋が伸びる思いです。仮説思考にも通じる記事の検証方法もあって、これは文章だけでなく企業の戦略立案にも使うことができる。考えどころ満載なので、今週はこの本から示唆を受けたことを中心に書いてみたいと思っています。

この本のなかでは情報をさばくノウハウが惜しげもなく公開されているのですが、ノウハウを全面的に公開しているところも朝日新聞の余裕という気がしました。というのは、ノウハウだけわかっても実際にできないような高度なテクニックもある。相当実力がなければ実践できないのではないか、と思う。

今日はとりあえず、外岡秀俊さんが体系化された「情報力」を高めるための基本原則を引用しておきます。

  • 基本原則一:情報力の基本はインデックス情報である。
  • 基本原則二:次に重要な情報力の基本は位置情報である。
  • 基本原則三:膨大な情報を管理するコツは、情報管理の方法をできるだけ簡単にすることである。
  • 基本原則四:情報は現場や現物にあたり、判断にあたっては常に現場におろして考える。
  • 基本原則五:情報発信者の意図やメディアのからくりを知り、偏り(バイアス)を取り除く。

これだけ読むと当たり前のような感じもするのですが、実際の記事を例に挙げて「情報の入手、分析・加工、発信」の順序で解説されていて、ひとつひとつに説得力があります。そして、さらに「仲間と共有」するために体系化されていて、わかりやすいキーワードにまとめられているので、すっと入ってくる。

このなかで特に面白いと感じたのは、基本原則の二で、情報力の基本は「位置情報」という部分でした。ニュースならではと思うのですが、空間的にまず自分の周辺の情報から把握するわけです。地域性(ローカル)ということにも通じるかと思うのですが、漠然と全体をとらえた情報ではなく、身辺の情報を把握する。ローカルな情報というのは自分の直感的な把握や具体的な印象につながるもので、その「一次情報」に意味があります。一次情報であれば、伝聞などの偏り(バイアス)も入り込みません。そうして周辺の断片的な情報を積み重ねることによって、中枢の大事な情報に迫っていく。

位置情報に関しては次のように書かれています。引用します(P.36)。

ここに出てくる「位置情報」というのは、自分が立っている「いま、ここ」という位置に関する情報をいいます。「いま、ここ」に自分がいることは当たり前ですし、それが重要とは思えないでしょう。しかし、たとえば自分がまったく入ったことのない町、経験したことのない場面に遭遇したとき、あなたにとってもっとも重要な情報とは何かを想像してみてください。それが「いま、ここ」という情報です。

この部分では震災時の取材について書かれているのですが、そのときでしか書けない文章というものがあります。それは時間と空間という縦糸と横糸の交わった時間/場所で書く文章のようなことかもしれません。コンテクスト(文脈)的でもあります。

大切なことは、情報を得る人が、全体の文脈のなかで、自分がいま、どのような場所にいるのかを明確に認識しておくことです。これは、自分が得た情報の正確さや意味、客観性を測るうえで、欠かせない情報です。

ライブな情報といえるかもしれませんね。というよりも、ライブな情報の位置的なインデックスといえるような気もします。

ぼくは日々ブログを綴るために悩み、苦しみ、不安を覚えているので(もちろんその向こう側に楽しみがあるのですが)、この本に書かれているヒントはことごとく頷けるものでした。いま場当たり的に書き散らかしているのですが、思考を体系化して、この本のような仕事をしてみたいものです。鉄は熱いうちに・・・というわけで備忘録として書きとめておきます*1。

さて、昨日は「情報のさばき方―新聞記者の実戦ヒント」と「コンスエラ―七つの愛の狂気」、そして本日は「広告マーケティング21の原則」という本を読了したのですが、「エミリー」のレビュー(?)が長くなったので後日にします。レビューというか、いじめ論なのですが。


*1:実は中盤以降はネットカフェで更新。しかしながら時間制限のなかで書いたので、ものすごい誤字脱字でした。やっぱり自分には、自宅で日付変更線が変わる時間帯にじっくりと書いたり、早朝の出勤前に見直すスタイルが合っているようです。

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2006年11月 5日

草の上の月

▽Cinema06-070:実話に基づいた、古めかしいけれども純粋な物語。

B0009RJENI草の上の月 [DVD]
マイケル・スコット・マイヤーズ
ケイエスエス 2005-07-22

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ものすごく古いスタイルのラブストーリーで、ずいぶん昔に作られたんだろうなと思ったのですが、そうでもなかった(1996年)。冒険小説の作家ボブ(ビンセント・ドノフリオ)と、教師のノーベリン(レニー・ゼルウィガー )の恋愛ドラマです。

ボブは作家だけにちょっと変わっていて、人付き合いが悪く、病弱な母のためにマザコン気味でもある。小説の話ばかりしていて嫉妬深くもあり、どこか子供っぽい。しかしながらさすが小説家だけあって、言葉で場を演出する力はある。夜のドライブで、彼が書いた冒険小説の主人公「コナン」の物語を語る彼には(ビンセント・ドノフリオの演技力もあるかと思うのですが)迫力がありました。一方で、ノーベリンは作家をめざしていて彼に興味を抱くのですが、良識があり、向上心もある。ボブは正反対です。そもそも押し付けがましい。自分の創作方法を彼女に押し付けて、さらに彼女が書こうとしている作品を鼻で笑うボブは、嫌なやつだなと思いました。けれども世のなかには、そういうひとって、かなりの割合でいるものです。

このふたりは強く惹かれあうのですがうまくいくはずもなく、喧嘩ばかりをしている。喧嘩ばかりしているのだけど、そのあとにふわーっというストリングスの明るいメロディが流れて和解してしまう。その単純な展開の繰り返しに、正直なところ、なんだかなーという気がしたのですが、あまり盛り上がりもしないもの、こういう伝統的な恋愛もあるだろうな、という世界がつづいていきます。そして最後。こう終わっちゃうのか、と思いましたが、これもまたそうだろうな、という感じです。ぼくはとりあえず最後に泣けましたが、「その日のまえに」ほどではないですね。11月4日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(75/100冊+70/100本)

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「その日のまえに」重松清

▼book06-075:読了できなかった理由は・・・。

4163242104その日のまえに
文藝春秋 2005-08-05

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購入したのは半年ぐらい前だと思うのですが、読了したのは先日です。もちろんぼくは小説を読むスピードが遅いということもあるのですが、それにしても遅すぎる。実はそのスローリーディングには理由があって、3ページ読んでは涙ぐんでしまうからなのでした。

そんな過剰に反応する感情的なひとはたぶんぼくぐらいだろうと思うのですが、ちょうど剥き出しの傷口に刺さってくるような言葉で、ひたすら痛い。多少センサーの感度を落として読めばいいと思うのですが、フルオープンで読んでしまったので、それはもう痛いのなんの。何度か電車に持ち込んだのですが、電車のなかでうるうるしている気持ちの悪いおやじになってしまうので、ぼくの前に立つひとから怪訝な顔でみられてしまい、やめました。

「その日のまえに」は余命数ヶ月と宣告されたひとたちを中心に、どうしようもない運命に翻弄される人間模様の短編集です。最後の「その日のまえに」「その日」「そのあとで」という三部作に、その他の作品の主人公も関連していきます。考えてみると、ぼくが観ている映画にはこのテーマのものが多い。「死ぬまでにしたい10のこと」「ぼくを葬る」「いつか読書する日」など。死について考える傾向が高まっているのでしょうか。

「その日のあとで」で、ガンで妻を亡くした主人公が、彼女が死んでから三ヶ月後に妻の手紙を読む場面があります。長い手紙を何度も書き直したあとで、最終的に妻が主人公に残した言葉にまいった。これ、ひとことなんだもん。ふつう遺書というと長い手紙を思い浮かべるじゃないですか。とても長い文章を想像していたぼくは、電車で読んでいて、すとんと落とされたような気がして、まずいと思って即行で本を伏せました。そして家に帰って深夜に読んで号泣しました。シンプルな一行の言葉なのですが、この言葉はずるいなあ。この一行だけで三日は泣けます。ぼくは長文タイプなのですが、こういう言葉を使えるようになりたい。

しかしながら、あえてドライな批判をすると、泣けるのですが文学的な広がりはないと思います。泣かせるというそれだけの目的のために文章を研ぎ澄ませた究極のエンターテイメント作品であって、だからこそ言葉の広がりはあまりありません。直球勝負で余分なものが削がれた文章は、やはり重松さんのライターとしての経験がなせるわざだと思うのですが、文学的な深みがあるかというと、どうかなと疑問もある。

ちなみに奥さんに「これ読んでみる?泣けるぞ」とすすめてみたのですが、「だから意図的に泣かそうとする小説は嫌いなんだってば」と突き返されました。突き返されただけでなく、逆に宮部みゆきを薦められた。うーん、宮部みゆきねえ。それはちょっとどうだろう。でも読んでみますかね。困惑中。

それにしても、「その日のまえに」では背中に痛みを感じてガンを宣告されるストーリーが多いのですが、ちょっと心配になってきました。ぼくも背中がものすごく痛むことがあって、結石だといわれながらも原因不明です。今度の人間ドックでしっかり調べていただきましょう。そんな自分の身に降りかかってきそうなリアリティも、重松清さんの小説の醍醐味です。だから泣ける。

gadomamaさんのおすすめでしたが、よい本でした。11月2日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(75/100冊+70/100本)

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2006年11月 3日

戻れるものならば。

学生の頃に戻りたいものです。そうして、いろいろなことをひとつひとつやり直したいと思います。というよりも、二児の父親であるいまでも、ぼくはどちらかというと学生気分で毎日を過ごしているような気もします。もちろん、きちんと社会人としての勤めはしているし、妻や子供に対しても夫や親の役割を遂行しようとはしている。けれどもふと気付くと、学生の頃からずーっと時間が止まったままのような気持ちが自分のなかにある。みなさんはどうでしょうか。

とはいえ、現実の時間は止まってはくれないもので、まず長男はいつの間にか自転車をすいすい乗るひとになっていました。どうやら平日に奥さんと練習しているうちに乗れるようになってしまったらしい。今日、午前中にDTMに集中していたら呼び出されて、自慢そうに乗っているところを見せつけられた。うまいものです。うまいんだけど、ちぇっ、と思った。ぼくがついているときに乗れるようになってほしかった。まあそれは親のエゴというものです。気持ちのいい天気のなか、すいすいと自転車を漕ぐ長男をほめてあげました。

その後、夕方から渋谷のユーロスペースで「薬指の標本」をひとりで鑑賞(あっ、いま気が付いたのですが上映は今日までだったんだ!知りませんでした。ラッキー)。

kusuriyubi_main1.jpg映画についてのレビューは後日きちんと書きたいと思いますが、正直なところぼくの妄想に比べれば映画のほうは上品なもので、官能的なシーンであっても壊れずに(笑)冷静に映像美を堪能することができました(そのシーンでごくんと喉がなってしまって恥ずかしかったけど)。いったいおまえはどんな妄想をしていたんだ?と言われそうですが、そんなこと言えません。しかしながら、映像のように具体化されてしまうと逆にイメージを限定するものです。けれども、テキストのようにイメージに限度がないと、妄想は際限なく広がるものです。というか、ぼくが強烈に妄想しすぎなのでしょうか(きっとそうだ)。

映画を観たあとで、そのまま新宿に移動して、夜は会社の同僚の結婚式二次会に参加。この店にもMOONという言葉が使われていて、なんとなく最近月について取り上げることが多いぼくとしては、偶然の一致を感じたりしました。白いタキシード&ウェディングドレスの若いふたりをみていると、ああそんな時代があったっけなあ(遠い目)という気持ちにもなります。体育会系の彼の友人たちの若い力に元気づけられました。それにしても、ビジネスでしかめっつらして話している知人が人前でちゅーしているのをみるのは、なんとなく落ち着きません。もぞもぞするものですな。もぞもぞしたり、うらやましかったり。

会社のひとと話したなかで、宣伝会議の編集講座を受講していた方から、山田ズーニーさんの講座がすごかった、ということを聞きました。サングラスをかけて颯爽と入ってきた彼女に、最初はどんなもんだろうと思ったらしいのですが、とにかくすばらしい講義だったらしい。うらやましいです。山田ズーニーさんの文章術の本は何冊か読んだのですが、小手先の技術ではなく、書くこと=生きることとして、真摯に書くこと=生きることに向き合っている。そんなひとだから、やはり講義の説得力も違うのでしょう。受講してみたいものです。

その後、会社のひとたちだけで飲んだのですが、最近お酒にすっかり弱くなり、酔っ払いました。酔っ払ったので、電車のなかで眠ってしまい、2駅乗り越してしまった。いま考えると別にその駅で降りなくても上りの電車を待てばよかったのですが、改札を出てしまい、2駅ぐらいどうってことないだろうと歩いてしまいました。これが実はどうってことがあって、東に向わなければならないところを北にずんずん歩いていた。これだから自動操縦といっても酔っ払いは困ったものです。北海道まで歩いてしまうところでした(歩けませんが)。

進路変更して、高級住宅街の碁盤の目のような舗道をとぼとぼと歩いていると、見上げた空には満月っぽい月です。まるでぼくを笑うかのように雲に隠れたり出てきたりする月に腹立たしいやら悲しいやら複雑な気持ちになりつつ、1時間かけて帰宅して、ブログを書いています(現在、深夜2時10分)。学生の頃であれば終電がなくなって何駅も何時間も歩いたものですが、さすがにあの頃の体力はありませんね。というか、身体鍛えなさすぎか?

重松清さんの「その日の前に」を読了し、映画「薬指の標本」のことも書きたいし、「草の上の月」という映画も途中で止めてあるのですが、深夜のお散歩でくたびれたのでまた明日にします。

なんとなくぼくらしくなく日記らしい日記になってしまいましたが、たまにはそういう日もいいでしょう。理屈っぽく考えすぎるのも疲れてしまうので。

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2006年11月 2日

自分を更新する。

懐かしいタイトルだなと思って、先日書店で「薬指の標本」といっしょに購入したのが、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ、宇野邦一さん訳による「アンチ・オイディプス」でした。

4309462804アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)
宇野 邦一
河出書房新社 2006-10-05

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上下巻に分かれているといえ、何しろ文庫です。文庫でこれが読めるとは思わなかった。確か学生時代にはテキスト(教科書という意味です)として、分厚い本を買わされたような気がしました。本棚のどこかにまだあるかもしれません。読み始めたときに変な文章だなあと思ったことを覚えていて、やっぱり読み始めると変な文章なのであって、こちらも懐かしかった。というわけで上巻から少しずつ読み始めています。

ところが自分で自分にびっくりしたのが、読める、ということです。学生時代にはさっぱりわからなくて、何だこりゃ、どうでもいいか的な気分になって、すぐに放り出してしまった気がします。けれどもいまは読み進めることができる。決して、わかるとは言えないのですが、言葉がイメージすることがぼんやりとはいえすっと入ってくるし、これは?とセンサーに引っかかってくることもある。そしてそれはいまぼくが関心を持っていることに近いような気もする。

何がどのように関連するのかということはうまく言えないので、漠然と引っかかってきたワードを羅列してみると、器官なき身体、パラノイア、生産、生成、強度〔内包〕量、器用仕事(ブリコラージュ)などなど。

最後の器用仕事(ブリコラージュ)については、アンリ・ミショーによる分裂症患者の机についての描写を引用しています。こちらを引用してみます(P.23)。

驚くべきことに、この机は単純ではないが、かといってそれほど複雑でもなかった。つまり始めから複雑だったり、意図的に、あるいは計画的に複雑であったりしたわけではない。むしろ、加工されるにつれて、この机は単純でなくなってきたのだ・・・・・・。この机はそれ自身としては、いくつもの付加物がある机だった。ちょうど、分裂症者の描くデッサンが詰め込み過ぎと言われるように。この机が完成するとすれば、それはもう何もつけ加えるてだてがなくなったときである。

いままさにぼくはDTMの創作においても、昨日の「薬指の標本」のレビューにしても、この机を複雑化していく状態にありました。分裂症的であるともいえる。といってしまうことに居心地の悪さも感じるのだけど、いまインターネットの世界においても、ここで書かれている机を複雑化するような傾向が進展していて、そもそもリアルとバーチャルが混在する世界自体が分裂症的です。まさに複雑化、多様化の行き着く先は「何もつけ加えるてだてがなくなったとき」なのかもしれない、と感じました。

器用仕事(ブリコラージュ:本文中ではルビ)自体が書かれているのは、次のような部分です。

レヴィ=ストロースは器用仕事(ブリコラージュ)を規定するとき、緊密に結びついた諸特性の総体としてそれを提案している。すなわち、多数のちぐはぐな、限られたストックやコードを具えていること、もろもろの断片を、たえず新しい断片化に導く能力をもつこと。したがって生産する働きと生産物は区別されず、用いる道具の全体と、実現すべき仕事の全体も区別されない。

きちんと理解しているわけではないのですが、ここで言いたいことが伝わってくる気がしています。何かを生産したときに、それが別の何かを生産するためのものとなる。この途方もない接続を「機械」としてとらえているわけで、そのあとにはカフカの「流刑地にて」も出てきます。

といってもぼくがブリコラージュという言葉にセンサーを働かせてしまうのは、以下のCDのせいかもしれないのですが。

B000FDF46CBricolages
坂本龍一
ワーナーミュージック・ジャパン 2006-05-24

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表面的であっても、実は本質に関わることであっても、まずはさまざまな読書などから自分に触れたものを探してみる。その結果として、この場で何かを書いてみて、自分の考えを更新していく。自分2.0なんてことも書いたりしましたが、いまのところ2.1βぐらいの感じでしょうか。

今年も残すところあと2ヶ月。本100冊+映画100本という目標の達成度は現在70%というところで、なかなか厳しいものがあるのですが、できるところまで自分を更新していきたいと思っています。

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2006年11月 1日

「薬指の標本」小川洋子

▼book06-074:水の思考、女性の身体感覚。

4101215219薬指の標本 (新潮文庫)
新潮社 1997-12

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女性作家の小説にはときどき眩暈のようなものを感じるのですが、男性のぼくには絶対に書けない匂いのようなものを感じることがあります。女性特有の思考パターンといってもいい。川上弘美さんの作品にも通じることですが、ぼくはこの匂い、あるいは文章に流れる思考の傾向を「水の思考」としてとらえてみました。女性の身体感覚で書かれている小説群に共通する液体のような思考の流れであり、あるいは強い波動であって、文体の瑞々しさを含めて流動的なもので、一方で息が詰まるような閉塞感もある。それはちょうど溺れて酸素を奪われたような息苦しさともいえる。しかしながら、この閉塞感が官能的でもある。オルガスムスの悦びと苦しさが一体化したものといえるのかな。男性のぼくにはわからないけれど。

水の思考の特長は、割り切れない、ということにあるのかもしれません。水の中に手を浸すと、水は手に沿ってまとわりついてきます。官能的に身体にまとわりつく。そうして、しなやかに形を変える。でも、手を水から引き出してしまうと、水は揺らぎながらも静かな水面に戻る。固体はどうでしょう。しっかりとした手ごたえがあって、手の中に重みを残します。ばきっと割ると割ったままになる。つまり固体的な思考は分解(=分析)できるのですが、水の思考は論理化して分解できない。何度すくっても指の隙間から零れて、水滴は、ぽちゃんともとの水面へと戻っていってしまう。つかみどころがない。水は月の満ち欠けにしたがって、満ちたり干いたりするものです。合理的ではない、みえない力に操られていたりもする。

この小説の危険なところは、固形的ともいえる正常な論理感覚が通用しないところにあります。液体的な論理で流れていく。

物語の冒頭には、主人公の二十一歳の女性がサイダー工場で薬指の一部を切り落としてしまうシーンがあります。けれどもそこには叫びや痛みはなくて、ただ切り落とされた肉片がサイダーの泡(液体)のなかに沈んでいく鮮やかなイメージだけがある。悲しみや怒りの感情すらなくて、彼女は静かに流れる液体のように職場を去る。ぼくはもうこのシーンだけで気持ちがざわざわしてしまった。ここで深読みをすると、切り取られてサイダーのなかに沈む薬指の肉片は、彼女が孕んだ子供のメタファ(羊水のなかに浮かぶ赤子)といえなくもない。つまりほんとうは彼女の指は欠けてなんかいなくて、ただ死産した(もしくは子供をおろした)経験が指を欠いたという現実にすりかえられているわけです。という思いつきだけをここに記しておきますが。

次に標本室というわけの分からない職場に勤めたかと思うと、標本技師である弟子丸氏から靴を送られ、その靴だけ履いた姿で彼と抱き合う。かと思うと、活字を床にばらまいてしまって、弟子丸氏が一晩中見守っている部屋で(彼はなにも手伝わない)、床に這いつくばって一晩中活字を拾い集める。濃厚な表現に、なにかとてもいけない気持ちになります。

基本的にこの小説に、物語の筋のようなものはありません。耽美なめくるめく視覚的イメージが延々と展開されます。

弟子丸氏が送った靴を履き、ふたりが愛しあう場所は、かつての浴場(水のあった場所)なのですが現在は使われていません。その水のない場所で履く靴は、どこか液体的に主人公の足を包み込む。やわらかくフィットするわけです。この表現が、妙になまめかしい。やがて靴は彼女と一体化していく。それは液体と液体の融合を感じさせました。

こういう表現を受け付けない男性もいるのではないでしょうか。たぶんそんな男性はものすごく健全で、冒険小説のような筋がびしっと通ったストーリーを好むのではないかと思います。しかしながら、こういう割り切れないものにセンサーを働かせてしまうような男性もいて、そういうやつはあぶないかもしれない(えーと、ぼくもそうなのですが)。ぼくは男性ではあるのですが、どうも自分のなかに、この水の思考があるような気がします。論理的に書いているようで実はぼくの論理は破綻していることも多く、感覚的に書いたもののほうがいきいきとしていることもある。

要するに、男性/女性というのはステレオタイプな分類に過ぎなくて、男性のなかに内包されている女性もいる。女性のなかに内包されている男性もいる。そんな複雑なものがぼくらの性なのかもしれません。問題は、そうした自己のなかの異性が覚醒しているかどうか、です。しなやかでありたいと考えるぼくは、内包された異性的な何かの封印を解いてしまっているらしく、そのセンサーが作品のなかにある水の波紋を同期させるので、だからぼくは、小川洋子さんのこの小説を読んで、ものすごく揺らぐのかもしれません。

身体の80%以上は水である、ということもどこかで読んだ記憶があります(正確ではありません)。もちろん脳のなかにも水が溢れている。女性の身体感覚で物語を(読むのではなくて)感じるということは、この身体という水を共振させる行為なのかもしれません。その水は決して澄んだ青い水ばかりではない。汚れて澱んだ水もある。

本のなかに収録されているもうひとつの短編「六角形の小部屋」もかなりアブナイ。その危険な感じは川上弘美さんの「夜の公園」に通じると思うのですが、いまぼくがそのことを詳細に分析しようとすると壊れそうなので、やめておきます。

「薬指の標本」はフランス映画(ディアーヌ・ベルトラン監督)として映画化されているようで、ひとりで観に行こうと思っているのですが、壊れそうでとても不安です。小説を読んだだけで、かなり危うかった。危うさのために文章が決まらずに、このレビューは何度も書き直していますが、これもまた水のように流れてとどまることを知りません。困った。11月1日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(74/100冊+68/100本

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難問ばかりのツキはじめ。

まだ余力があるものの、並行していくつかの仕事が動き出し、回転している皿が止まらないように回しつづけている毎日です。けれどもどうしても零れてしまうものもある。うまく拾えることができればいいのだけど、簡単に思えるようなことも、複数の何かが絡み合って押し寄せてくると、手に負えなくなったりもする。こんがらがった頭のなかをどのようにして解けばいいのか、その答えを求めつつ、うまく跳躍できるように願ったりしています。

今朝、電車のなかで日溜りのなかでうとうとしていたら、ふいに小学校の頃の花壇を思い出しました。その花壇を詳細に思い出そうとしていたら花壇ではなくて、渡り廊下だとか、靴箱だとか、そんな陰影に彩られた記憶が鮮やかに蘇ってしまった。ああ、そうだっけ、こんな風景をみていたことがあった、と、何が記憶をずるずると再生しはじめたのかわからずに、それでもぼくはその風景を流れるままにしておいた。けれども完全に身体感覚まで再生できるところには至らずに、どこか言い出せない言葉のようにもどかしいものがありました。なんだったんでしょうか。ぼくが考えるに、きっと思い出した風景ではない別のどこかに、封印して忘れ去ろうとしたぼくの大事な記憶があるのかもしれません。その記憶を思いだしたくないばかりに、花壇のことばかり再生されてしまう。

さて、難問を片づけるよりよい方法論について考えているのですが、いきなり全体に着手しようとしないことかもしれません。ということは、全体を俯瞰することが大切である、と書きつづけたぼくのブログの趣旨とはまったく逆かもしれないのですが、俯瞰して答えが出ることもあれば、俯瞰しない瑣末なあれこれに注目したほうがよいときもある。こんがらがった全体をどうにかしようとせずに、まずは手もとにある糸の絡まりを解いてみる。昨日の日記で原研哉さんの書物から引用したのですが、「着眼大局着手小局」です。

仕事の難問のひとつには、4つの立場をそれぞれWinな状態にする、という案件があります。これがまた難しい。この難しさを体験してしまうと、プライベート/パブリックの成立などは、おちゃのこさいさい、という気もする(そんなことないけどね)。まだ結論はみえません。というかスタートラインに立ったばかりです。スタートラインに立ったけど、ちょっとやめときたい、という後ろ向きな気持ちもないことはないのですが走り出せば何かが変わるかもしれません。変わらないかもしれません。うーん、どっちだろう。

散財がつづきますが、今日もまたCDを買ってしまいました。alva noto+ryuichi sakamoto の「revep」です。

B000GINIE6Revep
Alva Noto & Ryuichi Sakamoto
Raster Noton 2006-06-12

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「insen」が欲しかったのですがなかったので注文してしまった。fakeplasticのブログで紹介されていて、まずジャケットのデザインがいいな、と思ったのですが、実際に手にしてみるとさらにいい。マットコート系の白地にやわらかい色が映えます。そして音は「!」でした。そもそも日曜日に自分の曲を手直ししながら、音を切り貼りする手法を用いていたのですが、このアルバムはまさにそんな電子音で作られています。偶然の一致というわけではないけれど、いまのぼくの気分にぴったりでした。ただし、そんな手法はもちろんのこと、漂う音そのものの重なりだったり、揺らぎが心地よい。癒されました、今日も。

難問ばかりの神無月。天気はよかったのですが、帰宅時には月は雲に隠れてみえませんでした。ツキがなかったとか言ってみたり、言ってみて後悔したり。

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