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2006年10月22日

いつか読書する日

▽Cinema06-065:哀しい大人の恋、生きる強さ。

B000E0VPM8いつか読書する日 [DVD]
青木研次
アミューズソフトエンタテインメント 2006-02-24

by G-Tools

主人公・大場美奈子が中学時代に作文を書くシーンからはじまります。鉛筆と原稿用紙のアップに、なんだか懐かしいものを感じました。いまはほとんどパソコンで文章を書きますが、アナログの原稿用紙もいいものです。

物語は、大場美奈子(田中裕子さん)が50歳に近い年齢になった頃のことで、彼女はまだ独身で、牛乳配達とスーパーのレジのパートで暮らしている。一方で彼女が想いを寄せている高梨塊多(岸部一徳さん)は、病床の妻を看病しながら市役所の児童課に勤めています。美奈子と塊多はともにお互いのことを想っているのだけれど、塊多の父と美奈子の母が不倫しているときに自動車にはねられて亡くなってしまったため、お互いの気持ちを封印して生きているわけです。しかし、病床の妻は塊多の気持ちに気付き、自分が亡くなったら、塊多と美奈子はいっしょになるように、と諭す。

淡々と進行していって、どこか小津安二郎さん的な世界も感じたのですが、視覚表現としての文字の使い方に面白いものがありました。痴呆症になっている大場美奈子の母の知人の夫が文字を思い出せなくて悩むシーンや、「私には大切な人がいます。でも私の気持ちは絶対に知られてはならないのです」という縦書きの文章が画面にオーヴァーラップするところなど。また、さびしく50歳までひとりで生きてきた美奈子の部屋には本がたくさん並んでいるのですが、そんな演出に、製作者の文学に対する思い入れのようなものを感じました。

塊多が、市役所にクレームをつけにきた老人に「50歳から80歳までって長いですか」と訊くと、「なげーぞー」と答えるシーンが印象的でした。また、いつも静かな塊多が、児童保護をしなければならない、いい加減な親に対して激しく怒り、そのあと号泣するシーンもよかった。

ところで、50歳の恋愛というものがどういうものなのか、ぼくには想像できないのだけど、そういう恋愛というのもあるだろうと思うし、もし自分たちの気持ちを長い間封印してきたのであれば、激しくて短い恋愛よりも醸成されて思いは深まるのではないかとも考えました。

最後のシーンでは、え?そういう風になっちゃうのか、と哀しくなった。でも、淡々としたストーリーのなかで、この展開はうまい。すとん、と落ちる感じがある。哀しい出来事の後の力強さにも、すがすがしいものがありました。派手な名作ではないと思うのですが、ドラマとしては染みるものがありました。10月22日観賞。

公式サイト
http://www.eiga-dokusho.com/

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(71/100冊+65/100本)

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アートなものに対する憧憬。

雨のせいか、徹夜の反動か、今日はとてもぼんやりとしています。思考もうまく回転しない。そんなわけで、抽象的な印象について語ろうと思います。

芸術の反対語って何でしょう。通俗でしょうか。ぼくは趣味でDTMによる音楽創りをしているのですがポップスを志向しています。ポップスはわかりやすくあるべきだとはいえ、あまりにもべたべたな楽曲は陳腐な印象があります。シンプルであることはわかりやすいのですが、ステレオタイプの陳腐化にもなりやすい。そして楽曲が陳腐化すると、その曲の持つ広がりがなくなります。

もう2年ぐらい前になるかと思うのですが、最初にMUZIEで公開した曲を、とある方に聴いていただいたところ、「期待感のあるイントロなのに、その後の展開がありきたりでがっかり」というような厳しい感想をいただきました。かなりへこんだのですが、その感想は非常にありがたいもので、いまでもぼくが課題として考えていることです。わかりやすいんだけど、アートっぽくなれない。

アマチュアさんの作品であっても、どこか抜けている作品は、ポップでありながらもアートな何かを持っています。これはセンスの問題かもしれないのですが、背景にもっている音楽経験の違いかもしれません。

文学でも映画でも音楽でもいいのですが、通俗的な陳腐さを脱却してアートなものとは、どこか複雑、多様、難解な何かを包含している。もちろん、わかりやすくてアートなものもあるのかもしれませんが(谷川俊太郎さんの詩とか)、音楽でいえば、複雑なコード、不協和音、転調、変拍子などを駆使するとアートっぽい。

そしてアートっぽくあろうとすると、それは一朝一夕にはできないものです。表面的な技術で繕ったとしても、どこか付け焼刃の感じがする。まず思考と知識をアート化しなければならないし、ひよっとしたら服装や持ち物などのアイテム、食べる物なども変えなきゃならないかもしれない。と、まあ、これは大袈裟なのかもしれないのですが、あながち間違いともいえないことで、というのは音楽のムーブメントでは、その周辺にあるものを巻き込んで進展してきた気がします。

芸術の秋まっさかりの休日。いまいちアートっぽくなれないぼくは、まず部屋を片づけてみることにしました。で、鍵盤楽器(MIDIコントローラー)を出してみたら、なんとなく気分的にオルゴール職人からミュージシャンっぽくなってきたような気がする。気分ではなく、何を創るかということが大事なのですが、まあそれは追々考えていこうということで。

趣味であるとはいえ、音楽の創作気分を盛り上げるために、イメージ映像をコラージュしてみます。

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部屋のなかにある音楽ツール的なものをスナップしてみました。上段左から、フェンダージャパンのテレキャスターとヘフナーのバイオリンベース(どちらも弦が緩みっぱなし)、SONAR 5を起動したVAIOノートの画面(これでDTM制作)、使っていないけど出してみたらなんとなく気分がのってきたMIDIコントローラ。下段左から、失敗したパイニアのヘッドフォン(ソニーのやつにしておけばよかったー)、ケンウッド製のコンポ(赤いオニみたいなものは、長男が幼稚園のとき作成したウサギ)、すっかり使っていないハードディスクレコーダーVS-880です。

上記の半分はインテリア化しているのが、かなしい。そろそろギターとベースの弦を張ってみようと思います。

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2006年10月20日

酩酊しつつ、世界の雑音を聴く。

深夜に書くせいもあるのだけれど、たいていぼくがブログを書くときには酔っ払っています。昨夜は渋谷で飲み、とてもいい気持ちの飲みだったので、しあわせな感じでお酒が回りました。終電近い電車で帰ってきて、3時ごろまでブログを書くなどしていたような気がします。おかげで今日はとっても眠い一日でした。

飲んでいい気持ちになっているときには、自動操縦モードにチェンジされるせいか、どうやって家に帰ってきたのか記憶がありません。なんとなく断片的に覚えてはいるのだけど、帰宅途中の確かな記憶がない。時々、時空を超越してしまったのか、あるいは何か帰宅途中にとんでもないことをしでかしてしまったのではないか、と不安になることがあります。とんでもないこととは何か、と考えると怖くなるので、考えないようにしていますが、覚醒しつつ記憶にない時間というのは怖い。なぜ記憶にないのでしょうね。脳科学的に何か説明できるとは思うのですが。

酔っ払ってもある程度きちんと何かを書くことができるのがぼくの特技だと思っていて、その特技に安心もしていたのですが、昨日はとんでもないメールを送っていたことが発覚。かなりへこみました。何がどのようにとんでもなかったか詳細は書けませんが、お酒は精神を解放するので、気が緩んでしまったのかもしれません。お酒を飲んでいたこともあって、とお許しをいただけたようですが、飲んだら書くな、書くなら飲むな、ということもいえるかもしれません。といいつつ、今日も酩酊状態で、まったくぼくは懲りないひとです。

飲酒運転による事故が問題になっています。自動車に乗る場合には、ちょっとぐらいいいだろう、という甘さは許されない。お酒に弱いひとは、きっと乗らないだろうと思います。自分の弱さを自覚しているので。けれども逆に、お酒に強いひとは、おれは強いんだ、これぐらいの酒なら大丈夫、と過信して乗ってしまうのではないでしょうか。強さは盲目(ブラインド)の状態を引き起こします。お酒にかかわらずあらゆることで同様で、たとえばおれは知識がたくさんある、と思う人間は盲目になるものです。そして、知識のない人間を見下そうとする。体力的に強い人間も盲目になる。力のない人間を、鍛錬が足りないと、こき下ろすでしょう。弱さを自覚している人間のほうが謙虚です。自分の弱さを自覚している人間は、ひとに対してやさしくなれる。

弱いものであっても、さらに弱いものを見下せばそれは強いものと同様なので、盲目になる。ところが、弱さを弱さとして自覚していれば、過信に陥ることはありません。しかしながら逆に自信喪失に陥ることがデメリットかもしれないのですが、過信も自信喪失も同じ心の動きで(ただベクトルはプラスかマイナスか違いますが)、結局のところ心にブラインドが落ちている状態だと思う。その状態では、判断が正確ではなくなります。過信もせずに、自信喪失もせずに、ありのままに自分を観るということはなかなか難しいのですが、そんな安定した自己を確立できれば、どんなことにも動じないで明確な判断ができそうです。

自分の弱さを認めることは負けではないと思います。むしろ弱さを認めないことが(あえて言うと)負けであって、弱さを認めない人間は変わることがない。変わろうとするためには、自分の無知、愚かさ、弱さを認める必要がある。

ところで、情報に対してブラインドが落ちると、主観によってゴミと宝を選別するようになります。もちろん、そのような主観(もしくは直感)が情報選別のために重要な能力となることもありますが、主観のフィルターをかけることで、ほんとうは宝であってもゴミにしかみえなくなることもある。

たとえば世の中はさまざまな音で溢れています。鳥の声、クルマが走る音、工事現場の騒音、電車の音、サイレン、話し声、靴音などなど。

ソニーからノイズキャンセル機能搭載のウォークマンが登場するらしいのですが、これはマイクで周囲の雑音を拾って逆相の音を再生し、そのことによってノイズを低減するとのこと。ぼくは少年の頃に購入した、ソニー製のボーカルキャンセラーの機械を思わず想像してしまったのですが(あの機械は、センターの音の逆相を生成することで、通常はセンターに定位しているボーカルの音を消して、カラオケにする)、この技術自体は面白いと思うし、それを低価格で実現するソニーもすばらしい。

でもちょっと思ったのは、電車の騒音だけでなくひとの声なども消してしまうんだろうな、ということです。自分にとっては快適な空間ができるかもしれないけど、騒音を消してしまうことでブラインドも落ちる。「あのー、ちょっと座らせていただけないでしょうか」というようなおばあさんの声も消してしまうのではないか。そこには自分の快適なリスニング空間ができあがるけれど、雑音としての世界を抹殺する。とはいえ、人間の声だけは聞き取りやすくキープする機能もあるのかもしれません。

確かに技術の進化は大切ですが、こういう進化の方向が果たして正しいのだろうか。主観的に電車の音をノイズと決め付けて、不要なノイズ、ゴミを消しさることは、どこか自分本位の権力的な思考がないか。

ぼくはソニーのファンなのだけれど、VAIOを修理に出したときに、コールセンターの対応から非常に不快な気持ちになったことがありました。それは他人の状況を考えずに携帯に電話をかけてきて、一方的に要件を告げるようなものだった。さらにそのとき告げられた要件とは、ぼくには非常に不利な問題があることだった。ちょうど昼食を取っていたのですが、こんなところでそんなことを一方的に告げられても困る、と思った(メモだって取れないし)。

このとき、ソニーは確かにすばらしい製品を作っているかもしれないけれど、人間的な何かを見失っているんじゃないか、と直感的に感じました。コールセンターだけの問題かもしれないけれど、その配慮のなさの背後には、きっと企業としての誠実な姿勢を失いつつある何かがあるような気がする。いいもの作っているからいいじゃん、というような思いあがりをそのオペレーターの口調から感じました。その感覚が、誤りであることを祈っているのですが。なぜなら、ほんとうに少年時代からソニーのファンなので。

話題がそれましたが、ノイズキャンセルについては、多くの携帯プレイヤーがノイズキャンセル機能を搭載しています。開発競争が進んでいて、ノイズキャンセル機能がない機種は、店頭でアピールできないのかもしれません。あって当然という空気が市場を支配している。したがって、ソニーだけの問題ではないともいえます。

面倒なことやノイズにも溢れているのが、ぼくらの現実です。うるさいから消しちゃえ、という一方的な発想はどうなんでしょうか。電車の音やテレビの砂の嵐などのノイズは、子供にとって母親の胎内で聞く音にも似ているといいます。そのせいか、ベビーカーに乗っていた頃の息子たちが電車に乗ると、すぐに眠っちゃったものです。

ときには雑音に耳を傾けてみる。目的思考であると、そんな音に耳を傾ける時間はムダと考えてしまうかもしれません。けれども、ぼくはムダも豊かさのひとつだと思うので。

■ノイズキャンセル機能つきのウォークマンのニュース。
http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0610/12/news070.html

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2006年10月19日

非線形思考でいこう。

息子(長男)が低学年の頃、小学校の参観日に出席したぼくは、算数の教え方に新鮮な驚きを覚えました。簡単な足し算なのですが、通常、ぼくが小学生の頃には、

7+3=□

として、□のなかに入る答えを求めていたような気がします。ところが、息子たちの教室で教えていた方法は、
□+■=10

という式でした。つまり□と■を埋める答えを求めるわけです。

となると、7+3も正解だし、4+6も正解。正解が複数ある。このときに重要なことは、□と■に入る数字という「要素」を問題としているのではなく、□+■という文脈(コンテクスト)全体を重視している点です。

稚拙かもしれませんが文学的に解釈すると、「□さんと■さんが出会ったとき、そこに10というものが生まれた。さて□さんと■さんとは何だろう」という存在意義を問題としているともいえる。□の「7」という豊かなものと■の「3」という貧しいものの出会いかもしれないし、□の「2」という小さいものと、■は「8」という大きなものの出会いかもしれない。あるいはいずれも「5」という対等な双子だったりもする。□と■は可変的な関係性にあるのですが、ふたりが相補的に協力すると10になる。コラボレーティブな関係です。

そして、それらの式は、10という結末に向けて「範列(paradigme)」的に存在します。どの式も正解であって、間違いではない。しかしここで問題となるのは、複数ある正解のうち「(情報の受信者である)あなたが」どれを選ぶか、ということです。

正解が複数あること、その正解を評価するものは絶対的なモノサシではなく主体となる情報の受信者にあること(100人が選択しなくても、あなたが選択すればその答えは正しい)、受信者のチョイスによって文脈が完成すること。これが、ぼくはこれからの情報化社会においては重要な視点ではないかと思います。だからこそ、情報の受信者によって選択された結果が変化していくAjaxという技術はイケているのです。

いま、大前研一さんの「考える技術」という本を読み進めています(現在、P.254。読了まであとわずか)。ぼくが考えていたことの多くは、この本のなかに書かれていて、ああ、やっぱり大前研一さんにはかなわないや、ということを感じました。

4062124920考える技術
講談社 2004-11-05

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このなかで「線形思考では通用しない」として、以下のように書かれています(P.148 )。

ニュートン力学や線形思考では、原因が同じなら結果も同じことになるが、複雑系の世界ではそうはいかない。線形思考とは、方程式に当てはめれば必ず正解が得られるという直線的な方法だ。一方、非線形または複雑系の世界では、初期条件がほんのちょっとでも違えば結果は予測不可能になる。

ここでぼくが思うことは、分解された要素を組み合わせれば結果が出るというのは、7+3=□という直線的な思考です。しかしながら、この方程式は自己完結してしまい、空間的な(範列の)広がりがない。結果を出すための要素が複数考えられる□+■=10の場合には、ある規則性および関係性にしたがって(ここでは足すと10)、さまざまな変奏が可能になり、自由度が増して、多様な文脈が生まれる。表現として広がりができます。

たとえば「明日13:30に会いましょう」と言って会う場合には、必ず会うことができます。約束したのだから当然です。ところが、複数の日程というオプションがあり、さらに1日の24時間の広がりのなかで、もし偶然に会えたとしたらどうでしょう。ただ約束して会ったことの数十倍もの感動と嬉しさがあるのではないでしょうか。え?どうしてここにいるわけ?と思う。なんとなく夢のなかの時間というか、信じ難いものがあるわけです。会えてよかったー!!と感動する。茂木健一郎さんの著作に頻出する言葉ですが、これを「セレンディピティ」というそうです。偶然を楽しもうとする考え方です。

7+3=・・・という線形思考では、答えはひとつしかなく、そこに範列的な広がりはありません。しかし、□+■=10という非線形思考こそが多様化する現実をとらえたものであり、左から右へと流れる連辞(syntagme)で統合されつつ、範列(paradigme)の広がりもつくる。既に誰か記号論の学者が言っていることかもしれないのですが、残念ながらぼくには検証している時間がないので、自分の勝手なアイディアとして述べさせていただきます。

ぼくはさまざまな情報の構造を学習したいと思うのですが、完全な答えを求めようとしてはいけないと思っています。構造を確定してはいけない。あらゆることに通用する方程式なんてものはないだろうし、あったとしてもこれからの時代では、すぐに陳腐化して使いものにならなくなる。むしろ、ゆるかやな結びつきをいくつも想像する、範列的な思考(=それはメタファの思考かもしれない)が重要になるのではないか。

たとえば、あなたの指(要素)を切り取って「これはあなたですね?」と言ったとします。確かにそれはあなたの一部だけれど、もはや死んでしまっていて、あなたではない。指はあなたという全体のなかにあり、温かな血が流れていてこそ、あなたの一部として存在する。科学的思考に観察者的なクールな視線(悪く言ってしまえば冷血さ)を感じるのは、切り取られた肉片としての指もあなただ、だってあなたの遺伝子があるじゃん、と神のように見下ろして説得するようなときです。

もちろん、そうではない要素の分析もあるかと思うのですが、Webなどの分析も同様で、数字の一部を切り取って、これがあなただ(企業の姿だ)と突きつける。しかし複雑で多様な社会においては、現象はそんなに単純なものではありません。あるいはブログの一部の文章を引用して、これがあなただ、と突きつけることもよくありますが、ひとことで他者をわかったようなつもりになることほど不遜なものはなく、確かにそれはわたしかもしれないが、わたしのすべてではない。7+3=10的な線形思考によるシンプルさの罠を駆使して臨在感的な空気を発動し、ひとを貶めようとするレトリックにこそ反論すべきではないか。多様性かつ複雑さに富んでいる、豊かな、わたしの可能性を削ぎ落とすのは、いい加減にしてほしい、と。

構造の正解を探そうとするよりも、ひとつの答えに集約しそうな思考を疑い、このバリエーションがもっと考えられないか、ということに注力することが大切ではないでしょうか。それは検索項目をひとつに絞り込むよりも、検索項目を果てしなく広げていく思考です。この点においても、天文学的に増加しつつあるブログやWebサイトは意味があるのではないか。

大前研一さんの本のなかでは学校の秀才である「アカデミックスマート」から現場で実践を通して成功する「ストリートスマート」へ、ということも書かれていました。それは答えのない世界を答えがないというままに受け入れることであり、反マニュアル的な考え方です。次のように書かれています(P.167)。

学校に行ったアカデミックスマートは、やはり答えを求めてしまう。「答えはない」と言っているのに、「答えはなんですか?」と聞く。学校秀才に限らず、日本の学校に通っている子供は皆同じだ。

答えを自分で選ぶ時代ではないでしょうか。世間的にどんなに間違っていても、あなたが正しいと思えば、その答えは正しい。自分の選んだ答えに誇りを持っていい。ぼくもまた、そうありたいと考えています。

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2006年10月16日

力を抜くと、進むこともある

力が入りすぎだこれは、と思いました。昨日書いたぼくのエントリーです。力が入った理由はいろいろとあるのですが、いちばんの理由は身体に力を入れたせいでしょう。日曜日、ぼくは四年生にもなって自転車に乗れない息子のために、自転車の練習につきあってあげたのでした。これがまた、大変なわけで(泣)。こいつが自転車に乗れる前に、ぼくがきっと壊れるかもしれない、と思った。

これからパパさん、ママさんになる方のために言っておきたいのですが、やっぱり若くて力のあるうちに子供を育ててほしいです。年を取ってしまうと、体力的につらい。頑張ろうとする気持ちはあるんですけどね。身体がついていきません。

ちなみに息子の自転車はこれです。ブリジストンのクロスファイアージュニアJ07。色はブルーです。なかなか、かっこいい。少年時代のぼくだったら大喜びなのですが、息子はあんまりうれしくないらしい。

061006-CJT.jpg

昨日は併走しながら、「自分で乗ろうと思う気持ちがないと、乗れないよっ!」と言いつづけたため、昨日の日記では「自律すること」なんて言葉が頻出したようです。われながら、とってもわかりやすいひとです。というか、やはり言葉の呪縛というものはあって、何度も口にしているとその言葉が身体に染み込んでしまうようです。ほんとうに足がかっくんかっくんするほど疲れてしまったのですが、身体が疲れていると文章にも疲れが出る。疲れでこわばっていると、文章にも執着があらわれるもので、適当に流して寝ちゃえばよかったなあ、とちょっとだけ後悔しました。そんなわけで昨日のエントリーは恥ずかしいです。

短距離走のアスリートは、とんでもない瞬発力を発揮するものですが、その身体は力とは反してしなやかでやわらかい。かちこちに固まっていると、力は発揮できないものです。リラックスしなきゃね。

ということは昨日の自転車の練習にもいえて、ぼくはまず息子の乗った自転車のハンドルのところを支えて、併走しながら安定すると手を離してみたのでした。ところが、手を離すと、彼は漕ぐのをやめてしまって、漕ぐのをやめると必然的に自転車は傾く。傾いて止まってしまう。手を離されたときの怖さもあったのでしょう。しかしながら「だっから、漕ぐのをやめちゃだめって言ってるでしょうがー!!」のように短気なぼくは切れてしまって、そうすると内気な息子はますます萎縮する。で、乗れなくなる。さすがにぼくも、はぁはぁぜぃぜぃ状態になってしまった。そこで思い出したのは、美容院のにいちゃんが言っていた言葉でした。

美容院のにいちゃんは、あるお客さんから聞いたそうなのですが、「ペダルとっちゃうと、すぐ乗れちゃうそうっすよ。つんつんって足で蹴って練習するじゃないですか。そうするとすぐ乗れちゃうんですって」とのこと。いまからペダルは取れないので、「乗ったまま、足で蹴って進む練習をしよう」とやらせてみました。ペダルがあるのでなかなか難しいようです。それに、そのぎこちない状態では、10メートル進むのにも時間がかかる。でも、さすがに併走する体力がなくなっていたので、つんつん進む彼の後ろからぼくはとぼとぼ歩いていく。そうすると、何度かやっているうちに、すーっと足が離れて進むようになる。

「あっ、いいじゃん、それそれ。じゃあそれで片方のペダルだけ踏み込んでごらん」といってやらせてみると、またこれがぎこちないんだけど、ゆっくりと前に進む。そこでぼくは思いついて、次のように言ってみました。彼がスイミングスクールに通っていることを思い出して、言ってみたわけです。

「水泳と同じだよ。ぱっと蹴ると、水に浮くでしょ?あの感じ」

すると、息子は「あっ」と言って、その後姿からいままでの硬直した感じが消えました。で、すーっと見事に進んだ。ぼくもびっくりしたのですが、息子もびっくりしたようです。

隠喩(メタファ)の力ってすごいな、と思いました。呪文ということが言われますが、メタファこそが呪文なのかもしれない。水泳と自転車乗りはまったく違いますが、前に進もうとする身体感覚としては似ている。そのイメージを喚起することで、硬直していた「乗れない」気持ちが解放されて、できるようになる。

この経験をビジネス(経営)に変奏してみようと思うのですが、コーチングなどのマネージャーの役割もそういうものだと思います。ずっと付きっ切りで併走しなければならない状態では、自転車に乗っている人間(部下)にも甘えが出て、頼ろうとする気持ちから自走できない。手を離せばすぐに倒れてしまう。なんで手を離したのさ!という、文句すら言いかねない。一方で、併走するマネージャーも息切れします。いちいち彼のハンドルを支えて付き合ってなんかいられない。

ところが、併走することをやめて、言葉の力で自転車に乗ることができるようにする(仕事ができるようにする)ことも可能です。このとき、併走しなくていいからマネージャーも楽だし、乗っている本人には自走しているんだという自律精神が生まれる。

経営者にはメタファの力が必要なのではないでしょうか。といっても、あまりにも雲をつかむようなわかりにくい言葉であれば部下を迷走させることになりますが、適切なメタファを用いれば、イメージトレーニング的な効果を発揮できる。ああ、あの感じか、と、その感覚さえ掴めばあとは自走できる。もちろん、自走する意志がなければムダですけどね。パパが支えてくれないから失敗しちゃったじゃん!という部下は、一生自走できない。あなたは上から言われた歯車のような仕事を一生やってなさい、ということになる。

力を抜きつつ、前に力強く進むこと。決して力むのではなく、すーっと当たり前のように前進すること。そんな風に生きてみたいものですが、実際にはかなり汗を振り乱してみっともなかったりするものです。

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2006年10月12日

時間的な配列×空間的な配列。

空が高くなりました。東京の今日の空には、うっすらとうろこ雲が広がっていて、雲を透かしてみえる薄い青がきれいです。ぼくはもう少し濃い青(インディゴのような)が好きなのですが、この空も悪くないですね。

昼食後に空を眺めながら考えていたことは、いまこうして見上げている空は確かに存在しているけれど、数分後にはまったく別の空に変わるということです。空は空であって変わらないじゃないか、という考え方もあるかと思うのですが、一日一時間一秒ごとに「空は生まれ変わる」と考えると楽しい。人間もそうかもしれません。細胞は日々代謝されていくものらしいので。

ということを考えたとき、時間的な配列×空間的な配列という言葉を思い浮かべました。雲は青空に空間的に存在していると同時に、常に変化をつづけて時間的にも存在している。

この時間的・空間的という考え方は、ときとして別々に考えられがちです。時間の場合、タイムラインのようなもので考えられ、空間の場合はデザインの平面図や模型などで考えられる。しかしながら、ぼくの考えでは

時間と空間が密接に関わっているのが現実であり、別々に分離させて考えることは非現実的ではないか

ということです。空間だけ存在して永遠に変わらないものはないと思うし、逆に空間的な広がりのない純粋な時間というものもない。

と、考えたとき、Webのインターフェースはタイムラインだけ、平面的なデザインだけ、というのはどこか不十分です。Ajax的にユーザーの行動に合わせて変化するというか、動的に組み替えていくことが自然であり、望ましいのではないでしょうか。あまり複雑なものを例に挙げると混乱するので、たとえばGoogle Suggest を例に挙げると、Google Suggestでは検索語句を一文字入力すると、その語句を推測して候補を表示していきます。先日、アブダクションについても書いたのですが、最良のものを推測し選択していく。この流れが自然です。願わくば、ここにランキング的な配列ではなく空間的(立体的)な配列があるといいのですが、Vista以降にはそんなインターフェースも生まれるのではないではないかと期待しています。

ぼくは立体的な思考の獲得をめざしてブログを書いているのですが、立体的というのは「いまここ」に静的かつ永遠に存在するものではなく、変化していくアメーバのようなものです。構造を書き留めたときに、その構造は過去になってしまうもの、といったらいいでしょうか。生成し、変化しつづけるものともいえる。

たとえば写真で撮影した風景は、既に過去のものです。文章で書き留めたテキストも過去のものであり、情報は変わらないものであっても、ぼくらの意識はもう次の未来へ進んでいる。シャッターを押したとき、ペンを置いたとき、そこに表現されたものはもう過去の記録であって、現実ではない。

この時間的な配列×空間的な配列の組み合わさったものが現実という考え方に記号論的な視点を導入すると、空間的な配列=範列(paradigme)、時間的な配列=連辞(syantagme)ではないかと思いました。学生時代に学んだ用語なので、若干不安も感じますが。

抽象的になりそうなので、具体的に考えることにします。ぼくの好きな、音楽、映画、小説、そして企業戦略(これは好きなのか?)を例にあげて、変奏させていくことにしましょう。

■音楽

音楽でいうと、範列(paradigme)は和声もしくは音像の定位であって、連辞(syantagme)はメロディもしくは楽曲の流れでしょうか。同じメロディが繰り替えされるとき、ぼくらの脳のなかでは「これ、さっきも聞いたよね」という仮想的な範列が生じる。あるいは作品のなかにはなくても、「これはモータウンのリズムだ」というような作品外にある経験(文脈:コンテクスト)からパターン認識することも範列の一種でしょう。リミックスのアルバムは、脳内に存在する原曲を範列的に存在させながら、その作品内における連辞関係を破壊するようなものかもしれません。

■映画

映画でいうと、範列はある場面の映像的な配置もしくは意味の連関性で、連辞はストーリーといったところ。「ベットに爆弾をしかける」という場面があり、再度ベットのシーンが出てきたときには、範列的にイメージが重ねられる。けれども今回はベットは爆発しなかった、というように変奏(バリエーション)することで、ストーリーに広がりが生まれます。この緊張感がエンターテイメントとしては重要です。ちなみに、いまぼくの頭のなかに浮かんでいるのは、「ミュンヘン」なのですが。

■小説

小説では、範列は暗喩(メタファ)であって、連辞はストーリーでしょうか。メタファに関して述べると長くなるのでここではやめますが、例えば物語内に金木犀が出てきたとき、それは主人公の心情をイメージさせているというようなことがあります。記号表現としての文字(シニフィアン:signifiant)には、意味されるもの(シニフィエ:signifié)があり、両者の結びつきは「恣意的」なものです。どういうことかというと、もし実体としての金木犀の木が、絶対に「金木犀」であれば英語の「Osmanthus」という呼び名はあり得ない。英語でも「Kinmokusei」でなければおかしい。ある意味、金木犀はモクイセキンと呼んでもいいのですが、「かすかに香る花をつける樹木としての実体:金木犀という言葉」が結びついている。このつながりがゆるやかだからこそ、意味を重層的に重ねることができるわけです。そして重層的に重なった意味が物語内で、空間としての広がりをつくる。物語の流れはリニア(線的)ですが、意味の広がりが空間をつくります。逆に直接的な言葉は広がりを生まない。トム・ヨーク(レディオヘッド)がテレビのインタビューで言っていたように、わかりきったことは意味がない、というわけです。

■企業戦略

企業戦略においては、範列はある時点における競合関係や協働関係(コラボレーション)であって、連辞は戦略のシナリオといったところ。仮説を立てるときには、いくつものオプションを設定できますが、現実に実行したとき、あるシナリオの時系列を入れ替えることが困難になる場合もあります。しかしながら、自由度をもったシナリオを用意した方が、実行レベルでは有効かもしれないですね(場合によりますが)。意思決定においては、どのオプションを選択するかということが重要です。多くのカリスマ経営者は直感的にオプションを選んでいるようで、必ずしも選択肢が多ければ多いほどよいというわけではなさそうです。

複数の視点をクロスさせると、新しい発想も生まれるものかもしれません。まだまだ表層的なので、継続して考えていきたいと思います。まずは当然といえば当然の考察ですが、そこからはじめてみました。

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2006年10月 3日

文章のフォーカス。

息子の作文について頭を悩ませる秋の日、親子で交換日記をはじめることにしました。男同士の交換日記ってどうだ?気持ち悪くないか?と思うのですが、確かダイヤモンドか何かの雑誌にもそんなことをやるとよいという記事があった気がする。

というよりも、ぼくはすっかり忘れていたのですが、昨日の夜、剣幕にまかせて「これからは一日ひとつ作文を書きなさいっ!」と言ったらしい。らしい、というのはまことに無責任なのですが、覚えていないので(うーん、ちょっと覚えてる・・・まさかほんとうにやるとは)仕方ありません。彼は今日、「へんないきもの」という本についての感想文をきちんと書いたので、このブログを書き終えたら、その添削&お返事をしようと思っています。ついでに明日書くことのお題を出そうと思う。大変だけど面白くなってきたぞ。


4901784501へんないきもの
バジリコ 2004-07

by G-Tools

4901784773またまたへんないきもの
バジリコ 2005-12-10

by G-Tools


生き物が好きな彼は、特に変わった生き物が好きです。だから上記の本は、バイブルのようにして読んでいる。実は「へんないきもの」の著者はそれほど親しくないけれど知人だったりするのですが、彼はこの本が大好きです。タモリか何かの番組で取り上げられたときには、くいいるようにテレビをみていました。しかしながら、さすがに東京っ子だけあって、生き物を触ったりするのは苦手らしい。ほんとうは生き物に触ったり、育てることが大事だと思うのですが、なかなかアパート暮らしではそんなわけにもいきません。

さて、昨日は文章を書くときに、取り上げたこと、取り上げなかったことによって、まったく全体を覆う「空気」が変わってしまうことを書いた(というか書きたかった)のですが、そのことをさらに発展させて、文章のフォーカスということについて考えてみようと思います。

息子の作文を読んで気に入らなかったのは、「よかった」「面白かった」というステレオタイプの言葉が繰り返されていたことでした。これはいわば「フォーカスが甘い」言葉なのだと思います。物事を引いてみている。引いてみているからすべてが抽象的で、何が「よかった」のか、どこが「面白かった」のか、まったくわからない。ピントがぼけている。

けれどもここで解像度を上げるというか、ぼんやりとした像にフォーカスを絞っていくことで、くっきりと具体的に像を結ばせることができる。すると文章が生きてくるし、「個」に根付いた表現になるわけです。というわけで私見ですが、

よいことについてはフォーカスが甘くなる。だから、よいことこそ解像度を上げて、具体的な部分を表現すべきである

ということが言えるかもしれません。「あなたの全体が好きだ」というのはレンアイに盲目になったひとの言葉かもしれないのですが、好きなこととは「紅茶のカップを持つときに添えた左手」であったり、「ぎゅっと握ったこぶしに浮き出た血管」だったりするかもしれない。あまり細部にこだわりすぎるとフェチな世界に入り込んでしまいますが、その具体的な何かをつかむことが表現としては重要かもしれない。運動会の息子の演技を褒めるときにも、「おお、よかったよ」ではなくて「2番の足をあげてくるっと回転するときの切れがよかった、あれはすばらしい」という感じに褒めるべきかもしれません。

一方で、ネガティブなことはどうでしょう。誹謗中傷というのは、ほぼ揚げ足取りともいえる細部にこだわっているような気がします。そして細部にこだわることによって、見失うことが大きい。

たとえば愚痴や悪口的なことを書いたとします。けれども、それが具体的であればあるほど、たちがわるくなる。そこでぼくはこういうネガティブなことを書くときにどうすればいいか、ということを考えたのですが、

1.まず思いっきり具体的なことを書く。
2.次に普遍化・一般化する。あるいは比喩にする。もっと迂回して物語にする。
3.普遍化・一般化を経由して、ふたたびフォーカスを合わせて具体化する。

つまり、どういうことかというと、

わるいことについては、具体化すると対象と書き手との距離が近すぎる。あまりにクローズアップされた不快感は、書き手はもちろん読み手にも伝播する。わるいことを書くためには、対象化して表現の「迂回」を試みるとともに、フォーカスを甘くする(言っていることをぼやけさせる)ことが重要。ただそれだけではエッジ(輪郭)が甘くなるので、迂回しつつ表現のシャープ化をはかる

ということでしょうか。

「王様の耳はロバの耳」と言ってもいいのだけど、別に公言する必要はありません。オフラインで下書きとして書きとめておけばいいだけで、わざわざブログにアップロードする必要もない。クイズ番組でカンニングしたことを面白おかしくmixiで書いた大学生が問題になっていますが、何もひねりもレトリックも考えもなく書くから問題になるのであって、もう少し知的なお遊びがあればいいのに、と思います。

レトリックは不謹慎だ、言葉のあやで人を愚弄するのか、という真面目な方もいるかと思いますが、ぼくは言葉で遊ぶことは、途方もなく知的かつ創造的な行為だと思います。現実のぼくはといえば寡黙なほうですが、それでもお客さんとディスカッションしているうちに新しいアイディアがぽんぽん生まれてくる場に立ち会えると、ものすごくうれしい。

文章はもちろん、思考にフォーカスを当てること。その光の当て方によって、いろんな輝きがみえてくるものです。ときにはピンボケであることが大事なこともあれば、きちっとピントが合っていることが求められることがある。文章や思考は、どこか写真にも似ているのかもしれません。

+++++

ところで、運動会についてのエントリーがつづいているのですが、今日いろいろとネットをさまよっていたら、とある知人(名刺交換レベルの方)のページで「紙の郵便局」というサイトがあることを知りました。

このサイトに掲載されている「今月のペーパークラフト」は、「秋の大運動会」とのこと。さっそくPDFをダウンロードしてみました。3月までの限定サイトのようです。メールの普及によって、手紙やハガキは廃れつつあるのかもしれないのですが、ぼくはペンで書く手紙もいいものだと思っています。

■紙の郵便局
http://www.kami.yuubinkyoku.com/

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2006年10月 2日

誠実に書く、ということ。

秋たけなわ、運動会シーズンのようです。ぼくも昨日、雨のなかの運動会のことを書いたのですが、コメントをいただいたgadochanさんの日記を拝見して、ああいいなあ、こういうことを書きたかったなあ、と思いました。人間というものは刺激がつづくと刺激に対する反応が弱くなるもので、幼稚園時代を含めて10年以上も運動会に出席していると、次第に新鮮さがなくなってくる。けれども、最初にちいさな息子の運動会の演技をみたとき、思わず泣けてきた。gadochanさんの日記から引用です。

そして組体操。音楽に合わせてかけ声かけたり、踊りながらピラミッドやひこうきとか。なんというか、、感動して泣きそうでしたよ。ここまでできるのか、っていうのはもちろん、にこにこしながら楽しそうにやっているのに心わしづかみです。先生もここまでもってくるのは本当に大変だったと思うけど、子供たちもすごい!

本人たちは、ひょっとすると緊張して心臓ばくばくかもしれないんですけどね。でも笑顔なんです。いいなあ。そう、忘れてはいけないのは運動会の主役は子供たちである、ということです。

ちなみにぼくは昨日、運動会に対する批判めいたことを書いてしまったのですが、文章の怖いところは、批判を書いてしまうとそのすべてがよくなかったのではないかという偏見を作り上げてしまうことだと思います。実際にはですね、雨に降られたものの、よい運動会でした。そしてぼくは感動して、ちょっと涙が出たりもした。

どういう部分が感動的かというと2つあって、ひとつは80メートル走で、クラスのみんなに混じって車椅子の生徒が走るわけです。ぼくはこの場面で毎年のように泣けてしまうのですが、ふつうの生徒といっしょに彼は走る。当然遅れるわけです。かれども走っている彼の近くに応援団が集結してエールを送るとともに、ゴールのテープを切るまで父兄もみんなが待って応援している。こういうシーンにぼくは弱い。

障害のある生徒たちは別の競技で競わせるという選択もあると思います。ただ、そちらの方が差別のような気がしていて、男性や女性の性差もそうだと思うのですが、平等に互いの尊敬をもって対応するということは、どちらかを優遇するのではなく、同じスタートラインに立つことではないでしょうか。

もうひとつは上級生の組み体操なのですが、これも学習障害のある生徒なのか、何か理由があって練習を十分にできなかった生徒なのか、みんなと違った演技をしている生徒がぼくの前にいました。彼らの前にはふたりの先生が付きっきりで、手書きのテロップのようなものに図解した演技を示しながら、「次はこれだ!これ!」のように、自分たちでもジェスチャーを加えながら一生懸命教えていました。もちろんみんなのような高度な演技はできなくて、肩に手を置いたり、腹ばいになったり、そんな感じです。雨がざんざん降って、みんな建物の影に移動しているなか、びしょぬれになりながら生徒も先生も演技をしている。それをみていたら、じーんとした。

ところが、先日のエントリーのように批判に焦点を当てると、そんな感動は切り落とされてしまう。では、すべてを記述しようとすると膨大な文章を書かなければならないわけです。文章を書くためにはテーマを選択する必要があり、選択するということは何かを排除することでもある(くどいですね、最近このフレーズが頻出していますが)。

さてさて。今日、帰宅してみると、長男は作文の宿題で運動会のことを書いたようです。どれどれ、とまたおせっかいな父が見ようとすると、「やだよー」と隠す。それをどうにか入手した父は、読むなりキレました。

というのも、彼の演じた3つの競技順にその感想が書かれているのですが、すべてが「どきどきした」「うれしかった」「よかった」の繰り返しで書かれている。似たような言葉ではなくて、ほんとうにその3語しか書いていないわけです。そこで僕が、

「あのなー、ポケモンのダイアモンド(DSのゲーム)をやりたかったからかもしれないけど、こんないい加減な作文はパパは許せない。なんだこりゃ。マスを埋めればいいってもんじゃないだろう。適当にごまかすんじゃない。演技したのはおまえだけか。見にきてくれたひとはいなかったのか。ひとりで運動会やってたのか。いいか、演技の前に、はちまきを結んでくれたのは誰だ。他の学年の演技で面白かったのは何だ。思い出せ」

というと、彼は久し振りのぼくの剣幕に圧倒されてしゃくりあげながら、15分ぐらいフリーズしていました。運動会には、田舎から出てきたぼくの母を含め、奥さんの父母、そしておばさん、ひいおばあさん(88歳)まで来ていただいていた。さらに転校してしまった先生(息子が低学年のときの担任)もふたり、わざわざ運動会に来ていたのでした。

もちろんそれも重要なのですが、他にも重要なことはあって、「どきどきした」のであればそれはどうしてか、「うれしかった」のは何をやったときなのか、という具体性がぜんぜんなくて、ステレオタイプな言葉で逃げようとしている。そのなんとなく賑やかにして原稿用紙を埋めて逃げる書き方がぼくは許せなくて、「よかったのは?」「2番の難しいところが踊れたとき」「それはどういう動き?」「ばちを左右に振る」など細かに追求していきました。

けれどもそうやって対話しているうちに彼も落ち着いてきて、いろんなことを話せるようになった。タイトルを付けさせたときには、ぼくの予想外の発想があって、それを無条件に採用しました。そして書き上げたものを2度音読させて、よし、すばらしい!と頭を撫でてあげると、にこにこしながらやっと眠りについたようです。いじめるつもりはないのですが、ぼくの剣幕を察知して、奥さんも居間でテレビを消して正座していました。

父親なんてものは所詮、嫌われ役で、ときには厳しくした方がいい。しかしながら、自分は果たしてきちんと文章を書いているかというと自信がなくなります。文章に限らず、手抜きをしないで仕事をしているかどうか。大前研一さんは、とにかく考え抜くひとだったようなのですが、ぼくはといえば、考えているといっても日付変更線が変わるあたりの深夜、ブログを書きながら2時間ぐらい考えているぐらいでしかない。まだまだ甘いのかもしれません。

息子に厳しくした日、息子に言った言葉はそのまま父親である自分に対してはねかえってくるものであり、みんなが寝静まってからひとり反省しているパパなのでした。

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2006年10月 1日

規律(ルール)について考える。

小学校四年生になる息子の運動会に参加しました。昨年は思いっきりピーカンで日に焼けまくったのですが、今年はといえば雨に降られまくりです。それでもすべての種目を終えることができ、雨のなか、練習を重ねた息子の演技をみて、身長はあまり伸びないけど確実に成長している息子に拍手を送りました。かっこよかったぞ、と。

ところで、彼の参加する種目ではなかったのですが、参観していてとても深く考えてしまうことがあり、そのことについて書いてみようと思います。それは一年生の種目で、「おまつりたまいれ」というような競技でした。

これは何かというと、わーっと玉入れをするのですが、じゃんかじゃんかと阿波踊りのような音楽が流れたときにはカゴから離れて踊らなければならない。玉入れ+ダンスという複合的な競技です。別に踊らなくても玉入れはシンプルに玉入れでいいでしょう、と思うのですが、どうしてもダンス競技を入れなければ先生方の気持ちがおさまらないらしい。この競技に限らず、全体的に待ち時間に音楽に合わせてYMCAの振り付けをするとか、踊る競技が多いようでした。流行なんでしょうか。よくわかりません。わからないけれど、なんとなくみていても華やかな感じがすることは確かなので、これも新鮮でいいなと思っていました。

ところが今年は、この「おまつりたまいれ」で、ちょっとした事件がありました。

紅白で競うのですが赤のチームが音楽が鳴っても無視して、わーいという感じで玉を入れまくっている、という状況がおきたのです。白のチームは、きちんと規律を守ってカゴから離れて踊っている。ところが赤の一年生は、音楽の鳴っている最中にも玉を入れつづけている。どこか暴動的な印象さえありました。踊っていられるかー玉入れちゃえー勝つのだーという。当然、規律を無視したほうが玉は入る。玉入れは二度ほど行うのですが、どちらも赤組の圧勝でした。

白組の全校生徒がこれにはブーイングのようでした。そりゃそうでしょう。大人であるぼくですら、理不尽なものを感じたのですから。どうやら今年から若手の先生が担任のようでしたが、うちの息子が一年生のとき、ベテランの先生が担当していたときにはこんなことはありませんでした。音楽が鳴るとさーっと輪になって律儀に踊りはじめるちいさな子供たちをみて、思わず吹き出して笑ったものです。とはいえ今年のこの規律を無視した行動には、なんとなく首を傾げるものがありました。

このときぼくは2つの問題を感じていて、ひとつめは当日に至るまでの先生方の指導の徹底に対する疑問です。勝敗やダンスを教えることは大事ですが、この競技でいちばん教えなければならなかったのは「規律(ルールを守ること)」ではないでしょうか。

何度かブログで書いていることですが、ひとつのことに集中すると、集中していること以外のことは意識から欠落するものです。しかしながら、この「考えていないこと」を「考える」ことが重要であって、玉を入れて勝つことが目的だけれど、いま音楽が鳴っている、音楽が聴こえるよね、音楽が鳴っているから戦闘態勢を解除して戻らなきゃ、ということを意識すると同時に、きちんと行動に起こせることが重要です。という意味では、「おまつりたまいれ」はなかなか意義のある競技だと思うのですが、それが徹底されていなかったことが残念です。

ふたつめは競技のときの先生の采配です。ブーイングがあったし、参観しているぼくらもおかしいと感じていたのですが、時間通りに進行する必要もあったかと思うけれど、マイクを持った先生はこのちいさな「不正」にひとこともふれず「はい、赤の勝ち」と淡々と進めていた。

そうじゃないと思うんですよね。「音楽が鳴ったら戻る」という規律を乱したわけだから、「ちょっと赤のみなさん聞いてください。音楽がなったらどうするんでしたっけ?踊るんですよね。みんな守りましょうね。守れますか?はい、じゃあもう一度やってみましょう」ぐらいのことは言うべきだと思う。無視しているわけではないでしょうが、ぼくらからみると無視しているようにみえて、その無関心さ、対話のなさが、問題であるように感じました。これを単純に学校荒廃のきざしだ、のように大きな問題にすりかえるのはどうかと思うのですが、ちいさな一年生だからこそ、こういうところにも配慮すべきじゃないか、と。

あるいは「ドロー(引き分け)」にする配慮もありかと思います。このとき赤の生徒からは、「なんでー?」というブーイングがあると思う。この「なぜ?」が問われたときがチャンスだと思っていて、そのことについて後日、道徳の時間などを通じて話せばいい。ものすごく意義のある授業ができるような気がします(ああ、先生でないのが残念だなあ。ぼくの親父は教師だったのですが、親父に言われた通り教師になっていればよかった)。

ただ、別の観点からの考察もあって、そういう采配をすると子供よりも文句を言うのは親ではないか、ということです。ぼくもこんな風に学校の批判を書いてしまっているわけですが「ドロー(引き分け)」という判定をしたときに、何か言い出す親もきっといるに違いない。なぜかというと、ビデオを構えて林立する親たちの殺気だった光景をみるとわかるのですが、なにしろ子供の晴れの舞台なわけです。その「空気」は現場にいないとわからないかもしれないのですが、かけがえのない思い出になるはずの映像を汚された、なんてことを言い出す親もいそうです。やれやれ。

何をやっても勝てばいいだろう、結果の数字(得点)を出せばいいだろう、という結果主義もありかと思うのですが、スポーツにしても仕事にしても、ルールを守ることを前提としています。ルールを無視して下克上を企てたり稼ごうとすれば、某ベンチャー企業の社長の暴走のようなことも起こりうる。それは大人の社会だけでなく、子供の社会にも必要なことだと思います。大人が優位、子供が劣位ということはなくて、同じ社会である以上、ぼくは同等のものであると考えます。同等なものだからこそきちんと品位や規律が必要だと思うし、まずそのことを率先するのは、経営者(教師)ではないかと思うのです(そして親たちも)。

結局のところ最終結果として赤組が勝ったのですが、勝ち組だった赤の息子に帰りの道すがら「おまつりたまいれ」について聞いてみると、やはりクラスのなかでもいろいろと意見があったとのこと。「あんなことして勝っても、うれしくない」などなど。いいぞ少年。とはいえぼそっと言ったことは、「といっても一年生だからねえ、仕方ないかも」とのこと。がーん。小学校四年生のほうがぼくよりオトナだ。

雨に降られたことはどちらかというと爽快だったのですが、そんな気持ちのためにすっきりしないものが残る運動会でした。

+++++

■補足

さて、ぼくはこのブログで、趣味×仕事×家庭をクロスオーバーさせて(というとかっこよく聞こえますが、ある意味ぐちゃぐちゃにミックスして未整理のまま)、いろいろなことを横断的かつ俯瞰的に、そして立体的に考えていこうと思っています。というのは、「考える生き物」である人間は、形而上的な高みをめざすことも重要だけれど、日常の泥沼のなかを這いずって知恵を獲得することも重要であると考えたからです。この思考のベースにあるのは茂木健一郎さんの文章なのですが、整理されないものを整理されないまま掲載できるのもブログのよさではないかと思っています。

だからマーケティング理論についての考察を書いたあとで、息子やいまは亡き父についての思いを書いたりもする。それが一体何になるのか、というと正直なところ何にもならないかもしれません。ただ、何にもならないことがひとの一生であるとも考えていて、何にもならないからこそ丁寧に、誠実に、きちんと生きていたい。このブログは、丁寧に、誠実に、きちんと生きようとしたぼくの生きざまの記録なのかもしれません。といっても、なかなか丁寧に、誠実に、きちんと生きるのは難しいことなんですが。あ、ついでに、しなやかにも生きたいです。頑なではなくて。

丁寧に、誠実に、きちんと生きるためには、考えることが重要になります。そして、何かを深く考えるためにはインプットの重要性も感じています。バランスのよい食事をすることが身体を健全にするように、偏向のない知を獲得するためには、書籍も映画も音楽もマンガもインターネットも、あらゆることに自己を開いていくことが重要ではないかと考えています。殻に閉じこもって机上の理論を構築するだけではなくて、リアルな場に身体を置くことも重要です。

具体的には今年一年、本を年間100冊読み、映画を100本観ることを自分に課しているのですが、なかなか思うように進展しません。しかしながら、進展しないという結果を得たことが進歩なのかもしれない。

ときには暴言破壊的発言*1もあるかもしれません。ただ暴言破壊的発言を言おうとしている自分の状況に誠実でありたい。というと、おまえには責任がないのか、と言われそうですが、何かを選択しなければ(つまり何かを言葉化しなければ)その先には進めない、ということも感じています。その暴言破壊的発言がマイナスであればあるほど、逆にプラスに思考を跳躍させることができるかもしれない。弓で矢をぎゅっと引っ張って、的に向けて飛ばすようなものです。

10月になりました。あまりにも未整理な自分の考え方を、ちょっと整理してみました。この補足は自分のためのメモです。


*1:gadochanさんからコメントをいただき、いろいろと考えた結果、暴言はまずいだろうと思いました。誹謗中傷や愚痴、悪口のたぐいの印象があるからです。ぼくはそれらとは区別して、批評もしくは批判は必要ではないかと思うのですが、前向きに考えると、まあいっかという現状維持をぶち壊す「破壊的発言」ではないかと思いました。それは、自分の枠組みを壊す発言でもあります。10月2日追記

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