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2006年10月 3日

文章のフォーカス。

息子の作文について頭を悩ませる秋の日、親子で交換日記をはじめることにしました。男同士の交換日記ってどうだ?気持ち悪くないか?と思うのですが、確かダイヤモンドか何かの雑誌にもそんなことをやるとよいという記事があった気がする。

というよりも、ぼくはすっかり忘れていたのですが、昨日の夜、剣幕にまかせて「これからは一日ひとつ作文を書きなさいっ!」と言ったらしい。らしい、というのはまことに無責任なのですが、覚えていないので(うーん、ちょっと覚えてる・・・まさかほんとうにやるとは)仕方ありません。彼は今日、「へんないきもの」という本についての感想文をきちんと書いたので、このブログを書き終えたら、その添削&お返事をしようと思っています。ついでに明日書くことのお題を出そうと思う。大変だけど面白くなってきたぞ。


4901784501へんないきもの
バジリコ 2004-07

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4901784773またまたへんないきもの
バジリコ 2005-12-10

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生き物が好きな彼は、特に変わった生き物が好きです。だから上記の本は、バイブルのようにして読んでいる。実は「へんないきもの」の著者はそれほど親しくないけれど知人だったりするのですが、彼はこの本が大好きです。タモリか何かの番組で取り上げられたときには、くいいるようにテレビをみていました。しかしながら、さすがに東京っ子だけあって、生き物を触ったりするのは苦手らしい。ほんとうは生き物に触ったり、育てることが大事だと思うのですが、なかなかアパート暮らしではそんなわけにもいきません。

さて、昨日は文章を書くときに、取り上げたこと、取り上げなかったことによって、まったく全体を覆う「空気」が変わってしまうことを書いた(というか書きたかった)のですが、そのことをさらに発展させて、文章のフォーカスということについて考えてみようと思います。

息子の作文を読んで気に入らなかったのは、「よかった」「面白かった」というステレオタイプの言葉が繰り返されていたことでした。これはいわば「フォーカスが甘い」言葉なのだと思います。物事を引いてみている。引いてみているからすべてが抽象的で、何が「よかった」のか、どこが「面白かった」のか、まったくわからない。ピントがぼけている。

けれどもここで解像度を上げるというか、ぼんやりとした像にフォーカスを絞っていくことで、くっきりと具体的に像を結ばせることができる。すると文章が生きてくるし、「個」に根付いた表現になるわけです。というわけで私見ですが、

よいことについてはフォーカスが甘くなる。だから、よいことこそ解像度を上げて、具体的な部分を表現すべきである

ということが言えるかもしれません。「あなたの全体が好きだ」というのはレンアイに盲目になったひとの言葉かもしれないのですが、好きなこととは「紅茶のカップを持つときに添えた左手」であったり、「ぎゅっと握ったこぶしに浮き出た血管」だったりするかもしれない。あまり細部にこだわりすぎるとフェチな世界に入り込んでしまいますが、その具体的な何かをつかむことが表現としては重要かもしれない。運動会の息子の演技を褒めるときにも、「おお、よかったよ」ではなくて「2番の足をあげてくるっと回転するときの切れがよかった、あれはすばらしい」という感じに褒めるべきかもしれません。

一方で、ネガティブなことはどうでしょう。誹謗中傷というのは、ほぼ揚げ足取りともいえる細部にこだわっているような気がします。そして細部にこだわることによって、見失うことが大きい。

たとえば愚痴や悪口的なことを書いたとします。けれども、それが具体的であればあるほど、たちがわるくなる。そこでぼくはこういうネガティブなことを書くときにどうすればいいか、ということを考えたのですが、

1.まず思いっきり具体的なことを書く。
2.次に普遍化・一般化する。あるいは比喩にする。もっと迂回して物語にする。
3.普遍化・一般化を経由して、ふたたびフォーカスを合わせて具体化する。

つまり、どういうことかというと、

わるいことについては、具体化すると対象と書き手との距離が近すぎる。あまりにクローズアップされた不快感は、書き手はもちろん読み手にも伝播する。わるいことを書くためには、対象化して表現の「迂回」を試みるとともに、フォーカスを甘くする(言っていることをぼやけさせる)ことが重要。ただそれだけではエッジ(輪郭)が甘くなるので、迂回しつつ表現のシャープ化をはかる

ということでしょうか。

「王様の耳はロバの耳」と言ってもいいのだけど、別に公言する必要はありません。オフラインで下書きとして書きとめておけばいいだけで、わざわざブログにアップロードする必要もない。クイズ番組でカンニングしたことを面白おかしくmixiで書いた大学生が問題になっていますが、何もひねりもレトリックも考えもなく書くから問題になるのであって、もう少し知的なお遊びがあればいいのに、と思います。

レトリックは不謹慎だ、言葉のあやで人を愚弄するのか、という真面目な方もいるかと思いますが、ぼくは言葉で遊ぶことは、途方もなく知的かつ創造的な行為だと思います。現実のぼくはといえば寡黙なほうですが、それでもお客さんとディスカッションしているうちに新しいアイディアがぽんぽん生まれてくる場に立ち会えると、ものすごくうれしい。

文章はもちろん、思考にフォーカスを当てること。その光の当て方によって、いろんな輝きがみえてくるものです。ときにはピンボケであることが大事なこともあれば、きちっとピントが合っていることが求められることがある。文章や思考は、どこか写真にも似ているのかもしれません。

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ところで、運動会についてのエントリーがつづいているのですが、今日いろいろとネットをさまよっていたら、とある知人(名刺交換レベルの方)のページで「紙の郵便局」というサイトがあることを知りました。

このサイトに掲載されている「今月のペーパークラフト」は、「秋の大運動会」とのこと。さっそくPDFをダウンロードしてみました。3月までの限定サイトのようです。メールの普及によって、手紙やハガキは廃れつつあるのかもしれないのですが、ぼくはペンで書く手紙もいいものだと思っています。

■紙の郵便局
http://www.kami.yuubinkyoku.com/

投稿者 birdwing : 2006年10月 3日 00:00

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