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2008年4月28日

「50代からの選択」大前研一

▼Book:ポジティブな諦めの境地から。

408746266850代からの選択―ビジネスマンは人生の後半にどう備えるべきか (集英社文庫 お 66-1) (集英社文庫 お 66-1)
大前 研一
集英社 2008-02-20

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「企業参謀」という著作で挫折した経験のあるぼくは、大前研一というひとは難しいことを言うとっつきにくいおっさんだ、という先入観がありました。また、講演などでは経営者やビジネスマン(やはりおっさん)たちに人気があるらしいが、どうせコンサルタントらしいもっともなことを言っているんだろうな、という表面的な認識しかなかった(思いっきり失礼ですね。すみません)。しかしながら、最近、いろいろと大前さんの著作を読んで認識が変わりつつあります。

大前研一さんの考え方に惹かれます。というか深みのある人間性が素敵だ。ぼくがおっさんになったからかもしれません。けれども、「50代からの選択」にも書かれているように大前さんご自身もかなり変わったのではないでしょうか(といってもこの本は2004年に発行されたものなので、いまではさらに変わられているかもしれませんが)。

「50代からの選択」で述べられている大前さんの見解は、過激だと思いました。過激だけれど、ものすごく惹かれる。ひとつひとつに説得力がある。

たとえば、40代で会社で頭角をあらわしていないのなら、この先、会社で浮かぶことはないよ、ということをストレートに指摘されていたり、50代では成仏することを勧めていたりします。日本の歴史は、リセットやオールクリアの歴史だったとして、過去を引き摺るよりは大切に抱え込んでいるものを全部捨てちゃえ、最初からやり直せ、などということも書かれている。実はうじうじと終わったことを後悔しがちなぼくには、頬をひっぱたかれたような刺激があります。目が覚める。

年金問題に関する視点も新鮮です。お金を貯め込んでいるのは65歳以上であり、シニアにお金を使わせろ、割をくっているのは若い世代たちだ、と主張されている。そして、そんな世代間格差を変革しようとして選挙に出馬したのに票を入れなかった40代の世代のことなんて俺は知らないね、悔しかったら老人世代に反逆を起こしてみろ、でも俺だけは襲わないでね、なんてことが書かれている(笑)。びみょうな問題を孕んでいると思うので、ここまでシンプルには考えられないとは思うのですが、それでもとてもわかりやすい。

年老りは敬い大切にしましょう、というのが通常の考え方ですよね。電車でも席は譲ってあげたい。その倫理観と混同して社会についても考えがちなのだけれど、大前さんはすっぱりと切り離して、お金を持っているのはシニアなんだぜ、暇だから投票にも熱心だ、社会の主導権を握っている、でも困るのは選挙にも行かずに社会の問題から逃げたり後回しにしているおまえら若い世代なんだぜ、と指摘しているわけです。ううむ。反論できない。

革命の起こせない「少年ジャンプ世代」という批判も痛かった。ちいさなしあわせを大切にして、大きな問題から目を背ける。スケールの小さい勝利に目を向ける、という。ああ、ぐさっとくる。コンビ二で買ったサントリーの缶コーヒーに付いてきたポルシェのミニカーに、ささやかなしあわせを感じている自分がちいさいことであるなあ(苦笑)。

世代に対する鋭い考察があるかと思うと、ご自身の嫁と舅の問題のようなプライベートのようなことまで書かれています。要するに、これもまた問題解決(ソリューション)として、コンサルタントの視点から解決されているのだけれど、とても参考になりました。

また、選挙の大敗に関しても、丸の内でしか通用しないビジネスの言葉で選挙に臨んだ自分の驕りのようなものを素直に反省されている。失敗を認める姿勢が、すがすがしい。プライドや体裁にこだわらずに吹っ切れていて、気持ちいい。辛辣だけれど言葉のひとつひとつが瑞々しい。こんな風にブログで新鮮な見解を述べられるといいですね。

しかしながら基本的に、ぼくは大前研一になれません。ぜったいに無理。やはり住んでいる世界が違う。世界を相手にして活躍されてきた大前さんとぼくは、あらゆる面で格が違いすぎます。

それでも、ここに書かれていることを起点として自分なりに行動もしくは思考を展開してみたいと思いました。過剰な夢を抱くのではなくて、諦めてみることが大切かもしれません。しかしそれは妥協としての諦めではなくて、あくまでもポジティブな諦めです。大前研一さんにはなれないけれど、では大前さん的な思考をぼく個人のスケールで展開してみたらどうなるか。まったく同じことをやったら工夫も何もありませんが、枠組みだけお借りして、あとは自分で考える。

ひとつ考えているのは、センセイになりたい、ということです。

といっても、学校の教師でなく(だいたいぼくは教職免許を持っていない)、またサムライ業(弁護士など「士」がつくひとびと)の資格を取得して、自律して仕事をはじめることでもありません。つまり、

若い世代に何かを教えられるひとになりたい

ということです。職業や資格にカテゴライズされないセンセイになりたい。

うーむ、しかし考えてみると、いま教えられることはあまりないなあ(涙)。でもいいのだ、なければ学べばいい。誰かに何かを教えられるぐらいに究める、という目標を前提として50歳を目指して学習していけばいい。困ったことに50歳のぼくが想像できないのだけれど(苦笑)、枯れて、それでもやさしい目をしたセンセイでありたい。なれるかなあ。いや、なろうと思えばなれるだろう。

教えることは趣味のDTMでもいいかもしれないし、映画や本や音楽のことだって、究めれば教えられるようになれるかもしれないですね。あるいはちょっと長く生きているので、人生でもいい。就職では苦労したし、仕事では随分悩んできたので、そのなかで考えてきたことでもいい。何か次の世代のためになることを総括して、体系化して、伝えたい。

可能であれば、お金は要らないから地方のコミュニティでセミナーのようなこともできるといいですね。いちばん手っ取り早いのはブログで語ることかもしれません。観客は3人でもかまわない。ぼくが教えられるのはきっとその程度のキャパだろうと思うから。

大前研一さんの本を読み、自分にできること、できないことを腑分けしつつ、ポジティブな諦めの境地から少しずついろんなことを考えつつあります。諦めると肩から力が抜ける。言いたいことも言えるようになる。ポジティブな諦めの境地は、結構大切です。

投稿者 birdwing 日時: 23:05 | | トラックバック

2008年4月27日

ブログのスタイル。

個人的には勝手に何度か自分のブログを閉じた経験があるのですが、お気に入りのブログが閉じられる立場にたってみると、さびしいものだな・・・と思いました(涙)。なんだか切ない。いきなりのっけから感傷に浸っておりますが、そういう気分なのだ。公言しなくてもいいだろう、というもうひとりの自分の囁きが聞こえるのだけれど、であれば公言したっていいだろう。感傷的なのだよ、いま、わたくしは。そのブログに何度元気をもらったことか。だから辛い。

現在、ほとんど限られたブログしかぼくは読んでいません。しかし限られたブログを深く何度も繰り返し読むことによって、たくさんのブログを読むよりも考えさせられることが多いと思いました。

というのは、人間のなかに宇宙がある、細胞のひとつが完璧な世界を構成している、のような考え方かもしれないですね。勢いで書いてしまったのですが、科学的な裏づけは一切ありません(苦笑)。言いたかったのは、さまざまな人間の多様な言葉に耳を傾けることも必要かもしれませんが、ひとりの人間のなかにある自分とは異なった思考の本質を理解しようと努めることも大切である、ということです。多読乱読だけが読書ではなく、一冊を丁寧に読むことも読書のスタイルであるのと同様に。

ブログという言葉は数年前には、なんだそりゃ?な感じだったのですが、いまほとんど当たり前のように使われるようになりました。とはいえ、パワフルに書いているひとはまだまだ少数ではないかと思っています。基本的には、ぼくはブログを書ける人間が凄いとは思わないし、書かない人間がダメだとも思わない。書きたいひとは書けばいいし、書かないひとは書かなくてもかまいません。

ブロガーというカタチには固執せずに、ただ書きたいからブログを書いているひとの書く文章の瑞々しさ、考えのストレートな感覚に打ちのめされるばかりです。一方で、わたしはブロガーですと宣言しているひとの文章は、その割にたいしたことがなかったりしますよね。あ、ぼくもそうか(苦笑)。

書き手の立場から経験を語ると、ブログを書くことによって享受することはとても多いと思います。それは、よいことばかりではなくて悪いことだってあるのだけれど、ときには深い(まるで小説のような)人生をもたらす可能性がある。

一方で、メタ的な思考、つまり「考えることについて考える」とか、「書くことについて書く」ようなことに対して、そんなことを熟考しているのであれば、きちんと考えろ、まず書け、のように醒めてとらえていたこともあるのですが、あらためて考えると、そうしたメタ的な思考は非常に豊かなものをぼくらに与えてくれるような気がしました。ぼくの好きな言葉で語ると、メタ思考こそが上空から俯瞰する思考であって、その考え方をとことん追求できるのもブログだからこそできる文化のような気がしています。

そこでメタ思考のひとつとして、個人的にぼくがどのようにブログを書いていたいか、またどんなブログを読んでみたいか、というスタイルを3つにまとめてみることにしました。

①一般論より個人のあれこれ

感情は情報である、ということも書いたことがあるのですが、一般論をあたかも自分の理論のように引用しておしまい、というブログはつまらない。そこに、憤りであるとか感動であるとか、そのひと個人の感情の動きがあるような、そんなブログを読みたいと思います。というのは、一般論や事実であれば、マスメディアを通じていくらでも入手できますよね。騒がれている動向に対しての個人的な見解を知りたい。

と、同時にですね、考えじゃなくてもかまわない。いま喫茶店でカフェラテを飲んでしあわせ、とか、寝不足で電車のなかで爆睡、とか、ほんとうに瑣末な日常の断片でかまわないと思います。Twitterのミニブログにはまるのはそんな日常の断片性であって、これはわからないひとには、まったく理解できないことかもしれません。

②完成度より生成感、というか勢い

印刷文化であれば、一度刷ってしまったものは取り返しがつかないし(正誤表のようなものを付けたり、シールで上から修正したり大変でした)、完全なものを提供する必要があったかと思います。しかしながら、ブログは何度でも書き直せる。ただ、考えておきたいのは、この修正可能なことが問題にもなり得るということです。書いちゃえーという勢いでアップして、それが波紋を呼んで青くなって消してしまっても、キャッシュに残ったりトラックバックなどで残ったりするわけで、完全に過去を抹消することはできない。

ただ、その勢い、完成度よりも生成する感じがブログのよさではないか。無知であってもいいと思います。書き続けることによって、知らなかったことを知ることもできます。コメントしていただいた方から学ぶこともできる。リアルタイムに限りなく近い勢いが、ブログの醍醐味という気もしました。

③身の程にあったサイズと匿名性

一般的にアクセスは多ければ多いほどよいとされるのですが、どうでしょうか。ぼくは身の程に余るアクセスは不要だと思うし、そういう意味での逆SEO(適正化)が必要ではないかと考えます。実は簡単なことで検索されたくなければ、PINGを飛ばさないこと、検索エンジンのロボットを回避するファイルをディレクトリに追加すればいい。いろいろなことがあり、そんな知識もつけたのですが、不特定多数を読者とするブログは、なかなか苦労も多いものです。そして、実は不特定多数の知らないひとよりも、面識のある知人のコメントがいちばん危険性が高いことがあったりする。もちろん知人だからこそのあったかい言葉をかけていただけることもシアワセなのですが。

韓国などでは実名によるブログがほとんどということも聞いたことがありますが、日本では匿名性のほうが高い。ただ、これは悪い面だけではなく、匿名だからこそ新しい自分の一面をプロデュースできるというメリットもあります。なので、自分のブランディングといってしまうと大袈裟だけれど、ハンドルのネーミングから何を書くかということまで設計して、意図的に違った自分を演出することだってできそうです。それがあまりリアルとかけ離れていると苦しくなりますが、自分の引き出しを増やすというか、魅力を増やす意味ではよいのでは。また、実はオトコだと思っていた書き手の方が、非常に美しい女性の方だったりすると、そのギャップが魅力的だったりもします。

ブログのスタイルについて考えてみましたが、これは状況や環境が変わるにしたがって、変化していくものだと思います。ときどき考えてみたいテーマですね。

+++++

ついでに備忘録。昨日はこの映画を観ました。

B000F6YR4Yマイ・プライベート・アイダホ デジタルリマスター版2枚組【初回限定生産 メモリアル・フォト集付】
キアヌ・リーヴス リヴァー・フェニックス ジェームス・ルッソ
角川ヘラルド映画 2006-05-26

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ガス・ヴァン・サント監督の映画では、「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」「小説家を見つけたら」 がお気に入りなのですが、この映画は男娼であるリヴァー・フェニックスとキアヌ・リーヴスが主人公。石田衣良さんの「逝年―call boy2」なども読んでいるところであり、なんとなく。いや、ぼくにそういう趣味はございませんが(苦笑)。

それから、ツンドク本もこなしていないのですが、これを購入。

4620318698見えるアイデア ヴィジュアル・コミュニケーション・トレーニング塾
秋草 孝
毎日新聞社 2008-03-14

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発想を鍛えようと思っています。デザイン系の(しかも純粋にデザインではなく発想やビジネス関連の)本を読んでみたい。

投稿者 birdwing 日時: 13:23 | | トラックバック

2008年4月26日

闘争論。

人間が精神面や身体能力で飛躍的に伸びるとき、成長するときについて考えてみました。

幼児の場合、そもそも成長率が高い状態にあります。別格だと思う。ぼくもふたりの息子の成長をみていて、痛切に感じたことですが、生まれたばかりの赤ちゃんが喋ることを覚え、立ち上がり、やがて友達と走り出すスピードはものすごい。ほんとうにびっくりします。昨日できなかったことが今日はできている。まったく別の子供になっているような印象さえ受けます。その成長の速度を目の当たりにすると、のほほーんと昨日と同じ生活を送っている大人である自分の成長のなさに焦ったものです。

また、10代や20代の若い時期も同様でしょう。この時期の特長は遠くを見過ぎていることでしょうか。それがまあ若さなのだけれど、意図的もしくは潜在的に背伸びをしている状態にあります。だから理想と現実のギャップに悩んだり凹みがちなのですが、背伸びをすることが成長の原動力になっていることも多い。

本人たちにとっては停滞感があったとしても、もっと上の大人たちからみると、彼等の成長はめざましい。届かない理想であっても、手を伸ばしている姿が美しいですね。あとちょっとでリーチできるような状態だってある。誠実に手を伸ばそうとしている姿がまばゆい。素直だしね。

そんな時期をとっくに通り越していま思うのは、おじさんたちはもはや成長が止まっている、ということです(苦笑)。成長を考えるときに、まず身体の動きが硬い、鈍い、動けない。あとは、衰退していくばかり、のようにみえます。新しい何かを開拓するよりも、いままで確保した何かを使い減らしていくことに意識が向いてしまう。

しかしですね、それでいいのか。持続的な成長なくして企業の発展もあり得ないように、個人の成長なくして、社会の成長もあり得ない。勝手に成長していく子供たちや若者たちはともかく、おじさんたちも日々新たに成長すべきじゃないか、とあらためて背筋を伸ばしました。成長なんか知るか、俺が楽しければいいんだという考え方もありかもしれません。ただし、ぼくも含めて、そんな大人になれない大人たちの考え方が、社会を行き詰らせている気がしています。

一般的な「べき」論で語ってしまうとどうかと思うので、自ら主体的に宣言すると、ぼくは成長したいですね。まだまだ変われると思う。というか変わりたいし、自分を変えてくれる誰かと出会いたい。憂さばらしに酒を飲んでくだを巻いて、てきとーに仕事やって趣味を楽しむ、そんな人生もありですが、そうやって生きているとなんとなく毎日が弛緩する。

現役でありたいものです。みかけは現役のようにみえて実質的にリタイアして余生のような感じで居残っている人間もいるけれど、さまざまなことに対して現役のスタンスを守りたい。ブログであれば、もちろん他者のブログを読むひとであると同時に、書けるひとでいたい。趣味のDTMであれば、過去に作った曲を引用するのではなく、新しい作品をひとつでも発表したい。

ひょっとしたらぼくはまだ精神的におじさんになりきれていない、というか青い?と思ったりしたのだけれど、成長したいんだよう(泣)。ほんとうに自分を変えたいのです、いま。

しかしながら身体的にも精神的にも、老いていく自分を感じずにはいられないわけで、ものすごい危機感がある。先日ひとつまた年を取って崖っぷちに追い込まれた気がする昨今、なんとかしなければ状態がつづいています。

というわけで、はてな批判、茂木健一郎さん批判と、今週は立てつづき過激なエントリーを書いてみたのですが、はてなにも茂木健一郎さんにも悪いのだけれど、背筋が伸びました。

つまり批判するということは、逆にいえば自分も批判される立場に晒されるわけで、緊張感がともなう。ぼくは勢いで感覚的に書いてしまったのだけれど、本来であるならば批評や批判には、緻密な情報収集や学習、分析が必要になります。裏付けのない憤りだけを感情のおもむくままにぶちまけて、批評・批判するのは幼稚すぎる。ちょっと真面目にビジネスモデルや知的なあれこれを勉強し直そうと思いました。

そして思うのだけれど、オトコは・・・ってちょっと気合が入りすぎて恥ずかしいけど・・・自分よりも格の上のものに喧嘩をうるべきではないか。強いやつにあえて歯を剥く。もちろん相手のほうが強いから、ぼこぼこにやられてしまうわけですが、その反逆精神が成長のエネルギーになる。

よくブログなどを読んでいて、くだらねーなと思うのは、同じレベルもしくは自分よりも下の弱者にコメントなどで批判して溜飲を下げていたり、あるいは不毛なやりとり自体をエンドレスで愉しむ暗さがあることです。ブロガーどうしの論争もありだとは思うけれど、感情論的に炎上させる方向性は不毛でしかなくて、むしろそんなことをやっているのであれば、社会だとか、政治だとか、あるいは世界という相手にならないくらいでかい何かと格闘したほうがいい。

社会や政治や世界を相手にしたら勝ち目はありません。しかし、勝ち目のない闘争に熱くなることが、必要なのではないかと思いました。

いまあらためて考えるのは、もうちょっと硬派でもいいな、と。しっぽを丸めてしあわせな小屋で眠る犬よりも、荒野を放浪するぎらぎらと目つきの悪いオオカミでありたい。でもやっぱり身のほどというものはあるもので、ぼくの場合には、しっぽを振って、わん!と叫ぶ犬になってしまうのかもしれないけれど(苦笑)。というか、ブログのハンドルは鳥なんですけどね。どうでもいいか。

少し視点を変えるのですが、なんだかやりきれない社会になっているような気がします。人身事故による電車の遅れが毎日のようにあったり、動機が曖昧なままの殺人事件が多発したり、社会全体をなんとなく行き詰った何かが覆っている。不穏な空気がある。

やや軽めのところで気になることを述べると、現在、企業においては内部統制が流行りだけれど、あれはビジネスを失速させるための余計な潮流にしか思えないのですが、どうでしょう。もちろんやらなければならない理由はたくさんあるかと思います。大義だってある。しかし、かつての何倍もの書類を発生させることが、果たしてビジネスをよりよくするためになることなのかどうなのか。

書類作りにやっきになると、本業の仕事をする時間がどんどん損なわれていくような気がしてなりません。疲弊するばかりで生産性は上がっていない。むしろ競争力が衰えていくのを感じる。書類作りのために去勢されて、くたびれはててしまう。そもそも管理を強化することで、飛躍的にビジネスの成長がもたらされることはないんじゃないだろうか。管理は、コスト削減や効率化のためとしては必要だけれど、管理自体が本業と離れたところでメタボリックに体質を圧迫する企業は、書類の重さで沈んでいくような気がします。本末転倒という感じ。

喩えるならば、「未来世紀ブラジル」という映画のなかで風刺された世界でしょうか。YouTubeからトレイラーを引用します。

コーネリアス(小山田圭吾さん)がこの映画のタイトルである楽曲をカバーされていましたね。

闘い方にもいろいろあると思うのですが(風刺も闘い方のひとつではある)、キバを失わないようにしたいと思います。いちおう、いくつになっても、青臭い理想を熱く語りたがる野心に溢れたオトコのコでいたい。

逃走ではなく闘争する姿勢で、飼いならされた犬ではなく、傭兵のようなオオカミ的な志をもって生きてみたいものです。というわけで、とりあえず吠えてみました。わん・・・(やっぱり犬か。苦笑)。

投稿者 birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック

2008年4月20日

科学的な思考と主観。

夕方に散歩しようとして外に出ると大粒の雨が降ってきたのですが、天気は変わらず晴れ。しばらくすると青空が広がりました。なんだったのでしょうか、あの天気。キツネの嫁入りというやつでしょうか。ちょうど趣味のDTMで雨に関する曲を作っていたところでもあり、なんとなく符号のようなものを感じたりもしました。単なる偶然ですけどね。

ちなみに趣味のDTMでは、かつて雨が嫌いであることをストレートに表現する曲を作りました(メインページのJuke Boxで聴くことができる「AME-FURU」という曲です)。けれども雨を煩わしく思う気持ちを突き抜けて、それでも冷たい雨を愛する曲を作りたいと思っています。Vocalを入れたいところですが、たぶんインストになる予定。潰したプロトタイプも多く、ぼくとしては久し振りにじっくりと取り組んでいます。仮タイトルは「LOVE RAIN」です。さて・・・どうなるのか。

スローなんとかじゃないですが、いろんなことに焦らずに取り組もうと思っています。昨日ひとつ歳を取っちゃったわけで(苦笑)、まだまだ迷いの多い年齢ではあるのですが、ゆっくり変わらない気持ちでさまざまなものに対して向かいたい。焦って結論を急ぐのではなく、地道に積み重ねていきたい。

と、そんな今のBGMはTom McRaeだったりします。孤高のシンガーソングライターの歌が染みる。

キング・オブ・カーズ
トム・マクレー
キング・オブ・カーズ
曲名リスト
1. Set the Story Straight
2. Bright Lights
3. Got a Suitcase, Got Regrets
4. Keep Your Picture Clear
5. Houdini and the Girl
6. Sound of the City
7. On and On
8. Deliver Me
9. One Mississippi
10. Ballad of Amelia Earhart
11. Lord, How Long?

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さて、複数の本を平行して読み進める傾向があるのですが、先日ふらりと書店に立ち寄って購入してしまったのは、大前研一さんの文庫です。ええと・・・まあ、50歳にはまだ遠いですけどね。でも、案外すぐなのだろうか。はぁ(ちょっと凹んだ)。ともかくぼくは先に先に読む傾向があり、20代の頃には35歳にどうするか、のような本を読んでいました。ちょっと読書傾向がおかしいのかも。

408746266850代からの選択―ビジネスマンは人生の後半にどう備えるべきか (集英社文庫 お 66-1) (集英社文庫 お 66-1)
大前 研一
集英社 2008-02-20

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一方で、スローテンポで読み進めている本に茂木健一郎さんの「思考の補助線」があります。ゆっくりと読みたい。そして考えたことを何度か分けて、書いてみたいと思います。

448006415X思考の補助線 (ちくま新書 707)
茂木 健一郎
筑摩書房 2008-02

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この本の前半では、茂木健一郎さんはご自身の大学時代の経歴などを振り返りながら、知の遍歴を確認されています。ところで、なぜ、ここで茂木さんは自分を語らなければならなかったか。

科学者は観察的な視点が重要であり、主観を排除しますよね。たとえば「情熱のせいか、ぼくの感情の粒子の運動が活発化して、なんとなく身体が変化してわずかに熱を帯びた」のような表現は科学的ではない。まず要因として感情やこころのような曖昧なものは、科学の対象にはならない。化学反応のようなものであれば別です。また、「なんとなく変化した」は許されない。数値的に計測できるものでなければ、科学として成立しないのではないでしょうか。

理系(という分類自体がどうかと思うけれど)の科学者だけではなく、たとえば新聞のようなマスメディアの報道記事の原稿作成についても言えることかもしれません。つまり報道の記事では、「私はこう思う」であるとか、「酷い」「悲しい」のような感情は排除して事実を事実として伝えることが望まれます。そうではないと、メディアを通じて情報を受け取った人間に混乱が生じます。とにかく、場所や数値を明確に伝えることがニュース性のあるメディアでは求められます。

けれども、この科学的な思考に主観を持ち込もうとしたのが茂木さんの試みだった、と認識しています。わたしのなかに存在する紛れもないクオリア、みずみずしい質感という感覚を提示したことにはじまり、茂木さんの語ることはどこか主観的です。そして「思考の補助線」で何度か繰り返される情熱(Passion)という言葉も、怒りのような言葉も、個人の感情を軸としている。だからこの本の茂木さんは、脳科学者ではないと思いますね。あくまでも主観的に考えを綴るエッセイストやコラムニストに近い。池谷裕二さんは印象として科学者であるのに対して、茂木健一郎さんはどこか文化人(芸能人、とはいいませんが)の印象が強い。そう演出されているのかもしれませんが。

ところで、主観がどのように形成されるかということを考えると、経験というパターン認識の連続が重要になります。こっぴどい失恋をした。ひとりになった。そして新しい恋をして今度はその過ちを繰り返さないようにした。うまくいった・・・こうした一連の経験があると、そのひと独自の恋愛感‐主観が生まれます。つまり自分がなぜこう考えるか、ということを詳細に説明しようとすると、過去のながーい文脈を引きずり出してくる必要があります。説明が長くなるひとの多くは、そうやって文脈をずるずる引き摺り出す傾向にあります。でも、その膨大なデータを読まなければ理解や共感ができないことも多い。ほんとうに誰かを理解したり共感することは、脊髄反射的にできるものばかりではなく、ものすごい時間がかかることがきっと多い。

ぼくは感情は情報のひとつであると考えるし、その謎を科学的に解明してほしい、五感に訴えるような新しいインターネットが生まれてほしいとは思うのだけれど、茂木さんのアプローチはどこかブンガク的な傾向に向かいすぎていて、科学者としての茂木さんには正直なところ期待できないかな、という気がしました。なんかものすごく失礼なことを書かせていただいていますね。すみません(苦笑)。

「自然科学vs.ニューアカ(P.30)」という部分では、浅田彰さんの「構造と力」「逃走論」などのポスト構造主義のブームを批判されているわけですが、やはり象牙の塔のなかで展開している話のように思えます。実は、ぼくも「構造と力」「逃走論」にかぶれた口であり(恥ずかしながらハードカバーで「構造と力」を持っていたりする)、その知の戯れを楽しんだひとりでもあります。

それがぼくはいけなかったとは思わないのですが、若気の至りとはいっても、ポスト構造主義にかぶれたことを恥ずかしがる自分がなんとなくかっこ悪い。

何がかっこ悪いかというと、自己否定しているところでしょうか。過去にはいろんな恥ずかしいことがあるんだけれども、それも自分ではないですか。有名なアインシュタインの愛嬌のある写真であればともかく、科学者であるのに「なーんちゃって」と舌を出して自分の研究に自分でちゃちゃを入れたり、思考の砦を築いてレベルの低い知にブーイングをかますことに快楽を見出すような姿勢は、かっこ悪いと思う。

多様性というのは個々ばかりではなくて、自分にも内在しているものです。

粉砕したいような過去や現在があるからこそ、よりよく(正しくではない)生きていこうと思う気持ちが生まれる。あれこれ哲学的な思考も生まれることもあります。たとえそれがアカデミックな思索ではないから世のなかに何も役に立たないかというと、そんなことはなくて、科学がひとの生命を救うように言葉がひとを生かしてくれることもあるはずです。

科学者ではない茂木健一郎さんに期待するのは、そんな感性のエバンジェリスト、人生のコンシェルジェのようなひとなのですが、期待しすぎでしょうか。というか、ぼくがそんなひとになりたいものであるなあ。

+++++

えーと、今日はこの映画を観ました。

B00005V2LMエレクトリック・ドラゴン 80000V スペシャル・エディション
浅野忠信 永瀬正敏 石井聰亙
パイオニアLDC 2002-02-22

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どわはははは!これ笑った。すごい、面白い。最高だ!YouTubeからトレイラーを。本編観なくても、このトレイラーで十分という感じです。

■Electric Dragon 80,000V


全編モノクロで、俳優さんは、ほとんど浅野忠信さんと永瀬正敏さんのふたりといっていい。物語といえば、幼少の頃にカミナリでショックを受けて脳に障害を受けた竜眼寺盛尊(浅野忠信さん)が主人公。彼はエレキギターに出会い、ギターを弾きつつ逃げた爬虫類を探して生活しているわけですが、宿命のライバル雷電仏蔵(永瀬正敏さん)と戦うことになります。

「電気と感応し爬虫類と心を通わせる男、竜眼寺盛尊(りゅうがんじもりぞん)」「電気を修理し怪電波をキャッチする、雷電仏蔵(らいでんぶつぞう)」というキャラクターも面白いのですが、ノイズとロックと暴力的な映像、すっとぼけた台詞がたまりません。エンディングもよかった。

ああ、難しいことを考えようと思ったら、爆笑して終わってしまった(涙)。まあいいか。

投稿者 birdwing 日時: 23:57 | | トラックバック

2008年4月19日

日付変更線を超えて。

午前零時が終わりかはじまりか、という話をどこかで読んだ記憶があります。

柴崎友香さんの小説「きょうのできごと」のなかだったでしょうか。文芸誌で読んだような読んでいないような。記憶が曖昧です。小説ではなく行定勲監督の映画を観て、ぼくはそこで午前零時について話をするシーンを観たように記憶しています。山場のない淡々とした映画でしたが、なんとなく切ないような懐かしいような気持ちになりました。

B0002ESL32きょうのできごと スペシャル・エディション
田中麗奈 妻夫木聡 伊藤歩
レントラックジャパン 2004-08-25

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あるいは、佐野元春さん(古っ)の「グッドバイからはじめよう」の歌詞が似た印象かもしれないですね。終わりは はじまり・・・という。ストリングスのアレンジがされている曲で、若いぼくはよく聴いたものでした。

No Damage
佐野元春
No Damage
曲名リスト
1. スターダスト・キッズ
2. ガラスのジェネレーション
3. サムデイ
4. モリスンは朝,空港で
5. イッツ・オールライト
6. ハッピー・マン
7. グッドバイからはじめよう 〈ガールズ・ライフ・サイド〉~14のありふれたチャイム達
8. アンジェリーナ
9. ソー・ヤング
10. シュガータイム
11. 彼女はデリケート
12. こんな素敵な日には(オン・ザ・スペシャル・デイ)
13. 情けない週末
14. バイ・バイ・ハンディ・ラヴ

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終わりとはじまりが同居するような午前零時が好きです。

昨日でもあり今日でもある、あるいは、昨日でもなければ今日でもない時間。最初にブログを書き始めた頃、ぼくはこの日付変更線を超える2時間ばかりをブログの時間としていました。自分の部屋でPCに向かい、1日を振り返りつつ、思ったことを思ったままに書き綴っていく。日記を書こうとは思っていなかったのだけれど、PCの画面を眺めていると自然に書きたいことが生まれる。言葉たちはときには不穏なやからもありましたが、すばらしい言葉やひらめきが生まれたときはしあわせでした。

昨日(というか今日)の午前零時は、ぼくにとっては特別な午前零時だったわけですが、日付け変更線をまたいで趣味のDTMで曲をつくりながら、とてもしあわせな気持ちになりました。その気持ちは深夜まで続いていて、なんとなくあったかい飲みものをいただいたような、陽だまりのなかでぬくぬくとまどろんでいるような、そんなしあわせな状態が持続していた。目が覚めてもまだ続いていて、土曜日の1日をそんな気持ちに包まれて過ごしました。

大きな夢を持てとか、大志を抱けとか。グローバルな社会において世界へ向かう気持ちは大事なのかもしれないのだけれど、過剰なしあわせを追い求めるばかりに至近距離にあるしあわせを見失うこともあります。ここでいう距離とは物理的な距離ばかりではなくて、精神的な、というかこころの距離も含めたいと思います。ささいなしあわせでもかまわないから火を消さずにいれば、なんとかやっていけるのかもしれない。

午前零時が、今日の終わりとも明日のはじまりとも解釈できるように、世界は悲観的にも楽観的にもとらえることができるようなものかもしれません。つまり情報の発信者だけでなく、受信者に判断が委ねられていることも多い。ぼくらの解釈によって、午前零時/1日の終わり/悲観的、にとらえることもできれば、午前零時/一日のはじまり/楽観的、にとらえることもできる。

と、ここ数日、非常に混沌とした文章を書き連ねているわけですが(苦笑)、別に無理に突き抜けたりせずに、しばらくは午前零時的な中立で、いろいろと考えていこうと思います。

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最近、きちんと音楽や本などの感想を書いていないのだけれど、次々に忘れてしまって書くのが追いつかないので、備忘録的に。今日はこの映画を借りてきて観ました。1作目をかなり前に観た記憶があり、なんとなく面白かった気がしたのでチョイス。

バタフライ・エフェクト2 デラックス版
ダスティン・ミリガン ジーナ・ホールデン エリカ・デュランス
バタフライ・エフェクト2 デラックス版
曲名リスト
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うーん、1作目の内容がすっかり忘却の彼方なのだけれど、構成的にわかりやすいのがどうでしょうか。2作目は難しいですね。いまいちな気もしました。

ちなみにバタフライエフェクトとは、カオス理論を端的に表した言葉とのこと。ブラジルでの蝶の羽ばたきがテキサスでトルネードを引き起こす、などのような「初期条件のわずかな差が時間とともに拡大して、結果に大きな違いをもたらす」ということらしいです(Wikipediaから)。風が吹くと桶屋が儲かる、みたいなものでしょうか。

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えーと。早い話、ひとつ歳を取ってしまいました。やれやれ。

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ちいさなケーキに火を灯して、息子たちに誕生日の歌を歌ってもらいました。しかし、名前を呼ぶときに「はっぴばーすでい、でぃあ、○○○(ぼくの名前)」というのはいかがなものか(苦笑)。おいおい、呼び捨てかよーと思いました。去年はビール飲んでケーキ食べて気持ち悪くなったこともあったような気がしますが、今年は順序を間違えなかったので、おいしくいただくことができました。


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2008年4月17日

思考を歩かせる。

仕事やプライベートで思考が澱んできたとき、ぼくは歩くようにしています。PCを離れて外へ出てみる。だいたい近くのコンビニや書店に行くことが多いのだけれど、少し歩いただけで気分も変わるものです。空を眺めて雲の動きが早いことに気づいたり、葉桜の緑に季節の変化を見出したりします。けれどもほんとうに辛いときはダメですね。思考が閉じているから、風景も見えない。カラノ・カラダだけが、自動操縦で足を運ぶばかり。

思えば学生の頃、お金はなかったけれど悩みや暇ばかり過剰にあったぼくは、よく歩いたものでした。隣りの駅を通り越して、さらに隣りの駅までずんずん歩いた。夏などは、ただ歩いているだけで黒くなったものです(苦笑)。

歩いていると思考に費やされる体力がカラダにまわされるので、余計なことを考えなくなります。そもそも歩く行為自体が前進することなので、思考が前向きになる(ような気がする)。どよーんと落ち込んで部屋で微動だにできない状況も多くありましたが、汗を流して必死で歩きながら、実はとめどなく暗い思いに支配されているときもありました。どちらのほうがベターかというと・・・同じようなものでしょうかね。

ところで、音楽にも歩くという表現が使われます。主にジャズですが、いわゆるウォーキング・ベースといわれるベースラインがあります。別にベースを抱えてステージをうろうろ歩きながら演奏しているわけじゃないんですが、比喩的に音を歩かせているわけです。次の音への経過を音で埋めていくことで、ずんずん歩くような感じになります。ウッドベースなどでこのベースラインを弾けるとかっこいい。

ここでジャズのウォーキング・ベースを引用すればかっこいいのですが、あまりよくわかりません。なので軟弱な渋谷系を引用するのですが、はじめてこの曲のベースライン、というかアレンジを聴いたときにやられたーと思いました。フリッパーズ・ギターの「恋とマシンガン」です。これもウォーキング・ベースだと思うのですが、ポップスでさりげなく使われるとまいります。

ついでにウォークがタイトルにつく音楽を思い浮かべてみました。まずはエアロスミス(あるいはRun DMC?)。CMにも使われていたような気がします。ちょっと渋めでは、ルー・リードの「ワイルドサイドを歩け」でしょうか。個人的な趣味でいうと、アズテック・カメラのWalk out to winter(まったく季節無視ですけど)。一方、和の世界で考えてみると、坂本九さんの「上を向いて歩こう」。名曲です。上を向いて歩くのはいいけど、マンホールにはまらないよう気をつけたい。

ああ、そういえば携帯電話の画面ばかりを見て歩いていたら、渋谷の駅で電車とホームの間に、すとーんとはまったことがありましたっけ(苦笑)。あれはまいった。きれいにはまった。駅員さんに救出されたからよかったけれど。

そうやって何かに気を取られて歩いていると危ないのですが、通常は歩いているときには風景が目に入るものです。それがいい。一方でスピードを上げて走ると、視界も狭くなる。廊下を走らないでください、ではありませんが、走っちゃいけません。走ると息が切れるし、誰かにぶつかる可能性も高くなる。というか、既にぼくは走れません(泣)。空港に向かう女の子を追いかけて走る、みたいなことをやってみたいものですが。

アフォーダンスという認知科学で、世界が立体的に認識されるのは、あなたが動くからだ、というようなことが書かれていたことは衝撃的でした。実は世界そのものは立体で存在しているというよりも、いくつもの平面のテクスチャー(素材)で存在している。そして自分が動く(=歩く)と、平面と平面の差異によって世界が立体的に存在する。そんな話だったような気がします。

21世紀なので、ロボットも歩く時代です。とはいえ、簡単そうにみえる二足歩行が実はかなり大きな課題だったらしい(Wikipediaの二足歩行ロボットのところに詳細に解説されています)。

以前、隔週のパーツ入り雑誌を買ってロボットを作ろうと思っていたこともあるのですが、5号(右腕完成)程度で断念した経緯のあるぼくには、ロボットの開発者のような仕事はうらやましい限りです。いまだに右腕の部品は組み立ててさえいない始末で、ロボットには若干トラウマがあります。それでもやっぱり気になりますね。特にタカラトミーのi-SOBOTは気になる存在です。

■公式サイト
http://www.isobotrobot.com/jp/

特許庁によると4月18日は「発明の日」だとか。

生活のこまごまとしたあれこれのために、とかく思考も立ち止まりがちな自分ではあるのですが、未来に向けて一歩踏み出したいものです。身体が重くて動かないのであれば、とにかく想いだけでも前進したい。ささやかな一歩かもしれないけれど、未来への一歩を大事にしたい。

わずかな歩みを重ねることで、気付いていたら遠い場所まで辿り着いていた・・・それが理想です。こけてもいい。こけたらまた立ち上がって歩けばいい。

人類は、そうやって歩き続けてきたのではないでしょうか。人類はともかく、ぼくは今日も歩き続けるのではないかと思います。仕事が終わって、iPodで音楽を聴きながら、新宿御苑のそばを歩く。その時間がぼくにとっては、ささやかだけれど尊い思考を歩ませる時間であったりします。

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■発明の日フェスタ 
http://www.hatsumei-no-hi.jp/

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投稿者 birdwing 日時: 23:21 | | トラックバック

2008年4月15日

ポータブルな知。

小説を読むことが少なくなりました。物語に没頭することが少なくなったような気がします。気分の問題なのか、それともネットに接することが多くなった時代(自分?)の問題なのか。あるいは年齢かもしれないし、そもそも読みたくなるような物語がないのかもしれません。といっても本を読んでいないわけではなく、そこそこ読んでいます。では何を読んでいるかというと、新書です。通勤時に持ち歩く本は文庫よりも新書であることが多くなりました。

どうやら新書ブームらしい。出版業界は低迷していると言われていますが、確かに新書はたくさん出ています。新書はタイトルだけ眺めてもキャッチーであり、興味を惹く内容が多く、それほど厚くないので手軽に読める。文庫に比べたら少しだけ割高だけれど、なんとなく購入しやすい。内容によっては、深い教養や知識を与えてくれるものもあります。好奇心のきっかけを作ってくれることもある。

新書とはなんだろうか、と考えてみたのですが、持ち歩ける知(ポータブルな知)ではないか、と考えました。

持ち歩くためには、軽くなくてはいけない。物理的な重量として軽いだけでなく、内容が軽いこともポイントです。この軽さがカル(=軽)チャーであるなどと数年前に使い古されたキャッチコピーというかおじさんの戯言が思い浮かびましたが(苦笑)、へヴィな内容のものは朝もしくは疲れ果てた帰りの電車で読むには辛すぎる。要約(圧縮)されていたり、いっそのことウワズミだったり、断片だけ抽出したり、かいつまんで読んでも理解できたり、そのまま誰かに読んだ内容を話せるようなものがいい。

茂木健一郎さんの「思考の補助線」という本を読んでいるということを先日も書いたのですが、茂木さんも最近は新書が多いですね。

「クオリア降臨」「脳と仮想」「脳と創造性」のハードカバーによるごつごつした文章で、ぼくは茂木さんのファンになったのだけれど、茂木さんの著作の第一印象は読みにくいということでした。それでも読み進めていくうちに茂木さんの思考のうねりを感じ取れるようになり、生きざまに打たれて思わず読後に涙を流したことがあった。貴重な経験でした。

小説を読んで泣くことはあっても、評論や哲学のような本を読んで感涙したことはなかった。そんなわけで茂木さんのファンになったわけですが、最近多発している新書の軽さはいかがなものか。ただ、茂木さんご自身もジレンマを抱えているようです。後半をぺらぺらとめくっていたら、まさに新書に言及していたところがあったので引用します(P.106)。

時は流れ、もはや売れる本が薄味であるという事実に対して誰も驚かなくなった。折からの「新書ブーム」で、以前ならば単行本で出版されていたはずの内容や、一昔前にはレベル的には新書に成りえなかったであろうと思われる原稿が、「再定義」された「新書」のフォーマットで大量生産されている。

時代に絡めとられながら、茂木さんも憤りと申し訳なさを感じているようです。商品として大量生産され、売れるためにカルさというフォーマットのなかで自分の知を発信しなければならない。嫌だなと思っていてもそんな時代やマーケティングに流されることに対する苛立ちや不甲斐なさのようです。時代に絡めとられる表現者としての思いを次のように語られています。

かくなる私も、そのような思いがないわけではない。内心、忸怩たるものがあることは否めない。誰もいない夜に、突然、うぁーっと叫びたくなることもある。カントや、ヘーゲルや、アインシュタイン、夏目漱石のような先人に対して申し訳なく思う。

この軽さはブログ文化の影響もあるのではないか、と思いました。

そもそもブログは文芸のジャンルに当てはめると何か、などということもとめどなく思いを巡らせていたのですが、エッセイもしくはコラムに近い気がします。小説ではない。詩でもないですよね(たまに詩的なブログもありますけど)。もちろん論評のようなブログもあります。社会批判もある。けれどもそこには物語性よりも、架空半分リアル半分の個人の考えや生活が反映されていることが多い。ちょっとだけ薀蓄を語ったり、引用したりしながら、軽く読めてしまうものが多い。

ブログは表現者に門戸を開きました。ああ、ぼくにも書けるんだ、書いていいんだ、ということは、ものすごい革新的なことでした。ただそのことによって生まれた一億総表現者時代というものが、プロの書き手の領域を侵食している気がします。もちろんぼくはその表現者の革命を歓迎するのだけれど、その一方で、やはりプロの書き手には一般のぼくらには到底かけないような文章を書いてほしいと願う。まさにブログそのままの文体で新書になっているような本もありますが、正直なところ金を払って読むようなものではないですね。そのレベルの文章であれば、ブログでタダで十分に読める。

ところでちょっと視点を変えます。持ち歩くためには、小型化、軽量化が重要なポイントになります。

ソニーのウォークマンの登場により、音楽を持ち歩くというスタイルが生まれたことは革新的なことだったと思うのですが、その後、ガジェットと呼ばれるさまざまな情報機器は小型化する傾向にあり、いま電話を持ち歩くこともできれば、ワンセグによってテレビを持ち歩くこともできる。あるいは、ゲーム機だって持ち歩けるし、そもそもノートPCや携帯電話でインターネットを持ち歩くこともできるようになりました。

しかし、そのためには機能を制限したり、動画や音声を圧縮する必要があります。音楽のmp3は圧縮技術のひとつといえますが、やはりWAVEなどのファイルに比べると音質は損なわれる。音質は損なわれるけれども、持ち歩くことを最優先にしたわけです。

新書文化というのは、それこそ持ち歩くために知を軽くしているわけですが、持ち歩けない知、重い知というのもあっていいのではないか。というよりもそもそも知はそういうものであって、簡単に持ち歩けてはいけない。圧縮されたmp3のようなぺらぺらな音を楽しむのではなく、どっしりとしたスピーカーで原音を楽しむような知もあっていい。

と、ここでさらにころころと視点を転換するのですが(苦笑)、一方でぼくは音楽でいうとポップスを信奉しています。クラシックやジャズなどのエッセンスをうまく使って、気軽に聴ける音楽にだって素晴らしさはある。軽いから軽視されるものかというとそんなことはなく、難解な音楽を凌駕するような感動や、まっすぐに生きる想いや、生活に潤いを与えてくれるようなポップスもあります。たとえばぼくにとっては、ロジャー・二コルスの音楽などがそうなのですが。

ポータブルな知をきっかけにもっと重い知に挑戦してもいい。あるいはファッショナブルに、ポータブルな知だけをまとってみるのもいい。

ただし、とても大切なことは、ぼくはその軽さを蔑んだり一方的に批判したり、意識から排除するような人間にはならないようにしたいと思いました。重ければいいってものではありません。カルさのなかに、ゆるさのなかにぼくらを癒してくれるものもある。どんなものであれ世のなかに存在している以上、その存在には意義がある。もちろんその意義を理解できないこともあるけれど、異質なものを理解するスタンスでいたい。

実はぼくは最初、このエントリーで全面的に新書のような軽い知を批判する文章を書いていたのですが、ネットを通じてその誤りに気付かせてくれる文章に出会いました。そこで目が覚めた。

多様性に目を開いていたいと思います。余裕がないと、ひとつの側面しかみられなくなるのだけれど、世界はいろんな側面から成り立っている。だからすばらしいんですよね、ぼくらの住む世界は。

というわけでぼくの鞄のなかには、今日も新書が入っています。難解なビジネス書だったり哲学書のハードカバーが入っていることもあるけどね。

投稿者 birdwing 日時: 23:58 | | トラックバック

2008年4月13日

[DTM] ひかりの花束。

倦怠感というか充電が切れてしまったロボットのような気持ちというか(ああ、気持ちはないか。ロボットには)、体調不調の谷は越えたもののチカラが入らない休日でした。趣味のDTMに集中しようとしたのですが、なんとなく続かない。いい感じのインスピレーションがきている気もするんだけど、まとめられません。

こういうときにはどうしても過去に意識がいってしまいがちで、古いファイルを漁ったりテープを引っ張り出したり、ノスタルジーに浸ってしまいました。特に10年以上も前(95年)の自作曲を聴いてしまい、眩暈がした(苦笑)。歌入りの曲があって、よく作ったものだと。

稚拙ですが、いまより丁寧に作っている気がします。というか自分で歌おうという向こう見ずな精神が若すぎる(照)。ぼくは実はカラオケが大の苦手で、ほっとんど歌ったことがありません。キーのレンジが狭いので、きちんと歌える曲があまりないんですよね。

この当時は、QY20という玩具みたいなシーケンサーのボタンをぷちぷち押しながら単音を重ねて作っていました(以前に写真を掲載したことがあります)。鍵盤持っていなかったので。いま考えると非常に暗い作曲風景なのですが(部屋の隅で手のひらサイズのゲーム機みたいなやつのボタンをぷちぷち押して曲を作っている)、情熱が暗さを超えていたような気がします。

ああ、なるほど。書いていて気付いたのですが、暗い/明るいは他者の判断であって、情熱があれば他者の評価は気にならない。情熱は、評価を突き抜けるものかもしれないですね。

この曲(ちなみに「朝が待ちきれない」といいます。苦笑)は、歌入りであるのに加えて歌詞も非常に青いので(苦笑)公開は控えることにして、最近の別の曲・・・短期間で非常に高い完成度でありながら(もちろん自分的にですが)公開していなかった曲・・・を公開してみます。

昨年のクリスマスに「ひかりの花束」というエントリーをしたのですが、そのときに作った曲です。写真をスライドショーにして、バックにBGMとして曲が入ればいいなーと思っていました。クリスマスの曲なのですが、いまでも十分に聞くことができました。というより、いまだからこそ聞きたかった。というわけで公開です。


■ひかりの花束(4分1秒 5.53MB 192kbps)

曲・プログラミング:BirdWing


自作曲ではあるのですが、なんとなくこの曲を聴いていると元気が出ます。ずんずん歩いてしまいそうな感じ。歩くと同時に想いが前向きになる。いろんな障害を乗り越えて、ひたすら情熱を貫きたくなる(笑)。

ところで、「ひかりの花束」は、なんとなく詩的なエントリーで終わってしまったのですが、実はこの背景には映画的な文脈があったのでした。ぼくが好きな映画監督に、ジュゼッペ・トルナトーレ監督がいます。彼の「ニュー・シネマ・パラダイス」という映画にインスパイアされていました。

B000DZV6VEニュー・シネマ・パラダイス 完全オリジナル版 スペシャル・エディション
ジュゼッペ・トルナトーレ
角川エンタテインメント 2006-03-03

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■公式サイト
http://n-c-p.jp/

シチリアのちいさな村の映画館が舞台で、映写技師のおじいさんアルフレードとちいさな子供トトが主人公です。アルフレードは、戦時下なので検閲でキスシーンなどの場面を切り取ってしまう。トトは切り取られたフィルムをほしい、とおじいさんに言うのですが、叱られたりする。ところが、この切り取られたシーンを編集しておじいさんは残しておきました。成長して映画監督になったトトがそのフィルムを観るシーンが感動でした。

ずいぶん前に観た映画なので、記憶も曖昧なのですが、そんな流れだったかと思います。ちょっとネタばれ的なものもありますが、YouTubeからそのシーンの映像を。

■cinema paradiso

どわー。いま観ても泣ける(涙)。音楽もいいですね。

手法としてはコラージュだと思うのですが、これがすごくいいなあと。そんな風に、イルミネーションを切り取ってひとつの作品にしたいなあ、と思いました。それが「ひかりの花束」の発想の背景です。伝わるでしょうか。うまく説明できないのですが。

ちなみにどうでもいいことですが、最初、映画のタイトルを失念してしまって、YouTubeでキスなどのキーワードで探したのですが、女の子どうしがキスしている18禁映像が大量に検索されてしまい困惑。興味のある方はお試しください。しかし、アタマがくらくらしてくるので、視聴はおすすめいたしません(苦笑)。

現在、趣味のDTMでは打ち込みによって曲を作っていますが、挑戦してみたいのはフィールドレコーディングです。たとえば街の雑踏を録音する。その録音の音を切り取ってサンプリングして曲にしていく、というような感じでしょうか。「ひかりの花束」のエントリーでは写真によるコラージュでしたが、音のコラージュもやってみたい。

これからの希望を書いていたら、なんとなく元気が出てきました。過去を振り返るのは後ろ向きな行為だけではなくて、ときには過去から元気をもらえることもありますね。そしてもらった元気で、前を向いて歩いていきたい。

投稿者 birdwing 日時: 23:58 | | トラックバック

2008年4月11日

優柔不断という選択。

通勤電車のなかで座ることができてほっとしていると、乗っていた電車は、駅に入りきらないおかしな場所で停車。どうしたんだろうなと訝しがっていたところ、緊急停車の合図があって停めたというアナウンスが入りました。

最初は、なんとかをなんとかせずの合図が出ているため電車を緊急停止いたしました・・・のような業務用語らしきアナウンスが流れていたのですが、聞き取りにくく理解できませんでした。その後、慌しいノイズ混じりで、「社内がいちばん安全です。しばらくお待ちください」を何度か繰り返したあとで、隣りの駅で人身事故が起きたことが伝えられました。

隣りの駅って・・・。ぼくが通う路線では、都内の隣りの駅は歩いても30分かからない場所にあります。というか、この駅のプラットホームから隣りの駅が見えたはず。しばらくぼんやりしていると、現在、救出作業をしていて、電車の発車時刻は30分後とのこと。

ぱたぱたと携帯電話を開く人が増えて(というよりも、そうではなくても電車の車内では携帯電話を使っているひとが多い)、入学式に遅れることを告げる母親などもいました。新品のランドセルを背負った女の子は、ちょっとかわいそう。ぼくも携帯メールで打ち合わせ先のお客様に遅れる連絡を入れたのですが、「人身事故で」と理由を打ったときになんだか滅入った。

電車のなかの楽しみがいくつかあるのだけれど(携帯電話を使ったあれこれ、本を読む、音楽を聴く、そして・・・眠る)、そのいずれもやる気が起きずに、放心しているばかり。

電車の窓からは青空がみえました。昨日は冷たい雨が降っていたのに、今日は雲の流れが早くて日差しが零れる。その後、打ち合わせが終わって撮影した今日の青空をスクラップしておきます。

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それにしても、なぜこんなに天気のいい日に電車に飛び込んでしまおうと思うのでしょう。いや、こんなきれいな青空だからこそ、かなしみが深まるというか日常からの手が緩まるというか、もういいかな、というふらっと気が抜けることがあるのかもしれません。その気持ちは、わからないでもない。明るすぎる風景が逆に耐えられない思いを募らせることがあります。なんだか切ない。

亡くなった方のご冥福をお祈りしながら、それでも考えずにいられないのは、

なぜ、いつかは終わってしまう生を、自らの手で終えてしまうのか

ということです。ちょっとヘヴィなテーマに入ってしまいました。けれども少し考えてみたいと思います。

ぼくらの生には限りがあります。永遠に20代でいられることもできなければ、楽しい時間ばかりを持続することもできない。辛いこともたくさんあります。こんな辛さには耐えられない、いっそのこと終わらせてしまえばすっきりするだろうと考えて、つながっている線を断ち切るための決断に迷うことも多い。

続けるか/終わらせるか、というぎりぎりのエッジに佇んでいると、それだけで精神は消耗し、疲弊していきます。本来の問題よりも決断のために力が奪われて、それだけで疲れ果てていく。かつては耐えられていたとしても、どんどん自分のほうが弱くなる。辛さの度合いは変わらなかったとしても、自分の方が弱ってしまうので、ちょっとしたことで、もういいかとリアルから手を放してしまう。辛さや痛みが大きければ大きいほど、終わらせる側へ転がり落ちる可能性は高くなるものです。

もちろん終わらせてしまうことが潔い場合もあります。終わらせてしまったことで、新しい何かがはじまることもある。また、尊い状態や美しい状態を守ることもできます。もっと酷い状態になる前に、手を打つこともできるわけです。学校であるとか、仕事であるとか、さまざまな人間関係とか、潔い決断が求められることは確かに多い。

ただ、生という問題に限ってはどうなのか。

生を閉じるための選択は、勇気がいるものかもしれません。しかしながら、ぼくは保留をすることも勇気が必要ではないかと考えました。

選択自体を保留にして、現状維持のままにする。ものわかりのよさを捨てて割り切った答えを出さずに、複雑な人生を曖昧なまま生きてみる。というよりも、優柔不断になってしまう。

迷っている状態のまま、しばらく別のことを考えることができればいいのですが。気晴らしというのは安易だけれど、意識を別に向けることによって、世界の解釈が変わることもある。しかしながら、そもそも思い詰めているからこそ、生を閉じるようなことを考えるわけで、別のことを考える余裕がないはずです。

余裕がない状態では、どんなに美しい風景も音楽も耳に入りません。誰かのアドバイスも遠い場所で聞いているような言葉に思える。料理の味さえ感じられなくなる。目を閉じて、耳を塞いで、盲目的に、ひたすら続けるか/終わらせるかの選択だけを考える。この悪夢のような状態をどうすれば終わらせることができるのか。きっとそう考えるはず。終わらせることになれば楽になる。とにかく楽になりたい。

辛いことを抱えて生きていく未来を想像すると、現在の重圧よりも未来の重圧のほうが大きくなる。「耐えられない/続けたい」というバランスが崩れると、ふらりと揺らめいてしまう。でもですね、だからこそ結論を早めずに、そのアンバランスな状態で、しばらく課題を先回しにしてみたらどうか、と思うわけです。

というのは自分が変わらなくても、環境が変わる場合もあります。現在が最悪であれば、さらに最悪になることは有り得ない。もちろん最悪だと思っていた現在より、さらに最悪な深い場所があるのかもしれませんが、そのときはそのときで。

要するに、ぼくらの人生は、いつか終わってしまうものじゃないですか。その人生を自らの手で終わらせてしまう必要はないのではないか。うーむ、なかなか難しい問題ではあるのだけれど。

そんなことを考えながら一日を終えた帰宅途中、茂木健一郎さんの次の本を購入しました。ずっと気になっていたタイトルの本です。

448006415X思考の補助線 (ちくま新書 707)
茂木 健一郎
筑摩書房 2008-02

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久し振りに読んだ茂木健一郎さんの本は、文体が熱い(笑)。「クオリア降臨」などを読んだときの興奮を思い出しました。とはいえ、なんとなく言葉が像を結びにくいイメージもあります。確かに専門的な話題も多く扱っているのだけれど、専門用語を抜いても、熱い文体の割には脳内で像を結ばない感じ。茂木さんの個人的な経験を書きながら、抽象的すぎる。なんだろう、これ。

引用している知の分子(というか構成要素)が、うまく結合していないような印象です。という第一印象を保留にしながら読み進めていきたい。

おかげさまで体調も大分よくなりました。とはいえしばらく文章を書いていなかったら、なかなか書けないものですね。練習を中断していたアスリートがいきなり走り出したようなもどかしさ、でしょうか。ブログは逃げていかないので、ゆっくりと書けるときに書いていこうと思います。自分のスタイルで。

投稿者 birdwing 日時: 23:49 | | トラックバック

2008年4月 9日

更新できずに痩せるばかり。

日曜日に公園にサクラを見に行ってサクラキン(そんなものあるのか?)にやられたせいか、食欲不振で、3日間で激ヤセしました。1日およそかき集めて1食ぐらいしか食べられません。ジュースのような液体は摂取できるのですが、固形のものがダメ。吐き気もあって寝つきも悪い。なので、いまズボンのベルトとお腹の間に拳が入ります。いや、その前がどうだったのかは置いといて(苦笑)。

ひょっとしたら、軽めのウィルスに胃をやられたのかもしれません。一応会社にはきちんと行くことができているのですけどね。

究極のダイエットは、ウィルスかもしれないなーという笑えない実態があります。あるいは心労でしょうか。大きなストレスを抱えたときには、げっそりと痩せてしまうことがあるものです。なんとなく心臓もシクシク痛んで不整脈っぽい感じもあるのですが、大丈夫か、自分。

このダイエット方法(苦笑)のよくないところは、とにかくチカラが出ないこと(涙)。また、脳も身体の一部であるせいか、アタマの働きも悪くなる。なんとなくぼけーっとしたまま時間が過ぎて、行動に切れがない。しゃきっとしなさい、しゃきっと!という感じ。

新年度が始まったばかりに最悪の体調ですが、季節の変わり目には体調も崩しがちなものです。みなさまもお気をつけください。というか、自分が気をつけます、まず先に。

そんなわけで、ほんとうは、ばりばりとブログを書きたいし、DTMで作品も作りたい、本やCDの感想も溜まっているのだけれど、しばらくはしょぼしょぼと過去のエントリーをアップするなどで更新していきたいと思っています。

(泣)。

投稿者 birdwing 日時: 20:42 | | トラックバック

2008年4月 6日

鳥の増産と舞うサクラ。

鳥を増産した休日でした。といっても何のことかわからないですよね。先週の週末に図書館で鳥の折り紙の本を借りてきたのですが(詳細は先週のエントリー)、次男くんにせがまれて次から次へと折るはめに(涙)。100円ショップで買ってきた折り紙のせいか、びみょうによく折れない。よく折れないのだけれど失敗を繰り返しながら折っているうちに、次第に折り方がわかってきました。

未熟な折り紙なので、ひとつひとつの写真掲載は控えるのですが(うまくなったら掲載するかも)、夜眠るときに枕のまわりにぼくの折った鳥らしきものに囲まれて寝ている次男くんをみたら、ちょっと涙が出そうになりました。というのも、彼は大事なものを枕のまわりに配置して寝るんですよね。ウルトラマンのソフトビニール人形を買ったときには、最新の怪獣を枕元に置いて寝る。一見するとゴミのような折り紙の鳥ですが、気に入ってくれたようです。といっても、数日で飽きちゃうのですが。

次男くんは造形芸術っぽい志向があります。折り紙でオナガドリを作っていると、「かんぜんなおながどりをつくるー」ということで、ぼくの横で画用紙をぐしゃぐしゃまるめて、セロハンテープで貼っている。彼にとって「かんぜんな」とは「立体的な」ということらしい。よく粘土遊びをするのだけれど、最近は紙でセミとか家などを作るようになりました。

ところでぼくは彼からのオーダーでカツオドリを折っていたのですが、これがよくわからない。一回失敗しましたが、再度挑戦してなんとかカタチになりました。本の解説ページと、ぼくが折ったやつを掲載してみます。なんとなく違う気がする・・・。ちなみに次男くんが目を描いて遊んだので、ちょっとよれよれです。

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このカツオドリを折っている間にも、「かんぜんなかつおどりをつくるー」といって何か工作をはじめていたのですが・・・できあがったものはこれ。

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こ、これは?次男くんに聞くと

「かつおのぼり」

とのこと。うーむ。まあ、確かにコイノボリのかたちだよね。しかし、なぜ、かつおのぼり?そこでああそうか、と思い立ちました。カツオドリは鰹のまわりに集まるからカツオドリなのか、という話をしていたせいだ。これは魚の鰹なのか。たぶん、幼稚園でこいのぼりの作り方を習ったのだと思うのだけど、その応用編なのだね。

で、そこから彼のお話がはじまったのだけれど、カツオドリがかつおのぼりに食われてしまう(苦笑)。これは、反対でしょうが。ふつうは鳥が魚を食べるよね。

しかし、大きさからいってもかつおのぼりのほうが強い。怪獣レベルの存在です。その後、次々と鳥たちを喰らってしまい、やがてはヘリコプター(玩具)を食べちゃいましたとさ。おしまい。

さて、今日は天気がよかったので、最後のサクラを見に行こう!と提案したのですが、大乱闘スマッシュブラザーズ(Wiiのゲーム)に集中している家族3名はおとーさんの話など聞いちゃいない。なので、おとーさんはひとりでお散歩しちゃいました。ちょっと寂しい。

葉桜化の進行が著しいのだけれど、美術館のある広い公園はかなりたくさんのひとが訪れていて、思い思いの場所にレジャーシートを広げて最後の花見を楽しんでいました。フリスビーをやっているひとも多く、芝生の上を原色の円盤が飛び交っている。輪になって集っているひとたちは学生や若いひとたちが目立って、お酒を飲んで赤ら顔の女性もいました。気持ち良さそうです。昼間から飲む酒は美味いんだよね。親子連れもいれば、膝枕をしてしあわせそうに眠っているカップルもいます。かと思うと、90歳ぐらいのおじいさんとおばあさんが並んで恥ずかしそうに写真を撮られていたりする。

ひとりで散策しながら、切ないながらも少しあったかい気持ちになりました。強い風が吹くと、はらはらと桜の花びらが舞って、お酒を飲んでいるひとたちの間から、おおおっと歓声があがる。きっと来週には桜も散ってしまうことでしょう。芝生の上では眠っているひともいるけれど、日向ぼっこしているとあたたかい陽射しでまどろんできます。現実と夢の境界が曖昧になる。

そんな散策のショットを掲載してみます。

桜は霞むような集まりとして遠くから眺めるのがいい。

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芝生の上のしあわせな風景と桜の遠景。

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噴水の水面に浮く桜の花びら。

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芝生の上にも桜(自分の影もあり)。

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接近して桜。とある撮影所の前の桜。

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まだ次男くんが喘息ではなかった頃には、家族全員で訪れて団子を食べたりしたものでした。家族に対する期待とか思い入れはそれほどないのだけれど、できれば四季折々、春は桜を眺め、夏には海に出掛け、秋は紅葉を楽しみ、冬には雪で遊ぶ、そんな家族であればいいなと思ったのだけれど、なかなかそうもいかないものです。なのでぼくはひとりで花見。

どこからやってくるのかわからない不安と、切ないようなやるせないような感じと、ここではないどこかに思いを馳せるような何かが混在した状態で日曜日も終わりつつあるのですが、歩き回った疲れで思考もちょっと緩みがちです。今日は心地よく眠ることができればいいのですが、どうかな。空腹にビールが効きつつあり、心地よく酩酊状態です。

投稿者 birdwing 日時: 19:15 | | トラックバック

2008年4月 4日

ゆるやかな変化。

ふと気が付くと、街ですれ違うひとにマスクをかけているひとが多い。花粉症対策のためだけれど、以前にはこんなにたくさんのひとがマスクをしていたっけ?と、あらためて愕然としました。

この光景は、20世紀に(といってもまだ数年前なんだけどね)、SF小説や映画の冒頭で描かれがちな「21世紀の社会では、大気汚染のためにすべてのひとがガスマスク着用を義務付けられている・・・」のようなシーンに近いのではないでしょうか。

花粉症などのアレルギーが多くなった理由は、大気が汚染されていこともひとつの要因かもしれませんが、ぼくらの住む世界がクリーンで清潔な環境になっていたせいでもあるようです。つまり、昔に比べると清潔になってしまったため、きれいな環境に馴れた人間が過剰に花粉などに反応してしまう。

生物学的にこのことを表現する言葉があるかどうか知りませんが、汚れた社会のなかで生きる人間のほうが耐性は強いのかもしれないですね。うようよウィルスのなかで暮らしていた野蛮人のほうが強かったりする。皮肉なことだけれど。

と、別に環境汚染に対する批判をするわけではないのだけれど、気が付くと社会は大きく変わっていた・・・ということは、結構ある。インターネットなどもそうかもしれません。不況や年金問題なども、ある臨界点を超えると問題が顕在化というか浮上してきて、そのときには取り返しのつかないことになっているかもしれない。これは怖い。

そんなことを考えるようになったのは、本日、会社の帰りに喫茶店に寄って、大前研一さんの文庫を読み終えたからです。これです。

4167717662私はこうして発想する (文春文庫 お 35-2)
大前 研一
文藝春秋 2008-03-07

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大前研一さんというと、ビッグネームだけになんとなく敬遠されることも多いのだけれど、ぼくは読むたびに何か気持ちの原料のようなものを注入してもらったような感じです。この本では、大前さんが作られたBBT大学院大学というカリキュラムにも触れながら、時代や社会の読み方を解説されています。

とかくグローバルな視点にかけて、自分の周囲3メートル四方のことしか目に入らないぼくとしては、大前研一さんの世界を読むチカラに感動しました。北朝鮮や韓国と日本の関係をあざやかに解説していきます。といっても、鵜呑みにするのではなく、ほんとうにそうなのか?と自分で検証する必要はあるでしょう。

ついでに備忘録的に書いておくと、今週は2冊の本を購入しました。まずは英語で日記を書いてみるための本。2行程度の短文からはじめようという趣旨です。

4860641779はじめて英語で日記を書いてみる
石原 真弓
ベレ出版 2007-12-20

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・・・うーむ、書かないかも(苦笑)。しかし、Twitterやめてしまったのですが、こうした短文の日記こそ「いま何してる?」形式でワード数も制限されるTwitterで書いたほうがいいのかもしれないと思いました。ただ、外国人の方にレスされると困りそうだ。

つづいて石田衣良さんの次の本です。

4087712249逝年―call boy2
石田 衣良
集英社 2008-03

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女性ファンの多い石田衣良さんですが、勇気を持って発言すると、石田衣良さんの小説はマンガ的だと思う(うわー、ファンから刺されそうだ)。

小説の構造がわかりやすいのですが陳腐なこともあり、コピーライティング的な言葉の美しさだけが先行するイメージがあって、「1ポンドの悲しみ」は途中で読み進める気が失せて挫折しました。いまも読んでいません。I.W.G.P.(池袋ウェストゲートパーク)のような小説は、ドラマ化されてこそ面白いのではないでしょうか。小説として読むよりも、そのエンターテイメント性がドラマのほうがよりいきいきとして表現される。

と、批判しているのですが、石田衣良さんの作品でこれはいいなと思ったのが「娼年」でした。えーと、ホストで身体を売るリョウという少年が主人公で、少しばかりエッチなお話です(照)。その続編が出ていたので購入。

ビジネスからブンガクまでの本を読み進めながら、自分の引き出しを広げたいと思っています。気が付くと自分も大きく変化していればいいのですが。

ところで、喫茶店からの帰り道。春の風は強かったのですが、携帯電話で呼び出されて、とりとめのない話をして楽しい時間を過ごしました。行き交うひととたちも、なんとなく春の装いで楽しそうでした。大きな変化の流れのなかでは埋もれてしまうのかもしれませんが、そんなささやかなしあわせな時間も大切にしたいものです。

投稿者 birdwing 日時: 23:16 | | トラックバック

2008年4月 2日

そんな括り方。

桜が咲いて街のあちらこちらがぼんやりと霞む4月。はなやいでみえるのは桜のせいだけではなくて、新しいひとたちが東京に溢れているせいでもあります。

入社であるとか入学であるとか、新しい生活をスタートした新社会人や新大学生がどっと増えるのもこの月。満員電車に乗ることに慣れていなくて、どことなく混雑が余計に窮屈な状態になったりもするのですが、ゴールデンウィークが過ぎる頃には、その混雑も緩和するような気がします。都会の生活に慣れてきたのか、あるいは社会に疲れて引き篭もっちゃったひとが増えたのか(苦笑)。

サイモン&ガーファンクルに、「4月になれば彼女は」という名曲がありました。YouTubeからライブの映像です。

■Paul Simon & Art Garfunkel 1 - April Come She Will

出会いと別れを短い曲のなかに結晶化した、すばらしい曲ですね。ちょっと切ないのですが、まず歌詞がいい。メジャーコードとマイナーコードがくるくると変わるような曲にぼくは惹かれるのだけれど、コード進行もいいと思います。それから、3フィンガーのギターもいい。

出会いと別れを時間の流れにしたがって追っていくと物語ができあがる。名曲の歌詞を、非常に個人的な解釈から掌編小説化すると、次のような感じになるでしょうか。曲を物語に“翻訳”するという試みといえるかもしれません。勝手に物語化してすみません。クリエイティブ・コモンズのライセンスだったら許されるのかもしれませんが(苦笑)。

やさしい雨で小川の水が溢れる4月、きみはやってきたね。5月にはいっしょに過ごして、きみを抱いた。僕の腕のなかで眠った。でも、6月になると気が変わって眠れない夜を彷徨い歩いたっけ。そして7月。きみは飛び立ってしまったんだ。ひとことも行ってしまうなんてことを告げずに。

8月、僕のなかできみの記憶が消滅した。あんなに好きだった想いが消えてなくなった。凍えるように冷たい秋の風が、僕の心を吹き抜けていく。そして9月になれば、僕はまたきみのことを思い出す。かつて新しかった恋も、いまはもうずいぶん色褪せてしまったのだけれど。

「August, die she must」をどう解釈するか悩んだのですが、「8月に彼女は死んでしまうだろう」と直接的に解釈するのはいかがなものか、と。なんとなく村上春樹さんの「ノルウェイの森」のような世界観になります。なので、主人公のなかで彼女の存在が消滅する、としてみました。

また、きみ=彼女というように、実際のカップルを想定すると恋愛の物語になるのですが、夢とか希望のメタファ(暗喩)として捉えると、もう少し別の物語になる。追いかけていた夢を見失った青年の話として読み解くこともできます。入社のときに抱いていた仕事に対する夢を、8月には喪失してしまった、という。

さて、そんなブンガク的な方向から話をまったく別の方向へ転換するのですが、解釈という面から気になった記事をピックアップすると、新社会人の傾向のネーミングです。社会経済生産性本部の提言によると、今年の新入社員のタイプは「カーリング型」とか。以下、引用します。

■平成20年度・新入社員のタイプは「カーリング型」
http://activity.jpc-sed.or.jp/detail/lrw/activity000857.html

「カーリング型」
冬期オリンピックでおなじみになったカーリング、新入社員は磨けば光るとばかりに、育成の方向を定め、そっと背中を押し、ブラシでこすりつつ、周りは働きやすい環境作りに腐心する。しかし、少しでもブラシでこするのをやめると、減速したり、止まってしまったりしかねない。
また、売り手市場入社組だけに会社への帰属意識は低めで、磨きすぎると目標地点を越えてしまったり、はみだしてしまったりということもあるだろう。就職は楽勝だったかもしれないが、サブプライムローンの問題等の影響により経済の先行きは一気に不透明になった。これからも波乱万丈の試合展開が予想され、安心してはいられない。自分の将来は自分の努力で切り開いていくという、本人の意志(石)が大事になろう。

うーむ。うまい・・・といえるのかもしれないけれど、どうだろう。余計なお世話だ、という気もします(苦笑)。山野美容短期大学の名誉教授である森清さんを座長(座長って・・・)として、斉藤幸江さんのような就職・採用アナリストをメンバーに加えた4名の「職業のあり方研究会」で命名されているそうです。

だいたいこういうネーミングはわかりやすいので、すぐ流用して多用しはじめるおじさんなどが多いのですが、ぼくは全員を同じ傾向で括ってしまう姿勢が気に入らない。というよりも括ることによって、逆に現実自体をその方向へ変えてしまうこともあるのではないか。心理的に大衆を操作、とまでは言わないけれど。

というのは占いに近いものもあって、たぶんそういわれたら誰でも外れることはないと思うんですよね。新入社員ではないぼくだって、カーリング型っていわれたら、そうかな?と信じてしまう。ボーナスというゴールであるとか、評価という「ブラシ」がないと失速するわけで。

社会的にネーミングを面白がっているだけではなく、ではどうするのか、ということまで考えないと提言にならないような気もしました。もちろんこの提言のなかには、「自分の将来は自分の努力で切り開いていくという、本人の意志」が重要であるという言葉があるのだけれど。

しかしながら、時代の傾向を一語で切り取る視点の鋭さは見事です。そこには、メタファとして、前進するモチベーションの維持=カーリングというなぞらえ方も効いている。ひょっとしたらその背後には、膨大な意識調査であるとかヒアリングのデータがあって、最終的にこの一語にまとめられたのかもしれません。思考のあざやかさ、最終的にシンプルにわかりやすくまとめる仕事は見習いたい。

というわけで、ぼくはといえば、セルフカーリングでいきますかね。

自分に自分でご褒美を与えて、ゆるゆると自分を前進させていく。目的地がどこなのかわからないけれど(苦笑)、人生と言うのは全般的にカーリングのようなものかもしれない、などと乱暴に括ってみて収拾がつかなくなりました。やれやれ(と、村上春樹風に終わってみる)。

投稿者 birdwing 日時: 23:33 | | トラックバック

2008年4月 1日

ふーる・おん・ざ・・・

会社を作ろうと思います。自分のやりたいことを実現するには、環境が必要だと実感しました。では、どんな会社、環境が理想だろう。

フラットな組織、権限委譲を積極的に行う会社であれば、企業内起業も可能。細胞分裂のようにビジネスは増殖していきます。一方で、内部ばかりに目を向けた不透明な組織では、互いの脚を引っ張るばかりで可能性は磨耗していく。手を挙げたものが馬鹿をみる。

壁にぶつかっているうちに壁にぶつかることさえ恐れるようになってしまうぐらいであれば、壁を突き抜けちゃったほうがいい。所詮、人生いっかいきりじゃないですか。ちいさくまとまるよりは、勝負に出たい。守りの年齢などというものは、あきらめた人間の言い訳だ。放っておいても老人にはなるわけで、持続的に挑戦と成長をしていたほうが楽しい。コンサバティブであるよりもアグレッシブに、あらゆることにクリエイティブでありたい。

見晴らしのいい場所から眺めれば、もっと遠くまで見ることができたり、広い世界を俯瞰できるのであれば、丘の上に登ってみたいものであるなあ。いままで底辺を彷徨って生きてきたから下からの眺めしかわからないのだけれど、上の世界からの眺めはどんなだろう。下の世界を見下ろすためではなく、向上心を突き詰めて、もっと高いところへ自分を持っていきたい。誰かに連れて行ってもらうのを待っていても、誰も連れて行ってはくれない。そのためには、現状に甘んじていてはダメだ。

背反することかもしれないけれど、夢を追いかけるものは、現実的、堅実的でなければいけない。夢を実現するためには着実な積み重ねが必要になります。夢は決して透明な大気の上に構築する雲の宮殿ではない。レンガを集めて、しっかりとした基盤を作ることがまず必要。

・・・なーんてね(笑)。

4月1日なので、嘘をついてみました。嘘というか法螺というか。

ただ、嘘であろうが法螺であろうが、信じれば現実になります。利口なひとは傍観者として批判して現実を追い求めるけれど、もっと馬鹿になってもいいんじゃないか。他人から指をさされようと、陰口を叩かれようと、疎まれようと、自分らしい生き方を選択したほうがしあわせだと思う。

丘の上の愚者という生き方。それは孤独ではあるのだけれど、裸の王様よりはましだと思います。王様は自分がちやほやされているから気付かないけれど、裸であることにはやく気付くべきだ。誰かに指摘されるのを待っているのではいけない。裸であることが周囲を巻き込んで、取り返しの付かない状況になる前に。というよりも自分自身が、精神を病んで風邪をひくまえに。

■fool on the hill

投稿者 birdwing 日時: 23:51 | | トラックバック

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