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2008年4月28日

「50代からの選択」大前研一

▼Book:ポジティブな諦めの境地から。

408746266850代からの選択―ビジネスマンは人生の後半にどう備えるべきか (集英社文庫 お 66-1) (集英社文庫 お 66-1)
大前 研一
集英社 2008-02-20

by G-Tools

「企業参謀」という著作で挫折した経験のあるぼくは、大前研一というひとは難しいことを言うとっつきにくいおっさんだ、という先入観がありました。また、講演などでは経営者やビジネスマン(やはりおっさん)たちに人気があるらしいが、どうせコンサルタントらしいもっともなことを言っているんだろうな、という表面的な認識しかなかった(思いっきり失礼ですね。すみません)。しかしながら、最近、いろいろと大前さんの著作を読んで認識が変わりつつあります。

大前研一さんの考え方に惹かれます。というか深みのある人間性が素敵だ。ぼくがおっさんになったからかもしれません。けれども、「50代からの選択」にも書かれているように大前さんご自身もかなり変わったのではないでしょうか(といってもこの本は2004年に発行されたものなので、いまではさらに変わられているかもしれませんが)。

「50代からの選択」で述べられている大前さんの見解は、過激だと思いました。過激だけれど、ものすごく惹かれる。ひとつひとつに説得力がある。

たとえば、40代で会社で頭角をあらわしていないのなら、この先、会社で浮かぶことはないよ、ということをストレートに指摘されていたり、50代では成仏することを勧めていたりします。日本の歴史は、リセットやオールクリアの歴史だったとして、過去を引き摺るよりは大切に抱え込んでいるものを全部捨てちゃえ、最初からやり直せ、などということも書かれている。実はうじうじと終わったことを後悔しがちなぼくには、頬をひっぱたかれたような刺激があります。目が覚める。

年金問題に関する視点も新鮮です。お金を貯め込んでいるのは65歳以上であり、シニアにお金を使わせろ、割をくっているのは若い世代たちだ、と主張されている。そして、そんな世代間格差を変革しようとして選挙に出馬したのに票を入れなかった40代の世代のことなんて俺は知らないね、悔しかったら老人世代に反逆を起こしてみろ、でも俺だけは襲わないでね、なんてことが書かれている(笑)。びみょうな問題を孕んでいると思うので、ここまでシンプルには考えられないとは思うのですが、それでもとてもわかりやすい。

年老りは敬い大切にしましょう、というのが通常の考え方ですよね。電車でも席は譲ってあげたい。その倫理観と混同して社会についても考えがちなのだけれど、大前さんはすっぱりと切り離して、お金を持っているのはシニアなんだぜ、暇だから投票にも熱心だ、社会の主導権を握っている、でも困るのは選挙にも行かずに社会の問題から逃げたり後回しにしているおまえら若い世代なんだぜ、と指摘しているわけです。ううむ。反論できない。

革命の起こせない「少年ジャンプ世代」という批判も痛かった。ちいさなしあわせを大切にして、大きな問題から目を背ける。スケールの小さい勝利に目を向ける、という。ああ、ぐさっとくる。コンビ二で買ったサントリーの缶コーヒーに付いてきたポルシェのミニカーに、ささやかなしあわせを感じている自分がちいさいことであるなあ(苦笑)。

世代に対する鋭い考察があるかと思うと、ご自身の嫁と舅の問題のようなプライベートのようなことまで書かれています。要するに、これもまた問題解決(ソリューション)として、コンサルタントの視点から解決されているのだけれど、とても参考になりました。

また、選挙の大敗に関しても、丸の内でしか通用しないビジネスの言葉で選挙に臨んだ自分の驕りのようなものを素直に反省されている。失敗を認める姿勢が、すがすがしい。プライドや体裁にこだわらずに吹っ切れていて、気持ちいい。辛辣だけれど言葉のひとつひとつが瑞々しい。こんな風にブログで新鮮な見解を述べられるといいですね。

しかしながら基本的に、ぼくは大前研一になれません。ぜったいに無理。やはり住んでいる世界が違う。世界を相手にして活躍されてきた大前さんとぼくは、あらゆる面で格が違いすぎます。

それでも、ここに書かれていることを起点として自分なりに行動もしくは思考を展開してみたいと思いました。過剰な夢を抱くのではなくて、諦めてみることが大切かもしれません。しかしそれは妥協としての諦めではなくて、あくまでもポジティブな諦めです。大前研一さんにはなれないけれど、では大前さん的な思考をぼく個人のスケールで展開してみたらどうなるか。まったく同じことをやったら工夫も何もありませんが、枠組みだけお借りして、あとは自分で考える。

ひとつ考えているのは、センセイになりたい、ということです。

といっても、学校の教師でなく(だいたいぼくは教職免許を持っていない)、またサムライ業(弁護士など「士」がつくひとびと)の資格を取得して、自律して仕事をはじめることでもありません。つまり、

若い世代に何かを教えられるひとになりたい

ということです。職業や資格にカテゴライズされないセンセイになりたい。

うーむ、しかし考えてみると、いま教えられることはあまりないなあ(涙)。でもいいのだ、なければ学べばいい。誰かに何かを教えられるぐらいに究める、という目標を前提として50歳を目指して学習していけばいい。困ったことに50歳のぼくが想像できないのだけれど(苦笑)、枯れて、それでもやさしい目をしたセンセイでありたい。なれるかなあ。いや、なろうと思えばなれるだろう。

教えることは趣味のDTMでもいいかもしれないし、映画や本や音楽のことだって、究めれば教えられるようになれるかもしれないですね。あるいはちょっと長く生きているので、人生でもいい。就職では苦労したし、仕事では随分悩んできたので、そのなかで考えてきたことでもいい。何か次の世代のためになることを総括して、体系化して、伝えたい。

可能であれば、お金は要らないから地方のコミュニティでセミナーのようなこともできるといいですね。いちばん手っ取り早いのはブログで語ることかもしれません。観客は3人でもかまわない。ぼくが教えられるのはきっとその程度のキャパだろうと思うから。

大前研一さんの本を読み、自分にできること、できないことを腑分けしつつ、ポジティブな諦めの境地から少しずついろんなことを考えつつあります。諦めると肩から力が抜ける。言いたいことも言えるようになる。ポジティブな諦めの境地は、結構大切です。

投稿者 birdwing : 2008年4月28日 23:05

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