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2010年2月28日

「フリー <無料>からお金を生み出す新戦略」クリス・アンダーソン

▼book10-05:フリーという新しい価値の彼方へ。

4140814047フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略
小林弘人
日本放送出版協会 2009-11-21

by G-Tools

ひとことで「フリー(無料)」といっても、さまざまなサービスやパターンがあります。Webではフリーであることは当たり前ともいえるでしょう。たとえば、グーグルの事業範囲は多岐に渡りますが、その多くは無料で提供されています。検索エンジンをはじめとして、メール、チャット、動画配信、地図、ワードプロセッサやスプレッドシートのオフィスソフトの提供、あるいは携帯端末用のオープンソースのOS(アンドロイド)の開発など。

高機能のサービスを、グーグルはなぜ無料で提供できるのか。
長いあいだ自分には疑問でした。

そりゃ広告収益で運営されているからだろ、という安易な解答は当然わかっています。しかし、ダイナミックに次々と新機軸を生み出す巨大なグーグルの事業構造は、単純な広告によるビジネスモデルとは異なる何かがあるのではないか、という印象を抱きました。神話化するつもりはありませんが、他の企業とはやはりどこかが違う。社会や技術動向の波に乗り、フリー(無料)のサービスを提供しながら収益化していく秘訣があるはず。

一方で、OSのリナックス(Linux)など、オープンソースのプロジェクトの構造は個人的に納得できるものです。自分たちの力でサービスを作り上げるという信念と誇りが求心力になり、開発者が無償で関わって規模を拡大してきた、と認識しています。同様にWikipediaについても、基金で運営されながらクラウドソーシングのようなかたちで、ネットを通じた一般のひとたちの参加によってコンテンツの精度を上げている成功事例としてとらえてきました。

デジタルの世界から離れると、フリー(無料)はわかりやすくなります。化粧品などの試供品(サンプリング)は、販売促進のツールに過ぎません。試しに使っていただいて、気に入ったら購入する。多くのひとに、とりあえず使ってもらう。無料であることの意図はシンプルです。

さらにわかりやすいのは、日本では地下鉄の駅で配布しているmetro min.(メトロミニッツ)、コンビ二で配布されていたR25のようなフリーペーパーでしょうか。これは完全な広告モデルです。誌面に掲載する広告から収益をあげて、読者には無料で提供する仕組みです。最近ではすこし勢いがなくなって残念なのですが、ぼくはフリーペーパーのファンです。市販されている雑誌よりも内容の濃い特集があり、レイアウトも凝っている冊子が多いので。

携帯電話では消滅したけれど、100円パソコンのようにハードウェアを無償に近い価格で提供して、月々の通信費用で回収していくモデルもわかりやすい。ローン返済の変形のようにとらえています。しかし、携帯電話端末の価格がどーんと上がったのには閉口しました。


■■フリーの心理的な本質とは

有名な「ロングテール」の著者であるクリス・アンダーソンは、価格競争やサービスの競争が行き着く先は「無料(フリー)」になるといいます。

「フリー <無料>からお金を生み出す新戦略」は、フリーが生まれた歴史的背景や用語の解説、ビジネスモデルのパターン化、デジタル世界におけるフリーの現状、経済的な効果など、あらゆる視点からフリーについてまとめた本です。

フリーとは何かという入門編から経済的な視点と論点を広げていく構成、「どうして○○がタダになるのか」というコラム、巻末資料として掲載された50のビジネスモデルなど、最新事情も取り入れた至れり尽くせりの内容で、非常に興味深く読み進めました。

期間限定とはいえ、この本自体がそっくりそのままフリーダウンロードできたそうです。にもかかわらず、印刷された書籍もベストセラー。本書で解説されたフリーによる収益モデルを、本書自体で実践したといえるでしょう。

率直な印象を書いてしまうと、AmazonのKindleやAppleのiPadなどの登場により電子書籍の隆盛が期待されていますが、PDFにしてもまだまだ画面上でまるごと本一冊を読むのは厳しいと感じています。だからダウンロードしたとしても、印刷物の本を購入したひとも多いのではないでしょうか。つまり印刷された書籍とフリーダウンロード版が同一内容であったとしても、読みにくいがゆえに書籍を購入したくなる。

なぜフリー(無料)がこれほどまでに、もてはやされるのでしょう。さらりと書かれていて読み飛ばしそうですが、ぼくは第2章「「フリー」入門」のフリーという用語の語源に鍵があるのではないかと感じました。自由と無料という両義性について解説している部分です(P.27)。

それでは、どうして英語では「Free」というひとつの単語になったのだろうか。驚くことに、その古い英語のルーツは「friend(友人)」と同じだという。

語源学者のダグラス・ハーパーによると、「free」の古い語が意味するところは、自由のきかない奴隷に対して同じ種族の自由な一員、だったようです。

個人的な推測ですが、リナックスのコミュニティが盛り上がったのも仲間の"協働意識"があったからではないでしょうか。自由にソフトウェア開発に関与できる仲間意識がコミュニティを支えていた。貨幣で売買されるものは、売り手/買い手という関係性のなかに閉じられます。しかし、無料で「ほら、これあげるよ」という感覚があるとき、たとえネットを通じた他者であっても、友人的な"つながり"が生まれる。OKwaveのようなQ&Aサイトも同様です。知識や情報を無償で提供したとき、受け手は教えてくれたひとに親近感を抱く。

無料ではなくても、「無視できるほど充分に安ければ」心理的な防御を緩めることになるのかもしれません。パチッとスイッチを入れるように(P.119)。

ミードが理解していたのは、ものの価値がゼロに向かうと心理的スイッチがパチッと入ることだった。完全に無料にはならないかもしれないが、価格がゼロに近付くと、まるでそれがタダであるかのように扱われるという強みを持つ。ストラウスの言った、安すぎて気にならないではなく、安くて問題にならない、である。

それは言い換えれば、無料という「価値」が有料の価値を凌駕するからです。本書のなかでは、ダン・アリエリーの実験が引用されていて、リンツの高級チョコであるトリュフとハーシーのキスチョコの実験が紹介されています。リンツ:15セント(卸売価格の約半分)とハーシー:1セントの場合には、73%がリンツ、27%がハーシーを選んだとのこと。しかし、リンツ:14セントとハーシー:無料の場合には逆転し、69%がハーシーを選んだそうです。

ここでアリエリーは次のように説明しています。

たいていの商取引にはよい面と悪い面があるが、何かが無料!になると、わたしたちは悪い面を忘れ去り、無料!であることに感動して、提供されているものを実際よりずっと価値あるものと思ってしまう。なぜだろう。それは人間が失うことを本質的に恐れるからではないかと思う。無料!のほんとうの魅力は、恐れと結びついている。

確かに貨幣を損失することに対する恐れが価値を決めているという指摘は鋭いとおもいました。しかし、ぼくは無料にすることによって、貨幣的な交換条件が崩れ、共同体の仲間として無償でシェアする「friend(友人)」的な精神が発動するからではないか、と考えました。


■■フリーの4つのモデルと新たな価値観

第2章ではフリーを4つのモデルに分けています。本書では各ページごとにまとめられているのですが、4つ全部を俯瞰したかったことと自分の思考の整理のために、ポイントをワンシートにまとめてみました。

PowerPointでさくっと作ったチャートをFlashPaperで公開します。全画面表示が可能なので、上部のコントロールバーで印刷アイコンの右隣にあるアイコンを押して拡大してご覧ください。



「直接的内部相互補助」「三者間市場」「フリーミアム」「非貨幣市場」の4つがあり、最初の2つは従来からあるモデルです。テレビ、ラジオなどのいわゆるマスメディアは、広告による「三者間市場」です。雑誌、新聞の場合は、「三者間市場」なのですが、製造者が消費者(読者)からも費用を徴収するモデルと考えられるでしょう。

ここで従来にない新しいモデルが「フリーミアム」と「非貨幣市場」です。

フリーミアム(Freemium)はベンチャー・キャピタリストのフレッド・ウィルソンの造語であり、基本版は無料、追加機能などを拡充させたプレミアム版は有料というモデルです。注目したのは、オンラインサイトの場合は「5パーセント・ルール」というものがあり、5パーセントの有料ユーザーが他の無料ユーザーを支えている、ということでした。

ただし、巻末付録では次のようにも補足しています(P.330)。

フリーミアムを収益モデルとして利用することを考えているウェブ2.0企業に対する私のアドバイスは、ユーザー全体に対する有料ユーザーの割合は五パーセントを損益分岐点にすることだが、望ましい割合は一〇パーセントだ。それ以上の有料ユーザーがいる場合は、無料版の性能を絞りこみすぎていて最大数の潜在顧客をつかまえていない可能性がある。一方、割合が一〇パーセント未満のときは、無料ユーザーを支えるコストが高すぎて利益をあげられない恐れがある。

税計算ソフトのインテュイット社は、連邦税計算ソフトは無料で提供し、州税計算ソフトは有料で提供することによって、70パーセントのユーザーが有料版を買うという高い移行比率をあげているそうです(特殊なケースではあるようですが)。

このモデルを理解して、グーグルがなぜ収益をあげられるかについて納得しました。潤沢な利用者を有しているグーグルでは、わずかな会員数であったとしても、有料ユーザーによる収益が無料ユーザーを支えているのでしょう。

フリーミアムはデジタルの分野だけではありません。2007年7月にプリンスがニューアルバム「プラネット・アース」をデイリーメイル紙280万部に景品として付けたこと、ブラジルではテクノ・ブレーガと呼ばれるCDが無料で配られていることなどが挙げられていました。これらの音楽業界では、コンサートのイベント収益によって(つまり来場者が費用を負担することで)CDの無料配布が実現できたようです。日本ではまだ実例はないとおもうのですが、大物のアーティストがどかんとやってくれると風穴があきそうですね。

いちばん信じられないのが4つめ「非貨幣市場」なのですが、まずジョセフ・ベルトランという数学者の「ベルトラン競争」について次のように書かれています(P.227)。

競争市場においては、価格は限界費用まで下落する。

そこで、もしベルトラン競争の法則が適用されるのであれば「無料はたんなる選択肢のひとつではなく、必然的に行き着くところ」と述べています。この推測のキモとなる部分は「競争市場において」という部分で、例としてウィンドウズのOSを挙げ、なぜウィンドウズが無料にならないかといえば、ネットワーク効果により(つまり誰もが使っているということから)独占状態にあるからだ、とします。

また、「フリーライダー(ただ乗り問題)」も憂慮すべきではないと述べています。というのも、例えばWikipediaでは編纂に参加することにより、強い喜びが与えられるからです。一般的によく使われるマズローの欲求五段階説を使った理想論であり、若干疑問を感じつつ、次を引用します(P.251)。

要するに、私たちが報酬なしでも喜んですることは、給料のための仕事以上に私たちを幸せにしてくれる。私たちは食べていかなければならないが、マズローの言うとおりで、生きるとはそれだけではない。創造的かつ評価される方法で貢献する機会は、マズローがすべての願望の中で最上位に置いた自己実現にほかならず、それが仕事でかなえられることは少ない。ウェブの急成長は、疑いなく無償労働によってもたらされた。人々は創造的になり、何かに貢献をし、影響力を持ち、何かの達人であると認められ、そのことで幸せを感じる。こうした非貨幣的な生産経済が生まれる可能性は数世紀前から社会に存在していて、社会システムとツールによって完全に実現される日を待っていた。ウェブがそれらのツールを提供すると、突然に無料で交換される市場が生まれたのである。

確かに自分を省みても、非貨幣的な生産として、こんなに長文のブログを書き、ものすごい時間をかけて趣味のDTMで作った曲をアップロードし、Twitterで毎日つぶやきを残しています。このパワーはいったいどこから来るのか。

価値観が変わりつつある・・・という予感のようなものを感じました。

もちろん貨幣経済のなかにあり、日々最低限の生活をしていくためにはお金が必要です。その基盤は今後も変わらないことは確かでしょう。しかし、フリー(無料・自由)という非貨幣市場の登場により、別の価値観、別のモノサシによって、ゆたかに生きていくスタイルが模索されつつある。願わくば、その新しい価値観が閉塞された日本の経済を打破し、貧困や格差の社会的な問題を解決する糸口になればよいのですが。

しかしその一方で、限界費用まで下落していく市場において、競争が熾烈化することも必須といえます。楽観論だけでなく、競争に耐えうる叡智がなければ、フリーという潮流に翻弄されて生き残れないのではないか、という危機感もあります。企業の問題だけでなく、個人の問題としても。

+++++

余談なのですが、クリス・アンダーソンは「ワイアード」誌の編集長です。ワイアード日本語版、好きな雑誌のひとつだったんですよね。最終号(1998年11月号)、いまだに持っています。その他の号も持っていたりして。

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投稿者 birdwing 日時: 16:54 | | トラックバック

2010年2月21日

[DTM作品] Haru wo matsu(春を待つ。)

2月に入って東京では雪が降る日が何日かありました。それほど大雪というわけではなく、太陽が顔を出すとあとかたもなく消えてしまう程度の雪です。とはいえ、雪が積もると新鮮な気分です。寒いし道は歩きにくいのだけれど、なんとなく街全体が静かになった気がします。

そんな雪の日のスナップをふたつほど。18日にも雪が降りましたが、過去に遡り、立春の前(2月2日)に降った雪です。隣の家の駐車スペースの屋根に鳥の足跡がついていました。

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ベランダの植木鉢にも雪。

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梅の花も咲くようになり、そろそろ3月にも近付いてきました。はやくあたたかい日が来るといいですね。というわけで、「春を待つ。(haru wo matsu)」という曲を趣味のDTMで作ってみました。ブログで公開します。お聴きください。


■Haru wo matsu 春を待つ(3分41秒 5.05MB 192kbps)

作曲・プログラミング:BirdWing


今回はワルツ(3拍子)です。曲調としては"なんちゃってジャズ"第3弾という感じでしょうか。ピアノとウッドベースとドラムスという編成です。しかし、ドラムスのスネアの入れ方などよくわからないので自己流です。細かいゴーストノートをたくさん使っているので、実際に演奏したら腱鞘炎になりそうです(苦笑)。

ワンパターンなのですが、マイナーコードとメジャーコードがくるくると入れ替わる曲が好きです。今回もコードの明暗によって、春を待つ不安のようなものを表現したつもりです。ビギナー的な制作過程における発見がひとつありました。最初は文部省唱歌のようなきっちりとした音楽になってしまい、どうしてこうなっちゃうかな、と悩みました。その結果、音が「くっていない(シンコペーションしていない)」という単純なことに気付きました。部分的に音を前ノリにさせることで、やっと文部省唱歌的な呪縛から逃れることができました。

洋楽で3拍子といって思い出したのは、The City(キャロル・キング)の「Snow Queen」です。キャロル・キングと彼女の最初の旦那さんであるジェリィ・ゴフィンの曲ですが、ロジャー・二コルスも取り上げています。ロジャー・二コルス版のほうをYouTubeから。



ジャズでワルツといえば、やっぱりこれ。ビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デヴィ」です。学生の頃に毎朝、繰り返して聴いていたほど好きな曲でした。やさしくて洗練された雰囲気のあるワルツです。



ところで、楽曲の制作とは関係ないのですが、最近、音楽に関して個人的に影響(ショック)を受けたことが、ふたつあります。

ひとつめは現代音楽、武満徹さんの音楽を聴きはじめたことです。はるかむかしに武満徹さんの音楽を聴いて、ああ、こりゃダメだ、ぼくには合わない、とおもって投げ出してしまったことがありました。難解だったし、何かおどろおどろしいものが生理的に合いませんでした。しかし最近、聴き直して嵌まってしまった。癒されるのです。硬質なハープのきらめきとフルートが美しい「そして、それが風であることを知った」をYouTubeから引用します。



ぼくがショックを受けたのは、武満徹さんの音楽の芸術的に高められた無秩序性(のようなもの)です。デジタルで、しかもピアノロールによる打ち込みで音楽を作っているぼくは、どうしても曲に対するアプローチが構造的になります。つまりきれいな「建物」を作りやすい。しかし、武満徹さんの持っている秩序を破壊した「廃墟性」と、そこから生まれる妖しさにまいりました。これはぼくには表現できない、と。落ち込んだなあ。いや、そもそも武満徹さんと自分を比べるのが間違っているのですが、思考と表現の限界を突きつけられた気がして、凹みました。しばらく、「春を待つ。」という楽曲を制作する手が止まりました。

ふたつめは、まつきあゆむさんというミュージシャンの活動です。

宅録(自宅録音)で音楽を作っているインディーズの方で、myspaceでも音楽を発表されているのですが、その数が半端ではない。ASCII.jpの記事「著作権は自分で決める 音楽家・まつきあゆむの方法論」を読んでまず惹かれました。冒頭を引用します。

現在、音楽家が作品を売るための最もローコストでシンプルな方法。それは作家自身がリスナーにオーディオファイルを販売することだ。誰もが思いつくであろう「ネット上の手売り」。だが今まで、日本のアーティストは誰もやらなかった。

海外であれば、レディオ・ヘッドがアルバム音源の値段をダウンロードしたひとに決めさせるという過激な手法の例もあり、話題を呼びました。小規模では、決済機能を持つサイトを通じて楽曲を販売するインディーズのミュージシャンの方も存在したかとおもいます。しかし、まつきあゆむさんは販売のための基金まで設立されている。

さらにすごいとおもったのは、ソフトバンクが出資したUstreamというストリーミング(映像配信)サイトで、その制作過程を延々と実況されていたことです。先日2月19日には「2000人ツイッター」として、公開録画もされていました。公式サイトには次のように書かれています。

会場にて、新曲「2000twitter~それはあなたです!~(仮)」の作詞、作曲、録音を行います。
録音の模様はUstream生中継を予定しており「曲が0から生まれて行く姿」を世界中へお届けします。

■公式サイト http://matsukiayumu.com/

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宅録なのでメンバーは当然「ひとり」です。しかし、通常宅録は曲の制作過程を他人にみせないものです。音作りに時間もかかるし、失敗したり途中でのらなくなって曲をボツにしちゃったり、何が起こるかわからない。その過程をすべて中継されていて驚きました。

しかも、Ustreamでは映像と同時にTwitterの投稿が右側にタイムライン(TL)に流れていて、視聴者の投稿した歌詞から「それ採用」のように楽曲に取り入れていく。つまり、オンラインとオフラインを横断したコラボレーションによって、曲を「リアルタイムで」作っていくのです。

公開録音の会場には、ベースやギターが立てかけてあると同時に、ラップトップのコンピューターが設置されていました。向かって右サイドにもサポートするかたちでコンピュータの画面を眺めているひとがふたりほどいらっしゃいました。その中心で、まつきあゆむさんが(たぶんPro Toolsを使って)デジタル録音していく。バンドともエレクトロニカのラップトップミュージックとも違う画期的な制作過程が展開されていて、おおっと熱くなりました。

と、そんな風に、武満徹さんといういままで聴かなかった現代音楽との巡りあいや、まつきあゆむさんというTwitterやUstreamというテクノロジーを活用した宅録の新しい表現に衝撃を受けつつ、揺れ動きながら「春を待つ」自分です。

投稿者 birdwing 日時: 20:02 | | トラックバック

2010年2月12日

「私・今・そして神 ― 開闢の哲学」永井均

▼book10-04:真摯に哲学する、とはどういうことなのか。

4061497456私、今、そして神 (講談社現代新書)
講談社 2004-10-19

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「○○の時代はもう終わった」とか「ここから本当の○○がはじまる」というキャッチフレーズが、あまり好きではありません。聞こえのいいステレオタイプなことばであり、大袈裟だから注目を集めるのだけれど、根拠は「なんとなく終わった/はじまる」ことが多い。実は中身が何もありません。

どうしてひとは、はじまったとか終わったとか宣言したがるのでしょう。その発言によって、時代の預言者的な羨望を集めたいからでしょうか。しかし、いままでは何だったんだ、というかすかな疑問を感じます。勝手に終わらせないでほしいし、はじめないでほしい。

終わりとはじまりは密接に関連している場合があります。ほんとうにはじめるのであれば過去を破壊するぐらいの覚悟(=終わりの力)が必要であり、終わったのであれば、廃墟のなかに新しいものを構築する強い生命力の予見(=はじまりの力)を期待したい。

しかし、このキャッチフレーズが使われるとき、多くの場合では傍観者として「終わった/はじまった」というイメージを騒いでいるだけです。浮わついた騒々しさが逆に空しく響きます。

さて、永井均さんの「私・今・そして神」の帯に書かれたことばは、

「ここから本当の哲学が始まる!」。

やれやれ、とおもいました。脱力しました。

最後まで読了し、本来であればカントやライプニッツを下敷きにした哲学的な考察や、時間についての論考、私的言語の必然性についてなど、「本当の哲学が始まる」内容に焦点をあてて感想を書くべきではないかとおもいます。

しかし、ぼくは永井均という哲学者の、新書というメディアに接する姿勢に首を傾げました。要するに、読者をなめて文章を書いていませんか、ということです。不誠実である、と。

それは瑣末なこだわりであり、揚げ足取りにすぎないかもしれません。しかし、ぼくは職業ライターではないし、ブログは雑誌の書評ではないのだから、そんな偏った意見もありではないか。そこで内容とは離れたところで、若干、辛辣な批判をします。

そもそも本書の原稿のもとは、講談社の情報誌「本」の24回分の連載です。

講談社の「本」は情報誌という体裁をとっていますが、内容は書籍の販促目的だと考えています。要するに、有料のPR誌です。したがって、連載という記事を装っているけれど、永井均さんの著作(もしくは他の書籍)を認知・販売促進するための広告といえるでしょう。だから文中にも、他の著作を読むように推薦する文章がみられます。たとえば次のような。

■P.74

(前略・・・そういう問題はこの本では扱わないので、興味があれば、最近書いた『倫理とは何か』を読んでください、産業図書、二二〇〇円)。
で、冗談や宣伝はともかく、『悪脳の懐疑』は成り立つのだろうか。

■P.170

ただし、十年後のように私が過去や未来の私と出会う場合には、その時どちらが現に私であるか、という哲学的問題が生じる。これは、『マンガは哲学する』の中心テーマだったので、興味があれば読んでください。

前者は産業図書の本ですが、後者は講談社です。

読書好きにむけた「本」というPR誌である以上、リファレンスとして他の本を参照し、関連性を「親切」に紹介したものかもしれません。インターテクスチュアリティということばもあるように、本と本は文脈(コンテクスト)によって知の織物のような関連性の網目をつくっています。しかし、これは現代思想的な概念のきれいごとであって、参照による「冗談や宣伝」を読むために、ぼくらは新書を購入したわけではない。脚注で控えめに紹介すればよいことです。

ということを気にしはじめると、他の文章も気になります。読者に対して甘ったれているのではないか、と読める。たとえば次のような部分(P.81)。

(ところで、いまそこを読み返してみると、64ページの最後の段落は「だがしかし」で始まっているのだが、これがなぜ「だがしかし」なのかは、はるかに七段落を越えて、最後の段落までたどり着かないとわからない構成になっている。大変な悪文である。)

悪文とわかっているのなら、わかりやすくリライト(書き直し)してくださいよ、きちんとした文章に(怒)!。

そんな風に腹立たしくなりませんか。悪文だ、ということを読者に投げかけるのは、いかがなものか。講談社の編集者の方もおかしいとおもわなかったのでしょうか。永井均さんの言いなりだったのでしょうか。

うふふ、自虐的に自分の文章を悪文って言っちゃうぼくっておちゃめ?という、老教授のナルシスティックな一面がみえると同時に、内輪ウケで編集者も笑いながらスルーしている印象です。いい加減な新書制作の舞台裏がみえて気持ち悪い。気持ち悪いといえば、以下も若い学生におもねるような印象があり、困惑するものでした(P.93)。

ここで内容(中身)というのは、(私についてなら)永井均であるとか、千葉大学の教員であるとか、そういったことであり、(今についてなら)二〇〇四年十月二十日であるとか、その永井という人が広末涼子の「MajiでKoiする5秒前」を聞いているときであるとか、そういったことであり、(現実についてなら)一九四五年八月六日に広島に原爆が投下されたとか、地球が太陽のまわりをまわっているとか、そういうことです。

広末涼子の「MajiでKoiする5秒前」・・・ですか(苦笑)。モータウンのリズムを踏襲した、いいポップスだとはおもいますけどね。

いや、広末涼子ファンであることを公言するのは自由であり、あえてリアリティを持たせるために具体例を挙げたのかもしれません。けれどもこの言説には、学生にウケを狙った媚を感じます。こういう媚は不要です。興ざめする。

たぶん千葉大学の講義でも、要所要所でこんな風に笑いを取ろうとしているのでしょうね。学生の質が劣化したと嘆く前に、教授の質も劣化しているのでは、と皮肉を言いたくなりました。おふざけが悪いとはいいません。けれども、この永井均的姿勢が生理的にダメなのです。ぼくには。

どういうことだろう。もうすこし考えてみます。そもそも冒頭には、次のように書かれています(P.18)。

自分が理想とする作品にはほど遠いことを知りながら、それでも毎日、作品を作り続けている似非芸術家のように、私は毎日毎日、哲学的妄想を作り続けている。以前は、よくノートや紙の切れ端に書き留めていたが、いまはもう、ただ考えるだけだ。きのう考えたことは、きょうはもう忘れている。それでかまわない。つまり、一日中ただたれ流すだけの哲学。

そこで、さっと頭をよぎった記憶があります。茂木健一郎さんの「思考の補助線」を読んだときの印象でした。

「思考の補助線」もまた、「ちくま」という筑摩書房のPR誌に連載された原稿をまとめたものです。率直なところ酷い本でした。あの本で茂木健一郎さんは、思索の行く末がどこに辿り着くかわからないが書いていくというような、一種の即興的な知の冒険を示唆するスタイルを宣言されていました。けれども実際は、明確な目的をもって原稿を書いていない言い訳に過ぎないと感じました。ただの思考の「たれ流し」です。

「思考の補助線」は、読んでいて意味がわかりませんでした。思考のガラクタという感じ。わからないのはおまえの教養が足りないからだ、という反論もあるでしょう。しかし、茂木健一郎さんご自身も自分が何を書いているのかわかっていなかったんじゃないか、と想像しています。つまり、PRのためにネームバリューのある茂木健一郎という名前を出版社(雑誌)に提供し、とりあえず原稿用紙の升目を埋めることができれば、あとはどうでもよかったのではないか、と。

文章の「たれ流し」には、著者の誠意が感じられません。加えて、出版社の編集の姿勢にも、新書ブームにのった悪書の大量生産の企図を感じます。

あらためて哲学者としての永井均的な姿勢に決定的な違和感を感じたものは何か考えてみると、第1章冒頭に掲げられた、このことばでした(P.16)。

哲学が好きだ。五十を過ぎればさすがに少しは飽きるかと思ったが、ぜんぜん飽きない。

一見して、このことばは前向きで、枯れた哲学者の悟りをおもわせます。ぼくも第一印象では、共感をもって受け止めました。好きなことを仕事にできるっていいな、自由だな、と。けれども最後まで読み進むうちに、このことばに生理的な嫌悪を感じました。きれいごとじゃないですか。軽薄すぎる。

中島義道さんの著書を読んだ影響が大きいのかもしれません。ぼくは去年、徹底的に中島義道さんの著作を読み、(合わない部分もあるけれど)彼の哲学に惚れています。心酔しました。その観点から考えると、哲学は「好きだ」と軽薄にいっちゃえるようなものではない。

哲学研究者であればともかく、ほんとうに哲学をすることは、苦痛や自省や孤独のうちにおいて行われるものであり、簡単に「好きだ」などと公言できるものではない。脂汗を流しながらもしんどい思考を停止させずに積み重ねていくことが哲学です。だから、はじまりもなければ終わりもない。永井均さんの、哲学好きなんだよね、などとさわやかに言ってのける姿勢が、嫌だ。

本書のなかでも中島義道さんの名前を出して、文体を真似したところや、ライバル視しているような表現もありました。しかし、おなじ五十を過ぎた哲学者といっても、このふたりは対象的です。

中島義道さんの哲学は、身体から発したことばで語られているように感じています。本来ならば恵まれているはずの環境に抗い、もうすぐ死んでしまう自分の存在に徹底的にこだわり、周囲のひとびとを不幸に落としこみながら思考の血を流して至った境地の重みがあります。

しかし、永井均さんの哲学は、何の不自由もなく生きてきて暇をもてあまして考えてみました、という印象です。あくまでも個人的な印象であり、偏見かもしれません。けれども洗練されていますが、深みも重みもない。そんな風にぼくには感じられます。

自分に関していえば、昨年、しんどい時期を経由して、軽々しい「知」というカッコでくくられるような哲学には満足できなくなりました。哲学に対する思い入れがあるからこそ過剰に哲学に期待し、偏った思考も生まれてくるのかもしれません。

カントが、ライプニッツが、という先駆者の哲学をなぞった「お勉強」だけでは、充たされないものを感じています。「妄想」との戯れ、つまり身体的にファルスの機能を失った老体による思考のマスターベーションは、哲学ではない。斬れば血(知ではなくて)が出るような、なまなましい身体から生まれた"ことば"を哲学として読みたい。そして自分の身体に哲学を浸透させたい。

「<子ども>のための哲学」(講談社現代新書)には、新しい発見と、本全体を貫く真摯な姿勢を感じました。しかし、「私・今・そして神」は哲学に向かう姿勢という観点から、ダメだとおもいます。取り上げたテーマはともかくとして。

投稿者 birdwing 日時: 20:35 | | トラックバック

2010年2月 8日

Charlotte Gainsbourg / IRM

▼music10-02:ベックが彼女の魅力をもうすこし引き出せたなら。

IRM
シャルロット・ゲンズブール
IRM
曲名リスト
1. マスターズ・ハンズ
2. IRM
3. ル・シャ・ドゥ・カフェ・デ・アーティスト
4. イン・ジ・エンド
5. ヘヴン・キャン・ウェイト
6. ミー・アンド・ジェーン・ドウ
7. ヴァニティーズ
8. タイム・オブ・ジ・アサシンズ
9. トリック・ポニー
10. グリニッジ・ミーン・タイム
11. ダンデライオン
12. ヴォヤージュ
13. ラ・コレクショヌーズ
14. ルッキング・グラス・ブルース *ボーナス・トラック

Amazonで詳しく見る
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シャルロット・ゲンズブールって、美人じゃないとおもいます。などと唐突に書くのは大変失礼だけれど、スレンダーというよりも痩せてがりがりな印象だし、少女がそのままオトナになったようなこまっしゃくれた雰囲気は、どこか地味で華がない。彼女と同年齢ぐらいの女性であれば、街中でみかける主婦さんのほうが余程きれいな方がいます。

が、しかし。フォトジェニックというか、写真やムービーのなかでみる彼女は美しい。なぜか可愛らしくて惹かれるものがあります。ミュージシャンのセルジュ・ゲンズブールと女優のジェーン・バーキンの娘という血筋のせいかもしれません。

映画では、「フレンチなしあわせのみつけ方」のワンシーンなど、いいなあとおもいます。ジョニー・デップ演じる男とCDショップの試聴スポットで出会い(BGMはレディオ・ヘッドの「Creep」)、男のことを気にしながら声をかけようか躊躇う。そんな場面です。

「IRM」は、ジャケットに使われたモノクロのポートレートがいい感じ。裏面もセクシーです。唇とか目とかクールさを漂わせながら、なまめかしい。こんな感じ。

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さて楽曲は、というと、全面的にベックとのコラボレーションで作られているため、非常にベックらしい凝った音づくりです。すこしばかりサイケデリックというか、ストレートなロックではない。アクの強いひねくれた印象があります。独特の空気感あるいは雰囲気です。彼の音楽の特長といえるでしょう。

全曲通して聴いてまず印象に残ったのは、パーカッションでした。ライナーノーツで解説されていたように、彼女の父親であるセルジュ・ゲンズブールがアフリカのパーカッションを多用したことに対するオマージュなのかもしれません。とにかく、どんどこどこどこ、どですかどかでん、というような激しいリズムが(空間的なエフェクト処理をされているせいもあって)気持ちよく響きました。

次は弦。ストリングスのアレンジは、ベックのお父さんが手がけているそうだけれど、気だるいような弦の音が記憶に残ります。そのあと印象的なのが・・・シャルロット・ゲンズブールの歌でしょうか(苦笑)。

タイトルのIRMとは、英語でいうMRI(magnetic resonance imaging:磁気共鳴画像法)のようです。フランス語では、まったく逆になってIRM(image en resonance magnetique)と呼ばれているとのこと。脳を輪切りにして内部を撮影して診察する医療機器ですね。ただし、CTとは異なりX線を使用しないようです(Wikipediaの「MRI」)。

うちの次男も、髄膜炎で意識がうつろなときにMRIで診察を受けました。小児科専門の大きな病院だったので、円筒状のMRIは子供たちが怖がらないようにドーナッツの絵が描いてあったっけ。シャルロット・ゲンズブールは、07年に水上スキーの事故で頭を打ち、MRIで検査をしたところ、脳内の大量出血がみつかり手術をしたそうです。

そのMRIの電子音が、そのままサンプリングさせてタイトル曲に使われています。スキャンをしても思考や記憶などはみえないのですが、歌詞は「何がみえる?」として、罪の影などもみえるのか、という問いを投げかけています。

1曲目の「Master's Hands」から2曲目の「IRM」にかけては、サラウンド効果をかけているのでしょうか、立体的な音像が面白い。楽しいです。個人的には、1曲目を聴いた感想は、トム・ヨークのソロというかレディオ・ヘッド的な繊細な翳りを感じました。「Master's Hands」は好きな曲です。マイナーコードのなかに、ちらっとメジャーコードが入るあたりとか、ルートを外したベースのハイトーンによる無機質な音とか。

「IRM」は、ヘッドフォンで聴いたら左右の音像などにびっくりしました。映像はありませんが、以下YouTubeから。

■Charlotte Gainsbourg - IRM


3曲目はフランス語の曲。フランス語による曲は、アルバムのなかでこの1曲のみです(あとはすべて英語)。しかもベックとの共作ではなく、70年代のジャン=ピエール・フェルランというひとのカヴァーとのこと。いい雰囲気の曲です。前作「5:55」をおもい出しました。

なぜフランス語ではなくて英語の作詞なのか。ライナーノーツの解説を読むと、次のようなコメントがあります。

だってベックはフランス語では歌詞を書けないでしょ。で、私はベックが書くものを歌いたかったから、そうするのが一番。それに母国語で歌わないことで感じる"借り物感"が好きなの。

フランス語で歌うと、どうしても父であるセルジュ・ゲンズブールの壁がある。英語で歌うと解放されるそうです。けれども個人的な感想としては、ほかにもフランス語の曲が聴きたかった。歌詞カードの翻訳を読まなければ、意味はわかりませんけどね。何よりも音の響きが魅力的なので、彼女にはフランス語で歌ってほしかった。フランス語の歌詞×ベックの楽曲というコラボがどうなるのか予測がつきませんが、ひょっとしてぶち壊しだったとしても、そんな挑戦があってもいいのではないでしょうか。

ベックといっしょに歌っている5曲目「Heaven Can Wait」は、どこかキンクスとかジョン・レノンとか、古いミュージシャンを彷彿とさせる曲です。

■Charlotte Gainsbourg feat. Beck - Heaven Can Wait


ウィスパー(囁き)系のヴォイスが好きなので、アルバム後半の曲では8曲目「Time Of Assassins」がいいです。もろにアフリカのリズムが導入された12曲目「Voyage」もいい。アコースティックギターのカッティングに惹かれます。

シャルロット・ゲンズブールは曲によって歌い分けています。しかし、ここでもぼくの好みを述べるのであれば、ウィスパー(囁き)系の曲を増やしてほしかった。

ベックの解釈によるところが大きいのかもしれませんが、リバーブをかけたり音を加工したりするエフェクト処理よりも、彼女自体の歌声を引き立てるようなプロデュースをしたほうがいいんじゃないのかな、と感じました。だからといってぜんぜんダメなわけではなく、むしろコラボとしては成功しているのですが。

ベックはやりたい放題で、というよりも自分の領域に彼女を引き込んでしまった印象があります。完成度は高い。良質な曲ばかりです。しかしながら個人的な感想としては、シャルロット・ゲンズブールらしさがいまひとつ。なかなかコラボは難しそうです。

投稿者 birdwing 日時: 20:37 | | トラックバック

2010年2月 6日

[DTM作品] OBORO-ZUKIYO(朧月夜)

真冬の季節、空気が澄んでいると月がきれいにみえます。あまりにも寒い日には、コートの襟をきちっと合わせて、俯いて足早に帰路を急いでしまうのだけれど、月を眺めながら帰るのもよいものです。

Twitterで、今夜は月がきれい、というつぶやきを聞きました。ちょうど宮本笑里さんのブログにも、月の写真が掲載されていました(1月30日のエントリー)。ほんとうにきれいな月夜だったんですね。

残念ながら、ぼくの部屋から月はみえなかったのですが、こころのなかの月を眺めつつ、趣味のDTMで月夜をイメージした曲を作ってみようと考えました。相変わらず、瓶のなかのちいさな帆船を組み立てるように、すこしずつ作っていきました。今日はこの小節の最後だけを作ろう、というように。ぼくにとってのDTMは、プラモデルの趣味に似ている気がします。

ブログで公開します。「OBORO-ZUKIYO(朧月夜)」というタイトルにしました。お聴きください。


■OBORO-ZUKIYO 朧月夜(4分00秒 5.49MB 192kbps)

作曲・プログラミング:BirdWing


月といえば、以前2007年9月に「ハーフムーン」という曲も作ったことがあります。これはDTM×掌編小説という試みで、曲のイメージから短い小説も書いています。なんとなく青臭い物語なのですが、再掲載してみます。

以下、サムネイル(画像)をクリックしてください。縦書きのCSSを使っていますので、縦書きで読むことができます。

縦書きテスト

さて、今回の制作メモを書いておきましょう。

月を表現するには、やはりピアノの音が重要かな、と。3Bのひとり、ベートーヴェンのピアノソナタ(月光)の印象があまりにも強いからかもしれません。ぜんぜんぼくの作った曲とは異なり、唐突な引用ではありますが、月の光をイメージする代表的な曲ということで、ヴィルヘルム・ケンプの演奏をYouTubeから。



この月光という曲、少年の頃にさらっと弾けちゃう男がいて悔しかったなあ。そのコンプレックスがいま、ピアノは弾けないけれど、一種の"オルゴール職人"として、パソコンに入力して曲を作り上げることに奮闘する自分の原動力となっているのですが。

霞んだ月を表現するには、ゆったりとした響きが大事です。いつも使っている明るめのピアノの音色(TTS-1:Piano 2st)ではなく、すこしくぐもった音のプリセット(TTS-1:Piano 1d)にリバーブをうっすらとかけてみました。ベースはウッドベース(Acoustic Bs.)、ドラムスはジャズドラム(Jazz Set)のプリセットです。トランペットも明るく突き抜けた音ではなく、すこしこもった感じの音(Dark Trumpet)にしました。

最後まで選択に迷ったのは、いかにもシンセっぽいSpaceVoiceという音色を使うか否か、でした。ストリングス系やオルガンを試してみてもどうもしっくりこなかったため、この音にしました。とはいえ途中でメロディをとる部分は、シンプルな構成だけれど月あかりっぽい音かな、とおもっています。

DTMの作品では、前回までの2曲は"なんちゃってジャズ"を試みました。今回はその試みで得たものを継承しつつ、「Fine after cloudy」の最後で考えたように、ロジャニコ(ロジャー・二コルス)の楽曲に近い方向性を意識しました。

Roger Nichols & the Small Circle of Friends

と、書いていても実際に作った「OBORO-ZUKIYO」は、ぜんぜんロジャニコに近付かない。こじつけにすぎない印象です。どうにも不甲斐ありません。基本的にA+Bという構成のシンプルな曲ですが、Bつまりサビの部分のトランペットなどでロジャニコを意識したつもりなんですけど。。。

このサビが出てくるまでに、かなりたくさんのサビを作りました。歌謡曲のようなものもあり、クラシカルなものもあり。で、納得がいかずにすべてボツ。壊しました。転調してこの展開を得たときに、おっ?きたかな、という感じが若干ありました。しかし、もうすこしロジャニコを研究しなければ。

ところで月について。Wikipediaの「」に関するページには、天文学的なデータから西洋と東洋の伝承に至るまで、さまざまな解説が掲載されています。以下の月の秤動(ひょうどう)いわゆる満ち欠けの画像はライセンスフリーのようなので掲載します。

Lunar_libration_with_phase2.gif

うーん。凄いな。いつもよりはやくまわっています(笑)。GIFアニメなので、どうにも止められません。目がまわりそうだ。

雲のない夜には、月を眺めてみてはいかがでしょう。

外に出るときは寒いのですが、月を観賞したあとは部屋のなかで、カフェオレやほっとレモンなどを飲んであたたまることにして。

投稿者 birdwing 日時: 14:15 | | トラックバック

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