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2010年2月12日

「私・今・そして神 ― 開闢の哲学」永井均

▼book10-04:真摯に哲学する、とはどういうことなのか。

4061497456私、今、そして神 (講談社現代新書)
講談社 2004-10-19

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「○○の時代はもう終わった」とか「ここから本当の○○がはじまる」というキャッチフレーズが、あまり好きではありません。聞こえのいいステレオタイプなことばであり、大袈裟だから注目を集めるのだけれど、根拠は「なんとなく終わった/はじまる」ことが多い。実は中身が何もありません。

どうしてひとは、はじまったとか終わったとか宣言したがるのでしょう。その発言によって、時代の預言者的な羨望を集めたいからでしょうか。しかし、いままでは何だったんだ、というかすかな疑問を感じます。勝手に終わらせないでほしいし、はじめないでほしい。

終わりとはじまりは密接に関連している場合があります。ほんとうにはじめるのであれば過去を破壊するぐらいの覚悟(=終わりの力)が必要であり、終わったのであれば、廃墟のなかに新しいものを構築する強い生命力の予見(=はじまりの力)を期待したい。

しかし、このキャッチフレーズが使われるとき、多くの場合では傍観者として「終わった/はじまった」というイメージを騒いでいるだけです。浮わついた騒々しさが逆に空しく響きます。

さて、永井均さんの「私・今・そして神」の帯に書かれたことばは、

「ここから本当の哲学が始まる!」。

やれやれ、とおもいました。脱力しました。

最後まで読了し、本来であればカントやライプニッツを下敷きにした哲学的な考察や、時間についての論考、私的言語の必然性についてなど、「本当の哲学が始まる」内容に焦点をあてて感想を書くべきではないかとおもいます。

しかし、ぼくは永井均という哲学者の、新書というメディアに接する姿勢に首を傾げました。要するに、読者をなめて文章を書いていませんか、ということです。不誠実である、と。

それは瑣末なこだわりであり、揚げ足取りにすぎないかもしれません。しかし、ぼくは職業ライターではないし、ブログは雑誌の書評ではないのだから、そんな偏った意見もありではないか。そこで内容とは離れたところで、若干、辛辣な批判をします。

そもそも本書の原稿のもとは、講談社の情報誌「本」の24回分の連載です。

講談社の「本」は情報誌という体裁をとっていますが、内容は書籍の販促目的だと考えています。要するに、有料のPR誌です。したがって、連載という記事を装っているけれど、永井均さんの著作(もしくは他の書籍)を認知・販売促進するための広告といえるでしょう。だから文中にも、他の著作を読むように推薦する文章がみられます。たとえば次のような。

■P.74

(前略・・・そういう問題はこの本では扱わないので、興味があれば、最近書いた『倫理とは何か』を読んでください、産業図書、二二〇〇円)。
で、冗談や宣伝はともかく、『悪脳の懐疑』は成り立つのだろうか。

■P.170

ただし、十年後のように私が過去や未来の私と出会う場合には、その時どちらが現に私であるか、という哲学的問題が生じる。これは、『マンガは哲学する』の中心テーマだったので、興味があれば読んでください。

前者は産業図書の本ですが、後者は講談社です。

読書好きにむけた「本」というPR誌である以上、リファレンスとして他の本を参照し、関連性を「親切」に紹介したものかもしれません。インターテクスチュアリティということばもあるように、本と本は文脈(コンテクスト)によって知の織物のような関連性の網目をつくっています。しかし、これは現代思想的な概念のきれいごとであって、参照による「冗談や宣伝」を読むために、ぼくらは新書を購入したわけではない。脚注で控えめに紹介すればよいことです。

ということを気にしはじめると、他の文章も気になります。読者に対して甘ったれているのではないか、と読める。たとえば次のような部分(P.81)。

(ところで、いまそこを読み返してみると、64ページの最後の段落は「だがしかし」で始まっているのだが、これがなぜ「だがしかし」なのかは、はるかに七段落を越えて、最後の段落までたどり着かないとわからない構成になっている。大変な悪文である。)

悪文とわかっているのなら、わかりやすくリライト(書き直し)してくださいよ、きちんとした文章に(怒)!。

そんな風に腹立たしくなりませんか。悪文だ、ということを読者に投げかけるのは、いかがなものか。講談社の編集者の方もおかしいとおもわなかったのでしょうか。永井均さんの言いなりだったのでしょうか。

うふふ、自虐的に自分の文章を悪文って言っちゃうぼくっておちゃめ?という、老教授のナルシスティックな一面がみえると同時に、内輪ウケで編集者も笑いながらスルーしている印象です。いい加減な新書制作の舞台裏がみえて気持ち悪い。気持ち悪いといえば、以下も若い学生におもねるような印象があり、困惑するものでした(P.93)。

ここで内容(中身)というのは、(私についてなら)永井均であるとか、千葉大学の教員であるとか、そういったことであり、(今についてなら)二〇〇四年十月二十日であるとか、その永井という人が広末涼子の「MajiでKoiする5秒前」を聞いているときであるとか、そういったことであり、(現実についてなら)一九四五年八月六日に広島に原爆が投下されたとか、地球が太陽のまわりをまわっているとか、そういうことです。

広末涼子の「MajiでKoiする5秒前」・・・ですか(苦笑)。モータウンのリズムを踏襲した、いいポップスだとはおもいますけどね。

いや、広末涼子ファンであることを公言するのは自由であり、あえてリアリティを持たせるために具体例を挙げたのかもしれません。けれどもこの言説には、学生にウケを狙った媚を感じます。こういう媚は不要です。興ざめする。

たぶん千葉大学の講義でも、要所要所でこんな風に笑いを取ろうとしているのでしょうね。学生の質が劣化したと嘆く前に、教授の質も劣化しているのでは、と皮肉を言いたくなりました。おふざけが悪いとはいいません。けれども、この永井均的姿勢が生理的にダメなのです。ぼくには。

どういうことだろう。もうすこし考えてみます。そもそも冒頭には、次のように書かれています(P.18)。

自分が理想とする作品にはほど遠いことを知りながら、それでも毎日、作品を作り続けている似非芸術家のように、私は毎日毎日、哲学的妄想を作り続けている。以前は、よくノートや紙の切れ端に書き留めていたが、いまはもう、ただ考えるだけだ。きのう考えたことは、きょうはもう忘れている。それでかまわない。つまり、一日中ただたれ流すだけの哲学。

そこで、さっと頭をよぎった記憶があります。茂木健一郎さんの「思考の補助線」を読んだときの印象でした。

「思考の補助線」もまた、「ちくま」という筑摩書房のPR誌に連載された原稿をまとめたものです。率直なところ酷い本でした。あの本で茂木健一郎さんは、思索の行く末がどこに辿り着くかわからないが書いていくというような、一種の即興的な知の冒険を示唆するスタイルを宣言されていました。けれども実際は、明確な目的をもって原稿を書いていない言い訳に過ぎないと感じました。ただの思考の「たれ流し」です。

「思考の補助線」は、読んでいて意味がわかりませんでした。思考のガラクタという感じ。わからないのはおまえの教養が足りないからだ、という反論もあるでしょう。しかし、茂木健一郎さんご自身も自分が何を書いているのかわかっていなかったんじゃないか、と想像しています。つまり、PRのためにネームバリューのある茂木健一郎という名前を出版社(雑誌)に提供し、とりあえず原稿用紙の升目を埋めることができれば、あとはどうでもよかったのではないか、と。

文章の「たれ流し」には、著者の誠意が感じられません。加えて、出版社の編集の姿勢にも、新書ブームにのった悪書の大量生産の企図を感じます。

あらためて哲学者としての永井均的な姿勢に決定的な違和感を感じたものは何か考えてみると、第1章冒頭に掲げられた、このことばでした(P.16)。

哲学が好きだ。五十を過ぎればさすがに少しは飽きるかと思ったが、ぜんぜん飽きない。

一見して、このことばは前向きで、枯れた哲学者の悟りをおもわせます。ぼくも第一印象では、共感をもって受け止めました。好きなことを仕事にできるっていいな、自由だな、と。けれども最後まで読み進むうちに、このことばに生理的な嫌悪を感じました。きれいごとじゃないですか。軽薄すぎる。

中島義道さんの著書を読んだ影響が大きいのかもしれません。ぼくは去年、徹底的に中島義道さんの著作を読み、(合わない部分もあるけれど)彼の哲学に惚れています。心酔しました。その観点から考えると、哲学は「好きだ」と軽薄にいっちゃえるようなものではない。

哲学研究者であればともかく、ほんとうに哲学をすることは、苦痛や自省や孤独のうちにおいて行われるものであり、簡単に「好きだ」などと公言できるものではない。脂汗を流しながらもしんどい思考を停止させずに積み重ねていくことが哲学です。だから、はじまりもなければ終わりもない。永井均さんの、哲学好きなんだよね、などとさわやかに言ってのける姿勢が、嫌だ。

本書のなかでも中島義道さんの名前を出して、文体を真似したところや、ライバル視しているような表現もありました。しかし、おなじ五十を過ぎた哲学者といっても、このふたりは対象的です。

中島義道さんの哲学は、身体から発したことばで語られているように感じています。本来ならば恵まれているはずの環境に抗い、もうすぐ死んでしまう自分の存在に徹底的にこだわり、周囲のひとびとを不幸に落としこみながら思考の血を流して至った境地の重みがあります。

しかし、永井均さんの哲学は、何の不自由もなく生きてきて暇をもてあまして考えてみました、という印象です。あくまでも個人的な印象であり、偏見かもしれません。けれども洗練されていますが、深みも重みもない。そんな風にぼくには感じられます。

自分に関していえば、昨年、しんどい時期を経由して、軽々しい「知」というカッコでくくられるような哲学には満足できなくなりました。哲学に対する思い入れがあるからこそ過剰に哲学に期待し、偏った思考も生まれてくるのかもしれません。

カントが、ライプニッツが、という先駆者の哲学をなぞった「お勉強」だけでは、充たされないものを感じています。「妄想」との戯れ、つまり身体的にファルスの機能を失った老体による思考のマスターベーションは、哲学ではない。斬れば血(知ではなくて)が出るような、なまなましい身体から生まれた"ことば"を哲学として読みたい。そして自分の身体に哲学を浸透させたい。

「<子ども>のための哲学」(講談社現代新書)には、新しい発見と、本全体を貫く真摯な姿勢を感じました。しかし、「私・今・そして神」は哲学に向かう姿勢という観点から、ダメだとおもいます。取り上げたテーマはともかくとして。

投稿者 birdwing : 2010年2月12日 20:35

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2 Comments

David Cobb 2010-10-27T08:51

I agree with the post above and I will find more information from google.

BirdWing 2010-10-27T12:47

I hope you'll find out more information. Good luck!

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