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このページは2007年8月に書いたすべてのエントリーです。

2007年8月31日

夏休み後の宿題。

夏が終わります。7月に読了の本のレビューが1本、7月に聴いたCDのレビューが2本、そして8月には5枚のCDを購入して、いずれもいまだにブログで感想を書けずにいます。聴いたものもあれば、まだ聴いていないものもあったりして。夏休み"後"の宿題としましょうか。

まずは8月24日に購入したCD3枚です。

B000RVB8O4A Mark on the Pane
タマス・ウェルズ
Lirico 2007-07-20

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The_enchanted_hill.jpg The Album Leaf
The Enchanted Hill
キュール キュール
アミーナ


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Tamas Wellsのライブ前に1stを聴いておこうと思って購入したのですが、傾向的に同じような2枚を購入してしまいました。

The Album Leafはフジロックに来れなかったようですが来日記念盤です。ジミー・ラヴェルのひとりユニットで、彼自体はサンディエゴ出身ですが、シガー・ロスやMumも参加しているアルバム「In a Safe Place」 はよいアルバムでした。一方で、amiinaはシガー・ロスのバックバンドを勤め、レコーディングにも参加している4人組女性とのこと。試聴して癒される音だったので購入です。

続いて以下の2枚は、8月28日に購入。

ブラック・ホールズ・アンド・レヴァレイションズ[最強盤](DVD付)ブラック・ホールズ・アンド・レヴァレイションズ[最強盤](DVD付)
ミューズ


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Memory ManMemory Man
アクアラング


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一転して、ちょっと元気のいいロックでしょうか。ドラマティックな感じのするMUSEは、大袈裟すぎるぐらいのアレンジが楽しい。一方で、Aqualungは、イギリスのウィンチェスター出身のMatt Halesのひとりユニット。どちらのバンドもトム・ヨーク的な翳りが感じられます。

いずれきちんと感想を書くことにして、まずは覚書あるいはメモとして列記しておきます。それよりも放置されていた長男くんの自由研究をやらねば。とほほ。

投稿者 birdwing 日時: 23:03 | | トラックバック

2007年8月30日

追いつかない現在。

日記的なものではなくコラム的なものを書こうということで、デイリー・コラムニストを宣言してみました。けれども、毎日何かを書くのは難しいようです。ネタを探すのも大変だし、時間を作るのも大変。しかしながら、大変だ大変だといっていてもはじまらないので、

  • 大変だ
  • 忙しい
  • 時間がない

という言葉は(なるべく)NGワードにします。それだけで何か書けちゃいそうなので便利なのですが、その言葉が逃げにもなるので。

書かずにいられない病をハイパーグラフィアというそうで、アリス・W・フラハティの「書きたがる脳 言語と創造性の科学」という本を読んでから、何度かブログでも引用させていただきました。反対の言葉はライターズブロックで書きたいのに書けない。

書きたがる脳 言語と創造性の科学
吉田 利子
書きたがる脳 言語と創造性の科学
曲名リスト
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本物のハイパーグラフィアなひとは常に何かを書いているらしく、つまり食事をしていてもメモに何かを書き殴っていたり、本の余白をびっしりと文字で埋めてしまうとのこと。さすがにぼくはそこまで熱心ではありませんが、通勤電車のなかなどで、アタマのなかを電光掲示板のように文字が流れていくことがあります。ああ、このアタマのなかの文字をそのままジャックからアウトプットできれば、と思う瞬間です。

そもそも書くという行為自体が、厳密にいえばリアルではありません。脳内で言葉が生まれて、指先に伝わり、パソコンの文字に入力されたインプットがディスプレイに表示される。たぶんその過程でわずかな遅延があり、タイムロスがある。ぼくは仕事のためにブラインドタッチはもちろん、話すこととほぼ同じ速度でタイプすることができますが、キーボードに慣れていないひとであればかなり時間がかかるでしょう。

この時間、ロスタイムが結構重要な気がしています。

というのはですね、書くために時間をかけると、その間にいろんなことを考えてしまう(笑)。当たり前なのですが、人間、暇があるといろんなことを考えます。もちろん大事なことを考えることもありますが、どーでもいいことに固執することもある。たいてい、仕事においても、どーでもいいクレームや余計な提言をするひとは暇なひとで、忙しいひとはかなりポジティブに瞬間的に判断して、いいんじゃない?やろうよ、とノリもいい。

文章においても、時間があると、まてよ、こんなこと書くとあちらの方面に角が立ちそうだ、とか、ああ、なんだか読み直したら落ち込んできた、ぼくってダメなのねーとか、さまざまな妄想が脳裏をよぎります。で、書くのを止めてしまう。

また、書く対象として、

安全地帯のネタ/危険地帯のネタ

というものがあるのではないでしょうか。

たとえば、こんなもの食べた、こんな本を読んだ、こんなところへ行ったという話題は、安全地帯のネタです。記録に近いので、書いたからといって、あとで落ち込んだり自己嫌悪に陥ることも少ない。しかしながら、あいつに頭にきた、ないしょだけどわたしはこんな人間です、過去にこんなことしちゃいました、のようなカミングアウト系のネタはかなり危険地帯に踏み込んでいる(笑)。

ぼくはどちらかというと、あえて自分からデンジャラスゾーンに飛び込んでいって、あぶなーい、身を伏せろっ!という知人やネットで親しくしている方の声を聞こえないふりして、やだよーん、これ押しちゃうんだもーん、という感じで自爆装置を押して、ちゅどーんと自分もろともブログを吹き飛ばしてしまうようなタイプです。ただ、数年前であれば考えもなく感情のままにエントリーしていたのですが、最近ではかなり考えているんですよね(これでも)。

うまく言えないのですが、演出している、という感じでしょうか。アブナイ自分を演出している、というところもある。だからギリギリのところで危険を回避して、心のバランスもとれるようになってきました。

しかし、クリエイター思考というかアーティスト思考のいけないところなのかもしれないのですが、安定してくると、その安定を壊したくてむずむずしてくる(苦笑)。あっちの地雷は大きそう(ぽっ)という風に、わざわざ自爆のネタを探してしまうわけです。

というわけで半分自爆気味で20分ぐらいで書き殴ったエントリーが「夏の終わりと焦燥感。」だったのですが、このひとまた自爆しちゃうんじゃないかしら?という不安を煽ってしまったせいか、みなさんから心あたたまるコメントをいただきました。すみません。そして、ありがとうございます。

コメントを読んでいろいろ考えていることもあります。ところが、その考えていることが現実に追いつかなくて、書こうかどうしようか迷っているうちに別の書きたいことなどが出てきたりして、とても困ります。

文章を書くということは、終わりのない現実との鬼ごっこなのかもしれません。

トラが自分のしっぽを追いかけてバターになってしまう童話みたいなものでしょうか。とろけそうな暑さは次第に薄らいできましたが、考えすぎて思考のバターにならないように気をつけます。なんとなく思考のバターは美味しくなさそうだし。

投稿者 birdwing 日時: 23:31 | | トラックバック

2007年8月28日

夏の終わりと焦燥感。

不安です。何が不安かというと、息子(長男くん)の自由研究が終わるかどうかが不安です。

ああ、なぜ父がそんな心配をしているのでしょう。朝食抜きでよろめきながら会社に赴き、昼食はマカ(ウィダー・イン・ゼリーの強壮剤っぽいやつ)+コンビ二で購入したサラダを短期間で食らって、しかも時には昼食にありつけるのは4時だったりして(何飯ですかそれは)、新宿、渋谷から新横浜と飛び回って汗みどろになって働き、10月公開のサイト企画のためにプレッシャーに押し潰されそうになりながら、外部協力会社に電話をかけまくり、設計図を引きまくり、予算をはじきまくり、くたびれ果てて早くて10時、遅くて終電で深夜に帰宅して眠れぬ夜を過ごしているというのに。

うちの奥さんは子供の教育に関しては、正直なところ放棄状態です。自由研究は例年、ぼくに任せきりでした。いや、いいんですけどね。ぼくはそういうの好きだし、息子たちといっしょに楽しめるし。でもねー、一日中、家のなかで息子たちとDSやってるのはいかがなものでしょう。宿題はぼくに任せたとしても、もう少し子供たちの夏休みを有意義に過ごさせてあげるために、プールに連れて行くとか、博物館に行くとか、公園に行くとか、あるでしょうに(泣)。ああ、できることならぼくが休暇を取って、連れて行ってあげたい。でも、全員に反対されるんですよね。やだ、と。

本音トークを炸裂させてしまいますが、ぼくはこの結婚が果たしてよかったのか?という疑問を感じています。もちろん奥さんにも不満はあるだろう。仕事に夢中で(というか追われまくって)、家事も料理もできなくて、PCや音楽ばかりにかまけていて、くたびれて休日には廃人になっている旦那には、そりゃー不満はあるだろう。

申し訳ない。ほんとうにすみません(涙)。いたらない旦那でごめん。

でも、ぼくはもういいのだ。どうせくたびれ果てて消耗して、死んでいく人間だ。

ただ、息子たちの人生はこれからです。その息子たちが夏だというのに青っ白い顔をして、くたびれたぼくが家を出るときにも何も言わずにDSやポケモンに向かっているのはどうだろう。ぼくは「行ってきます・・・」とひとりごとを呟きながら、何か切ない。それが妻のぼくに対する復讐であるのなら、全面的に受けることにします。その辛さを受け止めたい。でも息子を巻き込むことはないんじゃないか。

ぼくはもういい。終わっていると思う。でも、奥さんにだけではなく、このブログを読んでいるオトコの子を持つ母親の方に、切実に訴えたいことがあります。馬鹿馬鹿しいけど聞いてください。

働くおとーさんをリスペクトしてあげてください。

ブログでどんなにけなしてもいい。悪口を書いてもいい。あるいは母親同士の集まりで、旦那に対する愚痴をぶちまけてもかまわない。ふがいなさを笑い話にしてもいい。不満があるのもわかる。リコンしたい気持ちだってわかる。男たちの馬鹿さ加減に冷笑したって構わない。

でも、息子には、

「うちのお父さんは頑張っているのよ。働いているパパは素敵なの。ママはね、そんなパパが好きよ。だからパパを応援してあげようね」

と、嘘でもいいから言ってあげてほしい。

そりゃー家事をこなす奥さんは大変だろう。さらに子供の面倒をみなけりゃいけない大変さもわかる。でも、その空白の時間にパパは会社で遊んでいるわけではないのだ。もちろん若いおねーさんに鼻の下を伸ばしている瞬間もあるかもしれないが、数字や、時間や、くだらない社内政治や、そんなあれこれと闘っている。家族のことを遠く想いながら。

父親を馬鹿にする母親の気持ちは、息子に確実に影響を与える、と思います。これは確かです。たいてい、息子は母親の味方であり、母親と過ごす時間の方が長いものです。

しかしだな、ぼくは

父親をないがしろにするオトコの子は規律的な何かを損なう
成長の過程で、何かが精神をいびつに変える

のではないかと思う。短絡的に結びつけるのはどうかと思うのだけれど、最近の成人式が荒れ放題になるのは、父親の権威が地に落ちたことと無関係とはいえない気がしています。父性的な何かを敬う気持ちが欠けつつあり、それが社会のネジを緩ませているような気がしてならない。たとえば、企業の不祥事や、世界的な競争力の低下も、父性的な何かの欠如が要因になっているように思うのです。

これは父親にも問題があります。父親が、ものわかりがよくなりすぎている。もっと父親は息子に嫌われるべきだと思う。そして、息子と張り合うべきだ。くだらないことでかまわないのだけれど、外へ出るのであればオレを倒していけ、ぐらいのことを父親は言うべきではないか。精神的にも、肉体的にも、父親はタフでなければならないはず。それが軟弱になって、息子とお友達になっていたりする。いいのか、父親たち。

だから、ぼくは思うのだけれど、父親はもっとタフになるべきで、母親はそんな父親を(嘘であっても)支えてあげることが必要だと思います。もちろん家庭レベルでは不満もあるかもしれません。でも、

日本の未来のために、

ぼくは息子たちを持つ母親のみなさんに、旦那さんを大切にしてほしい。つまり権威を失いつつある父性を復活させるためには、父親の努力も必要だけれど、ママさんたちの意識改革も必要だと思う。というか、ふつうの家庭であれば、きちんと父親への愛情は確立されていると思うのですけどね(ふっ)。

ぼくはどんなに悪態をついていたとしても、結局、あなたは旦那が好きなのね(ほほえみ)というブログが好きです。そして子供たちの愛情にあふれるブログを読んでいたい。まず家族を大切にすべきで、その基盤がないことにはしあわせも有り得ないのではないでしょうか。

えーと、ぼくはもうどうでもいいんだ(苦笑)。過労死したときに、わかってくれるかな。パパもちょっとは頑張っていたのね、と。

いつかきちんと告げたいのだけれど、いまたぶんこんなことを相方に言っても通じないし、逆ギレされる気がしています。だからここに書いておきます。一般論として。そして、日常から少しだけ離れた、社会全体に対する提言として。

投稿者 birdwing 日時: 23:26 | | トラックバック

2007年8月27日

匿名と本名の狭間で。

ブログを書き始めた頃、ぼくは子供の頃から呼ばれているニックネームをハンドルネームとしてブログを書いていました。ハンドルネームは、ぼくの苗字の一部だったわけです。

ちなみにぼくの苗字は珍しい苗字です。初対面のひとには、たいてい間違えられます。会社に売り込みにかかってくる電話で苗字を間違える営業に対しては、「そういうひとはいませんけど?」と、本人であるぼくがしらばっくれて切ることにしています。さすがに個人情報保護法から少なくなりましたが、名簿屋から購入した名前には、ふりがながふられていないのでしょうか。

そんなに珍しい名前にもかかわらず、同姓同名が日本に3人ぐらいいるようです。一応、ググる(Googleで検索する)と検索結果に表示されるのは自分の名前がトップであり、現在の仕事、在籍していた大学(大学時代に書いた論文がある)がばれちゃいます。その後には同姓同名の別人のプロフィールが表示される。中小企業の取締役をやっている方もいらっしゃるようです。がんばってくださいね、ぼくと同姓同名のどなたか。

父の配慮によって、苗字が珍しいので下の名前は一般的なふつうの名前を付けられてしまったのですが、あまりにもふつう過ぎて、子供の頃から自分の名前があまり好きではありませんでした。もっとかっこいい名前にしてほしかった。

そんな思いがあったからか、息子たちにはかっこいい名前をつけています。ふたりとも英語(ローマ字)にすると三文字になる。しかも、漢字1字。さらにですね、ぼくと画数がいっしょです。凝ってるでしょう?だからどうだってことは何もないのだけれど(苦笑)。

現在のハンドルBirdWingは、最初のブログを消滅させた2007年の2月に、リアルからちょっと距離を置いた名前にしようと思って付けました。空が好きだったので、空にちなんだ名前にしたいということが第一にありました。また、鳥のように上空から世界を俯瞰できるような思考を持ちたい、とずっと考えていたこともあります。でも、鳥好きというわけじゃありません(ペンギンは好きです)。

短縮させたBWは、Black and Whiteに通じるかもしれませんね。光と影、白と黒、陰と陽、オモテとウラ。二面性であると同時に、多用な側面を現す意味もあると思います。

ちなみに、BirdWingのハンドルは他にもいて、これもまたググるとアニメとかエロゲーオタクのひとがヒットする。ちょっと困惑。そちらの趣味の方はぼくではないのであしからず。

ハンドルをつけるのは難しいですね。誰もつけていない名前というものはあり得ない。はじめてBirdWingの名前でブログを書いたときには、なんだかむずむずしました。自分にしっくりこない感じです。やっと最近になってBirdWingの仮面が自分の顔とフィットしてきたような気がしますが、それでもまだなんとなく違和感がある。その違和感を解消することはできないのではないか。

ちなみに名前は隠しているけれども、ぼくは自分の顔をブログで晒しています。ブログのトップに掲げているのは、ぼく本人の顔です。顔を晒すなんてナルシスティックじゃないか、と思うかもしれませんが、もともとはぼくは匿名にするつもりはなくて、本名で堂々とブログを書きたかったんですね。韓国ではすべて実名でブログやSNSをやっている、ということも聞いたことがあります。

その顔写真ですが、ブログ消滅後のひどい時期に疲れ果てて(酔っ払って)撮ったので、あまり気に入っていません。むすーっとした不機嫌な顔です。いつか別の顔に変えたいと思うのだけれど、なんとなくセルフ撮影って恥ずかしい。かといって、家族に撮ってもらうのも、恥ずかしいし。

さて、本名と匿名の話に戻るのですが、先日、若いひととメールアドレスを交換する機会があり、アドレス交換しましょうと言われて携帯電話を差し出されて困りました。う。えーと、おじさんは携帯電話、苦手なんです。というか、通信でデータ交換したことないんです(泣)。思わず紙に書いてもらいました。ああ、ジェネレーションギャップが・・・。

匿名にこだわるのはなんだかやましい気もします。だからといって、何があるかわからない時代だから本名で勝負、というほど度胸もないし。

匿名にするか本名にするか。どうでもいいことで悩むのはネット社会の弊害という気がするのですが、いかがなものでしょうね。

投稿者 birdwing 日時: 23:23 | | トラックバック

2007年8月26日

Tamas Wells@東京・渋谷O-NEST

人間の声は究極の楽器だと思います。残念ながらぼくの声は楽器としてはあまりよい響きを奏でられないようですが、だからこそ美しいボーカルに惹かれます。

未熟な音楽経験のなかで、美しい声だなあと思ったアーティストを思い浮かべてみると、まずTamas Wellsがいます。彼のアルバムを聴いたきっかけは、とあるブログだったのですが、「A Plea En Vendredi 」に収録された「Valder Fields」という曲を試聴したところ、自然に涙が出てきた。ささくれだった気持ちが癒されるような音でした。

Tamas Wellsはミャンマーに移住したこともあるオーストラリア人のようで、地元では「ニック・ドレイク・ミーツ・シガー・ロス」と評されるようです。ただ、シガー・ロスっぽいどこか天上に存在する場所のような世界観というものよりも、ピュアで透明な日常という感じでしょうか。身近なのだけれど、まるで夢のなかに広がるような美しい風景があります。

そんな彼が、今年の夏に初来日しました。

tamas.gif

■Lirico presents TAMAS WELLS JAPAN TOUR 2007
8/17 (fri) 金沢21世紀美術館
8/18 (sat) 大阪・カシミア
8/19 (sun) 奈良・sample
8/23 (thu) 東京・自由学園明日館
8/25 (sat) 東京・渋谷O-NEST

ぼくはツアーの最終日の8/25 、渋谷O-NESTのライブに行ってきました。自由学園飛鳥日館では、50人限定のPAなしのアコースティックライブだったようですね。こちらもできれば聞きたかったのですが、ぼくがチケットを買う頃には売り切れてた。行動が鈍いわたくし(泣)。

直前まで仕事をしていて、場所がよくわからずに焦ったので(WESTと別の場所だと思っていたら同じ場場所だった。焦って損した)会場に着いたときには汗びっしょりになってしまい、しかも空腹にジントニックを流し込んだら、お腹というか背中が痛くなって苦悶。でも、音楽がはじまってしまうとけろっと直ってしまうから不思議です。

O-NESTのようなライブハウス、ぼくは好みです。あまり広くなく、アーティストを間近でみることができる。そして、疲れたら床に座ったり、ポールに寄りかかったりもできる。

まず共演者として、ふたりの演奏がありました。最初は木下美紗都さん。アコースティックギターの弾き語り(最後だけはレスポールを演奏)で、男性ボーカル、キーボード、エピフォンのエレキギターという4人編成でした。歌の感じとしてはGutevolkに似ている感じでしょうか。ざらつき感のある、かわいい声。しかしですね、いまひとつ何をやりたいのかが、よくわからなかったな。厳しいことを言わせていただくと。また、この手のアーティストは非常に多い気がしました。

つづいて、the guitar plus me。これはシオザワヨウイチさんの一人ユニットで、弾き語りだったのですが、ユーモアの効いたトークと曲が楽しかったです。曲名は忘れてしまったのだけれど、曲の紹介としては、最初はペンギンの曲、次は夜逃げ、それから冬眠、つづいて信号が青なのか赤なのかわからなくて困惑する歌、と、おおっなんだか自分のいまの状況にぴったりだ、という感じで思わず笑ってしまった。ギターも上手かったですね。

おっ、サイトで検索したところ、アルバムは打ち込みも入っているんだ。すべてをひとりでこなされているようです。すばらしい。今度、買ってみようと思います。PVっぽい動画もありました。結構好みかも。

■new yearのPV
http://www.sound-tv.net/artists/theguitarplusme/
■オフィシャルサイト
http://theguitarplusme.com/
■myspace
http://myspace.com/theguitarplusme

そして、やっとTamas Wellsの登場です。木下美紗都さんは5曲、the guitar plus meは7曲ぐらい演奏されていたかと思うので、なんとなくオールスタンディング状態に疲れも出てきたのですが、一気にふっとびました。

飄々とした感じで現れたTamas Wellsは、これセットリストなんだ、というような感じでメモをピアノの上に置き、演奏開始。ところがギターはぼろぼろで(サンバースト系の赤いアコースティックギターなんだけれどメーカーも不明)、音もあまりよく出ていない。2本のマイクでナマのギターの音をとろうとしていたようですが、1曲目ではぴーっというハウリングの音が入ったりしました。

けれどもですね、驚いた。
このひとの声は、ほんとうに天国に通じているかもしれない。

身体はでかくて、MCは低い声、おまけにギターはおんぼろなので、あなたは本物のTamas Wellsですか?と思ったのですが、歌いはじめたら、透明な声が響きわたって、思わず背筋が伸びました(笑)。スピーカーから聴こえる彼の歌が、会場に漂う空気さえ変えたようでした。

musha7さんのブログにセットリストがあったので参考にさせていただき、以下に箇条書きにします。曲順をすべて把握できるなんて、すごいですね。ぼくには絶対にできない(苦笑)。

  1. when we do fail abigail
  2. The Opportunity Fair
  3. Vendredi
  4. From Prying Plans Into The Fire
  5. cigarettes,a tie and a free magazine
  6. Valder Fields
  7. the Northern Lights (new song)
  8. stitch in time
  9. I'm Sorry That The Kitchen Is On Fire
  10. beauty cream
  11. The Telemarketer Resignation
  12. broken by the rise
  13. reduced to clear
■encore
Lichen and Bees
Open The Blinds
■w-encore
Nowhere Man (cover/The Beatles)

確か三度目のアンコールもあったのですが、ぼくにはよくわかりませんでした。ただ、最後の曲は、ほんとうに透明な風景のなかに消えていくような儚げなゆったりとした曲で、思わず眠ってしまいそうだった。えー、空腹と疲れがピークに達したせいかもしれませんが。

英語はよくわからないぼくでも、わかりやすくゆっくり話してくれるせいか、意味をとることができました。タマちゃんと呼んでほしい、とか、このギターはミャンマーで日本にして500円ぐらいで買ったんだ、とか、お好み焼きうまい、とか、なかなか親しみやすくていい感じです。

とにかくですね、ぼくは3曲目「Vendredi」で、もう涙ぼろぼろ出てしまった。

「A Plea En Vendredi 」を聴いていた時期は個人的に辛い日々でもあり、このアルバムにずいぶん支えてもらいました。CDを聴いても美しい声なのだけれど、渋谷O-NESTのライブハウスはこじんまりとしていて、ぼくは前から3列目の中央で聴いていたので、2メートルも離れていない場所にタマちゃんがいる。そしてその声が聴こえてくる。これは幸せだな、と。

実は、去年の12月にボーナスで中古のアコギ(Takamine)を購入したのだけれど、これはValder Fieldsをコピーして歌うため、というただそれだけの動機で購入しました。いつ演奏するのかな、たぶん真ん中あたりか最後だろうと想っていたのですが、6曲目に生で聴くことができて感激。

ただですね、その曲を含めて2曲はピアノ+ギターという編成で、サポートのむすっとした女性が登場してピアノを弾くのですが、彼の奥さんかな?とも思いつつ、彼女のピアノがいまいち(苦笑)。Valder Fieldsも、CDとメロディラインを変えている部分もあり、ああ、CD通りに演奏してくださいっ!と気になってしまい、いまひとつのめり込めませんでした。

2回目のアンコールでは、ビートルズのNowhere Man。こんなに美しい曲だったのか、とこれもまた感動です。カバーではあるのだけれど、彼が歌うとこの名曲もまた別の名曲になります。

演奏後、天国の余韻に浸ってぼーっとした顔でフロアに出ると、タマちゃんが現れて、アルバムを購入すると彼のサインがもらえる特典付きでした。ミーハーなので(そのアルバムを持っているにも関わらず)思わず購入したのですが、ぼくの前の順番の女の子と写真撮影に忙しく慌てて戻ってきた彼は、ぼくの名前をよく聴き取れなかったようで、がしがしと訂正されてしまった(苦笑)。

とはいえ週末の混み合った電車に揺られて家に帰っても、ぼくの周囲に何か天国らしき香しい匂いがあるような気がしました。その余韻は次の朝まで残っていました。すばらしいライブでした。

+++++

ライブのMCでも、この曲はmyspaceで聴けるよ、のようなお話をされていたかと思うのですが、彼のmyspaceのページはこちら。ぼくがアコギまで購入して弾きたかったValder Fieldsも、こちらで聴けます。

http://jp.myspace.com/tamaswells

CDにサインしてもらいました。ぐちゃぐちゃなところはカット(笑)。

tamas wellsのサイン

ツアーのフライヤー。都内のCDショップでゲットしました。

tamasツアーのフライヤー

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結局、2枚持っていることになってしまったのですが、こちらは実はセカンドアルバムです。

B000IAZ7V4A Plea En Vendredi
タマス・ウェルズ
Inpartmaint / Lirico 2006-10-15

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ライブ前の金曜日に予習しようと思って購入したファーストアルバム。7月に日本版がリリースされていたようでしたが、気付かなかった。ネットで調べて、あわてて購入しました。

B000RVB8O4A Mark on the Pane
タマス・ウェルズ
Lirico 2007-07-20

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投稿者 birdwing 日時: 18:46 | | トラックバック

2007年8月25日

きれいなおねえさんが、好きです。

言い切ったなおまえ、言い切っちゃったなー?という感じですが(笑)。きれいなおねえさんが、好きです(きっぱり)。男性はみなさん、そうではないでしょうか。もちろん個々の趣味はあるでしょうが、彼女あるいは相方には、いつまでもきれいでいてほしいものですよね。と、同意を求められても困惑かもしれませんが。

ナショナルのビューティーケア関連製品のCMは「きれいなおねえさんは、好きですか。」というキャッチコピーで展開されていて、今年は仲間仲間由紀恵さんを起用されているようです。YouTubeからCM動画を(すぐに消されちゃうかもしれませんが)。

■仲間由紀恵 ナノケアCM

ぼくは水野真紀さんが登場しているCMが好きでした。ちなみに以前とある駅で水野真紀さんをみかけたことがあり、彼女はまるでCMのようにふわっと振り返ってホームの方を見たりしていたのですが、うわーきれいすぎる・・・と、しばらく茫然自失いたしました。

ところで、以前ライブなどに行って歌を聞かせていただいたインディーズミュージシャンのしばた歩実さんの日記で知ったのですが、このナショナルでPREMIUM MEMBERS 2007 in ASIAというキャンペーンが展開されているとのこと。「美にこだわりのある多くの方々を応援」する企画のようですが、なんとサイト上でPREMIUM MEMBERSに選出された2007人のきれいなおねえさんの写真と考え方を見ることができます。

PREMIUM MEMBERS 2007 in ASIA.JPG

しばた歩実さんもこのひとりに選出されたそうです。すごいですね。

でも、しばた歩実さんの日記にはエントリーナンバーが書かれていませんでした。そこで、地域に絞り込んでひとつひとつおねえさんを表示させながら、しばたさんを探せーっと確認していったのですが、きれいなおねえさんの画像に圧倒されて、くらくらしました(笑)ああっ、このきれいなおねえさんと…あんなこといいな、できたらいいなっ♪と(by ドラ○もん)。妄想全壊…いや、全開状態です。深夜に見るもんじゃないですね。願わくば、全身も見たいところ。細い脚のおねえさんも好きなので。

えー先日から、かなりこんなことばかりブログに書いてしまっていて、女性の方には呆れられてしまいそうですが、いいのだ、書きたいことを書くのだ。・・・でも書きすぎには注意しましょう(苦笑)。

そこで、少しばかり真面目に趣味の音楽方面にも触れたいのですが、ぼくは女性ボーカルをフィーチャーした曲を作りたいと思っているのだけれど、ぼく自身は女性ではないし、曲を歌ってくれる方を探すのはそう簡単ではありません。

そこで、VOCALOIDというヤマハの開発したエンジンによる歌うソフトウェアを使って曲を作っていました。先日、やっとLotusloungeのSheepさんに強力に協力いただいてナマのボーカル作品を完成させることができたのですが、VOCALOIDのほうでもVOCALOID2という新製品が出るようです。

キャラクターボーカルシリーズとして、第一弾は『初音ミク』(CV:藤田 咲)とのこと。うーむ、ホンネを言ってしまうと、このオタク系な方向性にはちょっと引きます。なんとなく、嫌だ(笑)。アニメ系は勘弁してほしいな。きちんとした技術だと思うので、もう少し本格的なボーカリストのスタイルが希望なのですが、売り上げ優先で考えると、オタク系市場は広がりもあるし、お金を使うターゲットでもあるのでこうなっちゃうのでしょう。ちぇっ。

ブログでお知り合いになって、このブログでも早速テスト段階に書き込みをいただいたもんきぃ(Monkey & 36 Maniacs)さんは、実はボーカロイドコンテストで最優秀賞を受賞されて、拝郷メイコさんとレコーディングもされたすばらしい方なのですが、もんきぃさんのデモソングがサイトに掲載されるようで、早速ブログでも先行公開されています。

いいですね(しみじみ)。ぼくはモンキィさんのこのデモを聴いて、ブライアン・ウィルソン(ビーチボーイズのソングライターでありシンガー)とプリファブ・スプラウトの「アンドロメダハイツ」が脳裏に浮かびました。この楽曲の作り込みは、並大抵ではありません。

きれいなもの、美しい音、すばらしい生活の断片、こころをほっと和ませる文章、そんなものを追求することは大事だと思います。それらをキャッチするセンサー、そしてフィルターをかけない誠実な気持ちを大切にしたいものです。

さて、本日はこれからニック・ドレイク・ミーツ・シガー・ロスと評されるTamas Wellsのライブに渋谷まで行ってきます。その前に仕事、なのですが。

+++++

■9月3日追記

記事のなかでも取り上げていますが、VOCALOID2 キャラクター・ボーカル・シリーズ01初音ミクが8月31日に発売されました。やっぱりぼくはこのアニメ・パッケージがどうも・・・(苦笑)。

初音ミク HATSUNE  MIKU初音ミク HATSUNE MIKU


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実際にコメントまでいただいてしまいましたが(ありがとうございます!)、商品ページのDEMOSONG2を作られているのがもんきぃ(Monkey & 36 Maniacs)さんです。

もんきぃさんと知り合ったのは、ぼくがMUZIEで自作曲を公開していたときのことでした。たまたま同じ日の新着リストにあったもんきぃさんの曲を聴いて、おお、これは素晴らしい!ということでブログに紹介。長い月日が経過した後、これも偶然、検索されてぼくのブログをみたもんきぃさんとお話をしたことがきっかけでした。

表現方法やトークは違うのですが、もんきぃさんにはぼくと何かしら似た匂いを感じます(笑)。そして楽曲のアプローチもわかる(うんうん)。巨大掲示板に晒されたり(苦笑)、いろいろとありますが、頑張ってくださいね!

投稿者 birdwing 日時: 10:45 | | トラックバック

2007年8月24日

待つチカラ。

一般的に、仕事を取りに行くとか運命を自分で変えるとか、前向きなアクティブでポジティブな姿勢は高く評価されます。「チーズはどこへ消えた? 」という大人向けの寓話もありましたが、消えてしまったチーズを嘆いているばかりでは何も変わらない。新しい場所にあるチーズを探して一歩踏み出せばいい。

けれども一方で、果報は寝て待て、という諺もあります。ぐうたらな感じもするけれど、寝ているうちに果報がやってくるのであれば、それほど効率的なことはない。無駄なエネルギーを使わなくて済みます。

昨日のエントリーで、過去から現在に至る「満足度」と、現在から未来を見据えた「期待度」という考え方を書いたのですが、期待するためには、待つチカラが必要だと考えました。待つことは簡単なようで簡単ではありません。無駄なエネルギーを使わなくて済む、などということを考えましたが、実は動くことと同じぐらいに待つためのチカラも必要になるのかもしれません。あるいは待ちきれずに動き出して、時機をあやまって失敗することもあります。

待つということについてあれこれ考えていたところ、浮かんできた思い出がありました。遠い記憶の映像を脳内から手探りで検索するのですが、小学校6年生のときのことです。

当時、ぼくは生徒会長をやっていました。ちいさい頃の神童は年齢を経るにしたがって凡人になってしまうもので(苦笑)、現在ぼくはただのくたびれた大人に成り下がってしまいましたが、これでも当時はファンクラブまであった一種のアイドルでした。自分でも信じられませんけどね。

といっても全校的に人気があったわけではなく、ひとつ年下の5年生のクラスの一部だけが異様に盛り上がっていました。下駄箱からグラウンドに出ると、わーっと窓のところに女の子が集まってくる。それこそ熱病的に人気が出てしまったようで、どうやら思春期の一歩手前にはそんな時期があるようです。バスケットボール部のシムラ君というアイドルもいたので、バスケ派と会長派で人気を二分していたのでしょう。競合があると人気も過熱もするものです。

ところで、会長派のひとりに、とても真面目そうな勉強のできる女の子がいました。髪をきれいに肩のあたりで切り揃えた利発そうな痩せた女の子で、レイコさんと言ったな確か。漢字で書くと玲子。

レイコさんはいつも校庭のブランコに乗って、ぼくの帰る時間を待っていました。

会長職にはさまざまな会議があり(何の会議だったか忘れた。雨が降った日に運動場をぐちゃぐちゃにしないためにはどうすればいいか、みたいな議題が多かった気がする)、会議を終えて窓から外を眺めると、グランドのずっと向こう側、校門の近くのブランコにレイコさんの姿がみえる。

なぜそれがレイコさんだとわかるかというと、かっこ悪いからみんな被るのをやめてしまう黄色いヘルメットを、5年生にもなってまだ被っているからでした。

真面目な子でした。ぼくのファンであることを明言して、会長婦人と言われて友達にからかわれていたんですが、確かにちいさな貴婦人的な雰囲気がありました。凛とした空気をしたがえている感じ。色白で、とても美しい女の子でした。そしてピアノが上手かった。

送別会のようなときに体育館で彼女が弾いた「グリーン・グリーン」の伴奏をいまでも覚えています。その歌をぼくは知らなかったのだけれど、あわてて調べた記憶があります。あの素敵な歌はなんだったんだろう、と。

レイコさんは、会議が終ってぼくが帰りの支度をして校門に近づくと、ブランコからぽんと降りる。そして、いつもぼくの5メートルほど後を着いて来るのでした。ぼくが立ち止まると、彼女も立ち止まる。そして歩き出して振り返ると、彼女もこちらを見て笑う。

同じ通学路だったのですがぼくの家の方が学校から近く、通りを曲がるとぼくの家がある。角を折れて家に入ろうとフェイントをかけて振り返ってみると、角のあたりからひょっこり首を出してレイコさんもこちらを見ていたりして、なんとなく手を振ってみると、彼女もぎこちなく手を振り返してくれたりする。

コイだのスキだの、そんな言葉をまだ知らなかったぼくは、変な子だな、と思っていたのですが、いまはるかな時を経て大人になったぼくは、

彼女がぼくを待っていたときの気持ちになれないだろうか、

と考えています。待つのはひとではなくてもいい。素晴らしい幸運でもかまわないし、青空が広がる天気のいい日でもいい。子供たちと過ごす楽しいイベントでもいいだろうし、美味しいビールを飲める瞬間でもいい。現実を嘆いているばかりでは待つこともできなくなります。たとえ叶わない望みでも、待っている時間が楽しければ、その時間は無駄ではなく、しあわせな時間といえるのではないか。

何かを待っているとき、ぼくらのこころに辛さはないでしょう。時間的な感覚もなくて、待っている時間さえ楽しいかもしれません。手を握ることも話をすることもできなくても、レイコさんにとっては5メートルの距離を隔てて歩く時間が尊かったのではないか。そうあってほしいですね。時間的には30分だったとしても、永遠のように長い時間をそのとき過ごすことができたのだ、と。

いまでもぼくはレイコさんの涼しい横顔を思い出すことがあります。彼女の面影を思い出すとき、なんとなく夏の風が吹いたような、さわやかな気持ちになります。ほんのかすかに、ですけどね。

投稿者 birdwing 日時: 21:11 | | トラックバック

2007年8月23日

満足という距離。

いろいろな仕事が錯綜しているのですが、いま担当している仕事のひとつにCS調査関連の企画設計と調査票作成があります。CSというのは、スカパー!などのCS(Communications Satellite)じゃなくて、Customer Satisfaction(顧客満足)です。

そこで満足について考えることが多いのですが、満足には限界がないのかもしれないと思いました。

ある満足の水準が日常的あるいは標準になってしまうと、もっと高い満足を求めたがるものです。人間は贅沢な生き物かもしれません。満足や欲求には、ここまででいいやという限界点がない。もちろん謙虚に日々のちいさな満足を大切に生きているひともいるかもしれないですけどね。

そもそも満足って何?という基本的な問いがあるのですが、仮に

理想と現実の距離=満足

と設定してみましょうか。理想と現実の距離が接近していれば満足して、離れていると不満足になる。求めているものと手に入れられたものの差異が満足である、と。

このとき、ぼくが注意しようと思うのは、あまりにも高い理想を掲げすぎるとそれだけ現実とのギャップも大きくなる、ということです。実現可能な範囲のギャップを超えてしまうと、そもそも挑戦しようとする意欲が消失します。戦う前から戦意喪失してしまう。

たとえば、30センチ高く跳びなさいと言われたら、なんとなく跳び上がりそうですよね。でも、30メートル高く跳びなさいと言われたら、そりゃ冗談じゃないよムリだ(苦笑)と思う。立ち上がろうという気にもなりません。

適正な理想を掲げていればいいのですが、不適正な理想を追い求めると現在がどんどんつまらなく見えてくることがあります。理想を追い求める前向きな姿勢によって、いまここに存在する自分が不幸せに思えてくる。であれば、高すぎる理想なんか掲げないほうがよっぽどいいのかもしれない。

相手(相方)に対する想いもそうですね。他者に対する期待や欲求が高まれば高まるほど、現実との乖離が生まれる。だから、これもしてくれない、あれも足りない、という、ないないづくしで不幸になっていきます。

理想と現実のギャップは、あらかじめそういうものがあると考えてしまいそうですが、よく考えてみると絶対的なものではありません。現実は実際に存在するかもしれませんが、理想の数値というものは眼前にない。こうならなきゃいけないよ、と力説されると、そうか、と考えもせずに納得してしまうものですが、そんな理想なんて実は確かなものではない。いくらでも勝手にでっちあげることができる。

この「理想」といい関係づくりをしていないと、よい満足が得られないのかもしれませんね。

ところで、満足度とは「過去~現在」までの期間の評価です。一方で、「現在~未来」に向けた満足度が何かないかなと探していたのですが「期待度」のようなものでしょうか。期待もまた、膨らみすぎるとがっかりする度合いが大きくなるような気がしています。

+++++

さて、このブログの月別アーカイブをちょっといじって、カテゴリーをメニュー化しました。こんな感じ。

月別アーカイブ0823

以下のページを参考にさせていただきました。

http://desperadoes.biz/style/ul.php

とはいえ、サンプルコードをいただいて、あれこれいじっているうちにできちゃうものだな、と感動。ちなみに、コンテンツをスクロール表示にもしてみましたが、これはいかがなものか。本屋でCSS関連の本を立ち読みしたのですが、うおおっこんなこともできるのか、という驚きがありました。Ajaxにも手を広げたいところですが、これもあまり理想を高くしすぎると凹むので、ぼちぼちいきます。

投稿者 birdwing 日時: 21:23 | | トラックバック

2007年8月22日

スタイリッシュ☆スタイリッシュ。

最近の若者って、すごい素敵じゃないですか。アメリカナイズされた食生活のせいかもしれませんが、一般人がふつうにモデルのように美人や美男子だったりします。

小顔で、脚がすらりと長くて、ナイスバディなプロポーションです。びっくりするほど美しいひとがふつうにいる。もちろん女性だけではなくて男性もそうで、きみはジャニーズ所属ですか?というようなひとが平気で街を歩いている。どうしたものでしょうか。いや、どうもしませんが。

今日も朝の電車で、茶髪のイケメンビジネスマンが電車に乗り込んできました。まぁ素敵!みたいな感じです。ただ、次の駅に到着して席が空いたので疲れたおじさんであるぼくはさっそく席に沈み込んだのですが、あろうことかイケメン君がぼくの隣の席に座ってしまった(どきどき)。

でもですねー、車内の女性たちのちらり目線がイケメン君に集まるのが分かるんです。ぼくもまあイケメンを標榜しているのですが(そうなのか?苦笑)、どうみても無理して茶髪にしている疲れたおじさんなわけで、勝ち目がない。正統派イケメン君のお尻のきゅっ!と締まった感じにも、負けたー(涙)な感じなわけです。

ちぇーっとふてくされて目を閉じていたら、ほんとうに爆睡してしまい、気付いたらイケメン君はどこかへ消えていました。なんだかなあ。。。

と、男性のことばかり書いているとこのひとってホモ?と誤解されそうなので、女性の話に。若い女性ばかりが素敵というわけではなくて、結婚されている方でも素敵なひとは多いですね。本日、あまりの暑さにとろけそうで、サンマルク・カフェに避難していたのですが、中学生とそのお姉さんらしき姉妹がお茶をしていました。

中学生の妹はともかく、お姉さんはなんとなく素敵だな、と見惚れていたのですが、席を立って帰ろうとしたときに、妹が「あっ、ママ待ってよ!」と。うえーっ!お母様であられましたか!まいった。そんなに大きな子供がいるなんて、ぜったいに信じられません。素敵だ(遠い目)。

しかしながら、平均的な美女、美男子率は向上しているかもしれませんが、そうではない(失礼!)ひともいます。

帰宅時の通勤電車のエピソードです。疲れてシートに沈み込んでいると(そればっかり)、旅行帰りでしょうか、大きなキャスター付きの荷物をごろごろ転がして、やはりお疲れのカップルが乗り込んできました。

これがまた対照的で、彼氏は小柄で不健康な北欧ミュージシャンという感じ。黒髪の長髪で、夏なのに素肌は色白で不健康というか、なんとなく貧相です。しかしながら彼女は真っ黒に日焼けしていて、逞しい(笑)。顔はちょっと幼い感じで、なんとなく可愛かずみさん的な感じ(ぽっ)。でも、ダイナマイトなバディで何よりも腕と足が頑強です。とっても男らしい(笑)。

ちなみになぜ可愛かずみさんでぽっというかというと、まだ若かりし頃、ぼくは彼女のファンで写真集を大切に所有していたからです。

えーと、白状しちゃうとヌード写真集でした(照)。あまりに熱心に読んだため、表紙がぼろぼろに破れてしまったのですが、悪友からは「おまえこれ、すごい高価で売れるぞー!」と言われた伝説の写真集です。行き場のない熱い想いを持てあましていた若かりし頃、この写真集でずいぶん発電・・・じゃなくて充電させていただいたものです。結局、可愛かずみさんといえば、自分を殺めてしまった不幸なアイドルで、ちょっと哀しいのですけどね。

と、余談が長くなりましたが、電車のなかのカップルの話に戻りましょう。

顔はロリータなんだけど身体はぼーんとダイナマイトな彼女は、喩えるならクマさんという感じでした(笑)。いや、クマさんというテディ・ベア的な可愛い感じではないですね。むしろ、熊さん。

江戸の落語ではないですが、おや、熊さん、なにやってるんだい? おお、ゲンさん、ちょいとビリーってやつをやっているところさ、という感じ(笑)。とにかくダイナマイトなバディなわけで、周囲を気にせずに、蚊にくわれた立派なおみ足をぼりぼり掻いていたりする。で、北欧系ミュージシャンな青白い彼はといえば、そんな彼女にほんとうに困っていたりする。困っているんだけど、彼女に甘えられて上から抱きつかれて、むぎゅーという感じで潰されている(苦笑)。

ついつい、いろいろな妄想が脳裏に氾濫してしまったのですが、ダイナマイトな彼女は夜のほうも精力的じゃないかな、と。余計な妄想ですよね(苦笑)。ところが妄想がはじまると止まらなくなってしまって、あのバディで上に乗られたら、きっと悶絶するなあ、とか考えてしまいました。いろんな意味で悶絶する。というかまずは重さで悶絶する(ははは)。

だから、上に乗られないように押さえ込みでバックを取りたいところですが、なかなかバックは取れないのではないか。むしろ逆にバックを取られてしまって、お尻からばこばこ攻められてしまいそうです(そんなことがあるかいな)。手強い感じがしました。強敵だよ、ダイナマイト・バディちゃん。ぜったいに勝てん。

・・・えーと。何の話でしたっけ。プロレス?でしたっけ(苦笑)。

と、そんなダイナマイト・バティちゃんをウォッチングしながら電車で帰宅したのですが、11時を過ぎているせいか、酔っ払いが多い。ぼくの目の前では酔っ払った熟女さまが、まあるいお腹を露出されていて、これはこれでまた困惑いたしました。おへそを凝視してしまったのですが(だって目の前にあるんだもん)、いまひとつ。まさかおへそを凝視されているとは思わないですよね。飲みすぎには注意しましょう。

そして思いました。そうだ、ジムへ通おう、と(なんだそりゃ。苦笑)。

中学から高校までテニス部に所属していたぼくは、テニスは上手になりませんでしたが、筋トレのおかげで逞しいバディを手に入れることができました。けれども、いまではすっかりぷよぷよになってしまいました。昔は腹筋も割れていたんですけどね。いま割れているのは尻ばかりです(それが割れていないと、いろいろと困るのだけれど)。

とにかく、どうも精神ばかりを鍛えがちな毎日を送っていたのですが、身体も鍛えなければ、と思ったのでした。熊さんにフォールをかけられても大丈夫なようにね。なんちゃって(笑)。

えー疲れと仕事のプレッシャーでよくわからない日記を書いてしまいましたが、たまにはよしとしましょう。硬めの思考から、ちょっとおちゃらけた話題まで、幅広くスタイリッシュな生活とは何かということを追求していきたいと思います。

+++++

ノスタルジックに調べてしまった可愛かずみさんのあれこれ(Wikipedia)。そして可愛かずみさんの映像をYouTubeから。こんな歌も歌っていたのか。はじめて知りました。でも、なんとなくプロポーションに固執したプロモーションが彼女を追い込んだ気もしますね(怒)。ああ、彼女の笑顔とその・・・を見ていると、なんだかせつない。えーと、ぼくは巨乳好きではないのであしからず(苦笑)。むしろ大きすぎないほうが・・・って誤解を生みそうだー。たぶん彼女の流れとして、ぼくは眞鍋かおりさんが好みです。いや、巨乳というところが好きじゃないので!


投稿者 birdwing 日時: 23:19 | | トラックバック

2007年8月21日

創造することの理由とブログライフ。

ビジネスの領域では、Webマーケティングの手法としてSEO(Search Engine Optimization:Wikipedia)やSEM(Search Engine Marketing:e-Word)という考え方があります。検索エンジンにかかりやすくしてサイトに誘導する集客の手法です。その後、SNSなどのコミュニティの活性化によりSMO(Social Media Optimization:e-word)という言葉も出てきました。

SMOはともかく、SEOの発想の背景には、多ければ多いほどよいという考え方が根強いように思います。登場した当初は、Optimization(適正化)と言いながら、ただひたすらひとを集めればよいのだという短絡的なSEOやSEMもありました。さすがに最近はみなさん賢くなったので、目標値に対する達成率(コンバージョンレートのようなもの)を考えるようになったとは思いますが。

確かに企業は広告やプロモーションに多大な予算をかけているので、その費用対効果が求められるのは当然です。テレビのCMでは視聴率が成功の指標になったり、DMの開封率が問題になるように、企業活動では数字の結果を重視する。どんなに頑張ったとしても結果として数字を出さなければ評価されないわけです。そこにロマンの入り込む余地はない。でも、割り切ってしまえばこれほど単純で面白いものもない。

ただ、個人のブログにそれを求めるのはどうでしょうか。もちろん成り上がって有名になってやる、小遣いをがっぽり稼ぐのだ、というひとがいてもいいとは思うのですが、そうではない選択肢もあります。みんながすべて、必死になってアクセスを稼いだり、お金を稼いだりしなくてもいい。

個人ブログでさまざまな試みをしてぼくがわかったのは、最大瞬間風速的にサイトにひとを集めるのなんて簡単だということです。著名な誰かの悪口、いわゆる誹謗中傷をぎりぎりの線で書けばいいので(笑)。

ネガティブなことに脊髄反射的に注目しがちなひとたちがいて、そんな話題に飢えたハイエナのような群衆を集めるのは容易いことで、血の匂いをぷんぷんさせてやるだけで十分です。ただ、実際に体験してみて思ったのですが、虚しいですね。そんなことをやってみても。

何のためにブログを書いているのだろう、何のために曲を作っているのだろう、と考えたとき、まず第一には自分のためである、とぼくは考えます。誰から強制されるわけでもなく、他者と競争するわけでもなく、とにかくあふれてくる何かがあってそれが言葉や音楽になる。

次にやはりそれを読んでくれるひと、聴いてくれるひとがいます。共感であっても批判であっても、発信した何かを受け止めてくれるひとがいるのは、それだけで有り難い。もちろん、ひとりごと的につぶやくこともあるのだけれど、うんうんと静かに頷いてくれるだけで、ずいぶん違いますよね。

友達100人居るひとはすごいかもしれないのだけれど、たぶん人間が注ぐことのできる友情や愛情は無尽蔵にあるわけではなく、100人いるひとの友情は1/100になるのではないか。もちろん接客業をされている方のなかには、ものすごい数のひとと接して、それぞれに同等の感情を注ぐひともいます。そういうひとはほんとうに凄い。しかしながら正直なところ、ぼくにはできません。キャパ少ないので(苦笑)。

過剰に読者やリスナーを意識すると身動きができなくなることがあります。ブログを公開する以上、どんなひとに見られてもかまわない覚悟が必要ですが、検索によってあまり見てほしくないひとに訪問されることもある。そもそも見てほしいことばかり書いていたら、ものすごくフラットなつまらないブログになるような気がします。これはぼくの偏見と趣味に過ぎないかもしれないのですが、ある程度、ぎりぎりのやばさが感じられるブログのほうが楽しい(笑)。あーあ、こんなこと書いちゃって・・・と思いながらも応援しちゃうひとがいて、そんなプライベートな危うい文章に出会えるのもブログの魅力だと思うんですよね。

はてなにはプライベートモードという設定があって、これは自分もしくは閲覧を許可した特定のひとにしか見られない制限をかけるわけですが、時々意図的にプライベートモードにすると、ものすごく落ち着いて文章を書ける。それは過剰な他者の視線から解放されるからかもしれません。

現在、ぼくはこのブログの更新情報を検索エンジンに伝えない設定にしているのですが、見事にプライベートモードになって、ほとんど外部からの訪問者がいません。だから、すごく穏やかな気持ちで書きたいことを書ける。ちょっとぐらい失敗しても書き直しができる。天国だ。

ただ、この純粋培養状態がいいのか?という疑問もあり、9月以降には少しずつ検索されるような設定に変えていきたいとも考えています。ただし、天国状態の気持ちよさにはまって、先延ばしにしてしまうかもしれません。

ところで、なんとなくブログについてのあれこれを書きとめるために、blogstyleというカテゴリーを設けることにしました。数十年後には特に語るまでもなく、みんなが当たり前にブロガーになっているのかもしれませんが。

投稿者 birdwing 日時: 23:19 | | トラックバック

2007年8月20日

視点の切り替え。

仕事が一気に押し寄せてくると、プチ・パニック状態になりませんか?クールに鼻歌混じりで仕事をさばきたいものですが、そうもいかなくて、うきーっというおさるさん状態で取り乱すことも少なくありません。

とかなんとか、冷静に書いている現在がまさにそんな状況で(苦笑)、こういうときには全体を見渡すことも大切だけれど、全体を見渡したばかりに、プレッシャーに圧倒されて眩暈がしたり不安におののくことがあるものです。やらなきゃらならいことはたくさんあるのに、不安がどよ~んと胸を塞いでしまって手が付かない。そんな局面によく出くわします。

そんなとき、逆に全体をみないで、直近のできる仕事に集中した方がいい場合もありますね。

意識的に不安材料をシャットアウトするわけです。場合によりますが、このことによって精神的に随分楽になることもある。ただ、楽になったのをいいことに能天気に構えていると、痛い目をみることもありますけどね。視野の外に追いやったものがある、ということを忘れずにいたほうがいい。

木を見て森を見ず(英語では、can't see the forest for the trees らしい。そのままだ)という慣用句がありますが、森を見て木を見ずということもまたあるものです。全体思考/部分思考という考え方かもしれませんが、先日読んだアフォーダンス理論に書かれていたゲシュタルトからとらえると、部分の集まりが全体ではなく、木が森になったときにそれはまったく別のものともいえる。

理想をいえば、木を見て森を見ながら/森を見て木も見る、という、全体と部分を行き来きする見方ができるといいなあ、と思いました。スケジュールでいえば、一日のスケジュールを確認しつつ、年間の計画も忘れない。組織でいえば、全体の統制を考えつつ、個人のモチベーションも無視しない、ということでしょうかね。どちらかはできるけれども、どっちも、というのはなかなか難しい。

思考の多くは「見る」情報によるところが多いらしく、比喩などの表現を思い浮かべても、聴覚(耳に痛い)や味覚(苦い思い出)の比喩よりも、視覚的な比喩(山を越える)が圧倒的に多い、ということをレトリック関連の何かの本で読んだ記憶があります。

と、考えてみると「見る」のは空間的な何かだけでなく、時間を「見る」こともありますね。ちょっと視点について整理してみます。

■時間の視点

  • 過去を振り返る
  • 現在を見る
  • 未来を見通す
  • 歴史(現在・過去・未来)を見渡す
  • 刹那を切り取る
  • スローモーションで見る
  • 逆回転で見る
  • コマ送りで見る

■空間の視点

  • 遠くを見る
  • 近くを見る
  • 上空から見下ろす
  • 地上から見上げる
  • 顕微鏡で拡大して見る
  • ナナメ右から見る
  • ナナメ左から見る
  • 対象以外(地)を見る

うーん、ちょっと当たり前すぎる気がしました。もっと別の視点がないだろうか。

しかしながら、たとえばひとりのひとを見るとき、時間と空間の視点を組み合わせてみると、いろんなものが見えてきそうです。

映画の手法に近くなるかもしれないのですが、彼女の指先の仕草を注視する、とか、雑踏のなかのたったひとりの人間を見つけ出す、とか。血縁関係の系統図において自分を遡るルーツを追いかける、とか、過ぎ去りし日の自分を現在の自分にオーヴァーラップさせる、とか。

想像力を働かせると、眼前にないものも見える。老人になって海辺で佇む彼を見る、とか、少年の頃に学校にいた彼を見る、とか。いまここにいないひとを見るのは結構楽しい。

仕事もそうですね。企画などをやっていて思うのですが、あるアイディアが飛び抜けてよかったりすると、別のアイディアが「見えなく」なることがあります。輝きに紛れて他のものが見えなくなる。しかし、その妄信が結構キケンだったりもする。

もっと別の何かが見えるんじゃないか、と追求していくことは、コンサルティング的にはオプション(選択肢)を考える発想かもしれません。たったひとつの素晴らしい案によりかかるよりも、ちょっと待てよ?と立ち止まって、可能な限りの選択肢を考察したほうがリスク回避にもなる。

光の影にぽっと別のアイディアが見えてくることもありますね。けれどもそれは急に現われたものではなく、ずっとそこにあったのに見えなかったものかもしれません。アイディアは案外そういうもので、突拍子もないものを探してくるのではなく、眠っている何かの目を覚ましてあげるものだったりする。

美点凝視、という言葉を、まだ入社して間もない頃の社員研修で教わりました。スタッフの欠点や失敗ばかりを見ているのではなく、よいところに注目しなさい、ということだったような気がします。まずいところばかりを見ていると、ネガティブループにはまって毒にやられる。

そんなに綺麗なところばかり見てられないよ、というのがホンネですが、視点を変えるだけで違った世界が見えてくることも多いものです。

投稿者 birdwing 日時: 23:23 | | トラックバック

2007年8月19日

やさしさのかけら。

以前から考えていたことですが、難しいことを難しく書くのは簡単で、難しいことを簡単に書くことのほうがずっと難しいと思います。

難しい言葉ばかり並んだ文章はなんとなく偉そうに見えるけれども、その実、あまりたいしたことを言っていないことも多い。

アタマがよいとはどういうことかという定義によるかもしれないのですが、自己満足で誰かに伝わらないものを書いているひとは、あまり優秀な頭脳を持っていない気がします。頭のよいひとは子供にもわかるように、科学の深い真理や洞察を語ることができるのではないでしょうか。

という難解な文章批判は、アタマが悪いぼくの単なるひがみかもしれないのですが(きっとそうだ)、難しいことを簡単に書けるひとになりたいと思っています。そのためには、できれば難しい本にも挑戦したい。

先日読んだ「アフォーダンス―新しい認知の理論」という本にも、アフォーダンス理論を提唱したウィリアム・ギブソンについて、次のように紹介されていました。引用します(P.15)。

生涯の伴侶だった発達心理学者のエレノア・ギブソンの話によると、彼はいずれの著作も10年以上の歳月をかけて構想し、執拗に書き直したという。どの本も文章はあくまでやさしく、内容はきわめて難解である。とてつもない内容がふつうの言葉で書かれている。

これが理想ですね(笑)。

技術もそうかもしれません。開発者志向の難解な言葉でこれはすごい!と言われても、一般のぼくらにはどうでもよいことだったりして、むしろ簡単に使いこなせるサービスの背後で、ぼくらには気付かないすごい技術が動いているようなことのほうがよっぽどすごい。

開発系のブログには、こんなこともわかんないのか?という高みから冷たく見下ろす視線をよく感じるのだけれど、わかんなくてもいいひとにとってはどうでもいいことだってありますよね(笑)。わからなくても十分にしあわせなわけで。そのどうでもいいことにしがみついているほうが、悲しい。

いま、ぼくはMovableTypeというブログ構築システムでこのブログを立ち上げて、四苦八苦しているのですが、そもそもこのシステムはベン・トロットという開発者が、デザイナーである妻のミナ・トロットから、

「作品を簡単にネットで公開できるシステムって作れないの?」

と相談されたところから生まれたそうです。そこで旦那であるベンは、妻のために開発力を駆使して、簡単にネットに作品をアップできるシステムを作ってあげた。それがMovableTypeの誕生だった。

なんだかおとぎ話のようで、美しい夫婦愛だなあと思うのだけれど、そのやさしさがあったから、現在、全世界で使われるシステムとなっているのでしょう。きっかけは、ほんとうにちいさな夫婦間だけのやりとりだったのかもしれません。けれどもその核にやさしさがあったからこそ、なんとなくこのシステムはいいなあとぼくは思う(ぼくには全然、やさしくないんですけどね。ちぇっ。泣)。

ふつうのひとはあまり考えないと思うのですが、ぼくはAppleにしても、SONYにしても、その背後にある人間的なエピソードに賛同できるかどうかを考えることが多いようです。技術力や企業力だけでなく、ひとに対する「やさしさのかけら」がサービスのなかに残っているかどうかを大切にしたい。

トロット夫妻はシックス・アパートという会社を興して、現在、TypePad(ココログなどで使われているシステム)やVOXというブログサービスを提供しています。

ぼくもVOXのサービスは使わせていただいているのですが、いまひとつ動作が重かったり、自由度がきかないなどの不満はあるものの、ブログを書きたい初心者が作品をすぐに発表できるような配慮があると感じました。ベンがミナを思いやったように、VOXにも企業がユーザーを思いやるやさしさがあるような気がします。というか、あってほしいですね。

さて。

このブログも、やさしさのかけらを忍ばせながら書いていきたいものです。

ぼくはテツガク的なこと、抽象的な概念に関心がありますが、それは決して日常の瑣末な生活から切り離せるものではない、と考えます。むしろ生活と分断された抽象論より、子供や家族と接したり、どこかへ出かけた一瞬に感じた何かのほうが、すばらしいテツガク的な発想を生むことがある。

だからぼくはプライベートなことと、パブリックに公開すべきことを混在させて、さらに抽象的な思考と日常的な毎日のあれこれを雑多に書きとめていきたいと考えています。

ただ、やはり雑多に書きとめていくと振り返るのが大変なので、もう少しカテゴリーを詳細に作ることにしました。次のような感じです。

  • homestyle : 家族のこと、子育てのことなど。
  • workstyle : 仕事、会議や企画を効率的に行う方法、仕事を通じて考えたことなど。
  • private vision : 個人的なテツガク(というほどでもなくて、プチ・テツガク的な何か)。
  • public vision : 社会的な動向についての考え、政治とか環境問題とか健康など。

と、英語にしているところが何かすかしている気もする(苦笑)。「家族のこと」「仕事のこと」「個人的な考え」「社会に対する考え」でいいじゃん、とも思うのですが。いずれ変わっていくことでしょう。

関係ないのですが、夏休みに田舎で空を見上げていたら、矢印のかたちで飛行機が飛んでいったので、その写真を最後に。

飛行機の矢印

あれぐらい高く飛びたいものです。物理的に、ではなくて精神的に。

投稿者 birdwing 日時: 18:48 | | トラックバック

2007年8月18日

リゾートはここに?

トウキョウの夏はまだまだ暑いのですが、そろそろ熱帯夜の峠も越した印象です。ブログのメインページトップに貼り付けたジュークボックスが、エアコンの箱にしかみえません(苦笑)。そんな夏の後半戦、いかがお過ごしでしょうか。

お盆は田舎に帰省していました。ぼくの田舎は山と海の近くにあります。しかしながら、今年の夏には海に行きませんでした。行き帰りの電車のなかから眺めた程度でしょうか。ああ、海が遠い(涙)。

まだ若かりし頃には、夏といえば海でしょう、花火でしょう、という感じで、夏が終わる頃には影なのか本体なのかわからないぐらいに真っ黒になったものでしたが(といっても、ただ浜辺で寝てただけなんだけど。苦笑)、結婚してからは奥さんの「暑いのやだ」というアンニュイな一言からろくに海にも行けません。子供たちも奥さんの味方なので(男の子はみんなそう?)、みんなインドア派です。それでいいのか諸君!ええ?・・・まあいいか。でも、パパは海へ行きたかったぞ。ビキニのおねーさんも眺めたいし。

ということで、今年のお盆は、お墓参り、母の話の聞き役、そして庭プールという非常に地味なまま終了いたしました。とはいえ、いつもはすれ違いばかりで一緒になったことがない妹家族4人も帰省していて、久し振りに賑やかな夏を過ごすことができたのが何よりです。

ちなみにぼくには妹がいます。音大の教育学科を卒業していて、結婚して5歳の娘もち。ダンナさんとは遠距離恋愛の末に結婚したのですが、妹の相方はA型らしい気配りの効いたすばらしい男です。いつも穏やかに低い口調で話しをする。彼といっしょにいると、ああ、自分はなんて子供なんだ、と思います。

その彼が、庭プールをやっている横でパンツ一丁になってレジャーシートに寝転んでいました。ええと、長年そこに住み慣れた実家の人間からすると、そんなところで寝転ぶのは変では?・・・という感覚なのですが、どういうわけかこの家のものではない外部からやってきた彼がそうやって(レジャーシートのわきにコーラのペットボトルなんか置いちゃって)夏を満喫していると、彼の周囲がぱぁっとリゾートっぽくなる。

おおっ、そうだったのか。そういう夏の楽しみ方があったんだ、という新鮮な感じでした。彼の人徳なのかもしれないのですが、山奥のど田舎のひなびた家だと思っていたけれど、そうやって雰囲気を作るとリゾートっぽくなるものだ。生活の工夫かもしれません。というか、彼にはそこで育った文脈がないので、可能なことかもしれないですね。あるいは、ぼくや妹が田舎のしがらみから離れられないのか。

妹の娘(5歳)とうちの次男くん(4歳)は非常に近い年齢だったので、「ここはわたしたちの秘密基地よっ(うふふ)」のような感じで楽しんでいて、ほほえましいものがありました。が、次男くんは超・わがまま男なので、彼女が遊んでいる玩具を奪い取ろうとして嫌われてた(苦笑)。まったく、誰に似たんだか・・・。ん?ぼくですか?さすがに長男くん(10歳)は、4~5歳児の会話には困惑していましたが、とてもよいおにいちゃんぶりを発揮していました。

帰りには、妹のダンナのクルマで駅まで送ってもらったのですが、「また遊ぼうねっ?(泣)」と追いかける妹の娘の姿が。きっとひとりで残されて、寂しくて泣いちゃったんじゃないかな。

そんな夏が、静かな思い出になりますように。

+++++

とりあえずはあまりにも短すぎた夏のイメージ写真を。

田舎の青空。飛行機が白い矢印になって飛んでいくのがみえました。

田舎の青空

庭プールの子供たち。海に行きたかったなあ(しつこい)。

庭プール

花火をする妹と娘。ひとんちの家族撮ってます。

花火

電車でトウキョウに戻って、時間があったのでポケモンセンターに寄りました。浜松町に移転したんですね。思ったほど大きくなかったのでなーんだという感じでしたが、さすがに売り切れのソフビ人形をゲットすることができて、子供たちは満足のようでした。それにしても、限定販売のミックスジュースがめちゃめちゃ甘い気がしたのですが。

投稿者 birdwing 日時: 09:56 | | トラックバック

2007年8月17日

Tracey Thorn / Out of the Woods

▼music07-042:なんかふつーになっちゃったなあ、という感じですが。

B000RG12ZEアウト・オブ・ザ・ウッズ
トレイシー・ソーン
インディーズ・メーカー 2007-07-18

by G-Tools


1. Here It Comes Again
2. A-Z
3. It's All True
4. Get Arond To It
5. Hands Up To The Ceiling
6. Easy
7. Falling Off A Log
8. Nowhere Near
9. Grand Canyon
10. By Piccadilly Station I Sat Down And Wept
11. Raise The Roof

トレイシー・ソーンといえば、ネオアコ時代にカリスマ的な人気があったエブリシング・バット・ザ・ガール(EBTH)の歌姫です。ベン・ワットのリバーブの余韻に溶けるギターの音色を背景に、その純朴な歌声が魅力的でした。ネオアコのバイブル系はひととおり聴いたつもりのぼくですが、ちょっとジャズっぽい雰囲気のあるファースト「EDEN」とともに、ベンワットのソロ「ノース・マリン・ドライブ」、彼女のソロ「遠い渚~ディスタント・ショア」は、アコースティックな気持ちになれる一枚だと思います(三枚だけど)。紙ジャケット仕様のCDが発売されているようですね。

生音志向のエブリシング・バット・ザ・ガールがドラムン・ベースに方向転換したときには驚きましたが、そもそもエレクトロニカ志向だったぼくには、その音も歓迎できました。ギターを置いて打ち込みに切り替えたとしても、ベン・ワットの作る曲には彼なりのノスタルジーや複雑さや、それでいてポップなメロディがあり、これはこれでよいのではないか。何よりもすっとぼくの耳には入ってきたものです。

そこで、「Out of the Woods」なのですが。これはなんと「遠い渚~ディスタント・ショア」から27年振りの彼女のソロ・アルバムだそうです。25年ですよ。25年もあれば生まれた子供がいいおじさん、おばさんへの入り口に差し掛かって、結婚なども考え始めているかもしれない。そんな短いようで遠い時間を経て作られたアルバムなのですが・・・。

確かに25年もあればいろんなことがあります。いろんなことがあるのだけれど、変わらずにいてほしい何かがある。一方で、変わってほしい何かもある。それが「Out of the Woods」では中途半端な気がしました。電子音を利用しているのだけれど、別に電子音ではなくてもいい気がします。EBTGと短縮形にバンド名を変えてリリースした「哀しみ色の街」 で受けたような衝撃はありません。洗練されたクラブ感覚もない。どこかいまいちな80年代ミュージックな感じ?

BGMのように聞き流してしまって、もう一度聞きたい気持ちにはなれませんでした。1曲目の「Here It Comes Again」のストリングス+グロッケンを使った曲は、なかなかいいなと思ったんですけどね。全曲、ストリングスバックのアルバムでもよかったんじゃないか。そんなよい年齢の重ね方をしてほしかったような気がしています。トレイシー・ソーンには。

ところが、次の2曲目「A-Z」の電子音のアレンジに入ると首を傾げてしまう。いいとこを詰め合わせても、逆に何をやりたいのかわからない感じでしょうか。4曲目「Get Arond To It」のベースラインやタイトなリズム、9曲目の「Grand Canyon」のシーケンスなどは好みではあるのですが、プロデュースに問題があるのか、アルバム全体を聴くと首を傾げてしまう。

やっぱりソロではなくて、エブリシング・バット・ザ・ガールで聴きたくなってしまいました。エブリシング・バット・ザ・ガールに似た何かではなく、ソロであればソロらしく、アコースティックなのかエレクトロニカ/ダンスなのか、思いっきり方向性を振ったほうがいいのでは。余計なお世話かもしれませんけれども、そんな突き抜けられない思いを抱えてしまうソロ・アルバムでした。

+++++

アルバム3曲目の「It's All True」をYouTubeから。うーむ、いまこのアレンジをやる意味って?年をとってしまったけれど、なんとなく80年代に執拗にこだわる若作りなおばさん的な感じがして困惑。

■Tracey Thorn - It's All True

*年間音楽50枚プロジェクト(42/50枚)

投稿者 birdwing 日時: 23:46 | | トラックバック

2007年8月16日

Radiohead / KID A

▼music07-041:苦しみを突き抜けた虚無、結晶のかたち。

Kid A
Radiohead
Kid A
曲名リスト
1. Everything In Its Right Place
2. Kid A
3. The National Anthem
4. How To Disappear Completely
5. Treefingers
6. Optimistic
7. In Limbo
8. Idioteque
9. Morning Bell

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*年間音楽50枚プロジェクト(41/50枚)

投稿者 birdwing 日時: 23:41 | | トラックバック

「知の遠近法」ヘルマン・ゴチェフスキ編

▼科学・芸術・文学を横断した、見ることの考察。

4062583852東大駒場連続講義 知の遠近法 (講談社選書メチエ 385)
H. ゴチェフスキ
講談社 2007-04-11

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思考を可視化することは、あらゆる活動において大きな意義があるのではないでしょうか。文章にしても絵画にしても写真にしても、いまここで見えている世界、もしくは仮想的に脳内に広がる世界を再現もしくは表現するために、はるかな歴史のなかでさまざまな科学者や芸術家が挑戦してきたように思います。それはつまり「見えない世界」を見えるようにする挑戦だったような気もします。

見るということは、ただ目を使って世界からの刺激を脳内に伝えるということだけではありません。見るということは、世界を個人の遠近法によって関係性を距離でとらえるということでもあり、心の目で視ることもできれば、音を視ることもできます。

音を関係性でとらえるとき、そこには音を視覚化する意識が働いています。また、表現する主体の位置を変えることによって、見えてくる世界も変わる。絵画のような視角的な芸術だけでなく、見るという行為は、世界をとらえる科学や芸術において重要な「視点」=考え方をもたらすものだと思います。

という考え方のもとに、この本では天文学から絵画、写真、音楽、小説に至るまで、「見る」という行為、パースペクティブの問題を追求していきます。「東大駒場連続講義」というタイトルになんとなく近より難いものがあるのですが、ともかくアカデミックな講義を本のなかで再現されているということでは、ありがたい。ジャンルを横断して、さまざまなパースペクティブ論が展開される本としては、ぼくの知的好奇心を満たしてくれるものでした。

冒頭の序章では、編者であるヘルマン・ゴチェフスキ氏が、Perspectiva(ペルスペクティーヴァ)という中世に作られたラテン語の語源から、心眼として視ることを中心に考察する学問の成立について解説されています。perspecioという動詞は、ただ光学的に光をとらえるのではなく、「理解するために障害になるものを克服して理解する」という意味だったようです。つまり、ペルスペクティーヴァという言葉自体にも奥行きがあり、観察するという意味から、見えないものまで見て深く理解する、という意味まである。

確かに、「みる」ことにもいろいろなレベルがあり、ただぼーっと見ているだけもあれば、その動きのひとつひとつを見過ごさないように注意して見るときもある。特に理解できない相手を理解するためには、感覚のすべてを総動員して「みる」ことが必要になりますね。

いくつかの章について感想を書いてみます。

第1章「宇宙の地図づくり(舟渡陽子)」は天文学の話であり、専門的な話については文系出身のぼくはよくわかりません。しかしながら、「宇宙の地図づくり」として何も書かれていない天空に線を引き、座標によって星の位置を測ろうとすること。しかしながらそこには時間的な推移が関わってしまい、結局、いま見ている星は既に過去の星になっている。つまり三次元だけでなく四次元の考え方で見ようとしている、という指摘に興味を感じました。

非常に興味深いと感じたのは第3章「西洋近代絵画におけるパースペクティブの変容」で、ここでは絵画における遠近法の成立と、それがいわゆるステレオタイプ化して浸透していくことを壊そうとした芸術家の試みが紹介されていました。エドガー・ドガの「コンコルド広場」における緊張感のある構図は、産業の進展によって親密性を失った都市空間が表現されている、とその構図が読み解かれて解説されているのですが、次のように評されています(P.85)。

写真よりも先行し、浮世絵版画とも平行するかたちで、スナップショット的な視像、断片的な切り取り構図を提示し得たのが、まさにドガの絵画であった。固定された眼差しに収まる、統一性のある完結した世界像から、動く眼がとらえた、恣意的で、瞬間性を示唆する世界像へ。印象派の画家たちは刻々と変化する世界の様相を、それに相応しい「パースペクティブ」で表現したのである。

この瞬間性については、つづいてクロード・モネの「カピュシーヌ大通り」についても述べられています。批評家シュノーの言葉を引用して、次のように書かれている部分を興味深く読みました(P.88)。

離れて見ると「とらえがたいもの、移ろいやすいもの、動きの瞬間性」を見事に表現し得た「傑作」だが、近づいて見ると「不可解な色調のカオス状態の絵の具の屑」が目につく「下絵」に過ぎないという判断が面白い。

これは視点の焦点のあわせ方のような気もしますが、たとえば現実世界も分子レベルまで細分化してミクロの目でみるとしたら、「屑」の集まりに過ぎないかもしれません。けれども、そのレンズを引いてみると、複雑に分子が集まった人間という存在だったりもする。

インターネットの世界も同様かもしれないですね。それぞれの書くブログは屑のような文章かもしれないけれど、それらが集まるとブロゴスフィアのなかにおけるひとつの意思として力を持つ。

その他、音楽とパースペクティブ、小説におけるパースペクティブについての解説も面白かったのですが、ここでは触れないことにします。あまりに長文化しそうなので(苦笑)。何かの機会に思い出すことがあれば、思考を再開することにしましょう。

文学系の学部出身のぼくとしては、小説の話はもうひとつ突っ込んだ論点がほしい気がしたのですが、ヘンリー・ジェイムズの「視点(point of view)」という小説技法について触れながら、物語内の一人物の視点から世界を眺めつつ、非人称的な視点から客観的に彼を描く、という技法はなかなか面白いものがありました。

知識のメモ書きというか備忘録に過ぎない理系的なブログはともかく、ぼくのような文系の人間がプライベートでありながらデイリーコラムニスト的な観点から書こうとするとき、個人のPoint of Viewはもちろんのこと、その視点と距離を置いた客観性が重要になる。

パースペクティブ、知の遠近法、視点などについては、継続していろんな本を読んだり、考えつづけていくつもりです。

投稿者 birdwing 日時: 22:16 | | トラックバック

2007年8月15日

「海馬」池谷裕二 糸井重里

▼脳科学が哲学的で、キャッチコピーのような人生論がひろがって。

4255001545海馬/脳は疲れない ほぼ日ブックス (ほぼ日ブックス)
池谷 裕二
朝日出版社 2002-07-10

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投稿者 birdwing 日時: 23:56 | | トラックバック

Carla Bruni / No Promises

▼music07-040:美貌と才能を備えた、美しいひと、美しい音楽。

B000SM7QVGNo Promises
Carla Bruni
Naïve 2008-02-19

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1. Those Dancing Days Are Gone
2. Before the World Was Made
3. Lady Weeping at the Crossroads
4. I Felt My Life with Both My Hands
5. Promises Like Pie-Crust
6. Autumn
7. If You Were Coming in the Fall
8. I Went to Heaven
9. Afternoon
10. Ballade at Thirty-Five
11. At Last the Secret Is Out
12. Those Dancing Days Are Gone(feat.Lou Reed)

休日の朝、ちょこっと掃除を片付けたあとでくつろいでコーヒーなど飲みながら、お気に入りの本などを読む。たとえそれがスタイリッシュなデザイナーズマンションではなくて木造平屋建ての四畳半であっても、なんとなくしあわせな気分になる。そんなひとときに聴きたいのがカーラ・ブルーニの「ノー・プロミセズ」のようなアルバムではないのかな、と思います。

実際にぼくは結構このアルバムにはまって、くつろぎたいときには結構取り出して聴いていました。癒されます。耳を傾けているうちに音楽が終わってしまって、ものすごく自然な感じで彼女の世界に浸ることができる感じです。

カーラ・ブルーニはフランスのスーパーモデルのようで、これは2ndアルバムとのこと。残念ながら1枚目は聴いたことがないのですが、フォーキーな曲作りの才能、しっとりとしたややかすれ気味なボーカル、派手ではないけれども楽曲を引き立てるアコギの演奏、そしてジャケットの素敵な脚(ぽっ)に惹かれて、以前のアルバムも聴いてみたくなりました。神様は不公平だ。こんなに美しいひとに才能まで与えるとは。

しかしながら解説などを読んで知ったのですが、彼女はモデルとしての儚い生命が終わりつつあるのを感じで、自分がどうすべきかということを真剣に考えていたようです。つまり、美しさや才能を維持するためには、のほほ~んとしているわけにはいかない。その維持のために、実はものすごい努力をしている。そうして若さとか外見の美しさに寄りかかるのではなく、内面を磨くこと、歌を作ることに集中したそうです。

一曲目の歯切れのいいカッティングからはじまる「Those Dancing Days Are Gone」。いいですね。アイルランドの劇作家ウィリアム・バトラー・イェイツの詩であり、このアルバム全編を通じて、E.ディキンソンの詩など、とてもブンガク的な、あるいは知的な雰囲気があります。

ぼくが気に入っているのは1曲目と、メジャーコードとマイナーコードが錯綜する5曲目「Promises Like Pie-Crust」 、そしていちばん好きなのはスキャット風にリズムを刻む「 If You Were Coming in the Fall 」ですね。ピアノもいい感じ。ゆったりめな気持ちになるとしたら、2曲目「Before the World Was Made」 、4曲目「I Felt My Life with Both My Hands 」といったところでしょうか。ワルツっぽい「At Last the Secret Is Out」もかすかにビートルズのDear Prudence的な音の響きが感じられて、ノスタルジックで少し切ないような気持ちになります。

歌詞に目を向けてみると、やはり英語詩の韻の踏み方が気持ちいい。1曲目「Those Dancing Days Are Gone」ですが、1行置きでear - gear、gone - stone、up - cup、rag - bagとなっています。

Come, let me sing into your ear;
Those dancing days are gone,
All that silk and satin gear;
Crouch upon a stone,
Wrapping that foul body up
In as foul a rag:
I carry the sun in a golden cup.
The moon in a silver bag.

天才ですね(しみじみ)。日本の古い和歌にしても、ダブルミーニングであったり韻を踏んでいたり、そんな細かな技巧をさりげなく駆使しつつ琴線に触れる何かを詠む詩人たちがいましたが、そんな知的な遊びにあふれた歌を聴きたいと思いました。ただ、それが耳障りに主張されると台無しであって、この曲のように耳をくすぐってくれる程度がいい。そのあたりもセンスのように思います。

ちなみにCDには英詩と写真のブックレットが付いてきて、こちらも素敵です。

carla_bruni_1.JPG

carla_bruni_2.JPG

+++++

フランスのテレビか何かの映像だと思うのですがYouTubeから「Those Dancing Days Are Gone」。ちょっと音が聴き取りにくくて残念です。PVというほどではないのですが、日常的な風景をつないだこちらのPVもいい感じ。

■Carla Bruni sings

BARKSでレコーディング風景とインタビューの映像を観ることができます。「Tシャツ脱がなくていいの?」「脱ぎたいわ」などと、なんとなくフランスっぽい(どこが?笑)冗談を交えながらはじまり、歌にあった言葉を見つけようと思っていたら「英語詩に恋に落ちてしまったの」という言葉がいいなーと思いました。「Those Dancing Days Are Gone」の試聴もできます。英詩読みたくなりました。そういえば、読んだことあまりないなあ。課題のひとつとしてリストアップしておきますか。課題多すぎですけど。

■Carla Bruni EPK
http://www.barks.jp/watch/?id=1000018827

*年間音楽50枚プロジェクト(40/50枚)

投稿者 birdwing 日時: 23:22 | | トラックバック

2007年8月14日

「アフォーダンス―新しい認知の理論」佐々木正人

▼世界の認識を変える、考えつづけたギブソンの軌跡。

4000065122アフォーダンス-新しい認知の理論 (岩波科学ライブラリー (12))
佐々木 正人
岩波書店 1994-05

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アフォーダンスって・・・。なんだか「わい、あほやねーん」という陽気なおじさんたちが腕を組んで、たらったらった踊っているイメージがありませんか?そりゃ、アホダンスか(苦笑)。

残念ながらダンスの理論ではなく、ジェームズ・ギブソンというアメリカの知覚心理学者によって1960年代に確立された、従来の考え方を覆すような画期的な認識理論だそうです。彼が生涯かけて考えつづけた理論は、ロボットなどAI(人工知能)を研究する学者にも注目されている、とか。

そもそもぼくは少年の頃から、世界がどこにあるのか、世界はどうやって存在しているのか、という哲学的といえば哲学的ですが、どーでもいいことに関心があり、物思いに耽るひとでした。

しかしながら、そんな深遠なテーマの答えがみつかるわけもなく、わかったとしても何か儲かるのかといえば利益も何もないのですが、いまでもその分野に好奇心がそそられて、脳科学とか認識論の本を手に取ってしまいます。

この薄い本にはギブソンの考え方の要点がわかりやすく説明されています。彼の生い立ちからはじまるところに親しみやすさを感じたのですが、ギブソンは生涯に100を超える研究論文と3冊の書物を著しているそうです。まず、彼の生きざまとして、次の言葉に惹かれました(P. 14)。

三冊の書物には一つの思考が流れている。その歩みを振り返ると、ジェームス・ギブソンという人が、「生涯をかけて一つのことだけを考え続けた人」であるという印象が強く残る。ギブソンはアメリカという風土が生んだ「タフなサイエンティスト」だった。

いいですねえ。ドラッカーも同様ですが、ぼくは考えつづけるひとに憧れます。

「考えすぎ」なのは困りものですが、立体的な思考の獲得を目的にブログを書きはじめたこともあり、できれば脳が機能を停止する寸前まで、フルに考えていたい。企画という考える仕事に就いていることもあるのですが、脳の病に倒れた亡き父の面影に背中を押されているのかもしれません。

■点から面へ、面から動きへ

と、前置きが長くなりましたが、ギブソンの思考の発端について、この本では「ゲシュタルト」から解説されていきます。

ゲシュタルトと言って思い出すのは、「お」という字をたくさん書いてじーっとみつめていると、それがだんだん何という文字だかわからなくなってくるゲシュタルト崩壊ですが、彼はゲシュタルトについて「感覚要素の総和以上のもの、総和とは異なったもの」と定義したようです。著者の佐々木さんも非常にわかりやすく解説されていて、本のなかから次の部分を引用します(P.16)。

たとえば音のつながりは、一つのメロディーとして聞こえる。「移調」して要素音をまったく変えてしまっても、同一のメロディーを聞くことができる。したがってメロディーは、要素である個々の音とは異なるレベルをもつ「ゲシュタルト」である。

要するに1+1=2なのですが1+1と2はまったく別のもの、ということでしょうか。足されて2になったときに別の何かになる。あるいは、好きなひとがいるとします。声だったり、仕草だったり、部分的に好きな部分があるかと思うのですが、結局のところ総体として好きだったりします。部分が集まったときの全体は、まったく別物になる。

一時期、パソコンで勝手に音を組み合わせて音楽にする、というようなソフトがありました。しかし、ぼくは何かが納得できなかった。そのときのもやもや感がこの文章を読んですっきりしたのですが、音+音が音楽になるかというとそんなことはなく、メロディという流れは組み合わせを超えたものである。だからめちゃめちゃに音を組み合わせても音楽にはならない、というわけです。音という部分にこだわることも必要だけれど、ゲシュタルトとしてのメロディや音楽全体を考えるべきである、という。

ゲシュタルトを発端として、ギブソンは点で世界は構成されているという考え方を「ビジュアル・ワールド」という考え方に進化させます。それは、面(サーフェス)とキメ(テクスチャー)による認識です。わかりやすいのが3Dゲームだと思うのですが、点と点のキメが粗いと近くに、キメが細かくなると遠くにみえる。パースペクティブ(遠近法)的な考え方かもしれませんが、模様(キメ)の細かさが距離を表現するわけです。

さらに面からレイアウトへ、レイアウトから動きへ、とギブソンは認識論を進めていくのですが、さすがに彼の考え方を追っていると大量な文章になりそうなので、省略することにします。

■ぼくらが動くと、そこに世界が生まれる

ぼくが凄いと思ったギブソンの考え方に焦点を絞ると、動くものこそが世界として認識される、ということでした。面やレイアウトがあったとしても、動かなければ世界は成立しないということです。

しかし、たとえばいま目の前にあるパソコンの機械は動かないですよね。それでもぼくの目の前に世界として存在している。それがなぜ世界として認識されるかというと、ぼくらの眼球が動いているからです。眼球の動きによって視点がいつも変わりつつあるから、世界がそこに生まれる。眼球が固定されていたとしたら、世界には精彩がなくなる。

そして「情報は光のなかにある」ということが述べられています。ギブソンは「生態光学(エコロジカル・オプティックス)」という新しい光についての考え方を提示したそうですが、特定のモノが反射した光だけでなく、ぼくらの周囲は光に満たされています。

これを「包囲光(ambient light)」と彼は呼んだようですが、満たされているからこそ面やキメが生まれるわけで、ぼくらが動くことによってその配列の構造が変化して、またそこに別の世界がみえてくる。環境の「持続」と「変化」によって世界を認識しているのですが、鳥が羽ばたく、クルマが走るなど世界の動きだけでなく、ぼくらが主体的に動くことによることでも世界は認識されるわけです。

次の部分にも、ぼくは衝撃を受けながら読みました(P.49)。

もし私たちが動かない「動物」(これは言葉の矛盾である)ならば、固定された一つの包囲光配列に表現された立体角だけから対象が何であるのかを「推論」する必要がある。個々の立体角をつなげるために「記憶」を必要とするかもしれない。しかし、動くことが可能ならば、そのような不十分な情報から「推論」する必要はないし、静止した情報を「記憶」でつなぐ必要はない。情報が足りないのならば、視点を変えることで、十分な情報を光の中に探せばよいのである。

記憶や経験がなくても、動けば環境が情報をぼくらに伝えてくれる、ということではないでしょうか。要するに動かないで世界を認識しようとしたら、膨大な記憶や推論が必要になる。でも、自分が動くことによって、ぼくらは世界から情報を入手し、最小限の記憶や推論で世界を認識できる。

■情報はぼくらのなかではなく、ぼくらの外にある

ちょっと猫っぽい喩えですが、この道通り抜けられるかな?と思ったとき、その場所にじっと佇んでいるだけでは何もわからないですよね。これぐらいのところを通った経験があるから大丈夫じゃないの?いやいや無理かも、と永遠に考えつづけなければならない。けれども、道に近づいてみることで、んーやっぱり無理そうだ、などということが直感的にわかる。

ブログもそうですが、一歩踏み出してみるとわかることが多いと思います。それは自ら動くことによって視点が変わるからであって、踏み出すことによって世界も「動く」からなのでしょう。知覚に関する理論なのですが、なんだか人生論にまで発展させてしまいました(苦笑)。

そこでアフォーダンスなのですが、この道通り抜けられる、という情報はどこにあるかというと、自分の脳内ではなく、風景の方にある、という考え方のようです。アフォーダンスとは「~ができる、~を与える」というアフォード(afford)という言葉からギブソンがつくった造語とのこと。この考え方にも、がーんと衝撃受けました(笑)。なぜなら、情報は脳内で処理していると思っていたので。

上手く説明できないのですが、ベッドを持ち上げられるか持ち上げられないか、という情報について例にあげると、可能か不可能かの情報は脳内にあるのではなくベッドのほうにある、という考え方のようです。しかも個人によって世界観が異なり、がんがん力仕事に能力を発揮しているひとにはベッドを持ち上げるアフォーダンスは可能として認識されるのですが、マウスより重いものを持ったことがないひとには不可能となる。あるいはベッドという「情報」に近づいたときに、アフォーダンスが発動するという感じでしょうか。

面白そうだと思ったのは、もし自分の脳内でしか世界を認識できないのであれば、ベッドを持ち上げる感覚は共有できないですよね(それを共有してどうする?という話は置いといて)。しかし、外部に情報があるとすれば、感覚を他者と共有することも可能だろうし、ロボットにその処理を移植できる。さらに同じベッドを見ていたとしてもアフォーダンスは各個人で異なるわけで、だからこそ多様な発想が生まれるわけです。

重要なのは脳という閉鎖された機関のなかで世界が形成されるのではなく、外部の環境とのやりとりのなかで世界が「生成」されていくということではないかと思いました。脳に関する研究はどうしても脳内の物理的な変化に注目する印象がありますが、ぼくらは情報に囲まれて生きている、情報は外にある、という考え方は、なんとなくぼくの発想を変えてくれそうな期待感があります。

このアフォーダンス理論を基盤として、さまざまなリアリティーのデザインが行われているようです。まだまだ書きたいことがたくさんあり、消化できていないもどかしさを感じるのですが、ぼくにとっては目からウロコな一冊でした。

投稿者 birdwing 日時: 17:33 | | トラックバック

Ulrich Schnauss / Goodbye

▼music07-039:遠い、遥かな、儚く、やるせない音の空間

GoodbyeGoodbye
Ulrich Schnauss


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01. Never Be the Same
02. Shine
03. Stars
04. Einfeld
05. In Between the Years
06. Here Today, Gone Tomorrow
07. A Song About Hope
08. Medusa
09. Goodbye
10. For Good

Ulrich Schnauss(ウルリッヒ・シュナウス)はドイツのエレクトロニカユニットで、1995年頃から活動を開始。このアルバムは3枚目となります。ぼく自身がよく聴くのは1枚目の「Far Away Trains Passing By」ですが、ここに収録されている「Passing By」は映画「エリザベス・タウン」のなかでも使われていました。シンプルだけれど耳に残る透明なサウンドとリズムの心地よさが特長的です。

そもそもなんとなく遠くで聞こえているような、せつない音が彼らの醍醐味といった感じなのですが、3枚目の「Goodbye」では1曲目の「Never Be the Same」から、その遥かな感じ、せつない音の広がりが研ぎ澄まされた印象を受けました。音全体としてはリバーブの残響音のなかに溶けているのですが、それでいてどこかエッジが効いている。心をえぐる感触がある。アルバム全体でボーカルをフューチャーした曲が多く、その声もまた遠く、せつない。ボコーダー的な無機質な音に、寂寥感を煽る何かがあります。

夕刻、あるいは夜、ものすごくはまる時間帯があるような気がしますが、一方で、その夢見がちな音があまりフィットしない気分のときもある。実はiPodで持ち出して聴いていたときに、なんとなく苛々してしまったことがあり、その一方でゆったりとこの音の世界に浸れる時間もありました。「Far Away Trains Passing By」が比較的聴きやすいアルバムであるのに対して、「Goodbye」の肌触りはどこかリスナーに聴く姿勢を求めるようなところがあると思います。内向的でもある。

ぼくが好きなのは1曲目「Never Be the Same」を筆頭として、アンビエントなピアノではじまり男性ボーカルが印象的な2曲目「Shine」から一転して女性ボーカルの3曲目「Stars」につづくあたり。バックグラウンドのパッド系のシンセの音に注目されることが多いと思うのだけれど、ぼくは彼等が作るリズムが結構好きだったりします。特に凝っているわけではないのだけれど、気持ちよさを追求している気がする。LongviewのRob McVeyとコラボレーションした8曲目の「Medusa」もいい感じ。

脳内に流れる雲、水の滴り、草原をわたる風、夕暮れの匂いなどをイメージしつつ、壮大な音の壁に寄りかかりながら、よい夢が見れそうです。ただ、現実に戻れなくなっちゃわないように注意。

*年間音楽50枚プロジェクト(39/50枚)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2007年8月13日

Radiohead / Pablo Honey

▼music07-038:均衡を崩すギターの音が切り裂く心のどこか。

Pablo Honey
Radiohead
Pablo Honey
曲名リスト
1. You
2. Creep
3. How Do You?
4. Stop Whispering
5. Thinking About You
6. Anyone Can Play Guitar
7. Ripcord
8. Vegetable
9. Prove Yourself
10. I Can't
11. Lurgee
12. Blow Out

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きちんと聴いていなかったアーティストのアルバムに耳を傾けようと思っています。ぼくは薀蓄を語るつもりもないし熱烈なファンでもないので、薄っぺらなレビューになるかもしれません。けれども、心の耳で聴くことによって、ぼくのなかに生まれた感覚を言葉にできればと思っています。

そんなわけで、レディオヘッドの一枚目「Pablo Honey」。1993年の作品です。

まず、どうでもいいぼくの経験を書いてみると、レディオヘッドというバンドを知ったのはかなり最近でした。3年前(2004年)、DTMで作ったEien_no_sogenという曲をはじめてネットで発表したのですが、やはりネットを通じて知り合ったとある方に聴いていただいたところ、かなり酷評されちゃった(苦笑)。そのひとはバンドをやっていて、好きなバンドがレディオヘッドだった・・・という経緯があります。ということから、そもそもレディオヘッドには苦い過去が重なるのですが、The Bendsにはまってそればっかり聴いていた時期もあり、コード進行といいアルバムごとに刷新していく姿勢といい、好きなバンドではあります。

個人的な趣味ですが、マイナーコードの使い方がうまい楽曲が好きです。なんとなく明るいところにすとーんと短調な響きを使われると、ぼくの気持ちもすとんと落ちる(笑)。1曲目の「You」のイントロからしてそんな感じで、実はレディオヘッドの楽曲にはこの展開が多い気がします。

そして2曲目の「Creep」。これはもう言うまでもなく名曲ですね。たぶんファンであれば、もっとマイナーな曲を第一に挙げると思うのですが、やはりこの曲は外せないのでは。途中から、がこ、がここん、というノイズとともに入ってくる鋭いエッジの効いたギターが秀逸で、このギターのバランスはちょっと大きすぎという感じもする。でも、その均衡を崩した感じがいいんですよね。好きになってはいけないひとを好きになってしまった危うさ。脆いんだけれど行き場のない暴力的な思いを感じさせる音です。これは泣ける。シャルロット・ゲンズブールとジョニー・デップの映画のワンシーンにも、効果的に使われていました。

5曲目「Thinking About You」も好きな曲。アコースティックギターのアレンジは、その後のいくつかの曲の原形という感じもします。7曲目「Ripcord」の動と静があるちょっと複雑なコード進行もいいですね。好み。10曲目「I Can't」のカッティングも気持ちいい。オクターブで弾くギター+アルペジオが独特の雰囲気を醸し出しています。うまく言えないのだけれど、この音の空間には懐かしい何かがあり、いつまでも浸っていたい。ちょっと遠い昔を思い出したりする。なぜでしょうね。

繊細でありながら、破壊的に均衡を崩した演奏に魅力を感じます。先鋭なギターの音が心のどこかを切り裂く感じ。このひりひりしたせつなさが、レディオヘッドの魅力のような気もしています。

+++++

YouTubeから名曲のPVを。うつむいてギターを掻き鳴らすスタイルはシューゲイザーの原点といったところでしょうか。

■Radiohead - Creep

名曲に対して無謀かもしれませんが、英語は分からないので(苦笑)、意訳を駆使して自己流な翻訳を試みることにします。まず冒頭の部分ですが、ものすごく美しい詩です。上の英語が歌詞、下の日本語はぼくの勝手な解釈です。

When you were here before
Couldn't look you in the eye
You're just like an angel
Your skin makes me cry
You float like a feather
In a beautiful world
I wish I was special
You're so fucking special
 
きみがここにいたとき
ぼくは瞳を合わせることさえできなかった
きみはまるで天使で
その肌に触れるだけで涙がこぼれた
軽やかな羽のように
きみは美しい世界にふわりと舞っていた
ぼくもそんな風に特別な存在になりたかったんだ
きみはほんとうに特別だったから

実際にトム・ヨークは別の世界に住む彼女に障壁のある恋をしていたようで、その気持ちがここには直接的に現れているような気がします。ただ、他のメンバーにとっては、なーに言ってんだか(苦笑)みたいな気持ちになるのもわかる。がこがこっと入るノイジーなギターは、一説によるとこの曲をぶち壊したかった意図が偶然にうまくはまったという説もあるようですが、プライベートとパブリックの距離がとれていない生々しい詩を歌われたりすると、なんとなく気恥ずかしい。甘ったるい詩の世界をぶち壊したくなる気持ちもとてもよくわかります。ただ、そんな自己の経験に密着した詩を歌えるのがアーティストであって、ぎりぎりの線で昇華させるのがクリエイティブな才能という気もしますが。

この歌詞のあとに、自己嫌悪でいっぱいのサビがつづきます。

But I'm a creep
I'm a weirdo
What the hell am I doing here
I don't belong here
 
でも、ぼくはくだらないやつだ
変わり者だ
何やってるんだろう、こんなところで
ここはぼくがいるべき場所じゃないのに

く~。これもわかるなあ。自分には不釣り合いな女性に恋に堕ちたとき、ほんと落ち込みますね。ただ、そのネガティブな力を原動力にして、かっこいい男になれる可能性もある。

そして、この後につづくのが以下の部分です。

I don't care if it hurts
I wanna have control
I want a perfect body
I want a perfect soul
I want you to notice
when I'm not around
You're so fucking special
I wish I was special
 
傷付いてもいい
自分を失わないつもり
パーフェクトなカラダがほしい
そして完璧なこころも
ぼくに気付いてほしいんだ
きみの近くにいなくてもね
きみはほんとうに特別な存在だから
ぼくも釣り合うぐらいに特別になりたいんだ

健気ですねえ(しみじみ)。そんな自分を高めてくれる女性と恋愛をしたいものです(という、おじさんは既に恋をするような年齢ではないが。苦笑)。たぶん、そんなひとに出会うのは人生に数回ぐらいしかないと思います。その偶有性を大事にしてほしいですね。

そして、すばらしい音楽と出会うのも、ほんとうに人生に数回あればよいほうだと思います。Creepという音楽に出会えたことに感謝。

*年間音楽50枚プロジェクト(38/50枚)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2007年8月12日

忘れないように記録。

勝手にブログ移転を企ててしまったため、更新が軌道に乗りません(泣)。ほんとうはリアルタイムで日記を書きたいのですが、なかなか難しい状況にあります。引越しをしてもその後片付けに追われる感じでしょうか。というよりもいまだにブログのCSSをいじってレイアウト変更などをしているので、家具を運び込んでしまった後で壁紙を変えたり、配置をよいしょよいしょ動かしたりしている感じです。

ちなみに今後もCSSのお勉強にしたがって変更していくつもりなので、恥ずかしながら現状について記録しておきたいと思います。

レンタルサーバーはさくらインターネットのスタンダードプラン(初期費用1000円+月額500円)を利用して、MovableTypeの3.35をインストール(無償)。ほんとに初心者なんですが、さくらインターネットのインストールガイドを参考にふむふむとやっていくと簡単にできてしまいました。初期設定のファイルの書き間違えによって、若干戸惑ったりしましたが、なんとかブログっぽいものが表示されたときには、ほっとしました。

そういえば、かつてLinuxの自宅サーバー構築、というようなものにも挑戦しようと思っていたことがあり、自宅の古いVAIO(デスクトップ)にLinuxをインストールしたりしていたのですが、結局のところ断念(関係ないけど、息子用PCの無線LAN設定もまだ保留にしていました)。気が向いたらやってみよう...と思っているのだけれど、気が向く時間がないようで(苦笑)。そもそものめり込むタイプなので、ほどほどにしておこうと思います。それに、どうせのめり込むのであれば、ブログを書くほうに集中したほうがよいのではないか、と。現在のスペックで若干気になるのは、1GBという容量です。趣味のDTM曲が増えていくと、この容量では若干不安ですね。

とにかく毎日どこかしらデザインをいじったりしています。そこで、現在のトップページ(インデックスファイル)のデザインをキャプチャーしておくことにしました。それぞれ試みたことのメモも残しておきます(画面をクリックすると原寸大のキャプチャーが別ウィンドウで表示されるのでご注意ください)。

http://birdwing.sakura.ne.jp/blog/

トップページのレイアウト(070812現在)①ヘッダーはぼくが撮影した青空の写真を使いました。そして手書きの鳥の絵に写真を合成。この鳥は、ルネ・マグリットの「大家族」のイメージなのですが・・・ぜんぜん違うか(泣)。ハンドルネームも手書きです(ふつうにペイントを使用)。

②見出しをデザインしてみました。画像ソフトではなくてPowerPointで作っています。えーと、企画書づくりがお仕事のぼくには、このソフトのほうが馴染みが深いので。しかし、見出し用の画像を作成するのにPowerPointを使うのは、ぼくぐらいだろうな(苦笑)。

③ブログでやってみたかったジュークボックス。これは、FLASH‐UFOさんの無料Flash素材を使わせていただきました。二窓で音楽を聴いていただけるようなときに、お使いください(笑)。

④こちらもFlashbucksさんの無料Flash素材によりスライドショー。洗練されたデザインで素敵です。あまりFlashを使いすぎて重くなるのもどうかと思いつつ、やっぱりかっこいいページにしようと思うと使ってしまいます。

⑤カレンダーなのですが、CSSをいじって、以前のはてなのテンプレートに近いデザインに変えてみました。

⑥こちらもちょっといじって、付箋風の引用に変更。CSSカスタマイズの本を参考にしています。

⑦やはりCSSカスタマイズの本から、箇条書きのヤクモノ(記号)をアイコンにしてみました。ついでにサイドバー全体で、マウスオンするとオレンジ色にリンクが変わる設定にしました。

⑧こちらは単純に二重山カッコの記号を、いただいたコメントの前につけるようにしています。

⑨アマゾンのアフィリエイトと連動して、おすすめ本を表示。実はエントリーページ(右側のサイドバーのタイトルが緑色)では、記事の内容に合った本などが表示されるようになっています。

⑩G-Toolを使ったアマゾンの商品表示。本・音楽・映画と感想を書きたいぼくには、なくてはならないツールです。

⑪YouTubeの動画はそのままタグをコピー&ペーストで表示できました。

ちらっと書きましたが、それぞれのエントリーページでは、サイドバーも変えてTwitterの内容を表示したりしています。これからもまだいろいろと挑戦してみたいと考えていて、8月中には滞っているものをすべて処理、デザインもとりあえず決定して、9月からは落ち着いて記事をかけるようにしたいですね。

本やCDの感想も滞りがちになってしまいました。まずは7月中に読了した本が以下の3冊。

4000065122アフォーダンス-新しい認知の理論 (岩波科学ライブラリー (12))
佐々木 正人
岩波書店 1994-05

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4062583852東大駒場連続講義 知の遠近法 (講談社選書メチエ 385)
H. ゴチェフスキ
講談社 2007-04-11

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4255001545海馬/脳は疲れない ほぼ日ブックス (ほぼ日ブックス)
池谷 裕二
朝日出版社 2002-07-10

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つづいて、購入したCDで感想を書いていないのが以下の5枚。

B000007UZ8パブロ・ハニー
レディオヘッド
EMIミュージック・ジャパン 1998-06-24

by G-Tools
B00004XONNKid A
Radiohead
Parlophone 2000-09-14

by G-Tools
B000OXEQJOノー・プロミセズ
カーラ・ブルーニ
ポニーキャニオン 2007-05-16

by G-Tools
B000RG12ZEアウト・オブ・ザ・ウッズ
トレイシー・ソーン
インディーズ・メーカー 2007-07-18

by G-Tools
GoodbyeGoodbye
Ulrich Schnauss


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夏休みの宿題として、ぼちぼち感想を書いていくことにしますか。ちょうど今週いっぱい仕事は夏季休業なので、暇のある時間に書いていこうと思っています。

投稿者 birdwing 日時: 11:39 | | トラックバック

2007年8月11日

数字と美しさ、共感覚について。

午前中、夏風邪を引いてしまった長男くんを奥さんが病院に連れていったので、次男くんと留守番してNHKのテレビを観ていました。

最初は夏休みらしくカブトムシVSクワガタムシの特集をやっていました。ヘラクレスオオカブトなど世界の甲虫が紹介されていて、さすがにでっかいなーと思ったのですが、どうしてもムシキングを思い出してしまう。本物のカブトムシにリアリティを感じなくなっているのは、ゲームやアニメの悪影響でしょうか。

その番組が終わったところで、地球ドラマチックというシリーズの「ブレインマン」の再放送が放映されていたのだけれど、これがとても面白かった。NHKのサイトで制作のクレジットを探してみると、2004年のドキュメンタリーでそれほど最近ではないようです。まずは以下、クレジットを引用します。

原題:Brain Man 制作:Channel4(イギリス・2004年) ナレーター:渡辺徹

サイトに掲載されている番組紹介は以下です。

ダニエル・タメットは、どんな計算でも頭の中だけで答えを出すことができます。 ダニエルのもとを訪れた番組スタッフは、彼の数字に対する驚くべき能力を目にすることになりました。実際に計算しなくても、頭の中に答えが浮かんでくるというのです。数字を色や形や質感をともなったイメージとして認識しているダニエル。 番組では、彼が本当に計算の答えをイメージで読み取っているのかどうか、科学者に確かめてもらうことにしました。ダニエルの特殊な能力が明らかになるとともに、人間の脳が持つ新たな可能性を探ります。

ダニエルは幼い頃にてんかんの激しい発作を起こして、それ以降、数字がイメージとして見えるようになったとのこと。また、自閉症の傾向もあったようですが、現在では社会的に問題なく生活しているようです。

彼はどんなに難しい計算でも瞬時に答えを出します。こうした特定の能力に通常のひとにはない能力を発揮することを、サヴァン症候群というらしい。Wikipediaの解説です。

サヴァン症候群(-しょうこうぐん、savant(仏語で「賢人」の意) syndrome)とは、知的障害を伴う自閉症のうち、ごく特定の分野に限って、常人には及びもつかない能力を発揮する者を指す。サヴァン症候群の共通点として、知的障害と共に異常といえるほどの驚異的な記憶力・表現力を持つことが挙げられる。彼らには「忘れる能力」が無いとされ、かなり昔から知られてはいたがその原因は未だ論議されており、正確には掴めていない。現在では脳の器質因にその原因を求める論が有力だが、自閉症者が持つ特異な認知をその原因に求める説もまた有力である。

ぼくがすごいな、と思ったのは、たとえば計算式を与えられると答えが数字ではなく、映像として彼の頭に浮かぶということです。

たとえば「1」は光がフラッシュするような閃きのようで、「9」は巨大な何か、「6」はとてもちいさい何かだとか。そして893であれば、893のカタチがあるようです(ヤクザじゃなくてね)。番組のなかでは研究者が粘土で893のカタチを作らせるのですが、数日後に同じ数字を作らせても同じカタチになる。

それから数字に快・不快もあるようで、円周率は彼にとっては「心地よい」数字の連続らしいのですが、その一部を変更して彼に見させて悩波を測定すると、わざと変えた部分になると脳波が乱れて動揺する。なぜだか理由は分からないけれども、穴に落ち込んだような気持ちになったらしい。

そもそも数字と映像は脳のなかでは 別々の部位で処理されているらしいのですが、何かのきっかけでこれらが連携するようになることを「共感覚」と呼ぶようです。これも思わずのめりこんでみてしまうほど、ぼくには興味のある話題でした。

というのはやはりぼくも趣味でDTMをやっていて、音になんらかの色や匂いがあるような気がしていたからです。Wikipediaの解説から引用します。

共感覚(きょうかんかく、synesthesia, synæsthesia) とは、ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象をいう。 例えば、共感覚を持つ人には7という文字に青い色を感じたり、音階のミの音に緑色を感じたり、ハンバーグの形が苦い味に感じたりする。 英語名 synesthesia は、ギリシア語で共同を意味する接頭辞 syn- と感覚を意味する aesthesis から名づけられた。

茂木健一郎さんがよく使うクオリアにも関係があるようですね。

表現する人間として究極の理想というのは、創作した作品が受け手の心のなかにどれだけリアルな感覚を再現できるか、ということではないでしょうか。たとえば楽曲を聴いていて、夏の海の照りつける日差し(触覚)を感じたり、潮の匂いを嗅ぐことができたり(嗅覚)、思わず目の前に青空が広がったり(視覚)。

AME-FURUという曲を作ったときには、雨の効果音に頼ってしまったところがありますが、効果音がなくてもメロディから雨音が聴こえてくること。湿っていて、それでいて冷たい空気が感じられるような、そんな楽曲ができたらしあわせだなあ、と思います。

とはいえ、こうした能力はやはり一部の天才だけにもたらされた神様の贈り物なのでしょうか。ぼくが数字をみて快感になるのは、ちょっとボーナスが増えていたときぐらいだもんなあ(苦笑)。数字に美しさを感じることはあまりありません。むしろ数字や語学はぼくにとっては苦痛です。そういえば、番組のなかでダニエルは超難しいローカルな言語を1週間で覚える、ということをやってのけていました。数学的なセンスと語学のセンス、あるいは脳の機能は、どこか通じるものがあるのかもしれません。

ひょっとすると、数学もテツガクもブンガクも、最終的には同じ根っこから派生している学問であって、ぼくらが求めているのはひとつなのかもしれない、などと考えたりもしました。

+++++

共感覚の人々が登場する映画は多いようです。代表的なものは、「レインマン」だと思うのですが、「グッド・ウィル・ハンティング」とか、ビューティフル・マインドも好きな映画ですね。

B001G9EBXGレインマン [DVD]
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2008-11-19

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B0001CSB5Iグッド・ウィル・ハンティング [DVD]
松竹 2004-11-25

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B001RN8W7Cビューティフル・マインド [DVD]
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン 2009-04-10

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YouTubeからBrain Manの映像。残念ながらイギリスの番組で、英語です(泣)。ただ、使われている映像のエフェクトが結構好みで、内容はわからなくても映像だけみていても楽しめると思いました。ダニエルの脳内の数字によって喚起される映像を視覚化した部分が非常に面白かったのですが、もう少しYouTubeを探してみるとあるのかな。

■Daniel Tammet - The Boy With The Incredible Brain [1/5]


投稿者 birdwing 日時: 21:55 | | トラックバック

2007年8月10日

The Cinematic Orchestra / Ma Fleur

▼music07-037:セピア色の音、哀愁に満ちた架空の映画音楽。

Ma Fleur
The Cinematic Orchestra
Ma Fleur
曲名リスト
1. That Home
2. Familiar Ground
3. Ma Fleur
4. Music Box
5. Time and Space
6. Prelude
7. As the Stars Fall
8. Into You
9. Breathe
10. To Build a Home

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ずいぶん前に購入していたのですが、ブログのお引越しなどがあって感想を書かずに置き忘れていました。そもそもこのアルバムを知ったのは、iTunesの画面だったような気がします。アルバムジャケットのデザインに惹かれて購入するのは「ジャケット買い」などと言われますが、ぼくがこのCDを購入した動機はアーティスト名がなんとなく素敵だったということもあり、名前買いといったところでしょうか。そもそも映画が好きだったこともあったので。

「Ma Fleur」は愛と喪失をテーマに、架空の映画をイメージしながら創り上げた作品とのこと。ぼく自体も趣味のDTMでは、映像や物語を音化するような試みを大切にしていて、彼等の創作方法にも興味がありました。詩と音はなんとなく近いところにある気がするのですが、物語を音に翻訳すること、あるいは逆に音から物語を生み出すような試みを考えるとき、そこにはシナリオ(脚本)というか、時間の推移、起承転結のような考え方が必要になってくると思います。ただ音は言葉ではないので、その場面を説明することができない。説明できない世界を音でどのように表現するのか。

CDショップで試聴して、まず一曲目「To Build a Home」の静かなピアノではじまり、ハスキーなボーカルがたどたどしく歌枯れた雰囲気、そして弦が入って盛り上がっていく楽曲に打たれました。事前にサイトでいろいろと調べたところちょっとジャジーなバンドかと思っていたのですが、そうでもなく、フォークトロニカというか何というか、形容できない雰囲気があります。

The Cinematic Orchestraは、スコットランド生まれのジェイソン・スウィンスコーがカレッジ時代にはじめたバンドのようで、友人から「きみの音楽は映画みたいだ」と言われたのでこのプロジェクト名になったらしく、このアルバムは3作目ということで、前作からは5年目の時が流れているようです。坂本龍一さんやコールドカットなどの作品にもリミキサーとして参加しているらしい。ライナーノーツに書かれていました。

他の作品を聴いていないので比較はできないのだけれど、聴こえてくるのは、アコースティックギターであったりピアノであったり、とても叙情的な少し物悲しい世界です。5曲目「Prelude」の流れるような弦の音もいい。その曲がすぱっと終わったところで聴こえてくる「As The Stars Fall」のフランジャーのかかったギターの音、ジャズっぽいドラムもよいですね。

熱帯夜に聴くよりも、もう少し涼しくなった秋頃に聴くとしんみりと浸れるのかもしれない。フォーキーな世界の向こう側に広がる心象風景としては、激しい恋愛よりも、ちょっと疲れてお互いに肩を寄せ合って眠るような、そんな許されない恋に堕ちたふたり、という感じでしょうか。大人な感じ?

音楽を発端にして、ショートフィルムを制作する、なんて動きがあってもよい気がします。ネットでそんなコラボが生まれると楽しそう。音楽づくりだけでなく映像にも、と貪欲な夢がある自分ですが、自分で可能なことは限られていて、もちろんひとりで箱庭のように音楽を作るのも楽しいのだけれど、うまいコラボができないかな、などということを考えたりします。7月1日鑑賞。

*年間音楽50枚プロジェクト(37/50枚)

投稿者 birdwing 日時: 01:18 | | トラックバック

2007年8月 9日

デイリー・コラムニストになろう。

日記らしい日記を書こうと思うのですが、書けない自分がいます。どうしたことでしょう。そもそも、日記を書くほど律儀な性格ではないので、書けないのも当たり前、なのですが。

自分流のブログの書き方を解説してみると、ぼくはダイレクトにブログの編集画面に向かわずに、ワードパッドで一度下書きをしたあとで全文をブログの編集画面にコピー&ペースト、リンクなどの修正をしてアップしています。しかしながら、さあブログを書くぞ、と思ってワードパッドに向かうと、なぜか理屈っぽい文章とか、思考についての思考とか、そんな文章ばかりが浮かんでくる。

今日のお昼はパスタを食べた、とか、会社でこんなことがムカついた、とか、そんな文章を書いてみようと思うのですが、なんとなくそういうジャンルを書こうとすると筆が鈍くなる(もとい、キーボードのタッチが遅くなる)。記録的な文章も大事だと思っていて、そのときには日常の瑣末なことだと思っていても、数年後に振り返ると、おお、この日は茄子とベーコンのスパゲッティを食べていたか、などということが新鮮に思える気がするんですよね。それが瑣末であればあるほど大事な気がします。

しかし、どういうわけかそういう日記がぼくには書けない。

一方で抽象的な文章というのは時間や場所の情報が欠落していて、要するに頭のなかの心象風景なので、別にいつ考えてもよい。もちろんその時間と場所でしか考えられなかったことがあるかもしれないのですが、思考の痕跡ばかり延々と書き綴っても、どうかと思う。

じゃあいったいブロガーとしての自分はなんなんだ?と考えたとき、

デイリー・コラムニスト

ではないか、ということをぼんやりと考えました。

コラムニストという言葉から思い出すのは、80年代、泉麻人さんなどが肩書きに付けていた、ということです。Wikipediaで調べてみると、次のように書かれていました。

コラムニスト(columnist)とは、新聞や雑誌にコラムと呼ばれる短いエッセイを書く職業。本来一流紙に署名記事を書く記者のことを指したが、日本ではフリーライターもコラムニストを名乗ることがある。

このWikipediaで日本のコラムニストとして挙げられているひとは、泉麻人さんのほか、ぼくの知っているところでは、夏目房之介さん、 ナンシー関さん、中野翠さんなどです。小田嶋隆さんって小説家じゃなかったのかな。鴻上尚史さんは劇作家ですよね。二束のわらじを履いているひともいるわけだ。海外のコラムニストでは、ボブ・グリーンは有名です。

フリーペーパーのR25には、石田衣良さんの「空は、今日も、青いか?」という隔週連載が巻末に掲載されていて、これが結構好みだったりします。

20070809mag_cover_bn.jpg

最新のNo.154では、「女子アナ的世界」として、女子アナは高度な専門職で、はなやかな世界にみえる割には給料もそんなに高くなく仕事は厳しく、彼女たちもふつうの女の子たちと同じように恋愛に悩んだりしている、ということが書かれていました。さすがフェミニストの石田さんらしい文章なのですが、気楽に読めてなんとなく心がくすぐられる。

こんな文章を書きたいものです。つまり、日常の瑣末なことに立脚しながら、あれこれと考察して、ブンガク的にも意味があるような文章。そうだ、ぼくはブロガーなのだけれど、デイリー・コラムニストとしてのブロガーになろう!と、あらためて思ったのでした。

投稿者 birdwing 日時: 23:20 | | トラックバック

2007年8月 8日

あの夏、後悔と夕暮れ。

あっちー。東京もようやく夏真っ盛りという感じになってまいりました。積乱雲系の雲と、高度が感じられる高い青空が素敵です。でも、あんまり見上げすぎると、ちょっとくらくら眩暈がしてしまうのですが。思いっきり体調不調の日々を過ごしていたところ、急激に暑く夏がどーんとやってきた本日、どういうわけか体調も絶好調になってしまいました。ものすごく元気です。なんでしょうか、このアマノジャクな自分は。

この眩暈がしそうな夏の日に、ぼくがどういう格好をしているかというと、長袖のワイシャツにネクタイをびしっと締めて、紺のスーツでございます。傍から見ていても暑っ苦しい。学生の頃のぼくは、まさかおじさんになった自分がこんな格好をしているとは夢にも思いませんでしたが(しかも茶髪で)、これがまたどういうわけか、暑いのを我慢していて着ているとこの格好に慣れてしまうんですよね。

よくイタリア映画とかで、ハレーションを起こすような夏真っ盛りのビーチをスーツで歩いていたりするじゃないですか。もちろん薄い素材の麻のスーツだったりすると思うのですが、なーんであんな暑いところでそんな格好してるんだっ!もっと涼しい格好をすればいいのに、と率直な感想を抱いたものでした。でも、いまならわかる。ポリシーまたはテツガクのもとに、その紳士な格好を強いていると、いつしかその格好もへっちゃらになってしまうんですね。

たとえばそれは、ものすごく寒い冬の日。女性がミニスカートで、上着を着ているけれどもノースリーブの服だったりするのと似ているかもしれません。やせ我慢といえばそうかもしれませんが、自分の美学を守るための必死のスタイルだと思います。そのストイックなまでに美を追求する姿勢が、かっこいいし、美しい。

と、そういう考えもあるのですが、一方でパンツ一丁で海辺でのほほ~んとしていたい、というのもまた心理のひとつです。

そんな夏(どんな夏?)の海辺のバケーションに似合うような曲を、去年の7月に作ったことを思い出しました。そこでブログで再掲載してみることにします。

■あの夏、後悔と夕暮れ。(Summer,regret,and sunset)

4分33秒 6.3MB 192Kbps
曲・プログラミング BirdWing

いま借りているレンタルサーバーでは、ブログでポッドキャスティングができるようで、その配信用Flashをここで使えないかな?と試みてみたところ、どうやら使えるようです。やった!某ココログの配信ソフトと比べて洗練されたインターフェースなので、いいですね。某はてなのものも、シンプルで気に入っていましたが。

この曲には歌声が入っていますが、これは歌うソフトウェアVocaloid MEIKOを使用しています。拝郷メイコさんという実在のシンガー(読売新聞のCMソングなどを歌っていたかと思います)の声を解析、データベース化して、ソフトウェア上で歌詞や音程を入力すると、なんとパソコンが歌い出すというすごいソフトで、これが2万円弱でした。一時期はそのソフトを使って曲を作りまくっていました。

なんとなく夏になると開放的になってしまうのですが、そんな暑い夏も終わる頃にはちょっと後悔したり、寂しい気持ちになったりするものです。でも、秋に向かってフェードアウトしていく暑さ、グラデーションのかかった寂しさがよいのですけどね。

今年の夏、みなさんが何か熱い思い出を残せますように。ぼくは、急にハイテンションになった反動の夏バテが心配です(苦笑)。

投稿者 birdwing 日時: 23:09 | | トラックバック

2007年8月 7日

似ているひとへ。

テレビのバラエティ番組にはいろんなエンターテイメントがありますが、芸能人のモノマネは定番ではないでしょうか。似ているひとはほんとうに似ていますよね。顔や容姿がそっくりというだけでなく、仕草のひとつひとつが似ていたりする。似ているんだけれども、びみょうに違う。それが面白い。

どうでもいいことですが、平凡なぼくは、ぼくに似ているひとをよく発見されます。あれっ、おまえさっき神保町で歩いていなかったっけ?と訊かれたことがありました。いえ、ぼくはずっと会社にいましたが何か・・・なのでしたが。

それにしても、あまりにも仕事が嫌だったので、ぼくのレイコンがすぅっと仕事場を抜け出して神保町界隈を徘徊していたりして(いわゆる生霊みたいに)。あるいは本が好きで、学生時代と社会人になってしばらくは神保町界隈が職場でよく古本屋めぐりをしたので、そのときの残像が街に残っていたのかもしれません。

自分の残像が、ゴーストのように、みつからない本を探して街を彷徨っている。なんだか小説のようですね。そんな風に街に記憶が刻まれていると、ちょっといいかもしれない。ただ、かなしい自分が永遠にその場所に記憶の残像として残っているのは困りますが。

さて、容姿の話は別として、ブログを徘徊していると、おおっ、このひとの思考回路はぼくにそっくりだ!というひとに出会うことがあります。

あるいは、育った環境も考え方もぜんぜん違うのだけれど、文章を読んでいると、なんだかツボを押される、琴線に触れる何かがある、そんなスルーできないブログがあり、ブロガーさんがいる。

あまり身近なひとを例に挙げると照れくさいのであえて取り上げませんが(でも、みなさんの日記を読んでいますよー)、先日、はてなのサービスを退会して別の場所にブログを立ち上げようと苦労していたとき、他にも同じように考えたひとはいないのだろうか、こんな偏屈な人間はぼくだけか?と思いながらエントリーの雑踏を彷徨っていたところ、

このひとは、ぼくの思考とそっくりだ!

というブロガーさんをみつけてしまいました。

ブログ界に疎いので知らなかったのですが、どうやら有名なブロガーさんのようです。「奥様、鼻毛が出ておりますことよ」というブログを書かれている、わかむらゆうさんという方です。

■奥様、鼻毛が出ておりますことよ
http://wakamura.moo.jp/you/

最初は男性かと思っていたのですが、いろいろとページを読み進むうちに、ん?女性かもしれない、と思いました。どちらでしょう。性別・年齢不詳というのもミステリアスでいいですけどね。

わかむらさんは、ぼくと同様、はてなスターの登場に憤りを感じて、はてなを退会されたようです。そして、MovableTypeでブログを立ち上げています(これが実はぼくもMovableTypeを導入するきっかけとなりました)。

書かれている批判のエントリーひとつひとつが共感することばかりで、思わずコメントしちゃいました(お返事いただけなかったけど。泣)。その後、批判文に対する批判に傷ついて、反省して自滅的な文章を書いているのですが、思考の傾向さえ似ているような気がします(とか、書くとご迷惑かもしれないのですが)。

さらに、自分に対する励ましを自分のみえるところに記さないでほしいという要望なので(これもわかるなあ)、あえてトラックバックもコメントもしませんが、はてなスター問題がなければずっと人気のあるブロガーとして、はてなで書きつづけたひとではなかったでしょうか。惜しい人をなくした、いやなくなっちゃいませんが、はてなは失ったように思います。まあ、書き手を無視した強行な変更を行えば、去っていくひとがいるのは当然です。

プライベートでは音楽をやってステージにも立たれている方らしい。けれども、「本当に好きで大切なものを守るために口を閉ざす。」というストイックな姿勢のもとに音楽のことは一切ブログに書かれていません。このエントリーは、ものすごい数のブックマークが付いた人気記事だったようです。

わかむらさんの気持ちがわかりすぎる・・・というのはぼくの勝手な妄想にすぎませんが、膨大なアーカイブを読みすすめながら共感しまくって、もしかしたらぼくも書いたかもしれないテーマに唸らされながら、ちょこっとジェラシーも感じたりしています。似ているひとの存在は、なかなか心穏やかではないものもあるようで。

ぼくもそうでしたが、はてな退会の一件で、わかむらさんも少し文章から心が離れてしまったように見受けられました。そもそも慣れ親しんだ編集画面から離れてしまうと、それだけで書きたい気持ちが損なわれるものです。でも、ぜひまた以前のように書き始めてほしいですね。なんといっても魅力的な文章です。

似ているひとへ、少しばかりのエールを送ってみました。エールというか、念力のようなもの、なのですが。

投稿者 birdwing 日時: 23:28 | | トラックバック

2007年8月 6日

手探り、手作りのブログ構築。

ブログライフをステップアップさせるために、初心者向けのレンタルサーバーを借りて、MovableTypeをインストールして、CSSなどを自己流でこつこつと学んで1週間。年契約のお金もコンビニで払いました。とほほ、小遣いが・・・。

そもそも英語などの外国語はもちろん、プログラム言語も含めて言語系には疎いんです、わたくし(泣)。HTMLやCSSは気になっていたのですが、苦手意識もあって、積極的に学ぼうという気持ちはいままでありませんでした。

というのはMS-DOS時代の苦いトラウマもあったからです。

いまパソコンのグラフィカルな操作を当たり前に思っているひとには信じられないかもしれないのですが、10数年前のMS-DOSというOSの時代には、パソコンといえばまず「>(プロンプト)」の横にコマンドを入力して、文字で操作するものでした。「DIR」と入力してリターンを押すと、だだだっとパソコンのなかのファイル名が表示される。ファイルのアイコンが表示されるのではなくて、ファイル名の文字です。おそろしく面倒くさい。

だからですね、無味乾燥なコマンドを覚えて、その結果を想像しなければならなかったわけです。

喩えるならば、エッチな小説を読んで実際の女性の身体をや反応を妄想するようなものでしょうか(笑)。ここをこんなことしちゃったらどうだろう、とか。違うか(苦笑)。あるいは呪文を覚えるようなものでした。呪文のかけかたが違うと、パソコンはうんともすんとも動いてくれない。

遠い昔、ぼくはDOSの呪文を必死になって覚えたのですが、Macintoshの登場と、それにつづいてMS-DOSもWindowsというGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)に変わって、覚えたコマンドは何も役に立たなくなってしまいました。マウスでドラッグ&ドロップしてフォルダごとファイルをコピーできるなんて、びっくりでした。と同時に、いったいぼくの苦労はなんだったのでしょーか(泣)とかなしくなったわけです。

というわけで、HTMLやCSSなんて覚えなくても、いずれそんなもの不要で使えるようになる時代が来るんじゃないか、ワープロ感覚でサイトなんかできちゃうのではないか、と思い、覚えなくてもいいや、と達観していたわけです。

現在、そんな理想はある程度は実現されていると思います。けれどもいま、システムの部分から自分でやろうとすると、ある程度、コードの知識も必要になる。そこで、家で埃にまみれていたCSSの本を俄然むさぶるように読むようになりました。それに、本など購入しなくても、インターネットで検索すると、ほんとうにいろいろなひとがいろんな解説をしている。これがとても参考になりますね。

無料のデザインテンプレートも公開されているので、探して組み合わせていけば、それなりのものがすぐに出来てしまう。ついでにコードを見て、ここはどうなってるのかな?と確認して、なんとなく構造が理解できると手直しもできる。便利な時代になったものです。あっちのパーツを引っ張り出し、こっちのパーツを組み合わせているうちに、手作り感覚でなんとなくブログらしくなってくる。書きながらいろいろなパーツを追加して進化させることができる。これが結構楽しい。

ちなみに、テンプレートやデザインでは以下のようなサイトを参考にしました。

■テンプレートで参考にしたサイト

アットスタイル(このブログのテンプレートを使わせていただきました)
http://atstyle.biz/blogtemptop.php

Vicuna
http://mt.vicuna.jp/

トウキョウブッダ
http://tokyobuddha.com/download/index.html

小粋空間
http://www.koikikukan.com/

それにしても、今回いろいろとトライアルをして、サービスを提供することの大変さを身をもって知りました。いやー、ひとつひとつサービスを作り上げて行くのは大変なことです。プログラマーも大変だけれど、デザイナーも大変だ。完成品を文句を言いながら使うぼくらは、どんなに楽なことか。

YouTubeではブログに埋め込むコードを生成してくれて、それをコピーしてブログに貼ればいいので簡単なのですが、どうすればいいのかわからなかったのがAmazonの本やCDを紹介する仕組みでした。けれどもこれも検索したところ、すぐにG-ToolsというWebサービスをみつけた。ぼくは初心者なのでまだまだ無知ですが、こういう便利ツールはもっと他にもあるように気がしています。時間があれば探してみよう。

ところで、Webサイトの基本であるHTMLのコードは、その内容(要素)の開始を宣言+終わりを宣言する、というようなペアの構造になっているようです。 ~内容~という感じ。最後は必ずスラッシュ(/)で閉じます。CSSも基本的に、開始と終了のコードがあります。というか、プログラムのコードってみんなそうなんでしょうかね。

この終わりの宣言というのが結構大事で、終わりの宣言をうっかり消してしまうと、レイアウトがぐちゃぐちゃになったりする。

そこで思わず連想したのは、

人生に似ているな

ということでした。物事にしっかりとけじめをつけないと、人生のデザインが、がたがたになる。無味乾燥なCSSから人生論を連想するのは、ぼくぐらいかもしれませんが(苦笑)。

優柔不断なぼくは、なかなかけじめというものをつけられないのですが、人生の節目に「/(スラッシュ)」によるコードをきちんと書き込もうと思いました。まあ、書き込むのに勇気がいるときもありますけどね。

投稿者 birdwing 日時: 23:44 | | トラックバック

2007年8月 5日

劇場版ポケットモンスター ディアルガVSパルキアVSダークライ

▼cinema:10年目のポケモンに驚いたり、首を傾げたり。

劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド・パール「ディアルガVSパルキアVSダークライ」劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド・パール「ディアルガVSパルキアVSダークライ」
松本梨香; 大谷育江 湯山邦彦


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ポケットモンスターは10周年だとか。うちの息子(長男くん)がちょうど10歳なので、彼が生まれたときに最初のポケモンが放映されたということになります。といっても、幼稚園までの彼は、最初は電車、その次は戦隊ものや仮面ライダーに夢中でした。ポケモンのカードやソフトビニールの人形を集めはじめたのは、小学校に入ってからだったような気がします。

それにしても10年とは(遠い目)。はやいものだなあ。

そんな10年目の劇場版ポケットモンスターを家族で観に行ってきました。びっくりしたのは、入場者プレゼントとして映画に出てくるダークライというポケモンをDSのゲーム内にインストールしてもらえるのですが(インストールって言わないか)、なんと劇場内で無線通信をしてゲットできた、ということです。つまり劇場全体が無線LANの環境になっているわけですね。

うーむ、すごいことになっているな、と思いました。どこかにプレゼント用の端末が設置されていて、順番待ちをして端末の前でキャラクターを入れてもらえるのかと思ったら、それぞれの席についてみんなDSを操作している。あーきたきた、なんてことを言ってる。

この子たちの未来はどうなるのだろうと予測もつかない気持ちになりました。ついでに家に帰ってから、DSでもらったダークライをWiiのゲームに移したところ、3Dで動きはじめたのにもおじさんはびっくりでしたけれども。当たり前なのでしょうか?これも。どういうからくりですか、これは。

映画の内容といえば、ディアルガとパルキアという出会うはずのない伝説ポケモンが出会ってしまったばっかりに、喧嘩をはじめます。そのとばっちりを受けてサトシたちが訪れた街が崩壊し、異次元のなかへ消滅しそうになるのですが・・・さらに、3世代という時を超えてその街に棲みついている悪夢をみさせるダークライというポケモンがいるのですが、こいつは敵なのか味方なのか、というお話。

ちなみに長男と映画を観に行くと困惑するのは、映画の間に何度もトイレに行くことです(苦笑)。どうやら映画を観ると緊張する性格らしく、これが幼稚園の頃から変わらない困った癖で、そのたびにぼくも立ち上がって軽くダッシュでトイレへと向かう。さすがに彼も最近では気をつけるようになって、なるべくジュースを飲まないようにしているようですが、昨日も2回もトイレに行くはめになりました(泣)。まったくもう、3歳のときから、ぜんぜん変わってないなーきみは。

しかも2回目にトイレに行ったときは、たぶんこの映画のクライマックスシーンで(あえて内容には触れませんが)、見逃したぼくは泣くタイミングを失ってしまった(号泣)。いや、別にポケモン観て泣かなくてもいいんですけど、やっぱりクライマックスのシーンは観たいじゃないですか。でも、ぼくと長男くんは、そのシーンでトイレに行ってました。がーん。

そんなわけで感動的なシーンをまるごと見逃したぼくは、「なぜ、ディアルガとパルキアが闘わなければならないのか、その意味がさっぱりわからん。とばっちり受ける街とかサトシは迷惑じゃないか(怒)」という、どうでもいい疑問というか、すっきりしない思いと食べ残したポップコーンを抱えて劇場を出たのでした。

若干、厳しいことを言ってしまうと、脚本的にはいまひとつな気がしました。ディアルガとパルキアの戦闘シーンが多すぎ。映像も大事だと思うのですが、やはり物語がきちんとしていてほしい。ストーリーとしては、ぼくはルカリオが出ていた作品のほうが泣けたかな。同じようにポケモンと人間の友情、というテーマだとは思うのだけれど。

とはいえ、映像はすごいです。棟のまわりをぐるりとカメラがパンして、下から空を見上げると青空に雲が・・・のようなシーンがあったのだけれど、美しかった。CGワークがかっこいい。映像表現についてはよくわかりませんが、ああいう風景の表現方法は結構ぼくの好みです。これもまた、こんなCGをふつうに見せられてしまった子供たちは、リアルな風景に感動しなくなるのではないか、などと不安を感じたりもしたのですが。

いちばん泣けるシーンはどうやら見逃しましたが、実はですね、それでも涙もろい父はひそかに涙こぼれちゃっていたのだ。隣りに座っていた息子は、おしっこを我慢してひょこひょこもぞもぞしていたので(わかりやすいやつ)、気付かなかったと思うのだけれども。まあよかったよ、ポケモン観て泣いている父に気付かれなくて。

それにしても、劇場に入ると頻尿になって、尿を我慢できないその性格(というか癖?)。彼女とデートする年頃までには治しておいたほうがいいと父は思った。あるいは彼女と映画デートのときには、かっこつけてビールとか頼まないことだな。きみは母親に似て、お酒が弱そうだし。

と、なんとなく頼りない長男くんに、そんな余計なアドバイスを考えつつ帰ったのでした。彼と話をしていたのですが、今度はトランスフォーマー観たいな、と。

公式サイト
http://www.pokemon-movie.jp/

YouTubeから予告編。

■Pokemon The Movie 10: Dialga VS Palkia VS Darkrai


投稿者 birdwing 日時: 21:55 | | トラックバック

2007年8月 4日

情という情報の記号化、構造化。

アタマが悪いので、どうすりゃアタマがよくなるんだ、ということに悩みつづけてきた(そしていまも悩みつづけつつある)のですが、いまさらながらですが、アタマがよくなるコツをひとつ掴んだ気がしています。どういうことかというと、

構造化すること

ではないかと思っています。ちょっと難しい言葉ですね。これだけではどういうことなのかわかりにくいかもしれません。あるいは当たり前だというべきか。

そこで、もう少し補足してみます。池谷裕二さんやアフォーダンス理論の佐々木正人さんの本を読んで重要だと思ったのは、人間はパターンによって世界を認識している、ということでした。以前にも書いたのですが、3つの点があるとその3つを結んで、そこにはない三角形を見出すような意識で、いちど三角形を結んでしまうと、次からはあらゆる3つの点が三角形にみえてしまう。

たとえばメールなどに使う顔文字。これは複雑な人間の感情をテキストで伝えるにあたって、パターン化したよい例でしょう。

(≧∇≦)とあれば、笑っている顔だな、と思う。ぼくはあまり顔文字を使わないひとなのですが、女性が使っているのをみるのは結構好きだったりします。かわいいですもんね。勝手なことですが、男性が使っているのをみると同性だからかもしれないのだけれども、気持ちわりい、と思ってしまう(苦笑)。でも、女性なら許せる。

この象徴的な顔文字では、右目の目尻に三本皺が寄っている、とか、ちょっと八重歯が唇からのぞいた、とか、そんなリアルな情報は削ぎ落とされていて、目と口の記号だけで笑いという感情を表現しています。顔文字の情報に個別の感情の情報を付加しようとすると、ものすごい情報量になってしまう。ところが記号の組み合わせから成る顔文字であれば、情報量は少なくて、かつ文章を補足する「情」としての情報を付加できる。

面白いことに、英文にも顔文字はあります。SmileyやEmoticons(Emotional icons:感情を表すアイコンの略)と呼ばれているらしい。

ただ、日本の文化と違うのは、90度左に傾けた顔になっていて、どちらかといえば目よりも口元を重視したものが多いということでしょうか。したがって、日本の顔文字は英語圏のひとには理解できないし、逆にあまり英文メールを使う経験のない日本人には英語圏の顔文字は理解できないものでしょう。文脈(コンテキスト)の違いが文化の違いになって、理解できない壁を作っている。

検索してみたところ、All Aboutの「メール英会話ヒント集[顔文字編]Vol.1 世界の"顔文字"大全集! 」に英文の顔文字が掲載されていました。このページを参考にグローバルな喜怒哀楽を表現してみると、次のような感じ。

喜 :-)
怒 >:-<
哀 :-<
楽 8->

うーむ。あんまり感情表現が豊かではないような気がする(苦笑)。

漢字という象形文字を使う文化があるせいか、ビジュアル的な記号表現は日本のほうが優れている気がします。日本のほうが顔文字による感情表現は豊かであるし、バリエーションも多い。あるいは、それだけ日本という閉鎖された国のなかでは、コミュニケーションにおいて他人の感情を損ねない配慮が重視されるからかもしれません。

考えてみると顔文字は、複雑な感情をシンプルに情報化する技術もしくは文化であり、この間引きした構造化のセンスによってアタマのよいひと、アタマの悪いひとが決まってくるのかもしれません。

糸井重里さんが池谷裕二さんとの対談である「海馬」という本で述べていたことですが、アタマのよいひとというのは、自分のことを理解してくれる、あるいは自分をよい気持ちにさせてくれるひとである、という観点がありました。ミもフタもない気がしつつ、そりゃそうだよなと思う。ある意味、顔文字を気持ちよく使うことができるひとは、感情という厄介な情報を右脳的にうまく処理できるアタマのよいひとかもしれない。

4255001545海馬/脳は疲れない ほぼ日ブックス (ほぼ日ブックス)
池谷 裕二
朝日出版社 2002-07-10

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顔文字という記号を中心に、視覚的・空間的な構造について考察しているのですが、時間的な構造もあると思います。構造化という観点については、CSSを学んでいるときにも重要性を感じたことです。継続してもう少し思考を深めてみたいので、このことについてはいずれまた。

投稿者 birdwing 日時: 23:26 | | トラックバック

2007年8月 3日

知のオープンソース、あるいは素敵なメイキング。

少し前になりますが、茂木健一郎さんがブログで次のようなことを書かれていました。「やがてうっそうとした」というタイトルのエントリーから引用します。

以前から、私は、
「クリエーターは言い訳をしては
いけない」と言い続けてきた。

 芸大の授業でも、学生たちに
そう言ってきた。

 作品として顕れるものが
全てで、
「本当はこうだったんだ」
とか、
「こういう意味なんです」
などと説明してはいけない。

かっこいいですね。でも、ぼくはあえて異議をとなえたいと思いました。

言い訳はよくないかもしれないが、クリエイターはもっと制作の過程について語ってもいいんじゃないか、いやむしろ語るべきではないか。茂木健一郎さんのような脳の創造性を解明しようとしているひとが、そんなことを言っていていいのでしょうか、と。

多くのクリエイターが、創作過程を才能というブラックボックスに閉鎖しがちだと思うのです。「きみの作品かっこいいなー。どうやって作ったの?」と訊いてみると、「ふっふっふっ。クリエイターは語らないのだよ。才能だ才能」なんてことを言ったりする。訊くんじゃなかったよ、むっかーと腹が立つこともあるのですが、才能と言う特権で片づけてしまうと、誰も近づけないじゃないですか。そこで思考停止してしまいます。才能のないやつお断り、のような排他的な何かが漂う。

あるいは「語らない」のではなくて「語れない」のではないか。創作過程を語るためには、まずクリエイターが創作者としての自己を客観視する必要があり、自らの創造のプロセスを構造化しなければなりません。これが実はかなり大変です。インスピレーションというかたちのないものの連続である創造の現場は、そう簡単に言葉にできない。達人には、身をもって教えなければ習得できない技があるように、単なる理屈だけで習得できない何かがある。

けれども曖昧なプロセスを明確なかたちにすることは、クリエイティブな作業においてはとても重要ではないかと思います。むしろ言葉化しなければ、次のフェーズにも進めない。言葉化することによって、何を創ろうとしていたのか方向性を見出せることもある。

ちょっと考え方を変えてみると、ドラッカーの本を読んでいてぼくが感銘を受けたことがありました。彼はビジネスマンはエグゼクティブであれと主張するのですが、エグゼクティブとは才能ではなく、こつこつと積み上げていけば誰にでもなれる、という考え方を提示していた点です。彼の理想とするエグゼクティブは、特権階級というブラックボックスの存在では終わらせなかった。

また、ドラッカーは予期せぬ成功も分析せよ、と述べています。予期せぬ偶然は構造化なんかできるわけないでしょ、と凡人のぼくは考えるのだけれど、彼はその偶然を分析するところに意義があると問う。凡人であっても努力すれば変わることができる、才能のないぼくを元気付けてくれる言葉に共感しました。その考え方をぼくの生きる姿勢として持っていたいと思った。

さらに話は変わりますが、現在、ウィキノミクスという本を読んでいます。

482224587Xウィキノミクス マスコラボレーションによる開発・生産の世紀へ
井口 耕二
日経BP社 2007-06-07

by G-Tools

ウィキといって思い出すのはWilkipediaですが、あの膨大なオンライン百科事典は、すべて一般のひとが書いている。かつて知識は博識な学者だけが持っていて、ブリタニカのような由緒のある出版社でなければ編纂できないものでした。それが、一般の誰でも参加できるようになりました。

このオープン性が、今後の社会を考える上で重要な鍵になる気がしています。

LinuxというOSは、フィンランドのリナス・トーバルスという学生が開発したものですが、彼は自分のシステムを秘密にしないで、すべてコードを公開してしまいました。こうやって作ったんですよ、と手の内をみせてしまったわけです。けれどもその太っ腹感に打たれた世界中の開発者が彼のコードを手直ししてあげた。それは営利を追求するマイクロソフトとはまったく別の方向にある動きですが、だからこそマイクロソフトも脅威を感じていたわけです。

技術ではなく知識も、閉鎖的に個人あるいは企業の秘密として抱えているのではなく、大勢のひとに開いていくことで相乗効果を生むことも出来るし、改善されていくのではないでしょうか。

ぼくは趣味でパソコンを使ってDTMによって曲を作っているのですが、制作中に考えたことを、できるかぎりブログで公開していこうと考えています。そのときに考えたことを作品といっしょに残していきたい。それは「言い訳」ではなくて、表現したいと考えているひとたちのきっかけになればよいと思うからです。知のオープンソース、といってしまうとかっこいいですが、実際にはただの創作裏話的なつぶやきかもしれないですね(苦笑)。

ただ、音楽を作っているひとの参考にならなくても、ひょっとすると文章に悩んでいるひとのひらめきを促すことになるかもしれない。ぼく自身も文章表現に悩むことが多いのですが、文章家の本ではなく、深澤直人さんなどデザイナーさんの書いた書籍からヒントをもらうことがあります。まったくジャンルの違うひとたちが書いたものが表現の参考になることもある。

というよりもそもそも、ぼくはメイキングが好きなんです(笑)。映画もそうだし、音楽なども制作現場の裏話などを読んだりドキュメンタリーを観たりするのが楽しい。サウンドレコーディングマガジンなどの雑誌に坂本龍一さんの創作についての考え方などが掲載されていると、むさぼるように読んでしまう。ビートルズの「レコーディングセッション」という録音裏話の集大成的な本は、ぼくにとってはバイブルでした。

4401612973ビートルズレコーディングセッション
内田 久美子
シンコーミュージック 1998-12-10

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言い訳をするのは男らしくありませんが、クリエイターはもっと創作論について語るべきではないか、とぼくは考えています。なので、ぼくはクリエイティブの方法論について語っていくつもりです。理屈っぽくなりすぎないように注意しながら。

投稿者 birdwing 日時: 22:20 | | トラックバック

2007年8月 2日

トライアル、トライアル?

若い頃には時間はいくらでもあるような気がして、ずいぶんと無駄な時間も過ごしてきました。夏休みの宿題は追い込まれないとやらない少年でしたが、人生という長い夏休みも追い込まれないと本気にならないのかもしれません。なんとかなるさ、では、どうにもならないこともあります。けれども、なんとかなってしまうこともある。どっちでしょう?わかりません(苦笑)。

21世紀のとばぐち、ブログによりネットが大きく変化した時期に、ぼくらは生きて毎日苦労しながらブログを綴っています。この時代に、人体実験としてネットを使ってさまざまなことをやってみる、ということを宣言した著名なひとがいました。彼のシリコンバレー仕込みのポジティブな考えを信奉するひとも多かったようです。しかしながら、ぼくは、どうかな?とうっすらとした疑問も感じていました。肯定的な全体の空気のなかで強く発言することはできなかったのだけれど。

確かに世界という幅広い視野を持っていれば、いまここで失敗したとしても、また別の場所でやり直せるかもしれません。けれども、日本というアジアの片隅で生きているぼくらは、それほどさばけているわけではない。狭い閉鎖的な社会では、失敗した人間は検索されてみつけられてしまう。そして、やり直せない十字架を背負い続けなければならないこともある。

インターネットの世界のなかにも、とても狭い地域(リージョン:region)があるような気がしています。物理的な地域性というよりも、心の地域性かもしれません。たとえば、あるアーティストを中心に、それに類したアーティストを好きなひとたちが集まる地域、というものがネットには確かにあります。その分野でしか通じない言語が、みえない壁を外部に向けて張り巡らせているものです。プロバイダやサーバーが違う、という物理的なものよりも、心の地域性のほうがぼくらにとっては影響大といえます。

ネットは開放的な理想郷ではない。閉ざされた世界であって、すべてが可能になる夢のような場所ではない。という当たり前のことを、8月の初旬、暑くて眠れない夜にCSSやらMovableTypeやらと格闘して迎えた明け方の風景に呟いています。ペシミスティックな感じもするけれども、そんなことはありません。まずは、根拠のない楽観主義よりも、地に足のついた見解の方が大事ではないか、と思うのです。

この狭いバーチャルな世界のなかでは、ハードウェアをリセットするようにやり直せないのも事実です。考えてみると、リアルな世界が一回性のものだから、これもまた当然といえば当然のことといえます。ぼくらは人生を巻き戻せない。“巻き戻す”という感覚自体が20世紀のビデオ技術の環境下の言葉であって、テープによる磁気媒体がなくなりつつある現在、巻き戻す感覚すらなくなりそうなのだけれども。

一回性の人生をいかに悔いなく生きることができるのか。

挑戦することは大事だけれど、その挑戦は本気なのか。トライアル(試み)だと思っているとしたら、では一体ホンバンはいつなのか、という突っ込みをしてみたい。一生、トライアルのまま、実験のフラスコのなかで生きるのか。覚悟は大事です。覚悟のない人生は、どこか安易な方角へ逃げを打ってしまう。

現在、とにかくひとつひとつ学習しながら立ち上げたブログですが、βバージョンに甘えていてはいけない、と思いました。βは完成のベクトルに向けた途上であって、一生βで過ごすのは大人になれない子供のようなものではないか、と厳しく自分に問うことにします。

というわけで挑戦する覚悟を持ちながら、ぼくは常にいまがホンバンだと思っていたい。だから、テストだといっても気が抜けないですね。

そんな真剣さを持ちながら、このブログを書いていくつもりです。それにしてもだ。うーむ、暑い。空が白みはじめました。

技術よりもコミュニティの力よりも、この暑い2007年の夏にとりあえずぼくは負けそうです(泣)。体力的にしんどくて、ついつい弱音が出てくる。とはいえ、負けたとしても諦めないつもりですが。負けを認めなければまだ負けていない、という(勝手な)考え方もありそうです。

投稿者 birdwing 日時: 04:56 | | トラックバック

2007年8月 1日

ここから、どこかへ。

3歳頃の自分の写真を貼り付けた古いアルバムをぼくは持っています。○十年前のぼくのスナップを集めた、タイムカプセルのようなアルバムです。どこいったかな? 部屋のなかの手の届かないところへしまい込んでしまったようで、手元にはみつからないのですが。

アルバムのなかの一枚の写真が印象に残っているのですが、その写真のなかで、ちいさな子供用の椅子を机にして、ちょこんと座りながら眉間に皺を寄せて、ぼくは何かを書いていました。

何を書いていたのでしょう。手に握っているのは緑色のトンボ製の鉛筆だったような気がするのですが、なんというか縮小版の芥川龍之介というか太宰治というか、そんな人生を憂うような顔で、3歳のぼくは何かを一生懸命書いている。3歳児の頭のなかには、そんな高尚な悩みなんてないはずなのに。

写真のなかのぼくが夢中になっていたのは絵かもしれないのですが、幼い頃から、ぼくは何かを書くことが好きな子供でした。高校教師だった父が持ち帰ったプリントのヤレ紙(失敗した紙)の裏側を使って、いつも何かを書いていた記憶があります。

そんな父はといえば、写真を撮ったりドライブのために頻繁にクルマを買い替えたり、いまにして思うとかなりの多趣味でした。その写真はたぶん大事にしていた一眼レフのカメラで撮影されたのでしょう。ちいさなぼくはギブスを嵌めていて(足が悪かった)、気むずかしい顔をしたぼくの前には、ブリキ製の玩具のロボットが置かれていました。意図的に玩具を置いたその構図はなかなかのもので、はじめての子供を前にした初々しい父のよろこびが感じられて、なんだかほほえましい。

そういえば、ぼくも息子(次男。まだ1歳頃)のお座りする姿を写真に撮ったことがありました。彼の後ろ姿がくまのプーさんに似ていて、ちょうど着ていた黄色い服もそっくりで、人形と並べて写真を撮ったことがあったっけ。かわいいというよりも、でっかい頭だなあ、という感動の方が強かったのですが(苦笑)。これです。

poo.JPG


うーむ、やっぱり頭でっかい(笑)。

3つ子の魂百までも、と言いますが、無意識だったとしても、幼い頃に自分が好きだったものは永遠に好きでありつづけるのかもしれないですね。自分探し、ということがよく言われますが、探さなくても自分はここにいるもので、気付いても気付かなくても、ここにいる自分こそが唯一無二の自分なのかもしれません。

というわけで、ぼくは3歳の頃の写真にあったように、何かを書きつづけるのではないか、と思っています。いまは亡き父が何気なく撮影した瞬間こそが、その後のぼくの運命を決めるシーンであって、鉛筆をキーボードに変えたとしても、ぼくは永遠に書きつづける。

書きつづけて、どこへ行くのでしょう。わかりません。でも、わかってしまったら、つまらないような気もしています。目的地がわからないまま、今日もぼくは日付変更線が変わるあたり、家族が寝静まった11時頃から日付変更線をまたいで次の日の1時頃まで、あれこれ思ったことを書きつづける。

かつては文章で世界を変えてやる、というような意気込みもあったのですが、最近ではそんな熱い気持ちもすっかりなくなっています。他人を変えられるほどの文章力なんて、おこがましい。けれどもぼくの書く文章が誰かのこころにわずかなあかりをぽっと灯したり、くたびれた毎日に少しだけ光を見出せるようなことがあれば、それがいちばんしあわせだと思っています。

アクセス数を上げようだとか、書いたものを出版しようだとか、そんな大きな目標はいまのところはありません。けれどもぼくの文章を読んでいただける僅かなひとのために、結晶のような文章を書きつづけたいと考えています。

ここから、どこかへ。もう何度目かのリスタートになりますが(苦笑)、まずはおそるおそる、けれども姿勢を正して胸を張って、第一歩を踏み出そうと思います。

Lifestyle Innovation。思考の翼をひろげて、より高みへと飛翔するために、ここから書き始めます。

投稿者 birdwing 日時: 00:10 | | トラックバック

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