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2007年8月24日

待つチカラ。

一般的に、仕事を取りに行くとか運命を自分で変えるとか、前向きなアクティブでポジティブな姿勢は高く評価されます。「チーズはどこへ消えた? 」という大人向けの寓話もありましたが、消えてしまったチーズを嘆いているばかりでは何も変わらない。新しい場所にあるチーズを探して一歩踏み出せばいい。

けれども一方で、果報は寝て待て、という諺もあります。ぐうたらな感じもするけれど、寝ているうちに果報がやってくるのであれば、それほど効率的なことはない。無駄なエネルギーを使わなくて済みます。

昨日のエントリーで、過去から現在に至る「満足度」と、現在から未来を見据えた「期待度」という考え方を書いたのですが、期待するためには、待つチカラが必要だと考えました。待つことは簡単なようで簡単ではありません。無駄なエネルギーを使わなくて済む、などということを考えましたが、実は動くことと同じぐらいに待つためのチカラも必要になるのかもしれません。あるいは待ちきれずに動き出して、時機をあやまって失敗することもあります。

待つということについてあれこれ考えていたところ、浮かんできた思い出がありました。遠い記憶の映像を脳内から手探りで検索するのですが、小学校6年生のときのことです。

当時、ぼくは生徒会長をやっていました。ちいさい頃の神童は年齢を経るにしたがって凡人になってしまうもので(苦笑)、現在ぼくはただのくたびれた大人に成り下がってしまいましたが、これでも当時はファンクラブまであった一種のアイドルでした。自分でも信じられませんけどね。

といっても全校的に人気があったわけではなく、ひとつ年下の5年生のクラスの一部だけが異様に盛り上がっていました。下駄箱からグラウンドに出ると、わーっと窓のところに女の子が集まってくる。それこそ熱病的に人気が出てしまったようで、どうやら思春期の一歩手前にはそんな時期があるようです。バスケットボール部のシムラ君というアイドルもいたので、バスケ派と会長派で人気を二分していたのでしょう。競合があると人気も過熱もするものです。

ところで、会長派のひとりに、とても真面目そうな勉強のできる女の子がいました。髪をきれいに肩のあたりで切り揃えた利発そうな痩せた女の子で、レイコさんと言ったな確か。漢字で書くと玲子。

レイコさんはいつも校庭のブランコに乗って、ぼくの帰る時間を待っていました。

会長職にはさまざまな会議があり(何の会議だったか忘れた。雨が降った日に運動場をぐちゃぐちゃにしないためにはどうすればいいか、みたいな議題が多かった気がする)、会議を終えて窓から外を眺めると、グランドのずっと向こう側、校門の近くのブランコにレイコさんの姿がみえる。

なぜそれがレイコさんだとわかるかというと、かっこ悪いからみんな被るのをやめてしまう黄色いヘルメットを、5年生にもなってまだ被っているからでした。

真面目な子でした。ぼくのファンであることを明言して、会長婦人と言われて友達にからかわれていたんですが、確かにちいさな貴婦人的な雰囲気がありました。凛とした空気をしたがえている感じ。色白で、とても美しい女の子でした。そしてピアノが上手かった。

送別会のようなときに体育館で彼女が弾いた「グリーン・グリーン」の伴奏をいまでも覚えています。その歌をぼくは知らなかったのだけれど、あわてて調べた記憶があります。あの素敵な歌はなんだったんだろう、と。

レイコさんは、会議が終ってぼくが帰りの支度をして校門に近づくと、ブランコからぽんと降りる。そして、いつもぼくの5メートルほど後を着いて来るのでした。ぼくが立ち止まると、彼女も立ち止まる。そして歩き出して振り返ると、彼女もこちらを見て笑う。

同じ通学路だったのですがぼくの家の方が学校から近く、通りを曲がるとぼくの家がある。角を折れて家に入ろうとフェイントをかけて振り返ってみると、角のあたりからひょっこり首を出してレイコさんもこちらを見ていたりして、なんとなく手を振ってみると、彼女もぎこちなく手を振り返してくれたりする。

コイだのスキだの、そんな言葉をまだ知らなかったぼくは、変な子だな、と思っていたのですが、いまはるかな時を経て大人になったぼくは、

彼女がぼくを待っていたときの気持ちになれないだろうか、

と考えています。待つのはひとではなくてもいい。素晴らしい幸運でもかまわないし、青空が広がる天気のいい日でもいい。子供たちと過ごす楽しいイベントでもいいだろうし、美味しいビールを飲める瞬間でもいい。現実を嘆いているばかりでは待つこともできなくなります。たとえ叶わない望みでも、待っている時間が楽しければ、その時間は無駄ではなく、しあわせな時間といえるのではないか。

何かを待っているとき、ぼくらのこころに辛さはないでしょう。時間的な感覚もなくて、待っている時間さえ楽しいかもしれません。手を握ることも話をすることもできなくても、レイコさんにとっては5メートルの距離を隔てて歩く時間が尊かったのではないか。そうあってほしいですね。時間的には30分だったとしても、永遠のように長い時間をそのとき過ごすことができたのだ、と。

いまでもぼくはレイコさんの涼しい横顔を思い出すことがあります。彼女の面影を思い出すとき、なんとなく夏の風が吹いたような、さわやかな気持ちになります。ほんのかすかに、ですけどね。

投稿者 birdwing : 2007年8月24日 21:11

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