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2006年2月28日

「あたりまえだけどなかなかわからない組織のルール」浜口直太

▼book06-019:若い頃には読んだけれど。

4756909353あたりまえだけどなかなかわからない組織のルール (アスカビジネス)
明日香出版社 2005-10

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いわゆる啓蒙本、自己啓発本です。見開きページででひとつのテーマが完結して、仕事ができる何か条とか、いまやっておきたいこと50とか、そういうタイプの本のひとつです。新入社員の頃には、この手の本はずいぶん読みました。けれどもいま読むと、どういうわけか少しだけ物足りない。書かれていることは参考になります。もういちど基礎からきちんとしよう、という気持ちにもなる。けれども、どこかプラスアルファを求めてしまうのはなぜでしょう。

著者はMBAを取得し、コンサルタントとしてさまざまな苦労をした後に現在は社長として活躍されている方です。さまざまな知識を基盤に、現場の声、自分の経験を引用して、組織を活性化するための101のルールを提示されています。

しかしながら、たとえばルール41で組織のビジョンやルールを理解すべきだ、ということが書かれていて、理解しない社員を批判しているかのようにも読み取れるのですが、きちんとわかりやすいビジョンを掲げなかった(社長である)著者の表現力と熱意に欠けたのではないか、という疑問を感じました。職場にもよるかと思うのですが、ビジョンはみんなで創り上げるものと、リーダーが(それこそリードというだけに)考え方をかたちにしてぐいぐい引っ張っていくものがあるような気がします。リーダーシップをとるべき人間の言葉が社員に理解されていないということは、コミュニケーションとして問題があるような気がしました。

帯には「これだけ守れば組織の中で絶対うまくいく」というコピーがありますが、その耳あたりのよい言葉に疑問を感じる自分がいます。中小企業のおじさんは飛びつくかもしれない。若い時期のぼくは素直に吸収したかもしれませんが、いまは疑問です。ひねくれちゃったのでしょうか。きっとそうだ。2月28日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(19/100冊+20/100本)

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イヌはよろこび。

イヌはよろこび庭駆けまわり、というのは、童謡「雪」の一節ですが、2月25日から公開されている、はてラボの「はてなワンワンワールド」をみて、そんな感じがしました。これいいなあ。すごく楽しいです。打ち合わせやら企画書やらが一段落して、ちょっと息抜きにやってみたのですが、なんだかほっとしました。

このサービスはたぶんはてなの会員ではないと使えないのですが、どういうものかというとマッシュアップの一種でしょうか。はてなマップというGoogleMapを利用したサービスがあるのですが、それを遊び的に使ったものです。ログインすると、マップが表示される。そして、カーソルはかわいいイヌのアイコンになっている。地図をスクロールするとカーソルのイヌが走る。

そこまではたいしたことはないのですが、走っているうちに「わんわん」言ってるイヌに出会う。これが何かというと、それぞれのユーザーというわけです。で、友達に追加すると、そのひとのはてなSNSを表示することができる。日記を読むことができるわけです。どうやら会話もできるようになるらしい。3Dチャットみたいなものですね。

バーチャルなマップ上で新宿あたりをうろうろして、声をかけあうような感じです。ちょっとナンパっぽいイメージもありますが、地理的に移動していろんなひとと出会う可能性があります。通常、SNSなどではコミュニティで趣味の合うひとを探すとか、キーワードで検索して自分の趣味に合ったひとを探すものです。GREEではランダムというボタンを押すと、適当に選んだひとが表示されるような機能もあるようですが、あまりにも偶然すぎる。うろうろしているうちに出会う、というのはなかなか自然でよいです。

とはいえ、ぼくはどちらかというと誰もいない場所を、わんわん疾走するのが楽しかった。あっという間に東京を端から端まで走って行ってしまいました。単純に地図をスクロールしているだけなのですが、これが楽しい。どっかでみたことがあるなあ、と思ったんですが、ロールプレインゲームでした。ドラクエとか。

ところで、イヌ型とネコ型という区別をすると、ぼくはまぎれもなくイヌのような気がします。かなり忠実だし、ちょっとばかなところもあるし、感情が表れやすい。すぐにしっぽを振ったり、吠えたりする。一方、ネコ型の人間というと、ずる賢いところがあるような気がする。気まぐれであったりアンニュイだったりもする。頭が良さそうですけどね、ネコ型のひとは。

スクロールするアイコンはイヌじゃなきゃだめでしょう。ネコの場合には、丸くなったまま動かないかもしれません。

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2006年2月24日

脳と外部ブレイン。

本屋に行って「書きたがる脳」を買ってきました。いま49ページを読書中ですが、読ませる文章です。というのも著者は神経科医なのですが、文章を書くのが大好きなんですね。書くことが好きなひとの文章は読んでいてすぐにわかります。書くよろこびのようなものが滲み出しているので。

章の最初には、ロラン・バルトやカフカなどの文章が掲載されています。茂木健一郎さんをはじめとして、脳科学のトレンドなのかもしれませんが、基本的には理系でありながら分野を横断して文学的な教養もある方というのは、素晴らしいと思います。文系のぼくはもっと技術を理解したいものです。

先日書いたこととも重なるのですが(というか、最近は読むもの書くもの観るものすべてが重なりつつあって怖いのですが)、著者のアリスは、書きつづける動機、そして研究しつづける動機にきちんと「私」を据えています。そこが共感できます。もともと学生の頃からハイパーグラフィア的な「書かずにはいられない」傾向があったそうですが、結婚後に双子の子供を亡くしたときにハイパーグラフィアになった。頭のなかにアイディアが膨らんで、書かずにはいられなくなった。という自分の経験を語りつつ、客観的に科学的な考察を加えるアリスの文章は、こころに刺さって痛いものがあります。

一方、ぼくがなぜ脳にこだわるのか、ということを冷静に考えてみると、父親を脳梗塞で亡くしたことが要因じゃないかと思いました。父親が倒れたちょうどそのとき、ぼくはものすごくリアルな夢をみた。頭の左半分が、ごぼごぼごぼと水のなかに沈んでいく夢です。目が覚めてからも、ぬるりとしたなま温かい水の感触と水のなかに沈んでいく音を覚えていた。いやな夢をみちゃったな、と思いました。その直後に電話があり、父が倒れたことを知りました。ちょうど夢とシンクロしているのですが、トイレをごぼごぼと流したあとに倒れて、左脳の血管が破裂して脳のなかが血液でいっぱいになってしまったらしい。まさに、虫の知らせ、です。

病院で脳のレントゲン図を何度もみせてもらい、シャントという脳にたまった血液を排除する管を入れること、言葉はしゃべれなくなって半身は動かなくなるけれどリハビリでなんとかなること(結局のところ急変してなんともならなかった)などを医師から説明いただいたのですが、その当時、ぼくはレントゲンの写真を見ながら実は何も見えていなかったような気がします。医師の言葉に頷いていたけれども、言葉さえ聞いていなかった。すぅっと通り過ぎていた。ぼくは意識のなくなった父という現実を直視できませんでした。しばらくは脳の図をみるだけでも、なんとなく気分が悪くなった。

やっと最近になって、落ち着いて脳のことを考えられるようになりました。そして、考えはじめると、とことん考えたくなってきたというわけです。なんとなく脳ブームなので流行にあやかっているんじゃないか、ということもありますが、ぼくの個人的な脳に対する思いは、父を亡くしたことにつながっている。つまり実はかなり重い話題です。

個人的なナマナマしいお話を書いてしまいましたが、インターネットの世界では、脳はひとつじゃありません。それぞれのひとの脳が外部ブレインとして集合してひとつの頭脳を形成していくような感じです。協働というか、お互いに考えをぶつけながら考え方を練っていくというスタイルができつつあります。

そんな状況を踏まえつつ、はてなの近藤社長の「ウェブサービスの模型を作ろう」という日記に注目しました。

多くのプロフェッショナルなクリエイターの仕事には、模型、プロトタイプ、デッサンをする行程が存在します。建築物を作るのだったら模型を作って実際のイメージを確かめますし、工業製品を作るにもデッサンをしたり模型を作ったりします。作家は何度も推敲しながら文章を作り上げますし、画家もデッサンを繰り返します。

よくわかります。この推敲の時間というのが、実は楽しい。小説家には推敲の段階で書いたものの半分を削除するひともいるようです。文章作法の本に書かれていたのですが、アマチュアのひとは書いたものにこだわって消すことができない。ところが小説家は、全体を俯瞰して不要だと思った部分は潔く削除する。どれだけ削除しても書けるのがプロだそうです。

次の部分も同感です。

「ぱっ」と一瞬で作り上げた作品が、すぐさま改良の余地が無い程に100%の完成度である、と主張する人がいれば、多くの場合、それは怠慢によるものであると僕は判断すると思います。

というわけで、外部ブレインとして、いくつかのひとの手や知識を借りながらプロトタイプを完成に近づけていこうとするのが「はてラボ」のようです。なかなか面白いです。SNSのインターフェースになるところなど、同じブログも入り口を変えるとこんなに変わるのか、と当たり前だけどちょっと感動でした。

しかしながら、「新規実装・機能変更のお知らせ」で、新しい機能を○×で投票するという機能は、あっという間に消えてしまいました。イエイリさんのブックマークをお気に入りに入れていたところ、イエイリさんが非常に腹を立てられていたので、無知なぼくは、なんでかな?と思っていたのですが、オオヒダタカシさんの作った「コトノハ○×」にそっくりなんですね。「色までそのまま同じだったのが腹が立った理由です」と、イエイリさんのブックマークにコメントが書かれていました。ただ、ぼくはとりあえず走り出しちゃってから考える姿勢はいいと思います。問題をきちんと指摘してくれる方もいるわけだし。

マッシュアップが注目されていますが、アイディアだけいただき的なことに関しては、モラルも含めて今後もいろいろと議論が起きそうな気がします。オープンソースが主流になりつつある感じはあるのですが、問題も多そうです。

ところで、そのマッシュアップで思い出したのですが、カリフォルニアで行われたMashupCampでは、スケジュールがまったく決められていなくて、プレゼンテーションしたいひとが30秒間だけ壇上でプレゼンできたらしい。しかも、次から次へとプレゼンがつづいたとのこと。CNETjapanの「マッシュアップ・カンファレンスは異例ずくめ--「MashupCamp」レポート」を読んで唸りました。うーむ、斬新すぎるというか、無計画というか。日本だと難しいかもしれません。しかしながら、これぐらい騒がしいと脳内も活性化するでしょう。

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2006年2月23日

「ブログ・オン・ビジネス 企業のためのブログ・マーケティング」シックス・アパート株式会社

▼book06-018:デザイナーとプログラマーの子供。

4822244946ブログ・オン・ビジネス 企業のためのブログ・マーケティング
シックス・アパート株式会社
日経BP社 2005-12-28

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読みものというよりも実用書として充実した内容でした。どちらかというと雑誌(ムック)的な本です。ブログについての概要、29manブログで有名な渡辺英輝さんによる実況中継的な企画のフロー紹介、4社に取材した詳細な事例、シックス・アパート社の歴史、そして巻末資料としてビジネスブログ100社カタログが掲載されています。巻末の資料が結構役立っています。インターネットではなくて印刷物なので、掲載されているURLをいちいち打ち込まなければならないのが、面倒といえば面倒なんですが。

実用書的な内容はもちろん、ぼくがこの本でいいなあと思ったのは、シックス・アパート社の歴史「ブログことはじめ」でした。

シックス・アパート社といえばMovable Typeというブログのシステムで有名です。会社にもイントラで導入されているし、さらにぼくはココログで同窓会ブログの運営を試しているのですが、こちらはTypePadがベースです。したがって、やはりシックス・アパート社のシステムは馴染みが深い。

その成り立ちとは、デザイナーだったミナ・トロットさんとプログラマーのベン・トロットさんという、おしどり夫婦から生まれたとのこと。ふたりは高校で知り合って9年間お付き合いしたのちに結婚。そして23歳のときにMovable Typeが生まれました。

簡単にまとめてみると、デザイナーのミナさんは(なんか皆さんみたいだ)、自分の表現したデザインをブログでみんなに見てもらいたかった。さらに、せっかく見てくれたのならコメントがほしかった。作品集として保存(アーカイブ)もしたかった。そんな奥さんの要望を夫でありプログラマーのベンさん(和田勉さんみたいだ)が理解し、実際に開発して夢をかなえてあげた。これがMovableTypeだそうです。だから当初は「個人的なニーズを満たすためのツール」、要するに奥さんがインターネットでデザインを発表するためのシステムだったわけです。けれども「なるべく多くの人に使ってもらって、感想を聞きたい」ということから無料で配布。予想以上のダウンロードがあって、そのあと有償に切り替えたとのこと。

なんとなく絵本のおとぎ話風のサクセスストーリーですが、こころ温まるものがありました。デザイナーとプログラマーの夫婦の2つの異なる遺伝子が合わさった製品(子供のようなもの)であること。きっかけは奥さんの夢をかなえるという個人的な夢を発端としていたこと。奥さんには表現をみてもらいたいという切望があったこと。まずはとにかくビジネスよりもみんなに使ってもらおうという意思があったということ。そんなところに、惹かれます。

よいサービスであったり志の高い会社というのは、儲かることばかりではなく誰かのために何とかしてあげたいというような理想が掲げられているものではないでしょうか。ビジネスブログとは何か、何を大事にすればいいのか、という根本的な問いについて、間接的ではありますが、シックス・アパート社の誕生のエピソードが大きな示唆を与えてくれているような気がしています。

ところで、ひとつだけ気になったことですが(瑣末なことで申し訳ないのですが)、渡辺さんのパートで「企画のプランニング」という言葉は、なんか変な感じがしました。「企画のプレゼンテーション」が後にあるので、あえて「企画の」を付けた意図はわかりますが、ここは「プランニング」「プレゼンテーション」でよいと思いました。2月23日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(18/100冊+18/100本)

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書かずにはいられない。

ちょっと本屋行ってきます、と思わず言いたくなりました。

というのは、橋本大也さんの「情報考学 Passion For The Future」で「書きたがる脳 言語と創造性の科学」という本の紹介を読んだからです。ちなみにfinalventさんの「極東ブログ」でも取り上げられていて、実はそちらを経由して情報考学のブログを参照して、おっこれは面白そうだ、と思いました。というよりも、さらに正確に状況を説明すると「ドコモを育てた社長の本音」という橋本大也さんの今日の日記を読みながら極東ブログに進んだところで、またリンクを経由して戻っちゃったんですが。

気にいったブログはRSSリーダーに登録して(ぼくの場合、SleipnirというタグブラウザのRSSバーなのですが)、サマリーだけは目を通すように心がけているつもりです。タイトルで直感的にぴんときたものは、ブログにアクセスして全文を読むようにしているのですが、やっぱりきちんと読んだ方がいいな、と思いました。橋本大也さんには、すごいひとだと思います。読書量がハンパじゃありません。年間100冊も困難なぼくは足元にも及ばないのですが、刺激を受けます。

最初に、この本について実に簡潔にまとめられています。引用します。

ハイパーグラフィア(書かずにいられない病)とライターズ・ブロック(書きたくても書けない病)について、自ら両方の症状を経験した医師でもある著者が、脳科学と精神医学の視点で言語と創造性の科学に迫る。

ハイパーグラフィアについては次のような基準を引用されています。

著者によるハイパーグラフィアの基準:
1 同時代の人々に比べて圧倒的に大量の文章を書く
2 外部の影響よりも強い意識的、内的衝動に駆られて書く
3 書いたものが当人にとって哲学的、宗教的、自伝的意味を持っている
4 当人にとっての重要性はともかく、文章が優れている必要はない

うーむ、当てはまるかもしれない。というか、まさにその通りです。病気なのか。ただでさえ病気がちなのに、これ以上病気が増えては困ります。ただ、橋本大也さんの次のコメントに、なんとなくほっとしました。

私はブログを毎日更新するようになって約900日目だ。それ以前には3年ほどメールマガジンを定期発行していた時期もある。さらに遡ると大学時代はサークル広報誌の編集長兼ライターだった。日常的に物を書くという習慣は15年以上続いていることになる。思えば書くことや文字へのこだわりは子供の頃からだった。書かずにはいられない。軽いハイパーグラフィアであることは間違いなさそうだ。

900日!まずその日数に気が遠くなりました。

編集者というのは大変なお仕事です。以前に在籍していた会社で、ぼくも編集の経験がありました。いまでは企画というカタチのない仕事に就いていますが、取材(ときには写真撮影まで)をして、あるいはライターさんからの原稿を整理したりレイアウトを組んで、苦労して作った冊子が書店に並ぶときの嬉しさには格別のものがありました。それは、はじめてワープロを購入して自分の文章が活字になった、という感動をさらに拡大した印象だったかもしれません。その感動が次も何か創りたい、というモチベーションにつながっていく。

たぶんブログやSNSにはまっているひとたちは(そしてはまっているときは)、誰もが軽いハイパーグラフィアになりがちなような気がします。つまり、ブログ社会あるいはWebが進化した総表現社会は、ハイパーグラフィア増幅社会のようなものにもなりかねない。強烈な快楽をともなうものは、同時に強烈な毒にもなり得ます。一度、快楽を知ってしまうとさらに大きな快楽を求めたくなる。

そもそもこの無限ループが発生する理由としては、書くという作業がひとりで内的なものに向かい合う作業だからだ、と思います。ブログの投稿画面に向かうときも基本的にはひとりです。インターネットを突き抜けた向こう側には、現実のひとがいるわけなのですが、文字になってしまうとその肉体やリアルは失われてしまいます。だから、コメントも自分のなかで都合のよい他者として再構築してしまう。それは他者でありながら、自分の分身に他ならないかもしれません。

この無限ループを解除する方法が、まさに現実を認識すること、形而上的な結晶の世界だけでなく現実の泥沼を認めることだと思います。以下も情報考学からの引用です。

創造性を発揮するには、理性を失うほど病気に犯されていては難しい。ちょっと病的な傾向を持ちながら、社会性を失わない人たちが、文章の世界で活躍できるということになるだろう。豊富な臨床研究の調査と自身の深刻な体験から4年間考察にかけた本書は、プロ・アマを問わず物書きにとって極めて興味深い洞察と示唆に富んだ内容である。

ちなみに茂木健一郎さんも、この本のなかで何か書かれているようです。

ところで、梅田望夫さんのブログから、はてなの「はてラボ」という実験的なサービス開始に感動したのですが、最近、はてなはすごい、ばかりを繰り返しているので、きちんと使ってみた上でまた感想を書きたいと思います。

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2006年2月21日

「おとなの小論文教室。」山田ズーニー

▼book06-017:この小論文教室は、痛い。

4309017444おとなの小論文教室。
河出書房新社 2006-01-07

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まいりました。特に前半の部分で、山田ズーニーさんの文章は痛いほど心に刺さりました。何度か涙が出そうになったほどです。今日の昼間に本屋で購入して、夜には一気に最後まで読み終えてしまいました。

正直なところ、ぼくは糸井重里さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」に連載されていた山田ズーニーさんの記事を読んだことはありませんでした。ところが、最近ぼくがブログに書いてきたキーワードがたくさん出てきて、自分でもびっくりしました。たとえば前半では「考える力」や「自分を表現する」ことの重要性。そして読者が大事であること。そのあとには「セルフプロデュース」という言葉も出てきます。まさに昨日20日のブログで書いたことです。

本気で何かを考え抜いたとき、人間の思考回路はある程度同じところに到達するのではないでしょうか。分野は異なっていたとしても、達人と呼ばれるひとたちの思考は似ているものです。ここ数日間、ぼくはたぶん山田ズーニーさんとかなり近い思考回路で、表現とは何か、ということを考えていたような気がします。しかしながら、ぼくにとってはシンクロしているような感覚があるけれど、客観的には違っているかもしれません。また、このシンクロ感覚も明日になれば消えているかもしれない。でも、かまわないと思います。ぼくにとっては言葉のひとつひとつが心のまんなかで共鳴するような感じがあり、一瞬だけでもその共鳴感覚を得られて幸せでした。

経験によって体得した言葉、余計なものを削ぎ落としていった言葉というのは、最終的にはやさしくてシンプルなものになると思います。けれども、どんなに簡単な言葉であっても、同じように苦しんだり考えつづけてきた経験があるひとにとってはわかる。一方で、そういう経験のないひとには別に心に刺さるようなこともなく、通り過ぎてしまう言葉かもしれません。

田坂広志さんの本を読んだときにも、ぼくはめちゃめちゃ感動したことがあったのですが、ひとによっては、なんじゃこりゃ?と思うだろうなという印象がありました。たぶんぼくの個人的な経験(と、本を読んだ時間および場所が呼び起こす何か)が共鳴したからこそ心に刺さるのであって、経験のないひとには、この感覚はわからないと思います。山田ズーニーさんの本も、ぼくのなかにある経験を引っ張り出すから、痛いんです。

書籍をはじめとして映画、音楽などの作品には、適切な出会う時間と場所があると思います。以前にも何かに書いたような気がしますが、果実に食べ頃の時期があるように、読み頃、観頃、聴き頃というようなものがある。その時期は絶対的なものではなく、読者によって異なるものだと思います。ぼくはこの本と、まさにベストな時期に出合うことができました。2月21日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(17/100冊+18/100本)

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すごさを再確認。

しばらく日記を書くことと100冊読書+100本映画鑑賞にせいいっぱいで余裕がなかったのですが、なんとなく時間もできたので、はてなの近藤社長の日記を拝見したところ、「注目キーワードがかなり面白いです」という日記を書かれていました。引用します。

はてなダイアリーの注目キーワードの計算方法が言及数の増加率に変更になったわけですが、注目キーワードページがかなり面白い情報になってきています。

直感的に惹かれるものがありました。特に次の言葉です。ぴんときました。

カテゴリーごとに細かく見ることもできますし、毎日のランキングが過去にさかのぼって見れますので、日付ごとのトレンドの推移も見ることができます。

はてなの日記では、自動的にキーワードがリンクされるのですが、言及されたキーワードが数値で表示されるということです。近藤社長は日記のなかで、長浜の事件とか、テレビで放映された「ニューヨークの恋人(メグ・ライアンが出演している映画ですね。メグ・ライアンは好きな女優さんのひとりです。明るいので)」が上位にあることなどを取り上げていました。

リンクを辿ってみて、あっ!と思いました。かつて書いたこともあったのですが、ブログウォッチングというかKIZASI的な言葉の推移を見ることができるということです。ちょっと感激しました。すごい。もちろん、はてな内のブログに限定されますが、リアルタイムでグラフも表示されます。

うーむ、なんか面白いことになっているなあと思い、もしかして他にも面白いサービスがあったりして、と、なんとなく気になったのですが、まず注目したのは、はてなブックマークです。

ソーシャルブックマークというのは以前から聞いていたのですが、はてなアンテナみたいなものでしょ?と勝手な思い込みがあり、使っていませんでした。せっかくの機会なので、まずは考えるよりも使ってみようと思い、ブックマークレットを登録。そして、試しにコレクションページに本100冊+映画100本プロジェクトでいままで読んだり観た作品を登録したところ、がーんと打ちのめされました。先日、Wikiでやろうとしていたことはこれでした。知らないということは怖い。ついでに、いまさらながらですが、それぞれの映画のページからその映画を言及している日記にリンクがあることに気づいた。他のひとのレビューを読んでしまうと影響を受けそうなので、書く前には読まないようにしようと思いますが、時間があったときに読んでみたい。他のひとがどのような印象を持ったのかは気になるし、同じ趣味のひとを探すこともできそうです。

はてなには他にどんなサービスがあるんだろう?とさらに関心が広がって、そういえば画面の上にあるHatenaというタイトル横の△▽でサービスが切り替えられるなあと思って切り替えたところ・・・。

びっくりした。すごいことになっていました。個人的にはフォトライフ、アンテナ、ダイアリー、リングしか使っていなかったのですが、いろんな機能がある。マップについては梅田望夫さんの本にも出てきていたし、実際に使ってみたこともあったのでわかっていたのですが、RSSリーダー、グラフはともかく、「仮想的な市場の仕組を使って、ユーザーの皆さんから要望や不具合報告を効率的に頂くことを目的とした試験的サービス」の「はてなアイディア」には驚きました。

そもそもキーワードを編集できるところもWiki的ではあります。実はライブドアのWikiを退会した後、@Wikiという無料のWikiサービスを利用して、こつこつとあるWikiサイトを組み立てているところなのですが、これって、はてなのキーワードを編集すればできることじゃないのか?という疑問に悩まされています。まあ、どうなるかわかりませんが、もう少し手を加えたら試しに公開してみるかもしれません。公開じゃなくて後悔しそうなのでフェードアウトするかもしれませんが。

そういえば、はてなグループで本を100冊読むというグループがあることも発見しました。参加を検討中です。灯台もと暗しというか、身近なところにダイヤモンドが転がっているものです。

はてなは日本のグーグルになってほしいと思います。

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2006年2月20日

「EQマネージャー」デイビッド・R・カルーソ , ピーター・サロベイ , 渡辺 徹

▼book06-016:最終的に役には立ちましたが。

4492555285EQマネージャー
東洋経済新報社 2004-12-17

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辛辣で申し訳ないのですが、単刀直入に感じたことを結論から言ってしまうと、非常にまどろっこしい本でした。歯切れが悪いです。余計な引用が多すぎます。AかもしれないがBともいえるのように、あいまいな部分が多い。つまり感情(EQ)については研究が途上であり、きちんとした結果がないのでしょう。とはいえ、今日のブログで引用したように部分的には興味深い考察もあるので、たぶん冗長な部分を削除して半分ぐらいのボリューム(200ページぐらい)にすれば、非常に有用な本になるのではないでしょうか。2000円というのも高すぎます。1300円ぐらいでちょうどいい。

このまどろっこしさはどこかで感じたことがある、と考えて思いついたのですが、「書くことがないのに原稿用紙2枚を埋めなければならずに苦労して書いた息子の作文」でした。同じことを何度も繰り返したり、あるいは「楽しかった」「面白かった」のように抽象的な言葉を多用する。体系的にもなっていない気がします。

苛立ちに近いもやもやした気分を感じながら、あと何ページか気にしつつ、久し振りに早く終わった会社の帰りに喫茶店で読み終えたのですが、あと20ページ多かったとしたら、もやもやは確実に怒りに変わり、EQなんとかというシリーズの本全般に対する不買行動を起こしたかもしれません。しかしながら、このイライラはなんだろう、という感情分析ができたという意味で、最終的には役に立ちました。また、イライラを客観的にコントロールすることもできたような気がします。この本のおかげです。感謝しています。とはいえ、EQによる自己啓発セミナーに参加しませんか、と言われたら、申し訳ないのですが丁重にお断りしたいと思います。あまり効果は望めそうにないので。2月20日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(16/100冊+18/100本)

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感情という情報。

ビジネスに感情論は持ち込むべきではない、ということも言われますが、高度な意思決定には感情が必要である、ということが述べられているのが、いま読んでいる「EQマネージャー」という本です。

日常生活でも、ときに感情は非常に厄介なものとなります。猛獣にも変化します。抑えつけるとますます凶暴になるかもしれないし、かといって野放しにもできない。しかしながら、さまざまな創作活動やブログを書くことなどにおいては、感情をうまく取り入れることが大切です。感情には特効薬というかスパイス的な効果があって、一滴垂らすだけで、化学反応を起こして全体を一気に変えてしまうこともある。

そんなわけで、ぼくのなかにいる猛獣を落ち着かせる方法(ライオンのような猛獣をせめて柴犬ぐらいにおとなしくしたい)と、創作における特効薬の探し方を考えるために、心理学関連でよい本がないか探していました。同時にビジネス面で感情を管理するノウハウというものにも関心があった。そこで「EQマネージャー」という本を選んだわけです。EQというのは、IQ(知能指数)に対する造語であり、感情面での知能という意味のようです。

全体的な印象としては、非常にぼんやりとして輪郭のつかみにくい本なのですが、時々はっとするような表現が埋もれています。というよりも、ぼく自身がずーっと問題にしていること、テーマとして考えつづけている部分がクローズアップしてくるような感じです。いま、第12章を読んでいるところで、もうすぐ読み終わりそうなのですが、遡ると第4章の次の言葉は興味深いものがありました。

気分は思考に直接影響する。われわれの気分が変化するように、われわれの思考も変化する。気分を利用し思考を変えることができる人は、世の中を複眼的に見ることができ、創造的な思考ができる傾向にある。

数行後には、以下のように「仮想」というキーワードが出てきます。

自分の気分を変えることのできる人は、いつでもどこへでも「仮想の休暇」を取ることができるのだ。そういう人たちの思考や物の見方は常に変化するため、世の中を新しい視点から見る方法を生み出すことができるのだ。

なるほど。そうありたいものです。仮想の休暇であれば、いつでもどこでも取ることができる。費用も要らないし、時間の制約もありません。引用した上記2つは特にビジネスではなくても通用することなのですが、さらに数行後には意思決定について触れられています。

意思決定は論理だけでなく感情からも成り立っている。未来の、つまりこれから起こりうる出来事に対して感情を引き起こすことができれば、自分をその世界に運んで多角的に検討することができる。

論理だけでなく感情も含めて、仮想の未来に自分を置いてシミュレーションをする、ということでしょうか。スポーツ選手のイメージトレーニングに近い感じもしますが、なかなか大事だと思いました。ぼくの場合、企画を練るときには、どうしてもアイディアを一方的に信じがちなのですが、そのプランが実現した状況に自分を置いてみる。そして、その状況で何を感じたか。気まずさなのか、楽しさなのか、なんとなくおかしいぞ、これって馬鹿みたい、なのか。仮想の世界で感じた直感を得ることが、企画の精度を上げるような気もします。それがパソコンを越える人間の力という気もします。

この本のなかで繰り返し書かれているポイントは、「感情は情報である」ということです。

つまり、もしマネージャーが感情に翻弄されていたら、感情という情報を客観的に分析できない。ひとを動かすためには、感情を管理する必要があります。他人の感情を見抜いて理解し、一方で自分の感情を把握し、その情報を判断した上で直感を含めた能力を最大限に活用して、最適なオプション(選択肢)を決定する。じゃあ具体的にどうするのか、という部分は非常にあいまいなのですが、その考え方自体はとても関心のあることでした。

また、感情には時間的な推移があるということも書かれていました。もやもやとした気分が蓄積されると別の感情に変化する。漠然としたイライラが長く続いて怒りに爆発するようなものです。この、もやもやとした状態を察知できる人間がマネージャーとしてEQが高い人間であり、放任するのがマネージャーとしてはEQが低い。あいつは何で怒っちゃったんだろう、などと言うマネージャーはEQが低いことになります。怒りに到達する前に察知して、その感情を解体するマネジメントが必要になります。確かに会社を辞めていってしまう人間には、事前になんらかのシグナルを発していることが多いものです。パーテーションやパソコンに隠れて、見ないようにしている上司もいるのかもしれませんが。

とはいえ、ポジティブな感情だけが大事ではなく、ネガティブな感情にも意味がある、と書かれているところに注目しました。非常に緻密な仕事、たとえば文字校正やデータのチェックなどをやるときには、浮かれた能天気な気分よりも、ちょっとかなしい気持ちの方が正確で誤りをみつけやすいとのこと。一方、ポジティブな気持ちのときは創造的なことに向くようです。ブログを書くときには、楽しい気持ちで一通り書いてみて、その後、かなしいことを思い出しながら文字をチェックするといいってことでしょうか。

そんなに瞬間で気分を変えることは難しいのですが、ブログを書く上でもセルフコントロール(自己管理)が必要かもしれません。あるいは、セルフプロデュースも必要だと思います。

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2006年2月19日

お早よう

▽cinema06-018:コミュニティの在り方、無駄の必要性。

B000064OJPお早よう [VHS]
松竹 1983-08-16

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確か茂木健一郎さんの本のなかに「東京物語」と「お早よう」が引用されていた記憶があるのですが、いまその箇所をみつけられていません。とにかく、茂木さんの本を読んで、この映画を観ようと思いました。やはり人間の奥深い気持ちに迫るような、一首のざわざわ感があります。小津安二郎監督の映画は、やはりすごい。

文化住宅のご近所(お隣さん)としておつきあいしている主として3つの家族を中心に物語が進むのですが、笠智衆さんが演じるサラリーマンの家には小学生の息子が2人います。息子たちはテレビを欲しがって、母親と喧嘩をする。そこへ父親である笠智衆さんが帰ってきて、おまえは余計なことを言い過ぎる、というようなことを言って叱る。すると、その長男は、大人だって余計なことを言うじゃないか、おはようございます、いい天気ですね、あれは無駄じゃないか、ということを言って反抗するわけです。さらに父親が怒ると、じゃあもう何も喋らない、という風に子供もすねてしまう。けれども、学校でも近所のおばさんにも何もしゃべらないので、近所に住むおばさんたちが勝手に想像を膨らませて、その子の母親をスポイルしはじめる。

がらがらと戸を開けて、ねえ向かいの子おかしくありません?インテリな顔してるけど、あそこの奥さんひどいのよ、などと井戸端会議的に話がはじまるのですが、これはそのままインターネットの世界のコミュニティ論にも通用できるところがあるのではないでしょうか。誤解が誤解をよんだり、ウワサがあっという間に広がったり、人間のやることは基本的に変わらないんだな、という気がします。そういえばテレビが家に届いて話題になる、ということから「ALWAYS 三丁目の夕日」を思い出しました。

「一億総白痴化」という悪影響を及ぼす「無駄なこと」の象徴としてテレビがあるのですが、「おはよう」という「無駄なことも必要だ」として、間接的にテレビも擁護しているように思えます。確かに「いいお天気ですね」「髪型変えましたか?」などは無駄な言葉のようにみえることもありますが、その言葉が潤滑油になって日々が豊かにもなる。雑談が多すぎるのも困りますが、さりげない「無駄」は場の空気をやわらげることにもなります。

それにしても、昭和30年代初期のひとたちの生活は、かっこいい。服装などもおしゃれです。2月19日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(15/100冊+18/100本)

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ロング・エンゲージメント

▽cinema06-017:断片をつないでいく、パズル。

B002D4DHAQロング・エンゲージメント [DVD]
ワーナー・ホーム・ビデオ 2009-08-05

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じわりじわりと観た後に、懐かしいような、かなしいような、そんな気持ちが浮かんでくる映画でした。

第一次大戦のフランス、最前線で戦っている兵士のなかには戦いに耐えられなくて、みずから手を鉄砲で打ち抜いて帰国しようとするものがあった。しかし恩赦が出て助けられるものばかりでなく、軍法会議で処刑されてしまうものもいる。自分の手をふっとばして戦争から離脱しようとした5人がいるのですが、どうやって処刑されるかというと、敵であるドイツ軍と自国フランス軍のまんなかに放り出されるわけです。ひどいなあ、と思いました。その無防備な5人が敵機から攻撃されたり、爆弾で身体ごと吹き飛んだり、戦争シーンはものすごくリアルです。迫力がある。そして戦争後、5人のうち最も若い青年マネクの婚約者マチルド(オドレイ・トトゥ)が、戦死したマネクのことをまだ生きていると信じて、5人とそれに関わる人々の証言による断片をパズルのように組み合わせてマネクを探していく、という物語です。

この映画はジャン=ピエール・ジュネ監督ですが、有名な「アメリ」もパズルのように(ちぎれた写真を組み合わせるように)して、ひとを探していく、という探偵小説的な展開でした。この映画も5人を取り巻く人間関係や過去の出来事を推測していくハードボイルド的な楽しみがあります。いくつかのジンクスのようなものも出てくるのですが(もし7数える間に車掌が来るか電車がトンネルに入ればマネクは生きている、のような)、"MMM""あほうどり"のような謎のキーワードと合わせて、どうなるんだろう?という期待を持たせています。うまいと思いました。ぼくらは目の前にパズル的な何かを置かれると、どうしても推測して完成形を作りたくなる習性があるのかもしれません。

映画的な技術については詳しくないのですが、全体を貫いているセピアの色調と、上空から俯瞰する映像が印象的でした。アメリのジャン=ピエール・ジュネ監督らしいというか、おとぎ話的な雰囲気があります。それにしても戦争は嫌だ。2月19日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(15/100冊+17/100本)

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不完全でかまわない。

R25にも取り上げられていましたが、「ブログ・オン・ビジネス」という本を読みはじめました。その前書きで以下のようなことが書かれています。共感する言葉です。引用します。

ブログ・マーケティングはまだスタートラインにたったばかりの一番新しい「会社の仕事」です。おそらく本書でもまだ記されていない、斬新な手法がこれからどんどん企業の試行錯誤の中から生まれてくるでしょう。
ならば、成功事例が出てくるまで待っていればいい。
そう考えるあなたの考えが、いちばん、間違っています。
まず、はじめる。はじめながら、考え、改良する。これがブログというツールを活用するための「最低条件」です。ブログはコストをかけずにすぐに始められるきわめて便利な道具です。ゆえに、間違えることが問題ではないのです。動かないことが問題なのです。

ブログの利点は、「見切り発車」できるところにあると思います。完全ではなくても、とにかく走り出してみる。その後でどっちの方向に走ったらいいか決めることが可能です。この見切り発車できるところが、情報化社会のスピードに合っているのではないでしょうか。構想が完成するまでじっと待っていて、さあ動こう、と思ったときには、ウラシマタロウになっているかもしれない。思い切って行動しなければ、時代からどんどん取り残されていくばかりです。

あらためて主張するようなことではないのですが、ブログには前段階の準備や知識の習得が不要です。たとえば通常Webサイトを作るときには、デザインフォーマットなどを考えなければならない。凝ったものを作ろうとすると、デザインにはHTMLやCSSなどの知識も密接に関わってきます。さらにFlashやJavaスクリプトなんかも使いたくなり、プログラム的な考え方を学ぶ必要があります。そこで本を買って勉強するのだけど、うーん難しくてわかんないや、やめた、ということになる(どこかパソコン初心者の導入段階にも似ています)。けれども、ブログではテンプレートを使って2時間もあればとりあえずの形はできてしまう。一度書いたとしても、また追記できるし書き直すことだってできる。気に入らなければ止めてしまえばいいし、気分転換にデザインテンプレートを簡単に変更できます。

技術が可能にしてきた分野では同様のことが言えそうですが、いままで複数のひとが分業でやっていたことを、個人で全部できるようになったことが多くなってきました。DTPも印刷屋さんの仕事を家庭で可能にしたともいえるし、写真のレタッチ(修正)などもプロにしかできなかったことが素人でも簡単にできるようになりました。音楽のDTMだって、メンバーを集めなければできなかったことが、パソコンのなかでドラムを簡単に打ち込んでバーチャルなバンドを作ることができる。個人の可能性が、プロに近づいてきたわけです。でも、ぼくはやっぱりプロはプロだと思うし、アマチュアはアマチュアの割り切り方があっていいと思います。

もう少し考えを進めると、伝統的な本や音楽などを考えたとき、「完成された作品」主義というものがあるかもしれません。作品とは「完成されたものだ」「完璧であることが最大のクオリティだ」「一度、発行されたら変更するのは恥ずかしいことだ」というレガシーな固定観念がある。というのは、いままで本であれば原稿を書いて印刷まで莫大な時間とコストがかかった。CDだって一度メディアに焼いてしまえば、あとで曲順や別のアレンジをしたものに変更はできない。お金もコストもかかることだから、一部の優れた能力を持つプロだけがその特権を得ていたわけです。

でも、最近のパソコンやインターネットの世界ではコストは限りなく低い。梅田望夫さんの言葉を借りると「チープ革命」が進行している世界です。ダウンロードミュージックの分野で、まとまったCDのアルバムではなく1曲のバラ売りをすることが革命的に業界自体を変えていこうとしていますが、それも「不完全さ」をよしとする動きであると感じています。

プロであれば、誤植しちゃった、よく調べないで書いちゃった、ネタに困ったのでどこかから引用しちゃった、ちょっと手を抜いちゃったけどこれでいいか、ということは許されないと思います。文章を書いたり、音楽を創ったり、映画を作ったりすることで、現実社会でお金を稼いでいる。お金とともに責任を背負っている人間が、いい加減なことはできないでしょう。ただ消費者がメディアとして情報を発信するときには、正確さよりも感情の勢いにのった不完全なものでもいいのではないでしょうか。一般消費者がメディアにのせる内容に、プロと同様のパブリックな理論や規制を求めると、ブログでは何も書けなくなってしまいます。それこそ権力によって言語統制するような民主的なものが失われる。そこまで厳しく考えなくても、不完全なものであると他のひともつっこみがいがあります。それってどうなの、こうした方がいいんじゃないの、と言いたくもなる。そんなつっこみから記事や作品をバージョンアップしていく。だからブログは常に成長するものであり、誰か他のひとの力が加わって生成するので常に現在は途上かもしれません。

インターネットでは不完全であっても勢いがあることが重要であり、だからこそmixiにしてもいまだにβバージョンなのかもしれません。ユーザーとの対話のなかで、新しいサービスを生み出していく。もちろん、このバージョンアップって使いにくいだけじゃないの、という批判はできるのですが、ぼくはいまだにβであるmixiに好感を持てます。このまま永遠にβバージョンであってもいいのに、と思う。ある意味、オープンソース的でもあります。ぼくのブログも1ヶ月単位で見直して内容を書き換えたりしているのですが、これはうまく書けた、という満足感があるものが少ない。常に発展途上です。

個人にしても作品にしても「完璧だ」というものほど、胡散臭いものはない気もします。辛辣なことを言ってしまうと、完璧であればそれ以上生きている必要はありません。もう十分です。生きていることは限りなく不恰好で不完全だけれども完全を目指そうとする「途方もないあがき」であり、後悔の連続である。けれどもその不完全さが前進するためのエンジンでもあるし、そのあがいている様子をあからさまに露出できるのがブログのよさかもしれない。私見というか、ぼくだけの考え方にすぎないかもしれないのですが。

「ぼくを探しに」という絵本があります。視力検査のCみたいなかたちをしたぼくが、欠けているもの、足りないものを探して旅にでかける。ぼくらはひとりだけでは「足りない」不完全なものです。でも不完全でかまわない。不完全であるから、毎日をごろごろと転がしていくことができるのだと思います。

+++++

■「ぼくを探しに」は、シンプルだからこそ読者にいろいろな解釈をさせてくれます。不完全であることは、しあわせなことかもしれません。

406112983Xぼくを探しに
Shel Silverstein
講談社 1979-04

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2006年2月18日

永遠の学生ホール。

人生にはさまざまな岐路があります。そのときは岐路であると感じなくても、あとで振り返ってみると岐路だった、とわかることもある。逆に、これは大きな岐路だと思い込んでいても、実はまったく以前と変わらない堂々巡りの一部分だったこともある。神様ではないので未来を予測することはできません。

ぼくは大学時代のゼミで、小森陽一先生から近代国文学を教えていただきました。小森先生は、現在は東京大学の教授です。ポスト構造主義や記号論、具体的にはミハイル・バフチンやロラン・バルトなどを知ったのは、先生のおかげでした。先生から教えていただいた文学理論は、とにかくぼくには新しい何かを感じさせるものがあった。ああ、これが大学で求めていたものだ、と思いました。そして、そのときに教えていただいたことが、いまでもぼくの基盤になっています。お酒を飲んで「おまえはそれでいいのか?」とセンセイに詰問されて泣き出す人間が続出、というへんてこなゼミだったのですが、時々ゼミのことを思い出します。文学と人生をごちゃまぜにしたような感じでしたが、いいゼミでした。

ほんとうに一度だけですが、小森先生から「大学院、残らない?」と声をかけていただいたことがありました。いまにして思えば恥ずかしいのですが、学内の懸賞論文に応募したこともあり、そんな流れから先生としては、なんとなく言ったひとことだと思います。たぶん5回ぐらい声をかけていただけば、じゃあ行きます、という決心もついたかと思うのですが、その1回きりだったので結局のところ就職活動に向かってしまった。けれどもそのひとことで、若い日のぼくはずいぶん悩んだ気がします。

というのは学生の頃からぼくは、書くこと、考えることが好きでした。このままキャンパスに残ってあれこれ考えたり論文を書いて過ごすのは魅力的だった。一方で、頑固な教師だった父のことも考慮すると、世のなかというものをきちんと知っておいた方がいい、ぼくみたいなやつは机にかじりついているよりも社会で痛い目をみた方が勉強になる、サラリーマンがどういうものかわかっておいた方がいい、という考えもあった。もし、ほんとうに学問に対する思いが強ければ、どんなに遠回りしてもいつか学問に戻るだろう。漱石だって教師や新聞記者を経験した後に小説を書いている。運試しに遠回りしてみようじゃないか。戻れなかったら信念の強さや運や才能がなかっただけだ、と思ったわけです。

思えば、ずいぶん遠回りをしています。そして、この遠回りのまま人生が終わりそうな気もします。けれども、いまは大学にはいないのですが、こうしてブログを書きながら小森先生のゼミがまだつづいているような感じがしています。学生ホールで缶コーヒーを買って、自動販売機のぶーんとうなる音を聴きながら、論文のコピーをひっくり返している自分がいるような気がする。もちろん先生はいないし、深夜隣の部屋では奥さんと子供たちが寝ているのだけど。

これは夢の夢なので、ほんとうのところは書かずにないしょにしておきたいのですが、できれば50歳のぼくは、インターネットを使った自己表現方法、クリエイティブ理論についてキャンパスで講義ができるような人間になっていたい。もちろん仕事はつづけていたとしても、休日はそういうことに費やしたい。成長した息子を含めて若い世代の人間たちに、自分が何に苦しんできたのか、どんな素晴らしいことがあったのか、どうすれば情報に翻弄されずに自分を表現できるのか、技術と人間はどこへ向うのか、そんなことを熱く語れるようになっていたい。それこそかつての小森先生のように、次の世代のぼくのような人間のために。

場所はどこだっていいんです。規模だってちいさくてかまわない。7人ぐらいの聴講者の社会人教育で十分です。いちばん可能性の高いオプションとしては、ふたりの息子たちが聴講生であればいいと思います。聞いてくれないかもしれませんが。

そのためには、ぼくは経験が足りません。知識も少なすぎる。まだまだいろんな本で研究を重ねる必要があるし、技術についても学ぶ必要がある。さまざまなサービスを試してみることも大事です。人間的にも成長したい。

はるか遠い学生時代、学生ホール、あるいは図書館で論文を書いているとき、仮想であったとしてもぼくの頭のなかには未来が広がっていたはずです。いまその未来はもうみえないけれど、また新しい未来を創ればいいと思っています。

学生ホールは、いまでもぼくの頭のなかにあります。

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2006年2月17日

さりげなく、お祝いを。

インターネットの恩恵というべきかもしれませんが、ネットを通じてさまざまなひとたちと交流できるようになりました。ぼくは趣味でDTM(パソコンを使った音楽づくり)をしていることもあって、アマチュアミュージシャンの方とも知り合うことができました。遠く離れたところに住んでいたとしても、インターネットに距離はありません。東北に住んでいる方とデータのやりとりで曲を作ったこともあったのですが、メッセージを交換することによって対話したり、ブログを読んで制作についての考え方を学んだり、さまざまな面で創作上の刺激を受けています。

キヌガサというSNSでTahiti80というバンドのコミュニティに参加していたことがあったのですが、そこで知り合ったひとにSheepさんという方がいました(現在はキヌガサは退会されてしまいましたが)。SheepさんはK.K.さんとふたりでLotusloungeというユニットを組んで音楽活動をしています。どんな音楽なんだろうとサイトで視聴したところ、これはいい!と思いました。さすがにTahiti80のコミュニティに参加されているだけに彼等のようなアレンジの曲もあって、感性が合う。好きなアーティストが同じ場合、アマチュアさんであっても彼等が作る音楽というのは合うものだな、と思いました。

2年前に初めてのCDを出したときには迷わず購入。なんとオリジナル曲のプロモーションDVD付きなのですが、音楽に対する想いというか真摯な姿勢が伝わってきて、とてもいい感じでした。このアルバムに入っている曲は、すべてレビューを書けるのですが(というか書いたこともあったのですが)、全曲すべて完成度が高い。Sheepさんのふわっとした力の抜けたボーカルと、K,Kさんの緻密なプログラミング(これはほんとうに参考にさせていただいています)がマッチして、透明な音の広がりと、やさしい世界観のある曲ばかりです。

このLotusloungeの「Shang-hi love sick」という曲が、ヤマハの運営するMusicFrontのオーディションでグランプリを受賞したとのこと。おめでとうございます。以下のサイトで視聴できます。

■MusicFrontのグランプリ
http://www.musicfront.net/grandprix/

MusicFrontからのコメントには以下のように書かれています。なかなか本質をついたコメントだと思いました。ぼくも共感できます。引用します。

異国情緒漂う情景的なトラックに、限りなく力の抜けたヴォーカルがとてもクールですね。プログラミングもかなり凝っていて、完成度が高いです。中国をコンセプトにしたサウンドアプローチは、1980年代にYMOなど、テクノのアーティスト達に取り上げられブレイクして、シーンを作りました。その匂いを残しながら2000年代に現れたネオなアーティストであ るように感じました。今後がとても期待されます。

CDのなかでも「Shang-hi love sick」はいちばん好きな曲でした。ボコーダーでボーカルを処理してあって、YMOっぽくもあり、エレクトロニカではなくテクノポップと言っていた1980年代を思わせるような珠玉のポップスです。MusicFrontでは3曲を視聴できますが「Timer(Remix Ver.)」もいい。途中から入ってくるドラムがかっこいい。

■Lotusloungeのアーティストページ
http://www.musicfront.net/audition/artist.php?ID=6043

ところで、Lotusloungeのおふたりは先月の8日に結婚式をあげたそうで、新婚ほやほやのカップルです(あっ、アイドル的な人気のあるSheepさんなので、こういうことを書いてはまずいかな?)。夫婦でいつまでも音楽をクリエイトできるのは素敵だと思いました。残念ながらうちといえば音楽以外の絆で結びついてしまったのですが、家族で共通の趣味があるのは幸せなことです。

なんとなく今年はいい年になりそうだということをSheepさんは言っていたのですが(といってもお会いしたことはないのでネットを通じて、ですが)、4月15日にはライブもやるとのこと。さいさきのよいスタートです。これを機会に多くの方に聴いていただいたり、ブレイクを期待しています。

+++++

■Lotusloungeのサイト。Sheepさんの撮影した写真も掲載されています。
http://alterego.fem.jp/

■久し振りに、Tahiti80のことを思い出しました。ゾンビーズのロッド・アージェント風の鼻にかかったボーカルがよいと思います。ぼくは1枚目の「PUZZLE」が好きです。

B00004TZ26パズル
タヒチ80
ビクターエンタテインメント 2000-04-21

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2006年2月16日

有「書」実行。

思考は現実化する、というのはナポレオン・ヒルの有名な著書のタイトルですが、残念ながらまだその本を読んだことがありません。けれども強く念じていれば考えたことはきっと現実になるんだろうな、と、そんな希望を抱かせてくれるようなタイトルです。ちなみに、願いつづけると夢は必ずかなう、ということを信じたくなる映画といえば、「ショーシャンクの空に」という映画があります。大好きな作品です。刑務所からの脱獄がテーマで、どんなに身体が束縛されていても頭のなかは自由である、自分の頭に広がる自由を信じて穴を穿っていればいつかは外に出ることもできる、という気持ちになります。また観たくなってきました。

言霊(ことだま)という信仰もあるように、昔から言葉には不思議な力があると信じられてきました。もちろんしゃべって宣言するときにも効力はあると思うのですが、ブログを書いていて思うことは、曖昧な気持ちを文章化すると、しゃべり言葉よりもさらに強い力を持つということです。しゃべる言葉は空中に消えていきます。けれども、書いたものは残る。しかも、公開している以上、自分だけではなくて誰かに見られているわけです。ということは、書いてしまったら隠すことはできない。だから、やらなきゃ(というよりも、やるぞ)という気持ちになる。さらに何度も繰り返して書くことにより、その気持ちも強化されていくようです。

基本的にはブログは日記で、Weblogという言葉自体は「面白いと感じたサイトをログ(記録)として残しておくもの」という意味があったようです。だから、こんな面白い記事をみつけたよ、ここで美味しいものを食べたんだ、という記事がブログの正統な使い方であり、ぼくのように写真もなければ改行もなくテキストで考えたことばかりをつらつらと書いているブログは異色かもしれません。とはいえ、この途方もない脳内のひとりごとが、現実のぼくをずいぶん変えてくれたような気がしました。もちろん見た目は整形やダイエットなどをしなければ大きく変わらないと思うのですが、考え方の部分が大きく変わってきた気がします。

同様のことが、梅田望夫さんの「ウェブ進化論」にも書かれていて、fladdict.netさんのブログから「知的生産性のツールとしてのブログ」という記事を引用されていました。章の最後にURLが記載されていたので、それをタイプして記事を読みました(こういうときに紙は不便です。リンクをクリックすれば一発で読めるインターネットは便利です)。以下、引用です。

実際ブログを書くという行為は、恐ろしい勢いで本人を成長させる。それはこの1年半の過程で身をもって実感した。

これは「ウェブ進化論」に引用されていた部分ですが、実際にブログを読んだところ、ぼくは本には書かれていない以下の部分にも注目しました。これもまた引用です。

何がどう変わるのかというと、まず一定層の読者がつくと、適当な内容が書けなくなる。ゆえに検証とリサーチの能力が磨かれる。リサーチを通じて多くのブロガーから多角的な視点を学ぶと同時に、己の引き出しが急速に増えていく。一方でこの時期からエントリの内容量の増加と、品質へのプレッシャーから筆が鈍るようになるが、文章とリサーチのバランス感覚や、コメントでの間違いの指摘などへの耐性が身につき、失敗を恐れない図太さが身についたりもする(と思う)。

つまり読者を意識するということですね。読み手を意識することで成長する。意識しないと成長というものはあり得ない気がしました。限りなく自己完結に向かいます。読み手を意識することによって、迷いや躊躇も生まれるけれども、何を伝えたいか、というメッセージが明確になります。

「引き出しが増える」ことも同感です。ぼくの場合、年間に本100冊+映画100本というのを宣言してしまった手前、強迫観念のように忙しくても時間を確保しているのですが、引き出しは確実に増えているような気がしました。さらに、以前はただぼーっと読んだり観たりしているだけでしたが、何かブログに書かなきゃならないと思うと、もう真剣です。特にぼくは、監督や俳優のうんちくよりも、その映画の物語的世界を通して何を感じたか、ということを大事にしたいので、常にセンサーを働かせている感じです。1冊もしくは1本が終わると、ぐったりする。うんちくであれば、後でどこかのサイトからコピー&ペーストすれば文字数を埋めることができる。でも、感じたことはそうはいきません。たまに、あまり感じない映画などもあって困るのですが。

正直なところ毎日ブログを書くことはもちろん、毎月本と映画を一定数必ず消化していくというのは、かなりつらいです。泣きごとは言うまいと思っていたけれど、今年はもはや半年ぐらい過ぎたような感覚があります。しかしながら、スポーツなどでもちょっときつめのトレーニングを連続した方が筋力がつくように、脳力も少しだけきつめの方が鍛錬になりそうです。書いたことは必ず実行する。有「書」実行でいこう、と思っています。

+++++

■この映画のなかで、刑務所の生活が長い老人が出所を許されるのだけど、もはや外の世界には馴染めなくなっていた、というエピソードがあります。映画とは関係ないのですが、水槽のカマスに透明な仕切りをしてえさをあげると、仕切りにぶつかってえさが食べられないので、透明な仕切りを取ってしまってもえさを食べなくなる、という訓話も聞いたことがあります。居心地のよい現状に閉じこもるのではなく、意識は常に塀の外へ向けておきたいものです。いまの職場が刑務所的である、ということじゃありませんけどね。

B0001CSB76ショーシャンクの空に [DVD]
スティーヴン・キング
松竹 2004-03-25

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2006年2月15日

「ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる」梅田望夫

▼cinema06-015:冒険、思考の若さ、そしてオプティミズム。

4480062858ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)
筑摩書房 2006-02-07

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感動しました。何度も読み直したい本です。読み進めながら何回もこのブログで引用もしているのですが、著者の梅田望夫さんは、CNETjapanで「英語で読むITトレンド」というブログを21カ月毎日書きつづけ(!)、現在はこの「はてな」の取締役も勤められています。ご自身のブログ「My Life Between Silicon Valley and Japan」の14日の日記では、この本が品切れ状況であることが書かれていました。当然だと思います。ものすごく内容の濃い本なので。ちなみに、梅田さんのブログはぼくと同じDeltaのテンプレートを利用されています。ちょっと嬉しい(でも真似したわけじゃありませんから)。

ブログを含めとした情報化社会の全体を「神の視点」により俯瞰した洞察もすごいのですが、経営コンサルタントとしてグーグルの何が凄いかを分析されていること、さらには後半には自分の人生観を盛り込まれていて、これが非常に感銘を受けました。失敗もされたようですが、自分のためになった、という姿勢にも共感。そして、常に「新しい自分」に刷新し、冒険する。世界を楽観的に見渡す、などなど、あらためてぼくの背筋を正してくれた本でした。頑張ろう!という気持ちになった。

ぼくはまだまだ自分の周囲のことばかりにかまけていて、どこかへ行きたいのだけれど行けないジレンマに常に悩まされています。けれども世界を見渡すよりも、まずは雑多で瑣末なことの多い自分の生活からはじめようという気がします。自分を、そして自分の息子たちの未来を引き受けなければ、大きなことも言えない。そんなちいさな「いまここ」を起点として、インターネットの未来を、そこに広がる世界を考えていこうと思います。2月15日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(15/100冊+16/100本)

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総表現社会の通貨。

ふだんは地下鉄を利用しているのですが、体調も回復したので昨日は新宿までぶらぶらと歩いて帰ってみました。ほんのかすかですが、新宿御苑のあたりで春の匂いを感じた。懐かしいけれども、少しだけかなしい。そんな空気です。行き交う雑踏のなかで通り過ぎてしまって、その匂いもすっとなくなってしまったのだけれど、やわらかな感触だけがぼくに残りました。春も、もうすぐそこまで、です。

さて、梅田望夫さんの「ウェブ進化論」という本ですが、第4章の「ブログと総表現社会」を読み終えました。いろんなことを考えさせられます。期待感が膨らんでわくわくしたり、アイディアが次々に浮かんでくる。ぼくはこの気持ちを肯定したいと思うし、進化するウェブにコミットしていきたいと考えています。

表現したいひとたちがいる。そして表現できるツールがある。ブログは表現のために有効なツールであり、さらにインターネットを通じて小説や音楽や絵画や映画などを発表できる。このことによって、すべてのひとが何かの方法で自分を表現する社会が訪れる。すごい社会です。21世紀に生きていてよかった、と思いました。

とはいえ、まだまだ未完成な社会といえます。だから、ちいさな息子たちをはじめとした次世代の方には、もっとこの環境を使いこなしていってほしい。そのための基礎となる考え方や、いろんな試行錯誤や、トラブルを回避する方法や、表現するためのノウハウなどを、ぼくはみずからの身体をはって体験しつつ残していきたい。梅田さんの使っている「総表現社会」は、クリエイティブな仕事に携わりつつ、さらに趣味のDTMで音楽を創って楽しんでいるぼくには、はてしなく魅力的でした。

ところで、ぼくの考えですが、総表現社会の通貨は、「コメント」や「投票数」であったり、あるいは創った音楽などでは「ダウンロード数」になるんじゃないか、と思いました。

このバーチャルな「通貨(コメント・投票数・ダウンロード数)」だけでも、ぼくらはかなり豊かになれる。何が豊かになるかというと、モノではなくココロが、です。

実際に、ぼくはmuzieというサイトで趣味でこつこつと作ったDTMの作品を公開しているのですが、わずかですがダウンロード数が増えてきました。アフィリエイトプログラムのように、クリックするとちゃりんと小遣いが増えるわけではないけれど、この数が増えるとやっぱり嬉しい。聴いていただいた方、ありがとうございます。ものすごく感謝しています。

もちろんぼくはサラリーマンとして働いているのだけれど、このバーチャルな「通貨」によって確実に豊かになっている気がしました。さらにこの通貨を流通させるために、他のアマチュアの方の曲を聴いてダウンロードしたり、投票しているわけです。自分が豊かになった分だけ、ひとも豊かにしてあげたい。もちろん競争が発生することもあります。個人的にはそこそこ稼げば十分と思っているのだけど、がっちり稼ぐためには(音楽的な機材や能力開発のための)投資も必要だし、一種の政治的なノウハウも必要になります。

とはいえ、ジャーリストにしてもミュージシャンにしてもアーティストにしても、プロと呼ばれるひとたちはアマチュアと競合するものではなく、これからも残っていくんじゃないでしょうか。ぼくはそう思います。つまり、現実的な通貨で儲けたり食っていきたいひとはプロになる。一方で、現実的な通貨によって最低限の生活はキープしつつ、さらに豊かな生活をしたいひとはバーチャルな通貨を流通させて、ココロを豊かにする。その選択は自由です。個人のスタイルのチョイスにすぎない。それが成熟したネット社会という気がします。社会自体の構造が変わる予感もある。

パーソナルアイデンティティ(P・I)という言葉もありましたが、ブログやインターネットによる総表現社会では、複数のペルソナ(仮面)を持つひとも多くなります。会社ではぱっとしないサラリーマンだけど、趣味の音楽ではプロ顔負けでたくさんのファンがいる。喫茶店を経営しながら、実は数百万のアクセスを誇る有名ブロガーである。女子大生なんだけど、株の世界ではプロも一目置くネットトレーダーとしてブログを通じて超セレブな存在になっている。これはインターネットが普及していた当時から言われていたことだけれど、それがさらに加速するのではないでしょうか。

ということを考えたのは、今朝、3歳の次男をだっこしながらNHKの「ピタゴラスイッチ」という番組をみていたところ、おとうさんの歌(タイトル忘れました)という曲があったからです。おとうさんは会社ではかちょうさん、お店ではおきゃくさん、電車のなかではじょうきゃく、けれども家に帰ってくると、ぼくのおとうさん、というような歌詞でした。

当たり前といえば当たり前なのですが、リアルな世界でも場所というコンテクスト(文脈)によって、おとうさんもさまざまに変わります。女性も同様だと思います。夫に対しては妻だし、子供に対しては母親、会社勤めをしていれば上司や部下、そして当然のことながらオンナでもある(というか、あってほしい)。ネットの登場によって顕在化していますが、考えてみれば特別なことではありません。

思えば学生時代にポスト構造主義を学んだとき、テキストは引用の織物であるということ、あるいは関係性というキーワードも出てきたような気がするのですが、人間をひとつのテクストとみなしたとき、関係性によって重層的に重なり生成しつつ解体を繰り返すようなものなのだな、ということをあたらめて考えました(考えすぎかもしれませんけど)。

人間には、いくつもの側面があります。陽だまりのようにあったかい部分もあれば、じめじめと湿ったダークサイドもある。いままで閉じていた、いわゆる脳内のひとりごと的な部分まで開放できるのが、総表現化社会としてのネット社会です。脳内のひとりごとは開かれることによって、ネットのなかで自生的秩序にしたがって、つながったり淘汰されたりしていく。そうしてインターネットの「あちら側」が人類の大きな脳になる。

リアルとバーチャルを統合するのは難しく、それぞれの側面を統合すべきか、それとも別々に分離すべきか、書くべきか書かない方がいいのか、まだ見えてこない部分も多いのですが、変化の途上であることも含めてネット社会はますます面白くなっていきそうです*1*2。

+++++

*1:書きたいことがたくさんあったのですが、うまく書けませんでした。残念。最初にアップしたときには誤字ばっかりでした。失礼しました。あらためて見直して修正しています。まだ誤字があるかもしれないのですが、とりあえず勢い重視でアップしました。とはいえ、きちんとトラックバックしたり、これはと思う内容の日記は、校正や下調べもしっかりしないとダメですね。反省。2月16日追記。

*2:また誤字をみつけてしまった。修正しました。とほほ。言い訳になってしまいますが、この日、3時間しか寝ていなかった。朝イチで打ち合わせでした。睡眠は大事だと思いました。2月17日追記。

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2006年2月14日

バレンタインとオリンピック。

KIZASIでブログウォッチングをしてみました。本日のKizasi語の第1位は「男子スピードスケート500m」、第2位に「バレンタインデー調査」とつづきます*1。トリノオリンピックも、バレンタインもいまいちぴんとこなかったぼくにとっては、なんだか世のなかから取り残されたような感じもありますが、客観的にデータウォッチングをしてみることにします。

まず、夜中にスピードスケートの及川選手の競技を観ていたブロガーも多かったようで、ブログの書き込みを24時間の推移でみると、夜中の3時のあたりに集中している。「たった今、男子スピードスケート500mが終了」というかたちで書いているブロガーもいます。つまりこれはテレビからブログへ、のように観たらすぐに書くというリアルタイムなスタイルを取っているひとが多いようです。実数としては少ないとは思うのですが、ちょっとジャーナリスティックなものを感じました。

まだPCからの入力がメインとはいえ、携帯電話から入力すれば、いつでもどこでも書き込むような生活も実現します。書くことに慣れていないひとにとっては信じられない生活かもしれませんが、SNSなどにはまっていると、コメントに期待するあまりネタを探すようなこともある。特に共通の話題であるオリンピックは、ネタとしても有効性が高いのではないでしょうか。

なんとなく関連性のあるようでない「オリンピック」と「バレンタイン」ですが、ブログクチコミサーチで2つの語を検索してみると、開幕した11日の時点ではオリンピックを取り上げたブログが多かったのに対して、12日では同数程度に並び、13日以降では逆転、本日14日はバレンタインのネタが大きくオリンピックを引き離しています。ちいさくて見にくいのですが、右上のグラフでオレンジの部分がバレンタイン、青がオリンピックについて書かれた記事の推移です。

といっても、今日バレンタインを取り上げているブログはハッピーな話題ばかりではありませんでした。目立ったのは、OLの7割が「チョコレート受け渡しの習慣なんかなくなればいい」と思っているという、以下の調査結果の記事でした。引用してみます。

「チョコレート受け渡しの習慣なんかなくなればいい」というOLは70%。サラリーマンも50%がそう感じていることが、インターネットで情報提供を手掛けるアイブリッジ(大阪市)が実施したバレンタインデーに関するアンケートで分かった。

この記事を引用しているブログを読んでみたのですが、「本当だろうか?」「寂しい」という印象が多かったようです。店は混んでいるのになぜなんだろう、という意見もありました。「自分で食べる用に買っているんじゃないか」という指摘もある。調査に賛成という意見もみられます。ただ、全体的には、あってもいいけどなくてもよい、という曖昧な気分が多かったようです。共同通信からの情報ですが、調査結果そのものを探したところ、みつかりませんでした。大阪のアイブリッジという会社による調査らしいけれど、その会社のページにも掲載されていません。若干あやしい。あやしいけれども、時流にのったものであれば話題になってしまうものだなあ、という感じです。アイブリッジはインターネットリサーチをやっている会社なので、営業機会を獲得するための話題づくりかもしれません。

ところで、梅田望夫さんの本を半分あたりまで読み進めたのですが、そのなかにヤフーとグーグルの違いが書かれていました。グーグルはすべてをテクノロジーで自動化しようとしているのに対して、ヤフーはひとの手を介在することにこだわっている。ぼくはどちらだろう、と考えたときに、上記のような感情からインサイト(ってほどじゃないですが)を分析する場合には、一種のアカウントプランニングの入り口として、やはりひとの視点を重視したい。したがって、どちらかといえばヤフーよりなのかもしれない。けれども、すべてをテクノロジーで自動化するというグーグルの発想には、かなり惹かれます。なんとなく人間とテクノロジーのあいだで揺れる感じです。

今日は梅田さんの本を忘れてしまったので「EQマネージャー」という本を読んでいるのですが、そのなかに感情と気分の違い、ということが書かれていました。感情というのは突発的に大きく振幅があるものですが持続はしない、気分は大きな振幅がないけれども一定の気持ちが持続するものだ、というようなことが書かれていて、なるほどなあと思いました。

ブログに関しても、突発的に書き込みが増える「感情」的な記事と、あまりピークはないけれどじわりじわり漂う「気分」的な記事があるようです。また、感情が気分に変化していくこともある。街を歩いていてもそういう変化を感じるときがあります。センサーの問題かもしれないし、ぼくの気分が共鳴しているだけなのかもしれませんが。

+++++

*1:というのは午前中までで、その後は順位が変わってしまいました。

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2006年2月13日

ブログのリテラシー。

試験的にライブドアのWilkiを利用してみたのですが、数日間とはいえそこそこのアクセスがありました。けれども、はてなのブログ(このサイトですね)にリンクをしておいたところ、よくわからないトラックバックがつくようになった。そこで、ああそういうものなんだな、と実感しました。

そういうもんだなということは、どういうものかというと、辛辣なことを言ってしまえば、そのこと自体がライブドアをよく表していると思ったわけです。純粋な理想を掲げてスタートした企業であっても、志の高さより金儲け的なことに走ると、さまざまな魑魅魍魎が集まることになる。ぼくはライブドア全体をどうこういうつもりはなくて、ライブドアにもインターネットで世界を変えてやろうという高い志のあるひとがいると信じているのですが、そもそもあまりにも堀江さんの行動が薄っぺらに感じられるので、その薄っぺらな部分にだけ共感したり注目したりするひとがいることも確かでしょう。だからサービスを利用するひとも、自然とそういうひとになるのかもしれません。もちろん全然違うひともいるはずです。提供されているサービス自体は悪くはないので。

ライブドアのWilkiは昨日、削除及び退会をしました。Wiki自体はやりたいのですが、ライブドアでやるかどうか迷っています。無料のWikiを調べているのですが、まずはそちらを使うかもしれません。

いまのところぼくは、はてなとココログの利用者です。ブログをどこに作るかという選択をするときには、Exciteブログやドリコムブログも検討しました。後者もとてもよいサービスです。デザインのテンプレートなども気に入っていました。これらのサービスは、内容が充実していることはもちろん、その企業のカラーというか、自然発生的に生まれたブログスフィアの文化というかリテラシーというか、居心地のよさというか、そういうものが感じられました。

もうすこし一般的なブログの利用について考えてみます。

まずトラックバックについて、です。トラックバックにはいろんな使い方があり、単純に自分のブログと同じテーマを扱っているブログにトラックバックする、ということもありだと思います。けれども、ぼくがトラックバックする場合には、わずかであってもトラックバック先に書かれている内容を引用して、その話題に言及することをルールにしています。そうでなければスパム的というか、ただのアクセス稼ぎでしかない。ただの金儲けと同様、ただのアクセス稼ぎもあり、です。しかしながら、ぼくがやらないだけです。やりたいひとはやればいい。ぼくが求めていることは、書くことによって自分を豊かにしたい、高めていきたいということなので、もちろんアクセスは多い方がいいのですが(それだけたくさんのひとからコメントによって考え方を教えてもらえる機会は増える)、アクセスだけにこだわっているのではありません。

コメントにも注意しています。自分のブログでは書き放題だったとしても、他のひとのブログにいきなり批判や悪口を書き込むのは、「他人の家に土足で入り込んで、部屋のなかをぐちゃぐちゃにして去っていく」ようなものですよね。もしそういうことを書き込みたいのであれば、1)匿名ではなく実名であること、2)自分のページをきちんと明記すること、が重要であると思います。自分のブログではときには辛辣なことも書きますが、よそさまのホームに訪問するときには、それなりに紳士的な態度を心がけたい。まず書かれたことを尊重した上で、こんな考え方もあるかもしれませんね、ぐらいにとどめておく。

増田真紀さんの本にも書かれていましたが、ある炎上ブログの方から相談を受けたことがあったそうですが、その方はまるで人生の先輩のように、上から見下ろした発言を他人のブログのコメント欄に書き込んでいたそうです。そんなコメントを他人のブログに残せば、自分のブログが炎上するのは当然です。文字の情報は伝えたいことの3%しか伝わらない、ということも増田さんの本に書かれていたかと思うのですが(うーむ。うろ覚えです)、テキストは意図した文脈とは違う文脈につながれてしまうこともある。メールに関しても注意すべきです。

書く内容についても、いろんなことを実験したり経由して、やっといろいろとわかってきました。文体については、まだまだ満足できていません。ぼくは「やわらかさ」と「先鋭的」という相反するふたつの雰囲気をもったブログを書きたいのですが、なかなか難しい。

いろんなひとのブログを読んで、勉強しなくては。

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2006年2月12日

ステルス

▽cinema06-016:人工知能との戦いと和解。

B0022F6LSGステルス [DVD]
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2009-06-03

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ヒューマンタッチなドラマ系の映画ばかり観ていたので、ちょっとアクション系のエンターテイメント作品を観たいと思いました。ステルスという最新鋭の戦闘機に乗り込む3人のエリートパイロットが主人公ですが、チームに4人目として加わったのが人口頭脳を搭載した無人ステルス戦闘機。人間の飛行や話から学習する戦闘機なのですが、カミナリの直撃を受けてプログラムが突然変異をする。そして、暴走をはじめて仮想のミッションを現実に実行しようとします。3Dの映像がものすごい迫力でした。ぼくはやったことがないのですが、ゲームなどではフライトシミュレーターはかなりリアルだそうですが、ぐいぐい引き込まれます。なんとなくやんちゃ坊主っぽい人口頭脳「E.D.I.(エディ。おサイフになるICカードじゃありません)」に親近感が持てました。2月12日鑑賞。

公式サイト
http://www.sonypictures.jp/movies/stealth/site/

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(14/100冊+16/100本)

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変化の時代に必要なもの。

社会や環境の変化に対してどのように対応するかというと、大きく分けて3つのタイプがあると思います。変化を好意的に迎えてその波にのるタイプ、変化を見守って日和るタイプ、変化を否定もしくは批判するタイプです。ITやインターネットの世界では、ほんとうに変化の連続だったような気がしています。そして、バブル期に隆盛した企業や技術が安定したかと思うと、次のステージでは崩壊していくことも多くありました。変化の波にのることはハイリターンはあるかもしれないけれど確実ではなく、ハイリスクがつきまとうものです。だから見守っていて機会を逃してしまったり、逆に否定するような動きもある。

梅田望夫さんの「ウェブ進化論−本当の大変化はこれからはじまる」を読んでいるところですが、冒頭の部分からいろいろと考えさせられました。この本の最初の部分で梅田さんが俯瞰してみせてくれているように、そもそもパソコン自体が普及することが考えられなかった時代もあったわけです。「ウェブ進化論」からの引用ですが、60代半ばの経営アドバイザーの方が、経営者たちには「インターネットを使うひとなんて誰もいませんからねぇ」ということから、インターネットが時代を変えるなんてことは信じられない、と懐疑的だったというエピソードがあるのですが、未来のみえない現在にいるからわからないけれども、未来から過去としての現在を振り返ると重大な転機だったということもあるはずです。たとえば、自動車や電話などの発明だって、それが世のなかに普及して生活を変えてしまうなんてことは信じられていなかった時代があります。いまでこそ普通に道路にはクルマが走っていて、携帯電話を使っていつでもどこでも話ができるけれど、はるか昔にクルマや携帯電話が登場するという話をしたら、それこそ馬鹿馬鹿しいお伽話だと笑われてしまったかもしれない。

グーグルの凄さについては、リリースが発表されるたびに驚かされていたのですが、この梅田望夫さんのなかでそのミッションが「知の世界を再編成する」ことであると整理されています。ちょうど茂木健一郎さんが著作のなかで現代で必要なのは情報や知の「整理」だと読んだことを思い出して、やはり情報化社会の時代の流れに合っているんじゃないかと実感しました。

検索エンジンのグーグルというとわかりやすいし、何も脅威的なものは感じないのですが、「知の世界を再編成する」グーグルと置き換えてみると、知的なもの、再編成が必要なビジネスはすべて事業領域となるわけで、ものすごい脅威を感じます。そのわかりやすい事業例がGoogle Earthだそうですが、3D的なデモをカンファレンスで見たときには、ほんとうにショックを受けました。21世紀になればいつかきっとどこかの企業でやるんじゃないかという気はしていたんですが。

変化を拒むときに何を重視しているかというと、いまいる場所の確かさ、だと思います。いまいる場所が豊かで恵まれていて安全であれば、あえて動く必要がない。けれども、その確実性が失われつつあります。そこで、変化をよしとするときに重視するものといえば、場所ではなく自分の確かさ、ではないでしょうか。スキルはもちろん、考え方がきちんと体系化されている必要があると思います。個人はもちろん、法人であっても必要なことです。

そして考え方にしてもスキルにしても、予見と洞察ということが重要になる気がしました。検索に着目したところをスタートとして、「知の世界を再編成する」ビジョンを掲げていったことにグーグルの予見と洞察の鋭さを感じます。ソニーやホンダといえば世界に通用する日本の企業であり、次のソニーやホンダをめざせということで多くのベンチャーが生まれました。次のグーグル、というのもよく言われることですが、技術的なことはもちろん、変化の時代を見据えた「知の世界を再編成する」というようなビジョンが重要ではないかと思います。

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2006年2月11日

2046

▽cinema06-015:オトナの男のかっこよさ。

B00067HCWQ2046 [DVD]
レントラックジャパン 2005-04-27

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新聞記者に勤めたのち、さまざまな女性と関係をもちながら「2046」という近未来小説を書く主人公をトニー・レオンが演じています。かっこよすぎ、です。ウォン・カーアイ監督の映画では「恋する惑星」や「花様年華」も観たことがあるのですが、「花様年華」でもオトナの恋愛が描かれていたのですが、確か主人公は小説を書いていた気がします。きちんとスーツを着て襟だけは解けている紳士ぶり、放蕩な生活、女性を口説くときのかけひき、拒まれても深追いしないのだけど決して彼女を忘れないこと、その気にさせるのだが冷たい、何を考えているのか謎である、などなど、もてる男はこうなんだなというエピソードがこれでもかというぐらい描かれています。ぜったいになれません(きっぱり)。しかしながら負け惜しみを言ってしまうと、そういうかっこいいやつはひとりの女性と結婚して子供を育てるような平凡な生活などできないだろう、というのも感じました。チャイナドレスと赤・黒・緑などの映像美が官能的です。そうそう、木村拓哉さんも小説のなかの主人公、トニー・レオンが泊まっている宿の長女に恋する日本人役として出演しています。とはいえ、トニー・レオンと比べてしまうとなあ。かなりかっこいいんですけどね、木村拓哉さんも。2月11日鑑賞。

公式サイト
http://www.2046.jp/

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(14/100冊+15/100本)

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誰も知らない

▽cinema06-014:絵本のような、けれども痛みのある現実のような。

B0002PPXQY誰も知らない [DVD]
バンダイビジュアル 2005-03-11

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レンタル屋さんで映画を選ぶとき、ぼくは観る前になるべく余計な知識を入れないようにしています。映画監督や俳優は目に入ってしまうことが多いけれど、ほとんどの映画はジャケットのあらすじを読んで、ぴんときた映画を借りるようにしています。もちろん話題になっている映画を借りることはあるのですが。

この「誰も知らない」は話題になっていたことを知っていたため、実はあらすじも見ないで借りてしまいました。そんなわけで、最初の展開でおおっ?と思い、ぐいぐい引き込まれていった。やさしかったひとが実は自己中心的だったり、純真だった少年が身体的にも心も汚れてきたり、それが日常生活のなかで淡々と繰り返されるところに、静かなざわざわ感がありました。と、そこで思い出したのは、先日、茂木健一郎さんの引用から観た小津安二郎監督の「東京物語」です。静かな映像で緊張感のある人間関係を描くという意味では、近いものを感じました。4人の子供をひとりで育てる(というか学校にも行かせないでお金だけ与えている)母親役のYOUさんに明(柳楽優弥くん)が「母さんは勝手だ」というと「なによ、あんたのお父さんは出て行っちゃったのよ。どっちが勝手よ」というところなど、その台詞がいつ出てくるのかと思っていたのですが、なかなかうまいところで使っていると思います。

映像は生活の臭いがするような映像で、床やどろんこの足など、低い位置からの映像が印象に残りました。ちょっとぶれたりかすんだ感じの映像は、どこか絵本的という感じもした。あさのあつこさんの「いえでででんしゃはこしょうちゅう」という本を子供に買ってあげたことがあったのですが、そんな児童小説っぽいイメージもあります。切ない、けれどもとてもいい映画でした。2月11日鑑賞。

公式サイト
http://www.kore-eda.com/daremoshiranai/

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(14/100冊+14/100本)

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ツギハギ的な平衡感覚。

ぼくにはふたりの息子たちがいるのですが、それぞれの個性を活かしつつ、きちんと彼等と接するのはなかなか難しいもんだな、とよく思います。年齢差がなければいっしょに遊ぶこともできそうなのですが、離れているのでそれもできない。

3歳の次男は、最近かくれんぼ&怪獣ゴッコにはまっています。といっても隠れるのはいつも自分なのですが、長男の机の下に隠れてじっと待っている。ぼくがみつけると、がおーっと出てきてエレキングやゴモラなどの怪獣になって(古い怪獣ですが、最近のウルトラマンには出てくるらしい)、そこから怪獣ゴッコがはじまるわけです。「あんよキック」とか、短い足で蹴っとばしてきて、なかなか痛い。

小学生の長男といえば、デュエル・モンスターズなどのカード自作に凝っています。強さなどの数値を別紙に抜き出していて、パソコンは使っていないけど、ある意味データベース的なものも作っている。古いパソコンを彼にあげるつもりですが、あんまりインドアなのもどうかと思うので「キャッチボールやろうよ」「散歩しようよ」と誘うのだけど、なかなかのってこない。今日も散歩に行ったのですが、結局中古ゲームショップに寄ってゲームを買うことになってしまいました。やれやれです。

最近は、兄弟のどちらかに玩具を買ってあげるということはできなくて、もし買うとすればダブルで買わなければならない。出費も2倍ですが、選ぶ時間も2倍です。怪獣やゲームだけにのめり込みすぎるのも問題だと考えて、音楽的な玩具や絵本などを探そうとすると、それこそあっという間にデパートを3時間もうろうろしている、なんてこともあります。

さらにぼくはぼくで自分のやりたいことがあるわけで、それは仕事であったり、仕事のための勉強であったり、映画を年間100本観たり本を100冊読むという自分に課した課題であったり、趣味の音楽だったりもします。痛くてたまらない歯を抜いたり、故障しがちな身体を修理もしなくちゃならない。

あれもこれも、やりたいことが山積しているのですが、そこで思ったことは、基本的に人間は並行して2つ以上のことを処理できないんじゃないかということです。IT関連では、古い言葉ではマルチタスクなんてことがいわれたこともあり、仮想化(Virtualization)というのも最近注目を集めているキーワードです。いま梅田望夫さんの「ウェブ進化論」を読みはじめたところで、この本は非常に刺激的な指摘が満載なのですが、「夫婦共働き(ダブル・インカム)」に代わってリアルとインターネットの世界で夫婦お互いが稼ぐ「クアドラプルインカム」の時代がくる、というようなことも書かれていました。確かにその可能性を感じるのですが、ひとりひとりが費やす時間が決まっていて、思考の道具として主として言葉を使う(もちろん空間的な把握をする右脳的な機能もありますが)ぼくらとしては、やはり線的(リニア)に日々の生活を処理をするしかない、と思うんですよね。

女性は脳の構造から「ながら」が得意である、ということを聞いたことがあります。おしゃべりしながら手を動かすことだって、男性と比べると簡単にできるそうです。だからこの見解は非常に男性的な思考かもしれませんが、たとえば人間が並行して何かをしようとする場合、どうしても「犠牲にしている」という感情が生まれてしまうんですよね。仕事で忙しいときには家庭を犠牲にしている、家族と過ごしているときには自分の時間を犠牲にしている、趣味をやっているときには仕事や家庭を犠牲にしている。ぼくだけかもしれないのですが、そんな気持ちが生じてくることがあります。あるいは大きな理想があると、その理想と比較して現状があまりにもつまらなく思えてくる、なんてこともあります。平衡感覚が大事なのに、並行して複数のことを考えるときにバランスが崩れる。

そこで考えたことは、ひとは線的にしか生きられないものである、という風に割り切ってしまうことです。忍者でもなければ分身なんてできないし、ひとりがふたつの人生を生きることはできない。だから、いまやっていることに集中するのが大事だ、と。長男を連れて映画に出かけているときには、家に残してきた次男のことは考えない。長男と過ごす時間を十分に生きる。次男とかくれんぼをしているときには、趣味のことは考えない。かくれんぼに集中します。仕事に集中しているときには(申し訳ないけど)家庭や、自分の趣味のことは忘れようと思います。ただし緊張が解けてぼーっとする時間や、ブログなどを書く時間には横断してそれらを俯瞰できそうなのですが。

しかしながら、欲ばりなぼくは、いろんなことをやりたいと考えています。ではどうするかというと、集中する時間を、ぱっぱっと切り替えてツギハギ的にすべてをリミックスしていけばいいんじゃないか。短いパーツを組み合わせていくイメージです。休日の午前中は仕事のための勉強に集中する、午後は家族たちと過ごす時間に集中する、そして夜は映画を観たり趣味の音楽を楽しむ。忙しい仕事が終わったあとには家族や趣味の時間をつくる。そしてきちんと眠る。目の前にない何かを思い浮かべて、もやもやした中途半端な気持ちで過ごすよりも、そちらの方がいいんじゃないかと思いました。そして、そのままではバラバラになってしまうので、平衡感覚(バランス感覚)をもって自分を統合していく。そんな風にして、刹那を積み上げるかたちで十分に生きてみたいものです。

歯の痛みがおさまって、今日はやりたいこと満載な一日でした。そういえば長男とは将棋もしたのですが、王がどんどん前に出てくる手を使って、なんだかものすごく新鮮でした。そんなのありか?という感じ。飛車と角抜きのハンディで戦って結果的には勝つことができたのですが、1回ごとに手ごわくなっている。若いとやっぱり頭が柔らかい。早く父を負けさせるぐらいに成長してほしいものです。次は次男だな。

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2006年2月10日

砂と霧の家

▽cinema06-013:静かな、けれども深い哀しみ。

B000758XUW砂と霧の家 特別版 [DVD]
ヴァディム・パールマン
ジェネオン エンタテインメント 2005-03-04

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淡々としたはじまりですが、次第に深い哀しみに満ちた展開になっていきます。ストーリーは、夫と別れたあとに税金を滞納したばっかりに家を競売に出されてしまったキャシー(ジェニファー・コネリー)と、イランから妻と息子3人でアメリカに亡命して家を転売することで生計を立てているベラーニ(ベン・キングズレー)が、キャシーの家を買ってしまうことからトラブルがはじまるドラマです。やさしさが臆病だったり、冷たさが実は家族を思うための厳しさだったり、人間の感情を両側面から考えさせられました。「失って、初めて気付いた。/求めていたのは、家(ハウス)ではなく/家庭(ホーム)だったと...。」が劇場公開時のコピーらしいのですが、確かにモノよりもつながりかもしれない。

この映画のベン・キングズレーは、亡くなったうちの親父にそっくりです。クライマックスのシーンは泣けました。「自慢の息子だ」「息子が命です」ということを、ぼくも言ってみたい。2月10日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(14/100冊+13/100本)

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痛みが残像のように。

先週末から歯痛に悩まされていました。ぎりぎりとした痛みに襲われると何も考えられなくなるものです。あるいは何かに集中することで痛みを忘れようとする。今週のブログが長文なのは、書くことで痛みを忘れようとしていたからだと思います。しかしながら、さすがに歯痛だけは放っておけば悪くなるばかりなので、今日は歯医者に行って、痛かった奥歯を抜いちゃいました。これですっきり、かと思ったら、やっぱり麻酔が切れると痛い。鎮痛剤で立ち直るのですが、この効果も切れると痛い。歯も神経もないのに、いまだにまだ歯があるかのような残像のような痛みに悩まされています。

事故で身体の一部を失ったような方も、まだそこに失われた身体があるような感覚になる、ということをよく聞きます。それも仮想のようなものでしょうか。抜かれた歯というのはかなり大きくて、こんなものが埋まっていたのか(というか埋まっていたわけじゃないのですが)、と思うとびっくりしました。その歯がいまでもあるような気がしています。それにしても、サメは何度も歯が抜け替わるといいますが、人間も何度も歯が生えてくればいいのに。

医者は全般的に苦手です。歯医者は特に苦手です。というのも、やはり子供の頃の経験が残像的に残っているからかもしれない。当時、歯医者に行くと、ものすごくたくさんのツール類が並んでいたような気がします。それだけでもう恐れおののいたものです。あの機械は何に使うのだろう、あれでがりがり削られちゃうのだろうか、と想像しただけで顔がひきつった。どちらかというと治療よりも想像の方が大きくて、そのために苦手になってしまった気がします。けれども、それに比べると現在の歯医者さんはものすごくシンプルに感じます。え?こんなので治療できちゃうんですか?という最低限の兵器(というか器具)しか置かれていない。さらに、技術も向上しているように思います。ぼくが通っている歯医者さんは特にうまくてよい歯医者さんですが、ほんとうに何にもないような治療室です。

いろいろとリペアが必要になってきました。たぶん不摂生していたら身体を壊すんじゃないかと考えていたことが、いざ現実になるとやっぱり後悔もします。10年先のことを考えて、いまを大切にした方がいいんじゃないかと思いました。身体も、そして身体の一部である頭脳も。

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2006年2月 9日

「ブログ 世界を変える個人メディア」ダン・ギルモア

▼book06-014:次世代のジャーナリスト。

4022500174ブログ 世界を変える個人メディア
平 和博
朝日新聞社 2005-08-05

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この本を発行している朝日新聞社が、まさにテレビCMで「それでも/私たちは信じている/言葉のチカラを。」として「ジャーナリスト宣言。」というキャッチコピーを掲げています。挑戦的であり、捨てばちとも思えるようなコピーですが、ぼくはブログはマスメディアのジャーナリズムに対抗するものではなく共存できるものではないかと思っています。組織的な取材力を発揮できたり、世のなかに影響力を与える最大なものは、やはりテレビであったり新聞であったりします。

もちろんブログも影響を与えるものになりつつあるかもしれないけど、アメリカはともかく、日本ではまだそれほどの力はないのでは?というのが実感です。それはたぶん論争よりも「あそこのお店が美味しいよ」「そうだよね」「この本面白かったよ」「じゃあ買ってみる」的な共感を大事にする日本の文化があるからかもしれません。ぼくはそれを悪いとは思わないし、むしろそういう楽しみがあっていいと思う。けれども、その一方で、これからの社会を担うようなひとたちは、生活という泥沼から社会や世界という高い青空を見上げたような文章をたくさん書いてほしいですね。そのための環境は整ってきたし、書こうと思えばきっと書ける。ぼくらの時代を凌ぐような何かをきっと創り出せる。

一方で、さまざまな制約があるプロのジャーナリズムに対して、ブログは感情や感覚によってストレートに書くことができることが、いちばんのメリットではないかと考えています。理屈では正しいとしても、ちょっと何かが心の片隅をざわざわとさせる、ということがあります。そうしたざわざわ感をすくい上げるのもブログのよさのひとつです。

最終章で、ダン・ギルモアの原稿に対してアドバイスをくれたひとのひとり、エルウィン・ジェンキンズのコメントから「ブロガーはジャーナリストじゃない。僕らは情報の探求者、情報の構築者、そして知識の創造者だ。」と引用されていますが、彼の言葉に共感を得ました。正確さや迅速性、フェアであること以外のことが、ブログには求められているんじゃないでしょうか。

原題「We the Media」はもともとブログによって書かれ、読者のたくさんのコメントなどによって中途段階で間違いを修正しつつ、本として完成していったとのこと。ということを考えると共創的でもあり、著者というよりも編集者に近いところもあったかもしれない。そしてクリエイティブ・コモンズの著作権ライセンスシステムにしたがっているので、本を販売するとともに、インターネットでは無料で全部をダウンロードできるというかたちになっていたようです。ダウンロードしたコンテンツはそれこそWiki化してインターネットを通じてサイトに再掲載して、次々と新しい情報で書き換えたり書き加えていくこともできる。印刷された活字として死んでしまうのではなく、遺伝子を継承しつつ次の世代の文脈のなかで生きつづけていくライブなテキスト、というわけです。

次世代のジャーナリストとは、彼のようなひとのことを言うのでしょう。日本にもそういう人物がきっと出てくるような気がしています。それにしても表紙の帯で笑っている堀江さんが、かなしいなあ。2月9日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(14/100冊+12/100本)

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リアルの到達点。

少し前のブログになりますが、渡辺千賀さんのOn Off and Beyondで「作るは困難・使うは簡単-リアルタイム・エンタープライズ」という記事がありました。リアルタイム・エンタープライズという言葉自体は、ERP関連のカンファレンスで耳にしたことがあり、実際に大手メーカーにおける開発事例などの解説を聞いたことがあったのですが、まずは冒頭の一文がよいと思いました。IPOセンサー2006年1月号に掲載したコラムの原稿とのことです。引用します。

シリコンバレーでソフトウェア産業に携わる人たちを見て感心するのは、「地に足の着いたこまごまとした開発」と、「個別の開発を思い切り抽象化した包括的ビジョンの構築」との間を、自在に行ったり来たりする能力だ。アプリケーションの開発は、コードをがりがりと書く仕事。一方で、アーキテクチャをしっかりと作り上げるには、個別の開発から何段階も次元を上げ、高いところから俯瞰する哲学的思考が求められる。そしてその両方を行き来することで技術が進歩する。「現実の泥沼をかき分けて進む力」と、「体系化する力」の両方が求められる、知的力仕事だ。

やっぱりそうなんだなあ、という感じです。

ぼくもまったく同じことを考えていました。ぼくの携わっている仕事はソフトウェアの開発ではないけれども、やはり日々の仕事に埋没すると「高いところから俯瞰する哲学的思考」に欠けます。レンガを延々と運びつづけるようなことになる。かといって、仙人のように形而上的な高みにいても、現場からは浮いてしまう。「現実の泥沼」にはいつくばって進まなければならないのが仕事というものです。

茂木健一郎さんが著作のなかで書いていましたが、結晶化された形而上的な世界と猥雑な現実のふたつの世界を引き受けなければならない、という言葉にも合致しそうですね。彼は「世界知」と「生活知」の2つの視点を提示していますが、どちらか、ではなく、その両方を獲得するところに意味があるはず。もう何度も同じことを繰り返して書いているのですが、それが情報化社会というリアルの生き抜く方法であり、到達すべき生き方ではないでしょうか。

リアルタイム・エンタープライズの最終的な到達点は、企業活動の変化がその起業と関わるあらゆるひとに即時的に伝わる、ということかもしれません。渡辺千賀さんは「10分後の空席状況まで「リアルタイム」にわかる」OpenTableというレストラン予約サイトのサービスを例に挙げていますが、ぼくがカンファレンスなどで聞いたことは経営者が時々刻々と変わっていく経営情報を把握する、というようなテーマだったかと思います。変化の激しい社会だけに、リアルタイムでチャンスをつかむことが大事なのでしょう。しかし、それだけ情報も増えるということであり、ちょっとへとへとになりそうな気もします。

「概念は難しいがアプリケーションは使いやすい」という視点もOn Off and Beyondのなかでは論じられていますが、サービスが実用化されるためにはシンプルであることも重要です。たとえば、CMS(Contents Management System)という概念のまま進んでいたら、ブログはこれほど爆発的に広がっていなかったかもしれません。HTMLを知らなくても書きたいことを簡単にWebサイトで公開できちゃうんだ、という使いやすさがあったからこそ普及したのだと思います。技術や創造的なことが広がるためには、包括的ビジョンだけでは難しい。

ところで、別の観点からのリアルですが、趣味のDTMのお話です。昨年末に購入したRealGuitarが1.5から2.0にアップグレードしたというメールをいただきました。英文でした。お知らせとレジストレーション・キーが添付されているメールと、いきなり何の予告もなく2通の英文メールがぼくのところに届いたので、あわててクリプトン・フューチャー・メディアのサイトを探したのですが、残念ながらリアルタイムでアップデートの告知はされていなかったようです。告知されていたのかもしれませんが、ぼくは探すことができませんでした。

とはいえそんなに難解なメールではなかったし、むしろ英文の方がわかりやすい気がしました。テクニカルな文章は英語の方がわかりやすい。まずはデモンストレーションのビデオを観たのですが、これがすごいことになっていた。そこで、さっそくアップデータをダウンロードして、2.0にバージョンアップしてみました。

技術の進化というのは、すごいなあと思いました。どこまでリアルになっていくのでしょうか、Real Guitar。これはほんとうにびっくりします。先日「新しい日々。」という曲でこつこつアップストロークやダウンストロークなどを打ち込んでいたのですが、パターンという機能も付加されることによって、プリセットで、じゃんじゃかだったり、つくちゃかだったり、弾き方を簡単に変えられるようになっていました。とはいえ、使いこなしにはますます時間がかかりそうです。技術の進歩にクリエイティブな力がついていけません。

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■Real Guitar2.0のビデオによるデモを観ることができるサイト(英文)。 ビデオを観るためにはDivX(5.2.1以上)が必要のようです。イーグルス、クラプトンの名曲を思わせるデモ曲が聴けてニヤリです。映像なしで聴いてもリアルなギターと遜色ありません。
http://www.musiclab.com/downloads/listen/

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2006年2月 8日

ともに創るということ。

ダン・ギルモアの「ブログ 世界を変える個人メディア」という本をやっと2/3まで読み終わりました。巻末は資料なので、あと少しです。もういまさらという感じもしていて遅々として進まないのですが、読んでいるとさまざまなアイディアが浮かびます。そういう意味では刺激を受ける本です。

ちなみにブログ関係で購入したけれど読んでいない本は「ブログ・オン・ビジネス」「ウェブ進化論」で、気になっているけれどまだ購入していない本は「RSSマーケティング・ガイド―動き始めたWeb2.0ビジネス」です。先月は茂木健一郎月間でしたが、今月はWeb2.0およびブログ関連の読書月間にするつもりです。養老孟司 さんと茂木健一郎さんの「スルメを見てイカがわかるか!」、山田ズーニーさんの「おとなの小論文教室。」も気になっているのですが、今月は既に小遣いを使いすぎなので控えています(控えながらも今日もまた買ってしまった)。

マッシュアップという用語について理解を深めるためのブログを昨日書きました。しかしながら、結局のところ音楽用語としての背景で終わってしまいました。技術的なことはきちんと調べながら書いていきたいのですが、マッシュアップってどういうことだろう、と考えたときに、ふたつのポイントが思い浮かびました。

ひとつは、「部品化」です。技術的にはAPI(Application Program Interface)公開、あるいはWebサービスというようなことにも通じるかと思いますが、パーツを組み合わせることで何かを創り上げるということ。環境が違っても組み合わせ可能であることが重要です。趣味のDTM的に言い換えると、打ち込むのではなくループされた素材を切り貼りするリミックス的な作業になる。既存にある曲を勝手に切り貼りしたのがまさにマッシュアップであり、それぞれのパーツが組み合わせ可能になっている必要があります。Acid互換だったりREXファイルなどの規格に合わせることでパーツとして利用できるようになります。

ふたつめは、「共創」です。これは異なるクリエイターがひとつのものを創り上げていく、ということです。そこには、対話、コミュニケーションが必要になります。もちろん既に完成された作品(サービス)を使う場合もありますが、仮想的な対話も必要かもしれません。プログラムの開発にも、音楽や小説などと同様、プログラマーのテツガクや美学などがあるんじゃないかと勝手に思っているのですが、それを無視して勝手に合成されたりすると、やはり原作者としては腹も立つのではないでしょうか。マッシュアップで問題になるのは、主として権利関係ですね。対話には、権利関係の対話もあれば、クリエイティブな対話もあると思います。どちらかというと前者が重視されがちなのですが、よいものを生み出すためには後者が重要ではないかと考えています。

ふたつめの「共創」を考えたときに、ぼくは同窓会ブログで「みんなで小説を作れないか」などと考えていたことを思い出しました。この同窓会ブログは、ココログを使って4人のライターが投稿可能にしています。当時は複数の投稿ができるブログはココログか、あるいは自分でレンタルサーバーを借りてサイトを構築していくしかなかったので、簡単なココログを選択しました。現在はもっと増えたのでしょうか。この同窓会ブログは、みんなで創り上げている、という雰囲気になっているんじゃないかと思います。とはいえ、基本的に誰かの投稿にコメントするスタイルです。ひとつのテキストをみんなで編集していくという方法はとっていません。

ということをちらと考えて、思い当たったのがWikiです。ちょうどこのブログの本100冊+映画100本プロジェクトをなにか別のツールで整理したい、と考えていたこともあり、また、「ライブドア、Wikiにプレゼンテーションファイル変換機能」という記事も読んで、へえと思っていたことから、いろいろと渦中な会社なので大丈夫かな?とも思いつつライブドアのWikiを使ってみました*1。

うーん。まだスケジュール表のテンプレートぐらいしか使っていないのですが、あくまでも管理ツールとしてはびみょうです。まだまだ発展途上な気がしました。とはいえ、使い方次第という気もしています。それこそみんなで小説を書くなんてこともできそうです。仕事関連で思いついた用途もあったので、別に実験的なページを作るつもりです。

ところで、理想をいえば、本100冊+映画100本プロジェクトはそれぞれ2つのサブブログとして展開して、それらをメインのブログ上のレイアウトとして組み合わせるようなスタイルになっているとうれしい。つまりDTPでいうと、流し込みのコラムのようなものでしょうか。「ここにはブログAが入る」「ここにはブログBが入る」とモジュール化されていて、そこから外部のブログのコンテンツを引っ張ってきて、引用するような仕組みがあるといいと思いました。ブログパーツっぽい発想でしょうか。知らないのはぼくだけで、もう既にあるのかもしれません。また、これもまたマッシュアップ的な発想のような気がします。

+++++

*1:試験的に公開してみたのですが別途アイディアがあったので、試験的に作ったWikiは削除することにしました。公開できるようなものになったら、ご紹介いたします。

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2006年2月 7日

合成から創造する。

いろんなことをとめどなく考えつづけるブログですが、秩序が生まれそうで混沌としているぐちゃぐちゃな状態です。そのぐちゃぐちゃな状態から、最近よく使われる「マッシュアップ」という言葉を思い出しました。もういまさら、という感じなのですが、実は最新の言葉を理解していないぼくは、きちんとマッシュアップを理解しようと思いました。

「マッシュアップ(mashup)」は昨年の末ごろからテクノロジー的な用語として使われる頻度が高くなってきたようですが、もともとはヒップホップ系DJ関連の音楽用語だったようです。基本的なことを、マルチメディア/インターネット辞典から拾ってみます。

■マルチメディア/インターネット辞典
http://www.jiten.com/dicmi/docs/k31/22734s.htm

DJの間でリミックスのスタイルで使われてきた、1つの曲からメロディーを、もう1つの曲からボーカルを取り出すなどして、複数の曲を1つに合成して新しい曲を作る手法の総称。

この手法自体は、特に新しいという感じはしないのですが、DJのデンジャー・マウスとラッパーのジェイ・Zがビートルズの音源を勝手にリミックスした「ザ・グレイ・アルバム」のように、著作権を無視して勝手に使うような違法性が漂うところにラジカルさを感じます。軽薄に言ってしまうと、カルチャーっぽい匂いがする。その人気にあやかるようにして、デビッド・ボウイはリミックスコンテストを実施したようで、なかなか楽しそうなのですが、DJたちからは「商業的だ」とめちゃめちゃ批判されていたようでした。古い記事ですが、HOTWIREDの2004年5月の記事です。

■ネットで普及する音楽「マッシュアップ」は著作権の常識を変えるか
http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20040604204.html


マッシュアップのファンだというDJのジャンマ氏も「ボウイにもっと注目を集めるための、商売のテクニックでしかない。このコンテストにはあまり興味が持てない。わざわざこういうジャンルにボウイが首を突っ込む必要もないような気がする」と語る。

かつての「恋のマイアヒ」をめぐる「ノマネコ」騒動を思い出しました(どうでもいいことですが息子の小学校の運動会でずーっと流れていて、何も小学校の運動会でマイアヒ〜じゃなくてもいいのに、と思ったものです)。おれたちが勝手に作り出したもので商売するなんて、という怒りがあるようです。技術的な分野では、オープンソースをめぐる論争に近い気がしました。知というものは純粋にみんなのものであり、商業的な金儲けに絡め取られるものではないという考え方です。

とにかく違法すれすれのところで音楽を創り上げていたところに、マッシュアップの精神、というものがあるのではないでしょうか。Googleでざっと検索したレベルの情報なのであまり深いところまで調べてはいないのですが、2003年11月にはAll About「テクノポップ」で四方宏明さんがマッシュアップについていろいろ書いていました。つまりずいぶん昔から言われていたことだったわけです。

■ポップ裏街道〜Part 4 マッシュ・アップの作り方
http://allabout.co.jp/entertainment/technopop/closeup/CU20031126/index.htm

最近はどうだろうと思ってKIZASIで「マッシュアップ」を検索したところ、日本では布袋寅泰さんの『BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY』とRIP SLYME『FUNKASTIC』が話題になっていました(最近の音楽はまったく聴かないので、遅れていて恥ずかしいです)。1/23の週では、収集ブログ内言及実数として、65件のブログで取り上げられていて、1月〜2月のピークとなっています。ちなみに関連語を形容詞でみると、1位は「簡単に」、2位は「新しい」、3位は「かっこいい」となっている。このうち1位の「簡単に」というのは、「簡単に言ってしまうとマッシュアップとは・・・」と言葉を解説するために使われているので、まだまだ一般には浸透していないため、説明が必要になっているのかもしれません。この検索結果からは、否定的な言葉は少ないようです。かっこいい、新しいものとして受け入れられているという印象がありました。

この布袋さんとRIP SLYMEのマッシュアップはトヨタのbBのCM曲に使われているということで、トヨタのサイトを探してみたのですが、すごいサイトでびっくりした。そもそも製品コンセプト自体が、クルマをミュージックプレイヤーとしているため、クルマ×音楽のマッシュアップといえるかもしれません。

■トヨタbBのサイト
http://toyota.jp/bb/

■動画も見ることができるトヨタのブログ
http://blog.toyota-music-player.jp/

一方で技術の方でマッシュアップというのは、Googleに代表される地図サービスが、まさに急速に生まれつつあるようです。つまり地図+特別な情報というかたちでコンテンツを組み合わせることにより、さまざまなサービスが生まれている。以下、CNETの記事です。

■マッシュアップ--仮想空間と現実をつなぐ地図
http://japan.cnet.com/column/web20now/story/0,2000055302,20093879-3,00.htm

ほんとうは技術についての理解を深めようと考えていたのですが、音楽の背景だけでもいろんな発見があり、ついつい書きすぎました。もう少しいろいろと調べた上で、面白い視点があれば追加で書くことにします。

考えてみると、インターネットがもたらしているあらゆる社会現象がマッシュアップ的かもしれません。マイアヒのように音楽とFlashアニメーションのマッシュアップもあるし、こうしてブログで他の記事を引用すること自体が別のテキストと別のテキストをリミックスするマッシュアップじゃないか、と。そういえば、ソフトバンクで写真などの引用を認めるサイトのニュースが注目を集めていたことを思い出しました。

■ソフトバンクグループ、ブログでの正規引用を認めたニュースサイトを開設
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000047715,20095811,00.htm?tag=blogger.cr

素材や情報はもちろん知識も共有(Share)する時代なのかもしれません。しかしだからこそ、企業としては知財という観点が重要になってくる。どうぞお使いください、とブロガーたちに素材や情報を提供するのか、これは私たち会社のものだから使っちゃダメと阻止するのか。情報あるいはコンテンツは誰のものかということで、これも議論になりそうです。

ちなみに趣味のDTMの場合ですが、既存のCDからボーカルだけ取り出してリミックスした曲はもちろん違法となり、MUZIEでは審査ではねられて公開不可になってしまうような気がします。しかしながら、自分がいままで作った曲のマッシュアップはありだな、と思いました。やってみようかな。しかし、そのためにはまずマッシュアップと言われているCDを聴かなくては。

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2006年2月 6日

次世代コンタクトセンター。

ブログを書いていると、どこまで書いていいのか、という境界が曖昧になってきます。特にネタに困ったときが問題です。ついついキーボードが滑ってプライベートな部分までカミングアウトしてしまうのですが、あー書くんじゃなかったと凹むことも少なくありません。読者として他の方のブログを読むときには素のままの文章の方が面白いものですが、書き手としてはあまり露出するとしんどい。精神力が要求されることになります。あまりタフではないぼくは、そんなわけでほどほどにしておこうと思っています。

ちょっと話がそれますが、インターネットを通じて、ものすごく面白い日記を書くある方と親しくなったことがありました。書き方に独自のユーモアがある。替え歌を作ったりフィギュアを写真撮影して物語を作ったり、ブログの趣向の凝らし方も徹底的で、夜中に吹き出して大笑いするほど面白い日記です。けれども時折みせる真摯な姿勢に惹かれていました。お会いしたことはないのですが、メッセージなどのやり取りで親しくなってから、その方が書いた自叙伝のようなものをみせていただいたのですが、これがもうぼろぼろ泣けた。「東京タワー」どころじゃありません。厳しい過去があったからこそ、自分の生活を笑いとばす強さがあった。人間って書かれたものだけじゃわからないなあ、としみじみと思いました。

さて、通勤電車のなかでぼんやりと考えていると、ビジネス的なアイディアが浮かんでくることがあります。ぼくは目標として、社外であっても企業内起業であっても、事業のプランを立てることができるようになりたいと考えています。プランナーの最終到達点として、そこを目指すつもりです。しかしながら、まだまだその器ではない。人間的にも技術的にも修行と成長の必要性を感じています。IT系ベンチャーには若くして会社を経営している方も多いのですが、やはり運という不確実な部分も含めて、それだけ器量が大きかったのだと思います。ぼくは、まだまだです。けれども、限りなく上昇志向の「まだまだ」でありたい。

と、ここまでが長い(長すぎです)前置きなのですが、ビジネス的なアイディアは抱え込んでいても仕方がないと思うので、企業秘密的に自分のなかにしまい込んでおかないで、全部ここで書いてみようと思いました。何かのヒントになれば、と思います。共同で何か事業を展開してみたいという方がいらっしゃれば、お互いに情報交換などしたいですね。ただ、それほどのものではないか、という気もします。思いつきは企画じゃないですね。あくまでも考える練習として書いてみることにしましょう。


他の書籍に気持ちが移ってしまって、いまだに半分も読み終えていないのですが「ブログ 世界を変える個人メディア」を読んでいるときに、フィル・ゴメスという広報専門家のエピソードが印象に残りました。彼はブロガーのコメントをチェックして、担当であるプログラム製品について書かれたブログを見つけると、丁寧に返事やコメントなどを書き込む。彼が返事やコメントなどを書き込むと、ブロガーたちはメーカーの担当者からコメントをもらったということを嬉しく思い、さらに記事を書いてくれるようです。

いきなり跳躍するかもしれないのですが、ぼくはこの文章から次世代のコンタクトセンターのあり方を感じました。アイディアを企画に落とし込むには、さまざまな面からの検証などが必要になるかと思います。基本的に思いつきなのですが、ぼくが考えたのはこういうことです。

例えば自社がPC周辺機器のメーカーでプリンタを扱っているとすると、コンタクトセンターのスタッフは、まずブログを検索して自社のプリンタについて書かれているブログをチェックするわけです。ネガティブなクレームであれば、「厳しい言葉をありがとうございます。真摯に受け止め、改善に励んでまいります」のようなコメントを残す。よい記事であれば、「ありがとうございます。今後もよりよい製品づくりに励んでまいりますので、お気づきの点などございましたら、ぜひご連絡ください」のようにコメントする。やりすぎるとコメントスパムになるような気もしますが、基本的な文面と、個別のブロガーが書いていることに対する感謝などを組み合わせると、ブロガーにとっても嬉しいものであると思いました。広報的な活用もできそうです。

そもそもコンタクトセンターというほどではありませんが、ぼくも事務局の仕事をちょっとかじったことがありました。ちなみにコンタクトセンターはメールによるコミュニケーションを主体としています。一方で従来コールセンターと呼ばれていたものは、お客様対応の電話によるアプローチで、大きく分けてインバウンド(問い合わせ対応)と、アウトバウンド(テレマーケティングとして営業的ないわゆる売込みの電話)の2種類があります。スクリプト(電話の対応のシナリオ)なども作ったことがあるのですが、自然な流れであること、ひとつでも多くの情報を引き出すためのテクニックなどが必要になります。ブログコンタクトセンター(仮)においては、話術よりも文章力が重要です。どのようにコメントすべきかという高度なコミュニケーションのノウハウ、しゃべるノウハウに代わる(斉藤誠さん的ではありますが)コメント力が必要かもしれません。間違えると、ブロガーに逆襲されることもある。怒りに火をつけて、クレーマーに発展させてしまう可能性もあります。その部分が問題といえば問題なのですが。

もしかすると、既にサービスを展開している企業があるかもしれませんね。最近テレビCMも放映している、トランスコスモスさんなどでは、もしかすると実際にサービスを実施しているような気もしました。

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2006年2月 5日

「「脳」整理法」 茂木健一郎

▼book06-013:脳科学というより人生論として。

4480062629「脳」整理法 (ちくま新書)
茂木 健一郎
筑摩書房 2005-09-05

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いままで読んだ「脳と仮想」「脳と創造性」「クオリア降臨」と比べると、非常にわかりやすく解説されていて、すいすい読める本でした。しかしそれだけに、読みごたえという点ではいまひとつだったかと思います。ものすごくわかりやすい反面、ぐっとくる部分も少ない。先日テレビのチャンネルをザッピングしたところ、茂木さんが出演されているバラエティ番組をちらりと観たのですが、「アハ!」体験をもとにした画像の間違い探しのようなものをやっていました。ぼくはこれもいまひとつでした。なんとなく一般受けする理屈だけ取り出した感じがして薄っぺらだった。別にわかりやすいものがダメだ、というわけではないのですが、結局のところ、自分に刺さるかどうかという観点だと思います。この本のなかにもいくつかのキーワードは刺さるものがありましたが、「クオリア降臨」を読んだときのような一回性の感動はなかったようです。2月5日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(13/100冊+12/100本)

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感情のエコロジー。

定期的に読みに行くブログがいくつかあります。RSSリーダーに登録してチェックしているのですが、頻繁にコメントを書き込むものもあれば、そうではないものもある。しかしながらコメントを書き込まないブログに対して無関心かといえばそんなこともなくて、ぼく自身はものすごく楽しみにしているものがあります。影響も受けている。

ぼくが気に入っているブログにはひとつの傾向があるようです。どういうものかというと、ときにはめちゃめちゃなことを書いたりもするけれど、そのひとの誠実な生き方が見えてくるようなブログ、のようです。そのブログについて、ここで紹介することもできるのですが、あえて紹介しないことにします。

隠れ家的なお店があったとしても、マスコミに取材されたなら、もう誰もが知っている有名なお店になってしまうものです。自分自身の心の隠れ家というものは、安全地帯にそっとしまい込んでおきたい。もちろんインターネットで一般に公開されている以上、ぼくだけのもの、というわけにはいかないですけどね。

いま茂木健一郎さんの「「脳」整理法」を読み終えたところですが、この本のなかに以下のような表現があり、ぼくが最近感じていたことでもあり共感を得ました。

大切なことは、ネガティブな感情は決して意味がないわけではない、と気がつくことです。否定的な感情も、私たち人間の生を支える「感情のエコロジー」の中で意味があったからこそ、進化の過程で生き残ってきたのです。
4480062629「脳」整理法 (ちくま新書)
茂木 健一郎
筑摩書房 2005-09-05

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めちゃめちゃに破綻するブログに惹かれるというのも、否定的な感情も含めてそのひとの生き方である、という観点に基づくような気がします。とはいえネガティブな感情というのは、かなりやっかいなものです。読んでいる方も影響を受ける。書けば、その言葉が持つイメージに蝕まれることもあります。そこでネガティブな感情との付き合い方としては、科学的な手法であるディタッチメント(認知的距離)という考え方を活用すべきです。

つまり、自分のなかにもうひとり観察者としての自分を置いて、距離を置いて科学的にその感情を観察するわけです。そんなこともブログに書いていたのですが、同じことが本のなかに書かれていました。

この数日で直感的な思考によってぼくがブログに書いてきたことが、この本のなかにすべて書かれていて、人間の知には新しいことというのはないのだな、ということをあらためて実感しました。というそのことまで、実は「「脳」整理法」に書かれていてちょっとびっくりもしたのですが。こんな文章です。

種々雑多なものにあふれている現代社会においては、何かを無から生み出したり、いままで知られていなかったことを「発見」したりするよりも、むしろすでにあるもの、世の中に存在して流通しているものを「整理」することこそが本来的な命題になっている、ということでした。

まさにぼくはブログでこの整理に注力していたわけです。やれやれ。整理した後次に何をするか、について考えたいと思っていたのですが、まだまだもう少し整理が必要かもしれません。あるいはずーっと永遠に整理しつづけるのかもしれません。片付けても片付けても、まだまだ片付かない部屋の掃除のようなものです。というかそもそも生態系(エコシステム)というのは、永遠につづく循環のようなものなので終わりはないのでしょう。

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2006年2月 4日

ビッグ・フィッシュ

▽cinema06-012:おとぎ話が必要かもしれない。

B000OPOB9Cビッグ・フィッシュ コレクターズ・エディション [DVD]
ダニエル・ウォレス
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2007-05-30

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ぼくには、小学生の息子と今年幼稚園に入る息子と、ふたりの息子がいます。彼等となるべく話すことができる時間をつくろうと思うのだけど、趣味や仕事にかまけていて、なかなか時間もできない。そんな風に断絶した時間が長くなると、パパは忙しいから、と思うようで、話しかけてくれなくなる。でも、こちらから「将棋やろうか」というと、やっぱり息子の顔つきがぱあっと変わるのがわかる。親に話しかけられたくない子供はいません。もう少し大きくなったらまた違うだろうけれど、話せるときに話しておきたい。ぼくの父親は脳梗塞で亡くなったのですが、もっと彼と話したいことがいっぱいありました。けれども、いつでも話せるだろうと思っていたら、話すことができなくなってしまった。だから、話せるときに話しておくべきだと思っています。話しかけられるのを待っているのではなくて、こちらから話しかけることが大事なのかもしれません。

「ビッグ・フィッシュ」は空想の話が好きな父親と、ジャーナリストで現実的な息子を描いた物語です。結婚式の日に得意のほら話を得意気にされて、自分の晴れ舞台をめちゃめちゃにされて頭にきた息子は、以後父親と3年も話をしていない。断絶状態にあった。しかし、その父親が病に倒れて、彼のほんとうの姿を知ろうとしたときに、息子の気持ちも変わっていきます。

そもそも有能なセールスマンはトークがうまい。経営者もそうだと思います。話す言葉に力がなければ、ひとを動かすことはできない。全部がほら話だと信用できませんが、力のある言葉には脚色や演出や、ときには空想も必要になる。そして、何度もブログで書きつづけてきたのですが、語られたことばかりが真実ではない。語られたことの背後には、広大な語られなかった現実があります。

「ビッグ・フィッシュ」という映画のなかでも、おとぎ話だと思っていた大男が現実に存在していたり、人情味に厚くて人気のあった父のほんとうの姿を知ることにもなる。しかし、それに気付くのが余命あとわずかというときというのがかなしいです。そういえば、ぼくも父の亡くなる寸前に、かつて父には好きな女性がいて、彼女が帰省か何かをするときに途中まで電車で送っていった、という話を聞いたことがありました。ちなみに父と母は見合いだったのですが、突然そんな話をはじめる真面目な親父にちょっと面食らってしまい、どう答えていいものか沈黙したことを覚えています。ただ、ぼくはそういうことを話してくれた父を、ものすごく身近に感じました。感謝しています。

ぼくは、たまに奥さんとの出会いを息子に話すことがあります。まだ長男が幼稚園の頃、ママと結婚したいと思っていた長男は、パパと結婚してしまったママとはもう結婚できないのだということを知ってショックを受けたようですが(残念だったな。ははは)、結婚のことはもちろん彼が生まれたときのことなど脚色を加えて、おとぎ話にしちゃおうかな、とちょっと思いました。

創造する力、というのは、こういうときのためにもあるような気がしました。小説を書いたり、音楽を創ることだけがクリエイティブではありません。文字に残さなくても、何度も語ったことは、息子たちの心に永遠に残るのではないでしょうか。それが生活知としてのクリエイティブかもしれません。そういえば、この映画はティム・バートン監督なのですが、ティム・バートン監督らしいちょっと暗めのファンタジックな映像が素敵でした。2月4日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(12/100冊+12/100本)

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ちいさきものの儚さ。

将棋の羽生さんの「決断力」という本を読んだところ、むしょうに将棋をやりたくなり、ついに会社の帰りに玩具屋さん(といってもヨドバシカメラなんですが)で将棋の駒と盤を買ってしまいました。ぼくは影響を受けやすいひとなので、非常に行動がわかりやすい。もしぼくがラーメン屋に行ったことを書きはじめたら、どこかでラーメンの本を読んだか、テレビで番組を見たか、きっとそんなことがあったことに間違いありません。

将棋盤は1000円ぐらいで、駒が780円というところでしょうか。盤は任天堂製なんですが、任天堂ゲームキューブのソフトといえば8000円ぐらいするので、いつもゲームばっかり息子に買っていたぼくとしては、拍子抜けするぐらい安かった。勢いあまってウルトラマンのソフトビニール製の人形を買ってしまうぐらいです。しかしながら将棋を買って帰宅する気持ちというのは、ゲームのソフトを買って帰る気持ちと何かが違う。なんだろう?と思ったのですが、うまく言えません。重さと大きさが違うというのもあるのだけれど、心のまんなかあたりに浮かぶ何かが違う。なんでしょうね、これは。

さっそく家で駒と将棋盤を出してみたところ、次男(2歳)は「いいにおいがしゅる」とのこと。ラッピングを破ると新しい木の匂いがほわーという感じで漂って、確かにいい匂いでした。昨日は長男(9歳)に教えながらやってみたのですが、教えるのに夢中になって気が付くと、自分の陣地がガラ空きで王手をさされてしまいました。その初勝利に味を占めたのか、将棋やりたいと言ってくる。今日は本気を出して勝ちました。

思えばぼくも小学校の頃に父から将棋を教わった気がします。家には余った板を使って手製の将棋盤があったような気もする。ぼくには弟がいるのですが、弟とは年齢が2つしか違わなかったので、弟とよくやったような気もします。ただ遊びとはいえ、勝負に負けるのはむちゃくちゃ悔しかったですね。それが悔しいからあえてやらない、などとへそを曲げたこともあったかもしれない

うちの息子たちは年齢差が大きいので、次男がもう少し大きくならないと兄弟で将棋を楽しむことは難しいのですが、長男と遊んでいると次男は面白くないらしく、駒を隠したり、説明書を隠したりする。ウルトラマンを盤上に投げようとする。ちょっと困る。将棋ができるぐらいに、はやく大きくなってください。

それにしても羽生さんの本を読んだときに、なんとなく将棋ってこういうものなのね、と理解していたつもりだったのですが、実際にやってみるとぜんぜん違いました。木製の駒の手触りも想像に描いていたものとは違っていたし、木の匂いも違う。何十手も先を読むなんて無理で、いまある駒の動きしか見えない。だから将棋のプロの世界というのは、想像もつかないものです。わかったつもりってダメだな、とあらためて思いました。やってみないとわからないことも多い。ハワイの海について語るには、やっぱりハワイに言ってみなきゃわからないこともある。

いま、茂木健一郎さんの「「脳」整理法」を読んでいるのですが、次のような言葉があり、印象的でした。引用してみます。

私たちの体験する世界は、確かに大きくなりました。しかし、どれほど世界が大きくなっても、それは、一つ一つをとれば、小さなものから成り立っています。世界の大きさにかかわらず、世界はあいかわらず「個物」からできていて、私たちは「個物」を通して世界を認識しているのです。

そのあと「小さきものの儚さ」という言葉を使って、「石ころ」は池に波紋と作ったり積み上げて山を作ることができるけれど、「石ころ」という概念が人類を誤った道に導くことはない、ということを書かれています。

さらに茂木さんは、気をつけなければならないのは「大文字」の言葉である、と述べている。個物の認識と対比される考え方で、「一見普遍的で、適用範囲が広いように見える」概念だそうです。「人間」「神」「国家」「価値」などの概念らしい。つまり本来、変化するべきものを不変であると認識するときに、さまざまな弊害が生まれるということです。

そこで考えたことは、ビジネスで戦略というと、すぐにロードマップやシナリオなどを作りたがるものです。けれども現実と乖離した「大文字」のロードマップやシナリオというのは無駄なものでしかない。そういうものを作ると、あたかも「神の視点」を得たかように、これは絶対的だ、わたしはえらい、というように気持ちがでっかくなるのだけど、実際のビジネスに活用できる情報でなければ、意味がありません。

将棋をやってみないと、飛車の動きはわからない。やってみてはじめて、戦略についてもわかる。

昨日の話ともつながるのですが、統計的に世界の成り立ちを解明するよりも、個々が生きるための知恵を獲得することが重要ではないか、と考えています。そのためにはまず、地にしっかりと足をつけておかなければならない。ビジネスにおいても、プライベートにおいても。一方でインターネットのテクノロジーは、個々の地に足をつけた経験を知恵に変えるためのツールとして有用であるという気がしています。

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2006年2月 3日

生活知のテクノロジー。

突然の歯痛で困りました(いま痛みが和らいできたのですが)。ついでにコンタクトレンズを片方だけ紛失してしまった。あんまりついてないようですが、気持ち的にはなぜかいい感じです。なんとなくいろいろなことを前向きに考えることができる気がしています。

さて、ほとんど技術とは関係ないWeb2.0に刺激された思索について昨日書いたのですが、釈然としないものを感じていました。というのは、トレンドを分析しようとすると、どうしても定量的な結果に頼らなければならなくなる。日本人はランキング好きです。ランキングの上位にあるものは人気があるものだから、チェックしなければと判断するのではないでしょうか。しかし、ランキングをつくるためには数値的なものさしが必要です。定量的な結果に頼らずに個々の関係性を尊重したサービスを考えようとすると、当然のことながら全体把握というものはできなくなります。この相反する方向性をどう合致させたらいいのか、どうも釈然としないわけです。

ブログの書き込みを定量的に調査してランキング化するものとしては、以前、このブログでも紹介しましたが、KIZASIという仕組みが面白いと思いました。このブログマーケティングツールを開発しているCACでは、さらに「ブログクチコミリサーチ」というサービスをはじめたようです。いずれは有料化するようですが、現在は無料なのでいろいろと試してみました。

なかなか面白いです。現在は機能が制限されているようですが、キーワードを2つまで入力できて、約1690万件のブログエントリーのなかから入力した言葉に合致するブログの数を時系列でグラフ化してくれます。グラフは折れ線グラフと棒グラフから選ぶことができたり、実数と補正値(10万ブログ中の言及数)で表示することもできます。

たぶん固有名詞的な特定キーワードを入れるのが基本だと思います。ライブドアを入れてみると、堀江さんの逮捕期間で記事の増減が顕著でした。けれども、昨日から感情の重要性にこだわっていたぼくは、「楽しい」と「寂しい」で検索してみています。数値的には「楽しい」ことを書いているブログの方が多く、しかも年末に多い。ところが仕事初めのころにはやや減少している。関連する語のランキングも全品詞、名詞、形容詞、動詞で表示することができて、しかもその言葉をクリックすると、実際のブログを表示することもできます。これは!という具体的なアイディアを思いつかないのですが、何か使えそうな気もします。といっても、これもやはり定量的な分析がメインです。

画面をキャプチャーしてみました。このページの右上にあるような感じです。赤い棒グラフが昨年の末からの、「楽しい」と書かれたブログ数の推移です。

ところでぼくの釈然としない気持ちを解明してくれたのは、やはり茂木健一郎さんの本でした。実は1月には集中的に茂木さんの本を読んでいたのですが、あまりにも傾倒しすぎるのもどうかと思い、3冊でとりあえず中断しました。しかし、購入しておきながら読んでいない本が1冊あった。ちくま新書の「「脳」整理法」という本です。

この「「脳」整理法」を読みはじめところ、やはりのめり込んでしまい、既に半分ぐらいの第5章を読んでいるところなのですが、冒頭で「世界知」と「生活知」という言葉が出てきました。「世界知」とは、「世界の成り立ち」についての知識であり、科学に代表され、統計的な真理を求めるものだそうです。一方で「生活知」とは、「いきいきと充実した人生を送るための知恵」と書かれています。規則性やランダム性ではなく、偶有性のあるものであり不確実な知です。まだじっくりと読んでいないので、間違っているかもしれないのですが。

つまりぼくはこのふたつを混同していたわけで、そもそもまったく別のアプローチであり、考え方です。統計的な真理に基づいた世界知を求めることは、重要かもしれません。しかしながら、ぼくはこの統計的な真理には限界があると思います。というか、世界とは何だ、ということを解明すること自体に無理がある。統計的なランキングは面白いのですが、当たり前のことだけれども、統計が世界のすべてをあらわしているか、ということそんなことはない。

今後、重要になる技術とは、ひとりひとりが情報化社会でどう生きていくか、という「生活知」に根ざしたテクノロジーではないでしょうか。もちろん統計はこれからも残っていくと思うのですが、Web2.0的なテクノロジーというのは従来のような世界の成り立ち方を解明する統計的または科学的な手法に基づくテクノロジーではないような気がしています。きちんとした方程式化できないものであったり、定量的な評価で決まるものではないかもしれないし、きちんと正解があるものでもない。正解を創る、生成する、というようなものかもしれません。

茂木さんはさらに「生活知」のキーワードとして、偶有性、一回性、他者、コミュニケーションなどを挙げています。なんとなくぼんやりとしたコンセプトが浮かんできたのですが、結論を急がずに、まずは混沌のままにしておきます。

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2006年2月 2日

「すごい上司 なぜ人は言われたこともできないのか 部下が自ら動き出す心理学」松下信武ほか

▼book06-012:ぼくのなかの上司のために。

4833450194すごい上司 なぜ人は言われたこともできないのか 部下が自ら動き出す心理学 (PRESIDENT BOOKS)
プレジデント社 2006-01-20

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仕事に対してのネガティブな気持ち、不満というのはどうしてもあるものです。あっていいと思うし、それが原動力になることもある。ぼくはそんな不満な自分も自分であると認めたいと思っています。しかしながら、その不満との付き合い方というのは考えなければなりません。

ということをずっと考えつづけてぼくが辿りついたのは、自分のなかに「上司である自分」と「部下である自分」のふたりのキャラクターを置いてみよう、ということでした。言い換えると「大人である自分」と「少年である自分」を共存させるということでもあります。つまり、部下であり子供っぽい自分は言いたい放題で思いついたままに不満をぶちまける。けれども一方で上司であり大人な自分は、あるときは甘ったるい自分を叱りとばし、またあるときは彼が(といっても自分なのですが)モチベーションを高められるように評価してあげたりご褒美をあげたりもする。ひとり上手な状態なのかもしれませんが、少年的な自分も大事にしながら彼を封じ込めるのではなく意識的にプロデュースしつつ、上司的な自分が分別をもってぼくの人格全体を統制する、そんなことができないかと考えました。

前置きが長くなりましたが、そんなわけで「(自分のなかに仮想化して存在させる)上司として何を考えるべきか」ということを研究するために、この本を購入しました。心理学の見地からいろいろなノウハウが書かれていますが、人間は感情のある生き物であり、ビジネスも感情面の管理がいちばん重要なのだな、ということを実感しました。

具体的には、モチベーションを最大にする「確率2分の1の法則」など、参考になるTIPSがいくつもあります。この法則は、10回のうち2回成功する困難な場合より、あるいは10回のうち8回成功する簡単な場合より、成功と失敗が50対50の確率のときにいちばんモチベーションがあがるということです。やるかやらないか、ということかもしれません。また「創造的退行」ということも書かれていて、大きく成長するためには挫折したり失敗したり停滞する時期があるとのこと。逃避したくなる場面があるのですが、それが次の成長のためには大事だそうです。特に二律背反の課題に取り組むときに創造的退行は生じるようで、たとえば、小型だけれど強力なエンジンなどの開発に取り組む場合だそうです。クオリティの高い企画書を早く書き上げる、などもそうかもしれません。確かにそういう課題は逃げたくなるけれども、自分を成長させてくれます。

多重人格ではないのですが、ぼくのなかに上司としての自分像をつくることによって、なんとなく自分の感情をマネジメントできそうな気がしました。上司は大変だ。2月2日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(12/100冊+11/100本)

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2006年2月 1日

「決断力」羽生善治

▼book06-011:極限で闘うひとの言葉の重み。

4047100080決断力 (角川oneテーマ21)
角川書店 2005-07

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仕事も趣味も誰かとの関わりも、本気でやっている人間の言葉は切れ味も重みも違います。こんなもんでいいか、と思っていると、こんなもん以下にしかならない。もっとできる、と思えばどこまでも可能性は広がるし、困難な世界を受け入れることで強くもなれる。ぼくは常に真剣に発した言葉にきちんと反応できる自分でありたいと思うし、真剣ではない言葉には厳しくありたいと思っています。羽生さんの言葉には、何度もはっとさせられました。ほんとうはメモしながら読み進めたかったのだけど、とりあえずは流れのままに一度一気に全部を読み終えてしまうことにしました。茂木健一郎さんの本と同様、再度読み直してキーワードから思考を広げたいと思っています。将棋の世界といえば、伝統的なものだと思っていたのですが、パソコンの導入により情報戦のようにもなっている。その時代のトレンド(流行)もあり、研究した人間が強い、自分を常に刷新できる人間が強い、ということもある。すべてがそのままビジネスマンとしての生き方に流用できるものであり、心に刺さりました。最終章は「才能とは、継続できる情熱である」で結ばれていますが、ぼくも目指すものを決めて、長期的な視野のもとに情熱を継続していくつもりです。まず年内に本100冊+映画100本です。量ではないと思うのですが、量が質に変わるときが訪れる気がしています。2月1日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(11/100冊+11/100本)

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風が吹いた。

趣味でDTMをやっているのですが、実は行き詰まり気味でした。ブログも行き詰まり気味なので、人生すべて袋小路に入り込んだ感もありますが、そんなときもあるものでしょう。閉塞感にあえぐ今日この頃、納得できないまま仕方なく公開してブログにも書いた「新しい日々。」という曲ですが、自分のなかではオルタナティブなものを感じつつ、だめだこりゃ的な絶望感もあり、悶々とする日々でした。

けれども昨日、muzieのサイトで別のアマチュアの方の音楽を聴いていて、新しい風が吹いたような気持ちになりました。ぼくは音楽には勝ち負けはないと思うし(やられたーというのはある)、そもそも趣味なのでプロになるつもりも当然ながらなく(というか、このレベルでなれるはずもなく)、ダウンロードは多いと嬉しいけれども少なくても聴いていただける方がいただけでしあわせだろうと思うし、ただし自分の感性に触れるものだけを大切にしたいと思っているのですが、同じmuzieでInstrumental/POPSのジャンルで公開している「Monkey & 36 Maniacs」さんの曲を聴いて、これはいいな、と思いました。

ぼくはよいものはたとえ少数派であってもよいと言いたいし、悪いものは・・・はっきり言うのはともかく、これはどうかな?ぐらいの感じで(あくまでも控えめに)言ってみたいと思っています。というのも、なんでもすばらしいと言うのは信用できないと思うんですよね。ずばり広告的です。作為的ともいえる。世のなか全部が否定的であってもよいものはよいと言いたいし、逆に大絶賛だったとしても、なんかいまひとつ・・・と感じたなら、その正直な気持ちを大事にしたい。その正直な印象を発言できるのがブログであり、だからこそ広告よりもブログの信頼性が高くなるのではないのでしょうか。CGMのよいところはそういうところという気がしています。広告に対して脅威となるのも、そんな正直感、作られたものではない真実の評価が重要です。

ところで、「Monkey & 36 Maniacs」さんは1/30から突如公開しはじめたようで、とはいえたぶんずーっと曲をためてきたんでしょう。既に11曲を公開している。それぞれが完成度が高いと思いました。まず、影響を受けたアーティストに、BRIAN WILSON、STEREOLAB、BEATLES、小山田圭吾の名前を挙げている時点で、既にぼくはにやりという感じなのですが、楽曲を聴いてもやはりにやりというフレーズなどがあり、よいです。

といっても、当然のことながら、まったく「Monkey & 36 Maniacs」さんの素性は何も知りません。というのは、ポップスのジャンルでたまたま同じ日に曲を公開したアーティストさんというだけのことだからです。つまりぼくの曲の前後にずらーっと並んでいたので、これはどんな曲なのかな、という感じで聴いてみたところよかった。それだけのことに過ぎません。一般に出回っているアーティストならともかく、まったく何も知らないアマチュアの方の(しかも現在ダウンロード数5ぐらいの)楽曲を絶賛しているぼくはいったいなんだろう、という気持ちにもなるのですが、いいんです。世間一般はどうであれ、行き詰っていたぼくに光を与えてくれました。だからこんな風にレビューしているわけで。

自己紹介を引用させていただきますが、「「少しばかりの毒」「くだらないユーモア」「切なさ」を心掛けてる者です」というのもいいですね。饒舌じゃないところ、最後に切なさとくるところ。

どこのどなたかは存知ませんが、「Monkey & 36 Maniacs」さん。これからもよい曲を聴かせてください。ぼくもまあ頑張ることにします。ぼちぼちと。読んでいるかどうかわかりませんが(というか読んでいないと思うのですが)、頑張りましょう。

■muzieの「Monkey & 36 Maniacs」さんのページ。Vocaloid MEIKOを使っていますね。ぼくの作ったものと比較するとMEIKOの音声が明瞭だし、アレンジもしっかりしている。やられた感があります。でも、心地よいです。

http://www.muzie.co.jp/cgi-bin/artist.cgi?id=a039087

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