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2006年2月19日
不完全でかまわない。
R25にも取り上げられていましたが、「ブログ・オン・ビジネス」という本を読みはじめました。その前書きで以下のようなことが書かれています。共感する言葉です。引用します。
ブログ・マーケティングはまだスタートラインにたったばかりの一番新しい「会社の仕事」です。おそらく本書でもまだ記されていない、斬新な手法がこれからどんどん企業の試行錯誤の中から生まれてくるでしょう。 ならば、成功事例が出てくるまで待っていればいい。 そう考えるあなたの考えが、いちばん、間違っています。 まず、はじめる。はじめながら、考え、改良する。これがブログというツールを活用するための「最低条件」です。ブログはコストをかけずにすぐに始められるきわめて便利な道具です。ゆえに、間違えることが問題ではないのです。動かないことが問題なのです。
ブログの利点は、「見切り発車」できるところにあると思います。完全ではなくても、とにかく走り出してみる。その後でどっちの方向に走ったらいいか決めることが可能です。この見切り発車できるところが、情報化社会のスピードに合っているのではないでしょうか。構想が完成するまでじっと待っていて、さあ動こう、と思ったときには、ウラシマタロウになっているかもしれない。思い切って行動しなければ、時代からどんどん取り残されていくばかりです。
あらためて主張するようなことではないのですが、ブログには前段階の準備や知識の習得が不要です。たとえば通常Webサイトを作るときには、デザインフォーマットなどを考えなければならない。凝ったものを作ろうとすると、デザインにはHTMLやCSSなどの知識も密接に関わってきます。さらにFlashやJavaスクリプトなんかも使いたくなり、プログラム的な考え方を学ぶ必要があります。そこで本を買って勉強するのだけど、うーん難しくてわかんないや、やめた、ということになる(どこかパソコン初心者の導入段階にも似ています)。けれども、ブログではテンプレートを使って2時間もあればとりあえずの形はできてしまう。一度書いたとしても、また追記できるし書き直すことだってできる。気に入らなければ止めてしまえばいいし、気分転換にデザインテンプレートを簡単に変更できます。
技術が可能にしてきた分野では同様のことが言えそうですが、いままで複数のひとが分業でやっていたことを、個人で全部できるようになったことが多くなってきました。DTPも印刷屋さんの仕事を家庭で可能にしたともいえるし、写真のレタッチ(修正)などもプロにしかできなかったことが素人でも簡単にできるようになりました。音楽のDTMだって、メンバーを集めなければできなかったことが、パソコンのなかでドラムを簡単に打ち込んでバーチャルなバンドを作ることができる。個人の可能性が、プロに近づいてきたわけです。でも、ぼくはやっぱりプロはプロだと思うし、アマチュアはアマチュアの割り切り方があっていいと思います。
もう少し考えを進めると、伝統的な本や音楽などを考えたとき、「完成された作品」主義というものがあるかもしれません。作品とは「完成されたものだ」「完璧であることが最大のクオリティだ」「一度、発行されたら変更するのは恥ずかしいことだ」というレガシーな固定観念がある。というのは、いままで本であれば原稿を書いて印刷まで莫大な時間とコストがかかった。CDだって一度メディアに焼いてしまえば、あとで曲順や別のアレンジをしたものに変更はできない。お金もコストもかかることだから、一部の優れた能力を持つプロだけがその特権を得ていたわけです。
でも、最近のパソコンやインターネットの世界ではコストは限りなく低い。梅田望夫さんの言葉を借りると「チープ革命」が進行している世界です。ダウンロードミュージックの分野で、まとまったCDのアルバムではなく1曲のバラ売りをすることが革命的に業界自体を変えていこうとしていますが、それも「不完全さ」をよしとする動きであると感じています。
プロであれば、誤植しちゃった、よく調べないで書いちゃった、ネタに困ったのでどこかから引用しちゃった、ちょっと手を抜いちゃったけどこれでいいか、ということは許されないと思います。文章を書いたり、音楽を創ったり、映画を作ったりすることで、現実社会でお金を稼いでいる。お金とともに責任を背負っている人間が、いい加減なことはできないでしょう。ただ消費者がメディアとして情報を発信するときには、正確さよりも感情の勢いにのった不完全なものでもいいのではないでしょうか。一般消費者がメディアにのせる内容に、プロと同様のパブリックな理論や規制を求めると、ブログでは何も書けなくなってしまいます。それこそ権力によって言語統制するような民主的なものが失われる。そこまで厳しく考えなくても、不完全なものであると他のひともつっこみがいがあります。それってどうなの、こうした方がいいんじゃないの、と言いたくもなる。そんなつっこみから記事や作品をバージョンアップしていく。だからブログは常に成長するものであり、誰か他のひとの力が加わって生成するので常に現在は途上かもしれません。
インターネットでは不完全であっても勢いがあることが重要であり、だからこそmixiにしてもいまだにβバージョンなのかもしれません。ユーザーとの対話のなかで、新しいサービスを生み出していく。もちろん、このバージョンアップって使いにくいだけじゃないの、という批判はできるのですが、ぼくはいまだにβであるmixiに好感を持てます。このまま永遠にβバージョンであってもいいのに、と思う。ある意味、オープンソース的でもあります。ぼくのブログも1ヶ月単位で見直して内容を書き換えたりしているのですが、これはうまく書けた、という満足感があるものが少ない。常に発展途上です。
個人にしても作品にしても「完璧だ」というものほど、胡散臭いものはない気もします。辛辣なことを言ってしまうと、完璧であればそれ以上生きている必要はありません。もう十分です。生きていることは限りなく不恰好で不完全だけれども完全を目指そうとする「途方もないあがき」であり、後悔の連続である。けれどもその不完全さが前進するためのエンジンでもあるし、そのあがいている様子をあからさまに露出できるのがブログのよさかもしれない。私見というか、ぼくだけの考え方にすぎないかもしれないのですが。
「ぼくを探しに」という絵本があります。視力検査のCみたいなかたちをしたぼくが、欠けているもの、足りないものを探して旅にでかける。ぼくらはひとりだけでは「足りない」不完全なものです。でも不完全でかまわない。不完全であるから、毎日をごろごろと転がしていくことができるのだと思います。
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■「ぼくを探しに」は、シンプルだからこそ読者にいろいろな解釈をさせてくれます。不完全であることは、しあわせなことかもしれません。
ぼくを探しに Shel Silverstein 講談社 1979-04 by G-Tools |
投稿者 birdwing : 2006年2月19日 00:00
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