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2013年1月14日

ブロガーはどこへ行くのか。Vol.02

いきなり重苦しい哲学的なテーマからはじめますが、あらゆる人間に避けられないものがあります。それは 「死」 です。

ぼくらは永遠に生きることはできない。いつかは死ぬ。どんなに金を稼いだ人間も酒や女などの享楽に溺れた人間も、一方で絶望のどん底に突き落とされてきっと明日には人生も変わるだろうと信じていた人間も、みんな死ぬ。言霊といわれるように、むかしは言葉の持つチカラが信じられていて「死」という言葉は忌み嫌われ、使わないように配慮されてきました。ぼく自身もできれば「死」と向き合いたくない。目を逸らして生きていたいとおもっています。

しかし、ぼくらは生きている以上、必ず「死ぬ」。

ぼくらはみんな死んでしまう。中島義道氏の著作ではよく取り上げられるテーマですね。「死」というものの前では、世界のあらゆる物事が存在の意味を失われる。毎日はただただ死に向かって流れていくものであり、いずれは消え去る存在でしかなくなる。

ところで、2007年だったかとおもいますが、人力検索やブックマークなどのポータルサイト「はてな」で「はてなスター」という機能が実装されたとき、はてなの近藤社長は、日記やブログの文章を 「流れて消えていくもの」 と表現したことがありました。

はてな日記のユーザーであったぼくは、その発言に大きな憤りを感じました。当時から長文日記(ブログ)を書いていたのですが、一生懸命書き綴っているぼくらユーザーの言葉が「流れて消えていくもの」とは、どういうことだ。バカにしているのか、と。むしょうに 腹が立った。

近藤社長の言葉は、開発系サービス会社がユーザーを見下した結果の傲慢であり、言葉の重みを軽視したぼくら書き手に対する侮蔑であると感じたわけです。そのことを契機に、また別にも考えることがあり、はてなのサービスを退会して、ぼくはレンタルサーバーを借りてブログを立ち上げました。

が、いまおもうに「死」というものを前にしたとき、ブログの文章も、ソーシャルメディアのつながりも、いずれは「流れて消えていくもの」です。

自分が死んだとき、残されたブログやソーシャルメディアのコンテンツはどうなってしまうか、考えたことがありますか?

とつぜん主(あるじ)を失って、更新が止まってしまったコンテンツ。無料のブログ構築サービスを利用されている場合には、一定期間は放置されたままとはいえ、エントリやコメントなどは残っているでしょう。ぼくの場合は、さくらインターネットという会社のレンタルサーバーを使っていて、1年ごとに使用料を支払っています。1年後に契約更新の請求書が届くわけですが、家族はブログを書いていることを知らないので(ないしょというわけではないけれども関心がないようなのです)放置されたらそのまま契約解消になり、サーバーに残されたデータはすべて消去されてしまうのではないかとおもいます。

すこし前になりますが「ユーザーの人生の記録(ライフログ)」を残すとして、ソフトバンクビジネス+ITに「あなたの死後、ブログやSNSのアカウントはどうなる?発展する"死後のオンラインビジネス"」という記事が掲載されました(2010年8月16日)。

「亡くなった人のブログやSNSをそのままメモリアルページにする例も増えてきている。」として、バージニア工科大学で起きた銃乱射事件の犠牲者の多くが、フェイスブックで追悼ページになったということが記事として書かれていました。故人をいつまでも偲ぶことができるという意味では、こうした半永久的なサービスは有難いものといえます。

とはいえ、余談ですが、残してほしくないものが残ってしまって遺族が困惑する、というケースもありそうです。週刊ポスト2013年1月18日号には、「元小学校教師 死後に1000本超えるAVが見つかり遺族も絶句」という記事もありました。テキストのエントリにしても、プライベートを赤裸々に書き綴ったまま放置されていたら、ブログやソーシャルメディアを使っていた本人としては、天国あるいは地獄から 「うーむ。頼むからそれは消してくれ!」 と叫びたくなるかもしれません。

しかしながら、文豪と呼ばれるような時代に残る書き手はともかく、多くの作家でさえ、作品が絶版になり忘れ去られていきます。量産されたライターやジャーナリストも時代のなかで淘汰されていく。まして個人の書いたブログやSNSの文章などは塵のようなものです。記録としてのデータは永遠に残されたとしても、やがては読まれなくなり、消されてしまう。

多くの死んでしまったひとのことたちをぼくらは忘れていきます。次世代の子供たちが生まれ、忘却のなかに葬り去られるひとがいて、ぼくらの世界は何もなかったように回転していくのです。

すべては流れて消えていく。「死」というもののなかに飲み込まれていく。
しかし。

だからこそぼくは、 消滅する時間に文字を穿ちたい、と考えます。
いずれは死に飲み込まれて消滅する生だからこそ、死に抗いたい。
なぜならぼくにとって
「ブログは生きざま」
だからです。

もちろんブログやソーシャルメディアにはさまざまな用途があり、そんな重い気持ちで書いちゃいないよ、とか、ただのアフィリエイトを稼ぐためのツールじゃん、とか、友人とコミュニケーションする電話みたいなもの、と考えるひともいるとおもいます。それはそれで構わないとおもうし、その役割が果たされていればよい。

ただ、ライフログ(日々の記録)であると同時に、思考内の知恵を思想として結晶化させることを目的として、ぼくは消滅していく時間に挑む気持ちでブログを書いていたい。

「こんなもの書いていて何になるのかな。この書いている膨大な時間を他のことに使ったらもっと効率的ではないだろうか」などと感じたとき。

躊躇わずにそうブログやSNSに書けばいいとおもう。そう感じること自体が大切なことであり、いまここにいる自分の在りようを忠実に描写している。ブログで金を儲けなくてもいいし、著名にならなくてもいい。けれども、煩悶している"あなた"という存在の「生きざま」を記すことで充分である、とぼくは考えます。

生きざまを記すところであるブログは、生きているあいだ続いていきます。アップデート(更新)が重ねられていくわけです。実際にこのエントリは、以前書いた以下のエントリの続きとして書いています。

「ブロガーはどこへ行くのか。」2011年6月29日
http://birdwing.sakura.ne.jp/blog/2011/06/post-963.html

上記を読まれていないようでしたら、上記のエントリも読んでいただくと、ぼくのブログに対する考え方がご理解できるのではないか、とおもいます。

そして、くよくよと凹んでいるぼくに、あなたにとって 「生きることは書くこと」 でしょ?とフェイスブックで元気付けてくれた方の言葉に背中を押されつつ書きました。ほんとうに有難いことです。その方のおかげでぼくは、書くことの意味を再認識しました。同時に生きることの意味も。

また、もともとぼくは「はてな村」の住民で精神論が好きなので、はてなで「シロクマの屑籠」を書かれているシロクマ(熊代亨)氏の「俺のブロガー精神論」という記事にインスパイアを受けています。特に以下の部分には深く共感。敬意を込めてトラックバックを送信いたします。

 しかし一番大切なのは、己がブログというメディアを愛しているのか・そしてブログというメディアに見合った文字数の文章をアウトプットすることに快感を覚えているかどうか、だ。万国のブロガーは、140字には収まらぬ長文を書ける歓びを噛みしめるべきだ。その歓びを噛みしめながら、自分自身にとっての武器防具なり、見知らぬ誰かに届ける郵便物なりを鍛造すればいい。あるいは、鬱積した情念を(適切な社会化形式へと昇華しつつ)吐き出してしまえばいい。それがブロガーの生活、ブロガーの楽しみというものでしょう――少なくとも金儲けでやっているわけではない素人ブロガーならそうではないか。

シロクマ氏は 「見知らぬ誰かに届ける郵便物」 と書かれていますが、「ブログは生きざま」であると考える自分にとっては、ブログは、膨大な「エンディングノート」のようなもの かもしれません。

Wikipediaによると、「エンディングノートとは、高齢者が人生の終末期に自身に生じる万一のことに備えて自身の希望を書き留めておくノート」と解説されています。読むかどうかわかりませんが、ぼくの息子たち、あるいは次世代の若者に読んでいただきたい自分史であり、かっこわるい部分も含めた人生指南のようなものでしょうか。わざわざ公開する必要もないものを公開しているのは、やはり「見知らぬ誰か」に届けたい想いがあるからでしょう。

というわけで「死」を踏まえた上で、ブログの価値を自分の「生きざま」を残すものであると再認識したわけですが、そのために自分は何に気をつければいいのか、具体的にはどんなブログ作法をすべきかについて、以下5つのポイントをまとめてみました。


■■「生きざま」を綴る5つの方法


①自分の「羽」で織り上げる。

テクストは「引用の織物」であると、ロラン・バルトなどポスト構造主義の思想家や言語学者は述べています。どんな文章も、文化や社会の文脈(コンテクスト)の影響を受けていて、さまざまな過去の引用を縦横の糸として織り上げられた織物のようなものである、ということです。注意しておきたいのは、ブロガーよ、パクリなさい、という愚かな発言をしているプロブロガーもいますが、引用は盗用(パクリ)ではありません。

「生きざま」を綴るブロガーに必要なことは、自分の人生を切り売りすることさえ厭わない覚悟 でしょうか。二次情報のような聞きかじった知識の糸を織り上げるだけでなく、一種の痛みをともなうような自分の経験を織り上げていくことです。

日本の民話のひとつである「鶴の恩返し」をおもい浮かべていただけばいいとおもいます。鶴は誰にも見られないように部屋に篭って、自分の羽を一枚ずつ抜きながら機を織っていきます。自虐的になるのもどうかとおもいますが、「生きざま」を綴ることは痛みをともなうことであるとぼくは覚悟しています。BirdWingという匿名を使っていますが、まさに 自分の羽を抜くようにしてこのブログは書かれている のです(笑)


②主観と客観のバランスをとる。

「生きざま」を綴るときに主観的な言葉はライブ感(臨場感)があってよいもので、そんな独白の激流のようなブログがあってもいいでしょう。ぼく自身は、実はそんなブログをいちばん楽しみにしています。 かつてのはてなは、そんな日記ばっかりだったなあ。

しかし、もうひとつ上のブロガーを目指すのであれば、客観的な視点を忘れないことが重要です。文章を書くこと自体が自分の考えを客観視することではあるのですが、書かなくてもいいこと、書いちゃいけないことは書かない。ときには自制心も必要です。また逆に書いちゃいけないけれども演出的に書くことができれば、エンターテイナー(ぼくはブロガーはジョングルール=大道芸人だとおもっています)としては上級 といえます。

あまりにも生々しい主観で書く場合には、非公開で書く、友人限定で書くなど、公開範囲を限る書き方もあるでしょう。書いてはいけないとはいいませんが、実名で書くとすれば社会的責任のともなうものになりますから、常識的な範囲で「書き方」を客観的に選ぶ必要もあります。


③ソーシャルメディアとブログを連携させる。

ぼくはブログと並行して、ツイッター、フェイスブックを活用しています。ブログとツイッターは匿名のBirdWing、フェイスブックは実名です。ツイッターとフェイスブックはクライアントソフトのHootsuiteから同報する場合もあり、フェイスブックで友達限定のウォールを書くこともあります。

ブログとの連携で去年から試みていることは、ツイッターに140文字×5ツイートでコラムを書いて、10日分ぐらい溜まったところでブログにまとめて掲載する、というやり方です。長文志向のブロガーですが、この 「自己課題」が文章の鍛錬になる。 家入一真氏も、いくつかの短文をツイートしたあとでフェイスブックにまとめて掲載する、という方法を取られていて、これはなかなかいいなとおもいました。

複数のソーシャルメディアを使うと、それぞれに違うことを書かなきゃいけないのかと疲弊したり、安易にアプリケーションの設定でツイッターの内容をフェイスブックにも掲載することが多いのですが、もう一歩進んで 「ツールの棲み分け」 を考えると、社会のペルソナ(仮面、役割)による多様な記載方法があります。要するに、ぼくらはおとーさんでありながらビジネスマンでもあり、また夫や親でもあるわけで、それをブログにごちゃまぜに記載していくのではなく、書き分けていくこともできるということです。


④ルールで縛らない。

企業サイトや企業ブログでは、更新頻度が重視されます。作業のスケジュールや費用を管理しなければならないためでもあるのですが、その 「更新至上主義」がコンテンツの品質を落としている のではないか、という印象も受けます。

企業ブログではない個人ブログであれば、別に書きたいことがなければ放置していても構わないのではないでしょうか。アフィリエイトなどで稼いで生計を立てなければならない「プロブロガー」ならともかく、毎月何回更新しなければならない、などのルールで縛るのは無意味です。長文にならないときは短文でもいい。何時に更新というのもどうでもいい話で、むしろブログに縛られずに、自分の生き方として更新したい時間に更新するというほうが重要です。 ブログありきの人生ではなく、人生ありきのブログ なのだから。

ツイッターのような短文のSNSをマイクロブログのような名称で呼んでいた時期もありましたが、ツイッターでつぶやくエントリもあっていいとおもう。ツイッターをコミュニケーションツールに限定する必要はなく、ツイッターをツールとするブロガーもありだとおもうのです。


⑤気負わない。

生きざまを記したブログではあるのですが、俺のブログは人生そのものだぜ!というのはかっこわるいとおもいます。誠実に真剣に書くとしてもブログはブログ。つまるところ たかがブログ です。

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ブログは生きざま、というコンセプトを定め、ブログについてあれこれ考えてきましたが、結局あらためて感じたことは、ぼくはブログが好きなのだな、これからの長い歴史のなかではソーシャルメディアの黎明期と呼ばれるかもしれない21世紀はじめに生きてきてよかった、ということでした。欲をいえば、もうすこし早い時期にブログやソーシャルメディアと関わりたかった。そして、ソーシャルメディアをデフォルトとして生きられる次世代の子供たちが羨ましくおもいます。

テクノロジーの進化も重要ですが、ぼくは「ブログとは何か」というような哲学、そして「精神論」はとても大事だと考えています。「ブログ精神論が流行っているので考えてみた」という軽率なものではなく、いままでもずっと考えてきたし、これからも考えていきたいテーマです。

投稿者 birdwing : 2013年1月14日 06:00

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